マタタビにゃんにゃん
日差しもうららかな昼下がり。
ネウロイ襲撃の予報もなく、わたしたちは思い思いに平和な時間を楽しんでいた。
わたしはお母さんゆずりのクッキーにレーズンを入れて、すこし甘さをひかえた新作クッキーを焼いてみた。
試しにつくったものだからちゃんとおいしいかどうかはまだわからない。
これから芳佳ちゃんの部屋に持っていって味見をしてもらうのだ。
おいしい、って言ってくれるといいな。
「芳佳ちゃん、入っていい?」
ドアをノックするとすぐに返事があった。
「うん、いいよー」
部屋に入ると芳佳ちゃんはテーブルに紙の束を広げていて、熱心になにか書いているところだった。
「いらっしゃい、リーネちゃん」
「おじゃまします。芳佳ちゃん、それは……?」
わたしがたずねると便箋をかかげて見せてくれた。
「うん、手紙だよ。扶桑のお母さんとおばあちゃんにこっちの生活を教えてあげるの」
書きかけの文面にはかわいらしい文字がならんでいた。
『お母さん』という単語を耳にして、頭のなかのスクリーンに実家のみんなの笑顔が浮かび上がってきた。
そういえば前の手紙を出してからちょっと経っている。
わたしもそろそろ書こうかな。
みんな元気にしているかな。
「なんて書いたの?」
便箋の文字までは読めなかったのでそう言うと、
「えー、なんだか恥ずかしいなぁ」
芳佳ちゃんは便箋をさっと腕で隠してしまった。
隠されるとなんだかとっても気になる……。
「そんなたいしたことは書いてないよ。みんな優しい人ばっかりで、それに……」
ごにょごにょ、と最後のほうが尻すぼみになっていく。
なんだろう?
「それに?」
「えーと、それにね……、と、とってもかわいいお友だちができた、って……」
わたしのほうを恥ずかしそうに見上げてくる芳佳ちゃん。
と、とっても、かわいい、だなんて……。
うう、そんなこと言われたらわたしが恥ずかしいよぉ……。
「あ、わ、わたしも、その……、とってもやさしくて、かわいいお友だちが、できたから……」
「う、うん……」
芳佳ちゃんのほっぺたがほんのりと赤くなった。
わたしも恥ずかしいけど芳佳ちゃんも照れちゃったみたい。
うふふ、これでおあいこだね。
互いにくすくす照れ笑いして、そこでわたしは思い出した。
「あ、そうそう、芳佳ちゃん。じつはさっきね、クッキー焼いてみたんだけど……」
「わぁ、いいにおいがすると思ってたけど、クッキーだったんだぁ!」
「はじめてつくるクッキーだからちゃんとおいしくできてるかわからないけど、食べてくれるかな?」
「もっちろん! リーネちゃんがつくってくれたものならなんでも食べるよ!」
まあ、芳佳ちゃんったら……。
わたしたちはテーブルからベッドに移り、小さなバスケットから包みを取り出した。
クッキーの表面のところどころにレーズンが顔を出している。
芳佳ちゃんがひとつ摘み、お口に放りこんだ。
サクサク、とかるい音が聞こえ、芳佳ちゃんの表情が笑みの形になった。
「おいしいよ、リーネちゃん! この前のドーナツもおいしかったけど、このクッキーもとってもおいしい!」
芳佳ちゃんはまるで小さな子どものように喜んでくれた。
その笑顔を見ていると妹たちのことを思い出してしまう。
あの子たちもわたしのつくったお菓子をおいしいおいしいと言って食べてくれたっけ。
うん、わたしも近いうちに手紙を書こう。
とってもやさしくて、すっごくかわいいお友だちができたってことも忘れずに書きたいな。
お昼のあとなのに芳佳ちゃんはパクパクとおいしそうにクッキーを食べる。
そんな光景を見ていると胸の奥があたたかくなる気がした。
いまこの瞬間、わたしにも居場所があるんだって、そんな気がしたのだ。
ご機嫌なお友だちから視線を外して、芳佳ちゃんの部屋に目をやった。
まだまだ物が少なくて寂しい。
家具だけじゃなく装飾などもかわいい色のものを使ったりして、もっと芳佳ちゃんにぴったりの部屋になったらいいな、と思った、そのとき。
視界の端っこに見慣れないものが映った。
ベッドのわきにある、サイドテーブルの上。
花瓶になにかの枝が差してあって、その先端に小さな白い花を咲かせていた。
「芳佳ちゃん、これはなぁに?」
「あ、それはマタタビだよ。中庭に咲いてたんだけど、花がきれいだったからつい手折って持ってきちゃった」
えへへ、と頭をかくと花瓶を手に取って見せてくれた。
葉っぱのまわりはわずかにギザギザしているけれど、それとは関係なしに小さな花はきれいだった。
