NとN
眠りにつくのが怖い。目覚めてしまうのが怖い。
眠りにつく前と、目覚めた後と、果たして世界はちゃんとつながってるだろうか。
今までわたしが見てたのが全部夢で、現実は実は全然違ってたなんてこと、ないだろうか。
暗闇が怖いなんてこと、今までなかったのに、
今はまぶたを閉じることがこんなにも不安になる。
「ねぇ、エイラ。今からすごくヘンなこと訊いていい?」
「なんダ?」
寝ころんでタロットをしていたエイラは、顔をあげてわたしの方を見る。
「あれから少しずつ、みんなともお話できるようになってきたけど、
まだ他の人と喋るのは苦手。
こんなこと訊けるのは、エイラだけ」
「それで訊きたいことってなんダ?」
「……他のみんなって、よく胸を触ったり揉んだりしてるよね」
「ああ。前からそうだったけど、宮藤がきてから特にそうだナ」
エイラは再びタロットカードに手を伸ばした。
「エイラもよく触ってるよね」
そう言うと、エイラの手からタロットカードがこぼれ落ちる。
塔の絵が描かれたカードはさかさまだった。
少しの間、無言の時間が流れた。
「まあ、あれダ」
エイラは両指でマルをつくった。
「女同士だから問題ナシ」
「わたしも女……」
エイラの耳には届いていなかったのか、えっ、と声をあげた。
エイラは再びわたしの方を見た。視線が交じりあう。
「――わたしのこと、ちゃんと見えてる? 透けたりぼやけたりしてない?」
「あのツンツンメガネにまたなんか言われたのか? キニスンナって。
アイツなんているのかいらないのかわからないんだぞ、必要性的に」
眉をつりあげてエイラは言った。
「本当に、ちゃんと、見えてる?」
「当たり前ダロ。……私にはいつも見えてる」
そう言いながらもエイラは、わたしから視線をはずして横を向いてしまう。
「じゃあどうして、わたしだけ、揉んだり揉まれたりしないの?」
「ナ、ナ、ナ、ナ、ナ、ナニを言ってるんダ?」
そんなこと、私の口から言えるはずないダロ。
というか、私だからこそ言えるはずないことダ。
それは私が誰にもサーニャにそんなことさせないようにしているからです、なんて、
そんなこと口が裂けたって言えるはずない。
「胸がないから?」
「ちげーヨ。そんなことない」
今はまだ小ぶりだけど、形はいいし、肌も綺麗だからきっと最高ダ。
私が言うから間違いない。
なんせサーニャの胸に関してはオーソリティだからナ、私は。
「じゃあどうして?」
だから、私には答えられないってノ。
それにしてもなんでサーニャはそんなこと訊くんダ?
……まさかサーニャは揉んだり揉まれたりしたいのか? 私に揉めと言っているのか?
なに考えてんダ、私は。現実舐めんナ。
そんなはずあるわけないダロ。
「それよりサーニャ、夜間哨戒で帰ってきたばっかダロ。もう寝ろヨ」
「いや」
サーニャがはっきりと拒否する。
見た目に反してサーニャはかなり頑固だ。一度こうなると折れるのはいつも私の方だ。
だからって私にどうしろって言うんだ?
「ねえ、どうして? ちゃんと話して」
サーニャの視線が本当にチクチク刺されるみたいに痛い。
「しらねーヨ。今日のおまえなんかヘン――」
なかば投げやりに口から出た言葉が止まる。
キッと私をとらえて離さなかったサーニャの視線はそのまま下にいってしまう。
なんてこと言ってしまったんダ、私は。
サーニャは「私にしか訊けないこと」ときっとすごい勇気を出してした質問なのに、
なんで私は自分の勝手な虚栄心を守るためにそんなサーニャにこんな言葉が言えるんダヨ。
「ごめんナ……私、自分の部屋に帰る」
なに逃げてんダ、私は。やっと口から出た言葉がそれか?
