mix-turegret エピローグ─世界中から、あなただけ
私の腕に収まるようにして、エイラはすっかり眠りについてしまっていた。すうすうと穏やかな寝息を立てて
いる。まるで小さな子供みたいに。
私はぎゅっと、抱え込んでいるその頭ごと彼女を抱きしめた。久しぶりだ、この感覚。胸がどきどきして目が
さえて、眠れない。だってもったいないんだもの。眠っているときのあなたは無防備で、どんなに近づいても
後ずさりしたりしない。だから私はいつもちょっと寝不足で、けれど不思議と幸せだった。
サーニャはさ、控えめすぎるんだよ。もっとわがままいっていいと思うんだ。
私より少し背が高いくらいのハルトマン中尉が、そう言って私の頭を撫でた。あまり接点のないその人に
そんなことをされたのはもちろん初めて、びっくりして目を丸くしたらハルトマン中尉は肩をすくめて、けれども
何もきにならないというように朗らかに笑んだのだっけ。ね、トゥルーデ?尋ねられたバルクホルン大尉は
突然の問い掛けに少し驚いた顔をしていたけれど、すぐにいつものあのしかめ面で頷いた。照れてる
照れてる~。茶化すようにハルトマン中尉がつついたら今度は「そんなことないっ!」と怒り出して…けれど、
いつもと違って怖くはなかった。だってすごく、優しい目の色をしていたから。
そんなことないよ、サーニャちゃんは全然悪くない!
リネットさんはすごく、怒ってくれた。
ぽろぽろと、涙とともにこぼした不安を一つ一つ丁寧に拾い上げて拭きとって、強い口調で励ましてくれた。
おとなしいばかりだと思っていたその人の頑固なところを初めて見た。けれど背中をさする手が、ぎゅっと握り
締めてくれる手が、やっぱりやっぱり私の知っている通り、とてもとても優しかった。
そうだよ、リーネちゃんの言うとおりだよ。
芳佳ちゃんはリネットさんの言葉をついでそう言ってくれた。何も言えずにただひたすら泣くばかりの私を
気遣ってか、ずっと何も言わずに傍にいてくれた芳佳ちゃんたちが部屋を去る直前に掛けてくれた言葉は
私をとてもとても勇気付けたのだ。だってそれまでの私はただひたすら自分を責めるばかりで、悪いほうに
悪いほうに考えるばかりで、何もしようとしていなかったから。どうしたらいいのかわからないけれど、私は
何かをしなくちゃいけない。そう思わせてくれたのは、芳佳ちゃんとリネットさんだった。
安心しろよ。あたしたちが、何とかするから。
な、ルッキーニ?シャーロットさんはそう言って、ルッキーニさんと眩しいくらいの笑顔をくれた。底抜けに
明るいその眩しさは、普段の私なら眩しすぎてまっすぐに見ることが出来ないのだけれど、今日ばかりは
それがとてもとてもありがたかった。私にそれと同じものを浮かべる元気はなかったけれど、私の心の
暗くなっていた部分が照らされて、温かくなったような気がした。
…大丈夫ですわ。そんな顔していたら、もうすぐ来るエイラさんが落ち込みますわよ。
ペリーヌさんがそう言いに来たのは確か、エイラがやってくる少し前だったと思う。ごめんなさい。まずそう
言って深々と頭を下げたペリーヌさんに私はうろたえることしか出来なかったけれど、
何だかいつもより晴れやかな顔をしたペリーヌさんはそう言って、エイラの帰って来ることを教えてくれた。
今日一日で、私は普段よりもずっとずっとたくさんの人と話をした。…普段ならば、ミーナ中佐と、私の
すぐ目の前にいるこの人としかまともな会話を交わさないというのに。
うう、ん。そのエイラが声を上げて身じろぎをする。普段私の世話を焼いてはいつもついて離れないくせに、
エイラは何かを意識して私に触れるのをひどく嫌がる。…前向きに考えたら、とても恥ずかしがっている。
その、エイラが、いまは。
こうして私にすがりつくようにして私のすぐ傍にいる。それがすごくすごく、嬉しい。ここのところ…正確に
言えば、5日前の夜から、エイラの様子は変だった。いつもは私がどんなに遠慮しても「心配だから」と
言って哨戒に出掛ける私を見送るくせに、あの日は私が呼んでも、探しても、姿を現さなかった。…何か
用事があったんだろう、私の見送りなんて、任務でも義務でもないもの、仕方がない。そんな寂しい気持ちを
抱きながら哨戒から帰って来た、朝。やっぱりエイラの様子はおかしかった。夜に何か用事が入ったん
だったらもしかして疲れてるかな、迷惑かな。そう思ったけれど、やっぱり私は朝一番にエイラに会いたくて、
だからその日も部屋に潜り込むことにした。そうしたらエイラはおかしな場所で寝ていて、私が近づいたら
焦ったように跳ね起きて、私をベッドの上に乗せなおすとまるで風のように部屋から立ち去ってしまったのだ。
(ごめん)
小さく小さく呟いたエイラのその言葉は、長いこと私の耳をついて離れなかった。何で謝るの?なにか
やましいことでもあるの?