元気よく花びらを開いて太陽の光をいっぱい吸収しようとしているようで、どことなく芳佳ちゃんに似ているような気がした。
「香りをかいでみていいかな?」
「うん、いいよ」
手渡されたマタタビの花に顔を近づける。
お花のにおいより先に葉っぱのにおいがした。
くさいわけではないのだけれど、青いというかどこか懐かしい自然の香りがする。
お母さんに抱きついたときに、その特有のにおいを吸い込んで安心するような。
不思議と落ちついてしまうような安堵感があった。
だけど、嗅ぎつづけているとなんだか変な気分になってくる。
体の内側がだんだん熱くなって、頭もクラクラしてきた。
目の前の芳佳ちゃんがなにか言っている。
「リーネちゃん? ねえ、どうしたの、リーネちゃん!」
「よしか、ちゃん……」
芳佳ちゃんの声は聞こえるのに意味を理解できない。
ううん、理解できるけど頭がぼんやりして思考がついてこない。
体も動きがゆるやかに感じられて、なんだか人形になった自分を操っているような気分だった。
まるで夢のなかにいるような、ふわふわした感覚。
ちょっと、けっこう、かなり、気持ちいい、かも。
「リーネちゃん! どうしたの、ねえ……」
よしかちゃんがわたしをしんぱいそうにみてる。
だいすきな、よし……んが、わたしを……。
…………のくちび……らかそう……。
マタタビを嗅いでからリーネちゃんの様子が変だった。
どこかぽわ~っとした表情で、目の焦点もあってない。
何回よびかけても返事はしないし、体は前後にフラフラと揺れている。
ぜったいに変だ。
「リーネちゃん、しっかりして! えっと、そうだ、坂本さんを呼んでくるから、ちょっとまっ――――」
待って、と言おうとしたところで言葉が途切れてしまった。
胸がくるしい。
なにかがわたしを締めつけていて、その勢いに押されてベッドに倒されてしまった。
鼻先をくすぐる髪の毛の感触でそれがリーネちゃんだとわかった。
「え、り、リーネちゃん……?」
ぎゅうぎゅうと抱きしめるちからは弱まることを知らない。
いつの間にかリーネちゃんの頭には耳が生えていた。
ピンと立ったかわいらしい猫の耳…………あっ!
もしかしてリーネちゃん、マタタビのにおいを嗅いで酔っぱらっちゃった?
使い魔が猫だからって、まさかこんなことが本当にありえるのかな。
「ま、まって、リーネちゃん、落ちついて!」
「ぅ……にゃ、ぁ……」
とろん、とした目つきで見上げてくるリーネちゃんはかわい……、じゃなくて、とても正気をたもっているようには見えなかった。
体にまわされた手はゆるむどころかさらに強くしがみついてきている。
ぐりぐりと頭をこすりつけてきたりして、もうどこからどう見ても猫以外のなにものでもなかった。
「リーネ、ちゃん……」
リーネちゃんの髪の毛からいいにおいがする。
わたしの首にほっぺたをスリスリしてきて、どうしようもなくこそばゆい。
でもそれはとても原始的な親愛の表現であって、けっして不快なものではなかった。
密着したリーネちゃんの体もやわらかくてあたたかくて。
こんな状態だというのに、ほんの少しのあいだならこれも悪くないかも、とか思ってしまった。
「んにゃ……」
「ひっ……!」
首すじにぬめっとした感触を覚えた。
背筋をゾクリと悪寒が駆け抜け、全身が震える。
……舌で、なめられた?
使い魔の特性のためにすっかり猫になってしまったのだから、いまのリーネちゃんは猫なのだ。
だけど、いやたしかに猫なら親しい人のことをなめたりするだろう。
でもでも、わたしは飼い主じゃないし、リーネちゃんも人間だからさすがになめるのはよくない。
なぜかわからないけど、とっても"いけない"気がした。
「リーネちゃん、ダメ! めっ!」
猫の耳を生やしたリーネちゃんに怒った口調を試してみる。
猫の場合、叱られるとわかればすぐにじゃれあいを止めるものだからだ。
大好きなリーネちゃんを猫あつかいするのには抵抗を感じるけど、いまはそんなことを言っていられない。
これは、そう。
緊急事態なのだ。
「ほら、ペロペロしちゃダメでしょ! わかった? わかったなら放しなさい」
冷静に、落ちついて説得すればわかってくれるはず。
ただの猫ならいざしらず、目の前の猫はリーネちゃんでもあるのだからちゃんと聞き分けてくれ――――
「にゃあぁん!」
「ひゃああぁっ!」
なかった。
わたしを抱きしめていた手をゆるめたと思ったら今度はわたしのうしろにもぐりこみ、服の裾の部分から手を侵入させてきたのだ。
お腹をなで、脇腹をなで、みぞおちをなでられたところでわたしの理性がさけんでいた。
揉まれる!
