月
「あんたさあ、あたしのこときらいだろ」
自己紹介以外ではじめて話したときの台詞はたしかそれ。しかもやつはときたら、答えもしないで
ふんとはなをならしてさっさといってしまったのだ、と、あたしは記憶している。
「つきあわないか、今夜」
だから、出会い頭にそんな唐突な提案をされても自分に言われているなんて思いもしないのだ。
あたしとバルクホルンのたったふたりしかいない廊下で思わずきょろきょろとまわりを見わたすと、
おまえに言ってるにきまっている、といつぞやのようにはなをならされた。
「ワインはきらいか」
「いや……」
「じゃあ、今夜10時だ。私の部屋にきてくれ」
言いおわるが早いか、バルクホルンはさっさときびすをかえして歩きだす。仕草はどれも出会った
ばかりのころとかわらず失礼千万であるが、話の内容は信じがたい。あたしは呆然とうしろ姿を
見おくった。だれが聞いても晩酌の誘いで、それはあまりにあの堅物らしくなく、なによりもまさか
このあたしを誘うなんて気でもふれたんじゃなかろうかと思うほど。依然キツネにつままれたような気分
だったが、かの姿が廊下のむこうへきえてしまったのであたしもあるきだす。そこでふと思った。
そういえばやつの部屋ってのはどこだったかな。
「おそいな、10分遅刻だ」
その夜。部屋にはいるなりバルクホルンは嫌味たらしく簡素な室内のすみにおかれた時計を指した。
たしかにその長針は盤の2の数字をそろそろすぎようとするところで、しかしあたしは肩をすくめた。
「おかしいな、あたしの部屋の時計はちょうどいい時間だったのに」
もちろんうそだ。大事な会議でもあるまいしいちいち時間厳守なんてしていられない。そもそもあたしは
息ぬきをしにきたわけで、それでそんな堅苦しいことを言われるのはとんだお門違いの話だった。やつも
そのあたりはわかっていたらしく、あとはため息をしずかについただけでもうなにも言わなかった。その
かわりにベッドのとなりのまるいテーブルを親指で示す。
「適当にかけてくれ」
「どうも」
テーブルのうえにはワインのボトルとふたつのグラスがならんでいた。こんなものかくしてたんですねえ、
とお堅い軍人に笑いかけてみると、没収したものだ、と簡潔にかえってきた。おおかたハルトマンあたり
からだろう。そこで違和感を覚える。バルクホルンが他人からとりあげたものを別の人間とあけてしまう、
などということはありえるのか、それを言えばまずあたしがここにいること自体が普段のバルクホルンを
見るかぎりでは激しいほどの違和感なわけだが。
ふたつのグラスに赤い液体がながしこまれる。とって口元にちかづければ、あまい芳香が鼻先をかすめた。
「ワインは残念ながらくわしくないんだけど」
「生憎、私もだ」
乾杯、とかすかな音をたててからグラスをかたむける。ゆっくりと液体を嚥下し、それから目のまえの
人物を観察した。自分とおなじようにグラスに口をつけ、味わうようにまぶたをさげている。上品な面を
しやがって。なんの反抗心か知らないがあたしは一気にグラスのなかをからにした。バルクホルンには
すこしおどろいた顔をされたが、そんなことはどうだっていい。正直な話、緊張していた。バルクホルン
とはそりがあわないとずっと思っていて、いまはそんなやつのテリトリー内にいるのだ、しかも今日は
ずっとらしくないさまばかりを見せつけられて、これでやつがなにも企んでいないと思えなんてのは到底
無理な話だ。ふうとため息をつくと、バルクホルンの手がボトルをつかんでまたなみなみとそそがれる。
「酒には自信がおありのようだな」
「人並みにはね。うまいねこのワイン」
「ふん、酒は酒だがな」
なんだ、自分で誘っておいてしらけることを言ってくれる。バルクホルンのグラスがあいたのを
見はからって、あたしもさきほどのやつと同じようについでやった。
「あんたは酒がきらいなの?」
「きらいならこんなことはしていない」
「ふうん?」
そのわりにまったくたのしそうじゃない面をしているじゃないか。そう思ったけど、こちらもおそらくひとの
