しろいおと
ぽろん、ぽろん。
誰が弾いているのかな。綺麗なピアノの音がする。吸い寄せられるように私の足は、ミーティングルームに
向かっていた。
部屋の前に立つと、扉の奥から確かに誰かがピアノを奏でる音。この部隊で音楽をやっている人といったら…
ミーナ隊長かな。でもあの人はピアノも弾けるんだろうか。坂本少佐…うん、絶対無理そうだ。バルクホルン
大尉も。ハルトマン中尉は…うーん、割と何でもやってのけそうな気がするけれど、やっぱり想像つかない。
少なくともシャーリーとルッキーニでないことは確かだった。別に二人の音楽センスを否定するわけじゃない。
だってその二人とはさっき別れてきたばっかりだから。
ルッキーニが来てからというもの、シャーリーはずっとルッキーニに付きっ切りなのだった。そりゃあの子猫と
きたらまだ全然子供だし、危機感とか何にもないみたいだから心配なのは分かるけれども。
(つまんねー)
口がとがるのは別に拗ねてるわけじゃないし、いじけてるわけでもない。ただ、うん。つまらないだけだ。
少し前まで、私とシャーリーは割とよくつるんでいた。偉すぎてあんまり関わりたくない佐官二人に、なんか
ツンツンしてるガリア娘、あと何考えてるかよくわからないカールスラント組。私が配属された当初構成されて
いたこの部隊のメンバーの中で私と一番ウマが合ったのがシャーリーだったからだ。…いや、それはもちろん
みんなの第一印象ってやつで、アレから大分経った今となってはそんなこと思ってないけど。うん、大丈夫だ。
シャーリーなんて知るか、もう。
さっき格納庫で一緒にいたときもガッティーノはずっとシャーリーのまわりをひょこひょこと飛び回っていた。
危なっかしいなあ、なんて思いながら私はその様子を自分のストライカーを調整しながら眺めていたのだ。
なんかシャーリーが面白い話でも振ってくれないかなあ、なんて思いながら。
けれどそれが叶うことはなく、シャーリーはやっぱりルッキーニにばっかり構っていた。こら、危ないぞルッキ
ーニ。もうすぐ終わるからな。ほら、膝貸してやるからゆっくりお休みルッキーニ。…なんかもう、母親なんだか、
姉なんだか。そうこうしているうちにいつのまにかルッキーニはシャーリーの膝の上に収まって、その、まあ
なんだ、ものすっごい大きい胸を枕にしてくーすか眠っていて。ああ寝ちゃったよ、仕方ないなあ。そんな
ことをいいながらシャーリーは、けれどもまんざらじゃなさそうに笑ってた。…何だかよくわからないけれど
むしゃくしゃしたから、私は何も言わずに工具を片付けて、ストライカーもしまって、ちゃっちゃと格納庫をあとに
したのだった。それだのにやっぱりシャーリーは全然気付かないみたいだった。
いいんだもう。ミーティングルームで不貞寝してやる。そう考えて歩いていたらこの、ピアノの音が聞こえたのだ。
やさぐれた心に染み入るような、優しい優しいメロディが。
そろりとノブに手をかけて、音を立てないように扉を開く。吹き抜けになった開放感のある大きな部屋が私を
厳かに出迎える。この時間、部屋を赤で一杯にする西日が目に入って眩しくて、思わず目を細めた。
ぽろん、ぽろん。綺麗なピアノの音が、先ほどよりもずっとはっきりしたものとなって私の耳に飛び込んできた。
どうやら演奏しているその主は私の来訪に気がついていないらしい。
誰が弾いているんだろう?
