ドロップ序
おそらく、どうにも寝つきがわるいからって真夜中に散歩にでたのが運のつきだったんだ。あとになってそう思いあたっても、
結局そんなのは後の祭りなのだ。
ただ気のむくままにあるいていると、いつのまにか管制塔のベランダにでていた。この基地でいちばんたかいところ。きらい
じゃない場所。適当に夜風にでもあたって部屋にもどろう。ふうと息をついて手すりに背をあずける。と、視界のはしに意外な
ものがうつった、気がした。
「なにしてんの?」
きいたことのある声。もう一度視線をそちらにむけると、やはりさきほどのは見間違いじゃなかったと確信するはめになる。
シャーロットがそこにいて、壁によりかかってすわりこみ、さらにはビール瓶を手にもっていた。
「……そっちこそ」
「べつにい。ただのやけ酒」
やけ酒。なにかやけにならなくちゃいけないことがあったのだろうか。首をひねっていると、シャーロットが自分のとなりの
地面をぽんとたたいた。なにを示しているのか理解できず怪訝に眉をよせると、シャーロットがすわれば、とそっぽをむきながら
提案する。それからシャーロットのむこう側にまだあったらしいビール瓶がさしだされる。
「ひとり酒ってのもむなしいもんでして」
「そうか、だが残念ながら辞退させてもらう」
「ふん、つれないの」
シャーロットが手にもっていた瓶に口をつける。どうにもふてくされているじゃないか。らしからぬ厭世的な表情をうかべている
同僚が、すこしだけ気になってしまった。ふむ、と思案してから、私はやつのとなりに腰かける。するととなりをすすめた張本人
がぎょっとした顔をする。
「きょうはめでたい知らせをきいただろう」
「……めでたいねえ」
本日の昼間に、ミーナからきいているはずだ。大尉への昇進。自分のしてきたことが認められた証拠だ。そんなすばらしい
こともわすれるほどにいやなことでもあったなんて、私はかすかに同情する。話くらいきいてやろうと、そんな気になる。
「めでたかないさ、全然」
「なんだと?」
予想外のことばについおどろいた声をあげてしまい、するとシャーロットは肩をすくめてため息をつく。あたしはね、自由な
ほうがいいなあ。でも、階級があがるたびに責任だなんだってのが重くなるじゃない。あたしって、あんたが思ってる以上に
不真面目なの。もっとこう、適度に好き勝手してられるくらいがさ。ぐちぐちと酒のいきおいにまかせてかシャーロットがつぶやく。
なんてことを言うんだ、こいつは。さきほどの同情の念などさっぱりふきとんでいき、おいおい、と思わずおおきな声がでてしまった。
「無責任なことを言ってくれるな。おまえはおなじ大尉としてこれから私と……」
「ほらね、すぐにこういうこと言うひとがいるんだもん」
「シャーロット・イェーガー大尉」
「かたくるしいなあ」
ぐい、とあたらしいほうの茶色の瓶がさしだされる。私がうけとろうとしなくてもずっとシャーロットの右手が私の二の腕に
つめたいガラスをおしつけるから、仕方なしにうけとった。だけどそれだけだ。両手のうえでそれをいったりきたりさせて
もてあそぶ。のみなよ、と不躾な声が言うが、私はそれを無視することにした。
シャーロットが責任をはたす人物であるということは把握しているつもりだった。普段から規律を無視するような奔放な
ふるまいをするにしてもそれはあくまでやるべきことをやったうえでの行動で、やつ自身には確実に分別というものと責任感
というものが備わっている。そうでなければ、大尉になどなれはしない。きょうのこれだって、これまでとちがうさきのことを
案じて弱気になっているだけなんだろうと思った。それこそ、責任感があるからこその不安だ。なにごともそういうものだ、
手放しですべてがいいと言いきれる出来事などおそらくこの世に存在しやしない。
「昇進するのがいやだというわりに、たかいところはすきみたいじゃないか。こんなところで晩酌なんてな」
