無題
彼女との「行為」は、いつも誓いのようなキスから始まる。
それは夜間哨戒任務のために滅多にない、私と彼女が一緒の夜でのことだ。
向かい合った私の額に、手の甲に、手首に、首筋に、頬に、瞼に。ゆっくりとエイラは触れるか触れないか
のような口付けを落としていくのだ。けれども、跡など決してつけない。それはまるで彼女自身の臆病さを
露呈しているかのように。
彼女にとってこの行為は私が彼女の所有物であることを表すものでは決して無いのだ。ただ、これからの
行為がただの劣情任せのそれではなく、もっともっと深くて柔らかくて温かい、精一杯の愛情表現なのだと
誓うためだけにエイラはそれをする。まるで私の体が少し乱暴に扱えば壊れてしまうような脆いガラス
であると言わんばかりに。
額も、手の甲も、手首も、首筋も、頬も、瞼も。それら、すっかりすべての場所に口付けを終える頃には
いつのまにか私の衣服は、彼女自身の衣服さえも、総て取り払われているのだった。唇の触れるくすぐったい
感触に身を任せ、微かによぎる快楽に夢心地になっている私はいつもそのことに気付かない。体を重ねた
数なんてまだ数えるくらいのはずなのになんでこのひとはこんなにも手慣れているのだろう。
…そう頭に浮かぶ疑いの気持ちは次の瞬間にすぐ、かき消されてしまう。
「…」
情熱を、そのまま炎にして灯したような瞳でエイラが私を見つめて来るからだ。青い青い、安定な炎がその
視線からあふれてきて、私を心地よく包んでいく。そして、私の体は決して燃え尽きることのない、けれども
焼かれることもない、情熱の炎で芯まで熱くなっていく。
あとに残された場所はたった一つ。あと一歩だけ進めば、それからは雪崩れ込むように進んでいくだけだと
私たちは知っていた。身につけた衣服は互いにもうない。残されたのは透明なその理性のベールだけだ。
その最後に残された唇をじいと見つめてエイラはまた、思いとどまるのだった。そこに触れたらもう戻れない
と、それでも良いのかと言いたげに。
そこにあるのはひどく無邪気でまっさらな愛情だ。回を重ねても決して輝きの鈍らない、エイラの純情だ。
胸の奥に温かな気持ちがあふれ出す。狂おしいほどの愛しさが胸からとうとうと流れて来て止まらない。
空の上ではあんなにも強いのに、この人は本当はこんなにも弱いのだ。自分ひとりではあいするひとひとりに
満足にくちづけもできないくらいに。私だって決して弱くはないのに、まるで触れてはいけない、神聖不可侵の
ものであるように彼女は私を見る。私のすべてを暴いたのだって1度や2度ではないのに、相も変わらず
そうやってためらう。その様は呆れを通り越して、もはや愛らしいと思えるほどだ。
だから私はそんな彼女を、ほんの少しだけ後押しする。唇を寄せて目を閉じて、このあとの展開をねだる。
私も同じ気持ちだよ。何も怖くは無いよ。ほら、あなたと同じように私の心臓だって、こんなにもどきどきして
いるよ。それを知らせるようにその右手を私の左胸に導いて。先ほどまでのささやかな愛撫ですっかり立ち
上がってしまったその頂が柔らかく包みこまれて思わず「ん、」と声を漏らす。
サーニャ。エイラが私の名前を呼んだ。その刹那、重ね合わせられる唇に私の心が跳ねて、踊る。
触れるか触れないかの軽いキスはすぐに離されてしまった。エイラ。次に名を呼ぶのは私の方だった。続きを
ねだるように何度も何度もエイラに口付けるとその度にエイラの肩が跳ねる。もっと深く深く重ね合わせよう
と舌を差し入れると、おそるおそると返してくれた。苦しげに漏れるエイラの吐息に恋しさと愛しさがあふれだす。
もっともっと、私に触れて。私のすべてをあなたのものにしていいから。
それは言葉になら無い叫びのようでさえあった。