ことは言えない顔をしているだろうからことばにはしないで肩をすくめるだけにした。
「トランプだな」
宴もたけなわ、と言ってもこの面子では盛りあがりにも限界があるわけだけど、それなりに気分も
よくなってきたころ、バルクホルンが提案した。
「トランプでもしようじゃないか」
「ふうん、あんたがそんな娯楽品もってるなんてねえ」
「エーリカのわすれものだ」
「エーリカの……」
ふうんと思った。普段はハルトマンとよぶくせにプライベートではファーストネームでよんでいるらしい。
にやりとしてみせたが気づかれなかった。
「ポーカーは?」
「大得意。せっかくだ、ちゃんとチップも用意して賭けでもしよう」
ほんのジョークだった、この真面目なバルクホルンがのってくるとも思えなかったしね。だから、いいだろう、
と言われたときには耳をうたがった。
「あれ、いいの?」
「きさまから言ったんだろう」
「だけどさ……」
これはおもしろくなってきた。じゃあわかった、やっぱり準備がめんどうだから、単純な運だめしを
しよう、負けたほうが勝ったほうの言うことなんでもきく、ってのはどう。挑戦的な目つきをつくって
視線をおくれば、ルールは、とかえってくる。
「カードをひけるのはいちどのゲームで二回まで。さきに三勝したほうが優勝」
提案したときに勝つ自信があったかはもう覚えていない。まあたぶん、酒のせいで気がおおきく
なっていたんだな。けっきょくあたしは三連敗、軍配はバルクホルンにあがってしまったのだった。
また、グラスにワインがそそがれた。ボトルからはぽとぽととしずくが滴り、これが最後の一杯だと
主張している。どうぞ、と勝者の余裕の感じられる笑みでもってバルクホルンがささやいた。
「しんじらんない、いかさまだ」
「ディーラーはきさまだったろうが、リベリアン」
だからって、三連敗はないだろう! とはいえ、負けたことに文句を言うのはスマートじゃない。
あたしはワインを一気にながしこんでからさっさとたちなおることにする。
「で、なにをすればいいわけ?」
「……」
バルクホルンはトランプをそろえなおして箱におさめている。もったいぶるなあ。ことん、とカード
のおさまったケースがテーブルにおかれた。あたしはといえば、ほおづえをついてさきほどの時計を
ながめていた。かちかちと正確に時をきざんで、意外にも日付はまだかわっていない。ふと視界に
影がおちる。目のまえの人物がたちあがったんだと一拍おいてから気づいて、それと同時にぐいと
胸元をひかれた。
「……」
おどろいた、なんて表現じゃたりない。いたいと批難する間もなく、あたしの唇はやつのそれにふさがれていた。
がたん、と音がなる。ひかれるままに体をもちあげれば手がテーブルのはしにひっかかって、のっていた
ボトルが床に落ちた。すっかりきれいにのみほしていたおかげで中身がこぼれて床が悲惨なことになるって
ことはなかったけど、あたしのありさまはなんとも悲惨だ。
「……なにやってんのあんた」
「……」
唇には感触がのこっていて、襟もとはいまだにつよくつかまれている。バルクホルンは、どろんとした瞳で
あたしを見ていた。はなせ、とその手首をにぎったが、そんなことは意にも介さないバルクホルンに肩をおされる。
最悪だった、背後にはベッドが陣取っていた。見事なまでに計算されている。やられた、おそらく最初っからだ。
バルクホルンにいたいほど肩をおさえつけられてさらには馬乗りされ、あたしは思いのほか酔いがまわって
うまくうごかない体をのろった。
「酒、つよいんだ。きいてない」
「言ってないからな」
そもそもあたしがテーブルのわきにならんだいすのベッド側のほうにすわったのは、適当にかけろと言って
おきながらもそちらのいすがひかれていて、もう片方のそばにはやつがたっていたからだ。最初からこちらに
すわらせるつもりで、酔いつぶすつもりだった。トランプをもちかけたのもあたしが賭けだなんだとおもしろがる
ことを見こしていたから。このうまいワインだって、ひょっとしたら今日のこのために準備したものかもしれない。
