無題


 どこまでも遠く高く、見渡す限り果てしない空。
 縹渺たる水平線の境界は円らに。青藍の海神に浮かぶ空母――赤城は、一個の揺曳を思わせる。
 その甲板に降り立つ一筋の煌めき。
 大海景を背に凛乎として佇む侍の名は――坂本美緒少佐。

 飛行訓練だ。かつて見せたあの飛翔を再び拝むことがあたう。
 宮藤芳佳は、かの面影に人知れず憧憬の眼差しをおくった。
 華麗でいて厳か。夏風のように爽やかな笑みを振り撒き、自若を保つ坂本に。
 ユニットが発動する。切り揃えられた前髪を潮風がさらう。魔力が増幅するに従って、坂本の総身には強大な力が漲る。その身に鬼神を宿したように、身体じゅうから物々しいオーラが発せられる。
 甲板の上を、瞬く間に厳粛な空気が支配した――。
 離陸と共に凪いだ水面がざわめき立つ。坂本がすばやく旋回する度に、黒髪の尾がひらめく。
 芳佳は思う。
 大空のはぐれ雲は静かに棚引いて、じっとみつめていると、自分が動いたのか雲が動いたのか、はたまた地球が動いたのかわからなくなる。
 その間を帆翔する一羽の鳥人に、再び熱いまなざしをおくった。

     一

 艦内食堂にて。坂本が宮藤を付き従えると、無数の視線が突き刺さった。
 兵卒供の二つの目玉の大半は、空腹を満たすものへと注がれている。中にはふらふらと視線を虚空に彷徨わせる者がいたり、またある者は物珍しそうに芳佳を眺めた。臆面のない者はまだいい。芳佳は気づいていないが、一部には怪訝の裏で、そんなことはおくびにも出さず知らん顔を決め込んでいる者もあるのだ。
 無論、坂本だけは全てを見透かしていたのだが――。
「坂本さん。わたし…………やっぱりここにいてはいけないんでしょうか……」
 芳佳は震える声で訴えた。
 坂本は箸を置き、芳佳の瞳をじっと見据える。
「……お前は博士に会うために来たんだろう? なら余計なことは考えなくていい」
 案ずるには及ばぬ。と幼子をあやすみたいに言い含める。
 坂本はやおら立ち上がると、衆目を集めながら、
「いいか、貴様ら。宮藤は非戦闘員なんだ。このことはよく肝に銘じておけ」
 儕輩に向けてこれ見よがしに牽制してみせた。
 言葉の裏の真意が何であったかは計りかねるが、一つの庇護欲に納まらないことと、それによって宮藤から獲得した信頼が絶大であることは現前たる事実である。
「宮藤。ぼけっとしとらんでお前もさっさと食え」
 そうして坂本は何事もなかったかのように静々とご飯を口に運ぶ。暫くしてから、徐に言を発した。
「それにしても宮藤の作る飯はうまいな。どこで教わった?」
「はい。扶桑にいた頃、母の手伝いをしていて自然と」
 そんなことは知っている。加えて『うまい』という感想も、純粋な感動のみならず、芳佳の安心を引き出すために用意された常套句だ。
「そうか。お袋さんの味というやつだな」
 そうして再び飯を咀嚼し嚥下する作業に戻る。
 一方で坂本の斟酌など知る由もない芳佳の胸裏には、忽ちの裡に小さな不安が群がろうとしていた。
「あの……坂本さん」
 言い渋る芳佳。案じた坂本が訝る。
「ん。どうした、浮かない顔をして」
 坂本さん、坂本さんにだけは――。
 どんな些細なことでも打ち明けられる気がする。強がらずにいられると、そう芳佳は信じていた。
「わたし、いつか扶桑に帰れるんですよね?」
 どうしても尋ねずにはいられなかった。芳佳は坂本の怜悧な双眸をみつめて言った。
「心配するな。私が必ず送り届けてやる」
「本当ですか!?」
「ああ。二言はない」
 途端に、芳佳の顔は憑き物が落ちたようにぱあっと明るくなった。
「約束……してくれますか?」
「いいだろう。約束だ。ほれ」
 そう言って突き出された小指と小指でいつかの約束が結ばれる。
 まるで内なるわだかまりを解く魔法のように、するすると何かが解けていく。
 児戯に等しい真似事もまた無駄ではないと示すように。
 芳佳は暫くのあいだぼんやりと指を眺めていた。
「おい宮藤」
 ずずずい、と食卓を挟んで顔が接近する。
 坂本はやおら身を乗り出し、芳佳の頬に手を伸ばした。
「ふぇ?」
「飯粒がついてるぞ」
 事も無げに言い放つと、ひょいと飯粒をつまんで口元へ放り込んだ。
「全くだらしないな」
 芳佳は目を丸くして、急に頬が熱くなるのを感じる。
 面映さに矢も盾もたまらず眼を逸らしたくなった。
「お前をみていると少しも気が休まらん」
「ど、どーゆーいみですか」
「そういう意味だ。はっはっは」
「むぅ……からかうなんてひどいです!」
「からかってなどないぞ。私はいつだって大真面目だ」
 むっと膨れる芳佳を見て坂本は哄笑をあげる。すぐに芳佳もつられて他人事のように笑っていた。

