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あなたはざんこくです、と、彼女はそう言って自嘲気味に笑った。
思っても見ないその台詞にただただ押し黙る。彼女の頬に伸ばした手と、彼女の涙で濡れた手が、熱い。

ひどく静かな廊下の隅だ。死角になっていて暗がりで、日も落ちたこんな夜中じゃ何も見えやしない。それも
これもぜんぶ、こいつが泣いていたからだ。「どうしたんだよ」とここまで引っ張り込んで、とりあえず背中を
さすってやった。それ以外にどうしたらいいのか分からなくて、とりあえず彼女の頬に手を当てたんだ。

「あなたのやさしさは、ときどき、ざんこくですわ」

もう一度、追い討ちとばかりに繰り返される、その言葉。
だって、お前、泣いてるじゃないか。反論した言葉はかすれて上手く音にならなかった。
泣いている人が目の前にいて、どうにかしてやりたいと思う。それが同じ部隊で戦う仲間だったらなおさら。
それの何が悪いことなのか、私には全く分からないのだった。

そんな間にも彼女の瞳に涙は溢れて来るものだから、私は慌ててそれを差し出した指で拭ってやる。
「ごめん」
何に対して謝っているのかなんて分からない。ただ責められているんだからきっと悪いのは私なんだ、間違いない。


「あなたには、わたしのきもちなんて、わからないでしょう」


何も手に入れられない。何もつかめない。すべては失われていくばかり。けれど守る力も無い。
けれどそのすべてを、あなたは持っているのだから。
彼女が言う言葉なんてほとんど理解出来ない。けれど私の直感が、ただ告げた。ああ、こいつはまた、泣く。

「わかるわけないダロ」
そんなの、お前じゃないんだから。いいながら抱きしめてやる。昔、昔、小さい頃、お母さんによくしてもらった
ように。ぎゅうと抱きしめて背中を叩いてやる。私の胸の辺りを彼女の涙が濡らす。拭う手間が省けてむしろ
ありがたかった。この行為さえも残酷だと、彼女は言うのだろうか。でも他に私は何が出来るだろう。

どうしたんだと、半ば脅迫するように問いただしたところには。
ミーナ中佐が、坂本少佐の部屋に行くのを見たのだという。でも別にそれが原因ではないだろう。それはただの
きっかけに過ぎなかった。こいつみたいにいつも少佐を見てなくたって二人の関係は私だってわかってた。
けれど言わなかった。それは予感でしかないけれど、たぶん私はこいつが泣くと思ったのだろう。知らないならば、
知りたくも無いならば、それでいい。そのほうが幸福だろうと思ったのだ。

本当は弱いんだと、ちゃんと知ってたんだ。意地っ張りだから気丈に振舞っているだけで、こいつの中身は
本当は、ひどくもろい。不安な気持ちを埋めるために、坂本少佐を追いかけていたのだ。誰かへの気持ちで
埋もれていれば、空虚な心は悲鳴を上げないから。



その弱さに、私がつけこんでいるのか。私の甘さに、あっちがつけこんでいるのか。
分からない。でも、ひとつだけ確かな真実がある。ペリーヌは悲しいから泣いている。悔しいから泣いている。そして
今ここには私しかいない。ペリーヌはきっと、人の前では泣かない。少なくとも今は、まだ。だからここで私が
このツンツンメガネを放ったら、きっとこいつは独りぼっちで泣くんだ。

…そんなの、可哀想じゃないか。

そう思うのは、もしかしたらペリーヌに対してあまりにも失礼なのだろうか。それでもいい。泣いて欲しくない。
だってこいつだって私にとっては大切な仲間の一人だから。

「サーニャさんに見られたら、」
下の方から聞こえるくぐもった声。サーニャ。突然口にされた同僚の名前にひどく驚きながら首をかしげる。
こんなところでこいつに、名前を出されるとは思わなかったからだ。
「どうするんですの?」
「ハァ?どうもこうもないダロ」
ペリーヌが泣いていて、私がそれを慰めてる。少なくとも私はそう思っている。そこには何の問題も無い。なんだ
かんだでサーニャだってペリーヌと仲良くしたいんだ。一緒に慰めるのを手伝ってくれるかもしれない。

エイラさん。
名前を呼ばれて、返事をする前に強い力で胸を押し返された。そしてペリーヌは突き放すように手をいっぱいに
伸ばしてそして綺麗な顔で笑う。
「あなたはやっぱり、ばかで、おろかで、ざんこくですわ」
「…なんダと」
せっかく心配してやってるのに。そう憤慨しようとしたら、それより先に次の言葉が耳に届いた。
「でもそこがきっと、いいんでしょうね」
サーニャさんが羨ましいですわ。でも、とても可哀想だとも思います。

ぽかん、としていたら不意にペリーヌの顔が近づいてきて、くちびるに柔らかい感触が触れた。何をされたのか
判別する前に、彼女は走り去っていってしまう。

ああ、キス、されたのか。…された、のか?

嘘だ、そんなの、でもあれは。気付いた瞬間唇を抑えて座りこんだ。残酷だ、と言ったペリーヌの顔が頭にちらついて
離れない。そのときになってやっと、私は自分の行動が間違っていたのだと、たぶんあいつを傷つけたのだと、
思い知ったのだ。
しかもそれはペリーヌに対してだけじゃない。もしかしたらサーニャに対しても。
私は、ペリーヌただ単に「仲間」だと思っていた。いわゆる『そんな目』で見ることなんて思い至るはずも無かったし、
ペリーヌだってそうに違いないと思い込んでいた。それはもちろん無意識にだ。一度でもそんなことを考えたことが
あったなら、私はもっと彼女に対して慎重になれたろう。
それだから私は彼女に対して全く無防備だった。
…でも、あっちにしてみたらそうじゃなかったのかもしれない。そして今この瞬間から、私にとっても。


「エイラ、どこ?」

私を呼ぶ、声がする。ああ、サーニャだ。部屋にいなかったから探しに来たのかな。
ここにいるよ。そう返事をしようとした。そうして寂しがりなあの子を安心させてやりたかった。でも声がでなかった。
体にはまだ、ペリーヌの温もりと、小ささと、柔らかさとが残っている。私を見つけたサーニャはいつものように
私に引っ付いてくるのだろうか。そんなサーニャに私は上手く笑顔を返してやれるだろうか。
右手を見る。指の先が濡れているのは、ペリーヌの涙を拭ったからだ。あのとき私の心の中にはひたすらに
ペリーヌしかいなかった。意固地な彼女を独りで泣かすまいと必死だったからだ。



(できない)

このままでサーニャに触れるなんて、そんなの。
ひどく思い罪を犯してしまった気分だった。罪悪感でいっぱいで、サーニャに対して申し訳なくて。
きびすを返してそろりと、声のする方向とは逆に走り出した。それはペリーヌの去って行った方向と同じだった
けれど、いまはあいつとも会いたくない。きっと会わないほうがいい。
でも問いただしたい。なんであんなことしたんだ、って。

エイラ、どこにいるの。
サーニャの声に、悲しみが混じる。それは小さな声だし、小さな違いだけれど、私が聞き違えるはずが無い。
私が一番大切なのは、サーニャのはずだ。…それなのに。
(ばかだ、私は)
なんで今はあのツンツンメガネの顔が頭から離れないんだ。涙のいっぱい溜まった瞳で、それでもひどく綺麗に
笑った。その、最後の顔がずっとずっと、私の脳裏を捕らえて離さないんだ。

今夜は部屋の隅で寝よう。心の中で、誰に誓うでもなしに呟く。
サーニャがやってくるかもしれないベッドじゃ、きっと眠れない。安心して眠っていることなんて出来ない。
もしも明日の朝私のすぐ隣にまたサーニャがいたら、泣いちゃいそうだ。逃げ出しちゃいそうだ。
それからどうする?どうせペリーヌにはどんなに避けたって鉢合わせしてしまう。アイツと私のスケジュールは
さほど変わらない。

(わけわかんないよ、もう)

泣きたいのは、私の方だ。多分全部、私のせいだけれど。


夜間哨戒に出掛けるまでサーニャから逃げて逃げて逃げ回って、最終的にはミーナ隊長にどやされるように
して自室に帰りついたのは深夜過ぎ。サーニャは無事に出掛けたろうか、泣いていたりしないだろうか。そんな
ことを思いながら毛布にくるまって部屋の隅に座りこむ。
結局あのあとにペリーヌに鉢合わせすることは無かった。…とりあえず、今日と言う日はやり過ごせたことに
ほっとする。とはいっても例の件がそもそも日も落ちた頃の出来事だったのだから、数時間でしかないのだけれど。

頭では必死にサーニャのことを考えて、サーニャの心配をしているのに頭に浮かぶ光景はやっぱり泣き笑いの
ペリーヌの顔ばかりだった。そしてその直後の出来事ばかりだった。心がみしみしと軋む。両手で顔を覆って
「あ゛ー」と叫んでも何も変わらない。当たり前だ。
すべては私の油断のせいだ。あんな不意打ちを食らうなんて。普段の自分だったら容易く交わせた…あれを、
敵の攻撃と仮定した場合、だけれど。

気持ちの疲れがどんどんと外側に染み出して行って、考えることを抑制していく。いいからお前はもう休め、
と言われている気がする。
そうだな、わかったよ。自答のように答えて、私は毛布をくるみなおすと目を閉じた。


…が、もちろん、そんな寝心地の悪い場所で眠って安眠できるはずもなく。
目が覚めたのは空も白み始めた頃。最初はどうして自分がこんなところにいるのか覚えておらずうろたえて、
そして直後にすべてを思い出して2倍うろたえた。ふつふつと後悔が湧いてきて、けれども誰に、どう償ったら
いいのか分からない。
そろそろ、サーニャが帰ってきてもおかしくない頃合いだ、と思った。…もしかしたら今日も、サーニャは私の
部屋にやってくるのかもしれない。ただ単に部屋が隣で間違えやすいのか、一人で眠ることの寂しさか、
サーニャは夜間哨戒から帰ると寝ぼけて無意識に私の部屋にやってくることがあるのだ。実際のところが
どうなのかはなんて知らない。ただ私はそれを許容するだけだ。大切な人が無意識にだって私を求めてくれる
のならそれを拒絶する理由なんて私には無い。私の持ちうる最大限の優しさを以ってそれに答えてやるだけだ。

