凍えた薔薇を溶かすもの
1940年のある日。
カールスラント方面の空は、昼だというのに赤く染まっていた。
戦況は良くなる気配を一向に見せず、日に日に隊員たちにも、精神的、身体的、両方の疲弊がたまり始めていた。
カールスラント空軍第二急降下爆撃航空団第十飛行中隊の長であるハンナ・ルーデル大尉は、宿舎の窓から、厳しい面持ちで赤い空を見つめ、シャワーを浴びた体をタオルで拭うと、ガウンを羽織った。
おろしたてのガウンの心地よい香りと、部屋に居座った硝煙の香りが鼻をかすめる。
あと何年この匂いにさらされるのか。
ルーデルはそっとため息をついた。
部屋のドアがノックされ、ルーデルは振り向きもせず、言った。
「入れ」
「失礼します」
ルーデルの副官であるアーデルハイドが敬礼をし、部屋に入ると、ルーデルは顔だけ振り向いて、鋭い視線でアーデルハイドを見据えた。
「今日の出撃予定は?」
「本日も待機との事です」
「またか。これで何回目だ」
「5回目です」と、アーデルハイドはきっぱりと言う。
「仲間達は連日空を飛んで闘っているというのに…」
「お言葉ですが、昼の制空権が奪われてしまった以上は、今我々が飛んでもかえって足手まといになるだけです」
「そうだな…」
いつになく、覇気の失せた上官の態度にアーデルハイドは、少しだけ、肩の力を抜いて、表情を和らげた。
「大尉、今の状況はあなたのせいではありません。恐れ多いですが、お気持ちは、わかります…」
ルーデルは、アーデルハイドの気遣いに即座に気づくと、すっかり弱気になってしまった自分を嘲り、気を引き締めなおした。
「おい」
「はい?」
「ちょっと来い」と、ルーデルはアーデルハイドを手招いた。
二人は対峙する様に向き合って、ルーデルは、じぃっとアーデルハイドを見つめる。
凍らせた薔薇のような美貌を持った副官、アーデルハイド。
「アーデルハイド、お前が私についてからどれぐらいたったかな?」
「軍に入ってからですか? それとも、士官学校時代からの?」
ルーデルは、あくまでも真面目を貫くアーデルハイドに、思わずにやついてしまう。
まったくこいつときたら、すべて覚えているのか。
ルーデルは、そっとアーデルハイドの頭の後ろに手を回し、髪を撫でた。
「動くなよ」
「はい」
ルーデルとアーデルハイドは、まばたきもせず、互いの瞳に顔を映した。
アーデルハイドが、自分が置かれている状況を、かつて、中隊の年下隊員たちに付き合わされて見た恋愛映画と重ね合わせた瞬間、ぶしつけに、ルーデルの唇が重ねられた。
「ふむ。"凍らせた薔薇"とは言え、唇は温かいな」
ルーデルはまるで母親が子供の熱を額で測ったかのような態度であっさりと言う。
アーデルハイドは、白い頬を徐々に赤く染め、気が抜けていく風船のように、しなびた言葉を搾り出した。
「な、なにを…」
「なにって、キスだろう? 嫌だったら断ってくれれば良かったのに」
「あなたが動くなといったからです!」
「拒むことはできただろう」
アーデルハイドは、手を顔の前において、上官の視線から逃れる。
ルーデルの唇の感触が消えてくれず、胸が高鳴った。
「初めて……の、キスだったのに…」
震えた、年相応の少女を感じさせるアーデルハイドの声に、ルーデルはわずかに目を見開いて、頭をかく。
「すまない。ただ……、いたずらに口づけたわけではない。私も人間だ。弱気になると、人肌が恋しくなる」
「あなたに憧れている人なら他にも…」
「そうかもしれないが、私が欲しいのはお前だけだ、アーデルハイド」
アーデルハイドは、自分の手を顔から離して、ルーデルに顔を向ける。
今のは告白なのだろうか。
ルーデルは、目に厳しさを残しながらも、どこか吹っ切れたような、穏やかな笑顔を向け返した。
「そんな顔もするんだな」
アーデルハイドは、もう一度、いつもの表情に戻ろうとするが、熱くなった頬は硬直することを許さない。表情を作ることにあきらめ、アーデルハイドは疲れきったかのように、ルーデルに倒れこむようにして、体を預けた。
「……責任は取っていただきます」
「望むところだ」
その翌日、カールスラント空軍第二急降下爆撃航空団第十飛行中隊はスオムス派遣を命じられた。
派遣されたスオムスでのスラッセン奪回作戦が成功に終わり、ルーデルが率いるカールスラント空軍第二急降下爆撃航空団第十飛行中隊は再び、カールスラントへ戻ってきた。
宿舎にたどり着き、自室へ戻ったルーデルは、ほぅっと息をつき、外套をばさりと机の椅子に引っ掛けると、ベッドに腰掛け、革のケースに押し込んだグルカナイフを取り出し、眺める。
ナイフが放つ光が、ルーデルの紺碧の瞳に反射する。
コンコンと丁寧なノックがされ、慎重にドアが小さく開けられ、アーデルハイドがそっと覗き込んだ。
「お呼びですか?」
「ノックはもうしなくていいと言ったろう」
「……申し訳ありません、癖で」
「まあ、いい。入れ」
アーデルハイドは、後ろ手にドアを閉め、左に視線を寄せ、横目でルーデルを見つめ、また視線をそらす。
かすかに頬を染めて。
ルーデルは一瞬だけ目を丸くして、また、いつもの余裕の笑みを見せると、顎でベッドを指した。
「ここに座れ」
アーデルハイドは、少しばかりためらった足取りでベッドに近づいて、30センチほどの間を空けて、ルーデルの隣に座った。
アーデルハイドがベッドに座るのを見届けると、ルーデルは再びナイフを眺める。
「……それは、あのブリタニアのウィッチの?」
「ああ、ビューリングにもらった。なんだ妬いているのか?」
「ち、違います! 珍しい……表情をされていたものですから…」
「困り者だった元部下の成長が、なかなかに心地よくてな」
アーデルハイドは、柔らかな表情のルーデルを目に焼き付けるように、横目ではなく、顔をしっかりと向けて、彼女の横顔を見据えた。
絶望的なまでに負け戦続きだった本国での戦いからいったん離れ、異国にて、"寄せ集め"の部隊と、辛勝であったとはいえ、作戦を遂げた。
次は、また負けるかもしれない。
仲間がまた一人、戦場から去るかもしれない。
目の前にいる上官が、また、大怪我をしてしまうかもしれない。
だけど、今は――今この瞬間だけは、勝利の喜びをこの人と分かち合いたい。
アーデルハイドは身を乗り出すようにしてルーデルを見つめていた自分に気づき、慌てて身を起こそうとするが、気がついたルーデルが手を伸ばし、アーデルハイドの腰を抱き寄せた。
アーデルハイドの体が少し大げさに動いて、ルーデルの膝からナイフが革のケースと一緒に滑り落ち、無機質な音で床を叩く。
しんと部屋が静まり返り、二人の呼吸の音さえ聞こえない。
隙あらば、鋭く射抜こうとしてくるルーデルの瞳をかわすように、アーデルハイドが視線をそらすと、ルーデルは、アーデルハイドに顔を近づけ、そのまま唇を奪い、アーデルハイドをきつく抱きしめる。
