狐の嫁入り
ぽん、と私の髪の毛に水滴が触れる。
私とリーネちゃんは訓練を終え、ハンガーから出てきたところだった。
雨……?
私は歩を止めると、濡れた髪に手をやり、空を仰いだ。
ぽつ、ぽつと、小さな雨粒が、ゆっくりとしたリズムをとって降ってくる。
でもおひさまは雲に顔を隠すことなく、空はさっきまで飛んでいた時とおなじ青さを保っている。
「雨、降ってきたね」と私が言うと、
「天気雨だね」と、手のひらを空に向けたリーネちゃんはこたえた。
まるでシャワーを浴びているみたいだな、と私は思った。
訓練でかいた汗、体の熱を、雨粒のひとつひとつがぬぐい去ってくれる。
私は雨はあんまり好きじゃないけど、この雨だけはなんだか別。
濡れてまいろう。季節は夏だけど。
そうして私は、リーネちゃんと手をつないだ。そしたらリーネちゃんが握り返してくる。
リーネちゃんも、私とおんなじことを感じているのかな。そうだったらいいな。
私たちは歩をはやめることなく、ゆっくりとその雨のなかを歩いた。
木陰に立つ、すらりとした人影が見えた。
長く伸びた銀色の髪は、少し雨に濡れ、きらきらと光っている。
「お、宮藤とリーネじゃないカ」
と、私たちに気づいたエイラさんは声をかけた。
「どうしたんですか、エイラさん」
私たちはエイラさんのいる木の下に入った。
「雨宿り中。サーニャを待ってるんダ」
「サーニャちゃんを?」
頭に疑問符が浮かぶ私に、エイラさんは両手に持った紙袋をちょっとあげてみせた。
「サーニャとちょっと町まで買い物に行ってたんダ。で、今さっき帰ってきたとこってワケ」
「それでサーニャちゃんは?」
「傘取りに行ってるトコ。私は一緒に走るからいいって言ったんだけどナ、すぐだからって」
「ずいぶんたくさん買ったんですね」
と、リーネちゃんは興味津々な様子。
「町まで行くのはひさしぶりだったからナ。ついいろいろと買い過ぎちまっタ。
なかなかそんな時間がとれなかったしナ」
エイラさんの声が喜びに少し弾む。
時間は「とれなかった」じゃなくて、「あわなかった」んじゃないのかな、と私は思った。
一人だったら、町に買い物にいくくらいの時間なら、結構融通はつきやすいから。
でも二人いっしょに、それもシフトが夜間のサーニャちゃんととなると、たしかにあまりないだろう。
つまり今日は、サーニャちゃんとのひさびさのデートだったわけだ。
「それでなにを買ったんですか?」
リーネちゃんは訊くと、覗き見るように紙袋に顔を近づける。
「やかんとティーポット、それにカップ一式。あと下着とかシャンプーとか歯ブラシとか……」
「やかん?」
私は聞き返した。
それにポットにカップ……これってお茶の道具だよね?
「ほら前に、夜間のシフトでサーニャの部屋が専従員の詰め所になったダロ?」
ああ、と私はうなずいた。
サーニャちゃんの歌を真似するネウロイが出た時、
私とエイラさんはサーニャちゃんの部屋にお世話になったんだった。
「またああいうことがあった時のためにサ」
そう言うエイラさんの声は、少し沈んでいた。
それはあの夜の戦いのことを思い出したからだろう。
あたり前のことだけど、エイラさんはサーニャちゃんの身を案じているんだ。
もうあんなことはありませんように、って。
でもサーニャちゃんは夜間哨戒を任されている。飛ばないわけにはいかない。
哨戒飛行、それも夜間となると、とても大切な任務だ。サーニャちゃんの代わりになる人はいない。
サーニャちゃんのおかげで、私たちは夜、眠りにつくことができるんだよね……
「どうかしたのか、宮藤?」
「あ、いや……」
考えていたことがエイラさんに見透かされたのかな。表情に出ていたのかも。
「ま、いいサ」
エイラさんは仕切り直しするように、一度息を吐き出した。
「サーニャの部屋って、食堂からは遠いダロ?
