リバウの誓い
1944年より数年前。
遣欧艦隊リバウ航空隊の一員として欧州にいた坂本美緒は、照明を消した薄暗い自室で、椅子にかけながら、ぽんやりと虚空を見つめていた。昇進祝いという名目で本国より贈られてきた酒をついだ杯を片手に。
軍服のボタンは開けられ、紺色の上着が除く。その膝の上には、封の切られた真白い封書が置かれている。
ドアがノックされる。美緒はドアの外の人物を感知したかのようにあっさり言い放つ。
「入ってきてもかまわんぞ」
振り返り、廊下の照明に照らされていた人影の中に、リバウ航空隊でともに戦ってきた戦友の一人である、竹井醇子の笑顔を見つける。
ドアが閉まり、部屋は再び薄暗くなる。
「飲んでるの?」
「ああ」
「少しぐらい、明かりつけなさいよ」
醇子は美緒の前に立つと、やわらかい口調で、テーブルに置いてあるひとつの燭台のろうそくに火を灯す。
温かいろうそくの光の中に浮かぶ、醇子の穏やかな表情をしばらく瞳の中にとどめて、美緒はひざの上の封書を握りつぶす。
「不機嫌そうね、坂本"少佐"」醇子は微笑みをくずさない。
「……よせ。私はなにも成し遂げていない。どこも奪還できていないのに、昇進、ましてや転属なぞ…」
「世界各地の魔女の精鋭を集めた統合戦闘航空団――とても名誉なことじゃない。カールスラントからはヴィルケ中佐、バルクホルン大尉、ハルトマン中尉の三名が派遣されるのよ。彼らの実力は一緒に戦ってきて十分すぎるほど…」
「そこになぜお前が加わらない?」
と、美緒は思わず立ち上がって、やや乱暴な口調で話を切るが、はっとしたように口をつぐみ、うつむく。膝の上からすベリ落ちた封書が床の上でかさりと音を立てた。
醇子は一瞬だけきょとんとした表情になりつつも、封書を拾い上げ、テーブルに置くと、しわを伸ばす。
「……それは上が決めることだから。それに、後進の育成もとても重要なことだわ」
醇子は美緒を覗き込む。美緒はその言葉を理解しつつも、同意の言葉が出てこない。
「……いつ扶桑に?」
「明朝に、発つわ」
「そうか……」
その刹那、醇子が美緒を包み込むように、抱きしめる。
「あなたは今までも、十分すぎる功績を残しているわ。だから、それを無下にはしないで。決して焦らないで、確実な一歩を……あなたなら、できる」
醇子は静かに美緒から離れると、また、健やかな笑顔を美緒に向け、彼女の横を通り過ぎていく。
「醇子…」
美緒は、母親に置いていかれまいとする子供のような、少しおびえた表情で、醇子の手をつかむ。
「美緒、痛いわ」醇子は振り返って、なだめるような口調で、返す。
「私にはお前が必要だ。そばに…いてくれ」
醇子は返事を返さなかった。
ただ、まっすぐな瞳で美緒を見据えた後、彼女の頬に両手を添え、自らの唇を重ねた。
しかし、二人の中では何も燃え上がらない。
まるで、気付け薬代わりのような、味気も情熱のかけらも無い接吻。
「……美緒。私もあなたとは離れたくないわ。けど、今はそばにいてあげることはできない。お互いするべきことをしなければいけない時なの」
醇子は美緒の頬から手を下ろす。
美緒は、瞳をかすかに潤ませながらも、醇子の想いを感じ取ったのか、口をぎゅっと引き結び、凛々しい顔つきを見せる。
醇子も、美緒の決意を感じ取ったのか、相好を崩した。
「落ち着いたら、連絡を頂戴」
「ああ。必ずする」
醇子は部屋を出て行く。
美緒は大きく深呼吸をすると、壁にかけたヨーロッパの地図を一瞥し、拳を握る。
「今度こそ…」
リバウの誓い 終わり