自分で自分を殺したくなる。
「待って――」
ベッドから立とうとした私の手をサーニャは掴もうとする。
私は思わず手をあげてそれから逃れた。
サーニャの右手は空を切り、行き場を失ったそれはまるで自由落下するような自然さで
――私の胸にぶつかった。
ぺたっ、とわたしの指先がエイラの胸に触れる。
そのまますぐ放してしまえばよかったのに、わたしはなぜかそれができなかった。
指先がゆっくりとエイラの胸に沈み込んでいく。
やわらかい。
それになんだかあたたかい。
こんな気持ちいいことをみんなはしているんだ。
エイラの心臓の鼓動が指先から直に伝わってくる。
ドクドクドクドクとまるで早鐘を打つような激しさ。
その音に共鳴するようにわたしの心臓までドキドキしてくる。
「――ごめんなさい」
ようやくわたしはエイラの胸から手を放し、そのままうつむいてしまった。
「怒った……よね」
「そんなこと、ナイ」
「本当に……?」
「うん……びっくりはしたケドナ」
ちらちらとわたしはエイラの顔を覗き込むように見る。
耳まで真っ赤になった顔を横に向けていたエイラも同じようにわたしの方を見る。
ときどき、視線がぶつかるとまたそれをそらす。
お互いとても目が合わせられない。
「エイラのいうとおり。今日のわたし、本当にヘン」
「そんなこと……」
「最近、眠るのがなぜだかすごく怖いの。きっとそのせい。
よく眠れなくて、起きてからもなんだかうつろで……」
「ごめんナ、気づいてあげられなくて」
「ううん」
それはわたしが誰にも心配させたくなくて抱え込んでいたことだから。
エイラのやさしさにいつも甘えてしまう自分がいやだったから。
「ねぇ、どうしたらわたしのこと許してもらえる?」
「だから怒ってないったら……」
わたしは首を横に振った。
ねぇ、わたしはどうしたらいい?
たとえその言葉が本当だとしても、わたしはエイラになにかしなくちゃいけない。
こんなわたしのそばにいつも一緒にいてくれたエイラ。
どれほどのごめんなさいとありがとうを積み重ねても、この気持ちのすべてを伝わるなんてできない。
なんでもいい。わたしもエイラのためになにかさせて。
「ねぇ、エイラ――――」
わたしは勇気を出してその言葉を口にした。
こんなこと、エイラにしか言えない。
エイラにだから言えたことだ。
心臓の鼓動はまだおさまらない。
サーニャの温度の低い声のひとつひとつが、私のなかを素通りしていく。
胸を触られた。
もちろんそれは全然イヤじゃない。
でもそのことが、私の体をまるで別物に作り替えられでもしたようにしてしまう。
それは突然のアクシデントとか、相手がサーニャだったからとかそういうこともあるけど、
だって私、胸触られるの生れてはじめてだったから……。
だって私、揉む側だからナ。
「ねぇエイラ。今度はエイラがわたしの胸、触って」
なに言ってんダ! そんなことできるわけねーダロ!
「イヤなの……?」
臆する私におずおずとサーニャは訊いてきた。
「そんなはずないダロ。でも、その……だけどサーニャはいいのか?」
「うん。みんなも普通にしてることだよね」
こくりと頷いたサーニャは私の正面にすっと立った。
「でもわたしはじめてだから……」
サーニャはぎゅっと固く目をつぶった。
「はやくして」
「うん」
臆する私をうながすサーニャの声に、思わず私はうなずいてしまった。
なんだこのシチュエーションは。私は本当に触ってしまってもいいのか?
サーニャの胸の前に私は両手をかざし、ゆっくりと手を伸ばしていく。
20センチ、まるでそこに透明な壁があるかのように、そこから先に手が進まない。
いやたしかに壁はあった。私にとってとてもとても厚い、精神的な壁が。
「どうしたの……?」
薄目をあけたサーニャと目が合う。
「他の人にはしてるんでしょ? 他の人と同じようにしてくれればいいから」
同じ? 違う、同じなはずない。
フザケンナ。
他の誰かと同じような、他の誰とでも代えのきくような、そんなもんであるはずネーダロ。
サーニャの代わりになるヤツなんて宇宙の果てまで探したって見つからネーヨ。
この手を伸ばしていってサーニャの胸に軽くタッチ。
そしていつものようにべーと舌を出して言ってやればいいのか?
