クロウカシスの虜
ゲルトルートは暗闇の彼方に手をのばして飛び起きた。ここのところ彼女の寝覚めは悪い。
はあはあと息をつきながら意識下にしまいこんだ検討もつかないものを自分の胸に問い合わ
せた。しかしそれは何も答えてくれない。ゲルトルートは動悸する胸を皮膚の上から押さえ
つけて悪い気分を歯の奥で噛み潰した。窓の外を確認するまでもなく今がまだ深い闇に覆わ
れた時刻であることを知っていた。だが立ち上がり、裸の身体に軍服を着た。彼女がその時
刻に部屋を出ることはもう決まりごとのようになっていた。
誰も見る者がいないから疼痛を抱える胸を軍服のうえから押さえつけて歩いた。真っ暗な通
路は角を曲がると途端に明るくなる。海岸に面した窓から月明かりが差し込み幻想的な光景
をみせるその通路の上に無様に落っこちているものをゲルトルートは見つけた。
「おい」
と、ゲルトルートはこの光景に似つかわしくない「それ」に対して呼びかけた。はじめそれ
は寝転げているのかと思ったが呼びかけに対して瞬時に動いたところをみるとばっちり覚醒
の中にあったようである。にもかかわらず、
「うん?」
と、「それ」は間抜けな声をあげて応じた。
そのときを境にしてゲルトルートの胸の疼痛が消えうせ、代わりといってずいぶんな場所に
鈍痛が去来した。彼女はそれを歓迎した。何かに紛らわせなくては辛いことが人生の内には
あり、一時的、あるいは比較的へいちゃらの方を選ぶ権利は誰にでもある。
「こんなところで何をしているんだ?」
と、ゲルトルートはしかつめらしく尋ねたが、その言い方があまりにこの場のおかしな雰囲
気と合致せずに当惑した。その当惑は目の前の相手にももちろん漏れた。「それ」は言った。
「大尉こそ」
「ふん」
ゲルトルートは相手の第一声に対して鼻先で応じた。それは相手がどのようなことを喋っても
そうすると、彼女の中で咄嗟に決めたルールだった。もちろんが狼狽を隠すためだったので、
当然相手には漏れていたが、指摘するツッコミ役が不在だった。そこで二人はやわらかい月明
かりの下ではまったく不似合いなほどお互いに警戒し、睨み合うまでにいたった。
どれくらいそうしていたか、先に眼をそらしたのは落っこちていた方だった。彼女は悄然とし
た。かかえこんだ両膝のところにかがみこんで「うー」と言った。見つけたほうはその仕草の
示す意味を考えようとしたが本人に聞いたほうが早いことに思い当たって言った。
「部屋に入らないのか?」
それは一番最初の質問と、聞き出したい答えがおんなじ類のものだった。だがストーリーが進
行しないことに関して不平や愚痴を言うツッコミ役が不在だった。ともかくとして「それ」は
上官の質問に答えたがらないでまた「うー」とやった。足を少しじたばたさせた。それから顔
をあげると目の前の部屋のドアに視線を向けた。必然的にそうなった、ととれなくもないがと
もかくとしてゲルトルートもそっちを見た。それだけ「それ」の一挙手一投足に注目していた。
「なんだ、ドアが開いているぞ」
と、ゲルトルートが言ったとおりドアはほんの少し風が通りすぎるような隙間を開けていた。
彼女はもしかしたら誤って鍵をかけてしまい自室に立ち入れない不備をやらかした「それ」を
想像できたのでてっきりそうだと思っていたのだ。もちろん今は風かねずみくらいしか通さな
い隙間でも押してやれば身体が一つ通るのに十分のはずである。ゲルトルートはそう思ってド
アを押しにいった。彼女がドアを押すと廊下で飽和状態だった月明かりがその部屋の中へとあ
ふれだしてゲルトルートの眼にベッドの上で眠りこける白皙の少女をうつした。
ゲルトルートはとくに何も思わなかったが「綺麗だ」とだけ感想として持った。するとその、
部屋に踏み込まないままでいたほうのゲルトルートの、つまり後ろ足をひっぱる力がはたらい
た。ゲルトルートがふりかえるとしゃがみこんだ姿勢のままの「それ」が言った。
「しーっ」
人差し指を口のところに一本立てて、息を吐き出すだけの労力で言った。ゲルトルートは訝し
んだが言われるままにした。踏み出した足をそっと部屋からぬきだして同時にノブを慎重に引
っ張ると一番最初のときと同じ間隔を残してドアを閉めた。そしてドアの上部に掲げられたプ
レートをまずは確認し、自分の中に生まれた疑問を相手に尋ねていいものにまで下準備を整え
た。そこまでを終えるとしゃがみこんで「それ」と目線を合わせてからひそひそ声で言った。
プレートにはこうあった。エイラ…
「…イルマタル・ユーティライネン少尉、これは一体どういうことだ?」
「サーニャがわたしの部屋で寝ている」
「つまり?」
「わたしの寝る場所が…」
途中まで言ってエイラは急に顔を真っ赤にした。その仕草がやましい考えが頭の中にいっぱい
なのでとてもとても隣で眠ることができない、というような事情を能弁に語っていた。ゲルト
ルートは得心し、エイラの肩にぽんと手を置くと嘆息まじりにこう言った。
「わたしの部屋へこい」
そして立ち上がると戸惑うエイラの腕をとってさくさくと歩き出した。満月の夜に落っこちて
いるものは絶対にお月様ではなかったがともかくゲルトルートはそれを拾って帰った、という
ことになる。
ゲルトルートはエイラを自室に引っ張り込むなり寝ろ、とたった一言だけ言って再び部屋を出た。
エイラは急のことでわけがわからずに立ち尽くしたが、それはベッドの前であり上官のベッドは几
帳面な彼女自身の手によってきちんとシーツのしわがのばされとても気持ちが良さそうに見えたの
で、彼女に眠気を自覚させる効果があった。ふあーと欠伸して片腕をのばしたら肩から衣服のひも
がずり落ちて間抜けだった。そこで「間抜け」はあるじのいなくなったその部屋でぱたんと勢いよ
くベッドに仰臥すると上質の寝具の肌触りにうっとりとしすぐさま眠りに落ちたのだった。
一方で閉じきらないドアの向こうですべてを見ていたゲルトルートはエイラを気ぜわしくするもの
に関してほとんど意識を持たなかった。無口なやつだ、とエイラのことを決めつけて、考えること
はやめにした。彼女が言葉の中で尊敬を示したりしないことも国柄だとしてとくに意に介さなかっ
た。
「さっさと休まないと職務に障る。おやすみ」
彼女は不機嫌さを努めて言ってみたがそのふりをしているほど怒ってはいなかった。自分の中で変
化しているものを見逃すほどゲルトルートは頓馬ではない。通例となった早朝散歩の最中にもっと
よくそれを自覚した。鈍痛は最初、頭にあったがそれは慢性的な寝不足のせいだと取れなくもない。
だがやがて胸のあたりにまで落っこちてきたところでどうもおかしいと頭をひねった。彼女は勇ま
しすぎる歩みのせいだと思った。だが立ち止まった瞬間にそれはストンと一気に落っこちて胸のと
ころにおさまったのだ。
ゲルトルートは走り出した。あの神経質そうなスオムス人が他人のベッドで眠れるものかと決めつ
けた。
ゲルトルートは勢いよく自室のドアを押し開けた。エイラはまだ眠っていた。それもぐっすりとい
った感じに。彼女は急に自分の行動が恥ずかしくなって赤面した。
窓から見える朝日の昇り具合を見るにそろそろ朝食の時間だった。彼女はまた夜っぴて歩きまわって
いたのだ。
そこでゲルトルートはやれやれ、と困ったふりの一人芝居を演じながら自分のベッドで眠
りこける人物に近づいていった。しかしその寝顔をのぞきこんで驚愕した。いとけない寝顔の愛らし
いことといったらない。ゲルトルートの、思いつめることに疲れ果て青息吐息であったはずの心臓が
感動にはねあがるのがわかった。彼女はたいそうびっくりし、生意気なそいつを服の上からおもいき
り押さえつけた。どくんどくんと鼓動する、その無遠慮なやかましさに、目の前の娘が起きてしまう
のではないかと心配した。そしてもちろんその通りになった。
エイラは唐突に眼を覚ますとむくっと起き上がりすぐにゲルトルートをみとめた。なにせ二人の距離
はとんでもなく近かったから気が付かない方がおかしかった。
「おはよう」