見やるとそこには、ルッキーニほどではないけれど小柄な後姿があった。
(サーニャだ)
思わず呼びかけそうになって、慌てて口を押さえた。声を出したらびっくりして、きっとサーニャは演奏を止めて
しまう。そんな気がしたから。そんな子だと思ったから。
初めて会話を交わしたのはルッキーニが来るよりも前の話だから──一ヶ月ほど前のことだろうか。ある夜
うなされていた彼女が薄着のまま部屋を出て行くのを見て慌てて上着を引っつかんであとを追いかけた。
不安そうな顔をしていたから一緒に眠ろうと誘った。彼女と自分が次の日休みだと言うことは知っていたから、
次の日一緒に出かけることにした。
そのときにいろいろな話をして、彼女も呼応するようにそれに答えてくれたけれど──そうだ、そう言えば
ウィッチになる前は音楽の勉強をしてた、みたいなことも話していたっけ。
けれど残念ながら彼女はナイトウィッチ、私はそうではない、いわゆるディウィッチだからそのあとシフトが被る
こともなく、よってゆっくり話す時間もとれずに一月経ってしまったのだ。…だから、まだ、私はサーニャの
ことを全然知らないのだった。本当に、全然。
あの日私の部屋で眠ったことで彼女の体が何かを勘違いしてしまったのか、サーニャは時々私の部屋に
寝ぼけてやってくるようになった。だから会っていないわけではないのだけれど、やっぱり、サーニャは私の
起きている時間はいつも眠たそうで、話しかけるのははばかられてしまう。
こちらに背中を向けてその、打楽器だか弦楽器だかを奏でているサーニャ。指が右に左にせわしなく動いて
いく。小さな手、小さな指だ。あんな小さな手であの大きなフリーガーハマーを扱うのだというのだから信じ
られない。そんなものを持つよりもずっと、ずっと、ピアノを弾いているほうが似合っている。そのぐらいに
彼女の手は惚れ惚れするくらいの動きだった。音楽のことなんてからっきしの私がぽかんと眺めているしか
出来ないくらいに。
曲は緩やかにクライマックスへと広がっていき、そして徐々に収束して、きゅう、と余韻を残すように結ばれた。
サーニャの指が止まる。ふう、とひとつ息をつく。私の胸にはまだ、サーニャの奏でていた音が響いてる。
ぱん、ぱん、ぱん。思わず立ちつくしたまま手を叩いてしまうのを誰が止められたろうか。まともな演奏会
なんて行ったことない私にだって、喝采をする気分は分かる。観客は私ひとりだけだったけれど、それでも
この気持ちを届けたかった。だって本当に、本当に、すごいと思ったから。すごい、すごいよサーニャ!なんで
今まで教えてくれなかったんだ?そう詰め寄って褒め称えたいぐらいの衝動が胸の中にはあった。
けれど、サーニャにとってそれはひどく意外なことであったらしい。ぱん、と言う乾いた音がミーティングルームに
響いたその瞬間、彼女の肩がびくりと震えたのを見たからだ。そして恐る恐る振り返って私の姿を捉えた途端
──羞恥だろうか、ボンッと部屋の夕陽の赤に照らされていても分かるくらい、その顔が真っ赤に染まった。
えいら。パクパクと動いた口がそんな動きをする。だから私は答えた。サーニャ。なんだかこんなやり取りを
するのはすごく久しぶりのような気がした。なんだかすごくどきどきする。言いたい言葉はたくさんあった
はずなのに、なぜだか口をついて出たのはたった一言。
「綺麗ダナ」
その言葉を聴くやいなや、サーニャは慌てて譜面台の楽譜をとり、鍵盤の扉を閉めてしまった。そしてばつの
悪そうに私を一瞥したあと、走り去るように私の脇をすり抜けていこうとする…のが、できなかったのは、私が
その腕を反射的に掴んだからだった。ばさりと、使い古された楽譜が足元に落ちる。泣きそうな顔をした
サーニャが私を見上げた。
「ま、待ってくれヨその、邪魔したなら謝るし、あの、私がいるのが嫌なら部屋から出て行くからっ!」
思わず強く掴んでしまったその手首をゆっくりとはずして、私はかがんで彼女の楽譜を取り上げた。幼い、
たどたどしい字で彼女の国の文字が書かれている。…たぶん、サーニャの名前だろうなと思う。
サーニャは逃げなかった。ほ、と胸を撫で下ろして私は楽譜を手渡す。そして言う。
「デモ、すごく綺麗で…なんて言ったらいいのカナ、上手だったからサ、つい…」
ごめん。申し訳なくて、じっと私を見上げてくるサーニャの翠色の瞳をうまく見ることができない。初めて話した
ときはもっと上手く話せた気がするのに、なんで今日は上手くいかないんだろう。上手く言葉をこぼしてくれない
自分の不器用な口が忌々しかった。…ほら、そうやって大切なことをちゃんと言わないから、シャーリーにも
ほっとかれちゃうんだぞ。そう自分で言い聞かせて、自分で凹んで。
すう、とひとつ深呼吸。相手が気付いてくれるのを待つなんてだめなんだ。サーニャみたいな子なんて特別に。
その瞳だってすぐ不安に揺れてしまうんだから、きちんと言葉にしてあげなくちゃ。
「あの、サーニャがいやじゃなければ、もっと聞きたいんダ。サーニャの、ピアノ。今度は邪魔しないし、ほら、
私あそこで本読んでるから」
いいながら駆けていって、サーニャがピアノの前に座ったら死角になるような場所のソファに座る。その
ついでに戸棚から適当な本を一冊とって、さっき私がいた辺りで立ち尽くしているサーニャに見えるように
ぶんぶんと高く上げて振った。そしてそのまま前に向き直って、ぱらぱらと本をめくる。…ゲ、これガリア語
じゃん。読めないし、興味もないぞ、こんなの。
…けれど言い出したことはしょうがない。サーニャがそのまま部屋を出て行くにせよ、なんにせよ、私は
こうして待つしかない。…結局相手の判断に委ねるなんて、やっぱり情けない選択だった、と後悔したのは
行動してから。
しばらくしてギィ、と。何かを開く音がした。扉か、別のものか。分からなかったけれど振り返らない。サーニャを
びっくりさせたくないから。
けれど、また少しして、ぽろん、ぽろん。あのメロディが流れ出して、私はふう、と息をつく。顔に笑みが溢れて
くる。この部屋に来るまで胸を支配していたもやもやのようないらいらも、何だかどうでもよく思えてくるくらいに。
音楽のことなんて分からない。けど、私なりの基準で良いか、悪いかぐらいは言うことが出来る。これは、私に
とっていいものだ。だから、大好きだ。この音も、それを奏でているサーニャも。
演奏が終わったら一番に「ありがとう」と言おうと思った。それを伝えるくらいは許されると思ったから。
…のだ、けれど。
(…どうしてこうなったんだ?)
