ドーナツに恋して
ドーナツの輪っかにはおまじないがある。
それを教わったのはわたしがずっと幼かったころの話だ。
姉にホットチョコレートを飲まれて泣いてしまったわたしに、おばあちゃんがドーナツをつくってくれたことがあった。
揚げたてのドーナツはサクサクしていて、ちょっと熱いけど甘くておいしかったのを憶えている。
わたしはさっきまで泣いていたことなどすっかり忘れておばあちゃんにたずねた。
『おばあちゃん、なんでどーなつって、あながあいてるの?』
お行儀が悪いことに、もぐもぐとドーナツを頬張りながらしゃべるものだから食べかすがポロポロとこぼれてしまっていた。
おばあちゃんはそれを拾いながらこう答えてくれた。
『ドーナツにはね、すてきなおまじないがあるのよ』
『おまじない?』
『ええ、とってもすてきなおまじない』
ミルクで口のなかのドーナツを流し込むと、わたしは興味津々にたずねかえした。
『おしえておしえて!』
きっと小さな孫にせがまれるのがうれしかったのかもしれない。
おばあちゃんはいいかい、と指を立ててそのおまじないを教えてくれた。
『ドーナツの穴はね、そこから見えるものをみんなすてきなものに変えてしまうちからがあるのよ』
『みーんな、すてきなもの?』
『そう、みーんな、すてきなものに見えるの。空や海はもちろん、いろんなものが特別になるのよ。たとえば、好きな人とかもね』
食べ終わったわたしの手と口をナプキンで拭いてくれると、頭に手をのせて優しく撫でてくれた。
しわくちゃだけど、やわらかくてあたたかい手が心地よかった。
『いつかあなたにも好きな人ができるわ。そのときは、ドーナツの穴からのぞいてごらんなさい。きっと、すてきに見えるからね』
『うん……』
幼かったわたしには好きな人とか、すてきに見えるという意味がわからなくて、あいまいに返事をした。
それがわたしのドーナツにまつわる昔話。
今日のティータイムにはおばあちゃん仕込みのドーナツを用意することにした。
ブリタニアの料理はいまいちみんなのお口に合わないらしく、これからもっと勉強が必要だとは思うけれども、とりあえず紅茶とセットのお菓子くらいはおいしいものをごちそうしてあげたかった。
「みなさん、今日もリーネさんと宮藤さんがおいしいお菓子をつくってくれました。またいつネウロイが現れるかはわかりませんが、せめてこのティータイムだけでもやすらかな時間を楽しみましょう」
中佐の言葉を皮切りに、わたしたちの数少ない平和な午後のひとときが始まった。
それぞれのテーブルで紅茶のカップを、ドーナツを手にするみんなをそれとなく観察する。
中佐は紅茶の香りを楽しんでから口に含み、満足そうに嚥下していた。
そのとなりで少佐がなかなかいけるな、とドーナツをぱくぱくお口に放りこみ、ふと視線が合ったわたしに笑顔でうなずいてくれた。
ルッキーニちゃんとシャーリーさんはいつもと変わらず、おいしそうに食べてくれているみたいだった。
エイラさんたちのテーブルからも、うまいナ、うん、おいしい……、との声が聞こえてホッとする。
みんなにおいしいと言ってもらえるお菓子がつくれて、わたしは少しだけみんなとの距離が縮まったように思えた。
「うわぁ、リーネちゃん、これすごくおいしいよ!」
「ちょっと宮藤さん! 食べながらしゃべるなんて下品にもほどがありましてよ!」
「うう、ごめんなさい」
「まったくあなたは何回いっても何回いっても……」
わたしの両隣に座る二人にもお気に召してもらえたようだ。
芳佳ちゃんは見たままに、ペリーヌさんも紅茶を楽しみながらドーナツを小さくちぎって上品にお口に運んでいた。
みんなに喜んでもらえてうれしい。
ネウロイとの戦いではいつも足手まといになってしまうわたしだけれど、こうやって少しでもみんなのためにできることがあるのなら、ここにいてよかったと思うことができる。