今日の勝負はすべてやつの勝ちだった。だって、運までもがあちらさんの味方なんだもの。
感情の読めない目があたしを見おろす。ただわからないことは、なぜこんなことをする必要がある。酔わせて
恥をかかせたいだけならこんなまわりくどくめんどうくさいことはする意味がないのに。バルクホルンが自身の
軍服の胸元に手をかける。おいおい、そろそろ本気でしゃれにならない。
「ちょっと、ちょっとまって、つまりあんたの命令ってのは、あんたに抱かれろってこと」
「きさまがするほうがいいならそれでもかまわない」
「そんなことを言ってるんじゃないっ、ねえ、おちついてよ、あんた酔ってんだ」
最後の台詞にはすがるきもちがにじみでていた。だってあまりにもただの悪あがきだ。あたしの腹のうえで
まえをすっかりはだけきったその中には、見とれるほどに白いただの肌がある。……バルクホルンは下着を
つけていなかった。確定だ、今夜は本気で、その気であたしを誘ったんだ。
「酒につよいと私を評したのはそちらだろう」
「たのむから、おちついてよ。おかしいだろこんなの」
だまれとでも言うように、バルクホルンの親指があたしのみぞおちをおした。容赦なかったからそりゃあいたくて、
だけどひるんでもいられない。一瞬だけかたまってしまったが、すぐにあたしの服をぬがしにかかっている手を
つかんだ。冷静になれない、どうしようもない。もう、最後の手しかのこっていないのだ。
「あたしは、ミーナ中佐じゃない」
「……」
バルクホルンの動きがとまる。それだけじゃない、まったくよめなかった表情に動揺がひろがった。ビンゴだ、
最後の賭けだけは、あたしの勝ちだった。
「……なんでしってるんだよ」
こどもみたいな声だった。胸元はあいかわらずつかまれているけどそれすらもすがられていると感じるくらいに
バルクホルンは動揺していた。
「あたしは、けっこうあのトランプの持ち主と仲がいいんだ」
「……エーリカ。あのおしゃべりめ」
いまこの場で、ハルトマンのなまえをだすことは卑怯で最悪でとんでもない裏切り行為だった、なによりもハルトマンに
対して。だけど背に腹はかえられない、あたしはいま必死だったし、なによりアンコールがぐるぐるとまわっているこの頭
ではこれ以上のこの場をきりぬけられる名案を思いつける気がしなかったのだ。あたしは祈るように見あげていた。すると
しばらくしてバルクホルンはあたしにのしかかっていた身をおこす。ほっとした。存分の犠牲をはらったんだ、これくらいの
効果がないとわりにあわない。
「エーリカは、なんて言ってた」
「……。さあね、いろいろ」
バルクホルンはへたりこんでしまった。さきほどまでの剣幕と表現してもさしつかえないほどのするどい顔つきとは一変
して、いまにもなきそうなこどもになってあたしのひざのうえでうつむいた。だからベッドからぬけだすことはできなくても
上半身をおこすことはできた。顔をちかづけてにらみつけてみたが、やつは視線をおよがせるばかりだった。
ハルトマンは、ミーナはよわいひとなんだ、と言った。どうしてあたしにそんな話をしようと思ったのかはしらない。ただ、
とてもひとりではかかえていられなくなっちゃったんだろうな、ハルトマンはバルクホルンだって知らないことをたくさん
考えているのだ。
トゥルーデは、ミーナにやさしくしたくってしょうがないの、でもさ、ミーナってそれだけじゃなりないくて、……ちがうな、
ちょっとやさしい言い方しすぎちゃった。トゥルーデじゃだめなんだ、もっとちがう、ほかのひとにやさしくしてほしいんだな、
ミーナは。でもミーナは、それはかなわないってしってるから、……。
「……私は」
はっとした。思わず記憶をたどっていたところだった、バルクホルンはしぼりだす声でつぶやいた。私は、ただの坂本
少佐のかわりだったのかな。ハルトマンからきいた話の断片が、ゆっくりと頭のなかでむすびついていった。
「ミーナが、ごめんなさいって言ったんだ」