ゲルトルートは平静をよそおって言ったが声がふるえていた。エイラは内心ひどく驚いていたがスオ
ムス的無表情を保ったまま口の中でもぐもぐとおはよう、と言った。また、
「昨日はありがとう、バルクホルン大尉」
とも言ったが当のバルクホルン大尉がこれを聞いていたかは怪しい。彼女は目も当てられないほどあ
わてていたしエイラの声は本当に小さかった。ゲルトルートは寝巻き姿のエイラに自分の数少ない中
から衣装を選んでかしてやり、二人はそろって朝食をとりに向かった。その意外な組み合わせを、そ
の場に居合わせたすべての隊員が好奇の目で追いかけたが、二人は自然と隣り合ってテーブルにつき
黙々と朝食を食べた。
その日からゲルトルートはエイラのことが気になって仕方がない。
訓練中に颯爽と飛び回る姿をいつも視界のはしに捉えて飛び、余暇中に他の隊員と笑い興じる姿をみ
とめては楽し気なその横顔に対し祝福をおくり、顔をほころばせた。
「トゥルーデ、何笑ってるの? あやしい」
いち早く彼女の変調に気が付いたエーリカが指摘したのでゲルトルートは自重した。だがこうも言わ
れた。
「なんだか最近、とても楽しそうね。でも、そうかと思うと途端に顔を曇らせたりして、」
ミーナは夕食のあとのみんなが集う談話室でこっそりとそう、ゲルトルートに耳打ちした。
「何か悩み事があるのではない? あなたがよければだけれど、いつでも相談してちょうだいね、トゥルーデ」
すでに立ち上がっていた彼女はゲルトルートに接吻するため身をかがめていた。それから身体を起こ
してにっこりと笑った。
「ミーナ」
と、坂本が呼んだ。ミーナはおやすみを言うとわざわざ迎えにやってきた坂本の腕をとった。坂本も
ゲルトルートにおやすみを言ったので彼女もまたそうした。談話室をいち早く立ち去る二人の行き先
に関してゲルトルートは思索しない。
そして夜にははじめのときとまったくおなじ状況下にゲルトルートはエイラと出会った。
「大尉は眠らないのか?」
ゲルトルートは前回とそっくりおなじ要領で、エイラを自室へ招き入れた。そしてまた、すぐに出て
行こうとするところを、呼び止めて、エイラがそう言ったのだった。
「ああ、だから気にせずに眠るといい」と、ゲルトルートは背を向けたままきっぱりした声で言った。
「いつ敵が襲ってくるとも知れないんだ。休めるときにはきちんと休む、優秀な軍人たるもの…」
「大尉だって最近はあまり眠っていないみたいじゃないか」
と、エイラがゲルトルートの言葉尻をとらえて言った。礼をかいた行いだが、彼女はベッドに座って
いた。
「そんなことはない、わたしは…」
「眠れないのか?」
その言葉にゲルトルートはふりむいて、毅然とした態度で首をふった。同情されるのは嫌だった。
「どうして?」と、エイラがなおも尋ねた。
「どうということもない。別に嫌な夢をみるから眠りたくないとか、そういうことも…」
「夢をみるのか?」語るに落ちるゲルトルートをエイラは面白がって言った。
「ちっ、ちが…」
「なんだ、大尉は夢を見るのが怖くて眠らないのか」
「怖いだと! そんなことは、断じてないっ!」
ゲルトルートは鶏のように胸をそらしてエイラをにらみ、声を張り上げた。
「だったら眠った方がいい。優秀な軍人は休息だってしっかり取る、そうだろ?」
エイラは眠たげにうるんだ目をめずらしくそらさずに、ゲルトルートに言い聞かせるように言った。
抑揚を欠いていたが、そのことが言葉にさわやかな親切さを与えた感じだった。
「それは…」
「ほら、二人で眠ればたぶん怖い夢もみない」
「何を根拠に、そんなことを、」ゲルトルートは真正面から上目遣いに見すえられて、だんだんし
どろもどろになってきた。
「根拠なんてない。おまじないみたいなもんだな」
と、エイラが言った。あっけらかんとしたその口ぶりには、不思議な説得力があるようにゲルトルー
トには思われた。彼女は口惜しがり、ふんっと、その意見をつっぱねるような態度をとった。それに
対しエイラは、ちょっと肩をすくめてみせただけだった。
「いいから眠ろう。大尉がどこかに行ったら、わたしが場所をとったようで休まらないじゃないか」
「そんな理屈は、」
「じゃあわたしはやっぱり廊下で眠るよ」
「それはダメだ」
「だったらさ」
「…わかった」
その言葉を聞いてエイラはいつものずるそうな笑いをもらした。だがそれは底抜けに明るく、無邪気
なものだった。ゲルトルートはひどくいまいましげな様子でベッドに入った。着衣はすべて解いて眠
る習慣だったが、エイラを驚かせないために下着姿で横になった。二人は背を向けて寝転がる形にな
った。
「バルクホルン大尉、夢っていうのは…」
「大尉、大尉と呼ばれると気が休まらないな」
ゲルトルートは負け惜しみに意地悪をやった。それは話しかけるなという主旨だったが、エイラは額
面通りに受け取ったようで、さらに尋ねてきた。
「じゃあ何て呼ぶんだよ?」
「そういう問題じゃ…」
ゲルトルートは気乗りしない様子で言いかけて、突如としてひらめいた。
そのようにしてこの日から、エイラはゲルトルートのことを職務外でこう呼ぶようになったのだ。
「ねーちゃん、起きろよ」
ゲルトルートは、久しぶりでずいぶん深い眠りの中にあった意識を呼び戻された。目を開けると自分
を覗き込むものがいた。色白の、たいそう愛らしい顔立ちは、無表情くらいではとうてい隠し切れな
い。それにすばらしいノルディック・ブロンドの髪が、さらさらとゲルトルートの頬をかすめたので、
顔には決して出さないまでも、彼女はみっともないくらい有頂天だった。ただ、寝起きのために恥じ
らいの感情が出遅れていたので、だしぬけにこんなことを言った。
「ちゃんと、おねえちゃんと…」
「そんなこと言ってると遅れるぞ」
エイラはもちまえのものぐさで、この寝言をやっつけると、当たり前のようにゲルトルートの衣装を
引っ張り出して身にまとい、起き上がった彼女には軍服を投げつけた。
二人はまたそろって食堂に行き、注目を浴びた。隊員はなぜ二人が一緒にいるのかかいもくわからな
いという様子だったが、この日から、次第に余暇を一緒に過ごすことの多くなったゲルトルートとエ
イラを観察することで、本人たちには出来ないやり方で納得をしたのだった。
―――――――――
「あの二人さあ、最初はどうして一緒にいるのか全然わからなかったけど、なんか最近わかってきたよ」
シャーロットはメンテナンスのために、滑走路まで引っ張り出したバイクの車体の隙間から、向こう
に見えるゲルトルートたちを見つけて言った。あまりよくは見えなかったが、どうやら海に糸をたら
して釣りでもしているものらしい。
「どゆこと?」
シートに座っていたフランチェスカが、たいして興味もなさそうに尋ねた。彼女は上空を飛び回る紋
白蝶を、目で追いかけるのに夢中だ。ずーっと首を回していたが、突然、目の前に太陽があらわれた
かと思うと、まぶしさに視界を覆うより前に、つきぬけるような青空を仰いだ。
「うにゃっ~」
「こらこら、大丈夫かルッキーニ」
シートから大胆に落っこちるフランチェスカを、シャーロットはまるで予想していたかのような正確
さで受け止め、はっはっと豪快に笑った。
「そういえば何か喋ってたよね?」
「うん? そうだっけ? どうだったかなー」
シャーロットはフランチェスカを地面に下ろし、右手にもっていたスパナで頭をかいた。ところがフ
ランチェスカは彼女の思い出すのを待たずに、またしても一匹の紋白蝶を見つけてとりこになってし
まった。嬉々として飛び跳ねるその姿を見つめ、シャーロットはにっこりと笑った。それから何とな
くゲルトルートたちの方を見やると、ああ、と、得心顔になって言った。
「あー、思い出した」
「へ?」
「今日のランチはたぶん魚、だな」
フランチェスカの興味は、たちどころに紋白蝶からはなれて、シャーロットに釘付けになった。その
結わいた髪をかすめ、蝶は高く空へと逃げた。
「どうしてわかるの?」
「どうしてだと思う?」
目をらんらんと輝かせて自分につめよるフランチェスカをなだめながら、シャーロットは工具をしま
