無題
ネウロイの襲撃があったのは、今からつい一刻ほど前の話だったか。
どうも記憶がおぼろげなのは、管制室から出撃がある前にちょうど訓練に出かけていたゲルトルートと
エーリカが瞬時に撃破してしまったからだ。
やけに嬉しそうな声をしたエーリカ・ハルトマンといつになく不機嫌なゲルトルート・バルクホルンの二名の
報告と、それからやや遅れて入ってきた管制室からの情報で、ミーナはそれを知ったのだった。
優秀な同僚を持つと苦労するわ、とミーナはひとりごちる。それはまあ、脅威は早く始末するのに越した
ことはないのだが、なにぶん報告書の作成が面倒になるのだ。そして、それを作成するのは基本的に
自分なのだから。坂本はこういったことはひどく苦手なようだし、ゲルトルートもおなじく、書類作成よりも
実践のほうを好みとしている。…エーリカは、言わずもがな。
とにかく詳しい話を聞かなければ。別の仕事をようやく片付けたミーナはそう思いながらミーティングルームに
やってきた。風呂で汗を流したら、ミーティングルームで待っていて頂戴──エーリカはともかく、ゲルトルートは
言いつけられたそれを破るような性格ではない。
吹き抜けになって天井の高いミーティングルームは、隊員たちの憩いの場でもある。基地に帰還して一休み
したいときなどはここで思い思いにくつろぐのが常で、気分がよければ据え置かれてあるグランドピアノで
サーニャが小さな演奏会を開いていたりするのだった。その場合はもちろんそのすぐ傍らにエイラがいて、
心地よさそうに目を閉じていたりする。…ただしくつろぐとは言っても、ルッキーニがここをシエスタの場所に
決めることは少ない。それは彼女が野外好きだからなのか、ここにいるとすぐに見つかってやれ訓練をしろ、
寝るな起きろ、などとどやされるからなのかはわからないけれど。
そして、それはゲルトルートたちにとっても例外ではないようで、扉を開いて部屋に入り込んだら、ちょうど
ミーナからは背を向ける形になっているソファーの上に、ゲルトルートの姿を見つける。エーリカの姿は
見えないが、きっと彼女とは逆のひざ掛けを枕にして寝転がっているのだろう…そうひとり納得して、ミーナは
彼女らの元へと足を進めた。
「…あら?」
思わず漏れた言葉に、ゲルトルートが振り向いた。ふふふ、と笑い声をもらすとそれはしかめ面になる。
「ミーナ、」
「珍しいわね」
「…いつもこうだろ、ハルトマンは」
はあ、と彼女が大きくため息をつくと、ゲルトルートの肩が大きく動く。そんな身じろぎも気にせずに、彼女の
膝を枕にしてぐっすり眠る少女がひとり。
風呂上りのせいか、少ししっとりしているように見受けられる金色の髪が、すうすうと彼女の漏らす寝息に
呼応するようにして微かに動く。寝巻きも同然に薄着をした彼女は少し肌寒いのだろうか、体を丸めてゲルト
ルートに身を寄せていた。
いつもは二つに結っている髪を下ろしたゲルトルートがもう一度ため息をつく。その様子にまた笑いが漏れて
しまう。
「珍しいのはフラウじゃないわよ」
「…もしかして、私か?」
「さあ、どうでしょう?」
いたずらっぽく笑んで肩をすくめると、ゲルトルートはばつが悪そうにふんと鼻を鳴らした。けれどそれが
照れているときの彼女の癖だということを、ミーナは良く知っている。
「幸せそうね」
「…どっちが」
「フラウに決まっているじゃない」
「そ、そうか、ならいいんだ」
ひとつ息をつくのは、一安心したからだろうか。ここで「あなたのことよ」と言ったらきっとひどく怒ったのだ
ろうな、と思う。気恥ずかしさに声を荒げて、もしかしたらエーリカを起こしてしまったかもしれない。ゲルト
ルートがうろたえる姿を見たい気持ちもあったが、今は、むしろ彼女の気持ちを尊重してやりたかった。
それはつまり、
「自分だと思った?トゥルーデ」
「そんなわけじゃあ」
「ねえ、どういう風の吹き回し?」
「何のことだ」
「あなたがこんなにあからさまにフラウを甘やかすの、珍しいじゃない」
珍しく目に見えている、ゲルトルートのエーリカに対する優しさだ。