「ふん、そうでもなけりゃストライクウィッチなんてやってられないさ」
「……それはそうだ」
おや、という顔が私を見る。やつのジョークに私がすなおに頷いたのが意外だったらしい。確かに、そんな程度の気概
でウィッチを名乗るなと言ってしまえる場面ではあったが、やつがよわっているならきょうくらいはおおめに見てやる。なんだ、
と見返すと、シャーロットはふいと視線をそらした。
それからしばらく空を見あげる。夜空。かぞえきれない星。きょうもサーニャがとんでいる。ゆっくりと、意思がぼんやり
としてくる、眠気だった。さてと、当初の目的は果たせた、そろそろもどることにしよう。地面につけていた両手に力をいれて
たちあがろうとした、だけどその片方に急にあたたかいものがふれてさえぎられる。ふとみれば、シャーロットの手が私の
それをつかんでいた。はっとして顔をあげれば、シャーロットの目がすぐそばにあって息をのむ。
「やさしいじゃん、きょうは」
「……べつに、ふつうだ」
「あたしさ、せっかくだからもっとポジティブにとらえることにするよ」
「……」
それはよかった、ぜひそうしてくれ。そう言おうにもなぜか口がうまくまわらなかった。思考のよみとれない視線が顔面
のすぐそばで私をとらえているのだ。背筋がふるえる。ぎっと、手にのったてのひらに力が加わり、いやな予感がした。
……あんたにやっとおいつけたんだって思えばいいや。ちいさなつぶやき、それがこぼれると同時に、やつが私にふれる。
唇で、唇にだ。
「……な」
「昇進のお祝いしてよ、そしたらすごくうれしい」
あまりにみじかい一瞬だったから感触など覚える間もなく、私が驚愕にひるんでいるうちにシャーロットがとなりから
私の正面にまわりこみ、まだ自由だったほうのビール瓶をかかえたままの手首も拘束する。壁と地面の境目に両手
をおしつけられて、私は身動きをとれない。
「なんのつもりだ」
「もしかしてはじめてだった?」
「そんなことを言っているんじゃない、どけ」
「やだね、あんたが祝ってくれたら、どいてもいい」
祝い? なんの話だ、なんのつもりだ。ぐるぐると混乱する思考で、だけどやつのもとめていることの見当は、憎々しくも
ついている。私のひざに自分のそれをわりこませながら、シャーロットが私の目を見ている。逃げ場はなかった。また接近
するやつの唇、どうしてだ、あごをとられているわけでもないのに、私は顔をそらすことができなかった。舌が強引にわりこみ、
くいしばる歯と歯茎をなぞる。執拗にくりかえされて、ついあごの力をゆるめればさらに奥まで侵入される。舌に舌がふれて
妙な味がした。ビールの苦味とはちがう、まるで脳髄がゆられるような。シャーロットの舌が好き勝手に動きまわって、私は
なす術もなかった。
「はあっ……」
やっと解放されて、ひさしぶりに酸素をとりこむ。しかし、げほとむせてしまってうまくいかない。それでもなんとかおおきく
なんども息をすい、やっとおさまったきたころにつうとほほに生理的な涙がながれるのを感じた。それにはっとわれにかえる。
いったいなにをされて私は大人しくしているんだ。堰をきったようにやつからにげようともがいて、しかしうえからおさえつけ
られていては抵抗もしがたくびくともしない。
「あたしだって、それなりに鍛えてるんだ。腕力にだってちょっとは自信がある。ま、あんたが魔力つかわないなら、の話だけど」
ふと、にげたいならいつでもにげられるんだと示唆される。それは余計な混乱をまねくばかりだった。にげられたいのか、
そのくせ、目は私をとらえてはなさない。シャーロットはその一瞬の躊躇をのがすことはなかった。呆然とした私の首筋に
すいつき、舌をはわせる。下品な動きが私の肌を犯した。
「…やめっ……」
「ねえ、両手ふさがってちゃ服ぬがせらんないや。歯でひきちぎっちゃおうか」
「やめ、ろ、やめろ!」
耳元に吐息がかかる。あついそれは、私のからだから力をうばっていき、息を乱れさせる。歯がリボンをかみ、ひかれた。