     二

 坂本は艦内通路を進みながら黙考していた。
 
「宮藤。入るぞ」
 やれやれ……。
 芳佳はすーすーと寝息を立てて眠っている。
 坂本はすっかり気勢を削がれてしまって、肩を落とした。
「おーい。起きんか、こら」
 揺すってみても、うんともすんとも起きる気配がない。
 芳佳の顔をまじまじとみつめ、ためしに頬をつついてみる。
「ひゃふっ! みっちゃん……くすぐったいよぅ」
 一体どんな夢をみているというのだろうか。
 坂本はふぅ……とため息をつき、しばらく考えこんでから徐に芳佳の首と膝の裏に腕を差し込んだ。
 芳佳の身体がふわりと持ち上げられる。そこで芳佳はようやく目を醒ました。
「わ、わわ! 坂本さん! わたしなんで浮いてるんですか?!」
 お姫様抱っこみたいな抱え方をする坂本に、芳佳は必死でしがみつく。
「昼間は活動するための時間だからだ」
 舷窓をふいと顎で指すように一瞥すると、芳佳を机の前に座らせた。
 芳佳はこれから何が始まるのか解せず、頭の上に疑問符をいっぱい浮かべている。
 当惑顔の芳佳を余所に、坂本は懐から一冊の本を取り出した。ブリタニア語の教本である。
「坂本さん…………これは?」
「学生の本分は勉強だろう?」
 芳佳のために坂本は直々に教鞭を執ろうというのだ。
「は、はい! よろしくお願いします!!」
「ようし、いい返事だ。では手始めにだな…………これを訳してみろ」
 坂本はリーダーを指し示した。
「こ、こうですか……」
 芳佳は少し考えて、与えられた邦文を見事に訳してみせた。
「上出来だ。やはり私の眼に狂いはなかったようだな」
 坂本は朗らかに笑うと、芳佳の頭を豪快に撫でた。
 芳佳の胸には忽ち、ふわふわとした嬉しさが沸き起こる。何か大きなものに包まれるような、あたたかいものに触れたときの安心感に似ている。
「次はこれだ」
「はい!」
 芳佳は次の問もその次の問も、坂本に認められたい一心で解いてみせた。
「なんだ宮藤、よくできるじゃないか。――――よし、飴をやろう」
「やったあ! ありがとうございます」
 包み紙を剥き飴を一つ、芳佳に手渡す。
 芳佳その飴を少し見つめてから、口に運んだ。赤に着色されているが苺の味も香りもしないただの飴である。芳佳はその飴を愛しそうに転がした。
 芳佳は思いの外飲み込みが良い。これに気をよくした坂本は、戯れに些か意地悪な要求を試すことにした。
「いいか、宮藤。私が質問したら、続けて答えるんだ。
i want you to use the force you've gathered within your grasp for the world from now on.」
 流暢なブリタニア語で諳んじてみせる。
 対する芳佳はうーん……と頭を抱え込み、
「わ、わかりません!」
 音をあげるのも無理はない。教本の問題など得てしてデタラメになりがちなうえ、坂本は憎たらしいほど狡猾な笑みを浮かべてわざとややこしい言い回しを使ったのだから。
「間違えたな」
 坂本は手心の裡に芳佳の頭へぽんと本を置く。芳佳はびやっと声をあげて、ふるふると肩を震わせた。竦む肩に坂本の手が乗せられる。芳佳は恐ろしくなって固く目を瞑った。
