信じるツヨサ
八月二十六日。
それはある方の誕生日で、わたくしにとっても特別な意味をもつ日だった。
今朝も少佐は訓練をおこたらなかった。
たとえ誕生日であろうと、ふだんと変わらない一日を送るおつもりなのだろう。
誰よりも軍人らしい少佐ならさほど不思議なことではない。
あの方はわたくしたちを厳しく指導される以上にご自分を厳しく律するのだから。
部隊の誰よりも厳しく、ゆえに優しい御心をかねそなえたお方なのだ。
自室からこっそり確認したかぎりではジョギングの時間と素振りの回数が昨日より二分八秒と五回だけ、それぞれ多かった。
すこし大雑把なところも、少佐の魅力のひとつだと思うことにした。
昼には新人二人の訓練に付き添われていた。
体力の乏しい二人(とくに宮藤さん!)がへとへとになり、目に見えて走るスピードが落ちるとすかさず厳しい表情で叱咤の声を飛ばすお姿がとても凛々しい。
わたくしなら軽々とノルマを果たし、「よくやったぞ、ペリーヌ」とお褒めいただくこともできるのに……、と想像したら、わたくしとしたことがはしたなくも口の端からよだれが垂れそうになったのであわてて拭き取った。
あぶないあぶない、こんなところを万が一にも少佐に見られるわけにはいきませんわ!
少佐たちのほうへ視線をもどすと、地面にへたりこんだ二人を見下ろす形で少佐がため息をつかれていた。
やはり宮藤さんごときでは少佐のお眼鏡にかなうことなど――――、と思っているとなぜか少佐はお笑いになられているではありませんか!
けっしていつもの豪快な笑いではなかったけれど、仕方ないなという声が聞こえてきそうな苦笑いだった。
たとえ苦笑といえども、よりにもよってあの宮藤さん、あの豆狸に笑みを向けられるだなんて……。
わたくしは悔しさのあまりハンカチを噛みちぎってしまいそうになったものの、理性という名のブレーキのおかげでなんとか踏みとどまることができた。
あんな小娘のためにわたくしが頭を悩ませるなんて、まちがっているとしか思えない。
そもそも入隊したての宮藤さんなど取るに足らないのだから、わざわざわたくしが心配する必要なんてあるはずがないのだ。
少佐ならいずれ宮藤さんなどではなく、わたくしのほうを振り向いてくださるにちがいない。
そういえば今夜は少佐へ日頃からの感謝を込めてお祝いをするのだ。
ひょっとしたら感極まった少佐が、わたくしに……。
そう思うと宮藤さんのことなど頭から抜け落ちて消えてしまった。
夕食にあわせて少佐の誕生日パーティーが催された。
口々にお祝いの言葉を告げるみなさんに負けじとわたくしも声をかけようとして、やめた。
べ、べつに恥ずかしいわけではありませんわよ!
少佐のためでしたらどのような恥辱にまみれようと、なんでもこなしてみせる自信がある。
ただそうではなくて、わたくしの少佐をお祝いする気持ちをみなさんの声のなかに埋もれさせたくなかったのだ。
少佐にはちゃんとした形で思いの丈をぶつけ、しっかりと受け取っていただきたい。
そう思ったのだ。
シャンパーニュでお祝いを済ませ、それぞれが料理を楽しんでパーティーも終わりに近づいたころ(少佐いわく、扶桑では"宴もたけなわ"というらしい)、少佐が席をお外しになった。
わたくしはこれを機会とみて、間を置いてから席を立つことにした。
すっかり暗くなった廊下に白い月明かりが差し込んでいた。
食堂から出てすぐの角を曲がろうとしたところ、その先にすでに花を摘み終えたと思われる少佐が窓の外をご覧になっていた。
……なにを見ていらっしゃるのかしら。
あそこから見渡せる景色に少佐の気を引くようなものがあっただろうか。
それとも、眼帯の奥に秘められた瞳でも見通せない何かに想いを馳せていらっしゃるのだろうか。
月明かりのせいもあって、少佐の凛々しいかんばせは神々しさをも感じさせる。
わたくしはうっとりと、そのお顔を目に焼きつけていた。
「そこにいるのだろう、ペリーヌ?」
予期しない問いかけにわたくしの心臓が大きく脈を打ち、ショックのあまり一瞬だけ魔力が漏れて耳としっぽが生えてしまいましたわ!