ちょっとお茶を飲みたくなった時に、いちいち食堂まで行ってお湯沸かすのも面倒だしナ」
その声は、再びいつもの明るさを取り戻していた。
それは、沈んでしまった私を励ますようで。
私は心のなかで、エイラさんにありがとうを言った。
「任務とか関係なくサ、お茶が飲みたくなったら、サーニャの部屋にいつでもドーゾ」
いいのかな、と私はリーネちゃんと顔を見合わせた。リーネちゃんもそういう表情をしている。
「遠慮スンナ。サーニャも喜ぶからサ」
「でも迷惑じゃないかな……?」
おずおずとした私の言葉に、エイラさんは首を横に振った。
「アイツって恥ずかしがり屋ダロ?
思ってるコトを伝えるのがヘタクソでサ――本当はみんなと仲良くなりたいって思ってるのにナ。
だから、これがきっかけになれば、って」
エイラさんはそのあとに、オマエたちこそ迷惑じゃなければダケド、と付け加えた。
ううん、迷惑なんかじゃないよ。私は首を横に振った。
だって私やリーネちゃんも、もっとサーニャちゃんと仲良くなりたい。
「うん、是非行かせてもらうよ」
そうして私はしっかりとうなずいた。
きっとサーニャちゃんも喜んでくれるよね。
「なにかお菓子をつくって持っていくね」
とリーネちゃん。
エイラさんは顔をほころばせると、照れくさそうに、ありがとナ、と言った。
「みんなにも伝えておいてくれるカ。来るものは拒まずダ」
「うん、わかった」
「もちろんペリーヌにもダゾ。アイツには肝油でもご馳走してヤロ」
ニヤリと笑うエイラさんに、私たち二人は苦い笑いを返した。
「それよりこんな長々と話してていいのカ。洗濯物干したままダロ?」
あっ! と私とリーネちゃんは同時に声をあげた。
已然雨は降り続いたまま、そしてエイラさんの言うとおり、洗濯物は干しっぱなしだ。
「いけない! リーネちゃん、はやく!」
「うん!」
私たちは雨のなかを走り出した。
――のだけれど、物干し竿までたどり着いた時には、すっかり雨はあがっていた。
でも、さっきまで雨が降っていたという事実は変わらないわけで。
「濡れちゃったね」
シーツに指先を触れながら、リーネちゃんは言う。
「うん。でもすぐ乾くよ」
だって今日はいい天気だから。
と、私の目に映る二人の後ろ姿。
傘を差すサーニャちゃんと、それに入るエイラさん。
歩調はあわず、ちぐはぐな二人三脚を見ているみたい。
ゆっくりと一歩一歩、その時間が少しでも長く続くように二人は歩いていく。
「もう雨やんでるのにね」
と、冷やかすようにリーネちゃんは言った。
「うん、でも――」
私はそっと目を閉じてみる。
耳をすませば、甘い歌声が聞こえてくる。
サーニャちゃんが歌っている。
これは、雨粒を数えていたまだ小さなころのサーニャちゃんに、お父さんがつくった曲だ。
あの二人の下には、まだ雨が降っているんだ。
やさしくて、あたたかな天気雨が。
「ねぇ、見て。芳佳ちゃん!」
その声に、私のまぶたが開く。
リーネちゃんが指さす方に私は顔を向けた。
わあ、と私は歓声をあげた。
空には鮮やかな虹がかかっている。
なんだかあの二人の門出を祝福してるみたいだな、なんてことを私は思った。
「きれいだね」と私。
「うん、きれいだね」とリーネちゃん。
そうして私とリーネちゃんは、顔をあわせて笑いあった。
「ねぇ、リーネちゃん知ってる? 扶桑では天気雨のことを『狐の嫁入り』って言うんだよ」