ほっとミルクでおやすみなさい


夢を見た。空の夢だ。目一杯に広がる青く果てしない空を、私はどこまでもどこまでも飛んでいく。私は
そこに、初めてストライカーで空を飛んだ日の記憶を見る。他の余計な機械など何も要らない。ただ足に
取り付けたストライカーユニットのみで、私はどこまでも飛び上がった。どこまでも、どこまでも。大空は
圧倒的な存在感を持って私を温かく包み込み、吹きすさぶ風の叫びを以って私を盛大に出迎えた。
まさにそれは夢心地だった、文字通り。

自由だ、と思った。
喜びで体中が震えて、一緒に声がかれるまで叫びたいと思った。
いま、この瞬間なら死んでも構わない。だってそうすれば私はきっと空そのものになれる。
私はこの世の誰よりも、何よりも、幸福だった。

けれどその幸せはいつもあっけなく壊されることとなる。至上の幸福の中で空を飛びまわっている私の前に、
突如黒い影が現れるからだ。──ネウロイ。敵襲かと応戦しようとするも、手元に武器はない。ならばせめて
生還せねばとシールドを張ろうとするも、私のシールドはもはや盾としての意味を全くなさないのだった。
ネウロイの攻撃に傷つき、逃げ惑い、ああこれで終わりか、けれどこの空で散ることが出来るのならば
本望だ──そう思った瞬間、突然ストライカーの動きが止まるのだった。そして私は奈落へと落ちていく。
どこまでもどこまでも落ちていき、地面すれすれで、ああ、死ぬ──


そこでいつも、夢から覚める。


目を覚ましたらまだ恐らく夜半過ぎで、空は少しばかり欠けた月がぽっかりと浮かんでいる他はすっかり
暗闇に包まれていた。静かで、穏やかな夜だ。それだのに体は汗がびっしょりで、両手は情けないくらいに
震えていて。握り締めても上手く力が入らずに掴み取ろうとした何かはぽろぽろとこぼれているばかり。

ははは、と乾いた小さな笑いが漏れた。けれどそれもすぐに小さくかすれ、私は震えるその手で片目を覆う。
普段眼帯をつけている方の目だ。今はつけていない。魔力も放出していないから、きっと左の目と同じ色している。

(こわい)

タイムリミットが迫っている。そんなこと私にだって分かっているのだ。魔力のピークはとうに過ぎた。後は
衰退していくだけで、きっと来年の今頃にはもう、ウィッチとして戦場に赴くことも出来なくなっているのだろう。
成年しても魔法を使える魔女はいる。けれどもネウロイと対峙するには不可欠のシールドを展開するほどの
魔力は残らない。ストライカーを駆って空を飛びまわることはできても…自分ひとりを守る力もない人間が
戦場に出るなど愚かしいにもほどがある。それは長らく空に身を置いていた私だからこそ痛感できることで、
でも、だからこそ何よりも、つらい現実だった。だって私は空がとてもとても好きだから。

窓の外に広がる景色はひたすら海と、空。
それしかないのだというのに、どうして海と空とはあんなにも遠いのだろう。融けあえないのだろう。

(いやだな)

怖いのは、ネウロイにやられて死ぬかもしれないことじゃない。空を失うことだった。幼い頃からずっとずっと
空を飛びまわってきた。空がひたすらに好きだったからだ。自分の前世はきっと鳥であったのだろう。そして
来世もきっと鳥になろう。空を自由に飛びまわりながら、そんなことをいつも考えていた。



情けないことに、涙が溢れてくる。悔しいのか悲しいのか恐ろしいのか、よくわからない気持ちが胸を支配して
言ってとどまることを知らない。ウィッチーズは私がいなくなってもきっと、上手くやっていけるだろう。ミーナが
いるし、部下たちはみな優秀だ。それに、宮藤の伸びしろはこれから計り知れない。ガリア開放の悲願が達成
されるのも時間の問題だと思う。
…けれど、私はどうなるのだろう。飛ぶことを奪われた私はそれから一体どうやって生きていけばいい?
翼を失った私に一体何が出来るという?この地べたで這いつくばりながら、息苦しく生きながらえること
なんて拷問と変わらない。

