優しい風


こんこん、と。
ノックの音が室内に響いて、ベッドに入っても眠れずにいた私は眼を開いた。サイドテーブルの明かりを灯して
答える。

「だれだ?」

私、と答える声は聞きなれた同僚のもの。なんだ、突然。思いながらひとつ伸びをして立ち上がろうとしたその
矢先、それを待たずに扉は開いた。
「ハルトマン、」
静かに入り込んでくるその名前を呼びかけても、返事はなかった。代わりに「起こした?」と語りかけられたので
私は正直に首を振る。

「こんな時間に眠れるわけがない。今日明日と絶対安静だなんて、ミーナも過保護すぎると思わないか」

窓の外の空はもうすっかり夕闇を過ぎていたけれど、どう考えても眠るには早い時間だと言うのは明白だった。
だって基地に帰り着いたのが夕方。半ば引きずられるようにして医務室に運ばれて、傷はふさがっているから
大丈夫だと言う医師の言葉なんて聞いていなかったかのように「寝なさい」と言われた。
たぶん私を一身に心配してなのだと思うけれど、ミーナは有無も言わさない顔をしていたし、また顔をはたかれる
のはまっぴらゴメンだったから内心しぶしぶで了承したのだ。それまで恐らく1時間経っていなかった。

珍しく身につけた寝巻き代わりの衣服の下の、傷口はすっかりふさがってしまっている。今日の昼間、出撃の
最終に受けた傷だ。宮藤が、治してくれたからだ。私はあまり記憶がなくて、ただただしんしんと体が冷えていく
感覚と頭が真っ白になっていく景色だけを覚えていて。…今考えると、それは、『死ぬ』ということだったのだろう。
らしくない、些細なミスだった。妹によく似た宮藤の出現にひとりうろたえて、いつも見えているものを見失って
普段は絶対に起こさないような『うっかり』をやらかしてしまったのだ。

戦っていれば、大抵のことは忘れていられた。見るべきものがあれば、他のものに目を移さなくても生きて
いける。…私にとって妹のことはいつのまにか目を背けたいものになっていたのだ。直視したら心が折れて
しまいそうだったから見ないように視点を定めた。言葉に出すと弱音ばかりになってしまいそうだったから、
話題にも出さないことにした。
そうして耳をふさいで目を瞑って口を閉ざして、いつ目覚めるかも分からない妹の存在を、なかったことに
していた。妹のことを忘れていたくて戦いに身を投じていたのに、いつのまにか戦いに身を投じることが目的に
なっていた。手段が目的になってしまえば、かつて目的だったことはかすれて消えてしまう。私にとって妹の
存在はもう、そんな手の届かない幻のようなものになりかけていたのだ。

…けれど、宮藤芳佳という新兵の存在で容易くそれは崩された。はじめはミーナと坂本少佐の意地の悪い冗談
かと思ったほどだ。ミーナはともかく坂本少佐はクリスの顔を見たことがないはずだから、それは全くの濡れ衣
だってことぐらい分かっていたのだけれど。それでも宮藤はクリスに似ていた。とてもとても、よく似ていた。彼女が
現れたことは私がふさいでいたありとあらゆる器官の機能をいやがおうにも呼び覚ますことになったのだ。
長い間使うことを忘れていたその器官たちはもともとの動きも忘れてがむしゃらに動いて、普段は支配する側
のはずの思考を犯した。自由になったことを良いことに好き勝手に暴れて、私が必死に封印していたいろいろな
感情を呼び起こした。それは私を混乱させるのに十分な絶対量を以って襲い掛かってきたのだ。


そしてその結果が、あの様だ。
どうなるんだろ、わたし。思った瞬間に不意に、青い光が目の前を包み込んだのを良く覚えている。温かな力が
流れ込んできて、じんじんと痛む箇所を包み込んで溶かして流し去っていった。…力としてエネルギーを放出
するばかりの私の、体験したことのない感覚だった、それは。

「…エーリカ?」

私のベッドの傍らに立ちつくしたままでいる小柄な同僚の名前を、もう一度。
てっきり「どじだなー」と笑うのだと思い込んでいたから拍子抜けしてしまう。いつもひょうひょうと笑っている
このエーリカ・ハルトマンらしからぬ態度だった。