じゃあ、ペリーヌは?
ペリーヌは、私にとって一体なんだったのだろうか。
…大切な『仲間』なんだと、思ってたんだ。彼女がいわゆる『ツンデレ』であることを私はたびたびからかった
けれど、それだってそんな彼女を私なりに気に入っていたからだ。照れ屋で恥ずかしがりで意地っ張り。でも
寂しがり屋。素直じゃないけど嘘なんて絶対つけない、いいやつ。同い年である気軽さもあったのだろうか、
ペリーヌと会話をするのは存外に楽しかった。

そんな、ペリーヌと、あんなことになるなんて。
はあああ、とため息をつく。気恥ずかしいのか悔しいのか悲しいのか申し訳ないのか、良く分からない気持ちが
しっちゃかめっちゃかになってひたすらもどかしかった。
確かに大切だ。大切な、仲間だ。けれどサーニャとは違う。そもそもの毛色が違う。サーニャといるとなんだか
どきどきするときがあるけれど、ペリーヌと一緒にいるときにそんなことは考えない。だから、ちがうんだ。
ちがうったら、ちがうんだ。
目を瞑って懸命に思考を追い出そうとしても何も変わらない。これから自分はどうしたらいいのか、どんな顔を
してこれからをやり過ごせばいいのか、わからなくて途方に暮れるばかり。

どうせ起きるにはまだ早い。起きてるのなんていつ寝ているのかわからない坂本少佐くらいだろう──
そう体の力を抜いた瞬間、その音は、した。

それはギィ、と扉が開く音だった。そしてとてとてと音を立てて、何かが入り込んでくる音だった。
(ああ、やっぱり)
扉に鍵をかけておけばよかったといまさらながら後悔する。けれどもすぐに思いなおす。
だってもしも鍵なんてかけてたら、この部屋に入るつもりだった人間はひどく驚くのではないか?
もしくは力尽きて、部屋の前で倒れこんでしまうのではないか?
…そんなひどいこと、わかっていて出来るわけが無い。
足音は確実にこの部屋にある。いつもとは違う意味で暴れだす心臓を懸命に押さえつけて、こぼれそうな涙を
こらえる。傍から見ればなんてこと無いはずなのにこんなにも怯えている自分はきっと滑稽なんだろう。
でも、やっぱり私は臆病なんだ。



するすると、衣擦れの音。入り込んできた『彼女』が、衣服を脱ぎ散らかしているのだろう。そして多分これから
まっすぐ私のベッドに向かって、そして力尽きて眠ってしまうのだ。…今日は邪魔者がいないから彼女もきっと
良く眠れるだろうな、なんて思いながら目を瞑って、彼女がベッドに倒れこむ音を耳を澄ませて待った。

…待った。

……待った。

(あれ?)
はてな、と疑問符が頭に浮かんだのは、待てど暮らせどその音が耳に届くことがなかったからだ。
どうしたんだろう、と薄目を開くと床の上に裸足が一対。こちらを向いて、あった。…と言うことは、その足の
持ち主もまた、こちらを向いていると言うことだ。ベッドとは全く違う方向の、部屋の隅を向いているということだ。
なんで?どうして?その答えが出る前に、その裸足は歩きだした。緩やかに、でも確実に、私の方に向かって。
わけもわからずかたく目を瞑り直す。とにかく眠った振りを決め込もう。そう考えたのだ。

未来を見れれば良かった。
痛感したのは、昨日から数えて2回目。一回目は昨日、ペリーヌにキスをされたときだ。
もともと勘は良くて、ネウロイの攻撃だって未来を見なくてもほとんど避けることが出来るのだった。能力に
おぼれるものは能力に滅ぼされる。そう叩きこまれているだけに、私も、他のウィッチも、日常生活で自分の
能力を使うことなんてない。

でも、今回ばかりは。

ふっ、と漏れた吐息のような呟きとともにこちらに倒れこんできたそれを、なるたけ自然な動作で抱きとめながら
ひしひしと思う。未来を見ることが出来たなら、もっと、上手く立ちまわれたのかもしれないと。
すがりつくように私に倒れ掛かっているその人を私は良く知っていた。この私が彼女を見間違えるはずが無い。
たとえ目を瞑っていたとしても、それは明白だ。
(サーニャ)
エイラ、って、聞こえた気がしたんだ。倒れこむ瞬間に、サーニャがそう言ったような気がした。それが寝ぼけて
いたからなのか、彼女自身が意思を持って言った言葉だったのか、それはわからない。

恐る恐る目を開くと、私の腕の中で、サーニャがすうすうと眠りについているのが見える。
ふぅ、と胸を撫で下ろして、目を細めてすぐ間近にあるサーニャの顔を見やった。少し、青白いのは夜間哨戒で
疲れ果てているせいだろうか?

「オカエリ、」
起こさないように声を潜めてそう言ってやる。眠っているサーニャに聞こえているはずが無いけれど、私は
そうして自分の仕事を全うした気持ちになりたかった。昨日の晩は結局、サーニャを見送りだしてやることが
出来なかったから。
ああ、なんだ、結構大丈夫じゃないか、私。先ほどまでの混乱はどこへやら、思いのほか落ち着いている自分に
気がついて思わず笑いが漏れる。そうだ、昨日の夜のことなんて忘れてしまえばいい。ペリーヌだって、今日、
また、会ったら元気になってキャンキャン吠えているんだろう…

そこで、ペリーヌのことを思い出してしまった時点でもう間違いだったのかも知れなかった。その瞬間、昨晩の
出来事が鮮明にフラッシュバックされたからだ。抱き締めたときの感触も温もりもすべて頭から体中に巡って
いって、そして今の状況とがっちりとリンクした。
倒れこんできたサーニャを抱き止めるために広げた手が、強張った。目が、あごのすぐ下にある頭をうつす。
からだじゅうが、温もりを感じ取る。
サーニャが小柄だというのは、そんなの言うまでも無いことで。…恐ろしいことに、実は、あの、高飛車なツンツン
メガネも、ひどく小柄だった。

私は失念していたんだ。二人の体つきが酷似していることを。



そこからさきは、もう、考えてる暇なんて無かった。
ただ必死にサーニャから逃れようと本能的に動いた。私にもたれかかって寝息を立てているサーニャを毛布で
包んで抱きかかえて、ベッドにそっと横たえてやる。ぐっすり眠っていたサーニャは何も気付かずに静かに
寝息を立てていた。
直接触れたら気が狂ってしまいそうだったんだ。何が悪いのかなんてわからない、けど今の私じゃサーニャに
向ける顔なんて無いような気がした。

一連の作業を追え、ベッドから一歩下がって、ようやく一息つく。
けれどすでにこの部屋は私のものじゃなかった。サーニャのものだった。少なくとも私にはそう感じた。
出て行かなければならない。それも、今すぐに。あとずさるように後ろに下がって、扉にぶつかって。
「ごめん、」
小さく小さく口にする。聞こえるはずなんて無い。そもそもサーニャはまだ夢の中だ。
けれども今、この場をやり過ごすためにはこの言葉しか私には思いつかなかったのだ。

そして私は静かに部屋を後にした。



「ずいぶんとはやいな、エイラ」
朝食をとるために食堂に行ったら、すでに席についていたバルクホルン大尉に少し目を丸くしてそう言われた。
「…うん、マア、早く起きたりした、カラ」
「そうか。いい心掛けだ。」
ごにょごにょと言葉を濁しながら席につく。訝しげな顔でしばらく私を見ていた大尉はそう短く答えると新聞にまた
目を戻す。余計な詮索をしてこない、きっちりとした大尉の態度が今日はひどくありがたい。普段だったら会話が
続かずに困り果ててしまうところだけれど、大尉はもとより今は誰とも、楽しく会話が出来るような気分じゃなかったから。

おはようございます、と元気な挨拶とともに朝食を運んで来てくれたミヤフジに礼をする。
ミヤフジの料理は美味い。…あのねばねばしたのがなければ。けれども「扶桑ではこれが普通なんです」と
ミヤフジが豪語する通り、ミヤフジが食事当番のときにそれが外れたことなんて無いのだ。
…つまるところ今日もそれはあった。普段だったら「またかよー」と文句のひとつぐらい言いたいところだけれど
それさえも面倒で、私は黙ってそれを調理する。…このナットウとやらは、最後に自分でほぐすのが通例らしいのだ。

おはようございます。ミヤフジが別のヤツに挨拶をした。誰だろう、と前を向く。向いた瞬間、勢いよく顔を逸らした。
そして相手もまた、同じようにしたのを見た。どうかしましたか、ペリーヌさん?心底不思議そうに尋ねるミヤフジに、
いつもの元気の半分もなくごにょごにょと答える声がする。

「おい」
それを聞かないように聞かないようにとしていたら、ばさりと新聞を置く音がしてバルクホルン大尉に尋ねられた。
「そんなにショウユをかけると体に悪いぞ。人の好みにつべこべ言う趣味はないがその辺りでやめておかんか」
その、冷静な突っ込みにハッと我に返って自分が今調理していたナットウを見ると、それはものの見事にショウユ
の下に沈んでいた。…なんてことだ、こんなもの食べたら絶対に胃がいかれる。間違いない。
とりかえようか、とミヤフジが声を掛けてくれたけれど、『食べ物は粗末にするなよ』とでも言いたげな大尉の
視線が痛い。

もうどうにでもなれ。…できることなら、なってくれ。
こんなにしょっぱい朝食は初めてだ、と思いながらそれを口の中にかきこんだ。


朝はサーニャが起きる前に部屋を飛び出して、朝食をかき込んで。なるたけ忙しい振りをして訓練に
出かけたり、当直でなくても率先して出撃したり…そんな風に過ごして、数日がたった。

