ドロップ結
おどろいたことは、目をさませばやつは結局いなくなっていたこと。ぼんやりとしたまま一度だけなまえをよんだけど
当然返事なんてあるわけなくて、私はまだ夢のなかにいるような気分にひたる。ただちがうのは、いつもは床に
放ったらかしの私の衣服が丁寧にたたまれてベッドのはしにおかれていたことだった。なんだこれ、としか言いようが
ない。おこしたからだを再度ベッドにおとす。ばふ、とやわらかい音がして、かすかに自分のものじゃないにおいを
感じて眉をゆがめた。
「……なんで」
なんでいないんだよ。切実すぎるつぶやきはあんまりなさけない声になってしまって、結局最後まで言いきれなかった。
その日は、午前中は一度も顔をあわせなかった。それは不自然すぎる話だ。だって、私はひまさえあればやつの
姿をさがしていた。フラウに奇妙がられても気にせずにきょろきょろとしたし、ミーナに心配されてもなんでもないと
つっぱねた。私はとても不安だった。ひょっとしたらきのうのあのシャーロットは、私の都合のいい幻想だったんじゃ
ないか。あんなに鮮明な記憶なのに、私はすこしずつわきあがる恐怖に動揺していた。もし仮にあれがただの夢だった
として、そんなのはこれからがきのうまでとかわらないだけなのに。なのに私は、昔のままじゃもうたえられそうにない。
やっぱりだめだ、あいつにはちゃんと責任をとらせるしかなかった。そんな身勝手な結論にたっしてしまうほど、私は
こわかった。
ふと、おさない声がする。いつもやつといっしょにいる少女。はっとして、声のしたほうへかけだす。廊下の曲がり角の
むこう、勢いよくとびだせば、すこしとおくにシャーロットのうしろ姿とやつに手をふってかけだそうとしてるルッキーニが
見えた。思わずおおきな声がでそうになったのを我慢して、ふとシャーロット越しにルッキーニと目があうと、少女は
いつもどおりのひとなつっこい笑顔をうかべて私に手をふる。そしてそのままはしりだしてどこかへ遊びにいってしまい、
するとルッキーニがあいさつをした背後の何者かに気づいたシャーロットがふりかえってしまった。今度はやつと視線が
ぶつかる。私は急に緊張して無意識につばをのんで、そこでやっと自分ののどがからからだと気づいた。
「あ、……」
私よりさきにシャーロットが声をもらす。と思っていると、やつはぱっと視線をそらしてこちらに背をむけてあるきだそうと
した。ぎょっとした、足が勝手にかけだす。確定だ、やっぱりさけられていた。意味がわからなかった、きのうは、本当に
夢だったっていうのだろうか。今度は急に怒りがわいてきて、力まかせにはなれていこうとする腕をとった。
「おい」
乱暴な声がでて、つぎにはえらそうなことばがとびだすはずだった。それなのに私はかたまる。だって、やっとふりかえった
シャーロットの顔は、トマトみたいに真っ赤だったんだ。
「……」
「……な」
なんだよう。今朝の、私のひとり言なんてかなわないくらいになさけない声がふるえて、シャーロットの唇からこぼれてくる。
あまりのことになにも言えないでいると、シャーロットは居心地悪そうに視線をおよがせた。それからはなしてほしくてつかまれる
腕をゆすっていたみたいだけど、おどろきすぎていた私に気づけるはずもない。ばかみたいに目を見開いてその顔を凝視
していると、今度こそ手をはらわれる。
「あの、その、……悪いけど、しばらくほっといて」
見事に赤面したままに、シャーロットがまたにげだそうとする。だけど反射的に、さきほどとおなじように腕をとって阻止した。
それでも今度は自分でも信じられないほどやわらかにふれて、ただしにがす気はなくてやんわりと力をこめる。するとこまり
きった表情がふりかえり、私はそれを思いっきりからかってやろうと思った。それなのに全然うまくいかない、私も多分、いま
すごくこまった顔をしているんだ。