器用なうごきで、口だけでボタンがはずされていく。なんだよ、なんだよこれは。まともな抵抗もできないで、私は従順だった。
じきに、簡素な布きれが空気にさらされる。
「あんたさ、もっとかわいい下着つけたら? 色気もくそもないよ、こんなんじゃ」
「そんなの、どうでもいいだろう」
「よくないな、あたしはもっとおしゃれな下着のが興奮するもの」
だったらなお、どうでもいい。そう叫ぼうと思ったのに、あまりに急な刺激があった。私は息をのむのに精一杯で目をつぶる。
シャーロットが、布のうえから突起を口にふくんですいあげていた。
「や、やめ、あっ」
高い声。自分の声だなんてしんじられなかった。こらえきれない感覚が音になって私のからだからにげていこうとする。舌先
がそれをなぜてつぶしてころがす。じわじわとやつの唾液がしみこんで、そのぬくもりにぞくりとする。声はとまらないし、表情
が見えなくてもシャーロットはたのしげだとわかる。こんなことのなにがおもしろいのか、そう思うのに、私はじきにたえられなく
なっていた。
「あ、は、……も、やめ、んっ」
「うそつきなって、あんた、さっきから自分からおしつけてきてるよ」
ふと口をはずして、無自覚の行動を指摘されてかっとはずかしくなる。私はくやしくて、唇をかむしかない。だけどシャーロット
がそんな私にかまうはずもなく、ついには私のそれを夜の空気のなかにさらした。下着の下部を歯でつまみ、そのままめくり
あげる。もうべたべたにされていたその片方は、つめたい風を敏感に感じとり、それすらも刺激になる。息をのむと、シャーロット
がくっと笑った。
「ねえ、あんたこんなことされるのはじめて? はじめてが外でさ、それでそんな興奮するって、変態っぽい……」
自身も興奮していることをかくす気もない上擦った声で言い、シャーロットはこんどこそ直接それをたべてしまう。くらべようも
ないほどのきつい刺激。甲高い声がでて、いつのまにか解放されていた両手でやつの頭をかかえていた。まるではなさない
ようにと、いったいなにをやっているんだと思うのにおしつけるのをやめられない。私と同時に自由となったシャーロットの片手が、
もう片方をつつむ。舌とはちがうやり方でせめられて、私は思わず首をふって限界を示した。それをくんだのか、シャーロットは
思わずといったふうにあつい息をはき、あいた手を下部にはわせる。
「いや…っ」
そんなところに他人がふれるのははじめてで、その事実だけで背筋が粟立つ。体温があがって頭のなかがぼろぼろになって
いく。私は必死にシャーロットの頭をかかえこんで目をつぶった。そしてやつの爪が布のうえからちいさな突起をつぶした瞬間
にさっと閉じたままの目のまえが白くなり、声にもならない声が脳内でひびく。未知の感覚に脱力して、私はうしろの壁にからだを
おとしそうになるまえにだきとめられた。とたんに息苦しくなってあわてたように呼吸をする。ぜえぜえと無様に息をきらしている間、
シャーロットはふしぎなほどやわらかく私をだきしめていた。
「いっちゃった」
だけど言うことといえばひとを辱めるようなことばかりだ。かあと腹の奥から怒りがわいて、それでも腕のなかからぬけだそう
としてもからだにうまく力がはいらない。私は意を決して、精神をとぎすませる。そして息のおさまらないままに、ぐっとシャーロットの
胸倉をつかむ。やつはといえば、唐突に魔力をおびた私のからだにぎょっとして反射的に身をひいていたがもうおそい。言われた
とおりに、魔力でねじふせてやることにした。
「ぐ…っ」
ひきよせて、そのいきおいでからだを反転させて今度はやつを壁際においつめた、ぎっときつくおしつけて、するとシャーロットは
苦しげに口もとをゆがませる。それなのに目は、あいかわらずのよめない視線で私をながめていた。
「そんなに怒るなら、最初からこうやってにげればよかったんじゃないか」