まさかずっと、気づいておいでだったのかしら……。
「ペリーヌ、出てきてくれないか」
少佐はほんの少し低いトーンでそうおっしゃった。
そんなふうに言われたら、わたくしが逆らえるはずがありませんのに。
「あ、あの……」
のぞき見していたことを叱られるかもしれない、と怯えを隠しきれないわたくしに、
「なにをもたもたしている。私はただこっちに来いと言っただけなのだがな」
「は、はい! ただいま!」
少佐のご機嫌を損ねるほうがよろしくないと判断し、わたくしは脚が震えないようにちからを込めて一歩ずつ窓ぎわまで近づいていった。
少佐の隣に立つ。
それは対等を意味する立ち位置。
いつかそうありたい、と憧れていた状況のひとつだった。
それが思いもよらぬ形で実現してしまったことにわたくしは興奮を抑えきれなかった。
もしかしたらこの喜びが顔に出てしまっているかも、と思うと少佐に気味悪がられたくない思いが勝り、こころが静まっていく。
横目でちらりとうかがうと、少佐は窓を通して遠い海のむこうをじっと見つめていた。
「ペリーヌ、パーティーは楽しんでいるか」
落ちついた声がわたくしの耳から頭のなかへ入り、アルコールのように理性を酔わせる。
またも魔力が漏れそうになって、うずうずしている耳としっぽが出てこないように自分を叱咤した。
気をしっかり持つのです、ペリーヌ・クロステルマン!
「え、あ、はい! もも、もちろんですわ!」
「そうか」
「少佐の誕生日をお祝いしているのですもの。これが楽しくないはずありませんわ!」
「……そうだな」
わたくしの気持ちをこめたはずの言葉は、しかし苦笑いに掻き消されてしまった。
いつもの少佐ではない。
さすがのわたくしでもそれくらいは感じ取れた。
「あの、少佐、なにか煩いごとでも……?」
「ん、いや、そういうわけではないが……」
少佐の顔にいつもの笑みが浮かんだ。
けれどそこにあってしかるべき覇気がごっそり抜け落ちているように感じられた。
なにか、悩んでいらっしゃる……。
失礼ながら、豪放磊落にして明朗快活な少佐が歯切れの悪い話し方をなさる姿など似合わないにも程がある。
ましてや、こんな意気消沈しているとも取れる態度はまったくもって少佐らしくない。
もしも悩みごとがあるのなら微力ながらもお力添えしたいところだけれど、たぶんそれは無理だろう。
少佐の判断は合理的、ゆえに妥協がない。
言いよどんだすえに話をにごしてしまわれたのなら、それでおしまいなのだ。
少佐はきっと、どんなに説得したところでご自身のお悩みを打ち明けてはくださらないだろう。
それが少佐の優しさであり、強さであり、わたくしの憧れるところであり、そして苦しみの種なのかもしれない。
静かに月明かりに照らされている少佐は神秘的でいつも以上に美しかった。
でもそれは、本当に少佐らしいお姿なのかしら。
さんさんと照りつける太陽の下、元気な声でお笑いになられている少佐こそ、日の本の国、扶桑に生まれし坂本美緒の本来のお姿なのではないでしょうか。
「少佐……」
「ん?」
いまこそ、そのときだと思った。
少佐の懊悩をダシにするわけではないけれど、いましかないと思った。
「さきほど言えなかったので、いま、お伝えしますわね」
「……なんだ?」
心の中までのぞきたいわけではない。
話してくださらないのならそれで構わない。
だけど一人で苦しまれるのだけは、ぜったいダメ。
せめて二人で分かちあえれば、苦しみも半減されるはず。
「まず、お誕生日おめでとうございます」
「うむ、ありがとう」
「そしてもうひとつ。わ、わたくしは、し、少佐のことが……」
おとなりに立たさせてくださいな。
そして心が苦しいときは遠慮なく寄りかかってくださいまし。
どんなに体重をかけられようとも、わたくしはビクともしませんから。
少佐のためを思えば、わたくしはトゥール・エッフェルのように頑丈にもなりますし、ときには最高級のベッドよりもやわらかく少佐をつつみ込んでみせます。
だから、どうか、お一人で悩まないで、
「す、好きなんですの!」
わたくしを、頼って――――
「知っていたよ」
「…………え?」
わたくしは耳を疑った。
知っていたというのは、その言葉の意味は、どこまで――――
「おまえが私に好意を寄せていたこと、毎日毎日、朝から晩まで、それこそ一日中私を見ていたこと。ずっと前から気づいていたし、他のみんなもそれとなく感づいていることだろう」
わたくしの気持ちは、筒抜けだった、と。
しかも当の本人である坂本少佐に素知らぬふうに振る舞われていた、と。
それは考えようによっては、まるでわたくしが道化のようではありませんか?