「い、いやだ」
なんとかそれだけ宣言して、すると伝染するように私の顔もあつくなっていく。シャーロットはなきそうな顔でうつむいてしまって、
それは私もおなじだった。急にあたりがしずかになってしまってつかんだてのひらがふるえて、すると唐突に今度はその手を
にぎられた。はっとして顔をあげると、さっきよりはなんとか色のひいたほほで、シャーロットが私を見つめていた。ぎゅ、と
てのひらをつつむものにかすかな力がこめられる。
「……今夜、あんたの部屋にいきたい、……」
いいかな。かすかな、だけどはっきりとした発音がたずねてくる。なんていまさらな質問だろう、いままですき勝手にしてきた
くせに。そう言ってやろうと思ったのに、やつとちがって私はどんどんと体温が上昇していた。だから結局ちいさくこくりと頷く
ことしかできなくて、それがとてもとても、はずかしかった。
「やった、うれしい」
邪気のない声。無防備すぎるそれに、急に羞恥心がわいてきてにぎられた手をひいた。するとあっさりと解放されて、うながした
くせに名残惜しくてあっと声をあげるけど、それよりもさきにシャーロットが私からはなれていく。またね。ささやいて、手をふる。
くしゃりとなった笑顔で、あんまりうれしそうだから私はそれに返事をすることもできないでうしろ姿を見送った。
「……」
にぎられていた手をほほにはわせる。きっとあつく感じると思ったのに、その指先もおなじくらいに温度を高くしていたのか
そんなことはなかった。結局のところ私はそこらじゅうがあつくなっていて、シャーロットのかけていく背中はもうなくなってた。
「……くそ」
ばかみたいだ。朝からずっとあせってこわくて仕方がなかったのに、いまじゃこんなに。せわしなくうつっていく自分の心情に
みじかく悪態をついて、それなのに気をぬけばまぬけにゆるんでしまいそうな口元がある。深呼吸だ、そうすればおちついて
くれる。なんとか思いついた解決法をためしてみても、やっぱり息はふるえるし、ほほはやわらかくゆがんでいくのだ。
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ノックの音。私はあれから幾分かは冷静になっていた。まずはひとつだけ、きかなくてはいけないことがある。
「こんばんは」
おちついたのはあちらもらしい。いつものように無愛想にドアを開けると、むこうも普段どおりにへらりと笑っている。それが
すこしくやしかった。冷静になったとはいえ、それは表面をとりつくろえる程度にはという制限つきだ。実際のところは、このあと
いったいどうすればいいのか見当もつけられていない。
シャーロットは勝手知ったるとばかりにさっさと侵入してきてベッドに腰かける。それを観察しているとやつもじっとこっちを
見るので、仕方ないからとなりにすわる。
「……へんな感じだ」
ふと、シャーロットがつぶやく。きのうだっておなじことしてたのに、きょうはなんだか、へんな感じ。あまりに要領を得ない
あいまいなことばの羅列なのに、私はまさに同感だった。それが気恥ずかしくて、ごまかすようにおいとよびかける。
「なに?」
「……」
「なんだよー」
うつむいていると、ぷらぷらとシャーロットのゆれる足が見えた。うかれたような動きから、隣人の上機嫌さがうかがえる。
ついおもしろくて観察してしまい、するとだからなにとまたせっつかれる。こらえ性のないやつだな、と思いながらも、私はすっと
息をすう。だけどなかなかことばにできずにもたもたと唇をうごかして、もったいぶる気もなかったのに結果そうなってしまった。
「……なんできょうの朝、いなかったんだ」
やっとでたのは、こどもみたいにすねた声。やってしまったと思う。でもしょうがないじゃないか、いやだったんだ、あんな
ふうに期待をうらぎられるのは。きょうこそは、目をさませばそこにいると思っていたのに。でてしまった声はとりけせない