けれども胸のもやもやは晴れる気配を知らない。当たり前だ。どんなに避けていたって私はその二人と
同じ場所で生活しているのだ。どうしたって出くわす場所では出くわすし、何も知らないかわいそうな
サーニャはいつもどおり私のそばに来てくれる。愚かで馬鹿な私はそれを突き放すことなんてできや
しない。何とか自分の気持ちをごまかしながら、サーニャの気持ちを欺きながら、ペリーヌの気持ちなんて
分からないまま、一日一日を文字通りやり過ごしていた。

…けれどやっぱり最近の私はついてない、らしい。どっかのカタヤイネンじゃないが。
それは昼間の格納庫でのことだった。サーニャが夜間哨戒からなぜかそのまま私の朝食についてきた
サーニャを彼女の部屋まで送り届けて、眠りに就いたのを確認してからここまできた。そうでもしないと
サーニャが私の後ろを付いて回るようになったからだ。…サーニャにもきっと、いろいろと勘付かれている
のかもしれない。

そうしたらすでに、先客がいた。
「よぉ、エイラ」
鼻の頭にオイル汚れを引っ付けたシャーリーは驚いた顔をして「珍しいな」と笑った。暇さえあればストライ
カーをいじっては自分の限界とやらに挑戦しているシャーリーに比べればそりゃ私はここにくる頻度は
ひどく低いだろうな、と思いながら何も言わない。『会話』にならないよう、言葉を濁しながら少し離れた
ところに行き、自分のストライカーの整備をはじめた。…出来ればひとりになりたい気分だったけれあちらが
先にいた手前追い出すわけにも行かないし、ぶらぶらと辺りをほっつきまわっているわけにもいかない。
そのほうがよっぽど気が滅入るからだ。

そうして、お互いにしばらくは無言だった。
私は喋る気分じゃなかったし、シャーリーはシャーリーですぐ横で眠っていたルッキーニに気を遣っていた
のだろうと思う。実際のところは分からないけれど。
…けれど、嫌な予感はしていたんだ。だってシャーリーと来たらずっとずっと、何か言いたげな顔でこっちを
見ているんだから。

「エイラ、お前最近お姫サマとなんかあったの?」

だから、がちゃがちゃと音を立ててストライカーをいじりながらなんともなしを装ってシャーリーが尋ねてきた
とき、私はむしろついに来たか、と思ったのだ。この数日間、確かに私は普段よりもずっと挙動不審だった
はずで。…恐らくは、ペリーヌだってそうだった。
そしてシャーロット・E・イェーガーならば、こんなおいしいえさを目の前にしてバルクホルン大尉のように
ふんと鼻を鳴らして見てみぬ振りをするとは思えなかった。…だから実はシャーリーのことも多少は避けて
いたのだけれど、そもそもそろそろ本当にする事がなくて武器やストライカーの整備でもしようと格納庫に
来てしまったのが間違いだったのだろう。そんなのせっかく熊が冬眠している穴に自分から入り込むような
ものだって、わかりきってたのに。

「…ペリーヌは姫って柄じゃないダロ」
努めて平静を装って答える。まあ確かにあいつは立ち振る舞いもやたらと洗練されているような気もするし、
実際に貴族の出らしいから頷けなくも無い。
(ああ、そうか)
ふと納得してしまったのは、あの時ペリーヌが泣いた理由が少しだけ判った気がしたからだ。だってあいつは
それを、目の前で奪われたんだ。ネウロイに襲われて、家族も領地もすべて焼き払われて。──そして
それは今、私たちの戦っているネウロイの巣の、真下にある。
どんな気持ちだったんだろう、それは。私なんかが推し量ることもできないくらいに辛かったろう、苦しかった
ろう。
…そんな中で出会った坂本少佐の存在は、あいつに、ペリーヌにとってきっと支えだったろう。少佐にすがって
いればなんとか立っていられたんだろう。守りたい人が、一緒にいたい人が、いれば人間はいくらだって
強くなれるから。



かわいそうだ。そう思ったらやっぱりアイツは怒るのかな。
同情なんていらないと、ツンとそっぽをむくんだろうか。でもやっぱり可哀想じゃないか。誰がなんと言おう
ともその事実は変わらないじゃないか。
…はあ。あれから何度ついたかわからないため息を吐き出そうとした、そのときだった。

がしゃーん!と。

盛大に工具を取り落とす音がして思わずそれを飲み込む。みるとシャーリーがぽかんとカバみたいに口を
開けてこちらを見ていた。なんだなんだ、らしくもない。
「…大丈夫か?頭でも打ったのか」
わなわなと震える手を差し出して、恐る恐るといった感じでシャーリーが問う。手を伸ばして額に触れる。
…どうでもいいけどオイルくさい。
私は何を言っているんだとばかりに顔をしかめて首を振った。正常とは言い難いけどおかしくはなっていない。

「いや、やっぱおかしいよお前。最近やたらと訓練とかにも熱心だし…ちょっと疲れてるんじゃないか?
 医務室いかないか?ほら、ルッキーニみたいに寝たらどうだ?絶対そうしたほうがいいって!!」
自前の毛布の上で丸くなっているルッキーニの隣をぽんぽんと叩いて促すシャーリー。さっきの音でも
起きなかった辺り、あのガッティーノは相当安らかに眠っているようだ。
もう一度首を振る。何だか子ども扱いされているような気がして口を尖らせた。だって私はルッキーニよりも
ずっとオトナだ。子ども扱いすんな。

「なんなんダヨ、さっきカラ」
耐え切れずに口を開く。すると私の両肩に手を置いたシャーリーが、ひどく真剣な顔でこう言った。

「だってさ、お前。お前の『おひめさま』って言ったらそりゃ、サーニャだろ?」

その言葉に、今度は私が工具を盛大に取り落とすことになった。



「…で。何があったんだ?」
「何にもナイ」
「そんなことないだろ。普段のお前だったらもっとサーニャサーニャしてるはずだ!坂本少佐と来て
 『わっはっは!』なのと同じくらい!」
「何だよ、ソレ」
「ンニャー、なにがあったのー?」

私のすぐ隣で、シャーリーが私を質問攻めにする。さっきの音で今度こそ目を覚ましたルッキーニが
その後ろに引っ付いてさらにわけの分からないことになっている。半ば無視をしながら、私は目の前の
ストライカーの整備に没頭しようとしていた。だってこんなこと、言えるもんか。

「ペリーヌとサーニャが喧嘩したとか?」
「違ウ」
「サーニャがペリーヌについに復讐したとか?」
「違ウ」
「サーニャとペリーヌが結託してお前を倒しにかかったとか?」
「あり得ナイ」

「わかった、ペリーヌとの浮気現場をサーニャに見られたんだな!」
「だからチガ…アアアアアア!!!」

最後の問いの答えが叫び声に変わったのは、思いっきりストライカーにつんのめって工具をセイミツに
入り組んでいる部分に差し込んでしまったからだ。その光景が面白かったのか、ルッキーニがキャハハハハ
と笑う。私は情けなさにひたすら泣きたくてうつむいて、シャーリーはというと。



「…マジ?」
「マジじゃナイ」
「嘘だ。エイラは嘘つくの下手だな」
「……見られたわけじゃナイ」
「浮気したのか」
「ウウウ浮気じゃナイ!ていうか何だよ浮気って!!私とサーニャは別にそんなんじゃネーヨ!」

思わず声を荒げてしまう。そうだ。私は別に、サーニャとそんな関係とか、いうわけじゃないんだ。もちろん
ペリーヌとだってそうだ。それなのにこの、胸を捉えて離さないようなもやもやした気持ちは何だろう。
なんでこんなにも二人に対して申し訳ないんだろう。
泣きたい。でもシャーリーのいる前でなんか泣きたくない。こんな理由で泣きたくなんかない。…例えば
ここで私が泣いて、シャーリーが抱きしめてきたりしたら私はどんな風に思うんだろう。やっぱり残酷だと
思うだろうか。…思わない。だってシャーリーは私のことを心配して、ただそうしたんだと分かっているから。

…あの時私だって、そうだったのに。

(全然わかんねーよ、バカ)
文句を言いたいのはペリーヌに対してなのか、自分に対してなのか、もう分からない。これから分かる気も
しない。

「なあ、何があったんだ」
「…」
もうこれ以上何も言うものか。そう誓って口を結んだ。目の前には見るも無残に不思議な色の煙を出して
いるストライカーがある。ああ、どうしよう。隊長に怒られるだろうな。そう思うと更に気が滅入ってきた。
何もかも上手くいかない。歯車もボタンもウマだろうがソリだろうが、噛み合わない。
なんとも言えない、と言った表情で私を見ているシャーリーと、それを必死に見ないようにしている私と。
微妙な空気がだだっ広い格納庫に流れた。そこに、何にもわかっていない子猫が能天気に笑い声を上げる。

「なになに~?エイラ、サーニャと喧嘩したの~?」
「ま、そんな感じだな」
「それならいい方法があるよ!ほら、こうして『愛してる~!』って言ってちゅーするの!コレで全部
 かいけつ!!」
言いながらルッキーニがシャーリーの頬にキスをした。あまりにも気恥ずかしい光景に思わず顔を背ける。
「あっはっは、ルッキーニはかしこいな~。私も大好きだぞ~」
二人でけらけら笑う声。普段だったら私だって二人のこんな明るいノリが結構好きで、一緒に笑いあったり
するけれども今はそんなの無理だ。
「…スオムスをロマーニャと一緒にするナ。」
口をついて出た言葉は、変に拗ねたような口調になってしまう。なんなんだよ、もう。これじゃあまるで
小さな子供じゃないか。自分で自分に悪態をつきながらも、止まらない。…むしろこのまま自分をどこまでも
打ちのめしたい気分なんだ。ペリーヌの気持ちが分からない自分に、サーニャのことを忘れてしまっていた自分に、
腹が立って仕方がない。

「エイラってさ、意外とこういう経験少ないんだな。」
「…」
「ほら、お前って黙ってればきれいな顔してるし、飛んだらスオムスの英雄、ダイヤのエース、だろ?
 隊の他のウィッチから引っ張りだこで、『エイラ様はワタシのもの~』とか揉め事とかあったんじゃないのか?」
「…そんなのあるわけないダロ。スオムス空軍を何だと思ってるんダ」
「でもほら、スオムスってそう言うので有名なんじゃないか?ほら隊長を『お姉さま』って呼ばせる…」
「…あ、あれは特例ダ、一緒にするナッ!私だってよく知らナイ!」