アーデルハイドは、手を伸ばしかけ、体を離そうとするが、そのままぽすんと力なくベッドに腕を落とし、指先で肩を押され、ベッドに倒された。
天井に備え付けられた電灯の光が、ルーデルの影にさえぎられる。
いつもの、余裕の笑み。
「心の準備は出来たかな? この間は、結局お預けだったからなあ」と、ルーデルは、アーデルハイドの白い手の甲に唇を滑らせ、ささやいた。
「いつなったら"責任"を取らせてくれる?」
「それは…」
「痛めつける気は無いんだが」
ルーデルが、頬に口づけ、耳元でささやいた。アーデルハイドは、かっと頬を染める。
「い、痛いとか、そういう怖さではないのです……。ただ、変わるのが怖くて…」
「では、少しずつ慣らしていけばいい」
「慣らす?」
「服を脱げ」
「た、大尉…それは…」
「お前をもっと近くで感じたいんだ」
ルーデルは、きっぱりと言い切って、出撃前のような、真顔を差し向け、まずは自分から手本を見せようという具合に、自分の軍服のボタンとシャツのボタンを片手でたやすく外して、下着を取り、上半身をあらわにする。
鍛えられ、引き締まった体に、それなりに豊かさを供えた胸、それでいて、どこかまだ幼さを思い出させるような肩の曲線、そんな印象を与える裸体に、アーデルハイドは、つばを飲む。
「恥ずかしいのなら、後ろを向いていよう」
ルーデルは、背を向ける。
その背中には、過去の戦いで刻まれてしまった弾痕やその他のいくつかの傷が生々しく残る。
我々は軍人なのだ。
アーデルハイドが、改めてそんな事を考えていることに気づくはずも無く、ルーデルは、一つに結っていた髪を下ろし、背中の傷は隠れた。
アーデルハイドは、ひくことはできないと判断し、震える指先で、ボタンを解いて、下着も取って、真白い肌を部屋の空気に晒す。
ルーデルはまだ振り向かない。
アーデルハイドは、意を決したように、ベッドの上を膝で移動し、後ろから、ルーデルの背中に手を触れ、傷をなぞった。
「おい、くすぐったいぞ」
「す、すみません」
ぐるりと振り返るルーデルに、アーデルハイドは胸を隠す。
「……おい」
「はい」
「手をどけろ」
自分だけずるいぞ、とルーデルの瞳が語る。アーデルハイドは、高鳴る心臓に震えながら、両腕をおろした。
ルーデルは上から下に視線を移し、ふむ、とうなづいて見せた。
ふむ、の真意が落胆なのか、はてはその逆なのか、アーデルハイドには判断がつかない。
晒した肌が部屋の冷気に負けて、わずかに鳥肌になる。
ルーデルはブランケットを引っ張り上げ、アーデルハイドにかぶせ、自分ももぐりこむと、アーデルハイドの髪を撫でた。
「アーデルハイド、私を見ろ」
アーデルハイドは、命令どおり、わずかに瞳の潤んだ顔を向けた。
ルーデルは、アーデルハイドに体を密着させ、背中に手を滑らせる。
「お前は、美しい体をしているな」
「運が、良いだけです……。それに、私も、あなたの体は美しいと思います」
ルーデルはわずかに体を離し、ぽかんとした様子でアーデルハイドを見つめた。
「すみません。言葉が過ぎました。でも、お世辞ではありません」
と、アーデルハイドはようやくいつもの冷静さを取り戻したかのように、引き締めた表情で伝えると、ぎこちなく、ルーデルの両の頬を
手で包み、口づけた。
ルーデルは、そっとアーデルハイドの胸に手を触れるが、アーデルハイドは慌てて唇を離した。
「あ! ……明日は早いので今日はもう…」
「やれやれ、またお預けか」
その晩、ルーデルとアーデルハイドは互いの体温を肌で感じながら、眠りについた。
一進一退。
カールスラントでの戦況は日々そのような状況で、ゴールに着いた途端、スタート地点に立たされるという感じの不条理な様相を見せていた。
負傷者を出しながらも、作戦を無事遂行し帰還した、ルーデル率いるシュツーカ第十中隊は、装備を外すと、散開する。
ルーデルは、格納庫を出ると腕組みをして、さっきまでいた地点の空を、睨みつけるように見上げた。
彼女の背後にアーデルハイドが立つ。
「大尉、傷を」
ルーデルは、腕組みをしながら、片方の二の腕の傷を見て、また視線を戻した。
「かすり傷だ」
「しかし…」と、アーデルハイドはルーデルに向けて、手を伸ばす。
「他の負傷した隊員の様子を見ておいてくれ。私は少し……、歩いてくる」
ルーデルは、そのまま基地の外へ向けて、歩き出した。
いつもは大きく見える背中は、妙に小さく思えて。
アーデルハイドは、飛び込んででも引き止めるべきか、迷ったが、最終的には、今は一人にすべきだと判断し、漂った手で拳を握り締め、引き戻す。
基地の外には、数日前より、街から退避してきた住人たちが、軍に支給された簡易テントで、冬空のもと、身を寄せ合っていた。
ルーデルは、じっと、住人たちを見据える。
決して、目をそむけてはいけない――これが、積み重ねた敗北の結果なのだから。
しばらくして、"国際救世連盟軍"の腕章を巻いた女性たちが現れ、てきぱきと、手馴れた作業で即席の配給所を作り出すと、別のところでこしらえてきたであろうシチューをためた鍋を設置し始め、住人たちを呼び込み始めた。
スタッフの一人のルーデルより背の高い少女が、背後で見ているルーデルに気づいて、にっと微笑んだ。
「あんたもどうだい?」
カールスラント訛りのブリタニア語に懐かしさを覚え、ルーデルはすっかり厳しくなっていた顔つきをわずかに緩め、つい、カールスラント語で返答をする。
『いや、遠慮しよう。住人たちに分けてあげてくれ』
『あんた、カールスラントの……? それにその格好、軍人……、ウィッチかい?』
『ああ』
ルーデルがうなづいた途端、少女が目を輝かせ、手を握ってくる。
『是非、礼を言いたかったんだ! 数日前にあんたたちがネウロイをとどめていなかったら、私の家族たちは今頃……、お仲間にも礼を言っておいてくれよ!』
ルーデルは、少女の勢いに圧倒され、少しだけ照れくささを覚えつつも、手を握り返して、表情を引き締めた。
『了解した』
アーデルハイドは、上官に言われたとおり、負傷した隊員の様子を見、しばらく話しかけた後、ルーデルの部屋をたずねる。
しかし、覗いて見ても、部屋の主はおらず、殺風景な光景だけが広がる。
まだ外にいるのだろうか。
アーデルハイドは、肩を落とし、自室へ戻ると、さっそく報告書をまとめるため、机の前に座り、紙とインクとペンを取り出し、迷いなく書類作成を始める。
部屋に響くペンの走る音。
撃墜数、負傷者数など、戦場での出来事が、簡潔かつ明確にまとめられていく。
順調とはいえない戦況。
アーデルハイドは、ペンを置き、机に肘をついた。
こんなところでなにをやっているのだろう?