から、もういっそいくらでもからかってくれという気構えでとなりをうかがう。
「……」
シャーロットのなかで、私の予想外の顔をするのが流行っているのか。そう思ってしまうほど、やつはいやそうな顔に赤面
をのっけていた。だって、そんなの。歯切れの悪い台詞がつむがれて、私はまばたきをするほかない。
「しょうがないじゃないか、は、はずかしかったんだ」
唇をとがらせてそっぽをむいて、シャーロットは言いわけをつづける。きのうはへんなとこ見せちゃったし、それに、朝とか、
どんな顔すればいいかわかんないし、……あんたが、なに考えてるのかもわかんないし。ぼそぼそと言いすてられて、瞬間
私は思わずぶっとふきだしてしまった。なんだ、こいつだって、さっきからかっこつけてただけじゃないか。
「あ、わ、笑ったこいつ。信じらんないっ」
赤いままの顔でぎゃあぎゃあとさわがれて、私はもっとおかしくなって、それでもなんとか笑いをこらえて真面目な顔をつくろう
としてだけど失敗する。そうだ、結局きのうはおやすみと言われてすぐに眠気がつよくなって、なにもこいつに言わないで眠りに
おちてしまったんだ。なんてことだ、つまりはいま、やつは私に片思いしている気分なわけか。
「いやだった?」
ふと、シャーロットが芯のある声をだす。はっとして反射的にとなりを見ると、あたしがいなくていやだった、とかさねてたずね
られる。なにか期待するように瞳がゆれていて、それは私をとらえてしまった。なにをやってるんだ、笑っている場合なんかじゃ
ないだろう。こたえなくちゃいけなかった。
「……」
「ねえ」
「……さ、さみしかった」
だからって、なんてはずかしいことを言ってしまったのかと思う。だけど、本音しか言えそうになかった、やつの目は、そうやって
何度も私をあばいていって、それだというのにどうしてなにも気づかれないのかと思うほど。唐突に、からだをつつまれる。ぎょっと
してまばたきをして、シャーロットの髪がほほにふれて状況を把握する。
「な」
「どうしよう、うれしい。かわいい、あんた、かわいい」
だきしめられて、かわいいのはそっちじゃないかと思うのに私は一生懸命だきしめかえすことしかできない。だめだ、全然、
なにも言えそうにない。私はこんな卑怯じゃないはずなのに、話してくれるのはいつもシャーロットじゃないか。
「あたしはちゃんと言ったのに、あんたはずっとまるでなかったみたいな顔してるから」
あたしだってこわくて、さみしかったよ。安堵しきった声で、シャーロットが私をだく腕に力をこめる。頭をもたげた自己嫌悪を
おしかくしてしまうほどに心地よいそれに思わず目をとじて、だけどなんともひっかかってしまう。つい、えっと声をあげるが、存分
にうかれているシャーロットは気づかない。ほほをだらしなくゆるませている横顔をちゃんと見ようとすこしだけ身をよじるのに、
やつは全然はなしてくれない。
「言ったって?」
「意地が悪いなあ、だから、最初のときにさ……、ねえ」
私がとぼけていると思ったらしいシャーロットはあいかわらずしあわせそうに口ごもっている。だけど私はといえば、こいつが
なんの話をしているのかまったく理解できていない。しばらく頭のうえに疑問符をうかべていると、その気配に気づいたのか
やっとやつはがばりとからだをはなす。
「……なんだよ、もしかしておぼえてないわけ」
「だからなんの話だ」
至極当然の疑問をちゃんと形にすると、シャーロットの顔色がさっと変わる。がっと両の二の腕をつかまれておどろくと、
シャーロットは詰問する調子で私を凝視する。
「なに言ってんの、だからさ、いちばん最初に管制塔でやったときに」
「げ、下品な言い方をするなっ」
「そんなことはどうでもいい、だから、あのー。言っただろあたし。自分のき、気持ち」