だらりとたれたバルクホルンの両腕が、とてもなさけなくてかわいそうに見えた。こんなバルクホルンはしらない。あたしの
しっているこいつは生真面目でまっすぐでわずらわしいくらいに、自分で自分をささえられる人間だった。そっと、あけっぱなし
の軍服に手をかける。抵抗もされなかったからていねいにまえをとめてやった。
「……あやまられるのはきらいだ」
それは、とてもとても切実な、ただのひとりごとだった。
それからどれくらいベッドのうえでむかいあっていたかはわからないけれど、あいわからずかちかちと
なる時計の音は無限と思えるほど数えた。うつむいたバルクホルンはいったいなにを考えているのか。
ミーナ中佐のことかハルトマンのことか、それとも。
「なさけない顔」
「……おまえはなまいきな顔をしてるよ」
バルクホルンがベッドからおりた。視線だけでそれを追い、さきほどの自分の席におちつくのを確認して
からあたしも気持ちのいいベッドからぬけだし、あいたいすにこしかけた。横目で確認した時計盤は零時
すぎを示している。日付はもうかわった、ひょっとしたらあたしらの関係も。
「のみたりない?」
「べつに」
「あんた、つまりはミーナ中佐に浮気されたんだ」
考えなしに、ふとただ思いついたことを言った、きずつけるつもりでもなんでもなく。するとバルクホルンは
あたしのことを無視するのだ。平静を装おうとしているさまが痛々しくてかっこうわるくて、なぜかざわりと胸
がさわいだ。ちりちりと奥のほうからじらされるような、よく知ってる感情。
「なぐさめてもらいたかった?」
挑発的な声で言った。バルクホルンはやっとこちらをむく。すこしだけおどろいた顔、それから唇をかみしめる。
なんだよ、と思った。言いたいことがあるなら言えばいいのに、急になにをしおらしくなっているんだろう。胸の奥
はまださわがしかった、それどころかもうそろそろたえられそうにない。いらいらするんだよ。ついつぶやいた、
だけどちゃんと声になって出ていたかはわからない。
ぐっとたちあがった。前触れのなかったあたしの行動におどろいたらしいバルクホルンに見あげられた。
逆にあたしはやつを見おろす。それからは、ふしぎなくらいどうしようもなかった。なぜだかこの口は、あたしの
制御下から解放されてしまう。
「あんたも、せこいやつだね。浮気されたから浮気しかえしてやろうなんて」
「……なんだと」
バルクホルンがひさかたぶりに強気の声をだす。それをききながらあたしはどうしたことかと思っていた。
こんなことを言うつもりなんてないのに、ただ、いらいらしてるだけなのに。
「真面目なやつが思いつめちゃうとやっかいなもんだねえ、行動が極端なんだもの。しかも、相手にあたし
をえらぶあたりがやらしいね、おたがいにきらいあってるやつなら一回かぎりただのまちがいだったと
あとくされもない、ってか」
はん、とはなをならしたつぎの瞬間に、肩のあたりに衝撃がはしる。デジャヴだ、バルクホルンにつかみ
かかられたんだってことはすぐに理解した。ただしさっきとちがうのは、そこからキスへというながれには
けっしてならないこと。
「きさまはひとを侮辱するのがすきらしい」
「侮辱? ははっ、よく言うねえ、あたしはほんとのこと言ってるだけだ。あんたは自分がかわいそうでしかたない
から、あたしのことを利用してはらいせをしようとしたんだ」
ぎっ、とバルクホルンの目がおおきくなる。純然たる怒りの表情、あたしはすこしだけぞくりとして、それから
ぎゅっと目を閉じた。でもそのつぎには勝手に左手が動いていた。瞬間、ばちんと音がなる。目をあければ、
ひだりのほほのそばでバルクホルンの平手があたしのてのひらにおさまっていた。
「……暴力は、まずいんじゃないの」
よく言う、それならあたしのやっていることも立派に最悪なことばの暴力だった。
バルクホルンはおさまらない怒りで唇のはしをひきつらせながら息をふるえさせていたが、多少は冷静さを
とりもどしたのかはらうようにつかんだ両手をはなした。あたしはみだれてしまった胸元を嫌味ったらしく丁寧