「フラウ」

今度はごく限られた場所でしか口にしない彼女の愛称で呼びかけた。なんだよ、うろたえちゃって。そう言って
お腹を抱えて笑い出すいつものフラウを私は期待していた。…笑い飛ばされたい気分だったからだ。妹を守れ
なかった私に生きている価値などない。どうせ死んだら死んだで多額の、今までの功績に応じた補償金が出る
のだろうから、いつ死んでもいい。そう思い込んでいた過去の私ごと笑って、どこかへ飛ばして欲しかった。私は
馬鹿だ。命が無ければ出来ないことが、つくりだせないものが、守れない人が、たくさんたくさんあったのに。

「笑ってくれよ、フラウ、なあ」

つい、情けない声が出てしまう。ああ、だめだ。困り果てて、涙が出てきてしまいそうだ。
沈黙は、恐ろしい。自分が寡黙であることを棚に上げて思う。だってフラウにそんなものは似合わないからだ。
頼む。重ねて呟いた瞬間、鼻の頭をそよ風が掠める感覚がした。窓は開いていないはずだし、フラウは先ほど
ちゃんと扉を閉めていた。どこから入り込んだのか分からないその風を、気のせいだと思うことにする。

けれどそうではないことを、私は直後に思い知ったのだった。

とぅるーで。
木のざわめきほどに、小鳥のさえずりほどに。
小さい小さいフラウの呟きを聞いた。なんだ?ようやっと求めていた声を手に入れた私は安堵して尋ねる。瞬間、
前髪を揺らした確かな風は、体を締め付ける温かくて柔らかいものの感覚ですっかり思考から外れてしまった。

ぎゅうと、私よりも小さなフラウが私を抱きしめていた。それは昼にミーナが私を抱きしめたのと同じように、強く、強く。
「ど、どうしたんだ?なにがあったんだよ、フラウ」
慌てて尋ねる私に、フラウはたった一言。

ごめん。

そうくぐもった声で言った。熱いもので私の肌が濡れていく。ああ、泣いてるんだな。そんな結論に行き着くのに
そう時間はかからなかった。けれど理由が分からない。泣く理由は分かる。だってずっとずっと一緒に戦ってきた
仲間だ。一時は生死の境をさまよったくらいだというのに無事に生還できたのだから、泣いて喜んでもらえる分
にはありがたくて仕方ないくらいだ。
けどフラウのそれは違う。だってフラウは「ごめん」と言うのだ。悪かったのはすべて私なのに、そう言って
ぼろぼろと涙を流している。わからない。ぜんぜんわからない。フラウの考えてることなんていつもわからない
けれど、今日はいちだん、理解出来ない。


「トゥルーデを守ってあげたかった。ごめんね、守ってあげられなかった」
「……何言ってるんだ、そんなの」

仕方ないだろ、任務だったんだから。お前は待機、私は訓練。今日はそう決まっていたんだから。
諭しても、フラウは首を振るばかり。でも怖かった。怖かったんだよ。普段は決しておくびにも出さない不安の
よどみをぶつけてくる。
基地で留守を守りながら、こいつはじっと、届く通信を聞いていたのだろうか。私やミーナを心配して、その無事を
祈っていたりしたんだろうか。…私がフラウを置いて出かけるときは当然私はフラウの傍にいないから、どんな
顔で、どんなことを考えているのかなんて全然分からない。いや、いつも絶やさない人懐っこい笑顔の下で涙を
流していたとしても、きっと気付くことが出来ていないのかもしれない。

ひゅうと風が渦巻いて明らかに私の後ろ髪を揺らす。カーテンがなびいて、毛布の端がぱたぱたと音を鳴らした。
フラウの横髪の一部がほんのりと色づいているのを見た。その尾てい骨辺りから同じ色をした尻尾が生えて
きている。…今なら確信できる。この風は、フラウが起こしているのだと。そよ風から嵐まで、大気に自分の
魔力を乗せてそれを操る。こいつだけが持っている、特別な力。確かにその存在を感じさせるのに部屋のものを
壊したりはしない、その微妙なコントロールさえもフラウは平然とやってのける。

「…私がいても何の役にもたたなかったよ。宮藤がいてよかった。こんな能力しかない私じゃ、助けてあげられ
 なかった。…役立たずで、ごめん。ごめんなさい、トゥルーデ」
「なにばかなこと、言ってるんだっ!お前に守ってもらうなんて私は、そんなことっ」