そんな叫びに呼応して左胸に添えられているばかりだった彼女の手がやわやわと動き出した。お世辞にも
大きいとは言えない私の両胸がエイラのほっそりとした手に包まれて揉みしだかれる。エイラの好みではない
はずの、ささやかな膨らみだ。申し訳なさと悲しさに目を伏せたら、ためらいなく唇が重ね合わせられる。気に
するな、と言われている気がする。その嬉しさと初めて与えられたはっきりとした快楽の刺激に、幸福の声が
漏れた。
「えい、ら、あっ」
けれどもまだ、物足りない。はしたないほどに自己主張をするものの存在を、私はその手の下に感じていた。
それは不意に温かなエイラの両手の平に擦れて、私の体に弱い電流のような快感を伝える。けれどもまだ
足りない。もっともっと、はっきりした物が欲しいのだ。
名前を呼べば、すぐに唇にキスが降って来る。ふるふると首を振って否定の意を示した。違うのエイラ。そこ
じゃないの。
「ここ?」
「あ、やめ…んっ」
手を止めたエイラはじいと私の瞳を見つめて、親指で私の胸の頂に優しく触れてきた。待ちかねた直接的な
刺激に思わず甘い声が漏れてしまう。羞恥に頬が燃えるように熱くなって、うつむいてエイラの肩に顔を寄せた。
むき出しの肩からはシャンプーの甘い香りが漂って来て、それだけでくらくらしてしまいそうだ。
いじわるなひとだ、と思う。だって分かってるくせにいちいちそんなことを聞いて来るのだもの。そんな優しげな
視線をしたってしっているんだから。
私の反応に満足したのか、今度はその唇でエイラはそこに触れて来るのだった。味わうように口に含んでは、
甘く噛んで私をわななかせる。その度に漏れてしまう高い声を堪えようと懸命でいたら「我慢しなくて良いんだよ」
との甘い甘い囁き。
「さーにゃのこえ、もっとききたい」
耳元でそんなことを言われたら我慢なんてできるはずがない。想いが、上だけで無く下の口からもとうとうと
あふれ出したのを体の奥から感じた。あまりの恥ずかしさにごまかそうと必死になっても、胸を刺激する唇に、
左手に、そしてゆっくりと、腹を撫でながら降りて来る右手に、私はひたすら歓喜して喘ぎ声をあげるだけだ。
下腹の辺りをかすめて、尻を愛撫される。望みの場所に触れてもらえないもどかしさに焦れったく思いながらも
よわよわ与えられる快感に腰が震えた。いつの間にかエイラの顔は私の目の前にあって私の反応を伺うように、
もしくは楽しむように、何度も私の額や、瞼や、頬や、耳元に口付けを落としている。
エイラ、
エイラ、
エイラ。
頭の中はそれでいっぱいで、それ以上もう何も考えられない。
「えいら、お、ねが、い…あんっ、もう」
どうか私の核心に触れてくださいと、涙目で懇願する。同時に唇をまた、深くあわせる。エイラの深い蒼の瞳が
まっすぐ私を捉えて、頷くように視線をくゆらせたのを見た。
濡れそぼったそこに、エイラの長い指が伸びてゆく。ようやっと唇を離した瞬間に指を差し入れられて、私の体は
大きく跳ね上がった。言葉にならない声を上げて、エイラにしがみつく。
ぬれてる。分かりきったその事実を、少し放心したように呟くエイラ。当たり前に決まっているでしょう。だって
あなたがそうしたのだもの。そう反論したくて、けれども上手く言葉が導き出せなくてやめた。
思考を奪うようにエイラの指が私の中で動く。その指は私の濡れそぼったそこの、一番敏感な核を探し当てて
柔らかく弄んだりもして、羞恥か快楽か、地獄か天国か、よくわからない気持ちで私はひたすらエイラの名前を
呼び続けるのだった。きつくきつく背を回せば、私と同じく凝り固まった彼女の乳房の先端が私の胸に増える。
彼女もまた、私との行為にとても興奮しているのだ。頭の片隅でそんなことを思ってさらに喜びが深くなる。どこ
までも上り詰めていって、気を失ってしまいそうだ。