自分とルーデルは、一応は、上官と部下、それを越えた仲のはずなのに、あっさりと、彼女に言われた事を実行し、そしておとなしく報告書をしたためている。
軍人としては至極正しいはずだ。
しかし、一人の人間としては――
アーデルハイドは勢いよく立ち上がり、机に太ももをぶつける。
それ自体はウィッチである彼女にとっては痛くも痒くもなかったが、振動で倒れたインクが彼女の軍服を染めた。
外套もつけず歩き回ったルーデルの体はすっかり冷え切っていた。
そのまま自室に戻るのも気が進まなかったため、そして、ごくごく自然に"会いたい"という欲求が沸いたため、彼女はアーデルハイドの部屋に向かい、ノックも、ためらいもせず部屋に入る。
部屋には誰もいなかったが、部屋のつきあたりの机のすぐ下にインクだまりができていて、衣服とブーツが脱ぎ捨てられ、ケースに収めたハンドガンが転がっていた。
水音に気づいて、ルーデルは、部屋の奥にある浴室へ大股で進み、シャワーカーテンを勢いよく開ける。
短い悲鳴をあげ、アーデルハイドはとっさに胸をかばう。
ルーデルは、気が抜けたのか、息を吐き、動揺に崩れた表情を引き締めなおす。
「何事だ、アーデルハイド」
「うっかりインクを倒してしまって…」
ルーデルは、豪快とはいかないまでの大きな笑いをあげる。
「笑わないでください!」
「すまない。ただ、あまりにも愉快でな」
アーデルハイドは、背を向け、ちらりとルーデルを見やる。
「あの、閉めていただけますか? すぐ出ますので」
「断る」
「な!?」
「外を歩いていたから体が冷えた。そばに行ってもいいか?」
と、ルーデルは、いつもの凛々しい表情に、口元だけ笑みを浮かべ、アーデルハイドを見つめる。
その瞳を前に、やはり、断れるはずもなく、アーデルハイドは、視線をそらして、うなづいた。
着衣を脱ぎ去ったルーデルは、アーデルハイドの背後に立ち、壁に両手をついて、後ろから、彼女の頬に口づける。
アーデルハイドは、スイッチが入ったかのように、くるりと体を回し、ルーデルに向き合うと、彼女の体を抱きしめ、唇を寄せた。
シャワーから際限なく放たれる湯が、二人を外側から暖める。
ルーデルは、唇を重ねたまま、片方の太ももをアーデルハイドの足の間に入れ、彼女に体を押し付けた。
かろうじて冷たさの残るルーデルの体のせいなのか、足の間に差し込まれた太もものせいなのか、アーデルハイドは、大きく、息を吐き出して、ルーデルの背中に軽く、指を食い込ませる。
拒否なのか、体の力が抜けて、力場を見失ったゆえの行動なのか。
ルーデルは一瞬だけ迷ったが、目の前にいる部下でもあり、そして、どうしようもなく愛しい人間を前に、半ば利己的に、
今自分が欲しがっているものを彼女も欲しがっているのだと判断し、静かに唇を離すと、彼女の首筋、鎖骨、さらにその下へと舌を這わせ、空いた手で太ももをなで上げた。
思考がふやけ始めたアーデルハイドは、思わず、ルーデルの怪我した方の腕に指をかけ、彼女の傷口を開く。
しかし、ルーデルはまったく意に介さない。
断続的な、アーデルハイドの息遣いがシャワーの音に混じり、ルーデルに届く。
ルーデルは、シャワーを止めた。
すっかりのぼせたような顔つきのアーデルハイドは息を整えながら、見つめるルーデルの視線から逃れる。
ルーデルは、濡れた髪をかき上げ、アーデルハイドの顎を掴み、顔を向かせた。
「ここでは落ち着かないし、お前の声も聞こえにくい」
「こ、声なんて出していません!」
と、アーデルハイドはルーデルの手から顎を逃すと、彼女を通り過ぎて、バスタオルを掴み、自分の体に巻いて、もう一枚を彼女に頭からかぶせると、わしわしと拭く。
「おいおい、まるで母親だな」
「違います。私は……、あなたの恋人です」
ルーデルは目を見張り、言葉を接ごうとするが、アーデルハイドはルーデルの腕からまた流れ始めている血に驚き、彼女の腕を引いて、ベッドへ座らせ、携帯用救急キットからガーゼと包帯を取り出すと、鮮やかな手つきで、治療を始めた。
ルーデルは空いた手で髪と体を拭きながら、つぶやいた。
「……外で、礼を言われたよ。この間敗走した戦闘だったが、住人が避難する時間は稼げたらしい」
アーデルハイドはそっと視線をルーデルに向け、ひどく、穏やかなその面持ちに驚き、巻き終えた包帯から手を離し、ルーデルを、両手で抱きしめる。
「どうした?」
と、ルーデルは、珍しく困惑を混ぜた声でつぶやく。
アーデルハイドは、彼女の肩に顔をうずめた。
「わかりません。ただ……、抱きしめたくなって、分かち合いたくなって……。
大尉、これが、人を好きになるという事なのでしょうか?」
ルーデルの肩が熱を帯び始める。
ルーデルは、アーデルハイドの両腕を握り、ゆっくり、引き離し、彼女を見据えた。
「ああ」
「大尉、あなたも、同じ気持ちですか? 私を…」
ルーデルは、愚問だと言いかけ、同時に、きちんと気持ちを伝えていなかったことを思い出すと、一瞬だけ目を伏せ、覚悟を決めたように、顔を上げた。
「私は、お前を愛している。部下としても、一人の人間としても。アーデルハイド、これからも、共に戦い、生き抜いてくれるのであれば、私に口づけろ」
乱暴ではあるが、ルーデルらしい物の言い方。
アーデルハイドは、乱れたルーデルの髪を手ぐしですいて、ぴくりともしないルーデルに、唇を近づけ、押し付けた。
「喜びも悲しみも、すべて分けて下さい。ハンナ……」
部下に、初めて呼ばれるファーストネームに、ルーデルは、じわりと、胸の奥に喜びが広がるのを感じ、そのままアーデルハイドを静かにベッドに倒す。アーデルハイドは、無意識にかばった胸を開放し、ルーデルを見返した。
ルーデルはベッドから立ち上がり、部屋の明かりを消すと、またベッドに舞い戻り、暗闇で、アーデルハイドの体を探り当て、きつく抱きしめ、舌で、指で、唇で、汗ばむ彼女の体を愛撫する。
暗い部屋に、ベッドのきしむ音と、二人の吐いた息の音が混ざり合う。
朝が近づき、アーデルハイドは、目を開ける。
きつく抱きしめられた体に残る痛みはなぜか心地よかった。
目の前のルーデルは、じっと目をつぶり、規則正しい寝息を立てていた。
アーデルハイドは、枕に頭をつけたまま、ルーデルの顔をまじまじと見つめ、彼女の鼻に刻まれた横一文字の傷にそっと触れる。
ルーデルが、ゆっくりと目を開け、傷がどうかしたか、と言いたげに見つめ返した。
アーデルハイドは、体をずらし、ルーデルに顔を近づけた。
「あなたに、嘘をつきました。私は、あのブリタニアのウィッチに少し嫉妬しています」
ルーデルの視線が、考え事をするかのように泳ぎ、わからないといった表情を形作るので、アーデルハイドは言葉を続けた。
「その顔の傷は、彼女が原因。あなたは毎朝鏡を見るたびに、彼女の事を少しでも思い出されるはずですから…」
ルーデルは、軽く笑い、昨夜アーデルハイドが治療した腕をブランケットから出す。
「お前がそこまで嫉妬深いとは」
「……嫌いに、なりましたか?」
ルーデルは、顔を赤らめ視線をそらすアーデルハイドの頭を、ブランケットから出した手で引き寄せ、口をこじ開けるように、少し乱暴にキスをし、唇を解放してつぶやいた。
「そんなわけないだろう。それに、"思い出の傷"は昨夜増えた」
ルーデルは、包帯を巻かれた腕をちらりと見て、目を細めた。
肩に押し付けられたやわらかい頬の感触に、アーデルハイドは嬉しい反面、疑問を覚えていた。
