mix-turegret幕間3─台風の目にて
急なことで申し訳ない、と青白い顔で彼女は頭を下げた。「いいわよ」と言う私の返答に心底安心したように
もう一度頭を下げると、ふらついた足取りで執務室を出て行く。
ふう、とひとつ息をついたのは別に重たい気持ちを吐き出したくてそうしたわけではなくて、むしろ、安堵のそれ
に近いもので。
(まさか、サーニャさんのほうから言ってくるとは思わなかったけれど)
異変に気がついたのは、確か一昨日のことだったか。美緒の部屋からあくびをかみ殺しながら自室に戻る
最中でばったりと、ちょうど自室を出てきたばかりのエイラさんに出くわしたのだ。それはちょうどサーニャさんが
帰って来るくらいの頃合いで、普段のエイラさんだったならこんなにも早くに自室をあとにすることなんてない
はずだった。寝ぼけて部屋を間違えたサーニャさんを一人残しておくのが忍びなくて、どうせいつものごとく
二度寝を決め込んでしまうのだろうから。…エイラさんは普段はひどく落ち着きのあるしっかりした子なのに
(多少いたずら好きの気はあるけれど)、どうにもサーニャさんが関わると普段の調子ではいられなくなる
節がある。
そのエイラさんが、こんなにも早くに自室を後にする、なんて。
どう考えてもおかしい。そう思ったのが一番最初。そしてそれはすぐに確信に変わることになった。
「…入るときはちゃんと手でノブを持って、ノックをして入ってきてください、坂本少佐。」
サーニャさんが出て行ったそのままで扉を眺めていた私は、サーニャさんが気を利かせたのだろうか、
ほんの少し開いていたそこをよっと足で開いて入ってきた彼女を見て少し顔をしかめる。…実のところ、
私よりも2歳ほど年上のこの人が今の私にとって一番の懸案事項であることを、果たしてこの人は知って
いるのだろうか。
「すまん。両手がふさがっていてな」
「なら呼んでいただければ開きに行きますから」
わっはっは。いつもどおりの豪快な笑いをする彼女の反応をもって、この人がここ最近の自分の行動を
何ひとつ反省していないことを理解する。はあ、と大きなため息をひとつ。今度は重い気を吐き出すための
それだった。今問題はひとつ片付いて、もしかしたらこのままいろいろなことが快方に向かうかもしれないの
だけれど私にとって一番の大嵐はいつだってこんな状態だ。
扉を開けないほど大荷物を持っているらしい坂本美緒少佐その人は、こぼさないように細心の注意を
払っているのだろうか、そろそろと私の方へと歩み寄ってくる。そして手に持っていた湯飲みとマグカップを
私の机の上にコトリと置いた。
そのすぐ下、私の手元にあるのは隊員のシフト表だ。今日の夜からあさっての夜にかけて、エイラさんと
サーニャさんとペリーヌさん、3人の待機もしくは出撃を書き込む空欄に斜めに線を引いてある。
「サーニャは何を言っていた?」
机に手をついて尋ねてくる。線が引かれていることにはもう驚かない。驚くはずがない。だってこれはもう、
一昨日の夜から二人で話し合って決めていたことだったからだ。
「休暇をくれないか、って言われたの。今日の夜からね。言いにいく手間が省けたわね、良かった」
「エイラと二人、とちゃんと言ったか?まあ、ペリーヌもだが。」
「そこまでドンピシャよ。…話をしたい、って言っていたの。エイラさんはともかく、サーニャさんからそんな
話が出るとは思わなかったわ。」
「…まあ、サーニャもサーニャなりに考えることがあったんだろうさ。」
何があったのか、までは分からなかったけれど。明らかに不審なエイラさんの様子から彼女に何か悩みが
あるのだということはすぐにわかった。まるで何かを振り払うかのように訓練や出撃にも積極的に参加して、
最初はただやる気が溢れているだけと思ったけれど、その危なっかしい動きを見ていれば何か、基地に
留まっていたくない理由があるのではという結論に行き着くのはそう難しいことではなくて。
「そうね…ねえ、ペリーヌさんの様子はどうだった?」
「それが、いまだに顔も合わせてくれない状態でなあ…あれも抱え込む性格だし、困ったものだ」
「…美緒でもどうしようもないなんて重症ね」
「それは買いかぶりすぎだよ、ミーナ。私にだってどうしようもないことぐらいあるさ」