ああ、頭が痛くなってくる。シャーリーはこんなネタみたいなことも逃さず食いつくから性質が悪い。
そして更に悪いことには、ここにはルッキーニという純真の塊がいることだ。…こいつもまた、よく状況を
飲み込んでさえいないくせに、何でもかんでも『何それ何それあたしも混ぜてっ』と来るものだから面倒
なんだよなあ。
「なになになになに?何の話っ!?」
ほら、きた。…で、さっきまでやたらとシリアスな顔をしてたシャーリーの顔が緩む、と。
そして、シャーリーもいつもの調子を取り戻すのだ。
「あはははは、ルッキーニは知らなくていい話だぞ~」
「ぶー!ずるいよずるいよ!」
「ほらほら、今度クッキー作ってやるから」
「ほんと!?じゃああのマアム作ってよ!絶対だよ!」
「了解りょうかーい。ほら、あっちいっておいで~」

シャーリーの妥協案(という名のごまかし)に気をよくしたルッキーニは楽しげにステップを踏み始めた前を
見ずにふんふんと妙な歌を口ずさんで踊っている。単純だ。けどだからこそ面倒だ。
ここ数日間まともにしゃべってさえいなかったのに急にしゃべったり叫んだりしたせいか、頭がくらくらしている。
私は今この上なく傷心モードなんだから頼む、しばらく放っておいてくれよ。泣いて懇願したい気分だった
けれどそれをやったらきっと一生ネタにされるだろう。それだけはゴメンだ。ペリーヌのようにはなりたくない。
…そこでペリーヌとの一件を思い出して、また凹む。もう私はだめだ、疲れてしまった。

「と、とにかくっ、あの部隊は伝説的に特別ダ。スオムス空軍の名誉に誓ってもイイ。」
「……必死だな、お前。女の子にモテモテになりてー!とか言ってなかったか?」
「…そんな昔のことは忘れタナ。」
「でたよスオムスのヘタレ性が。やっぱり口だけか~?」
「ウルサイッ…だっ、だいたい国民性に例外がないんだったらハルトマン中尉はどうなる?」
「…そうだな、あいつも一応カールスラントの堅物のはず…なんだよな…」

思い出すのはあの、ズボン騒動のこと。自分のズボンをなくしたらしいハルトマン中尉がルッキーニの
ズボンを持ち去って、そのルッキーニがまたみんなのズボンを盗んで逃げたもんだからみんなで
基地じゅう大捜索、そんなときネウロイの襲撃があって…というアレだ。数メートルはなれたところで
いまだに踊っているルッキーニはもう思い出したくもないくらいの出来事だろうな。
…そのハルトマン中尉の、そもそものズボンをなくした原因が『部屋が散らかりすぎていたから』だったのだ。
うわさには聞いてたけど、実際に見てみたら想像を絶するほどだった。

「だーれの噂してるんだ~?」
突然後ろから掛けられた言葉に驚いて振り返って、シャーリーと二人戦慄する。なぜか決めポーズをして
いるハルトマン中尉がそこにいて、私はまたぼろぼろと工具を取り落とすことになった。目の前のストライカーが
花火みたいな火花を上げる。これはもうだめかもわからないね。……色んな意味で。

「よ、ようハルトマン。珍しいな。どうしたんだ?」
「いやー、ついに寝る場所なくなったからトゥルーデの部屋潜り込んだら朝イチに叩き起こされて説教
 食らってさ~。『部屋は片付けといてやるからたまにはストライカーの整備でもしろ!』って
 追い出されちゃった。」
「ははは、バルクホルンらしいと言うか、ハルトマンらしいと言うか…」
「まあ、でも、今聞き捨てならないことを聞いた気がしたから、もちろんシャーリーとエイラがやっておいて
 くれるんだよね?たすかったぁ~」
「ナナナナナ!!」
「…あきらめろエイラ…」

るん、るん、とルッキーニのようにその場で歌って踊り始めるハルトマン中尉。その『スーパー魔法少女
エーリカちゃんのうた』とはなんですか、とか、メロディがサーニャの歌と一緒です本当にホニャラララとか、
もう突っ込むことも出来ない。ああ、疲れた。昨日までとは全く別の意味で、掛け合わせて疲れた。
と言うか『何コレおもしろーい』なんていいながら、私のストライカーをうっかりを装って更にはちゃめちゃに
しないで頂けませんか。もうそのストライカーのライフは0だと思います。
ああ、サーニャのところにいきたい。いって隣でおとなしく歌でも聴いていたい。癒されたい。…でも、無理ダナ。
自分でもわけの分からないくらいに今はペリーヌのことで頭がいっぱいになっている。あれからまともに会話を
交わしてさえいないのに。だからだめなんだ、もう。私はダメダメなんだ。



「シャーリ~~~もういい~~?お話終わった~?」

少し離れたところからルッキーニが駆けてくる。その足元にはシャーリーや私が落として散らばった工具の
数々が、ある。…いやまさか、ルッキーニだってウィッチの端くれだ。そんなお約束な展開なんてあろう
はずがない…そう思って、嫌な予感がしたけれどあえて未来は見ないことにした。
が、悪い予感は、割と当たるものらしい。

「にゃは~、待ちくたびれちゃった…あああああああああ!!!」

…今度の叫び声は、私じゃない。工具に躓いたルッキーニが、私のストライカーに向かってダイブする
ときの声だ。
ドンガラガッシャーン!!とギャグのような大きな音が格納庫に響き渡る。もしかしたら基地の中にまで
響いたんじゃないかとさえ思えるくらいの音量だった。

『格納庫、何があったの!?報告しなさいっ!!』

通信機からミーナ隊長の声がした。無残なことになっている私のストライカーと、その上で伸びている
ルッキーニを3人でぽかーんと見ている。

「…シャーロット・E・イェーガー大尉、エイラ・イルマタル・ユーティライネン少尉。」
「…なんだ、エーリカ・ハルトマン中尉」
中尉の呟きに、シャーリーが答えた。私も中尉の方を見やる。
「逃げよう。」
「…『僚機を失ったものは戦術的に負けている』んじゃないのカ?」
「戦術的に負けたって、ミーナの説教からは逃げられたほうがいいと思わないか、ユーティライネン少尉」
「…イエス・マム」

私の返事を皮切りに、瞬時にきびすを返して私た逃げ出すことにする。どうしてこんなことになったのか、
やっぱりこれも自分のせいなのか、と思ったけれど、とりあえず何かに夢中になっている間は何も考えずに
いられたからそれはそれでありがたいとも思った。


逃げている途中でこっそりとシャーリーたちと別れて、しっちゃかめっちゃかになってしまったストライカーの
様子を見に行った。もちろん見つからないようにそろりそろりと。
さっきはあんなに乱暴に扱っちゃったけどあのメルスは私と一緒にたくさんの戦場を潜り抜けてきた相棒だ。
放っておいて置けるはずがない。…え?ルッキーニ?まああれの尻拭いは保護者のシャーリーがしといて
くれるだろ。
遠くから自分のいた辺りを眺める。そこにはすでに整備の兄ちゃんたちがわらわらといて、ちょっとうなだれ
たりしていた。その目に光るものが見える気がするのは…うう、気のせいだ、気のせい。あれは不運な事故
だったんだ。

(だって、シャーリーがあんなこと言うから)

おまえのおひめさまって言ったら、サーニャだろ、なんて。
それが真理で、絶対不変あるかのように言った。だからお前はおかしいと。頭でも打ったのかと。
(どうしちゃったんだよ、わたし)
分かってるんだ。ヘンだって。最近の私はどうかしてる。普段は気にも留めないはずのことばかりが気に
なって、いつもは気を配っているはずのことをおそろかにしてしまっている。
あの時流せなかった涙が目頭に溢れてくる。何が何だかよくわからないけど泣きたかった。

(だって、だって)

サーニャが一番、大切。そんなこと私が一番、そう信じていたはずなのに。
あの一瞬だけだとしてもそうではなかったことにこんなにも打ちのめされている。たぶんこの胸の罪悪感は
そのせいだ。たぶんサーニャに対して申し訳ないというよりも、そう信じてた自分を裏切ってしまった気がして
悲しいんだ。

お姫様、なんて。そんな風に名前をつけたことはないし、意識してみたことはない。
じゃあどんな風に思ってたんだと問われると難しいけれど、たとえるなら私にとって、サーニャは温室の中で
穏やかに咲いている一輪の白いバラみたいな、そんな存在だった。どっかの誰かがガラスの容れ物に大事に
大事にしまって育てているような、そんなもののような気がしてた。今になってみると、それは確かに「おひめ
さま」と言うのに相応しかったのかもしれない。考えてみればあまりにも。
外の空気に晒したらたちまち枯れてしまいそうだから、だから必死に守ってきた。汚れた心でそのまま触れた
らきっとよごれてしまうから、念入りに念入りに心を洗って接してきた。サーニャのいる場所だけほんわかと
柔らかで丸い光に満ちていて清潔で、そこは私にとっては別世界だったんだ。まだ誰も足跡をつけていない
一面の白銀世界のような、霧雨けむる早朝の誰もいない湖のほとりみたいな、そんな。
そのくらい綺麗だと思ったサーニャに求められて差し伸べて、ためらいながらも確かににぎり返してくれることが
嬉しかった。今までであった誰とも違う、サーニャは特別でとびきりの存在だった。間違いない。

ぽかん、と拳骨で自分の頭を叩く。頭の中がこんがらがって、なにがなんだかわからなくて、できることなら
叩いて壊して一からリセットしたかった。そんなことしたって、私はばかだからどうせまたおなじ過ちを繰り
返すのかもしれないけれど、それでも。
そんなことを考えながら扉のふちに頭を押し付けて格納庫の様子を眺めてた、少しばかり油断していたそのとき
だった。
「エイラさんっ」
突然背後から話しかけられて、慌てて涙を拭って振り返る。まるで今起きてきたばかりで大きなあくびをした
ところだと言わんばかりに。