になおしながら、どうして、と思うほかない。わからないのだ、こんなにいらいらする理由。
「でていってくれるか」
しずかな声が言った。あたしは返事もしないで出口のあるほうをむく。そのとき視界のはしにころがりっぱなし
のガラスのボトルを見つけたから、ひろいあげてバルクホルンのそばのテーブルにもどしてやった。それから
おやすみのあいさつはするべきだろうか、となんとものんきなことを思っていると、バルクホルンがなにか言った。
ドアをあけて一歩ふみだしたところだったのに、あんまりちいさな声に思わずふりむいてしまう。するとやつは、
ご丁寧にも言いなおしてくれるのだ、侮辱するなとでも言いたげに。
「きらいなら、あんなことしない」
「……ふうん?」
そのわりに、なんともにくたらしそうな顔をしているじゃないか。またデジャヴ、ついさっきにもにたような会話を
したなと思う。だけどさきほどとは全然ちがった理由であたしは思ったことを口にしなかった。じゃあ、きらい
じゃないならなんなんだよ。あんたは、ミーナ中佐がすきなんじゃないのかよ。そろそろこのころには、あたしも
このいらつきの理由に勘づきはじめてしまっていた。
「おやすみ」
ドアのむこうからにらむ視線をただ見返して、あたしはこれをしめてしまうことをためらっている自分にとてつもなく
同情するほかなかった。
きょうはもしかしたら寝つけないかもしれない、なんてのはあっさり杞憂におわる。ベッドにはいればいつのまに
か朝になっていて、しかもねぼうまでオプションでついてきた。朝食の時間おわっちゃったよ、と勝手知ったると
あたしの部屋にはいってきたルッキーニにからだをゆすられて、あたしはやっと身をおこした。
ちょうどよかったな、と思う。朝食の席でやつと顔を合わせるのは気まずかった。とりあえず着替えをすませながら、
それでもあたしは部屋をでる気にならない。
「ルッキーニ」
部屋の隅にあるあたしの工具いれをあさって遊んでいるこどもをよんだ。普段はそんなことしたらだめだって
とりあげてしまうのに、きょうばっかりはそんな気力もなく放置していたらルッキーニはじつにたのしそうだった。
無邪気なやつ。
「なあに?」
それでもあたしがよべばぴょこんと顔をあげてこちらにきてくれる。なんと癒されることだろう。あたしはさらに
手招きをしてベッドにこしかける自分のひざのうえにルッキーニをすわらせた。
「なあルッキーニ。ちゅうしてもいい?」
「にゃはは、シャーリーがへんなこと言ってる」
ルッキーニのこしに手をまわして抱きすくめるとちいさな手があたしのそれにかさなる。きゃっきゃとたのしげに
笑って、ぷらぷらと足をゆらした。その仕草はどれをとってもまるでけがれを知らなくて、そう思いついた自分に
辟易した。思考がすっかりただれている。
「あーあ、ルッキーニもいつかすきなやつができたってあたしからはなれてくのかな」
さみしいなあそんなのは。腕にすこしだけ力を入れて、目のまえの肩にあごをのせる。ルッキーニはふしぎそうな
顔をした。すきとかきらいとか、そんなのでこんなにわずらわされるのは気分がわるくてしょうがない。
バルクホルンが自分で自分をささえられるやつだと、あたしは本気で信じていた。いやちがう、そうであると完璧に
見せかけているさまが、すこしだけだ、たったすこしだけ立派だと思っていた。あんなバルクホルンを、あたしはきっと
見たくなかった。それなのに、ミーナ中佐はあんなにあっさりバルクホルンをよわくした。いやになる、まだ、こんなに
いらいらする。
「……きらいなら、あんなことしない」
声にだして、昨夜のバルクホルンの最後のことばを反芻した。それから遠慮もしないでぶつけたとがりきった自分
のいらだちを思いかえす。なんてこどもだ、バルクホルンがはらいせなんかのためにあんなことをしないことくらい
わかっていてあんなことを言った。やつはミーナ中佐にやさしくしたくてしかたがないんだとハルトマンは言っていた
けど、やつだって、きっとやさしくされたかったんだ。バルクホルンは、それくらいにはよわいところがあってさみしくて、