いはじめた。
「まほう! それって魔法なの? ねえシャーリー、シャーリー!」
「ふふーん、さあ、どうだかなー」
シャーロットは工具をしまうまでの間もったいぶった。すべて片付くと、自分の服をひっぱって足を
じたばたさせるフランチェスカに工具箱を持たせ、その頭をぽんぽんと二度、ありったけの好意を持
ってたたいた。それから、スタンドを蹴飛ばし、バイクを支えるとこう言った。
「魔法じゃない、ただの勘さ。だけど肝心の調理法はまだわからない。お前は何がいい? ルッキーニ?」
彼女はフランチェスカがしゅんとする前に、彼女の興味の対象を他にそらすことで、空振りの期待を
うまく空に飛ばした。それは見事な手際だった。
「あたしはね、あたしはっ」
「あたしは今日は蒸し魚の気分だなー」
「あっ! 先に言ったー! あたしが言おうとしたのにぃー!」
「へへーん、早い者勝ちだよ」
「あたしはフライだもんっ! 絶対そうだもんっ!」
「おっ、それもいいねえ。ソースはそうだな、バジルソースに…」
「トマトとチーズ、チーズはゴルゴンゾーラだよ!」
「ルッキーニー、お前は天才だなあ!」
「へへーっ」
ハンガーに消えていく二人の後ろで、ゲルトルートは引きを感じた。彼女の釣りはエイラが監督して
いたものだったが、残念ながらこの日の昼食に出た魚は、彼女が釣り上げたものではなかった。
―――――――――
ゲルトルートに打ち解けたエイラは、本当の妹みたいになついた。ゲルトルートは彼女をとても愛し
いと思い、たまには美しさに感服しもした。色白の顔には淡い色の清澄な目が輝き、賢そうな、とき
としてその年恰好に似合わない、深い表情をたたえることもあった。しかしながら、彼女はときどき
本当に子供っぽい話し方や見方をした。そのようにエイラはきわめてユニークで、気まぐれといえる
ほどだったが、しかしいつも優しかった。
一見してふてぶてしくもあるエイラの無表情を、どうかさせるものがあるとすれば、それはもっぱら
サーニャだった。
そもそものはじまりは、おなじ雪国の出身という理由から、なかなか隊になじめないでいた彼女を気
遣った隊長に、「案内役」を命じられたことだ。
その「上官」は、ここブリタニアの前線に配属された当初から、固有魔法の特性により夜間任務に就
いていたため、昼間をほとんど自室で寝て過ごし、他の隊員と接触する機会すらが稀であった。さら
にきわめつけとして、極度の人見知りという性格が、少数部隊であるにもかかわらず彼女の存在を、
まるきり幽霊みたいな希薄なものに仕立て上げていた。
エイラはもとより面倒見のよい性格というわけではなかったし、オラーシャの小説よりも航空術その
他のメカニックに関した専門書の方がより気を惹くに足るものだったので、はじめこれにかかる腐心
はすべて、もっぱら中佐の信頼にこたえるためであったのが本当だ。とは言え、サーニャの行動を「ねむる」
という記載でおわる一日よりさいしょに引っぱり出したのは、まぎれもなくエイラだった。
任務や訓練を終えた後を待ちぶせしては、無口な、顔をあげようともしない自分より年下の、異国の
女の子をサウナへと誘った。エイラはそのときのサーニャの顔にうれしさが兆していることをわかる
ほど、まだぜんぜん彼女のことを知らなかったが、意外なほど素直についてくる姿をみとめると、そ
の「役割」を担うことにまんざら悪い気もしなくなった。
はじめ、それは空耳だと思った。
常に死の危機にさらされつづける戦場に、似つかわしくない、しとやかなその歌声は。水浴びに出た
夕暮れの海で、エイラはかの歌をうたうサーニャを見つけた。
今でもときどき思い出す、あのときのさみしげな表情、彼女の存在そのもののような、儚げでうつく
しい、そのメロディ。エイラは歌に魅了され、すばらしい声を持つ、サーニャの人物にたちまちにし
て惹きつけられた。
そうして見てみると、繊細な声をもつオラーシャ人の女の子が、一体どんな人物であるかよくわかる、
やさしくて可憐なそぶりがどれも大好きになってしまった。
以来、エイラは自立的に彼女を心配し、他の隊員との仲をはかってやりもしたし、病気にかかりはし
まいか、風邪をひきやしまいかと、何かと気を配るようになった。それこそ遅れがちな歩行をたすけ
る母猫みたいに、いつも一緒に時間を過ごし、いろんなことを二人でした。彼女のひかえめな発声に
あわせて、常に耳をそばだてていたし、その唇からとびだす言葉を、まるで神様にするみたいな熱心
さで聞いた。
こうして先に心を開いてみせたエイラに、しばらくしてサーニャも打ちとけた。そのサーニャを、エ
イラは文字通り猫っかわいがりにしたのだった。
任務はつづき、二人はすれ違うこともしばしばだったが、それでも時間をみつけては一緒にサウナに
入ったし、釣りをした。音楽生であったサーニャは、歌と同様、ピアノをとても上手に弾くことがで
きたので、エイラはよく演奏をせがんだ。彼女のほっそりとした可愛い指が鍵盤をたたくと、いっそ
う美しく音が鳴るような気がして、いたくエイラの気に入った。
そのように、あいかわらずサーニャは昼間の時間をほとんど眠たがったが、大きな枕を抱えこんで、
半分眠っているかのようなときも、なぜがいつもエイラの隣で一緒に歩きまわった。
だから、エイラはいつから彼女のことを、「そんな目」で見るようになったのかを忘れていたし、み
とめたくもない。と同時に、夜間任務を終えたサーニャが部屋を間違えるようになったのも、もうい
つのことからか、彼女はさっぱり忘れてしまった。
「うわっ」
ぱたっと隣に人のたおれる気配があって、エイラは半ばとびおきた。確認しなくともそれはサーニャ、
静かにたてる寝息までがすばらしい、エイラの、それは彼女だけのとびきりかわいい魔女だった。眠
気はたちどころに吹き飛んで、あかるい灰色の、くるくると大きな目を瞠る。それというのも銀髪の
うつくしい髪が、投げ出された自らの足へとふれていたからだった。エイラはその、ふわふわした、
やわらかそうな髪だってひどく好きだ。そこからはどことなく甘い香りが立ちのぼり、すぐに彼女を
幸福で満たすことができる。
しかし、わざとぞんざいな口ぶりで「なに部屋まちがってんだよ」と責めると、すくっと立ち上がり、
聞いてもしないサーニャに向かって言うのだった。
「今日だけ、だかんなー」
さっきまで自分の身体にまきついていた毛布を、彼女の身体へかぶせることは、少し恥ずかしくもあ
る。エイラは急ぐ必要もないのにこれをすばやく済ませると、ここのところお決まりとなった場所へ
向かうために、そっと部屋を出ていった。
と、間をおかずにすっかり眠りこけていたはずのサーニャがむくっと起き上がった。たいそう青ざめ
た顔をしていたが、しかしその目はしずかに燃え立っているようだった。サーニャはエイラが出てい
ったあとですばやくドアに近寄ると、そっと引き開いて暗い廊下をのぞきこんだ。エイラが角を曲が
るのをみとめるとすぐに首をひっこめて、ドアの間に指をはさみ、ばんといきなり閉めて、思いきり
指をつぶした。苦痛にぎゅっとつむった目からは、火花のようにきらめく涙がぽろぽろ零れだしてい
た。
ゲルトルートとエイラの二人が隣り合って朝食をとる姿は、すっかり見慣れたものになっていた。
ゲルトルートは食堂にはいってくるなり、きびきびとした足取りでキチンに向かい、プレートをとる
と、寝ぼけた様子のエイラをせっつき、つぎつぎにメニューをそのうえへ乗せていく。エイラはたち
まち好き嫌いをいったが、ゲルトルートはゆるさなかった。ジャガイモみたいに退屈なカールスラン
ト的格式で、ていねいに説きおこすのも聞きなれたものだった。
「どこがいやだって言うんだ? なに、そんな顔をして。ふん」と、ゲルトルートははじめた。
「嫌いでも食べるんだ。いいか、食事というのはバランスだ。
なにかを摂って、なにかを摂らない、なんてことがあれば偏りが出る。何事も基本はこういった些細な―――」