それは、その。言葉を濁して、必死に何かの言い訳を探しているように思えるゲルトルートをよそに、ミーナは
彼女のすぐ後ろからエーリカの横へと移動した。そうして3人、ひとつのソファを共有しあう。もっとも、ゲルト
ルートがひどく端に追いやられている上にエーリカが1.5人分ぐらいを占拠していると言う状態で、お世辞
にもフェアとは言えないけれど。…むしろその方が自分たちらしいような気がしてミーナはひどく楽しい気持ち
になるのだった。なんでだろう、こうしていると別におかしくないことまでひどく面白いことのように思えてしまう。
別にこの場所が、他の隊員が、嫌いというわけではないけれどやはり同郷の気安さや安心感と言うものは、
きっと胸のどこかにあるのだろう。
「ネウロイは、2機。小物だった。全長2mぐらいだったな。」
「はい」
「発見したのは、私だ。…もっとも、直後にハルトマンが全部撃破してしまったが。」
「…やっぱり」
「私は止めたんだぞ、一応。けどあいつ、すぐ突っ込んでいくから」
「…なんとなく分かるわ」
これで、報告のときにエーリカがやけに機嫌の良かった合点が付いた。ゲルトルートの簡潔かつ正確な
報告を手帳に書き込みながら、ミーナは思う。同時に、ゲルトルートが不機嫌だった理由も。部隊一、むしろ
世界でも一、二を争う撃墜スコアを誇る二人はこっそりと互いに互いの撃墜数を競っている節があるのだ。
もっとも、基本的に思慮深いゲルトルートに比べてエーリカの方が直感型であるために手柄を横取りされる
ことが多いのだけれど。
「で、かわいいかわいいフラウちゃんは疲れ果ててご就寝、と」
「…まあ、そんなところだ」
私は抵抗したんだぞ、一応。先ほどと同じような言い訳を述べて、ゲルトルートはもう一度ため息をつく。その
様を見ているとやはりミーナの顔は緩んできてしまうのだった。
「…フラウは小さいよな、私たちよりもよっぽど」
そのまましばし、互いに何も言わずに時間が流れたそのあとで。突然ゲルトルートの口から呟きが漏れる。
そうね、と肯定すると、ゲルトルートはゆっくりと自分の膝の上にあるエーリカの手に自分のそれを重ねた。
少し大きめのゲルトルートの手のひらは、エーリカのそれをいとも容易く包み込んでしまう。
「たぶん、置いてくんだろうな。私は、フラウを」
ごめんな。口を寄せて囁くのはエーリカに対してに違いないのに、皮肉にも彼女は今、穏やかに眠りに
ついている。…いやきっと、だからこそゲルトルートは口に出来るのかもしれなかった。普段の彼女だったら、
口が裂けても言わないだろう。優しい気持ちを言葉にするのが、ひどく苦手だから。
けれどミーナは知っている。ゲルトルートがどれだけエーリカを大切に想っているか、知っている。あんなにも
小さな背中で、まっすぐに敵に突っ込んでいくエーリカを、どんな色をした瞳で眺めているかを、知っている。
「そうかんがえると、不憫でならないんだ。こんなにちっちゃいのに人一倍頑張ってる。すごいと思う。えらいと
思う。…甘やかしたい、けど、甘やかさないほうがフラウのためにはいいんじゃないかな、って思うんだ。
だって、いつか離れ離れになるんだから。私はフラウを置いていくんだから。」
片方の手で、エーリカの額を撫でるゲルトルート。エーリカが目を冷ましているときにそれをしたなら、きっと
エーリカはひどくびっくりして「明日は雪が降るよ、間違いない」なんて基地中に触れ回るのに違いない。
それぐらい、エーリカにとってゲルトルートの優しさは一大事なのだ。
「…クリスの代わりだって、たぶん、思ってたのに。…いまは、ちがうんだ。ぜんぜんちがうんだ」
自分の過ちで昏睡状態にさせてしまった妹と、小さな体で空を駆る同僚。自分と同じ茶褐色の髪と瞳に
比べて、目の前で眠る少女は金色の髪に蒼い瞳をしている。見間違えるはずなんてない。同じものとして
など認識できない。
…たぶんきっと、そんなこと最初から分かっていたのだろうな。心の中で呟きながら、ゲルトルートは自嘲