それであたしをえらぶっていうのはおそろしくセンスがないけれど、きっとプライドの問題だった。バルクホルンが
わかっているかはしらないにしても、ちゃんとやさしく甘やかしてくれるやつはいたんだ、だけどほんとにやさしく
されちゃったらあいつは多分たちなおれなくて、だから自分をきらいなあたしをえらんだ。きっとそれだけだ、そうに
きまってる。
「かんちがいしてるんだ、あいつは」
すきときらいってにてるんだ、と自分に言いきかせた。だいすきだってだいきらいだって、相手のことが気になって
しかたないんだ、だからいまこんなにやつのことが気になるのも、やつのことがあんまりきらいだから。そうでなけりゃ
とんでもない気の迷いだ、そうであってくれなくちゃ困る。
「シャーリー?」
ルッキーニが腕のなかでもぞもぞと動いた。あたしのひざのうえにいるのにもあきてきたらしい。いつもならすぐに
解放してやるんだけど、今日ばっかりはそうもいかない。頑なともとれるほどに、あたしはルッキーニをはなさなかった。
いい加減ルッキーニに甘えてもいられないから朝食をとるために部屋をでる。あのあとあたしの腕のなかであたしと
むきあってそれからまるでおねえさんみたいにあたまをなでてくれた、気まぐれなルッキーニはもうあっさりとどこかへ
かけていってしまった。ルッキーニはそうやってたまにあたしをこどもあつかいして、まるで自分が面倒を見ているような
顔をする。そのときの、本当のこどもの満足そうな顔を見るのがけっこうしあわせなあたしはけっこう頭がわるいのかも
なと思った。
「はらへったなあ」
おおきな独り言。一生懸命奮起しようとしている自分がすこしなさけない。でもとりあえずは朝ごはんだ、これから
いろいろ考えなくちゃいけない気がするけど、それはまず食欲をみたしてから。
「……」
そう思ったのに、どうしたことか。食堂にはいってみれば、バルクホルンがトレイをかかえてまさにいまから自分の
ぶんの朝食を準備しようとしていたところだった。おたがいにかたまって見つめあってしまった。しまった、そうだ、あたし
が朝から顔をあわせるのは気まずいと思ったんだからあちらさんだってそう思ってもふしぎじゃない。時間をずらした
つもりが、見事にかぶってしまったんだ。
「……はよ」
「おはよう」
気のぬけたあいさつをすると、バルクホルンのきっぱりとした声がかえってきた。普段のやつだ、あたしが立派だと
思って、そうであってほしかったと思った、ゲルトルート・バルクホルン大尉だった。それなのに矛盾している、それが
またあたしは気にくわない。さめてしまった朝食をトレイにとっているやつのとなりにあたしもたつ。
「ふたりしていなかったなんて、ミーナ中佐がどう思ったかな」
意地のわるい声で言っても、やつはあたしのことばなんてきこえてないようにさっさとあるいていって席につく。しつこく
ついていって、トレイもなにも持たないままやつのとなりにこしかけた。バルクホルンは食事をはじめない。
「見ないでくれるか」
「見てないさ、自意識過剰だな」
「じゃあ、きさまも食事をしたらどうだ」
「どうも、食欲がない。あんたのことで胸がいっぱいなんだ」
はっとしたようにバルクホルンがこちらを見た。あたし自身もなにをばかなことを言っているんだろうと思う。ゆっくりと、
雰囲気が核心にせまっていく。バルクホルンは目をふせて、そして唇をかむ。きのうは気づかなかった、こいつのこの
仕草はすこし色っぽい。ひょいと、トレイからまるいパンをとる、それからちぎって自分の口にはこんで、その間もやつは
うごかないでいた。
「あんたさ、あたしのこときらいじゃないようなことを言ったけど」
バルクホルンのかたがゆれて、そしてこちらを見ればいいと思った。でもその横顔はうつむいたまま。あたしは、やっぱり
あたしじゃだめそうだなあと実感する。それって、あんなことをしたことへのただの正当化だろう?と、言わなくていいような
ことを、まるでバルクホルン自身が気づいていない真実でも告げるようにささやいた。するとバルクホルンは、おおきな瞳