そんなの知るか、と自分自身に対してつっけんどんな答え。実際のところそうなのだから仕方ない。
肩の辺りに温かい感触がある。耳を、柔らかな髪が時折くすぐる。どうしよう、動けない。
それは二回目の演奏も終盤に近づいて、言おう、言わなくちゃ、言うんだ、なんて自分で自分に言い聞かせていた
そのときだった。
不意にピアノの音がやんで、再びギィ、パタン、と鍵盤を閉じる音がした。なにがあったんだ?と思って振り
返ろうとした瞬間、彼女はやってきた。擬音をつけるなら、ふらふら、ぱたり、と。要は彼女が歩み寄ってきて、
私に突然寄りかかったのだ。…そして、そのまま眠ってしまった。
すぐ隣で穏やかな寝息を立てているサーニャは、まるで何かを守るように足を抱え込んでいる。…ああ、そうだ、
そう言えばこの間一緒に眠ったときも、朝迷い込んでくるときも、サーニャはそうやって体を抱えていたっけ。
きっと寒いとかじゃなくて、きっと。
(こわいのか、まだ)
何が、なんて尋ねるのは酷だから私は聞かない。けれど知っている。あの日のサーニャを、寝付けなくさせた
それと同じだと。それがあるからきっと、サーニャは笑わないのだろう。…そうだ、私はサーニャの笑顔を見た
ことがまだ、一度もない。どんなときだってこの子は、私を不安そうな目で見上げるのだ。顔色を伺うようにして
いつだっておびえている。
(見たいな、えがお)
目を固く瞑ってすう、すうと息だけを吸って、吐いている。きっと意識なんてないから頼んだって笑顔は浮かべ
てくれない。だけどそれを見て想像してみる。…うん、きっとすごく、可愛いんだろうなあ。
思いをうまく言葉に出来ない、不器用な私。それでいつも伝わらずに拗ねてしまう私。
…でももしかしたら、行動でしか伝えられないから、できることもあるかもしれない。そう前向きに考えてみる。
だってほら、悲しくて辛くて苦しいのに『笑え!』なんて命令したって笑えるわけがないだろう?