「だってみたのか、これを?」エイラがさえぎって言った。
「ひどい色してるじゃないか。もう、今日は、朝食はいいや」
エイラは食事に関しても全体的には無関心な態度をとったが、今は(彼女の言い方では)ひどい色をし
ている「それ」を、皿の上で転がしながらじたばたしていた。ゲルトルートは、またいつものわがま
まがはじまったな、と思った。
「よくはないさ、ちっとも」と、まるで姉のような口ぶりで言った。
「食事も任務のうちだ、ほら、どうせ食わず嫌いだろう」
そう言って、彼女が自分のカトラリーから食べさせてやるほどの過保護ぶりを発揮しても、もう誰も
それに驚くものはなかったし、エイラもそうして食べさせてもらえるので、ときとして自分の食器を
とりあげることさえ忘れることも、しばしばだった。
エイラはゲルトルートの差し出す手からにんじんのピクルスを食べ、顔を歪めながらもぐもぐやった。
ゲルトルートはそれを横目でうかがいながら、満足そうにうなずき、エイラの皿を自分の方へ引き寄
せてソーセージを切ってやる。
「うー」と、妹の方はうなって少しからだをゆすったりした。相手がぜんぜん自分をみていないのに
気づくとすぐにあきらめた。それで仕方なく言った。
「食べられなくはない」
「だろう? まったく」
「でも色をみただろう?」
「それは、みたさ」と、ゲルトルートは言った。そして皿の上のにんじんをナイフの先で指した。
「ほら、まだこんなにあるんだからな」
「もう、一つだって食べないぞ」
「なるほど、そうか。さあ、それならこっちを食べるといい」
ゲルトルートは切り分けたソーセージの皿を差し出した。それから、真っ白でパリッと音のしそうな
ハンケチを取り出すと、妹の首もとにそれをねじこんだ。やれやれ、と言いながら眉をよせて困った
ふりまでして見せたが、楽しげな様子を隠しきれない。
―――――――――
誰の目にも仲良しそのもののありさまを、しかしさいしょから今にいたるまで、しぶとくねめまわし
続ける人物があった。仏頂面のエーリカが、隣に座るペリーヌに、聞かれもしない不機嫌のわけをい
きなり開陳しはじめた。
「なにあれ、かわいこぶっちゃってさー。ねえ、どう思う?」
エーリカはイスのうえに肩膝を抱えこんだ状態で、ぐたっとテーブルに身体を投げ出し、頭上にフォ
ークをふりまわした。山盛りのマッシュポテトをたたえた皿を、せわしなくそれでたたいたりもした。
「特にどうということもありませんわ。任務に差し障りがありませんのでしたら、好きなことをなさって結構じゃありませんの」
ペリーヌはエーリカの体裁をとがめるような目で見たきり、とくに注意せずことに決めて、自分は立
派なそぶりで料理を口に運んだ。ついでに相手の述懐に対しては、どうでもよい、と言うふうなこと
を言っておいた。だが「少佐じゃなきゃ関心なしってこと?」と、たちまち食ってかかられた。
「へえ、そうか。じゃあ坂本少佐が宮藤にあんなことしたら?」
「なっ! 坂本少佐はそんな真似、決してなさいませんわ!」
「そうは言ってもなー。ほら、だって、二人はいつも隣同士に座っているし、」
エーリカは持ち上げたフォークの先で、すっと彼方を指し示す。ペリーヌは誘われるままその方角を
見やった。満足げにふふんと笑う気まぐれなダックスフントの関心はもう、さいしょのところにはな
い。つまり今やすっかりご機嫌になって、ペリーヌの混乱を誘うことを目指したちょっとしたいじわ
るに夢中だった。
「訓練でずっと一緒にいるし、宮藤のこと、特別に気にかけてるのは間違いないって」
と言うと、睨みつけてくるペリーヌに対しにやりと笑って、「時間の問題だな」と結んだ。
言われてみればたしかに、彼女の視線の先には、隣り合ってさも楽しそうに食事を摂る、扶桑の師弟
の姿がある。そんなことはない、ときっぱり撥ねつけたくもあったが、見ればみるほど親密なその様
子に、千兆の千倍もある否定のことばは、口の中からなかなか飛び出すことができない。
「めずらしく饒舌なのね」
と、言ったのはミーナだった。彼女は自分の朝食を運んできた。狼狽があらわになったペリーヌを通
り過ぎ、いつの間にかエーリカの後ろをとってにっこりとほほえみをたたえながら、部下のすばらし
い姿勢を注意した。
「お行儀が悪いわよ。余所見ばかりしていないで、ちゃんと食べなさい」
「げっ、ミーナ」
エーリカは跳びあがるほどぎくっとして、すぐに短いズボンだけの足をさっと床にふりおろした。し
かし上半身は、べたっと伸びたままだった。
「それで、誰と誰が時間の問題なのかしら?」と、ミーナは言った。
「べ、別になんでも……」
とてつもなく優雅なそぶりでイスにかけながら、さらに嫣然とほほえむと、エーリカは半身をテーブ
ルから引っぱがし、姿勢をそれなりにただしてから猛然と山盛りのマッシュポテトをかきこみはじめ
た。こんどミーナは「あらあら」と笑った。
ペリーヌはしばらく二人を眺めていたが、やがてその笑顔の裏を見透かそうと決意し、皿へかがみこ
んだエーリカのうえからミーナの横顔を盗み見た。とたんにミーナがふりかえり、二人の目がかち合
った。次の瞬間、相手の大きな赤い瞳がカッと見開かれた。ペリーヌは一気に縮み上がって、愛想笑
いもままならないまま、正面に向き直るとエーリカにならった。
≪いっ、いくら相手が中佐といえども、ぜったいに負けませんわ。そうよ、勇気を出しなさい。
大丈夫、あなたは気高く勇敢なガリア貴族。そして恋は勇気よ、ペリーヌ・クロステルマン≫
ペリーヌは自分で勇気づけた。
ミーナはもう必要がないとみてごく平凡に正面を向くと、芳佳の隣で世話をやく坂本を見やった。相
手はすぐに視線に気づき、眼帯を少しうえにずらすと、ふっと篭絡するような気障な笑みを浮かべて
みせた。ミーナはどきっと身体をはずませ、みるみる頬を染めた。みずからの胸をかき抱くようにし
たとたん、その手からナイフがすべりおち、からんからんと床に転がった。
「ミーナ、行儀わるーい」
エーリカは勝ち誇ったように言うなり、「ごちそうさまー」といって、逃げるように去っていったが、
頬に手をあてがってうっとりと目をつむり、もじもじと一人身をよじるミーナはエーリカを歯牙にも
かけなかった。その様子を見て、ペリーヌがすぐさま彼方を見やると、ナイフの持ち方を指導する坂
本が芳佳の手をつつみこむようにとっているのを目の当たりにした。憤慨のあまり飛び上がった瞬間
に、テーブルへしたたかにぶつけた手からはナイフが落ち、かしゃんと耳障りな金属音をひびかせた。
「お行儀が悪いわよ、ペリーヌさん、あなたも」
ミーナはやさしくたしなめると、いつの間に持ってきたのか、すでに別のナイフを手に持ち、貴族の
令嬢も顔負けの鷹揚な仕草で料理を口に運んでいた。
―――――――――
「ねえ、トゥルーデ、今日部屋の掃除手伝ってくれるんだよね?」
「ふむ。そのことなんだが」
ゲルトルートは席を立ったところで揚々と近づいてきたエーリカに呼び止められた。すぐにはっと、
いくぶんまずそうな顔をすると、所在ない感じにもごもご言った。
「悪い。今日はエイラの装備をみてやらなければならなくなってな」
「だって昨日、約束したじゃんさー」
「本当に済まないが……任務にかかわることだ、こちらを優先させてもらいたい。申し訳、ないが…」
「そんなのないよ。先に約束したんだから――」
本当に済まなそうにするゲルトルートを見ると、エーリカは譲る気にはさらさらならなかった。彼女
は片足で片足をぼりぼり掻いた。それは、できるだけ相手の気をそそるためでもあったが、おもに非
難のことばが冗談めくようにするための、ふざけた態度だった。
「頼むから聞き分けてくれ、ハルトマン」と、ゲルトルートが言った。エーリカは掻くのをやめた。
「今の状況、いつ襲撃があるかわからないんだ。早く済ませておかなければ、隊の機能に影響する――」
その言葉に、エーリカは眉をひそめた。もしかすると、エイラを名前で呼び、自分をそうしなかった
のが気に入らなかったのかもしれない。エーリカはとつぜん、自分でもおどろくほど怒りをあらわに