わたしはたしかに、大きな胸にはちょっと、ほんのちょっとだけ執着しているかもしれないけれど、でもそれはあくまで揉む側として興味があるだけなのだ。
わたし自身の胸はおせじにも大きいとは言えないし、揉まれたこともないからどんな感触なのかもわからない。
それでもきっと揉みたいと思う気持ちはなくならないから、たとえ背中にあたるおっきな胸を持つリーネちゃんに揉まれたところで問題はなくて…………あれ、あれれ?
「はぁあ……、よしかちゃん、きもちいい……」
「やあぁあ、わたしは気持ちよくないぃ……!」
もはやリーネちゃんの侵攻を止めるすべはなく、うしろからまわされた手はわたしのちょっとひかえめな胸を鷲づかみにしていた。
胸のふもとから押し上げるように、円を描くような手の動きに翻弄されてしまう。
こんなことイヤなはずなのに、リーネちゃんがやっていると思うと素直に怒れない自分が憎い。
マタタビのにおいにやられてしまったリーネちゃんに責任はない。
もしも責任があったとしてもリーネちゃんならぜったい許してあげちゃう。
だけれども、わたしは――――
「よしかちゃん…………、おいしい」
「にゃああああぁ!」
耳! 耳!
わたしの耳が、パクペロされた!
指は休まることなく胸を揉みつづけていて、それだけでも変な気分なのに耳たぶをパクッ、ペロペロってされたら奇声をあげてしまっても仕方ないと思う。
耳のくぼみがねっとりした生温かい唾液で濡れて、それだけのことなのにものすごく恥ずかしい。
「りー……ね、ちゃん……」
「だいすきだよ、よしかちゃん」
耳からあふれた唾液が首を伝っていく。
気が変になってしまいそうだ。
大好きなリーネちゃんにうしろからこんなふうにいろいろされて、わたしの中のなにかが壊れそうだった。
耳もとで荒い息づかいが聞こえる。
あたたかい空気がうなじをなでる。
おもわず身震いした。
リーネちゃんの小さくて優しい指がわたしのてっぺんをいじめてくる。
なんだかお腹の下のほうが熱くなって、わたしまで酔っぱらったみたいにいい気分になってきた。
うしろから羽交い絞めにされて、こんなことすごくイヤなのに、リーネちゃんに抱きしめられていると思うとこれでもいいや、と思えてくる。
すごく不思議で、すごく気持ちいい。
なんでだろう。
リーネちゃんのことは好きだけど、イヤなことをされたらイヤだと思うはずなのに。
なのになのに、なんでこんなにわたしは、ウレシインダロウ……。
「ん……」
首をまわすと、火照って赤くなったリーネちゃんの顔があった。
涙でかすんだ視界にリーネちゃんの顔がいっぱいに広がる。
近づいてくる。
ぷっくりとふくらんだ形のいいくちびる。
光を跳ねかえしていてやわらかそうで、とても、オイシソウ……。
「り、ね……ちゃ……」
わたしは自分のくちびるを自らささげる。
酔っぱらったリーネちゃんが優しくほほえんだ。
それでいいんだよ、という声が聞こえたような気がする。
リーネちゃんの顔がフラフラ揺れて、わたしの顔に重なり、わたしのなかにリーネちゃんが――――
目が覚めたら夕方だった。
外はちょうど日が暮れるところで、茜色の光が部屋のなかを見慣れない空間にドレスアップする。
となりではリーネちゃんがすーすー寝息を立てていた。
……あれはいったいなんだったのだろう?
ベッドのわきのサイドテーブルにはちゃんとマタタビが活けてある。
わたしやリーネちゃんの服装には乱れたところもないし、ベッドのシーツもまったくきれいなものだった。
頭のなかを白昼夢という言葉が占める。
でもあのときの感触、心地は夢ではなかったように思えた。
あれが夢であるのなら、この世に現実なんてものは存在しないだろう。
夢現、か……。
横で静かに眠っている彼女はとても安らかな笑顔で。
今日は予報どおりネウロイの襲撃のない平和な一日だったわけだ。
あれが夢であろうと現実であろうと、どうでもいいことなのかもしれない。
もちろん、リーネちゃんが起きたらそれとなく訊いてみようと思う。
でも、たとえ返答がどのようなものだったとしてもわたしがリーネちゃんを想う気持ちに変わりはないわけで……。
わたしはかわいらしい寝顔を見せる子猫が風邪をひかないように、その体にそっとブランケットをかけてあげた。
おしまい