ひとり胸を躍らせて、周知の恋を自分だけが秘めているつもりでかってに浮かれて、かってに落ちこみ。
さぞや滑稽だったことだろう。
「少佐は、わたくしの気持ちをご存知の上で、ずっと知らないフリ、を……?」
「ああ、そうだ」
「わたくしが、か、か、陰でみなさんの笑いものになっているかもしれないと、ご存知の上で――――」
「その通りだ」
カッと目頭が熱くなって、わたくしは己の身を窓から投げ捨てたい衝動に駆られた。
おそらく耳が真っ赤になっていただろう。
手が震え、脚にちからが入らず。
一歩でも動こうとすればきっと崩れ落ちてしまう。
汗を流してようやくゴールまでたどりついたと思った直後にすべてが茶番だったと知ったときの虚脱感のように。
体の中身がぽっかりなくなってしまった気がした。
なんなんですの、これは……。
ぜんぶ嘘ですわ。
そうでなければ夢に決まっています。
わたくしがいままで恋い慕ってきた気持ちはずっと前から少佐に見抜かれていたあげく、みなさんの話のつまみにされていたと言うんですの?
冗談じゃありませんわ!
悔しさと恥ずかしさと、なによりも少佐に裏切られたような気持ちがあふれそうで、でも少佐に悪意を向けたくない思いがせめぎあう。
怒りに少量の失望を混ぜあわせた感情が爆発しかけたせいで耳としっぽが顔を出していた。
『屈辱』なんて言葉は貴族の子女たるわたくしにもっとも縁遠い言葉であるべきだというのに、いまのわたくしほど似つかわしい者はいないだろう。
わたくしは目の前にたたずむお方にどんな目を向ければいいのかわからなかった。
少佐は月の光を浴びて悠然と、月の女神のようにぼやけた夜闇のなかでうっすらと浮かび上がっている。
そのお姿が美しくて美しくて、いまの惨めなわたくしにはあまりにやるせなかった。
わたくしの胸を焦がす太陽のように快活な少佐。
わたくしの胸を濡らす月光のように麗しい少佐。
いったい、どちらが本物の少佐なのだろう……。
混乱した理性がようやく落ちつきを取り戻しはじめ、興奮から顕現した耳としっぽはすでに消えてなくなっていた。
胸に染みこんでいく事実がわたくしの気持ちを削っていく。
すべてを受け入れていくにつれて目じりに涙がたまっていった。
あまりの仕打ちに汚い言葉を吐きかけたくて、けれど愛する少佐だけは悪者にしたくなくて。
複雑にうねる感情を必死に抑え込みながら、わたくしは少佐を見つめた。
ふと、そこで気がついた。
月明かりに浮かぶ少佐の顔はなお美しく、しかしそこにあるべきはずのものがなかった。
少佐のご尊顔には、これっぽっちも嘲るような色が見られなかったのだ。
それどころか、どこかニガいものを噛みつぶしたような、シブいものを食べられたような歪みがかすかに見受けられた。
わたくしの頭を電気のようなものが走り、すぐに理解が及んだ。
誰よりも少佐を慕っていた分際で、少佐のお気持ちをなにも理解していなかった自分をののしりたい気分だった。
「少佐、もう我慢なさらないでください」
「……話を聞いてなかったのか?」
「それとも、弱さを見せることに怯えておられるのですか?」
あくまで挑発とはいえ、わたくしの口から出たとは思えない、不遜にもほどがある言葉だ。
それでも少佐の口からは答えが返ってこなかった。
この優しくも厳しいお方はわざとわたくしの告白を無下にされたのだと確信した。
少佐は、なにも悩みを打ち明ける弱さそのものを否定してはおられないのだろう。
けっして弱さを認めることを恐れていらっしゃるのではない。
少佐とて人間であるかぎり心身を患って弱音を吐きたくなることくらいあるはずだ。
一時だけでもお酒を飲んで気分をまぎらわせることだって、あるはずなのだ。
でも、そうではなくて。
少佐が忌避されているのはそういうことではなくて、頼ることを覚えることでいつしかその延長でずるずると堕落していきかねない自分を、その惰弱さが心のどこかに存在する事実を極限まで嫌っておいでのようだった。
一夜かぎりの慰めならまだしも、取り返しがつかなくなるほどに自身を見失いかねない自分を嫌悪しているように見えた。
たぶん、堕ちてしまった自分を許せなくなるだろうから。
だからあまりに心地よい安らぎには近づかない。
そのため、わたくしの気持ちに気づいていてなお知らない素振りをつらぬいたのだろう。