して言った。
「そんなのトゥルーデがやらなくたって整備兵が――――」
「ハルトマン」
嘆息し、ゲルトルートがとがめるように言った。(またその言い方!)と、エーリカは思った。
「わたしのことは、自分でやるからいいよ。約束があるんなら――――」
席についたままのエイラが、ゲルトルートの服をひっぱって、エーリカに対し遠慮がちに言ったが、
ゲルトルートは「そうはいかん」と、すぐさまむきになってそれさえぎった。
「なんだよそれ」エーリカはさも不満げにぼそっと言った。
「ハルトマン?」
ゲルトルートの呼びかけに対し、もういい、と捨てばちに言うと、ぷいっと急に背を向けてつかつか
と食堂を出ていった。
彼女が出て行くとき、入り口でサーニャとすれ違った。こちらはふらふらとおぼつかない足取りでや
ってきた。けれども立ち止まったり、堂内を眺めわたすまでもなくすぐにエイラの姿をみとめると、
他のどこにも目をやらずに一直線にそちらに向かった。
「なんなんだ、まったく」
エーリカの背中を見送りながら、かいもくわからない、と言うように二人は肩をすくめていたが、サ
ーニャがあらわれるとエイラはそっちに気をとられた。
「サーニャ」
と、すぐにエイラが言った。
「おはよう、エイラ。……バルクホルン大尉」
ああ、とか、うん、と言った感じにゲルトルートも応じた。なぜかと言うと彼女に、オラーシャ人の
娘の表情がどこか病的な印象をもたらしたからだ。
「朝食か?」
とエイラが尋ねた。サーニャは小さく「うん」と頷き、しきりにもぞもぞしながら「エイラは?」と
尋ねかえした。そのとき下からのぞきこむようにされたので、エイラは急に顔を赤くした。ばれない
ようにぷいとそらすと、もう済んだ、と、そっけなく言った。
「では行くか、エイラ」
「うん、じゃあサーニャ、また後でな」と言ってエイラは立ち上がった。
「……エイラ」
「サーニャ?」
行こうとするエイラを、サーニャは呼び止めた。か細い声だったから聞きのがしてもおかしくはなか
ったが、だからと言ってエイラが聞きのがすはずはない。それどころか、声の中にこもった不思議な
冷たさまで感じとった。
「一緒に」とサーニャが言った。
「でも…」
驚いたようにエイラは相手の顔をみたが、彼女はサラファンだか、ウールでできた、見慣れないエイ
ラの服の端をつかんでほとんどうつむいていた。言うまでもないがそれはゲルトルートの持ち物であ
り、顔をあげないサーニャは、それがちっともエイラに似合っていないと言いたげにも見えた。その
膠着状態のところへゲルトルートがすぐに分け入った。
「もう済ませたんだ。わたしたちはこれから銃器のメンテナンスに――――」
エイラ、ともう一度サーニャが、断ち切るように呼んだ。サーニャはエイラの服をひっぱってはなそ
うとしなかった。声は相変わらずとてもちいさく弱々しげだったが、しかしゲルトルートに対しがん
として譲らないふうだった。それで、上官にさながら身構えるような格好になった。ゲルトルートの
顔に、にわかに血がのぼってきた。苛立たしげに彼女は言った。
「リトヴャグ中尉、エイラは――――」
「いやっ!」
ふいにサーニャが悲鳴のような声をあげた。だが偶然にもまったく同時にサイレンが鳴りひびいて、
大きく痙攣する音波でたちまちそれを打ち消した。
「敵襲か! 出撃準備!」
坂本がそう号令すると、隊員たちはすぐさま飛び出していった。悲鳴を聞いたのはエイラとゲルトル
ート、そしてサーニャだけのようだった。その三人は、未だ鳴り止まないサイレンに身を震わせてい
るように、突っ立ったままでいた。
「なにをしているの、あなたたち!」と、呼びかけたのは隊長だ。
「ああ」
ゲルトルートが間髪いれずに応じたが、その目は驚きのあまりサーニャに釘付けだった。ミーナはた
だならぬ雰囲気をみてとると、こう指示した。
「サーニャさんエイラさんは基地に待機、もしもの場合に備えて。バルクホルンはすぐに準備にかかりなさい」
「しかし」
「急ぎなさい! 命令です!」
「わかった」
ミーナが厳しく追い立てると、ゲルトルートは暗い声で、だがきっぱりと応え、二人を一度だけ振り
返って出て行った。ミーナはそのあとについた。表情は険しかったが、先を走るゲルトルートの背中
に複雑な視線を投げかけていた。
エイラはその間中、サーニャから目をそらせなかった。相手は深くうつむいていて表情がまるでわか
らない。エイラはどうしていいかわからなかった。さきほどの悲鳴が、夢のような気もしていたが、
さしあたりはそれが誰の耳にも届かなかっただろうことを思って安堵した。窓の外を見ると、飛んで
いくウィッチたちの姿が見えた。エイラはサーニャとの隙間をもうちょっとだけつめて、肩にそっと
手をおいた。痛くすると困るから、そっとだ。
「……めん…さい…」
「え?」
「……ごめんなさい」
「いいって」
エイラはサーニャのことばを一日千秋のおもいで待ちわびていたから、声を聞くなりふっと気を抜い
てしまった。次の瞬間、軽く置かれた肩の手からのがれるようにしてサーニャは倒れた。
今朝方、またも予期せぬ侵攻をみせたネウロイは、ハンガーにいたシャーロット、フランチェスカのす
ばやい出撃によって無事撃退されたとエイラは知らされた。その彼女はいま医務室にいた。報告、自慢、
偵察、元気付け、なんと呼んでも間違いはないが、一等先に病室を見舞った好奇心のかたまりであると
ころのこのペアは、だがおおいに面食らってそこを後にしていた。
サーニャが倒れたとき、気を抜いていたせいで受け損じるかと思った瞬間から、完全に血の気が引いた
病人より病人らしい顔つきをエイラはしていた。しかし実際には、なんとかその腕をつかむことで床へ
ぶつけることだけは防いだし、それから彼女の信じられないほど軽い身体を抱えて医務室にかけこむま
での迅速な働きは、誰に責められるべき一点も見当たらない。その彼女を、呼吸することを忘れるほど
に打ちのめしていたのは、あれほどいつもいつも気にかけている「つもり」でいて、サーニャのそんな
調子をどうして気が付いてやれなかった! という自責の念だ。
そうしてミーナが見舞ったとき、エイラはベッドの傍らにほとんど身動きもせずに座っていた。一度、
入ってきたミーナの方をぼんやりとした目で見やったが、その顔は先のふたりが目撃した通り、ひどく
青ざめて茫然自失のありさまであった。ただ、看病をかわるか、という旨の問いかけに対しては堅く首
を横にふった。
慢性的な睡眠不足のせいで消耗した魔力がまったく回復していない、というのが、今は半ば暴力的とも
言える眠りの中に沈むサーニャに対し、軍医の下した診断であった。そのため情緒がひじょうに不安定
になり神経性の熱病まで罹患しているが、魔力が回復ししだいすぐに快方に向かうだろうとの見積りか
ら、これについてはあまり問題視されなかった。ついては不眠状態にある精神の抱える「心配事」が注
目に値した。だがそう、医師に指摘されるまでもなく一刻もはやく原因を取り除かなくてはならないこ
とはミーナにもわかっている。
彼女は医務室を辞すときもう一度エイラの背中に声をかけたが、相手は聞いているのかいないのかわか
らない返事をしただけで、今度は振りかえりもしなかった。
両開きのドアをそっと正面で閉じあわせると、窓からさした夕陽の光線が憂いたっぷりに散らばる通路
の上を、ミーナは急ぎ足で歩き出した。彼女は抱えていた三つの仕事の内、これで一つを済ませたこと
になる。次のきわめてやっかいな心配事は、さて、どこにあるだろうか。彼女は捜しまわった。
夕暮れの滑走路には強い海風が吹きつけ、すぐにミーナの深い赤色の髪をうつくしく乱した。立ち止ま
り、髪をなでつけながらふと海の方を見やると、髪の色が風に持っていかれ、不規則な表情をした空を
いっぺんに真っ赤にした。その中でミーナの燃えるような瞳は澄み、埠頭にぽつんと座っているエーリ
カの小さな背中を見つけることができた。
ミーナは得心が行き、その反対側の暗がりに目をやる。ふう、と一度ためいきのような深呼吸をしてか