「答えられなかったので飴は没収だ」
 威厳の籠もった声音に芳佳は再び肩を戦慄かせる。足音が通り過ぎる度に、背筋がひりつくような感覚が走った。
 背後からぬっ――と忍び寄る気配に気づき、固く搾られた瞳をおそるおそる開くと、坂本の手が今にも芳佳の唇を脅かそうとしていた。
 首に回された坂本の手が眼前に接近する。贅肉のない骨ばった長い食指が躊躇いもなく頤をこじ開けて、口腔から芳佳のものとなったはずの飴を奪い取った。
「あっ……ふぇ……」
 一連の動きの間、芳佳は抵抗できずに目を丸くしていた。
 舌先を自在に弄ぶ三本の指の動きはまるで口腔を犯す愉しみに踊るように、暫くそこに留まった。けれども芳佳はかえってそこにそれを喜ぶ自分の存在を無視することはできない。
 芳佳の口内には坂本の肌から滲む馥郁が飴の甘やかな香りと混じっていっぱいに拡がった。ただの飴が薄荷の爽快を得て鼻腔まで通り抜ける。夏風の笑みを湛える坂本に相応しい香りだ。
 坂本さんの匂いがする……。
 芳佳はうっとりと恍惚を浮かべ、たったそれだけのやり取りで、ぐらぐらと目が廻りそうな感覚に陥いるのであった。
「あのっ……さか、もと……さん」
 ふるふると薄い涙を浮かべて、何かを乞う。
 芳佳の正直な訴えに坂本は応えず、意地悪な顔をして今しがた奪った飴を自分の口へ放り投げる。それから、次はがんばれよと期待を込めて肩に手を置いた。
 一度自分の口に入った飴を奪い取り更に翻弄する様をとられることは、幼い芳佳を辱めるには強烈な演技である。それでなくとも、思春期の少女の不安定な均衡を揺さぶるにはあまりにも非道な仕業だった。
 次に坂本がブリタニア語で問を投げかけると、芳佳は沈着を保とうと勤めて冷静に答えた。
「それでいい」
 坂本は得意げに芳佳の頭を撫でた。
 されるがままの芳佳の視線はぼうっと虚空を行き来し、意識が既に散漫になり始めている。
「疲れただろう? そろそろ――」
「だめです! 教えてください――もっとよくわかるように指導してください」
 その………………勉強以外のことも。
 半ば遮るように発せられた。芳佳がこんな風に仕るのは初めてである。
 もっと褒められたい、坂本の優しい笑顔が見たい一心で口を衝いた言葉だった。
「そ、その……ずるいです! 坂本さんばかり飴を食べて。あ、あとこの前の続き……続きがまだです」
 芳佳は先刻のやり取りで潜にしまっておいた気持ちが再燃するのに気づいた。
「……宮藤。――――いいだろう。アルファベットの基礎から叩き込んでやる」
 芳佳の意図を得た坂本は頷き、後頭部を掻く。
「正直言ってな、お前がそんなに熱心だとは思わなかったんだ。――よし、そうとわかれば、これからはビシビシいくからな! 覚悟してろよ」
「そ、そんなぁ~」
 坂本はいつにも増して熱の入った指導をはじめる。
 虚を衝かれた芳佳は、期待をあっさり挫かれ項垂れた。
 坂本さんのばかぁ……。


《了》


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