「ナンダァ………って、リーネか。どうしタ?」
「どうしたもこうしたもないですっ!」
てっきりミーナ中佐かと思ってどきどきしながら振り返ったら何のことはない、リーネだったから表情を緩め
たら、突然怒鳴りつけられた。
…な、なんだなんだ、なんで怒ってるんだ?思い当たる節は……ありすぎて断定できない現状だ。この間も
いたずらついでに胸揉んだしなあ。うん、あれはいいものだった。いや、決して疚しい気持ちなんかないぞ。
私はリーネをそんな目で見たことなんかないんだからな。ペリーヌだって、…………もちろんサーニャだって。
まあ、今の状況ならやっぱりストライカーのことだろう。ミーナ隊長から早くも聞かされたのかもしれない。
ルッキーニが誰か駆け付けるより早く目を覚まして逃げたのだったら、やっぱり一番疑わしいのは私だしなあ。
……でもそれってリーネが怒ることかあ?まあ、魔女の端くれなら、そりゃ怒りたくもなるだろう。

ともかく、思っても見ない相手に声を荒げられた私はうろたえるばかりで、少しだけ下にあるリーネの目線に
ひたすら縮こまることしかできなかった。下にもたくさん弟妹がいるのだと言うリーネは、怒ると案外怖い。
まあ、もともとが恐ろしく温厚で、しかも階級も一番低いから私たちに対してリーネが怒ることなんてほとんど
ないけれど…将来偉くとかになったりしたときが、怖いな。

「ご、ごめんってバ!!わざとじゃないんダ、ただちょっと手が滑って」
リーネの顔が険しくなる。とは言っても膨れ面で、むしろ子供みたいなんだけれど、何しろこの剣幕だ。
こわい。とてもこわい。
「…『手が滑って』ああなるんですか?一体どんなひどいことしたんですか!!」
「…それは…まぁ…いろいろと…」

ネジ回し思いっきり回路部分にくし刺したりだとか、
スパナで何回も何回も叩いたりだとか、
つまづいて盛大にひっくり返したりだとか。
私の目の前で広げられたその惨劇を、一つ一つ思い起こして頬をかく。…どう考えても、言ったらさらに
怒られそうで言葉にできない。だからあれは不運な事故だったんだ。…いや、ハルトマン中尉のアレはどう
考えてもわざとだけれど。よく考えたら一番のとばっちりはシャーリーだよなあ。面倒だから謝らないけれど。

「言えないくらい、ひどい事をしたんですね…っ…エイラさん、私、エイラさんのこと見損ないました。」
しかめ面のまま言われてしまって、私は今度こそうなだれるしかない。そうだよな。ウィッチにとってストライカー
は相棒だもんな。それを大切にできないなんてウィッチ失格だ。

「…ゴメンヨ…ミーナ隊長には正直に謝るから…」
「そうやってすぐごまかす!謝るならちゃんと本人に謝らなくちゃだめです!許してくれてもくれなくても、
 ちゃんと誠意を示さないと分かり合えないんですよ!」
「………ハア?なんで?」
ナニ言ってんだお前、と。間抜けな声を上げてしまったのは、リーネの発言があまりにも意味不明だったから。
だって人間じゃあるまいし、ストライカーに謝ったって意味なんかないじゃないか。誠意とかいうのはまあ
わからなくもないけれど。
けれどリーネは聞く耳を持たない。

「『ハア?』じゃないです!ほら、行きますよ!」
「ワワワワ、どこに連れてく気だよ!」
「そんなの部屋に決まってるじゃないですかっ!!」
「だからナンデッ!ストライカーが壊れたのは確かにそりゃ、元はと言えば私のせいだケド、なんかさっきから
 リーネおかしいゾ!!」


「……え?」
私の腕を掴んで、どこかへ連れて行こうとしたリーネがきょとんとした顔をする。すとらいかー?少し間抜け
な呟きが漏れた。
「…なんのことですか?私が言っているのは、サーニャちゃんのことですよ。…どんなひどいことしたのか
 知りませんけど、まずはちゃんと謝るべきです!!」
さーにゃ。その単語を聞いて私は固まった。つい先ほどまでの言い合いの断片が、頭に蘇ってくる。
私はサーニャにひどいことなんて、してない。傷つけないように、傷つけないように、そうやって接してきた
はずだ。
許す、とか。「ああなる」、とか。すべてのわけがわからない。だって私はそれをすべてストライカーのことだと
思いながら聞いていたのだ。だから全部あっさりと納得が出来た。
でも、違うって?いままでリーネが言っていたことはすべて、サーニャのことだって?うそだ、そんなの。

ちらり、と格納庫のほうをまた、見やる。くすぶったような煙はもうでておらず、整備のにーちゃんたちは早くも
作業を始めたようだった。だけどその陰に隠れているストライカーの状態がどんなにひどいものだったか、
私はちく覚えている。
…それと同じようなことを、私がしたっていうんだろうか。いつ、どこで?
何ひとつ思い至らない。この数日は毎日をやり過ごすのに必死すぎて、そういったことに気を回している暇
なんてなかった。

「…ちょっとマテ、まってくれ。わけがわからなくなってきた」
頭を抱えて少しうつむく。その上から掛かる、優し気だけれども今の私にとってはとても残酷な言葉。
「エイラさんは最近少し、様子がおかしいです。…サーニャさんのこと、避けてる」
「さ、避けてナンカ……イヤ、そっか…」
指摘されてはっとする。そうだ、確かに関わらないようにしてきた。どんな顔をして会えばいいのか分からな
かったから、ずっとずっと避けてきた。いつもはむしろ私の方から進んで彼女の世話をかってでるのに、ここ
数日はサーニャから近づいてこない限り私から何かをすることはなかった気がする。なんでだか分からない
けれど罪悪感が募って募って、いたたまれなくなるから。何をしてもペリーヌのことを思い出して自分の愚かさ
が嫌になるから。
言い訳なんて出来るはずがない。それは確かに、サーニャ自身にしてみたら自分を避けているようにしか
見えなかったのかもしれない。

(なんで気付かなかった)

自分で自分がいやになる。私はいつだってサーニャのことを誰よりも心配していたし、彼女を傷つけたりしない
ようにどんなときも細心の注意を払って立ち振る舞っていたはずだった。サーニャの様子を見て、あまり
はっきりとしていない彼女の感情の機微を捉えて、大丈夫かと声をかけて小さなことでも手を伸べて。
そうして私がぶっきらぼうに差し出すそれを受け取って、サーニャが微笑んでくれる顔を見るのがなによりも
幸せだったから。
でもここのところの私は違ってた。ペリーヌとの一件にひとりひどくうろたえて、自分でどう立ち回ればいい
のかさえわからずにおろおろと戸惑ってさまよって、いつのまにかサーニャのことなんか見向きもしないで
過ごしてた。いつもは目を瞑ってたってできることさえおろそかにして、多分サーニャをすごく傷つけた。

「ケンカでもしたんですか?何があったんですか?…避けてばかりいないで、ちゃんと話さないと。
 そうしないと、仲直りなんて出来ませんよ」
リーネの言葉はひどく温かくて、私とサーニャのことをひどく心配しているのが見て取れた。さっきあんなに
怒っていたのだって、きっとサーニャを放っておいてこんなところでほっつき歩いている私が許せなかった
からなのだろう。リーネは気遣いのエキスパートだ。
でもそんな言葉さえ、今の私には鋭く突き刺さる。だってサーニャは何も悪くないんだ。

「ケンカとか、そんなんジャ…」
事態はもっとフクザツカイキで、深刻なんだ。それを伝えたかったけれどそのためにはペリーヌを巻き込ま
なければいけなくなる。私自身の保身のために今ひどく傷ついているであろうあいつを巻き込むのは、ひどく
可哀想なことのような気がした。…それなら嘘をついてでも、偽ってでも、私がひとりで傷ついたほうがいい。
たぶん、私にはそれを受けるだけの理由がある。

「なんでもないヨ。ただ、ちょっと、疲れがたまってたダケ。」

おどけるように作り笑いを浮かべて、リーネの肩を叩いてやる。ごめんな、すぐ行くから。そう言ってまた
どこかに逃げようと歩き出したら、再び呼び止められた。
「ちょっとまって、エイラさん、」
リーネと同じようにさん付けで、私を呼ぶその声が誰なのか、私は自身の背筋が凍るのを感じて認識する。
「あ、ミーナ中佐!」
出来れば何も聞こえなかったことにしてそのまま走って逃げ出したかったけれど、リーネがその人の名前を
口にしたことでその計画はもろくも崩れ去った。

「エイラさん?」
直立して、昔習ったとおりの形式ばった反転。「中佐、オハヨウゴザイマス~」。引きつった笑いを浮かべて
挨拶をしたら、やっぱり満面の笑みで「そうね、おはよう」と帰ってきた。ああ、でも、目が笑っていませんよ隊長。

「私はストライカーユニットのことでお話があるの。部屋まで同行してくれるわよね?」
微笑むミーナ中佐の後ろで笑って手を合わせている大きな影がある。シャーリーだ。その隣ではガッティーノ
があかんべーをしていた。…ちょっと待て、止めを刺したのはお前だろう。

「話はシャーリーさんたちから聞きました。犯人は現場に戻るって、よく言ったものよねえ」
絶対零度の笑みが私の背筋をしんしんと冷やしていく。ちくしょう、スオムスの冬でだってこんな寒くないぞ。
隊長の後方にいるシャーリーいるを軽くにらみつけても、ごめんなー、とばかりに肩をすくめられるばかり。
よく状況がわからない、と言った顔をしたリーネが一人首を傾げていて、ルッキーニは「逃げるからだよー」と
にゃはにゃは笑っていた。いや、だからお前も共犯だろ。シャーリーはともかく。