戦い、帰投し、報告書を作り、部屋で言葉を交わして、体を重ねて――
ルーチンワークに近い。
もちろん飽きなんてこれっぽっちも感じてはいないけれども、これでよいのだろうかとアーデルハイドは半ば脅えを感じ、体を反転させると、ルーデルの顔を覗きこんだ。
起こさぬようそうっと唇を重ねる。
いつもそう気をつけているのに、ルーデルは目を開いて、微笑み返し、倍にして返すと言わんばかりに深く口づけする。
長い長いそれに相手の肩に手を置いて少し押すことで中断を希望することを表す。
アーデルハイドは真っ赤になった顔を見られたくなくて、ルーデルの顎に自らの額をくっつけた。
「……いい加減、眠ってください」
「眠っているさ。それに起こしたのはお前だろう」
図星に、アーデルハイドは唇を噛む。
起こしたくないのであれば、見つめるに留めておけばいい。
当たり前すぎる対処法はどんな子供でも容易に思いつきそうな簡単なもの。
しかし、ルーデルを目の前にしたアーデルハイドにはたった一人で祖国を奪還せよという無茶な命令のほうがまだ実現可能と思えるほどに難しすぎるものだった。
このとめどないルーデルへの愛を言葉や体で示しつくせたらどんなに楽だろう。
思考の海を泳ぎ始めたアーデルハイドに気がついてか、ルーデルはアーデルハイドの顎を持ち上げて、その額に唇で触れ、離す。
紺碧の瞳に、アーデルハイドが映りこむ。
「アーデルハイド、お前はどうして私の心の中に入り込んでくるんだ」
非難の意を込めたつもりなどまったくないルーデルの言葉。
アーデルハイドは震える唇を引き締めて、ルーデルの胸に飛び込んだ。
「その言葉、そのまま貴方にお返しします」
ルーデルは満足そうに笑うと、アーデルハイドの背骨に沿って指を滑らせ、張りのいいお尻をなでた。
アーデルハイドはぎくりとしたように肩を跳ね上げ、夜明けが近いことに気がついて慌てて言葉を接いだ。
「今日は早くに作戦会議が……」
ルーデルはその言葉を無視するように、もう一方の手でアーデルハイドの胸に顔を埋めた。
「ハンナ、お願いだから……少しでも睡眠を……」
そこまで言いかけて、アーデルハイドは入り込んでくるルーデルの指にあっという間に思考を融かされる。
相手の背中に手を回し、その肩越しから窓の外を見て、明けていく空をただ瞳に映した。
アーデルハイドは背筋を伸ばし、きびきびとした足取りで、しかし、その目は忌々しいものでも見るようにまっすぐと前を向き、基地内の廊下を進んでいく。
それに反し、ルーデルは落ち着いた歩調でアーデルハイドのあとを追いかけ、ぴたと立ち止まった。
「アーデルハイド」
叫ぶでもない、張りのある声が廊下に響いて、アーデルハイドはかつっという音を残し足を止めると、無駄のない動きで振り返る。
ルーデルは薄く笑い、アーデルハイドへと歩み寄る。
「そこまで感情を表に出す必要はない」
「いい加減、我慢の限界です」怒りに歪む顔を見られないようアーデルハイドは言葉を放つごとにうつむいた。「いくら貴方が素晴らしく能力が高いウィッチだからと言っても、あんな作戦ばかりではいつかは…」
「撃墜されるな」ルーデルはふっと息を吐き出し、アーデルハイドが避けていた言葉をあっけらかんと放つ。
そして目元をすっと引き上げたかと思うと、そのままアーデルハイドの肩に手を置いた。
「だが、私は一人ではない。貴官がいる。他の隊員たちもだ。それがあるから、私も全力で戦える」
「ハン……大尉」危うく名前で呼びそうになり、アーデルハイドは慌てて言い直す。
その様子にルーデルは小さく吹き出して、ぽんとアーデルハイドの肩を叩いた。
「さあ、行くぞ」
「……はい!」
限界まで高度を上げ、ルーデルの中隊は制空戦闘機を主にした別の中隊の後につきながら、目標地点へと近づいていく。
目を凝らさなくとも、かつて大きな町があったその地点は瓦礫が散乱し、見る影も無い。
荒廃した大地から、明らかに異質な金属のモニュメントが怪しい光をうっすらと放ちながら天へ向け聳え立っていた。
そしてそのモニュメントの合間から、黒い塊が赤い光点を放ったかと思うと、蟻のように、砂色の大地に散開し始める。
戦車にそのまま足を生やした昆虫のような多脚戦車型のネウロイがばらばらに移動していたかと思うと、ルーデルたちの真似をするかのように規則正しく並んだ。
到底歓迎は出来そうに無い学習能力にルーデルは表情をより引き締める。
耳にはめ込んだインカムから前方を飛ぶ制空戦闘機隊の長機の声が流れ、進行方向に目を向ける。
目に痛いほどの青い空に、黒点が浮かぶ。
ラロス改――
攻撃開始を告げるインカムからの声。
ルーデルは対戦車砲を持つ手に力を込め、眼下で対空砲を向けているネウロイの群れに一瞥を送る。
作戦は、スオムスで穴吹智子が行ったものと同じと言っても過言ではないものだ。
本来、制空戦闘機隊が守るべきルーデルたちを囮にしつつ空から近づく敵を無力化させ、手薄になり始めた頃に降下し、地上のネウロイたちを直接破壊していく――
ただ、あの時と違うのは敵編隊の数がいささか多いということだろう。
降下するにはまだまだ危うすぎるほど、空ではいまだ激しい空戦が繰り広げられている。
それでもいまだ撃墜されたウィッチがいないということだけが、唯一の救いだ。
地上からの対空砲はルーデルたちの編隊を乱すことすらできずにいるが、空で続く戦いは近づく目標地点への降下を渋らせていた。
胸の奥でわずかずつ焦りが浮かび、頬が硬化する。
少しであっても、前進したい。
一進一退はもうこりごりだ――
「大尉」
インカムから聞こえたアーデルハイドの呼びかけにルーデルははっと顔を横に向け、まっすぐに見つめ返すアーデルハイドに気がつく。
彼女の顔に、気をつけなければわからないほどの微笑がにじんで、小さく頷いた。
ルーデルはその様子に肩の力を抜き、片方の口角を引き上げ笑うことで応え、激しかったはずの銃撃音が消えたことに気づいて顔を上げた。
「優秀だな」
多少もたつきながらも、視界に入るラロス改をほぼ殲滅させた制空戦闘機隊がふたたび隊列を組んでいた。
制空戦闘機隊の長機がバンクを振ったので、ルーデルは対戦車砲に初弾を装填すると、降下体勢に入った。
それを見た隊員たちもルーデルと同じように装填を済ませると彼女に続いた。
地上の多脚戦車型ネウロイが天に向けた砲台で一斉に対空射撃を行う。
しかし、ルーデルたちは鼓膜を激しく揺さぶってくるその攻撃をものともせず、今度はより低くをめざし、地上すれすれに街に降りると前進を始めた。
多脚戦車型ネウロイ群がルーデルたちを撃墜しようと、砲台を下ろし始めている。
その頃には、ルーデルや隊員たちはスオムスで行ったようにすばやくネウロイの背後や側部に移動をし、ためらうことなく、対戦車砲を撃ち込んではネウロイたちを爆散させていった。
ルーデルは徐々に多脚戦車型ネウロイが減っていくことを横目に確認しながら、注意深く廃墟を見回した。
ふとレンガ造りの倒壊したビルが目に入り、まるでルーデルを待っていたかのように動き出したことに状況を忘れ、にやりとする。
「ワンパターンなやつらめ……」
額から一筋の汗を伝えわせながら、伸びていくビルをじっくり観察して、砲弾を、ひときわ大きめな音を出しながら薬室に送り込んだ。
アーデルハイドは多脚戦車型ネウロイを一掃したことを確認すると、ルーデルを探し目を見張った。
見ると、彼女の目の前でビルが縦に伸び上がっていた。
移動要塞ジグラット。
読んで字のとおり、機銃、砲身を備えた巨大ネウロイである。