「…いかんなあ」

声にしたのは、そうすることで冷静になりたかったからだ。こんな夢を見たあとはいつも気持ちが後ろ向きに
なってしまって困る。私はまだ立ち止まってはいけないのに。宮藤やリーネのように続く若者を育てなければ
いけないし、シールドの強度に不安があるとはいえネウロイの脅威は日々迫っているのだから休んでいる
暇もない。

(…訓練でもして、夜を明かすか)

そんなことをしていたと知れたらミーナ辺りから壮絶な説教を頂戴しそうだけれど、今の私に気を紛らわす
方法はこれくらいしか思いつかなかった。鍛錬に、鍛錬を積む。そうしたらもしかしたら、ウィッチとしての
寿命も延びるかもしれない。もう少し、空を飛んでいられるかもしれない。
…実際のところ、私はそんな一縷の望みにすがっていなければ立てないほど打ちのめされていたのだ。

いつもの服に着替えて、そろりそろりと部屋を出る。ミーナの部屋の前を通るときは特に慎重に。いや別に
怖いとかそんなわけではないのだがあんなにも理路整然とした説教を聞いていると頭がおかしくなってしまい
そうな気がしてならない。心配してくれているのは分かるけれども私だって別に小さな子供ではないのだ。
リスクぐらいしっかりと理解して、その上で行動している。「だからこそ余計性質が悪いんじゃない」とミーナは
いつもため息をついて言うけれども。

その部屋をようやく通過して、エイラの部屋に差し掛かったところで、突然その扉が開いた。驚きに思わず
身構えると、相手はもっと驚いたようで体を硬直させて「わあああ」と叫…びそうになったので、慌てて
その口をふさぐ。何度も言うがミーナに起きられたらたまったものじゃない。

「…静かにせんか。みんな、起きるだろう」

鋭く囁くと、抑えられた口でふがふがと返事をしながら何度も何度も頷いた。手を指差して『早く放せ』と
主張してくるものだから仕方なしに口をはずしてやる。

「なナンデ少佐がココニ!」
「しっ…だからしゃべるなと……場所を変えるか」
「…ウン」

頷きあってそのまま、なぜか私たちは無言でとりあえず食堂に向かうことにした。理由などはないが、
とりあえずお互いその方が都合が良い気がしたのだろう。食堂まで行けば多少声を高くしても少なくとも
部隊の者たちが起きてくることはない。



「…で。なんで起きているんだ、エイラ」

咎めるような私の問いに、エイラはばつの悪そうな視線を返す。いや、そのお…、ともじもじとしながら、
どうやら懸命に言い訳を考えているらしい。
「さ、坂本少佐こソ、なんで起きてるんだヨ。こ、こんな夜中じゃないカ」
「私は…いや、その、な、」
痛いところを突かれて、しどろもどろになったのは私のほうだった。咎める立場の人間が同じことをしていては
確かに面目も立たない。かといって夜中に訓練に出掛けようとしたことを言ってそれが広まったらこれまた
面倒だ。

「…どうしても寝付けなくてな。水でも飲もうかと思ったんだ」

適当にごまかすが、部屋に洗面台が付いているのは周知の事実で、言ったあとに後悔した。だが幸いに
してエイラはそのことに気がつかなかったらしい。彼女の興味を引いたのはもっと別のことだったからだ。

「へぇ、坂本少佐でも寝付けないとかあるのカ?」
「…私を一体なんだと思ってるんだ」
「だ、だってホラ、少佐は私よりもずっと大人ダロ?」

『オトナ』。エイラの口を付いて出たその一言に、多少ショックを受けている自分がいた。けれども、そうだ、
エイラはまだ15歳なのだ。その年齢にしてみたら、4歳の差なんてひどく大きいものなのだろう。そう納得
して気を落ち着かせる。