ら再び歩き出した。18歳の女の子にはいささか不似合いな威厳を保つのに、背中を押す強風が役立った。
ゲルトルートはハンガーにいた。
「トゥルーデ」
ミーナはできるだけ気さくな感じになるように呼びかけたが、出てきた声はやっぱりその表情通りの重
苦しさを半分以上もかむっていた。調合的には最高の水準に達していたといえる。そして相手は一瞬び
くっと肩をはずませてから、もの思わしげな顔をあげた。しかしすぐにまた目を伏せると、平然とした
口調をよそおって型通りのことを訊ねた。
「ミーナか。リトヴャグ中尉はどうだ」
「寝不足らしいわ。あまり心配することはない、ということよ」
そうか、それはよかった、と、ひどく沈んだ声でゲルトルートは言った。どうやら他にもくるおしいほ
ど知りたいことがあるような様子だったが、それを聞き出すのがおそろしかったらしい。沈黙がおとず
れた。ゲルトルートは目を落としたままで臆病な笑いをこぼした。
「送弾不良を起こしていたようだが、どうやら出撃中に整備兵が直したらしいな」
とつぜん彼女はそう言って、手にしていた6kgもする短機関銃を下へおろすと、いっそうシュンと耳をた
れた使い魔をひっこめた。それで、ミーナはゲルトルートの感情の振幅を知る手がかりを一つ失った。
が、彼女はめげずに、すかさず引きとって言った。
「トゥルーデ、あなた近頃、エイラさんと――――」
「あまりプライベートなところに立ち入ってもらいたくはないな」
ゲルトルートは相手のことばを打ち消すように、語気するどく一息に言った。依然として顔をそむけた
ままだったが、おそらくは視野の端にとらえられた位置でミーナはぴくりとした。
「ええ、でも…」
個人的な感情により隊の士気を下げさせるわけにはいかない。それはいささか無粋な忠言であるが、し
かしミーナはこの隊を取りしきる者だ。それこそ私的な感情に負けて看過するわけにはいかない。正し
いことを選ぶことが、最上ではない場合がある、わかっていても、ゲルトルートの物言いはひどくショ
ックだった。結局彼女は、あいまいな調子でむにゃむにゃと発声するのが精一杯だった。
「言いたいことはわかっている」
ゲルトルートは二度目の沈黙も蹴散らした。神経質そうに鼻をならした。それは自分自身を笑いたいと
でもいうような振る舞いであり、もちろんそんな弁明めいたことなどしないほうがマシなことは、彼女
自身わかっていた。と言うのも、すぐにとりつくろうようにミーナを見やり、ことばを刻みながらこう
言った。
「だが少しだけ――そう――少し、ほうっておいてはもらえないだろうか」
「ええ、そうね、あなたの気持ちは…けれど…」
「ミーナ!」
ゲルトルートは急に激した口調で叫んだ。ややあって「すまないが」と震える声でつけくわえたなり口
をつぐんでしまった。これ以上、一言も喋る気はないというように伏せられたその顔は、相手をもう、
ちらとも見なかった。
ミーナは打ちのめされたような顔をしてゲルトルートを見つめながら、そのままさらに五秒ほど佇んで
いたが、一歩、二歩とひじょうにゆっくり後退すると、逃げるようにして身体を反転させた。去ろうと
しかけたその目に、ふいに入り口の影から飛び退くものがわずかに見えた。案の定、彼女がハンガーを
出ると、基地へと一目散に走っていくエーリカの後姿があった。こうして、二つ目の仕事は不首尾に終
わった。
芳佳との一件が解決して以来、平安だった睡眠が、いつから悪夢に侵されるようになったかをゲルトル
ートは知っていた。
妹のクリスが目覚めたとの知らせを受けた。前回見舞ったときは、かたくなに閉ざされていたその意識
が回復したらしかった。つまり、もう自分を自分と認識してくれるその目が、開いたのだと。そうとわ
かるとゲルトルートは怖気づいた。会いたいと、すぐさま飛んでいきたいと思う気持ちを踏みつけにし
て、塞ぎ虫が首をもたげた。「それ」が言うには妹を病床に臥せるほど傷つけたのは彼女自身だった。
すると悪いふうに感情を捏造された記憶ばかり、彼女の頭の中に縮こまり、やがて胸へと殺到してきた。
質実剛健な軍人たるところのゲルトルートは、ひとまずそれらをベッドの下に積み上げることで自らに
対して隠蔽を試みた。その夜、またあの夢を見た。
その日からまたゲルトルートはなにもかも自分のせいにしはじめて、周りを見る目がめしいた。彼女は
これまで自らが抱えてきた理想が、現状から遊離し、孤立していたという考えにとりつかれた。その焦
燥が、再び隊列から彼女をはみ出させてしまった。このままでは作戦に出すことは無理だ、と指揮官は
告げた。すべてを喪失する恐怖にみまわれた戦いぶりはさらに凄惨きわまり、何度目かの譴責で、次は
ない、と決めつけられた。
吐き気を催すほどの弱気はいや増しに高まり、悪い夢を眠るたびごとに必ず見た。その中からしだいに
妹の姿さえなくなって、ひどく抽象的な形相を呈すころには、夜をあてどもなくさまよい歩く習慣がす
っかり身についてしまっていた。
黒い綿のような夜がもう、うんざりするほど続いており、空なんてちっとも見ていなかったのに、なぜ
だかその夜、満月が出ていた。そこにまるで月光に射落とされた星のように、うちしおれ、転がってい
たものを拾ってかえると、「それ」はしばらくぶりの安眠をもたらしてくれた。さらに自分のことを
「おねえちゃん」と呼ぶ「それ」は、心の中に巣食う虫から目をそらしつづけるためにおおいに役立った。
かわいい妹の姿が目の端にでも入るならば、ゲルトルートの飛行は最高だったし、戦闘での無茶な振る
舞いも再びなりを潜めはじめた。ただ摂るというばかりだった食事はとびきりうまかったし、暇を憂鬱
に支配されることも少なくなった。むろんそういった快さが、内面にするどい屈折を隠し持っていたこ
とは確かであるが、それゆえにいっそう固執しなければならなかったのもまた事実だ。
しかし相手の目ざましいまでの、自分とかけはなれた気質は、ゲルトルートの中でなにかを変えていっ
た。旺盛な好奇心と混じりけのない真実を見せる、健やかな考えの持ち主は、さわやかな風のように彼
女の心をゆさぶる、まったく新しい存在だった。例えばあの満月のように、ありきたりのものに高い意
味を、ふつうのものに神秘に満ちた外観を、エイラは与え、もはやそんな一瞬一瞬は、なにものにも代
えがたい喜びをもたらしはじめた。ことに天使のような顔や無垢、感動をあたえる頼りなさは、思いも
かけず彼女の気質に合致したのだ。
そのようにして、彼女は偽者の妹を寵愛したが、日増しに強くなるある類の感情をまったく理解しなか
った。尚武なカールスラントにあってエースと呼ばれる彼女には、そういったものごとを深く考える暇
など一度もなかった、と言えなくもないが、多くは彼女がとくに姉馬鹿だからということと、生真面目
なその性格に由来していた。
ゲルトルートはミーナが去ったしばらく後でハンガーを出た。とたんにものすごい熱さの風が顔に吹き
つけたかと思うと、それは空気の中にある、恋の気配だった。
朝のサーニャの悲鳴はそのじつ、場にいたすべてのものの耳にあまねく入って、およそ一人の例外もな
く驚きの目をみはった。今やゲルトルートとエイラの昵懇ぶりは周知のことではあったけれど、未だに
いろいろなことが噂され、観測がなされ、空想されていたのは、そこに誰にとってもたいへんな心配事
が潜んでいたからだ。
しかし、それが今朝、衆目のもとついに爆発してみると、そのことを直接口に出して心配することに誰
もが恐怖しはじめていた。彼らはまず、任務が万事とどこおりなく遂行されたことに普段以上歓喜し、
そのあとの手持ち無沙汰の時間にも、この問題について一言も語らず、まるで自分たちが、技師やパイ
ロットという頭脳や雄志ですべて出来ているのであって、女の子ではないみたいに、空模様やエンジン
の調子だけを話題にしつづけた。
ようするにそれくらい彼女らは女の子であったし、この不穏な出来事の奥に、自分の恋の不安をみない