幾分かましなのは、スオムスで現れたものの、半分ほどの大きさということ。
しかし、巨大であることには変わりはなかった。
アーデルハイドはルーデルのもとへ急ぎ、他の隊員たちもスピードを上げた。
背後から近づく仲間たちには目もくれず、ルーデルは叫んだ。
「諸君、直撃を食らわぬよう慎重にな」
隊員たちは対戦車砲に砲弾を込め、肩に担いだ。「了解!」
ジグラットが伸びた砲身から、爆裂音とともに一斉に弾を吐き出す。
震える空気に体勢を崩されそうになりながらも、隊員たちは第一波を避けた事を確認すると、次の攻撃をさせぬよう、それぞれが一番狙いやすい位置にある砲身に対し、対戦車砲を撃ち込んだ。
しかし、焦りのせいなのか、外壁に大きな穴だけを残すに留まり、敵の沈黙を引き出すには至らない。
アーデルハイドは舌打ちしながら、上昇する。
ルーデルもしくじってしまったのか、上昇をしアーデルハイドの隣に並んだ。
「やはり、スオムスのやつほどの大きさではないとはいえ、一筋縄ではいかないな」ルーデルは対戦車砲から排莢しながら、砲弾を装填した。「援護を頼む」
「それはかまいませんが…」と言いかけ、アーデルハイドはルーデルが肩で息をしていることに気がついた。「大尉、どうか焦らないでください」
ルーデルは珍しく驚いた顔でアーデルハイドを見つめ、どことなく困ったような表情をほんの一瞬だけにじませ、また厳しい表情に戻る。
「援護を、頼んだぞ」
ルーデルはくるりとその場で宙返りすると、頭を地上に向け、そのまま重力を使ってスピードを上げ降下していった。
アーデルハイドはルーデルの態度に不安を覚えながらも、彼女の後に続いた。
ジグラットは機銃から弾をばら撒くが、ルーデルは難なくそれをかわす。
他の隊員たちもそれをかわしつつ、対戦車砲を構え、引き金を引いた。
ジグラットがもっとも大きな砲身をルーデルへと照準をあわせようとしていたが、他の隊員たちからの攻撃でわずかに遅れる。
もらった――
ルーデルは今まさに自分に向けられようとしている砲身と一直線上に並んだ瞬間を見逃さず、弾を発射した。
アーデルハイドはその瞬間を見届け、勝利を確信し、ルーデルへの口頭報告を頭でまとめかけたが、眼下の街にうごめいたものに気がつく。
ルーデルの放った攻撃で、ジグラットは一瞬の間を置いた後、派手に爆発をし、真白い破片を撒き散らした。
爆発に巻き込まれぬよう、背を向けながら高度を上げるルーデルを見て、隊員から歓声があがった。
「シールドを展開しろ!」
普段の様子からは想像もつかないほどの取り乱したアーデルハイドの声に、一同はわけのわからぬまま、シールドに魔力を注ぐ。
ルーデルはアーデルハイドの声を確かに聞いてはいたが、注ぐべき魔力が足りていなかったため、地上から放たれた攻撃をかわすためにその場から離れることを選んだ。
その判断が賢明だったかどうかは誰もわからない。
ルーデルが右足に燃え上がるような熱さを感じ、それが一気に全身に広がったその時、まぶたを下ろしていないはずなのに、目の前が真っ暗になった。
ルーデルは鼻にしみついた消毒液のにおいと、遠くに聞こえるストレッチャーが慌しく動き回る音で、病院にいることを確信する。
点滴されていないほうの腕が、とても重く感じられた。
その腕に神経を集中し、顔に触れる。
鼻の古傷はそのままで頬にはべっとりと絆創膏が貼られていた。
額には包帯が巻かれ、目元まで覆われている。
腹部に手をすべらせ、着衣越しに巻かれている包帯を確かめた。
さらに下へと手を伸ばしかけたが、ドアが開いた音がして、その手を止める。
「……大尉、意識が?」
「そのようだ。アーデルハイド、状況を…」
言葉を言い切る前に、ルーデルはアーデルハイドに抱きしめられる。
ルーデルはアーデルハイドの背中を数回さすって、彼女の肩に手を置いた。
「状況を…」
もう一度つぶやくが、アーデルハイドはルーデルの頬をなでると、ぎっと音を立て、ベッドから立ち上がった。
「先生を呼んできます」
いつも以上に硬いアーデルハイドの声に、ルーデルは状況を聞き出すことをあきらめて、枕に後頭部を沈めた。
右足の感覚がないことだけが、ルーデルに不安をもたらしていた。
包帯を巻かれまぶたも上げられず、薄暗い視界にアーデルハイドの影が横切るのを待っているうちに眠ってしまったことにルーデルは気がつく。
目を閉じる前は昼間だったと思うが、肌に感じ、肺に吸い込んだ空気の感触は夜をあらわしていた。
窓が開いたままなのか、冷たい風が近くに感じられて、ルーデルはブランケットを肩まで引き上げる。
ぱたぱたという足音に思わず体を起こすが、アーデルハイドのものではないとすぐに思い出し、ベッドに体を預けた。
「看護婦か?」
「はい」という自分とあまり変わらない年齢と思しき少女の声が答えて、病室に入ってきたかと思うと窓を閉めた。「風の音がしたので」
「ありがとう。ところで私の部下を見なかったか? 昼間に医者を呼びに行ったきりなんだ」
「……申し訳ございませんが」
「いや、いいんだ」言葉とは裏腹に落胆したように声を低くしながら、ルーデルは看護婦がいるであろう方向へ顔を向けた。「君が代わりに先生を呼んできてくれないか?」
「もう来ておりますよ、大尉」
野太い男の声がして、かつかつと軽快にしかし体重を感じさせる足音でベッドに近づき、ふむと短くつぶやいた。
ルーデルは弱さを出さぬよう、戦闘中と同じような口調でさっそく質問した。「状態を教えていただけますか?」
「長くなりますが」と前置きして医者はカルテをすらすらと読み始めた。
「頭蓋に小さなひび、軽度の脳挫傷。こちらも軽度ではありますが全身に切創。右上腕部の単純骨折、右手人差し指の骨折、左の眼窩底骨折……まではいかなかったのですが、念のため包帯を。肋骨も数本ですがひびが入っています」
ここまで言って医者がほんの一瞬息を吐いたところにルーデルが割り込んだ。
「足は……? 感覚がないんですが」
「感覚ですか?」
医者のその言葉の後のわずかな沈黙すらルーデルにはとても長く思えて、つい唇を引き締め、つばを飲む。
が、次の瞬間、医者がそっとルーデルの腿に分厚い手を載せた。
「感じますか?」
「あ、ああ……」
「ふむ。まあ、これだけの怪我です。感覚がなくてもおかしくはない。足は両方ともついてますよ。ただ……開放性骨折なのでウィッチといえど、治癒に時間はかかります」
「どれぐらい?」
「足の傷だけではないですし、どんなに少なくても、そしてウィッチの治癒の早さを考慮しても三ヶ月は」
「そんな悠長なことは……。あと少しであの街をやつらから解放できるんだ」
ルーデルは跳ね起き、全身に広がる痛みにうつむく。
医者とナースは両側から彼女の肩に手を置いてそっとベッドに押し戻した。
医師は痛みで浮かんだルーデルの汗を拭きながら、つぶやいた。
「大尉、私は軍人ではないです。しかし、今戦場に出たところで、いくらあなたといえど戦力にはならない」
「貴方が戦闘のなにを知っているんだ……」痛みに歯を食いしばりながら、ルーデルは半ば噛み付くように医師に言った。「一人にしてくれ」
基地の格納庫入り口付近で慌しく働く整備士たちを背にしながら、アーデルハイドは夜空に瞬き始めた星を眺める。
手に握った一枚の用紙を眺め、また空に目を戻す。
途中で基地に呼び戻されたせいで病院ではルーデルとろくに話すことも出来なかった。
今頃、体の状態を聞かされて、嘆いているだろうか?