「…私にだってあるさ、もちろん。寝付けない夜が、な」

そうだ。悪夢にうなされる夜だってあるんだ、私にだって。そう心の中で付け足したことに、エイラが気付く
はずもない。気付かれていいはずがない、こんな不安など。この部隊内で私はきっとそうであるべきなの
だろうから。…けれどもどこかで誰かに知って欲しかった。この不安を、悲しみを。扶桑に戻れば引退した
先達たちがいる。彼女らならばこの気持ちを理解してくれるのかもしれない。──けれどもここはブリタニアで、
ガリア地域のネウロイとの最前線だ。そんな人たちがここにいるわけもない。

「ア!それなら!」
しばらく、考え込んでいたエイラが不意に無邪気な声を上げた。そして「ちょっと待ってテ」と言い残して厨房の
奥へ去っていく。何も言えないままそれを見送りながら、薄暗い部屋に差し込む月の光が、エイラの髪を
キラキラと照らしているのを見た。

いま、こうして、まっすぐで無邪気でいる彼女もまた、いつか私と同じように思い悩む日が来るのだろうか。
エイラの後姿の残像を見ながらぼんやりと思う。エイラはまだ、15歳だったか。その日はきっと、エイラにとって
したら気の遠くなるくらい先の未来の話だ。…それでも、恐らく多少の期間は軍に身を置いているのであろう
彼女は自分の先輩たちの姿を見て、それをいつかの自分に重ねたりしてきたのだろうか。…それを思うには、
やはりまだエイラは幼すぎるのかもしれない。
自分が15歳の頃だって、何も考えてやしなかった。ただ目の前にするべき事だけがあってそれを遂行
していればよかった。限りなんてどこにもなかったから、不安に思うこともなかった。空はどこまでもどこまでも
果てしなく続いているような気がしたから、何も恐れずに飛んでいけた。…でも違うんだ。私たちの飛ぶ空には
見えない天井があって、いつしかそこにぶつかって私たちは地上に突き落とされてしまう。そしてその天井が、
私にはもう見えている。

その思案は少佐、ホラ!帰ってきたエイラが食堂のいすに座っている私の前に何かをコトリ、と置いたことで
中断されることとなった。


「え、ああ…どうしたんだ?」
「コレ!飲んで!」

それはマグカップで、すぐ隣に座ったエイラが自分のものらしいマグカップを手に持っている。
ほわん、と立ち上る湯気が月の微かな光に溶けてゆく。甘くて温かい香りが微かに漂ってきて、先ほど散々
汗をかいて水分を欲していた体が自然とそれを手に取った。無邪気に笑うエイラに勧められるままに一口
すすると、熱さ。そのあとに口いっぱい広がる柔らかな甘みに、思わずほう、と息をつく。
美味いな。初めて飲むその飲み物に正直な感想を述べると、エイラが肩を揺らしてクックと笑った。

「眠れないときはホットミルクが一番だって昔言われたんだヨ。すごく気持ちが落ち着くんダ」

そう言われてもう一度口にすると、なるほど。ほのかな甘さが、喉に、胃に、流れていく温かさがなんとも
言えない心地よさを運んでくる。緑茶とはまた違った落ち着きだ。とにかく心がとても安らぐのだ。…もしか
したらそれは、私のためにわざわざエイラが淹れてくれたから、と言うこともあるのかもしれないが。
心が穏やかになってくる。目の前を目障りに飛び回っていた悩みの種まで、それと一緒に飲み下してしまった
ようだった。

「……そうだな。本当に、落ち着く。よく眠れそうだ。」
「良かっタ。少佐が落ち込んでると、私だって、みんなだって、悲しいカラ」
「…ああ。ありがとう、エイラ」

その穏やかな気持ちのまま、柔らかく微笑んで。ふと思い立って、手を伸ばして頭を撫でてやると『子ども扱い
するな』と口を尖らせながらもヘヘヘ、と肩をすくめて笑った。
無邪気な心だ。天井の存在も、翼をもがれる恐れも知らない、純真な子供だ。かつては自分も持っていた
その愚かさを羨みながらも同時に、愛しいものだとも思う。…だって私は一言も『落ち込んでいる』だなんて言って
ないのにこの子は私の気が落ちていることを敏感に感じ取って無意識の心遣いで励ましたのだ。
子供というのは、つくづく恐ろしい。自分のかつてそうであったことなど信じられないくらいに。