もっともなことを言う。だけど私はもうそんなことはどうでもよかった、だらりとのびた両腕を片手でまとめて、やつの頭上の壁に
拘束する。シャーロットはそこでやっと汗をたらした。それはそうだろう、だって、おそらくいまの私はひとを殺してもおかしくない
ような形相をしているんだ。息だって乱れたまま、だけどこれは息苦しさからくるものじゃない、私は確実に、まだ興奮していた。
「……っ」
無理やりに唇をおしつけた、極度にそばで、シャーロットの瞳がおどろきでゆれている。そうであってくれなくては困る、だって
私自身も、自分の行動が理解できないんだから。かみつくように歯をたてて唇をおしつぶす。気のぬけたような同僚は動こうとも
しないで、だから私もすぐにはなれた。
「……なぐられると思った」
「……」
つぶやきがきこえて、だけどおちつかない私はすぐにシャーロットの軍服に手をかける。もたついた手つきでボタンを片手で
はずしていき、じれったくなった私は最後のほうになるといきおいまかせに服をひく。ぴっと音がしてボタンがふたつくらい飛んで
いった。なんて品のないことをしている、そう思うのにからだがいうことをきかない。
「んっ」
ホックをはずすのも面倒で、下着をおしあげてつかみかかった。やり方なんてよくわからないから、さきほどのやつの動きを
まねて刺激する。片方ずつを指と舌でころがした、上目遣いで表情を盗み見れば、シャーロットはふるえる目で私を見ていた。
「あ…っん、は、あっ」
上気したほほと、苦しげに結ばれる唇にぞくりとした。見たことのない表情。夢中になればシャーロットも声を高くして、私は
余計になにも考えられなくなる。
「あ…ねえ、も、はなして……」
息を乱しながら、シャーロットが拘束された手を動かす。私はそんなのもちろん無視するが、急にやつがひざをおりまげて、
おしつけられて動きをとめる。ぐいぐいと無遠慮にすりつけられて、私ははしたない息をつくほかなかった。それを見て、
シャーロットはいい気になって笑うのだ。
「ほんとは、ここに……」
やつが言いおわるまえに手をはなして首に腕をまわして唇をうばった。シャーロットはわかっていたような顔をしてそれを
うけいれて、両手を腰にまわしてだきよせてくる。すると私のひざはやつの両のふともものわきにつくことになり、結果足が
おおきくひらかれてしまった。
「耳も尻尾も、まだひっこめちゃだめだよ」
耳元でささやかれる。さらには尻尾をなであげられて、私はなんとかシャーロットにすがって自分をささえていた。さっきさ、
こわい顔で、月を背景にうえからにらみつけられて、どきどきした、ちょっときれいだったよ。場違いな感想をもらしながら、
シャーロットの指がすすんでゆく。うしろからなであげ、うすい布きれのすきまからもぐりこんでくる。私はふるえて、すこしだけ
こわくてつばをのむ。だいじょうぶだよ、こんなにぬれてる。安心させたいのか煽りたいのか、シャーロットは興奮にふるえる
声でささやいた。
「い……」
唐突に、侵入する。かすかな水音をたててゆっくりと、繊細でやわらかいものがはいってくる。痛みはなくて、かすかな違和感が
腰のあたりをあつくする。シャーロットは目をとじて、まるで真剣な顔をして浅い息をくりかえしていた。徐々に侵入するものは奥
まで進み、急にまた質量をふやす。
「あ、あっ」
「…っ、二本目も簡単にはいっちゃった」
「や……」
うそだ、そんなの、全然簡単なんかじゃない。異様な感覚の波が下から全身にかけめぐり、私はいつのまにかないていた。
見られたくなくてやつの首筋に顔をうずめる。ねえ、もう一本いれてみようか。たのしげに言われて、私は必死に首をふる。
ふるふると、まるでことばを知らないちいさなこどものように訴える。
「かわい…」
「や、もう、やめ、んあっ」
「やだね、やめない…、そんなこと言ってこんなに尻尾ふっておねだりして…」
ほんとにあんた犬みたい。あたしに従順な犬みたい。シャーロットが指の動きをはやくする。もしかしたらまた指がふえていた