それとも、そんなことはお構いなしに明日にでも戦場にと医師とケンカしているだろうか?
どちらにしろ、会って、抱きしめて、感じたかった。
数日前にはおびえすら感じていた「ルーチンワーク」が今はとても恋しかった。
けど今会ったら何もかもが揺らぎそうで――
そんなことを頭に浮べながら、アーデルハイドは数メートル先のジープに飛び乗って病院にすっ飛んで行きたい気持ちを唇を小さく噛むことで押さえ、踵を返した。
「少尉」と、整備班長の中年の男がアーデルハイドに声をかけた。「ストライカーの調整ですが、言われたとおり、朝までには何とかなりそうです。ただし、ルーデル大尉のストライカーは全損で、かつ予備も取寄せになりそうなので…」
「大尉はしばらくの間戦闘には参加しない」
きっぱり言い切るアーデルハイドに整備班長は目を丸くするが、アーデルハイドは無表情に振り返った。「今日から中尉になった。明日の作戦は大尉に代わり私が指揮を執るのでそのつもりで」
消灯時間を迎え、並んだ窓から漏れる月明かりだけの薄暗い廊下の中を、看護婦が慣れた足取りで通り過ぎていく。
が、ふと何かに気づいたようにサンダルのつま先で音を鳴らし、制止する。
ずるずると何かが這うような音。
大きくもないが、かといって無視することはできないほどの音量である。
看護婦は少しばかり頬の辺りを強張らせながらも、音のする方向へ目を向け、待ち構える。
暗闇に目をこらしているうちに、声が響いた。
「誰かいるのか」
その声に看護婦はぎょっとして声の主に向けて駆け出した。
「ルーデルさん、安静にしないと!」
月明かりがルーデルの顔に巻かれた包帯をかすかに青く染めていた。
「基地に連絡を取りたいんだ」
ルーデルは包帯の隙間から覗く口元に笑みを浮べた。
折れていないほうの手に松葉杖が握られていて、同じように無傷の左足で本当に何とか立ち上がっているという状態に看護婦は驚愕を顔いっぱいに浮べ、ちょうど廊下の隅に立てかけてあった車椅子を見つけるとさっそく座らせた。
「一体何の連絡をするって言うんですか……」
「状況確認とシフトの調整をしなければ」
真面目な口調で言うルーデルに看護婦は顎を落としそうになりながらも、車椅子を押し始めた。
「そんな体では飛べませんよ。生きていることがすでに奇跡的なんですから」
ルーデルは呆れのこもった看護婦の言葉をじっと聞きながら、顔を上げた。「私はどうやってこの病院に?」
「あなたの隊の方たちが、負傷したあなたを抱えて戦場から直行して来たんです」
「……まったく覚えていないな」
「そのほうがいいかもしれません。意識があったら激痛どころの騒ぎではなかったはずです。ただ、応急処置が良かったんでしょうね。一番損傷の酷かった足も切らずに済みました。あの方は医者にもなれるんじゃないですか」
「あの方……?」
「ほら、今日あなたが目覚めたときにまっさきに先生のところに来た……アーデルハイドさんでしたっけ」
ようやく声に明るさが戻り始めた看護婦の声を耳に入れながら、ルーデルは自身の右の太ももにそっと指を滑らせた。
目が覚めたときから浮かびぱなしのアーデルハイドの顔が包帯で覆われた真っ暗な視界の中でより鮮明になっていた。
たまらず、ぽつりとつぶやいたルーデルの声が聞き取れず、看護婦は腰を折って、ルーデルの声に聞き耳を立てた。
「頼みがあるんだが……」
自室のベッドの上で目を覚ましたアーデルハイドは起き上がろうとして、周りに散乱した書類を手の下でがさがさと押しつぶした。
窓の向こうに見える山の稜線は、まだ暗い空に溶けていた。
着たままの軍服のジャケットに手を突っ込んで取り出した懐中時計に目を凝らし時間を確認する。
作戦開始は午前11時。
まだ8時間もある。
立ち上がったアーデルハイドははだしで冷たい床の感触を確かめながら、着ているものを脱ぎ落としてバスルームにたどり着く。
シャワーの栓をひねりまだ温まっていない水を浴びた。
目をつぶり、水がお湯になるのを待つ。
いつもの手順。
振り返って、目を開けたらルーデルがいた時もあった。
だが、今は――
アーデルハイドは自分で肩を抱いて目をさらにきつく閉じ、シャワーを止めた。
ぱたりぱたりと体から落ちる水滴。
しばらくしてその場にしゃがんで、膝を抱くと深くうつむいた。
少尉、街を取り戻すのも確かに大事だが、大尉が欠けている今無理をしては――
大尉の回復を待っていてはふりだしに、いえ、最悪な場合はマイナスからやり直しです――
敵も修復に時間を要するだろうから今叩けば奪還も可能だろう。だが、あまりにも危険すぎる――
そのとおりです。空も地上も、先の作戦でほとんどを殲滅しております。あとはあのジグラットだけです――
報告書は読んだ。スオムスで君たちが破壊したジグラットよりも小さいといえば小さいそうだが――
大尉の負傷を無駄にしたくはないのです。そして、この勝機は絶対に逃したくありません!