「これで、明日もお前たちをビシバシしごけるな!わっはっは!」
「えええええ!それは宮藤たちだけで十分ダロ~!?」
「いいや、エイラのおかげで元気になったんだ、よく眠ったら、礼にエイラも鍛えてやらねばな!!」
「……さ、さぁわたし、もう行かなくっチャ!」

弱いところを見られてしまった気がして気恥ずかしくて、いつものように笑いながら冗談めかしてそう言うと、
瞬時にエイラの血の気が引いた。そして逃げるように飲み終わった二つのカップを手に持って、エイラは
もう一度厨房へ走り去ろうとする。

と、一度立ち止まって、振り向きざまに。

「少佐はもう、寝ればイイヨ。私は格納庫に、ちょっとダケ用事があるんダ」

ああ、そうだな。私は答える。エイラがこんな時間に起きている理由なんてもとからなんとなくわかっていた。
…今も夜間哨戒に出掛けている彼女の小さな同僚を気遣っているのだろう。
優しい子だ。温かい心で、そう思う。もう一度頭を撫でてやりたいような気持ちになったが、今度こそ拗ねられそう
なので止めておくことにした。



「エイラも、あんまり夜更かしするんじゃないぞ。…サーニャを心配するのは分かるがな」
「そ、ソンナンじゃないって!……タダ、昨日ちょっとストライカーの調子が悪かったから、ソノ…」
「…ふむ。まあ、そう言うことにしておくか。ならば仕方がないな」
「だ、ダロ?ダロ?」

ぱあっ、と明るくなる口調ですぐに分かる。つくづく嘘のつけないヤツだ、と思う。
恐らく今晩、エイラはサーニャの帰りを待つつもりなのだろう。誰もいない格納庫で、一番に彼女を出迎える
ために。何か悪い予感でもするのかも知れない。ただの気まぐれかもしれない。けれどもサーニャはきっと喜ぶ
だろう。…自分のためにそこまでしてくれるエイラの存在がどれほどサーニャを支えているか、きっと本人は
知らない。知らないからこそ出来る行動なのかもしれないが。

「おやすみ、エイラ」
「ウン、お休みナサイ、少佐」

来るときは二人でそろりそろりと来た道を、今は一人で悠々と歩く。恐ろしくもなんともないのはたぶん、
先ほどのホットミルクがまだ心を温めてくれているからだ。
不安は消えてなくならないだろう。タイムリミットは確実にやってくる。そしてそれは間近に迫っている。

…でも、それでも。

私はふと、気付かされたのだった。もしも空が飛べなくなったとしても、私が今宮藤やリーネにしているそれの
ように、あとに続く者たちを育てていく。そして自分の思いを託す──そんな未来が、あってもいいのではないかと。
空に恋焦がれていた。美しさも、恐ろしさも、雄大さも、寛大さも…空のことなら、きっと何でも知っている。
その素晴らしさを伝えていきたい。そしてこの世界を守りたい。仲間を失って、悲しむ事のないように導いてやりたい。

そのためには、生き残らなければ。それも私一人じゃない。ウィッチーズみんなで。
空が好きだ。けれども私は、この部隊の、扶桑での、仲間たちだって大好きなのだ。とても、とても。
あのホットミルクを、いつかすぐ無理をするあの年下の上官や、頑張り者のガリアの少女だとかに飲ませてやろう。
……そのためには、自分が元気でなければ。だっていつもどおり「わっはっは」と笑って、差し出してやりたいから。

大きくひとつあくびをして、私は眠りながら今日エイラたちに課す訓練のメニューを考えることにした。


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