ものはいないくらいであった。
●
「サーニャちゃん、だいじょうぶかな」
これで十回、いや十五回にもなるだろうか、芳佳がまたもや言った。その度に作業の手をとめ、無意識
にエプロンの紐をほどき、わざわざきちんと結び直したりしている。
「バルクホルンさんも。どうしちゃったのかな、ケンカでもしちゃったのかな」
呆けたようにつぶやいて芳佳が完全に手ばなした仕事を、補うようにテキパキと働きながらも、リネッ
トは眉尻を下げ、こちらも幾度目かになる相槌を打った。芳佳があるまじきことに、隊員の中でタブー
であることを易々と口にすることが、リネットをじりじりさせる。反面、彼女にはよくわかっていた、
それは芳佳の真っ直ぐなところ。それよりよっぽどわからないのは、今朝のネウロイの来襲の方だ。
ところで、その調査に奔走する監督が不在だったので、この午後の訓練は中止だった。そこで、リネッ
トはサーニャを見舞ったさい、元気づけに彼女の領土料理をつくると、傍らにはりついてはなれない
「世話役」に請けあってきたので、今はすぐさまこれにとりかかっているところであった。
つまり、いささか不謹慎ながら、リネットはもろもろのお陰をこうむり、芳佳を独り占め同然にするこ
とができたのだ。
キチンに差し込んでいた夕陽がすぐにでも空の向こう側へ沈もうとしていた。間もなくこの場所にたま
った熱も、夜に冷まされてしまうだろう。リネットは窓の外を見やり、身震いした。
「ねえ、芳佳ちゃん」
「なあに、リーネちゃん?」
そんなことを訊くのははしたないと思ったけれど、彼女は是非知っておかなくてはならない、という気
がしていた。気兼ねから、今やほとんど怒ったように眉をひそめていた。そんな感情のこわばりを意識
してか、絶対に相手の目を見まいとしたままで、遠慮がちにこう訊ねた。
「芳佳ちゃんは、すっごく仲の良い友達と、他の子が一緒にいたら、嫌な気持ちになったりする?」
「えっ、ならないよ!」
リネットは、恋に病みわずらった胸を真っ二つに裂いてみせたつもりであったのに、芳佳は一顧だにせ
ずにそう答えた。ときどきリネットは芳佳を大嫌いだと思うことがある。
「どうして?」
と言ったものの、もうあまり知りたくはなかった。
「だって、すっごく仲が良いんでしょ? それなら三人で一緒にいられるんじゃないかな」
「…そう、そうだよね。友達だったら、そうなんだよね…」
溜め息まじりにつぶやくと、リネットはまるで理不尽なことで叱りつけられた犬のように唸り、またそ
のようにくすんと鼻をならした。目の前に置かれた銀製の調理用ボウルに、相手のとぼけきった表情が、
たいそう歪んでうつっていた。なんという憎らしさ、だがそれが、どれほどの可愛いさに原因している
か知れない!
「どうしてそんなこと聞くの?」
リネットの気持ちを知ってか知らずか、芳佳は大きなくるくると良くまわる明朗な眼で見つめ、いぶか
しげに小首をかしげる。リネットが横目で覗くと、その中に心配が揺らめいているのがわかった。彼女
のやさしさが、真っ直ぐさがこんなとき、なんと残酷なことだろうか。
「どうしてって…」
「リーネちゃん?」
「ううん、なんでもない。そっ、そんなことより急ごう、芳佳ちゃん」
リネットはぷいっと背を向けると、手でこねていたものを火に入れた。不安は怒りに変わり、だがすぐ
に涙腺をくすぐるかなしみに取って代わられたのだ。
芳佳は何やらはっきりしない仕事をまだつづけて
いた。その大半が、つまりはエプロンの紐を解いたり、結わえたりしながら、頭を抱えるところにあった。
しかし今度は、どうやらそれさえほっぽり出して、目の前にあらたに生じたじつにわかりかねる問題に
手をのばした。それはリネットの背中で綺麗に括られていた。
リネットはそのまま移動し、手を洗い、ブリタニア風の刺繍のついたエプロンで手を拭いた。瞬間、反
対方向へ同時にひっぱる力に、紐がはらりとほどかれた。リネットは振り返って芳佳を見た。射るよう
な表情が、その青い瞳にあらわれていた。
「でも、リーネちゃんが他の子と一緒にいたら別だよ、誰が相手でも、わたし嫌だよ」
「どうして?」
「だって」
「だって?」
「だって、好きだから」
リネットは晴れやかな顔でにっこり微笑んだ。だがその余裕にみちた表情と裏腹に、頬は赤く燃えてい
た。まるで料理に使うポルト酒のビンを一人でからっぽにしたみたいだった。彼女はまだ今朝のような
ことが妬ましくて胸がやけたが、つとめて思い出さないことにした。よくよく考えてみれば、誰だって、
誰かを愛でたくてたまらないのだし、芳佳は当然のこととして、リネットのものなのだ。
「わたしも、芳佳ちゃんが」
リネットは言いかけて、そのまま口をつぐんだ。少女らしいごく当たり前の恥じらいが、彼女の胸の中
でふくらんで息をつまらせたのだ。芳佳はそれを認めたので、相手がことばの途中で口ごもっても、委
細かまわず手を握った。それから一気に二人の距離を縮めた。リネットをかかえ込み、彼女の髪の毛に
頬をこすりつけた。するとふいに、周りが静かになった。とぼけて大胆不敵であってみても、芳佳もま
た、恋に心をそっくり奪われたひとりの虜だったのだ。
リネットはしばらくして天火を見やった。とたんに、中に放ってある小麦粉を練ったものがちりちり焼
ける音がした。
「嫌だった? 朝のこと」
芳佳は、二人のあいだでぺしゃんこになった、リネットのまるまるとした胸を心地よく感じながら、自
分からその話を持ち出した。
今朝のテーブルマナーについて、他の人に指導を仰いだこと、作戦中に疾
風にとりまかれて、思わず隊長の胸の中に飛びこみ、うっかり(ちゃっかり)それを鷲づかみにしたこと、
また、全員が撃墜の喜びを分かつさい、真っ先に撃墜者であるシャーロットのたわわな胸へ突撃をかま
し、どさくさでそれを鷲づかみにしたことなど、芳佳が今朝中に働いた失態の数々を、リネットはすっ
かり思い起こした。今朝というならばそれだけでも、しかし昼食の席に同様なことがあったことを思え
ば、きっと彼女の自覚の中に、ひとつめは入ってすらいないのだろう。
しかし、完全に自分の責任となる、こと熱病のような事態に関しては、相手のことを責めたってどうし
ようもない。それにあんまり彼女が好きだった。
「いやだった」
と、リネットは甘えるように言って、相手の腰のあたりに腕をまわした。
「ごめんね、わたしそんな気で……さみしかったの?」
芳佳は甘やかすような声で言った。
「さみしかった」
「じゃあ今からは、リーネちゃんの思い通りにしよう」
何をしたい? と今や芳佳は、まるで二人だけの秘密を喋るような素敵な声音で言うのだった。リネッ
トはそのすばらしい提案を聞きながら、ほんの少し身をよじって、相手の腕の中に縮こまった。そして
思い通りになった「今」の瞬間から最初の言葉を考えていたが、芳佳をどうしていいかわからなかった。
その芳佳はすでに、リネットの耳の横の髪を噛んだりしていたので、リネットはただ「うー」と言って、
自分の優柔不断にもだえることしかできなかった。それからただ単に、
「一緒に…」
と言った。芳佳はもちろんうんと言って、リネットがおとなしくしているのをいいことに、今度はちょ
っとつま先立ちして彼女の耳と首のあいだにキスをした。芳佳がそんなふうに欲しがることはめずらし
い、何かが彼女を不安にさせているのだ。
二つの心臓は互いに相手に聞かせようとしてさかんに打った。なので、二人はそのまま、何も言わずに
じっとしていた。
リネットは幸福の内にあって広がる、内心の暗がりで考えていた、なぜ一緒にいるだけではまずいのか。
障害ならばすでに山とあるような恋なのに。もしかすると、彼女のそう、愛らしさに、ほとんどみんな
当てられてしまったっておかしくはない。リネットはおそろしくてしようがなかった。それを予防する
ために、考えなければいけない破局がたくさんある。でもどうしたって彼女が、たとえ他の人たちと一
緒にいるときでも、わたしのことを考えてくれる、そうでなくっちゃ嫌なのだ!