わかった。検討しよう。作戦が承認されれば、君が中隊を率いてくれ――
バスルームから出て体を拭いたアーデルハイドはクローゼットに手を突っ込み、替えの軍服に袖を通した。
濡れた髪を完全に乾かし、軍帽をかぶると、鏡の前で一息吐き出す。
胸の奥にあるのは、紛れもない恐怖。
だが、その恐怖はネウロイに対するものではなく、ルーデルに対するもの。
ルーデルに二度と会えなくなるかもしれない。
けれども、今病院に行けば何もかもが揺らぎそうで、とてもではないが会いに行く気にはなれなかった。
もうひとつ、ため息をつきかけたそのとき、ドアが控えめにノックされ、アーデルハイドは細くドアを開けた。
見ると、まだウィッチになったばかりの少女がまっすぐな瞳でアーデルハイドを見上げていた。
「このような時間に申し訳ございません。少尉……じゃなかった。中尉に来客が」
小石を踏んだだけできしむフレームを持つジープに揺られながら、アーデルハイドは病院へと向かっていた。
ちらと運転席にいる看護婦に視線を移し、また戻すと看護婦が口を開いた。
「本当はこんなことはしないんですけどね」
「こんなこと?」
「外出ですよ。かなり無理行って抜け出してきちゃいました。けど、そこまでする価値はありそうなので」
「価値……」
「なぜ昨日は戻ってこなかったんですか?」
「……いろいろ、仕事が残っていた。本当なら今だってこんなことをしている暇は…」と、アーデルハイドは病院に行くべきではないと自分に言い聞かせていたはずなのに、こうもあっさりそれを覆している自分に苛立っていた。
「けど、こうして一緒に来てくれた」
そう付け加えた看護婦に改めて自分の意志の弱さを痛感しながらも、アーデルハイドはフロントガラスの向こうに見えてきた病院に鼓動を早くした。
看護婦の微笑みに、アーデルハイドは笑顔になりきらない表情で応えながらドアを閉じる。
アーデルハイドはドアを背にしながら、かすかに白み始める病室に浮かぶ車椅子の影に、胸をどきりとさせる。
軽やかに車椅子が旋回してアーデルハイドに向き直ると、彼女の目の前で止まった。
「昨日、待っていたのだが…」ルーデルは傷みのせいか、緩慢な動きでを上げ、棒立ちになっているアーデルハイドの手を取った。「なにか、問題でも起きたか?」
アーデルハイドは開きかけた口をまた結ぶ、を繰り返しながら、ルーデルに視線を落とし目を見張る。
昨日までは包帯に覆われていたはずの右目が今は鋭くアーデルハイドを見上げていた。
顔をそらそうとしたとたん、ルーデルの指が腕に食い込む。
アーデルハイドは作戦の事を話すべきか、嘘をついて遠ざけるべきか、そう迷いながら膝を折り、ルーデルの胸に顔を寄せて、率直な気持ちを伝える事を選んだ。
「傷ついた貴方を見ているのがつらくて……」
ルーデルはアーデルハイドの背中をさすりながら、ささやいた。「怪我は、これが初めてではないだろう」
「ここまでの負傷は初めてです」
「だが、お前の処置が良かったと聞いている」アーデルハイドが顔を上げると、ルーデルの微笑みが迎え入れた。「ありがとう」
上官としてではなく、ハンナ・ルーデル個人の感謝の言葉にアーデルハイドの決意が、大きく揺らぐ。
命を賭してでも成功させたい作戦。
もちろん最初から命を投げ出す気なんてさらさらない。
けれども、それぐらいの心持でなければ――
見せまいとしていた動揺がほんのわずかにアーデルハイドからにじみ出たのを、ルーデルが見逃すはずもなかった。
アーデルハイドの背中においていた手が彼女の頬に触れ、視線を固定する。
「作戦は、いつだ?」
アーデルハイドは眉間に皺を寄せることではねつけるようにつぶやいた。「話が見えません」
「私にごまかしがきくとでも思っているのか?」
「落ち着いてください、大尉」
アーデルハイドは背中にひっそりと汗をかきながらも何とか冷静に言葉をつないで立ち上がると、ベッド脇のキャビネットに置かれた空のピッチャーを持ち上げ振り返った。
「唇が乾いています。水をお持ちしますので、少し待っていてください」
「今はいらない。話をそらすな」
言葉を突っぱねるように、アーデルハイドは病室から出て行った。
乳鉢の中の粉末をじっと眺めながら、アーデルハイドは唇を噛む。
ルーデルに感づかれたことは反省してもしきれない。
それよりも、そこまで自分を見ていてくれているのだということに感激している場違いな自身に腹を立てていた。
ピッチャーに次いだ水が徐々に昇り始めた朝の光を反射させる。
アーデルハイドは粉末を紙に包んで軍服にしのばせると、病室へと足を戻した。
ドアを開け、目の前の光景にピッチャーを床に落としそうになりながらも、駆け出した。
「何をしているんですか!」
ベッドにかけていたルーデルはアーデルハイドの声に気づきはしたものの、睨み返すだけで包帯を解く手を止めようとはしなかった。「基地に戻る。車を手配してくれ」
アーデルハイドは驚愕に震えながらため息をついて、ピッチャーを置くと、ルーデルの腕を掴み、制止する。
そして、無礼だということは十分に承知はしていたが、覚悟の上で吐き捨てた。
「そんな体では飛ぶことは出来ません。それ以前に足手まといになります」
「あのジグラットさえ倒せば、街が取り戻せるんだ」
「大尉、もう一度言います。足手まといは困るのです」
「……車を、用意しろ」ルーデルはきかない子供のように顔をそらして、包帯をまた解き始める。
アーデルハイドはしばしその様子を悲しげに見つめながら背を向け、ピッチャーからグラスに冷えた水を注ぎ、渡した。
「作戦は11時。あなたのストライカーはないので、予備になります」
「……それは仕方がない。やってやるさ」
ルーデルはグラスの中身を飲み干すと小さく手を広げた。
アーデルハイドは頷いて、ルーデルの腰に手を回すと立ち上がらせる。
ルーデルはアーデルハイドの肩越しに天井を見上げるが、まぶたが重くなり、目がかすみ始める。
はっとしてピッチャーのそばにある包み紙に気がつき、少しだけ体を離して、アーデルハイドの顔をぼやけた視界に収める。
が、アーデルハイドがルーデルを抱き寄せたため、また顔が見えなくなった。
「アーデルハイド……」
「ハンナ、あなたは戦い抜いてください……。作戦は必ず成功させます」
ルーデルはもう一度体を離す。
薄れる意識がアーデルハイドをどこまでも遠く感じさせていた。
振り切るように、アーデルハイドの襟をつかんで、顔を――唇を引き寄せた。
「……お前がいない世界に何の意味がある」
ルーデルはがくりと膝を落とし、アーデルハイドに抱きかかえられる。
アーデルハイドは震える唇を噛み締め、目頭を押さえて、ルーデルをベッドに横たわらせると、鼻の傷をそっと指でなぞった。
「ハンナ、私も同じ気持ちです。あなたがいない世界に意味はない。愛しています……。願わくばもう一度会えますように…」
青い空の中、黒煙をちらしながら、ストライカーをはいたウィッチたちが一機また一機と戦場を離脱していく。
アーデルハイドはそんな彼女たちが無事基地に帰りつけるよう的確な指示を出しつつ、身を翻しては地上からの高射砲をかわし、目標の街へと降下していった。
以前の作戦から日がたっていないため、敵もまだ十分な数はそろえることができていなかったが、アーデルハイドたちもそれは同じであった。