…もしかして、私といるのが、イヤになっちゃった?
その場所に思考が行き着いた瞬間、がらがらと私の世界が崩れる音が、耳の奥でした。
それから先の数日を、私は一体どうやって過ごしたのだろう。正直よく、覚えていない。いつの間にか
カレンダーの日付は移り変わっていって、慣らされた生活サイクルをぐるぐるとたどるように私は真っ暗闇を
歩いていた。…けれども微かに残るエイラの優しさの残り香を掴み取りたくて、必死だった。
失ってはじめてわかった。私の世界はいつも、エイラによって支えられていたんだって。私自身がどんなに
ぐらぐら揺れていたって、私の中にすっくと一本、エイラの存在がまっすぐに立っていた。私の行動で多少
うろたえることがあるとはいえ基本的に落ち着き払っている彼女は、大抵どんなことにも動じない。それが、
少し先の未来を先読みできる彼女の特殊能力と何か関連があるのかはわからないけれど…どんなときも
ゆれることのない光を、満たされて溢れてしまうほどの優しさを、与えてくれるエイラの存在はいつだって
私の中で確かだったからだ。
大丈夫。そう言ってエイラはよく私に微笑みかけてくれた。どんな無茶なことだってエイラが笑えば実現
するような気がするのだから不思議だった。実際彼女が大丈夫だと言ったことが、だめだったことはなかった
から。
そんなエイラがいなくなった私の世界ではすべてが虚ろで、幻で。確かなものが何ひとつなくて。私自身
さえなくなってしまったような、心地だった。
「ん…さ……にゃ…」
エイラが突然私を名前を呼んだから、私はびっくりしてしまう。けれどすぐに寝言だとわかって私はほっと
すると同時に少し残念にも思った。…でも、いいのだ。だって明日も、明後日も、ずっとずっと一緒にいるんだ
から。いつもはお互いの任務のために朝しか一緒にいられないけれど、一日中一緒にいられるんだから。
休みが欲しいんです、明日から。
それは本当に突然の申告だったというのに、ミーナ中佐は「ええ、もちろんいいわよ」と二つ返事で了承
してくれた。…まるでそれはあらかじめ決められていたことだ、といわんばかりに。もちろんそんなことは
ないと思うから、もう、何度お礼を言っても、言っても、足りないくらいだ。
…ミーナ中佐の部屋を出たところでぱったりと出くわして、私にホットミルクをくれようとしてくれた坂本少佐
にも、あとでお礼と、ごめんなさいを言わなくちゃいけないと思った。両手に持って執務室に入ろうとして
いたんだから、それは当然自分のミーナ中佐の分だったのだろう。それを思うと同時に、何かを口にする元気の
なかった私は何も言わずに首を振るだけでそれを跳ね除けてしまったから。
ほら、こうして。
…失うことで、ようやく気付けたものもある。それは私が、私たちが、本当はたくさんの人たちに支えられて、
見守られているんだって言うこと。…ううん、きっとエイラはそれをちゃんと知っているのだろう。何も気付いて
いなかったのは、私。エイラの存在を盾にして、壁にして、知らん振りをしてた。エイラがいればそれでいい、
それだけでいい。他の人も気になるけれど向き合うのは怖いから、やっぱり私はあなたさえいれば。
バカだね、私。そんなことないよ、って、私たちは『チーム』なんだよって、エイラはいつも教えてくれて
いたのにね。私とエイラだけでじゃ完結しない、完成されない。私もエイラも、その構成要員のひとり、
なんだよね。世界を作るのに必要な、たった一人、かけがえのない存在。だから、理由もなしに心配して
くれる。肩を叩いて励まして、不条理に怒って、力になってくれるんだよね。見返りなんて求めてない、
ただただ心配だから。大切だから。
ミーナ中佐も、坂本少佐も、バルクホルン大尉も、ハルトマン中尉も、シャーロットさんも、ルッキーニさんも、