ほんのひとときでもみんなにやすらぎを与えられるなら、わたしもここにいていいのかもしれない、と。
そんな気分に浸っているとカールスラントペアのテーブルから風に乗って声が聞こえてきた。
なにやらバルクホルンさんが慌てているような、そんな気配だけは感じられた。
けれどはっきりとなにを話しているかは聴きとれないし、わざわざ耳をすますのは盗み聞きしているようでよろしくない。
そう考えていたらバルクホルンさんがすっくと立ち上がり、ハルトマン中尉の腕をひっぱって屋内にむかって歩きはじめた。
みんなの視線を集めるなか、ハルトマン中尉だけがわたしに振りかえり、ドーナツおいしかったよ、リーネ、と言ってくれた。
そのまま二人は建物のなかに入っていってしまった。
しんと静寂が生まれ、みんなしばらく二人の消えたほうを見ていたものの昔からの連れ合いである二人のことだから、と特に心配することもなく、ささやかな談笑の声が少しずつ戻ってくる。
たぶん、おおげさな"なにか"が起こったりはしないだろう。
それよりも、ハルトマン中尉にもちゃんと気に入ってもらえたようでなによりだった。
言葉にして「おいしかった」と伝えられる喜びの大きさに、わたしはもっともっとおいしいドーナツをつくりたいと思った。
「あれ、リーネちゃん、ドーナツ食べてる?」
横から割り込んできた元気な声。
わたしとおなじ新人でありながら天賦の才能をもつ親友は、両方のほっぺたをリスのようにふくらませていた。
ぷんぷくりんのほっぺたを指でつついてみたいな、なんて思ったり。
「あなたと同席しているだけで、頭が痛くなってきますわ……」
となりでため息をもらす金髪の優しい人。
なんだかんだときつい物言いをするけれど、その分だけ相手のことを想っている不器用な女性だった。
少佐のことを敬愛しているのはわかるけど、そのために芳佳ちゃんのことばかり意識するのには少しだけ妬けちゃうかもしれない。
わたしには真似できない付き合い方ができてしまうのは、正直、うらやましかった。
「リーネちゃん?」
「あ、ごめんね。わたしもちゃんと食べてるよ。芳佳ちゃんもいっぱい食べてね」
「うん!」
わたしはおいしそうに食べてくれる芳佳ちゃんにならい、自分もひとつドーナツをつまみあげて端っこをかじってみた。
油は少なめ、外はサクサクで中身はふわっと甘く、口いっぱいに幸せが広がるような感覚。
われながら会心の出来だと思う。
また一歩、おばあちゃんの味に近づけた気がした。
みんなにも喜んでもらえたし、なにより芳佳ちゃんの笑顔を見ることができて、わたしはそれだけで満足だった。
まっすぐで元気で、誰とでもすぐ仲良くなれるわたしの一番の友だち。
彼女がいてくれるから、手をとって導いてくれるから、わたしはいままでも、そしてきっとこれからもがんばっていける。
ずっといっしょにいたいと思う。
手をつないで笑いあって、おなじ時間を過ごしていきたい。
いつまでもいつまでもそばにいて、お互いを感じあっていたい。
芳佳ちゃんのとなりにわたしがいて、わたしのとなりに芳佳ちゃんがいるような。
心のどこかを溶けあわせて、どこまでも二人三脚で歩いていきたい。
この願いがどれだけ儚く、叶えるのが困難だとしても、彼女がいるかぎりわたしは祈りつづけるだろう。
わたしは新しいドーナツを手に取ると、口もとにもっていくように見せかけてさりげなくその輪っかに芳佳ちゃんの顔をおさめた。
すぐに口へ運んでぱくぱくもぐもぐ、ごくんと呑みこむ。
たぶん、誰も気づかなかったはず。
でもわたしにはちゃんと見えた。
ほんの一瞬だったけど、しっかり見えたのだ。
ドーナツのすてきなおまじないにかかった、とってもとってもすてきな、わたしの好きな人の笑顔が――――
おしまい