「す、き、えいらっ、えい、らっ、すき…っ」
ああ、もう、だめだ。
頭が白く、霞がかっていく。絶頂の訪れを予感して私は何よりも、いつも、彼女に伝えたいと思っている言葉を
何度も何度も繰り返した。
エイラ、エイラ、好きだよ、大好きだよ。
エイラは何も言わない。何も言わずにただただ私を抱きしめて、首筋に優しい、優しい、キスを落とした。…かの
ように思っていたのに、その一連の動作の最中で耳元で低く、唸るように囁かれた一言が、私を絶頂の渦へと
引きずりこんでいく。体が大きく震える。もう、何も考えられない。
「あいしてる、サーニャ」
それは、不器用で恥ずかしがり屋なエイラから聞く、最上級の愛の言葉だった。
*
いまだ残る月の光の中で意識を取り戻すと、エイラは心配そうに私を覗き込んでいた。
恐らくそれほど長い時間ではなかったのだろうに、エイラは私が目覚めたらひどく申し訳ないことをしたかの
ようにいつも目を伏せる。ごめん、と言わないだけまだましだけれど。…だって私はエイラが好きで、エイラ
だって私が好きで。その気持ちを交わしたくてこの行為に及んだのだから何ひとつ申し訳なく思うことなどない
のに。それなのに、謝られたら、ひどく悲しい。
いまだ気だるさの残る腰を守りながら上半身を上げる。いつの間にか体中の汗は拭き清められ、私もいつもの
下着を身につけていた。エイラもまたそのようだから、もしかしたらさっきまでの出来事は夢幻だったのかも
しれない、と錯覚してしまいそうになる。そうではない、と教えてくれるのは私とまともに目をあわせようとも
しないエイラの反応だ。いつもそうなのではないか、と問われたら否定は出来ないけれど、行為のあとは特に
ひどい。
サーニャ。エイラが小さな小さな声で私を呼んだ。窓の外を見ていた私は振り返ってエイラを見る。すると、彼女は
泣きそうな顔をして眉を寄せて、こちらを見やっているのだった。微妙に視線が合わないのは、エイラが意図して
私の眼を見ていないからだろう。
なあに、と答える前に腕が伸びて、エイラの綺麗な指が私の目じりに溜まった涙を拭った。それでも涙は
とめどなく流れてくる。ついに観念したようにエイラが近づいてきて、唇で直接私の涙を拭う。けれどもやっぱり
止まらないから、ぎゅう抱きしめる。
悲しいの、と聞くエイラ。私は何も答えない。
「だいじょうぶだよ」
泣かないで、とエイラは言わなかった。ただ私の体を自分の腕の中に閉じ込めて、ぽつりとそう囁きかけた。
「"悲しみは海ではないから、すっかり飲み干せる"。」
そうだろ?と耳元で言うエイラの言葉は、とてもとても優しい。…きっといつも胸を支配している羞恥心など
どうでも良いと思うくらいに一心に、私を心配しているのだろう。
(でも)
心の中で、反した。やっぱりエイラは何も分かっていない。
私が泣くのは、涙が止まらないのは、悲しいからじゃない。だからそうしてあなたが償おうとする必要なんて
ない。私はどこも傷つけられていないのだから。…それよりも、むしろ満ち足りた気持ちでいっぱいなのだ。
エイラのくれる愛情がとめどなく注ぎ込まれて、入りきらないほどになって溢れている。
ねえ、エイラ。幸せでも、人は涙を流すことが出来るのよ。あなたは知らないかもしれないけど。
教えてあげようかとも思ったけれど、あまりにも幸せすぎたから止めた。悲しみが海ではないなら、喜びや
幸せはどうなのだろう。…実際に私は、幸せの海に今、おぼれそうになっているのに。
眠ろう、とエイラが誘う。導かれるままにベッドに倒れこんで、エイラに体を寄せた。
もし悲しみが本当に海のようにあったのだとしても…この人は、私のためならすべて飲み干してしまうだろう。
すぐに眠りについてしまった愛しい人の額に唇を寄せながら、私はそんなことを思った。
了