であたしを見た。心底おどろいたような、すきとおったそれにひるみそうになったところで、手首をつかまれて我にかえる。
持っていたパンはなんとかおとさなかった。
「……なんだよそれは」
必死なバルクホルンが声をふるわせる。きっときのうのあれは、バルクホルンにとっては告白も同然だった。それを
ごまかそうと、あたしこそ必死なのだ。すきときらいはにてるんだ、だからバルクホルンは、ただかんちがいしてるだけ
なんだ。さきほど結論づけた思いこみを何度も頭のなかで読みあげて、できるだけ目にも声にも色をつけない努力を
する。
「ごめんね」
謝罪の意味はあたしにもわからない。バルクホルンがどうとったかもわからない。あやまられるのがきらいだとつぶやいた
バルクホルンに、あたしはしずかにあやまった。ごめんね、あたしは、やっぱりあんたにやさしくできそうにないんです。
「あんたがすきなのは、ミーナ中佐なんだよ」
あたしの腕をつかんでいたてのひらがするりとおちた。それにあわせてまるいパンも。あたしはいまどんな顔をしている。
たのむから、なきそうな顔だけはしていてほしくなかった。
「……そうか。そうだよな」
長い沈黙をやぶったのはバルクホルンだった。それから床によこたわる取り上げられた自分の朝食の一部を
ひろいあげて、ふんと自嘲気味の笑いをもらす。
「食べ物を粗末にしちゃいけない」
あたしが食べかけたパンを、バルクホルンに手渡される。そのときわずかに指先がふれて、思わずびくとふるえて
しまったのが伝わっていなければいい。わるかった。それから一瞬の間のあとその一言だけをつぶやいて、やつは
もうなにも言う気はないみたいだった。そうだ、なにもかも、もうなにもかもが、これでおわり。謝罪のことばが重く重く
のしかかって、断ち切ろうとしたあたしが、こんなにショックをうけるなんてお笑いぐさだ。たちあがって、パンについた
ほこりをはらう。これ以上ここにいたらまたガキくさいくだらないことを言ってしまいそうでこわかったから、もうあたしは
退散することにする。
「……、あの」
でもだめだ、あたしはこんなに名残惜しいみたい。食堂の出口のほうまできたところで、まるで我慢できなかったよう
にうつむいたバルクホルンをふりかえる。あたし、あんたの言うことひとつ聞かなきゃいけないんだ。つぶやきくらいの
ちいさな声に顔をあげて、バルクホルンはふっと笑った。それを見てあたしはおどろいて、なんてひどいやつなんだろう
と思う。だって、そんな笑い方はじめて見た。こいつが、こんなにきれいだったなんで知らなかった。そのときはじめて
思い知ったんだ。
「きのうのことをわすれてくれれば、それでいい」
だけど、言うことはとても残酷なのだ。そう仕向けたのは自分のくせに、あたしはまるでふられたような気分になる。
きっとバルクホルンも、すぐにわすれてしまうんだ。あたしがいくらひきずっても、バルクホルンは、あっさりと。だって、
あんたはしらないんだもの、本当は、本当はあたしだって。
「……了ー解」
一生懸命間延びした声をつくる。いつもの自分になっていただろうか。もうふりむかない。ふりむけなかった。全部を
ごまかすようにかじった床におちてしまったパンは、なんだかすこしだけ苦かった。
足は自然とハンガーへむかっていた。なにも考えたくないときは機械いじりに没頭するのがいちばんなのだ。我ながら
わかりやすい、とにかく今は現実逃避がしたかった。
淡々とつづく廊下、そのむこうからふと人影があらわれる。おや、と思う間にそれがハルトマンだと認識する。鼻歌でも
歌っていそうないつもの表情で頭のうしろで手をくみながら、ハルトマンのほうも近づくあたしに気づいたのか、よっとでも
言うようにひょいと手をあげた。あたしもそれに遠慮がちに手をふる。ああなんだかうしろめたい気持ちがでてしまった。
それから特にことばもかわさずにすれちがう。
「――ハルトマン」
だけどあたしは、呼びとめてしまうのだ。気の抜けた顔でふりかえって、ハルトマンはまばたきをする。ごくり、とつばを