芳佳ちゃんも、リネットさんも、ペリーヌさんも。
ねえエイラ、私、やっとそんなことに気が付けたんだよ。話したら、あなたは褒めてくれるかな。きっと
喜んでくれるよね。私の幸福を、いとも簡単に自分の幸福として受け止めてしまえるあなたなら。
(だいすきだよ、サーニャ)
眠りに落ちる寸前にエイラはそういった。脈絡もなく、突然に。エイラの世界は、私のそれと違ってもっと、
ずっと、広い。…その世界の中で、私一人は特別なんだよって、そういってくれた。
パーカーのポケットに手を入れると、中でころころと転がる小さな小さな通信機。ハルトマン中尉が私に
手渡してくれたもの。いったいこれはなんですか?そう尋ねたくて、けれども引っ込み思案が邪魔をして
何も言えずにいた私にハルトマン中尉はやっぱり朗らかに笑んでくれた。それは「大丈夫だよ」と笑う
エイラのそれと、よく似ているような気がした。
きっと役に立つから、電源入れて持っといで。そう言われるがままに耳に取り付けて、ぼんやりと自分の
部屋で過ごしていたら、『それ』は聞こえた。
『だってホラ、サーニャのほうがずっと可愛い』
どこから聞こえてくる音なのか、最初はガタガタとか、ゴトゴトとか、そんな物音ばかりだった。…しばらく
して物音は病んで、誰かがひそひそ声で話しているかのようなものになって。
一体何なのだろう、と魔力を放出してその発信源をようやく探し当てたその瞬間、一番最初に耳に届いた
のはその発言だった。誰の発言かなんて、そんなのすぐにわかった。私がこの人の声を聞き間違える
はずがない。…それは私がずっと聞きたかった声音で、けれどもその発言は私がかつて一度も彼女から
聞いたことがなかったものだったから、もしかして私の作り出した空耳なのではないかと思ったほどだった。
だって、可愛いなんて、エイラは言わない。
エイラは直接に褒めることも、褒められることも苦手なのだ。例えば私の歌だとかピアノだとか、そう言った
ものは千切れるくらいに褒めるのに、私自身に対する言葉はあまりにも少ない。
直後に今度はペリーヌさんが、坂本少佐をほめる言葉を聞いた。あ、ペリーヌさんと一緒なんだ。切ない
気持ちが頭をもたげたのを覚えている。
エイラと同い年で、たまに仲良さそうに言い争いをしているペリーヌさん。私は彼女が少し苦手でつい、
ペリーヌさんを見かけるとその場から後ずさりしてしまうのだった。そんな私を、エイラはいつも「ペリーヌは
ツンツンしてるけどいいやつだぞ」と諭すのだ。そうして私の世界を広げるきっかけを、エイラは作って
くれていた。…今の今まで、私はそれに気付けていなかったのだけど。
その切ない気持ちが一瞬にして消え去ったのは、それに対抗するようにしてエイラが私の『いいところ』を
言い返し始めたからだ。ペリーヌさんが少佐をひとつ褒めれば、エイラもまた私をひとつ褒める。髪とか、
目とか、肌とか、それはもう、この人は私のこんなところまで見ていたのかと聞いているこちらのほうが
恥ずかしくなってきそうなほどに。
…すっかり満たされて、私は途中で耳の中のそれを取り外して電源を切ると、ポケットにしまいこんだ。
エイラの口にした、褒め言葉ひとつひとつが胸いっぱいに広がって温かいものになって、そうして体中を
満たしていくようだったのだ。空耳かもしれない、なんて、疑う気持ちはもう欠片もなかった。…ううん、
信じたかったのだ。これは、エイラの本当の気持ちだって。恥ずかしがり屋のあの人がいつも胸に抱いてる、
私へのまっさらな愛情なんだって。
…確かめなくちゃ。そして、伝えなくちゃ。
そう思ったらもう、気持ちは止まらなくなった。だからエイラの部屋にすぐ行って、エイラの帰りを待つことに