天火の中からおいしそうな匂いが漏れて、キチンの中にぎっしりつまり、抱き合うふたりの間にも強引
に分け入った。リネットはサーニャのことを心配する。彼女の悲鳴を一番理解したのはリネットだろう。
ついさっきまでの彼女は、サーニャの苦痛の中にすっかり入り込んだような気になっていたのだ。恋を
邪魔するものならば、たとえ上官であれ、友達であれ、すべて不倶戴天の敵だった。その共振する想い
がつめこまれ、ふつうより大きめのピローグが焼き上がるだろう。
リネットは、相手の背中でぼんやりといじくっていた扶桑の奇妙なエプロンの紐を手ばなし、恋人をぎ
ゅっとした。そしてこう思った。
(明日もきっと二人で訓練を頑張ろう。それからまたあの場所に座ろうね)
「好き」
と芳佳が勝手に二回目を言った。リネットはまだ今日、言わせてもらえていなかった。ときどきリネッ
トは芳佳を大嫌いだと思うことがある――――愛しくて―――。
●
「こら、お二人さん」
はっとして、幸せな二人のコックが、ぎこちない仕草で、だがひじょうに素早く互いの身を手ばなすと、
食堂の側のカウンタごしにシャーロットがのぞいているのを同時に認めた。
「なーんかいい匂いがするなーと思ってきてみたら」
シャーロットはわざと、大げさな無遠慮をよそおい、多少とも好奇心ありげにそう言ってにやりと笑っ
た。大きく見ひらいた二人の目は、後ろですでにテーブルについたフランチェスカが、おなかすいたー
と言ってわめいている姿まで認めた。それからようやく顔を真っ赤にした。
「ていうか、なんか臭くない?」
コックは顔を見合わせて、あっ、と叫んだ。そして急いで天火を開けるが、やっぱりピローグは真っ黒
焦げだった。
シャーロットはふっと複雑な笑みを浮かべると、ご機嫌でテーブルをたたき、食事を催促するフランチ
ェスカに歩み寄った。
「どうやらまだかかるみたいだよ」
「そんなー、おなかすいたー」
「そうぐずるなって。ほら、レーションのビスケットならあるぞ」
「いらないー」
期待を裏切られた子供もはぷうっとふくれ面をして、差し出された食べものをほんとうはちょっと欲し
くても、つっけんどんに押しやることで目一杯の不服を表明してみせた。シャーロットはそれをポケッ
トへ戻す格好のまま、自由な片手でフランチェスカの髪をくしゃくしゃにした。それからキチンの中へ、
楽しげに働く二人を見比べるような視線を送り、独りごとを言った。
「なんにしても、こっちはいい風に収まったみたいね」
「なにが?」
「ううん、いやさ、二人はいつも一緒だなって」
シャーロットはどう言ったものかと考えながらそう言った。
「芳佳とリーネ? 階級が同じだから? 訓練が一緒で、料理が得意で、好きな遊びが同じだから?」
「総じて、精神構造の点じゃ、ひじょうに良く似ている、と言うことができる」
相手の口から飛び出すどの意見にも、漏れなくふんふん頷いていたシャーロットは、さらにことばを引
き継いで、やたら難しそうな表情を作ってそう言った。それはお笑い種、といった感じのものだったの
で、意味はわからずともフランチェスカはきゃっきゃと笑った。
「見てご覧、二人はまったくそっくりだ、それもお互いを補うように、うまいところばかりがさ。
「ようするに、シャーシーとエンジンはお互いに補い合うように、一つのユニットとして作動するように設計するべきなのさ」
とシャーロットが言った。少し頭をひねってから、フランチェスカは当てずっぽうに訊ねた。
「それって連携技のこと?」
「もちろん、ガッティーナ、おまえってほんとうに可愛いくせに、どうしてそんなに賢いんだろう?」
「でも、それだけじゃないよ」
当然たっぷり甘やかされた後では、仔猫のご機嫌は元通り以上のものになっていた。その彼女が次に、
声をひそめて内緒をしたいふうだったなら、シャーロットはすぐにでも身体をこごめて耳を貸してやる
のだ。
「だって二人は恋人でもあるんだよ。恋人ならいつも一緒にいたいでしょ?」
フランチェスカは得意満面にそう言うと、勢いこんでつけ足した。
「あたしもシャーリーといつも一緒がいいもん!」
「ようし、それじゃあ夕食までの間、一緒に昼寝でもしようじゃない。あっちもまた二人きりにしてあげようよ」
シャーロットは空腹でふにゃふにゃになったフランチャスカを抱き上げて、食堂をあとにしながら考え
た。では、性格もまるで噛みあわない人間同士、どこまでうまくいくものだろうかと。なぜ例の二人が
一緒にいるのかは、しばらく観察していればすぐにわかった。彼女らは連れ立って外出したり、散歩し
たり、立ったり座ったりし、謹厳に偏ったり、やたらうちとけたり、熱心に会話したりしていることも
あったが、シャーロットの目にそれは単に、自分の影を踏まないように気をつけて歩いているようにし
か見えなかった。二人が一緒に歩き、たまたまその歩調を合わせることが容易だっただけなのだと。よ
うするに、ゲルトルートとエイラはどこか、絶対的に噛み合わせてはいけない部分が、決定的に良く似
ていたのだ。望ましく異種の材質で噛み合わされているギアも、小歯車が頑丈なものでなければすぐに
磨耗してしまうだろう。時間の問題だ。
シャーロットは人知れず哀れむような微笑を浮かべた。彼女はその場面に遭遇しないまでも、今朝起こ
ったことに凡その察しがついていた。病床のサーニャに、エイラの顔面蒼白、そうでなくともカールス
ラント組は格別に妙で、隊長はそわそわし通しだったし、中尉はおかしなほど機嫌を損ねているふうだ
った。何より当の堅物大尉ときたら――――――機械なんててんでいじれやしないのに、自分たちを追
い出してまでハンガーに居残ったゲルトルートは一体、何をしたかったのだろう。今度のことで、誰が
誰にどの程度の同情を寄せているか定かではないが、少なくともシャーロットはそれが第一に気がかり
だった。胸の中で心配性のウサギが絶望的な跳躍をしている、どれもこれも、杞憂だったらいい。
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結局この日の夕食は、豆のスープやブリアニア風の焼肉など、簡易な料理が出されたが、欠席者だらけ
で、不平を言うものがなかった。それに、リネットは今度、芳佳の隣に席をとったので、相手ばかりを
むしゃむしゃ食べて、ほかの料理はことごとく箸もつけづにさげてしまった恰好だった。