気持ちよかった、ありがとナ、って。
きっとサーニャはそのことを望んでいる。
でもそんなの、私にとってサーニャは他の人と同じですって言っちゃうようなもんダロ。
チームのなかの一人、みんなのなかの一人――
きっとそれはサーニャにとって優しい嘘だ。
でもそんなことできるわけない。
だって私はサーニャのことが――
「ごめんナ」
私はサーニャになにもしてあげられない。
ほんとに、ごめんナ。
「……やっぱりできない。でもそれはサーニャが悪いんじゃない――悪いのは私の方ダ」
「私にとってサーニャは大切で大切で、だから宮藤みたいに気軽に手をつなぐこともできなくて……
誰にも触らせたくなくて……
サーニャはみんなと仲良くなりたいって思ってるの知ってたのに、
それでもこの気持ちは抑えられなくて――ずっと私が遠ざけてたんダ。
悪いのは全部私……」
「そんなことない!」
エイラはいつもそばにいてくれた。
話しかけてくれた。
たくさんのものを無くしたわたしに、エイラはたくさんのものをくれた。
「わたしのこと大切って言ってくれるのが嬉しくて」
嬉しくて、嬉しくて。
なのになぜかすごく泣きたくなった。
「――なぁサーニャ、私はこれからもサーニャのこと、こんな風に思ってていいのか?」
わたしは何度も何度もうなずいた。
エイラがやさしい微笑みを返してくれた。
「でも胸は触って」
「だから触れないって……」
「今じゃなくて、いつかでいい」
「うん」
「待ってる」
その日のために、これから朝の牛乳をおかわりするようにしよう。
「わたし、疲れてるしもう寝るね」
本当は全然眠くないけど、わたしはベッドに寝そべって毛布をかぶった。
あといくつ眠ればその日がくるだろうか。
「眠るのが怖いって言ったよね。なんでだかわかった。
それはきっと、今がとても幸せだから」
エイラがいて、宮藤さんがいて、みんながいて――わたしがいて。
「だから眠って、目が覚めたら、実はそれは全部夢だったなんてことないかって、それが怖かったの」
「じゃあ、私がずっと手をつないでてやるヨ」
エイラはベッドに腰をおろすと、そっとわたしの手を握った。
そうだ、わたしはこうして誰かに触れていてほしかったんだ。
「手をつないで寝て、サーニャが目覚めたときにも私と手がつながっていたら、 ちゃんと眠る前と後とでつながってるってことダロ?」
「ありがとう」
わたしはエイラの手をそっと握り返した。
「なぁサーニャ。実は私、胸触られるのはじめてだったんダ」
「そうなの?」
「これは二人だけの秘密だからナ! 宮藤にだって言っちゃダメなんだからナ!」
何度も念押しするエイラのことを、なんだかかわいいと思ってしまった。
「ごめんね、実はまだ眠くないの」
私の顔を見上げてサーニャは言った。
こういう時ってどうするんダ?
羊を数えたり、昔話をしたり……。
「歌、うたって」
「私はサーニャみたいに歌うまくないゾ?」
「いいから」
私はサーニャにうながされるままに、ヘタクソな子守唄をうたった。
サーニャはゆっくりとまぶたを閉じる。
「今日のわたし、ほんとにヘン。すごくわがままでごめんね。
でも、眠って、また目が覚めればきっといつものわたしだと思う」
「わがままなままでもいいよ」
たとえ世界を敵に回したって私だけはサーニャの味方ダ。
どこにいたってサーニャを見つける。サーニャをひとりぼっちになんかさせない。
サーニャが悲しんでいたら私が涙をぬぐってあげる。
サーニャが寂しいときは、またこうして手をつないであげる。
サーニャにいつも笑顔とたくさんの幸せを送ってあげたい。
私の手をぎゅっと握り返す小さな手。
サーニャを知らない人が見て、誰がフリーガーハマーを巧みに操る姿を想像できるだろう。
この手にそっと触れているだけで、今の私にはきっとなんだってできる、そんな気がしてくる。
続きというかおまけ。
「宮藤、ちょっとこっちこい」
「え、うん……それでエイラさん、なんの用?」
「実はお前の胸を揉ませてほしいんダ」
「えっ、そんな……でも私には――」
「勘違いスンナ」
「いたっ、なにもでこぴんすることないじゃない」
「頼む、実はこれには深い事情があるんダ」
「そんなこと言われても……」
「私にできることならなんだってするから」
「じゃあ私もエイラさんのおっぱい揉ませて」
「それはムリダナ」
私は両手の人差し指でペケをつくって言った。
だって私、揉む側だからナ。
「じゃあサーニャちゃんのでいいや」
フザケンナコノヤロー。
「いたっ……ただの冗談なのに……」
お前が言うと冗談に聞こえないんダヨ。
「この通りダ、頼む宮藤」
「……うんっ、わかった。おっぱいに飢える苦しみは私にもよくわかるし」
なんかヘンな勘違いをしているようだが、まぁいいか。
「いくぞ」
「うんっ」
「サ……サーニャ」
「?」
「キニスンナ、なんでもない」
こういうのはより本番に近い想定でやった方がいいんダヨ。
宮藤の胸の前に手をやった。20センチ。
19、18、17……3、2、1、0。
…………なんか違う。
「ごめんナ、宮藤」