ふう、と物憂げにため息をつく美緒。彼女がこんな表情をするのは珍しい。…まあ、そう嘆きたくもなる気持ちは
分からなくも無いけれど。私だってため息をつきたいのは山々だ。…色んな意味で。
エイラの様子がおかしいのはペリーヌと関わりがあるんじゃないか?あいつもここのところ様子がおかしいんだ。
美緒がそう口にしたのは、その日の晩、美緒の部屋で書類を片付けながら。その日はなぜかペリーヌさんと
出会うことがなかったから私がそれに気付くことはなかった。…今にしてみればたぶん、ペリーヌさんは私が
何気なくを装って観察していたエイラさんを避けていたのだろう。逆に美緒はエイラに出会わなかったという
から、その二人がお互いを避けあっていたというのなら話はつながる。
「…これで、何とかなるかしらね?どう思う?美緒。」
「願うしかないだろう。…魔力は精神状態に強く関わるからな。見たところ、ペリーヌは良く眠れていないようだ。
…たぶんエイラとサーニャも、そうなんだろう?」
「ええ。サーニャさんの調子はエイラさんの行動に強く影響を受けているみたいだから。…あの子は少し、
エイラさんに依存している気質があるから。」
「エイラはもともととても落ち着いているだろ。普段は取り乱したりなんかしない」
「そうね…」
思い出すのは基地内まで響いた大きな音と、盛大に壊れたしたエイラさんのストライカーユニット。一緒に
いたルッキーニさんをとりあえず捕まえて、話を聞いていたところでシャーリーさんがやってきたのだっけ。
(あんまり、エイラを責めないでやってくれないかな。…いろいろあったみたいなんだ。休ませたほうがいい。)
そう苦笑いをしていたシャーリーさんは訳知り顔で、そこで私はこのことを気に病んでいるのは私や美緒
だけではないということを知った。シャーリーさんも…いや、むしろ他のみんなも、仲間のことを心配している
のだろうということを。
だから私はあえて言及しないことにしたのだ。そう言えば執務室に向かう途中で食堂を覗き込んだら、
大好物のふかしジャガイモを食べながらフラウが宮藤さんと何か相談をしていた。その宮藤さんの隣で
深刻そうに考え事をしているリーネさんも見た。最初は不思議な取り合わせだと思ったけれど、当事者3人と、
私と美緒以外の全員がもしも同じ目的を持って行動しているのだと仮定したらすべてのつじつまは合う。
…そして、それをあえて私たちに打ち明けないのにも理由があるのだと。
「悩んでも仕方ないだろう。打つべき手は全部打ったんだ。その後のことは起こった後で考えよう」
「…楽観的ね、あなたは」
「前向きと言ってくれないか。今するべきことをひたすらやっていくことでしか、前に進めないときもあるさ」
「ええ、本当に」
答える言葉に多少の皮肉を混ぜたのに美緒は気付いただろうか。…きっと全く気付いていないのだろう。
まあ、落ち着いてこれでも飲め!笑いながら勧めてくるマグカップには白い液体が入っている。手に持つ
とほわんと温かく、微かに甘い香りがした。
「昨日の晩でやっと書類も片付いたんだ。今夜はゆっくり休めるだろう?」
「…何日も徹夜する羽目になったのはどこかの飛行隊長さんが報告書をなかなか提出しないまま放置して
いたせいですけれどね」
「…う…いや、それはだなあ」
仕方ないじゃないか、そう言うのは苦手なんだ、私は。
湯飲みを持ったまま、困ったように頭をかく。ようやっと打ち負かすことが出来たような気持ちになって、私は
カップの中のそれにようやっと一口つけた。
「…ホットミルク?」
「ああ。体を休めたいときはこれが一番だって、教えてもらったんだ」
「…そう…」
飲み下すと、胸の辺りを程よくぬるくなった液体が流れ落ちてゆく感覚。思わずホッと息をつく。
美味しいわ。呟くと「そうだろう?」と美緒が子供のように笑う。…さっきまでの反省の表情はどこへやら。これ
ではいつかまた、徹夜での書類作成に付き合わせる羽目になりそうだ。まっすぐ、と言う言葉がとてもよく
似合うこの人は、猛スピードで駆け抜けてゆくからそのときこぼしてしまったものは拾い上げてくれない。
困ったものだ。
それにしても、ホットミルクに湯飲みはちょっと不恰好じゃない?