した。だって明日の朝までなんて待っていられない。ねえ、あなたは私のことを好きですか。嫌いになって
いませんか。言ってもいいですか、私はあなたが大好きなんです。
世界は広い。たくさんの人がいる。私が私の世界を閉ざして、ごく限られた範囲で完結させようとしたって、
そのことは揺るがない真実だ。
その広い、広い、世界の中で。あなたが私だけを選び出してくれたというのなら。
私だってそうなんだよって、伝えたかった。世界にただひとり、あなたがいればいいと言うんじゃない。世界は
広いけど、その中であなたが一番だからこそ、あなたに傍にいて欲しいんだって。
この数日の間にエイラに何があったのかなんて知らない。分からない。けれどもうそんなことはどうでもいい。
だって次にエイラの世界が揺らいだときは、私がそれを支えればいいんだもの。
キラキラと銀に光る、さらさらの髪。あけぼのの空のようなやわらかな色をした瞳。照れると赤く染まる頬。
私よりも実はずっと白い肌。抑揚の無い口調、ほっそりとした長い指、私よりもずっと大きな手のひら。
ぶっきらぼうな言葉の奥に見え隠れする優しさ、強く出られるとうろたえる弱さ、空でストライカーを駆る
ときの壮観な顔つき、大丈夫ダヨと微笑むその笑顔。
全部全部、大好きなんだよ。だから一番近くに居たいの。守ってあげたいの。もう二度と、曇ったりしないように。
それを伝えたくて、伝えたくて、エイラの部屋で、エイラが帰るまで、ずっとずっと待っていたのだというのに、
エイラに触れた瞬間その言葉は全部どこかに流れていってしまった。突き放されても絶対に離さないことに
しよう。そのぐらいの覚悟でいたのに、エイラは私を受け止めてくれたからだ。
…まあ、いいや。
けれど私にしてはひどく珍しく、そんな楽観的な気持ちを抱くことが出来た。だって時間はたっぷりとある。
だからゆっくりゆっくり、伝えていけばいい。一緒に歩いていくように。
エイラは気付いていなかったようだけれど、机の上には芳佳ちゃんとリネットさんが考えてくれた明日と
明後日の行動表がある。それによるとエイラはその二日で私に少なくとも10回は『可愛い』と言わなければ
ならないらしい。あと、手をつないで、腕を組んで…その他、もろもろ。「サーニャちゃんを泣かせた罰だよ」って
リネットさんは笑っていたっけ。
(サーニャのナイトは情けないから、ちゃんと捕まえとかないとすぐびびって逃げちゃうぞ)
だからちゃんと手綱引いておけよ。シャーロットさんに、言われた。しっかりしなくちゃな、お姫様。そう頭をかき
回された。エイラのするそれとは違う、少し荒っぽい撫で方だった。
ナイト。きっとブリタニア語で『夜』と『騎士』が同じ読みであることにかけたものなんだろう。エイラはナイト
ウィッチになりたいのか、とバルクホルン大尉に尋ねられたことがある。あいつの能力は昼間戦闘向きな
のにな、とひどく不思議そうな顔をしていた。多分それはきっと、エイラが私に付き添って夜間哨戒に
出掛けることが多いからだ。
ナイト?…ううん、違うよね。私の腕の中にいる、エイラに向かって心の中で語りかける。…守られたい
んじゃないよ。一緒に歩いていきたいんだもの。
だから、そう。きっとエイラは王子様だ。ちょっと優柔不断だけど、私をいつも想ってくれている、強い強い
王子様。ただひどく、心優しすぎるところがあるの。けど、そう言うところも大好きなの。
(明日は早く、起きよう)
少なくともきっと、エイラより早く。だってほら、私の王子様に目覚めのキスをしてあげなくちゃいけないんだから。
そのためにはちょっともったいないけれど、眠らなくちゃ。
だから私は眼を閉じることにした。明日が来るのが待ち遠しいのなんて久しぶりだと思いながら。
終わり