しかし、街の奪還という現状では決して実現不可能ではない目標のため、全員がぎりぎりまで力を出し切り、敵を殲滅させていった。
街に到達したアーデルハイドたちは残る多脚戦車型ネウロイも着実に撃破すると、周囲に目を光らせ、最終目標であるジグラットの出現を待った。
悲観的過ぎたかもしれない。
不意に出来た余裕にアーデルハイドは肩の力を抜き、再びルーデルに会える可能性ができたことに胸を躍らせかけた。
が、慌てて油断は禁物だと自身を律した。
そのとき、インカムから部下の声が聞こえ、報告のあった地点へ向け旋回する。
目標地点に近づくごとに、地響きが大きくなり始め、到達する頃には複数の砲身をたずさえた最終目標が姿を現し、周りを囲う隊員たちへそれぞれの砲身を向けかけていた。
どんという重い音を轟かせながら、砲身という砲身から弾が発射される。
隊員たちは散開しながら、対戦車砲を構え、引き金に指をかけた。
アーデルハイドも体勢を立て直しながら、対戦車砲を構え狙いをつけ、すばやく照準を合わせると発射した。
それを見た他の隊員もぎりぎりまで距離を詰めつつ、砲身の中心に狙いを定めると引き金を引き、離脱した。
発射された砲弾のほとんどが砲身を破壊し、ジグラットは大きな煙を噴き上げて、本体を傾かせた。
その場にいたウィッチたちは歓声を上げる。
あっけなさすぎる。
アーデルハイドはそんなことを思いながらも、残る砲身も余さず破壊していった。
すべての砲身が破壊され、ジグラットは沈黙した。
なのに、アーデルハイドはざわつく胸を抑えられない。
何度も何度もジグラットの周りを飛び、仔細に眺め、思考をめぐらせる。
そういえば。
今回のジグラットはまったく動こうとしなかったことを思い出し、はっとする。
今まで見てきたジグラットには脚があったが、目の前いるジグラットには――
考えがそこまで至った瞬間、まるでアーデルハイドをせせら笑うようにレンガに覆われたジグラットの黒光りする本体の表面で赤い光点がまたたく。
アーデルハイドは他の隊員が上昇しているのを確認すると、最後の弾を装填し狙いをつけた。
剥がれ落ちたレンガから最後の砲身が現れ、弾を発射したと同時に、アーデルハイドは前進しながら引き金を引いた。
互いの弾がすれ違い、アーデルハイドの弾はジグラットの砲身にすっぽりとおさまり、ジグラットの弾はアーデルハイドの目前に迫っていた。
アーデルハイドは対戦車砲を投げ捨て、両手を伸ばすとシールドを貼った。
防御のための魔力も考慮はしていたが、これほど近距離の攻撃に耐え切れるかはわからなかった。
そしてジグラットが爆発した際の衝撃波にも。
アーデルハイドは光があふれ始める景色にそっと目をつぶった。
爆風に、シールドで守られていても、鼓膜が大きく震え、体じゅうを見えない圧力がぐっと押し付け、骨が軋む。
もう一度目を開けようにも、まぶたが上がらなかった。
薄暗い視界のまま、アーデルハイドは生じ始めた激痛に身をゆだね、意識を失った。
落としたミルクがコーヒーの上に広がるように、視界に白が混ざり始める。
動かない体が優しい空気の中でたゆたう感覚。
死んでしまったか、とアーデルハイドは冷静に結論付けた。
そっとまぶたを押し上げても、周りはどこまでも白く影ひとつ見えない。
息を吐いた途端、虚脱感があっという間に体中に広がって、再びまぶたをきつく結ばせた。
胸の下にとてつもなく重い何かを感じて、息を詰まらせる。
まだ死んでいない、これから死ぬのだ――
アーデルハイドはうろたえず、息を吸えない状態を受け入れる。
周りの白さに混ざるように、意識も溶け始めていた。
が、自分の体の重さや感覚もなくなりかけたそのとき、シープスキンの手袋がそっと頬をなでることに気がついた。
手袋越しでも誰かわかる――
アーデルハイドは言葉を出そうと口を開くが、胸の下を押す何かが邪魔をして果たせない。
あきらめたように口をつぐんで、肺に残った最後の一息を吐き出した。
夢でも、最期に会えてよかった――
凍えた薔薇がとけるようにアーデルハイドの頬が緩む。
振動とキャタピラが地面を駆ける音がアーデルハイドを覚醒に導いた。
同時に、体中を痛みが走り、ふっふっと短く息を継ぎながら、首を左右にひねって、状況を確認する。
瓦礫と瓦礫が屋根を作る形で支えあうように立っていた。
隙間からは太陽光がさしこんでいる。
顎を引いて、胸の向こうにどっしりとのっているコンクリート片を見つける。
外傷は負っていないようだが、内蔵は損傷しているかもしれない。
そんなことをひどくゆっくり、そしてのんきにちかい状態で考えながら、アーデルハイドは片方の足に装着されているストライカーの出力を上げて音を出す。
キャタピラの音がぴたりと止んで、代わりに少女たちの声が響き始めた。
瓦礫の隙間からの光が一瞬だけさえぎられ、「ここにいたわ!」という呼びかけの声で辺りが騒がしくなる。
引き上げられたアーデルハイドは痛むおなかをさすりながらも、他のウィッチたちの手を離れ、なんとか一人で歩き出し、周囲を見渡した。
瓦礫を避けるウィッチ、街から離れたところにはさっそくお偉方がやって来たのだろう、即席のテントが作られている。
街は見るも無残に破壊しつくされていたが、そこにはネウロイたちの姿はもうなかった。
作戦は、成功した。
アーデルハイドは空を見上げ、ストライカーで飛び回るウィッチたちをしばらくの間眺めていた。
乗せられたジープに揺られ、そのたびに痛む体に冷や汗をかきながら、何とか基地に戻り報告を終えた頃にはすでに夜になっていた。
「早く医者に見せろ。君まで負傷をされては困る」という上官の言葉を背にしながら、ドアを閉じると、アーデルハイドは自室に向かう。
ドアを開け、電気をつけ、目を見張った。
ベッドに軍服を着たルーデルが座り、首だけひねってアーデルハイドをじっと見つめていた。
顔の左側には包帯が巻かれ、足にはギブスが装着されいることに目をつぶれば、いつでも出撃は可能といった様子だ。
「ひどい顔だな」と、ルーデルはアーデルハイドの砂埃に塗れた顔を見て、きっぱり言った。
病院は?
そう問いたいのに、アーデルハイドの口からは何も出てこない。
ルーデルの紺碧の瞳が目尻に言い知れぬ悲しさを残しながら、アーデルハイドをその場に縫い付ける。
さきほどまで端に避けていたはずに疲労感がずしりとアーデルハイドにのしかかる。
作戦は成功した。
そして生き残った。
再び、ルーデルに会うことが出来て、そしてこれからもともに空を飛べる――
すぐそこにいるのに、なぜだか足は動かず、アーデルハイドは体を震わせ始め、たまらず顔を伏せた。
ルーデルは表情を崩さず、アーデルハイドを見守る。
アーデルハイドは、つばを飲み込み、瓦礫の中で目を覚ます直前の記憶をたどって、もう一度、凍えた薔薇がとけたような笑顔を差し向けた。
世界で一番愛しい人物のために。
彼女のためだけに――
ルーデルはすくっと立ち上がると、ギブスをつけた足を引きずりながらも出来る限り大股で進み、アーデルハイドを力強く抱きしめ、薄汚れた唇などかまいもせず唇を重ね、額を押し付けた。
「やはり……"凍らせた薔薇"とは言え、唇は温かいな」
「私という薔薇を溶かせるのは、あなただけです、ハンナ……」
乾いた部屋に二人の少女のささやかな笑い声が響き合っていた。
終