気味に笑った。ただ違うと、言い聞かせたかっただけだ。
守ってやらなきゃ、じゃなくて、守ってやりたい。姉だからじゃなくて、ただただ大切に思うから。あんなに
ちっぽけな彼女が悠然と敵に立ち向かっていく姿を心から心配すると同時に、陸では打って変わったように
甘えて懐いて朗らかに笑むことを愛しくも思うから。
「代わりなんかじゃない、けど、だから、どうしたらいいのか分からないよ」
けれどその言葉を聞いても、苦々しい笑みを見ても、やはりミーナにこみ上げてくるのは笑いしかなった。別に
馬鹿にしているわけではない。変だとも思わない。だってそんなこと、ミーナにだって分かっていた。ゲルト
ルートが誰よりもエーリカを大切にしていることくらい。たぶんエーリカがゲルトルートに懐いている以上に
優しい気持ちを、抱いていることくらい。
だって自分たちはもう家族同然なんだから。
「トゥルーデはおばかさんねえ」
「…うるさい。私だって分かってる。でも、どうしたらいいのかわかんないんだ」
「そんなの、離さなければいいだけじゃない」
「なっ!そそそんなことでき」
「やろうとしないからよ。方法なんていくらでもあるのに」
例えばその手をぎゅっと握っていてあげるとか、ね。
先ほどからずっと、エーリカの手に重ねられているゲルトルートの手を見やって言った瞬間、気付いたように
ゲルトルートの顔がさぁっと赤くなる。これは、その。パッと離そうとした瞬間「いいの?」と重ねたらゆっくりと
その手をエーリカの手の上に戻した。
満足げに頷くと、顔をそらされる。相当気恥ずかしいのだろう。恐らくミーナ以外の前ではこんな態度片鱗も
見せないのに違いない。恐らくは、エーリカと二人きりの時でも。
「根性出しなさい。この強烈なシュトゥルムさんについていけるのは世界中であなただけなんだから。言って
おくけど、私には無理よ。」
「…でも、」
「弱音吐く暇があったら食らいつくくらいじゃないと逆に置いていかれると思うわよ」
「…そうかもしれないな」
さてと。口にしてミーナは立ち上がった。どのぐらいの時間がたったろうか。まだまだ溜まっている書類が
あるというのに、ずいぶんと長話をしてしまった気がする。
「私はもう行かなくちゃ。…トゥルーデも、そんなところにずっといたら風邪を引くわよ」
「…私も行きたいのは山々なんだが」
「だから、部屋で寝なさい」
「フラウが動くと思うか?」
「連れて行ってあげればいいじゃない」
「…今のあいつの部屋に入るのはゴメンだよ」
明日は掃除しなくちゃ、とぼやくゲルトルートのしかめ面が、実はにやけ顔を必死に補正したものだと言う
ことも、ミーナは知っている。なんだかんだで、必要とされているのがとても嬉しいのだということを。
フラウは寂しがりだから、とゲルトルートはよく言う。それは当然として、きっと、ゲルトルートも寂しがりなのだ。
だから二人は、お似合いだ。ミーナはいつも思う。
「こういう報告があるわ。某スオムスの少尉さんの部屋に、よく某オラーシャの中尉さんが迷い込むんですって」
「…それ、伏せる意味がわからないんだが。大体サーニャのそれはわざとだろ。エイラが鈍いだけだ。」
「あら?少尉曰く、『夜間哨戒で寝ぼけて私の部屋に迷い込む』んだそうよ。そんなこと、割にある話なのね。
でも寝ぼけていたのなら仕方ないわ。夜間哨戒や出撃のあとはとても疲れているでしょうし」
「…疲れていたのなら、しかたない、か」
「ええ、仕方ないわ。…たまには目一杯甘やかしてあげなさい。そうしないとすぐ、拗ねてどこかに飛んでいって
しまうわよ」
そこまで行って、ミーナは席を立つことにした。このあとどうするかは、ゲルトルートが決めることだ。…でき
れば夕飯時にでも、いつもと違う様子のエーリカを見られたらいいのだけれど。興奮して今日のことを報告
してくるか、それとも逆に恥ずかしがって何も言わないか。どちらにしても楽しいことには間違いない。
ミーナだって重要な書類を作成しているその横で「トゥルーデがひどいんだ」と延々愚痴を聞かされるのは、
もうこりごりなのだから。