「リーネ、ちょっと頼まれてくれないカナ」
「はい?」
「サーニャについててやって欲しいんダ。まだ、しばらく戻れなさそうだかカラ」
そうだ、そうしてサーニャも私以外の人の優しさに気付けばいい。ふたりぼっちのせかいよりもずっと、その方が
サーニャだって楽しいはずだ。こんなに自分のことばかりの私のことなんて、もう見捨ててしまっていい。
そう思うくらいに私は打ちのめされていた。もちろんストライカーユニットのことじゃない。これから待っている
説教のことでもない。…こんな、ばかで、おろかで、ざんこくな、自分にだ。あのときの、ペリーヌの笑顔が
また脳裏に蘇る。泣きながら笑って私に吐いたあの言葉が、あの時は暴言としか思えなかったその言葉を、私の
頭の中を支配していく。今なら私にそう言い放ったペリーヌの気持ちが分かる気がした。


「イエス・マム…」
行きましょうか?尋ねる隊長に返事を返して、私は小さくひとつため息をつくと、すぐ脇をすり抜けたミーナ隊長
の後ろについていくことにした。


普段気付かないものだけれど、私は自分が思っている以上に他人に見られたり、気を遣われていたりするらしい。
ミーナ隊長の執務室をあとにして、言いつけられた場所に向かいながら思った。ぽりぽりと頬をかく。何だか妙に照れくさい。

執務室で、どこぞの黒幕みたいに椅子に座り込んだミーナ隊長を目の前にして。
ああ、もう何が起こってもしるかもう、なんて高を括りながら隊長の言葉を待っていた。トイレ掃除だろうが
基地中の床拭きだろうが窓掃除だろうがなんだってやってやる。…むしろ、それで少なくとも1週間は時間が
つぶせるだろう、なんて考えていたのだ。
エイラ・イルマタル・ユーティライネン少尉、と形式ばった呼び名を聞いてピッと身を改めて、直立不動で「ハイ」
とだけ返事をした。

あれ、と思ったのはその、見つめた先の隊長が笑顔だったからだ。それも作り笑顔じゃなくて、もっと柔らかくて
優しいものだった。長いこと同じ場所で生活しているんだ。隊長の笑顔の違いなんて見ればすぐに分かる。
内心うろたえる私をよそに、隊長はすぐにその表情を崩した。そしてゆっくりと立ち上がると、私の肩に手を
置いて、まっすぐに目を見つめて、尋ねてきた。

だいじょうぶ?

それは、そう言えばシャーリーからもいわれた言葉で、それは私があの、失言をしてしまったからだった。
けれど今回はちょっと違う。隊長は、それ以上何も尋ねてこなかったのだ。ただ赤い色の目が私を見ていて、
なんか夕焼けみたいだ、なんて場違いなことを考えることが出来るほどに、それは威圧など微塵もなかった。
じゃあ、私の眼はなんだろう?サーニャはあけぼのの空のあおだっていうけれど。そこまで考えが至るほどに、
不思議と心は落ち着いていた。
けれど問いには答えなかった。言葉が見つからなかったからだ。だいじょうぶかと言われたら、きっと私は
大丈夫なんかじゃないんだろう。そんなの自分でも自覚していることだ。けれどそれを答えたら理由を話さな
ければならなくなる。どうしたの、なんて今の隊長に聞かれたらたぶん私は全部吐き出してしまうだろうと思った。
だから、言葉にしなかった。

「フラ…ハルトマン中尉の部屋の掃除の続きをお願い。それが終わったら自分の部屋で休むこと。…いい?」

労わるように、ゆっくりと。言葉にされたのは命令なんかじゃなくて「お願い」だった。無理だったらそれでいい、
とその目が語りかけていた。うん、と私はうなずく。
「ヤル。やります。」
いろいろなこと、整理しなくちゃ。このままじゃだめだ。私はウィッチだ。戦うためにここに来たんだから。
わかっているのに方法が分からなくて、悩めば悩むほど迷って袋小路でいた私にとって、その作業はうって
つけのような気がしたからだ。



ハルトマン中尉の部屋にたどり着く。ざっくばらんに物が置かれている割には片付いていてむしろ驚いたくらい
だった。…だって今日、『寝る場所もなかった』なんて言ってなかったか?思い出した瞬間、ああそうか、と
思い至った。

(バルクホルン大尉が掃除してたんだっけ、怒って)


一応公事と私事とを分けて振舞っている隊長や大尉と違って、ハルトマン中尉はいつだって「ミーナ」「トゥルーデ」
だ。隊長はともかく、バルクホルン大尉は元の名前の片鱗もないからいつもわけが分からなくなるのだ。ここ
まで来ると、むしろ混乱している私たちを見て楽しんでいるんじゃないかと思うけれど、ところがそうではない
らしい。この間シャーリーの部屋で行われたバルクホルン大尉の愚痴吐き大会で大尉が言っていたからだ。
にわかには信じがたいことだけれど、私よりもずっと付き合いの長い大尉が言うんだ、たぶん間違いない
だろう。
しょっちゅうつき合わされているらしいシャーリーは「疲れた」とぼやいていたけれど私は結構楽しかった
んだよな、あの会。あの仏頂面の大尉の顔が崩れる瞬間を間近で眺めるなんて、そうそうできる体験じゃない。

ほうきやらモップやらちりとりやら雑巾やらといった掃除用具は、ご丁寧に整然と置き忘れられていた。きっと
大尉が置いていったんだろう。あの人が作業を放っていなくなるなんて珍しいけれど、どうせいないなら
使わせてもらわない手はない。
床に落ちているものを拾い上げては、明らかに要らない紙くずだとか布切れだとかを恐らくゴミ袋にしていた
のであろう麻袋に詰め込んで、衣類はとりあえずまとめて洗濯に出すためにこれまた別に麻袋に詰める。
まだ着てないからいいじゃないか、と言われそうだけれど衛生的に止めておいたほうがいいだろう。なんて
ったって得体の知れないビンが転がってたりする部屋だ。

書きかけの手紙、何かしらのメモ、写真。…そのうちに、きっと『要るもの』だと思われるものがたくさん出て
きて、私は少し申し訳ないような、照れくさいような気持ちになるのだった。…掃除はキライじゃないし、足の
踏み場もなくなるほど部屋を散らかしたり服を畳まずに脱ぎっぱなしにするのに比べたら私はきっと綺麗
好きなほうなんだろう。でも、他人の部屋まで乗り込んでいって掃除するほどではない。…まあ、バルク
ホルン大尉の場合はハルトマン中尉のお目付け役というか、保護者というか…とにかく、心配でならないから、
って言うのもあるんだろうけど。

…そうだ、たぶん、私がサーニャの世話を焼きたいのと同じ。
サーニャだから、きっと私は彼女の手を引いてしまうんだろう。眠気にふらふらしていたなら支えてやるし、
服を脱ぎ散らかしたなら畳んでやる。シャンプーが目に入ると言うなら洗ってやる。望まれているなら、
私のできるすべてをしてやる。
だって、頼られるのが嬉しいんだ。大切に大切に思う気持ちを上手く言葉に出来ないもどかしさを自分が
一番痛感しているから、だからそうして態度に示すんだ。間違ってるかもしれないけど、大尉のそれとは、
違うかもしれないけれど。少なくとも私にとっては、そうだ。

そんなこと私にとってはすでに確定事項だった。悩むこともなくすんなりと、ここまではたどり着けるのだった。
…問題はここからなんだよな。それから先が分からなくて、でも確かめるすべも勇気もなくてここまで来て
しまった。
はあああ、と長いため息をついたその瞬間、だった。

「…まだ終わってないゾ、中尉、…ってあ…」

ギィ、と言う音を立てて扉が開いた。ハルトマン中尉だと思った私は、気だるそうに返事をして…そして、
固まった。けれど相手は臆する様子もなくすたすたと室内に入ってくるのだった。

「ペリーヌ、」
「手伝いますわ」

…なんだか妙に緊張しながら話しかけたら、ぴしゃりと言い放たれてしまう。思わず伸ばした手をぴたりと
止めて、こちらに背を向けて雑巾を搾り出すペリーヌの後姿を見た。…貴族らしからぬ、その姿。お姫様
なんて程遠い、その様子。
「…ウン。」
不意に導き出せそうだった答えを追うのを、その手を下ろすと同時に止めて、私はひとまずこの部屋を
徹底的に綺麗にしてやることにした。



作業を一通り終えた頃には日はもうとっぷりと落ちていて、明かりをつけなくてもいいくらいだった部屋は
すっかり薄暗くなっていた。そのせいで部屋の全容を掴むことは出来ないけれど、たぶん相当綺麗になった
ろう。…どうせ最初は目も当てられない有様だったんだろうから。

そろそろやめようか。そう語りかけることもなく、私は床に座り込む。ベッドを背もたれ代わりにして伸びをする
と体中がパキポキと音を鳴らした。働いたなあ、なんて、ひどく久しぶりに思った気がした。
私のそんな様子を感じ取ったのか、ペリーヌも作業を止めたようだった。そして恐らくは私と同じように、
けれども十分に距離を開けて、床に座り込む。部屋の暗がりのおかげで私からはあちらの姿がほとんど
見えない。たぶんそれはあっちにとっても同じだろうけど。

ねえ、どうして。

その言葉をどう切り出せばいいのか、暗闇に溶け込んだ部屋と壁との境界線を眺めながら考える。私の
気持ちは私のものだから、いくらでも作り出すことが出来るし、練りこむことだって出来る。けど他人の
気持ちは違うんだ。違うから、その真意が分からなくて惑ってしまう。勝手に推測する事だって出来るけど
それじゃあ相手を傷つけてしまうかもしれないじゃないか。

ねえ、どうして、キスなんてしたの。
暗闇ばかりしかない、彼女のいる方向を見やって思った。それだけで伝わればいいのに、なんて都合の
いい事を。

「らしくありませんでしたわね」
「…ナニが」
「ここのところの、あなたです」
「誰のせいだと思ってんダ」
「…わたくしのせい、ですわね、きっと」

会話の始まりは、やっぱりそんな言葉の応酬。けれどいつも交わすそれと違ってお互いに普段よりも
トーンが低い。話しかけてきたのがペリーヌからだと言うことも、いつもと違う。ひとりでツンツンとして、
ちょっと寂しそうにしているペリーヌをからかい半分にいじることが、私の常だったから。こいつもこいつなりに
気を遣ってたりするのかもしれない。