かもしれない。だけどそんなことを考えている余裕もありはしなくて、私は夜のひえた空気のなかで火照っていて、なりふりなんて
かまっていられなかった。こらえきれず、気づかぬうちにシャーロットの肩口にかみついていた。
「いっ……」
低いうめきがきこえたけれど、やめられそうにない。いろんなことをおしかくすのに必死だった。ぎり、といやな感触、血がでて
いるかもしれない。だけどふたりとも、そんなことに気をとられない。シャーロットは、なんども私をよんでいた。
「…バルクホルン、あ、バルク、ホル、……」
そのたびに、胸の奥底から奇妙な感情がわいてくる。声の主が、まるでいとしいかのような錯覚。皮膚に歯をたてながら、
どんどんとおいつめられていく。自分でもわかった、もう限界で、もう目のまえもなにもかもがかすんでいった。
「……き、……きだ……」
まだなにか言っている、ききとれない。耳を必死にこらすのに、私の意識はふっととぎれてしまって、それっきりだった。
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気がつけば自室のベッドのうえだった。時計をふと見てもう朝だと確認する。それからあまりに重いからだをもちあげれば
いつもどおりになにも身につけておらず、ひょっとしたら昨夜のことは夢だったのかとたった一瞬だけ安心するが、そんなはずも
なかった。かけられたシーツのうえに、私の衣服がほうりなげられている。いろんなものでうす汚れたそれは、きのうのことを如実
に現実だと語っていて、それなのにやつの気配は、きれいにきえてしまっているのだ。
「……」
急速に、我にかえっていく。ばかだな、買いかぶりすぎだった。あんなところであんなことをするやつに分別なんてありはしないし、
こうやってひとのことをほうっておいてしまえるほどにやつは無責任じゃないか。そう思いついてから、まるで責任をとってほしいような
思考だと自分に呆れる。あれは、ただやつの憂さばらしに使われただけじゃないか。くだらないことだ、もう、わすれてしまえばいい。
代えの軍服に袖をとおして、いちばんに風呂場にいくことにしよう。体中がいやな感じだった。ゆっくりとドアノブをまわして、おす。
と、最悪なタイミングだった。廊下のむこうから、やつがこどもとつれだってあるいてくる。
「あ、バルクホルン大尉だ、おはよー」
たのしげに、ルッキーニが手をふる。私はごくとつばをのみ、おはようとかえす。隣人は、いつもどおりの薄ら笑いをうかべている。
そうだ、いつもどおり。きのうのことなどなかったような。
「あれ、どこいくの?」
食堂へむかうふたりの反対方向へとあるきだすと、ルッキーニがきょとんとした声をあげる。ちょっとなとかえすと、朝食くいっぱぐれるなよ、
とのんきな声がした。ついぐっとこぶしをにぎってしまう、わすれてしまえばいいと、自分でそう思ったくせにその態度にいらつく。
もしそうなれば、確実にきさまのせいじゃないか。言いだせはしない、なかったことにするときめた。
「ああ、そうだ」
背後で、やつがふと声をあげる。きく気もないのに耳にはいって、足をはやめた。だけど、まだまだやつの声は私のほうへととんでくる。
「あとで医務室いかないと」
「なんで?」
ルッキーニのたずねる声。一瞬だけ間があって、またやつが口を開く。
「きのう、犬にかまれちゃったから……」
はっとした。思わずふりむく。なにそれ、と首をかしげるルッキーニのとなりで、やつは横目を私にむけている。しつけがなってない
よな、これからちゃんとしつけてやらないと。ささやく口調で言いながら、シャーロットは背をむけてあるきだす。けがしちゃったの?
心配するルッキーニを笑顔でかわして、やつはもうこちらを見ない。
「……」
たちすくんで動けなかった。走馬灯が脳内をかけめぐる、わすれたいきのうのこと。ゆっくりと体温が上昇して、私はごくりと、
つばをのんだ。