肩を掴んでフラウを引き剥がす。その顔を見やるとああ、やっぱり。涙でぐしゃぐしゃになってるんだ。それでも
まだぽろぽろととめどなく涙を流している。…こんなの、私の知ってるフラウじゃない。
馬鹿を言うなよ。『守ってあげたかった』、だなんて一丁前に大人ぶって。お前はまだ小さいじゃないか。子供
じゃないか。それなのに私を守るだなんて考えてたのか。それは私が情けないからか。死にたがりだからか。

いつの間にか忘れていた。私は、戦うためにウィッチになったんじゃない。戦うことばかりを考えて、今まで軍に
在籍してたんじゃない。
一度は引き剥がしたはずのその小さな体を今度は自分で抱きしめた。
守りたかったのはクリスだけじゃなかった。大切なものひとつだけで私は今まで生きてこれたんじゃなかったのに。

(お前を守ってやらなくちゃいけないのは、私のほうなんだ)

ずっとずっと思っていた。一緒にロッテを組んで空を駆りながら、まっすぐな瞳で「先行くね!」なんて飛び出して
いく背中を見ながら、そうして彼女のの創り出す風を感じながら。
守ってやらなきゃって思ってたんだ、ずっと。だってフラウは小さいから。クリスのいない空の上ではそれが私の
存在理由だった。だからいつだって正気でいられたし、フラウと競えばネウロイの撃墜スコアだって重ねていけた。
それを忘れた私はフラウにどんな風に見えていただろう。きっとひどく危なっかしく見えていたんだろう。まだ子供の
フラウに「守らなきゃ」と思わせるほどに。

ごめん、って。謝らなくちゃいけないのは私のほうだ。ごめん。心配かけてごめん。

「…もう、あんな無茶はしない。約束する。誓うから。」

私の胸の中でまだぐずっているフラウを諭すように囁いた。なあ、だから笑ってくれよ。お願いだよ。もう泣き
止んでくれないか。切実な気持ちが胸に渦巻いていく。ああ、私も宮藤のように治癒魔法を使えたらいいのに。
けれど、治してやりたいのは傷とか怪我じゃない、心の治療をすることが出来る魔法がいい。そんなものないって
知ってるけれど願わずにはいられない。けれどせめて、胸に溢れるこの気持ちを上手く伝えられるものであったなら。

…今優しく私の頬を撫でる、フラウの魔法の風のように。


「…なあ、フラウ、あさってから一緒に休暇、とらないか。クリスの見舞いに行くんだが」
いろいろと考えあぐねて、ようやく至ったひとつの妙案をようやっと口に出来たのは、フラウの泣き声がひと段落
ついた頃だった。それでも私はぎゅうと抱きしめる手を解くことが出来なかったし、フラウもまた先ほど自分が
していたよりもずっと強く私にしがみついていたのだけれど。

「…」

帰ってきたのは沈黙で、それでも風の動きが微妙に変わったのを感じて私は彼女が話しは聞いていることを
知る。だから構わず続けた。

「ついでに美味しいものが食べたいんだ。ひとりで探すよりもふたりのほうがいいと思わないか」

「ミーナまで一緒にとるわけにはいかないだろうけど、お土産を買って帰ろう。ふたりで探すんだ、ミーナの喜びそうなものを」

力を込めていた腕を緩めると、フラウが顔を上げた。いいの?首をかしげて尋ねてくるから「当たり前だろ」と
言ってやる。

「お前は目を離してたら何をやらかすかわからないからな。私がちゃんと見張ってないと」

無理に口の端を吊り上げるとひくひくと痙攣する。こんなところの筋肉、久しぶりに使った気がする。…でも
きっとお前はいつも鍛えてるだろ?だから、私と違って苦労なんかしないだろ?
だから、ほら、笑ってくれないか、いつもと同じように。

「…じゃあ、そうする。」

ようやく浮かべてくれた笑顔にほっと安堵したと同時にひどく気恥ずかしくなって、手を伸ばしてその頭をかき
混ぜる。ああ、フラウにはやっぱり笑顔が似合う。この笑顔を守りたいって、私は思ったんだ。
だから守らなくちゃ、今度こそ。守りたいんだ、絶対に。

フラウの髪はもう元の色に戻っていて、尻尾も消えてなくなっていたけれど、フラウの創り出す優しい風はまだ、
部屋中を穏やかに回っているような気がしてならなかった。


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