「悩みました?」
「……シラネ」

認めるのが嫌でそう吐き捨てたら、ペリーヌは小さく笑った。なんだかそれだけでほっとしている自分がいて
不思議だ。私との会話でペリーヌが笑顔になることなんて皆無に等しいのに。むしろ怒らせたりしたくて話し
掛けるのに。…なんでだろ、今は、そうしちゃいけない気がした。

「…八つ当たり、でしたわ、たぶん」

なにが、なんてペリーヌは言わなかったし、だから私も問わないことにした。代わりになんとなく口許を手で
押さえる。その感触はまだおぼろげにそこに残っていて、思い出した瞬間に顔が熱くなった。…と同時に、
彼女の口を付いて出た答えに少しがっかりしている自分もいて更にうろたえる。だって八つ当たり、って事は
本気じゃないってことで、それはたぶん坂本少佐の代わりだった、ってことで。…なんとなく、うすうす、感づ
いてはいたのだけれど、やっぱり言葉にされるのは悔しかったんだ。



「…けれどあの時あなたに言ったことも、ほんとう。…あなたは坂本少佐に少し、似てますわ。バカみたいに
鈍感なところ、残酷なくらいに優しいところ、愚かなまでにまっすぐなところ。…もちろんほんの少しだけですけれど」
「…褒められてんだか、けなされてんだかわかんネー」
「坂本少佐であるならえくぼになるところですけれど、あなたではあばたになる部分ですわね」
「なんだよ、ヒッデーな、ソレ」

あの、いつも「わっはっは」なんて笑ってる坂本少佐と私が似てるなんて、いまいち信じられない。…でも、
あの人の強さは同じ部隊で過ごしている間に散々思い知らされた。今となっては憧れのウィッチのひとりだ。
そんな人と似ていると言われて…まあ、悪い気はしない。
…それに。今度は私の口から、クッという笑いが漏れた。だって、私も似たようなこと考えていたのだ。

「私もさ、似てると思ったンダ。サーニャと、ペリーヌ。」
「…それは褒め言葉ですの?」
「どこが、って言われると困るケド、小さいところとか、寂しがりなところとか、なのにすぐひとりで抱え込もうと
 するところとか。…こう、方向性はまーーーーーったく違うけど、根っこの部分が、似てル。」
「それって、似てるっていいます?」
「似てるけど違う、って感じだな、ウン。だってホラ、サーニャのほうがずっと可愛い」
「腹立ちますわね…!それを言うならあなたより少佐のほうがずううううううっと素敵ですわよっ!」
「なんだとコノヤロー!」

サーニャのほうがいい匂いだ、とか、髪がふわふわしてる、とか。
坂本少佐のほうが笑顔が可愛い、とか髪がさらさらしてる、とか。
挙句の果てには本人とは全く関係のないストライカーユニットのデザインにまで言及して押し問答する。もち
ろん私はサーニャ派だし、ペリーヌは少佐一辺倒だ。しかもお互い譲る気が欠片もない上にそもそも張り合う
土俵が全く違うからとどまることを知らない。
言葉はだんだん声高になっていって、ひそひそ声に近かったやり取りはいつの間にかいつもどおりの口
ゲンカまがいのそれに変貌していた。

「サーニャのぬいぐるみは可愛いんだゾ!!ふかふかで柔らかくて、抱き心地が最高なんダ!!」
「それを言ったら少佐のカタナだって!!あの美しい曲線美、繊細な造形…思い出すだけでうっとりしますわ!!」

いつの間にかはあはあとつく息まで感じるほど私たちは近づいて、向かい合って、互い掴みかからんと
していた。

「うっせー、このツンツンメガネ!!!」
「ヘタレに言われたくありませんわっ!!」

この、少しは気にしてることをっ!!もう許さんと手を伸ばしてその襟首を引っつかむとペリーヌもまた、
同じようにして…その瞬間、はっとした。いつの間にやら外からは月の明かりが差し込んできている。それに
照らされて、互いの姿が見えたのだ。
まるで子供のけんかみたいだ。本人がいるわけじゃないのに、けなされたわけでもないのに、こんなに熱く
なってつかみ合う寸前までいって。
それが滑稽で仕方がなくて思わず噴出すと、やっぱりペリーヌも同じ事を思ったようだった。…なんだか、
私とこいつのほうが似たもの同士みたいだ。絶対に肯定はしないけど。その様子が妙にツボに入って、
ひどくおかしな気分になって、あはははは、と声を上げて笑う。それが伝播したかのようにペリーヌも笑い
出す。なんなんだよもう、よくわからないけど、おかしすぎる。
しばらくそうして二人で笑いあって…そしてふと、やっぱり同時に笑いが絶えた。



「…わたくし、あきらめないことにしましたの。」
何を、なんていちいち聞かない。どうせきっとこいつと私も似たもの同士なんだ。考えていることだって、同じに
決まってる。
「あのあとすごく後悔しましたから。…少佐には何もしていないはずなのに、嫌われてしまったような気分だった」
「……ソリャ、かわいそうにナー」
「…同じだったくせに」
「……シラネ」
「素直じゃありませんこと。…とにかく、安易な道には逃げたくありませんの、もう」
私は安易な道なのかよ、と突っ込みたい気持ちで一杯だったけれど、せっかくペリーヌが自分の決心を
話しているんだ、何も言わないでいてやる。私と少佐がペリーヌの言うように少し似てて、で、少佐のほうが
『ずううううううっと素敵』なんだったらそりゃ、私は『安易な道』ってやつだろう。少なくともペリーヌにとっては。

「だからエイラさん、あなたも」
「私?」
「さっさと行ってくださいな。馬鹿みたいなこと気にしないで、まっすぐ、行けばいいじゃありませんの」

そこまで好きなら、ね。
にっこりと笑うその表情を私はあの時と同じように綺麗だ、と思ったけれど私が最後に見た笑顔と似ている
ようで違う、気がする。あのときのようにドキリとなんてしない。後ろめたい気持ちも何もない。…そう言えば、
勢いでものすごいことこいつにいっちゃったんだな、サーニャ本人にだって言ったことがないのに、なんて言う
気恥ずかしさはあるけれど。

「…そう、ダナ。ありがとう、ゴメン、ペリーヌ」
立ち上がって、お礼と、謝罪の言葉を述べる。見上げてくるペリーヌが目を丸くして、直後に顔をしかめた。
「それはこちらの台詞だと思いますけれど」
「?そうなのカ?まあいいジャン」
「あなたがそう言うなら、まあ…」

自分でもてるだけの掃除用具とゴミ袋を持って部屋を出る。とりあえずこれを処分して、あとは風呂に行こう。
んで、いろんなこと洗い流そう。
…そうしたら、サーニャに会いに行こう。言わなくちゃいけないこと、たくさんある。なんてったってこの数日
まともに会話も交わさなかったのだ。もし失敗してサーニャが口を利いてくれなかったりしても、たぶん
ペリーヌが愚痴に付き合ってくれるだろ。ここまで来たらとことん巻き込んでやる。

じわじわと胸の奥から染み出してくる染み出してくるここ数日間の心地よい疲れに大きくひとつあくびをして、
窓の外を見る。すっかり暗がってしまった空に、ああやばい、サーニャが夜間哨戒に出掛ける前に戻ら
なくちゃ。そう思い立って足を速めた。


流石にサウナに行っている時間はなかったから、扶桑のオフロで手早く汗を流して……と、思っていたら、
実際のところ私は相当肉体的にも、精神的にも疲れていたらしい。つい湯船の中でうとうとしてしまって結局
自室への帰路につくまでにかなりの時間が掛かってしまった。
時計は見ていないけれど、体感的に言うともうサーニャは夜間哨戒に出掛けてしまっている時間だ。なんで
分かるのかなんて聞くのはもう無粋だ。第二の固有魔法と誇ってもいい。たぶん、私はサーニャに関すること
だったら普段よりもずっと敏感になれる。
それは、もちろん、私が『いつもどおり』の場合だけれども。

(今日も、見送ってあげられなかったな)

喉の辺りにまだ残っているように思える湯の感覚にむせながら、がっくりとうなだれた。湯船でつい眠って、
挙句の果てに溺れかけただなんて、みんなには絶対に言えない。笑い話にも出来ないほど情けない失敗だ、
恥ずかしい。
…恥ずかしいと言えば、つい、さっきの。
少しだけ喉が痛むのは、大声を張り上げすぎたからだ。だってサーニャのいいところをいくつもいくつも並べ
立てた。いつもいつも心に思っては、言葉に出さずに飲み込んでいる言葉たちを、バケツをひっくり返した
みたいに全部ぶちまけたのだ。…その場の勢いとは言え、他人に対して本音をあんなにもさらけ出したのは
もしかしたら初めてかもしれなかった。

だから、ちょっぴり後悔すると同時に高揚もしてる。だってペリーヌは私と同じように、坂本少佐への気持ちを
ぶちまけたから。ふたりだけのひみつ、なんて可愛らしいものじゃないけど…言うなら、そうだな、共犯者
みたいなもんだろうか。言うな、なんてお互いに言わなかったけれどきっと多分他の誰かに打ち明けること
なんてないだろう。だってそれはお互いにとっての弱みであり強みなんだから。

許したり、許されたり、そんなやり取りはしていないけれど、きっともう仲直りだ。起きてしまったことなんて
どうしようもないけれど、きっと明日朝起きれば都合よく忘れているような気がする。そんでまた、今までと
同じように、けれども少し違ったやりとりを交し合ったりするんだろう。だから、後悔しているけれど満足も
している。

そんなことを考えているうちにたどり着く、サーニャの部屋。
いるはずがないってわかっているけれどノックをする。いちいち未来予知をするまでもなく予想は大当たりで、
返事なんてなかった。分かってはいたけれど、自分の情けなさに嘆息する。

これからどうしようか?
…とりあえずは部屋に戻って、今日はずっと起きていて、サーニャの帰りを待とう。帰ってくるサーニャに
一番に「おかえり」と言って「ごめん」と謝らなくちゃいけないのだ。