のんだ。
「あたし今からハンガーのほうにいってストライカーの調整しようと思ってるんだけど」
ぱちぱち、と、まばたきがさらにはっきりとした動作になる。なに言ってんだこいつ、とでも言いたげな顔。そんなの
こっちもそうだった。なに言ってんだあたしは。
「……レンチを食堂にわすれてきちゃって、わるいけどとってきてくれないか」
ああ、阿呆だ、あたしは。そんなわけない嘘が、まるで脊髄反射のように口からぼろぼろでていく。ハルトマンは今度
こそぽかんとする。が、一瞬後にはあいた口をきゅっととじてあたしに近づいて身長差にまかせてしたからのぞきこんだ。
あたしは薄ら笑いをうかべて冷や汗をたらすほかない。
「ごめん」
思わずあやまって、そしたらハルトマンはふうんとはなをならす。それから言った、そういえばきょうはトゥルーデが
朝むかえにこなくて、食堂にもいなかったんだよ。
「シャーリーもいなかったから知らなかったでしょ?」
「……」
小悪魔の笑みが見あげてきて、たぶん今の会話だけで多少のことはばれてしまったのだ。これだから聡いやつは
困るんだ。あたしはきまりがわるくて頭をかいて、でもごまかすのもいやだったから顔のまえで手をあわせる。
「ごめん、バルクホルンにちょっといろいろ言っちゃった。わるかった、ほんとに」
ゆるしてもらうため、というよりその事実をこいつに伝えるためにあやまった。そのわりに、でもいちばん大事なこと
は言ってないぞという言い訳もわすれなかったんだけど。ハルトマンは腕をくんでううんと唸って、すぐにどうでも
よさそうな顔をする。
「べつに言ってくれてもよかったんだけどな」
「ほんとかよ……」
そのわりにはバルクホルンにはひたかくしにしているじゃないか。思いついてもそんなことは言えないで、あたしは
やつの出方を観察するしかない。数秒思案する顔をして、それからハルトマンはよしとうなずく。
「ふふん、わすれものね。わかった、とってきたげるよ。わたしはやさしいからな」
「……おう、ありがと」
どうやら、多少どころの話じゃないらしい。不敵な笑い方に内心びくびくとしながら頷いた。ハルトマンにはもう
つつぬけだ。自分をやさしいと言ったハルトマン、それは本当にそのとおりだった。
くるりとからだのむきをかえて駆け出した。そして走りながら、ハルトマンはふりむくのだ。でもさ、もしかしたら、
シャーリーのわすれものかえしにいかないかも。無邪気に挑戦的な声が心地よくひびく。なんてやつだろう、
もしかしてハルトマンは、あたしがこうなってしまうとわかっていてミーナ中佐とバルクホルンの話をあたしにしたんじゃ
なかろうか、と、邪推してしまうほどに、ハルトマンは食えないやつなのだ。
「ぜひ、そうしてくれ」
わざとらしいくらいに肩をすくめてからさけんだら、ハルトマンがははと笑う。そんな冗談が言えるほどあたしは楽に
なっていた。そうさ、ハルトマンはやさしいんだ。ことバルクホルンに対しては、あたしなんて絶対に敵いやしないんだ。
あいつにはひょっとしたら大変な役を押しつけちゃったかもしれないけど、あたしは確固としてハルトマンを信じた。
バルクホルンには言わなかったハルトマンの秘密は、そうするに足る確証なのだ。
「ちぇ、はらへってるのわすれてたや」
こんなんじゃたりないけど、あと一口のこっていた、バルクホルンに手渡されたパンを口に放った。不思議なもので、
今度はほんのり甘かった。
「……さて」
あたしはぐっとのびをしてからハンガーへむかう。きょうはハルトマンとバルクホルンのストライカーも勝手にいじって
しまおう。そして、ハルトマンからはわたしのかわりに調整してくれてありがとう、なんて言われて、バルクホルンには
勝手なことをするなと怒鳴られよう。そうなったらいい、だってきっとそれが、あたしとやつらとの、いちばんの関係なんだ。
ハンガーからのぞく青い空。うすく雲のかかった果てのない世界は、ずっとあしたもあさっても、ずっとあたしたちの
うえにあるのだ。
おわり