美緒お気に入りの湯のみを見やってそう言うと「気に入ってるんだからいいだろ」との答え。私よりも年上の
はずのこの人は、二人きりの時はこうしてずいぶんと子供のような顔をする。それを口にすると、美緒は
「ミーナも子供になればいいんだ」とまた笑う。…子供、というのは例えばルッキーニさんのような態度を言う
のだろうか。私自身がかつてああいった子供であった記憶なんてないからそれは難しい。けれどこの人と
二人でいるときは、私はいつもよりも少し、自分にわがままになることにしている。それにあちらが気付いて
いるかどうかは知らないけれど。
ほう、と二人同時に安堵のような息をついて、それがおかしくて顔を見合わせて笑った、そのとき。
…!!
……っ!!
…!
「…なんだ?」
「…さあ…」
不意に部屋の外が騒がしくなった。どうやらどこかの部屋で、誰かが言い争いをしているらしい。…内容
まではわからないけれど、その声の調子は、どこか聞き覚えのある、けれど懐かしいもの。
「…エイラだな」
「…ペリーヌさんね」
エイラさんは今、フラウの部屋の掃除をしているはずだ。…シャーリーさんから提案されたときはさすがに
それは重労働すぎるのではと思ったけれど、話を聞くにトゥルーデが大方片付けていたらしいのでそこまで
大変ではなかったろう。その部屋からなんでペリーヌさんの声もして、更に言い争いまでしているのか。全く
訳がわからなくて私は首をひねるばかりだったけれど。
しかしその疑問は、わっはっは、と言う美緒の笑い声ですべて飛ばされることになってしまった。
美緒の笑い声は不思議だ。見ていると私もなぜか笑いたくなる。何でも出来そうな気がしてくる。
「元気になったみたいじゃないか、よかったよかった!」
「何言ってるの美緒、二人はけんかしているのよ?…でも、ふふふ、なんだか安心しちゃった。…ケンカする
ほど仲がいいって、言うものね。」
そうだ、こうして言い争いをしているということは、二人の間に何かがある、ということ。避けあっていることは
止めたということだ。たとえそれが争いの言葉でも、そうして何かを交し合ったならきっと物事は変化を見せる
だろう。たぶん、きっと、絶対。そう思ったらなんだか安心したのだ。…そうやって理論立てて考える私とは違って、
美緒はただ直感的に「良かった」と笑っているのだろうけれど。
机の上の書類たちをすべて端へ追いやって、マグカップにもう一度口をつける。うん、おいしい、本当に。
明日にはまたたくさんの仕事が舞い込んでくるのかもしれないけれど、今日するべきことはすべて終えた。
これで、前に進むことが出来る。私は美緒と違って一つ一つ着実に片付けていくことでしか先へ歩いて
いけないから。
「ねえ、これ、あとでペリーヌさんにも淹れてあげて。…あの子もきっと、疲れているでしょう?」
「……そうだな!…ならあとで、3人で飲もう、そうしよう!」
得意そうに笑うのは、自分の作れるもののレパートリーが増えたことを誇りたいからだろうか。…やっぱり
この人は、どこか子供だ。笑いがこみ上げてくる。
「そうだ、ここに来る途中でハルトマンにあったんだ。これを渡してくれと頼まれた。」
ふと思い出したように美緒が胸ポケットから二つに折りたたまれた紙を取り出した。手を伸ばしてそれを受け
取ると、そこには今日から3日分の、夜間哨戒のシフト割り当てが書かれている。…今日が宮藤さんと
リーネさん、明日がフラウとトゥルーデ、明後日がシャーリーさんとルッキーニさん。私や美緒、ペリーヌさんの
名前は、ない。私の上から美緒が覗き込んで、その表の下に書かれた言葉を読み上げた。私の国の言葉で
書かれた、私の良く知っている、癖のある文字を。
「"わたしにまかせて!"…か。つくづく面白いやつだな、ハルトマンは」
「…すごく気が利くいい子よ。人を振り回すのも得意だけれど、ね」
「まさにシュトルムだな。…で、今回は私たちはその外側に追いやられたわけか。」
「ふふふ、もしかしたら中心なのかもしれないわね」
「はっはっは、平和なのはいいことだ。せっかく気を利かせてもらったんだから、ゆっくり寝かせてもらおう
じゃないか。…一緒にホットミルクでも飲んで、な!」
そうね、そうしましょう。そう言って笑いあっていたら、コンコンと扉を叩く音がした。すみませーん。扉の向こう
からするのは宮藤さんの声。先走りばかりが得意なあのいたずら子犬さんは私の手の中のメモの存在を
他の皆に告げていないらしい。
コップに残ったホットミルクを飲み干して、「どうぞ」と返す。二人が入り込んでくる前に、先ほどの帳簿に丸を
ふたつ、書き込んだ。