なんで謝らなくちゃいけないのか、ちょっと前の私には分からなかったけど今なら分かる。一緒にいて
やらなかったから、寂しがらせてしまったと思うから、謝るんだ。いつもどおりでいられなかった自分で、
不安にさせてしまったのだと思うから。
いつも無意味に口を付いて出る「ごめん」とは違う。目的がちゃんとあるから、私にとっては意味がある。
意味があるなら、何かは変わるだろう。それは目に見えるものじゃなくてもいい。ちっぽけだっていいのだ。

(…とは言うけど、やっぱり今すぐに会いたかったよなあ)

言い聞かせているのはまたぐだぐだと落ち込みたくないからで、本音はやっぱり情けないもの。
会いたかったのは、ずっとだった。でも会っちゃいけないんだって、私にはその資格がないんだって、勝手に
決め付けていた。気持ちを全部内側に内側に溜め込んでいたから、行動まで後ろ向きになってしまった。
でも今は違うんだ。会いたい、会いたい、会いたい。その気持ちが止まらないんだ。ハルトマン中尉の部屋での
やりとりが、言い合った言葉一つ一つが、言って放ったはずの言葉が、全部全部形になって心の中に染み
込んでいるみたいなんだ。



ふわふわの髪、若木のような瞳、柔らかな頬、滑らかな肌、控えめな胸、長いまつげ、小さめの手足、
ほのかにする甘い香り、小さな声、美しい歌、サーニャを構成するすべて。

こんなにも見ていたんだなあ、と呆れるくらいに思った。自分でも気付かないくらいに、笑えちゃうくらいに。
それら全部をぎゅうと抱きしめたいくらいに愛しいと思った。出来ることなら私も夜の空へ繰り出したいくらいの
衝動だったけれど、『部屋で休んでいなさい』と隊長に言われた手前それをすることは出来ないし…なにより
ストライカーは漢泣きの整備のにーちゃんたちの手で絶賛修理中だ。破損がどの程度なのか、どのくらいで
直るのか……シャーリーみたいにストライカー自身に明るいわけじゃない私には見当も付かない。どっかの
カタヤイネンはしょっちゅう半壊全壊をやらかしてたけど、あいつならわかるだろうか。てか、この報告もきっと
スオムスに行くんだろうなあ。『イッルの間抜け~』とニヤニヤ笑うアイツの顔が目に浮かぶようだ。腹立つ。

のろのろと来た道を戻ってすぐ隣にある自分の部屋の扉に手をかけた。ひんやりと感じる、ドアノブの感触。
何だかひどく久しぶりのような気がする。それは今日と言う一日が色んな意味で長すぎたからなのか、ここ
数日の私がそれを考える暇もないほど憔悴しきっていたからなのか、そのどちらもなのかは分からないけれど。
今度はノックなんてしなかった。だって私の部屋だ、紛れもなく。扉を開いたら月の光がきっと差し込んで
いて、サーニャが「変なの」と前に小さく笑った珍奇な石像やら、水晶玉やらが無言で出迎えてくれるんだ。


とばかり、思っていたから。
まさか、それとは別の様子なんて欠片も想像していなかったから。
薄暗い自室の扉を開いた瞬間胸に飛び込んできた「それ」に、私は最初相当うろたえた。

それは、温かくて、柔らかくて、2本の腕を持っていた。
離すまいとお腹から背中に手を回して、ぎゅうと固く抱きしめてくる。
ふわりと掠める花のような甘い甘い香りを、私は良く知っていた。

「……さーにゃ」

たっぷり30秒は固まって、ようやく口にした彼女の名前。私のお姫様は無言で手をきつくして、それに答える。

「タダイマ、サーニャ」

次に口をついて出た言葉はここ数日の私と彼女の様子からしたら妙に平和的で、間抜けな言葉だった。
だってここは私の部屋で、彼女は実際のところ異分子で。

「おかえりなさい」

けど、サーニャがそう答えてくれたからいいんだ、と思った。慣れた手つきで頭を撫でたら、更に強く顔を
押し付けてくる。

「おかえりなさい、エイラ」

顔をあわせたのは、今朝以来。夜間哨戒から帰っても眠らずに私の後を付いてきたサーニャを厄介払い
するように彼女の部屋に押し入れて、冷たくドアを閉じたのが、最後。おやすみ、ぐらいは言ったかもしれない
けれど、まさか「行ってきます」なんていわなかったろう。…けれど、サーニャは答えてくれた。
くぐもる声は顔を押し付けているからなのか、泣いているからなのか、わからない。でもそんなの関係ない。
関係なしに、言ってやらなくちゃいけない言葉がある。

「ゴメンネ」

やっと言えた、心からの「ごめんなさい」。今の私にとってはそれだけで十二分だった。



「…ねむたくないか?」

尋ねたら小さく一言、「ねむい」と言う言葉が返ってきた。うん、と頷くと、そのままサーニャを抱き上げて
ベッドに向かう。すとん、と彼女をその上に降ろすと私もベッドに飛び乗った。窓際に程近いベッドは、
入り口よりもよっぽど明るく彼女を映し出してくれる。

「さーにゃ、」

ベッドの上で二人セイザをして、向かい合って。けれど不思議といつも感じてはどうしようもなくなってしまう
照れくささはない。こんなにすぐ近くにサーニャがいる。それがすごくすごく、嬉しかった。ばかだな、自分から
避けてたのに。
口にした彼女の名前は、これが自分の声なのかと思うくらいにふにゃふにゃとしていた。今も頭のどこかが
ほわんとしていて、まるで酔っ払っているかのようにさえ思える。何でも出来そうな気がして、それに高揚して
胸がどきどきするんだ。
サーニャが身じろぎするたびに、あの優しい、甘い香りがする。香水でもつけているのかな、シャンプーの
香りなのかな。私にはわからない。もしかしたら私も同じ香りをしているのかもしれないけど、関係ない。
サーニャがいる。こんなに近くに居る。それだけで幸福で、仕方がなかった。

もっと近くで感じたいなあ。そう、思ったから多分私はこう言ったのだろう。

「ギュって、してもイイ?」

答えなんか聞かないで、ただただ今すぐにそうしたい気持ちばかりが募って、その思いのままにその体を
抱きしめたから、きっとサーニャはむしろ返事をする暇なんてなかったのだと思う。けどサーニャは受け
止めてくれた。そのあとで、もう意味を持たない返事をくれた。うん、いいよ。
お腹から手を回して、背中。パーカーを羽織っているその胸に顔を押し付けて。それはさっきのサーニャ
みたいだ。まるで逆転したようでおかしくて、くっくと笑いが止まらなくなる。ああ、サーニャの匂いがする。
そんなちっぽけなことが今はこんなにも嬉しい。

「エイラ、」

名前を呼びかけられて、顔を上げようと思って、止めた。代わりに抱きつく腕をきつくして答える。今夜はもう、
絶対に離さないことにしよう。普段じゃ絶対に思わないことだけれど、今日の私はなんだかひどくわがままだ。
自分が悪いのは分かっているけれど、それでも我を通したい気分なのだ。

「会いたかった。私ずっと、エイラに会いたかったんだよ」

サーニャの手が伸びて、私の頭を撫でる。まるであやされているかのようだけれど、それとは裏腹に
サーニャの言葉は切実さを帯びていた。うん、うん、ゴメンよ。言いながら私も彼女の背中を撫でる。
会っていなかったかと言われたら、正確には毎朝顔をあわせてはいた。けれどサーニャは夜間哨戒の
あとで寝ぼけていたから知らないのだろう。たぶんいつもどおり気がついた私のベッドにいて、それだのに
私がいなかったのだろうと思う。どんな心地だったろう。きっと理解しきることは出来ないと思うけれど。

「エイラ、眠ろ。」



まるで子猫を抱き上げるかのようにわきの下に手を入れて私を起き上がらせると、サーニャは私の両頬を
包んでそういった。いつもとはぜんぜんちがう顔だ。ひとつ年下の彼女が、なんだかひどく大人に見えるのだ。
言われるがままに毛布に潜り込んだら、その頭を抱え込むようにサーニャが抱きしめてくれた。サーニャより
私のほうが背が高いからきっと上から見たら不恰好なんだろうなあ、と思う。でももうそんなのどうでも
よかった。カッコ悪くたっていい。情けなくたって構わない。すごく眠くて、でもサーニャの優しさがすごく
嬉しくて、それが胸をいっぱいにしてる。鼻の頭が痛くなって、目頭が熱くなって、つい、ほろほろと涙を流した。

「アリガトウ」

ごめんね、は今日はもう言わないことにしようと思って、代わりにただそう言う。何がって、すべてにだ。
サーニャを構成しているすべて、サーニャの創りだすすべて。サーニャの存在そのものに。
今夜も夜間哨戒のはずのサーニャがなんでここにいるのか、私の部屋にいたのか。そんな疑問は確かに
頭の片隅にあったけれど、そんなのもう、どうでもいいことだと思った。どうにでもなってしまえと思えた。
とりあえず今は、サーニャが傍にいる、私はそれだけでいい。たぶんきっと、これからもずっと。

あのね、エイラ。
うん、サーニャ。
囁くように呼びかけられて、半分夢の中で私は答えた。
「明日と、あさっては、お休みなの。私も、エイラも。」
そうだっけ、と返したら「そうなの」とだけ返ってきた。こんなときに嘘をついたって仕方ないからきっと本当
なんだろう。疑う余地がないから、そうなんだろう。

「行きたいところがあるの。一緒にいこ?」

もちろんだよ。そう答えようと思ったけれど、上手く言葉にならなくて、なんでかこの一言が口をついて出た。

「大好きだよ、サーニャ」

きゅ、とサーニャの腕がきつくなる。ああ、なんだか変なこと言っちゃったかもしれない。そう思うけれど、
もう上手く言葉が出てこない。何を言ったかもう思い出せないけれど、私はきっとその一言を、ずっと
サーニャに伝えたかったのだ。

…うん、だから。
間違ってはいないから、いいや。



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