ロシアンブルー
ねこになりたい、できることなら。
そんなことを思いながら、私はエイラの顎の下辺りに額を寄せた。
ベッドの上に座り込んで大きな水晶玉を眺めていた彼女がビクリと跳ねる。
さーにゃ。おどろいたのだろう、少し震えた声で呟かれた。私は黙ったまま彼女の肩口に頬を擦り合わせる。
どうしたの?
すると、私の気持ちなんてかけらもわからない、と言った素振りでそう尋ねて来るのだった。
私は黙って彼女からする、不思議と甘い香りに目を閉じている。
眠いの?
重ねて尋ねて来る、エイラ。
ああもう、言いたいのはそんなことじゃ、ないのに。
伝えたい気持ちがいっぱいある。それは胸から止めど無く溢れて止まらない。それでもうまく、言葉にできない。
違うの。
ただぽつりと、それだけを答えた。
ぱ、と自然な動きで彼女が水晶玉から手を放した。傍らに置いて私に向き直る。
伸ばされた手が頭上に伸びて、ふわふわ、ふわふわ。私の頭をゆっくりと撫でてゆく。
彼女の言葉は不器用で、彼女の動作はいつだってどこか拙い。…それは私からの評価では決して無く、
たぶん彼女こそが常に感じていることだ。伝えたい、伝えられない、どうしたらいいのか分からない。けれど
何かをせずにはいられなくて、困ったように差し出す手だとか、言葉だとか。そんな言動の節々に私は、
彼女が私に受け渡し損ねた気持ちのこぼれ落ちるのを見る。きらきらとして温かい、ふわふわとして柔らかい、
エイラの本当の気持ち。蜂蜜をたっぷりこぼしたミルクのように胸いっぱいに広がって、私の心を溶かしてゆく。
どこまでも幸せで、満ち足りていて。涙が零れ落ちそうになるくらいなのだ。
エイラ、私。
ようやっと口を開いたらエイラは耳を寄せてくれた。
二人きりのときはいつだってそうだ。あまり通りのよくない私の声を一つでも聞き逃すまいと、彼女はそうする。
よく聞こえないなどと決して咎めたりなどしない。ただただ私の口許に耳を寄せて、静かに私の言葉を待っている。
人はそれを、「甘やかしている」と言うのかもしれない。…その通り、確かにエイラは私に甘いのだ。本人にはきっと
その自覚はなくて、彼女は彼女の思うままに行動しているだけなのだけれどそれでもそのようになってしまうのは、
ひとえにエイラがもともとひどく優しいひとだからだ、と思う。ただ、すごく照れ屋さんなだけで。自分の差し出した優しさを、
ぶっきらぼうな言葉でごまかしてしまうだけで。
エイラ、
エイラ、
わたしね、
わたし、
続けようとした台詞は、どうにも声にならなかった。どうしてかは分からない。たぶん深い理由があった訳では無い。
ごまかすようにまた頬を擦り寄せる。まるで飼い主に甘える猫のように。
くすぐったいよ。エイラは笑った。小さな子供のような笑い声をあげては、肩を震わせた。
額に触れたエイラの頬がほんのり熱い。たぶんこそばゆさに上気しているのだろう。薄く目を開くと目の前には、
エイラの透き通るような白い肌があった。私に負けないくらい色白な彼女が頬を朱に染めた様が誰よりも、何よりも、
愛らしいのは私だけが知っていればいい。私だけが、わかっていればいい。他の誰にも言わせはしない。この人の
素敵なところは、私が独り占めにしていたいのだ。臆面もなく人の膝に座する猫のような気持ちで私はそんな事を
思った。もちろん相手方にそれが伝わるわけがなかったから、エイラは穏やかに微笑んで私の髪を撫でただけ。
エイラ、猫は好き?
不意に言葉を提げ返る。…もしかしたら予知していたのだろうか、それともただの偶然だろうか。エイラは何の躊躇も
なしにはっきりとこう答えた。うん、好きだよ。猫は好きだ。
なぜだろう。その一言に私はひどくほっとしたのだった。もしも今、私が魔力を使っている状態だったらきっと私の尻尾は
喜びと幸福すぎることへの戸惑いに忙しなく揺れてしまっていただろう。服従に耳を垂らして、そしてやっぱり頬を摺り寄せて。
エイラ、わたし、あなたのねこになりたいの。
どうしてか言えなかったその言葉を、心の中で呟いた。
あなたの猫になりたいの。足の許で、膝の上で、腕の中で、存分に甘えて体をすり合わせるの。
そうして私の満足するまで、ずっとずっと傍にいて離さない。きっと優しいエイラは困ったように笑って、それでも頭を
撫でて許してくれるだろう。
寂しい夜はあなたの傍で、うずくまって一緒に眠る。言葉なんていらない。胸をいっぱいにするこの気持ちを、彼女の
傍にいる事で伝えるのだ。
サーニャ。
エイラが私の名前を呼んだ。なあに?答える代わりにベッドの上に置き忘れてあった彼女の左手を握る。
寂しいの?
ああ、もう、本当にこまったひとだ。私の気持ちを何一つ汲み取ってはくれないのだ。
そのくせ頭を撫でていた手は当然の事のように背中に回して、あやすようにゆっくりと撫でてくれている。一度スイッチを
いれてしまったら決してそんなことはしてくれないくせに、何も考えていないときのこの人ときたらひどく積極的で
私の方がうろたえてしまう。厚手の生地のパーカーは暴れる私の心臓を阻んでくれているだろうか。この間の休日に
二人で買いに行った。似合うよ、と笑ったくせに、お揃いだねと言ったら顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
寂しくないよ、あなたがいてくれるなら。
言葉にする代わりに耳元に唇を寄せる。ビクッ、と大きく跳ねる彼女の頭に、照れくささに垂れ下がった黒い狐の耳が
見える気がする。その奥には、パタパタと落ち着きなく動くふさふさの尻尾が、見える気がする。…もちろんそれは私の
幻想に過ぎないけれども。
「 」
耳元でささやいた一言で、エイラの動きが止まった。
彼女にとってはたぶん、とてもとても大切な意味を持つ言葉だ。かつてロマーニャ出身のあの子が声高に叫んでいるのを
聞いて、「ああいうのはあんなに軽く言うものじゃない」とぼやいていたのを、私は目にした事がある。
サーニャ。
うわごとのように口にしたエイラが私の背中から、手から、自分の両手を離そうとしたのを感じて、私はぎゅうと彼女を
抱きしめる事にした。うそなんかいってないよ。本当にそう思っているよ。そう伝えるために。
「………あいしてる」
泣きそうな顔をしたエイラが顔をまっかっかにして同じ言葉をぼそぼそと呟いたのを聞いて、ああ、やっぱり私はこのひとと
同じ、人間でいたい。と思った。