はずかしさに顔をゆがめながら、シャーロットは必死だった。おなじくらいに必死に私もあのときのことを思いだし、そして
思いあたってしまった。意識がとぶ一瞬まえ、こいつはなにか言っていた。ききとれなくて、それでそのまま忘れていたけど、
いまこいつはなんて言った。自分の気持ち。それってつまり……。
「う、うそ」
「うそじゃないよ、し、信じらんねえー。なんだよ、気持ちよすぎてきこえてなかったってか」
「な、へ、へんなことを言うな!」
「ほんとのことだろ。えー、あんたじゃあいままで自分のことどう思ってるかわかんないようなやつと寝てたわけ、それで平気
だったわけ、なんか幻滅だなあ」
「しるかそんなの! だいたいあんなタイミングで言うのが悪いに決まってるじゃないか」
「あ、あ、あんなタイミングじゃないと言えるわけないだろ!」
言いあいがあつくなるうちにお互いつかみかかっていて、するとふいにバランスが崩れて私のからだがうしろへかたむく。
げ、とシャーロットがつぶやくと同時に、私たちはベッドにたおれこんだ。うえからシャーロットにおしつぶされて、どけ、と
思わず言ってしまうまえにやつがはあと息をつく。
「もういいや、そんなの」
のしかかるまま弱気な声でつぶやいて、そのつぎにはころんところがって私のとなりに寝ころがる。それからひょいと手を
とられてどきりとした。私をながめるその顔はすねたような、それなのにすこしだけ満足そうで、すると急にもうしわけない
ような気分になる。だけどこの流れであやまれるほど、私はすなおにはできていないらしい。
「……じゃあ、いま、もういっかい言えばいい」
「え」
かっと、シャーロットのほほが赤くなる。かわいいと思って、だけどそれを言えそうにないのもわかっていた。もう開き直って
しまうことにしよう。私は多分、シャーロットのまえじゃ卑怯でずるくなってしまうんだ。
「やだ、はずかしい」
「ふん、根性のないやつだ」
「なんだよ、あんたなんかまともに言ったことないくせに」
「ふふ」
開き直ればこわいものなんてないのだ。どんなに挑発されたって、私はもうシャーロットがかわいくて仕方がない。もう
寝ようか。そう言うと、真面目な顔ではだかでかとたずねられる。
「だめか」
「だって、それはさ~…」
「おい、手をはなせ。服がぬげない」
言いよどむのが楽しくてくっと笑いながらつかまれた手をぶんとふるが、シャーロットはそれに余計に力をいれてさらには
くいとひっぱる。そのせいで顔と顔の距離が縮まってぎくりとした。おいじゃないよ、あたしのこと、みんなシャーリーってよぶよ。
甘える声。なにを求めているかはわかったけど、だけど、ひとつだけひっかかってしまった。だまると、まるでそれを悟ったか
のようにシャーロットがにっと笑う。
「なんだよ、みんなといっしょじゃ不服だって?」
そうだよ、そのとおり。私はみんなといっしょなんかじゃないんだ。
「……おまえなんか、シャーロットで充分だ」
ファーストネームをそのままよんで、それだけなのにシャーロットはうれしそうに目をとじる。それからあんたはなんて
よんでほしいのと聞かれるが、考えたこともない事柄にううんとなやんで、だけど私の答えがでるよりさきにシャーロットが
口をひらく。
「たまになら、おねえちゃんってよんであげるよ」
「……やめろ、ばか」
そんな軽口が、私だってうれしかった。
どうにも渋るシャーロットを面白半分にはだかにして自分もすっかり服をぬいで、ならんでシーツにくるまった。いつもの
ようにシャーロットが私の髪をといて、そしてきのうとおなじように耳元でおやすみをささやきあう。そして今度は、今度こそ
朝におはようをちゃんと言いあおうじゃないか。目をとじて、ひそかにシーツのなかでつないだ手が、心地よくて仕方がなかった。
……しかし結局、お互いむらむらしてそのあとも一悶着あったとかなかったとか、は、またべつの話だそうだ。
おわり