楽しいことを考えよう。一緒に出かけたあの日と同じように。あの日のサーニャはまだ緊張していて、悲しそう
な顔はしなかったけれど上手く笑うことも出来ないみたいだった。サーニャの心が無機質な草原でしかなくても、
私がそこに花を咲かせるんだ。出来るかな。努力ぐらいはしなくちゃ。
全く意味の分からないガリア語の羅列を眺めながら、私は目覚めのサーニャに一番に言う言葉を考えることに
した。とっておきに面白くて、最高に楽しい言葉を。
*
「おーい、エイラぁー」
全くアイツは一体どこ行っちゃったんだ。
一緒に格納庫でストライカーの整備をしているその最中にどこかへ消えてしまったあの不思議キツネ娘の名前を
呼ぶ。…いや、迷子の子猫でもあるまいしこんなことするのはおかしいのかもしれないけれど。
「うう、ん、ウニャ、ウジュ~」
「…いつ聞いても変な鳴き声だよな、こいつ…」
背中にいるのはルッキーニ。この部隊に配属されたばかりのガッティーノだ。同い年と比べてもずっと長身で、
ガタイのよかったあたしと比べるとこの子は歳相応にチビスケで…そして、これは国民性なのだろうか。こんな
んで、しかもこの歳で、本当にロマーニャのエースなのかと思うくらい能天気だ。放っておくと何をしでかすか
分からないから不安で、あたしはついつい手を出してしまうところがある。
さっき格納庫にいたときもずっと陽気にウジャウジャウジュウジュ言っていて、ようやく静かになったと思ったら
ストライカーをいじくるあたしの腕の中で眠っていた。おいおい、全く。あきれ返ると同時になんだかこそばゆい
気持ちにもなっていたら、今度はエイラがどこかに姿を消してしまっていたのだ。そう言えばなんかぶーたれた顔
してたなあ、なんて思ったのは、それに気付いてからで。
(あいつ言わないんだもんなー)
してほしいことがあればはっきり言わなくちゃ伝わんないのに、どうもあれはそれを面倒くさがるというか、恥ず
かしがる節がある。…気付いてやれないあたしが悪いって言っちゃ、そうなんだけどさ。でも、そうやって待って
ばっかりだと色んなこと損するぞ、ホントに。ああしてほしい、こうしてほしい。ルッキーニみたいに言葉にして
もらえればあたしだって誰だって、限度はあれどたぶんなんだってしてやるのに。
ふと、思い立ってミーティングルームへと足を運ぶ。ギィ、と扉を開いたその向こうの照明は薄暗い。どうやら
まだ明かりをつけていないらしい。珍しいな、ここに誰もいないなんてこと。
「うう~、シャーリー、ごはん~」
「あー、はいはい、エイラ見つけてからなー」
背中でまだ眠っているルッキーニが、寝言とも分からない声を上げた。…返事は、ない。本能的なものだろうか。
自分の記憶している子供の頃とルッキーニのそれは全然違っていて、何だか面白いのだ。
暗がりの中で明かりを探して、点けたらぱあ、っと明るくなった。そして見つける、ソファーの上の白い頭。
「お、いたいた。電気ぐらいつけろよ、もー」
入り口側からは背を向けているからどんな顔をしているのか分からない。呼んでいるのに返事をしないとは、
やっぱり拗ねているのかもしれない。そう指摘したら「そんなんじゃネーヨ」とエイラは口を尖らすのかも
しれないけれど。
「…構ってやらなかったのは悪かったって、でもさー……って、あれ?」
おお。思わず声が漏れる。やるじゃないか、エイラ。口許が緩む。
違う輝きを持った二つの銀髪がそこにあった。ひとりはだらしなく口をあけて、ひとりはきゅっと足を抱え込んで…
…でも、身を寄せ合っている。
懐いたもんだなあ、なんて、実はまともな会話なんてほとんどかわしたことのない私が言うのはあまりにも
身勝手なのかもしれないけれど。…でもあたしは良く知っている。シフトが周りと大きく違うせいでなかなかまだ、
みんなに溶け込めていないオラーシャ出身のこの中尉を、どれだけエイラが心配していたか。故郷が陥落した
悲しみか、救わなければという使命感か、休むことも知らずに身を削っていたこの小さな女の子を、ずっとずっと
見ていたことを。でもその性格が災いして、話し掛けるきっかけをつかめずにやっぱりその機会をただただ待って
いるだけだった、ってことも。いや、そうだとばかり思ってだけかな。伝えようとしないから伝わりもしない、エイラの
一方通行の気持ちだと私は思っていたんだ、ずっと。
でも、違うんだな。言葉に出さなくても伝わる気持ちはある。思っているだけだって、それを拾い上げて受け
止めてくれる人がいる。ちゃんといる。
(そうだろ、サーニャ)
だからきっと、そうして身を寄せてるんだろ?言葉にしなくたって溢れてる優しさに、ちゃんと気付いてくれてるから。
もしかしたらそれは、同じ方向に矢印が向いてるからなのかな。わからないけど、そうだといい。言葉にならない
だけで本当はちゃんと一生懸命なエイラの気持ちを拾い上げてくれる優しい子がいてくれればいいって、あたしは
ずっと思っていたから。いつだって気付けなくてかわいそうな思いをさせてしまうあたしの代わりって訳じゃないけれど。
だから笑えよ。もっと明るく笑うといいよ。もっとわがまま言っていいんだ。存分に文句を言ったっていい。だって
仲間じゃないか。少なくともこれからもしばらくは、ここで一緒に戦うことになる。
さてと、年長者は早速憎まれ役になりますか。
背中でまた訳のわからない鳴き声を上げているルッキーニを担ぎなおして、あたしは二人をたたき起こすために
手を振り上げた。