ウイと答えれば甘えあう関係になりかねず、ノンと断ればわたくしを傷つけることになるのだから。
……でもそれはわたくしであろうと少佐であろうと、きっと誰しもが持っているものですわ。
「少佐、人に心をゆだねるのはいけないことではありませんわ。弱さのない人間など魅力がありませんし、そんな人、存在するはずありませんもの」
太陽のように笑う少佐は優しすぎるのだ。
そして月のように憂える自分に厳しすぎるのだ。
でも本当は、どちらも本物の少佐なのだから、
「ですから、あとは信じればよろしいと思いますの」
「信じる、か……」
少佐は噛みしめるようにつぶやいて、まぶたを閉ざした。
たとえ慰めあう関係になろうとも相手に溺れることで痛みをごまかすのではなく、傷痕を癒しあい、肩を貸して支えあうような関係を志せばいい。
そうして一歩、また一歩と互いに足を前へ踏み出せばいい。
「己を信じることほど難しいことはない」
「大丈夫ですわ」
わたくしなら添え木のように役に立ってみせます。
少佐が大きな声で笑っていられるように陰から支えてみせます。
ですから少佐はご自身を信じて、弱さにからめとられないご自身を信じてください。
少佐なら大丈夫だとわたくしが保証します。
だって少佐は、わたくしの愛する人なのですから――――
「わたくしが信じているのですから、少佐はぜったいに大丈夫です」
さきほどの告白よりも愛をこめて。
ひんやりとした空気にも負けない熱い気持ちを乗せて、思いの丈をぶつけた。
少佐のまぶたが上がる。
魔力もなにもこめられていない左の瞳がわたくしに向けられる。
綺麗な黒髪とおなじ色をした、深い黒の湖面。
わたくしは少佐の瞳に吸い寄せられ、閉じ込められてしまうような錯覚をおぼえた。
少佐の前髪がさらり、と揺れた。
「――――ありがとう」
視界がふさがって、あたたかい感触につつまれる。
なにが起きたのか理解できず、わたくしの体にまわされた腕にぎゅっとちからが込められたことだけはわかった。
「えっ、あえ……?」
間の抜けた声をあげても少佐は腕をほどいてくれない。
縛られた黒髪の束が頬に当たってこそばゆい感触。
わたくしは頭が爆発しそうになるのを必死に食い止め、少佐の求めるがままに体をゆだねた。
抱きしめたいと願われたなら、抱きしめられよう。
愛の契りを求められたなら、それに応えよう。
わたくしの愛は献身の愛だから、愛する人が幸せならばそれでいい。
こんがらがった思考をかいくぐって本能がそう結論を出した。
理性が働かない。
だから素直な感情が想いのままに動いた。
より少佐のこころを軽くするために、わたくしのエゴが独りでに言葉をつむいでいた。
「少佐、わたくしはわがままな女ですから、少佐の御心が安らかでないとわたくしも幸せになれないのです」
少佐さえ幸せなら、わたくしはいくらでも泥をかぶりましょう。
押しつけがましくやかましいわたくしに、すべておまかせください。
「つまり、これは自己満足なのですわ。わたくしが幸せを感じたいがために少佐を利用している、と。
万が一のそのときは、少佐を引き込んだわたくしにすべての原因がありますの。
べつに人から腫れもののように扱われるのは慣れておりますから、遠慮などなさらなくても結構ですので、くれぐれもご自分を責めるなどとスジのちがったことは――――」
「よせ、ペリーヌ」
わたくしの出すぎた配慮に制止の声が飛び、しかしそれは弱々しく揺れていた。
上背のある少佐の体がわずかに震えているのを悟り、わたくしは気づかないフリをする。
「それ以上は、甘えてしまう……」
血を吐くように、かすれた声がこぼれた。
じっと抱きつく少佐はまるで母親にすがりつく子どものように小さかった。
「少佐……」
「…………」
言葉はなくとも体温が伝えてくれる。
少佐の心から翳りが消え、空っぽの心がぬくもりを求めている、と。
悩みの種はわからずじまいでも構わない。
いつか話してくださるならそのときを待ってさしあげたい。
ただ、いまはわたくしの言葉を信じてくださっただけで充分だった。
これからは少佐のことを思う存分に支えてあげられる。
それがうれしくて、うれしくて。
こみあげてくる喜びを抑えきれず。
音も動きも失った愛する女性の背中にそっと腕をまわし、ちからいっぱい抱きしめた。
おしまい