無題
ぽふ、と言う軽い衝撃とともに彼女が私の膝の上に倒れこんできたのは本当に突然の事で、
本を読みながらうつらうつらとしていた私の頭はその衝撃で瞬時に覚醒した。
いったいどうしたことだろう、と目を見張れば、そこには。
「エイラ?」
私にとってとても大切な、大切な人の寝顔が、あった。
… … …
「…エイラ?」
おそるおそる、もう一度彼女の名前を口にした。思わず小声になってしまうのは今があまりにも穏やかな昼下がりだからだ、と思う。
ネウロイの襲撃予定のない、いわゆる休日。窓の外は坂本少佐だったらきっとご機嫌で大笑いをするのであろうほどの快晴。
ちょっぴり塩味のする柔らかい風が部屋の中に吹き込んできて、ゆるやかにカーテンを揺らしている。
私は日の光が苦手だ。だから昼間もあまりすきではない。
だって眩しくてすべてが明らかで、私の姿も気持ちも何かもさらけ出されてしまいそうで。
けれどすっかり過ごしなれてしまったエイラの部屋には光だけじゃなくてエイラの気配さえもあふれていて、
それだけで私の心はずいぶんと落ち着くのだった。
昨日は私でなくエイラが夜間哨戒の当番だった。
私の寂しげな視線を読んだのか、エイラは小さく笑って「私の部屋で寝ててイイヨ」と言ってくれたのだ。
もちろん、お決まりの「今日だけダカンナ」をつけたすのも忘れなかったけれど。
けれど、そんなこと言ったっていざとなればエイラはなんだって許してくれることぐらい私は十二分に知っている。
…甘えすぎ、かな。そう考えることもあるけれど、そう思って口にするのをためらうたびにちょっとぶっきらぼうに差し出される優しさが
ひどく温かくて心地いいから、ついつい私は甘えてしまうのだ。
夜間哨戒任務のせいで他の人たちとすれ違いの多い私を気遣ってか、エイラはめっぽう私に甘い。
「エイラ、」
少し声を大きくして、もう一度。 けれどエイラは身じろぎさえせずに目を閉じて静かな寝息を立てている。
目を覚ます気配は感じられず、彼女は深い深い眠りについているようだ。
夜間哨戒から帰ってきたエイラを、私は一生懸命早起きして部屋で迎えて。
「タダイマ」と少し嬉しそうに言ったエイラに「おかえり」と返した。
それから二人で朝ごはんを食べに行って、今日はオフだからと部屋に戻って、二人で何をするでもなしにごろごろ、ごろごろ。
…そうだ、考えてみたらエイラは一睡もしていない。
夜に慣れていないエイラにとっては辛いものだったろうに、そんな様子を欠片も滲ませることなく私に合わせてくれた。
ああ、なんてやさしいひと。そして気付かない私のなんと鈍感なこと。
でもそれを気に病んで私が申し訳なさそうな素振りを見せたならきっと、エイラは「なんてことないッテ」と笑うのだろう、なんて簡単に想像できる。
読んでいた本を傍らに置いて、彼女の額に手を伸ばす。
眠っているせいだろうか、かすかに汗ばんだ髪の毛の一筋をかきあげるとエイラはううん、と身じろぎした。
使っているお風呂も、石鹸も、一緒のはずなのにエイラからはすごくいい香りがするような気がするのはどうしてだろう?
びくりとして手を離しても彼女が起きる気配はなく、ほっとしてもう一度手を伸ばして額を撫でる。
きっと、とても疲れていたんだろうな。でも私を気遣って平気な素振りをしていたんだろうな。
そう考えると、何だか泣きたいような、でもちょっと気恥ずかしいような、不思議な気持ちが胸にこみ上げた。
「エイラ、」
次に呼びかけたのは、彼女を起こすためではない。もう、そんな気は毛頭ない。
ただただ胸の奥が温かい気持ちでいっぱいになって、それがこぼれ出てしまった。そんな言葉だった。
「エイラ。」
だいすきなひとのなまえは、ふしぎだ。
だって、口にするだけで幸福感でいっぱいになるのだ。
うまく言葉に出来ないたくさんの気持ちを、たったその一言が代弁してくれているかのよう。ありがとう、ごめんね、ありがとう、だいすきだよ。
答えはもちろん、ない。だから今、胸をいっぱいにしているこの気持ちがこのひとに伝わっているはずもない。
それはちょっぴり寂しいことだけれど、いつか直接言葉にして伝える勇気がもてるまで私は何度だってこのひとの名前を口にするのだと思う。
…このひとが、私の名前を呼ぶときも私と同じ気持ちが含まれていたらいいな、なんて思いながら私はエイラの額を撫で続ける。
力を抜いて私の膝にすべてを委ねているエイラのそれと同じくらいに、私の頬もきっと緩んでいる。
(かわいい)
笑みがこぼれてしまうのは安心しきって眠る姿がなんだか小さな子供みたいだから。
私はこのひとの幼い頃なんて知らないはずなのに、ずっとずっと前からこうして一緒にいたかのような錯覚に陥ってしまう。
それだけエイラは私の人生に平然と入り込んでしまっているのだ。
もしもエイラが私に「これからもずっと一緒にいて」なんて言ってくれたら、私は二つ返事でそれを了承してしまうだろう。
それほど彼女の存在は私にとってはとても大切で。
窓から差し込む陽光に、少し黄味がかったエイラの銀髪がキラキラと輝いている。まぶしくて目を細めたら、
その瞬間に開け放した窓から柔らかい風が一陣吹き込んできた。
室内はよりいっそう、気だるいけれどもこの上なく穏やかで優しい雰囲気に包まれた。
まるで柔らかくて温かい液体で満たされたような、心地よい空間。
…そしてその真ん中にエイラがいて、私の膝の上ですやすやと眠りについている。
(ねえ、エイラ、エイラ)
私はこのひとにいつも、助けられてばかりだ。エイラにはいつもいつも、甘やかされてばかりだ。
それがきっと私とエイラの関係で、一番うまく収まるカタチなんだと、そう思うけれども。
緩んだ頬からふふ、とつい笑い声がこぼれた。
私より背の高いエイラをこうして見下ろして、そのエイラは子供のような顔をして寝息を立てていて。
いつもと違うこの状況が、何だかひどく嬉しい。愛しい。
「今日だけ…じゃ、なくてもいいよ」
耳元に口を寄せてささやいた。ぐっすり眠っているエイラにはきっと届いていないけれども、それでもいい。
多分面と向かってなんて、うまく言えないに決まっているから。
私はまだまだ頼りなくて、エイラに甘えてばかりだけれど。
ひどく疲れて休みたくなったら、エイラだって私に甘えていいから。むしろそうであって欲しいと思っているから。
だから、たまには私に甘えていいよ。甘えていいんだよ。
不意に視界がかすんで、目をこする。頭が霞がかってきて、ふわぁ、と思わず欠伸をひとつ。
ああ、もう、私も限界みたいだ。
同じ夢を見られたらいいな。そう思いながら、エイラの手をきゅっと握って私もまどろみへおちていった。