あのひのうた


だいじょうぶ?エイラさん。

医務室で私に付き添っていたミヤフジが、心配そうに話し掛けて来ているような気がする。気がする、としか
認識することが出来ないのは体中全部が上手く働かないからだ。視界はぼやけて、耳は綿を詰めたように
くぐもって、鼻と口ではぜえ、はあ、と荒い息を吐いて。手も足も上手く動かない。頭も上手く働かない。

始まりはただの風邪だと思っていた。3日ほど前から体が少しだるくて、だけどそれだけだったからいつも
どおり過ごすことにした。誰かに言って心配されるのなんて面倒だったから何も言わずに、ただサーニャに
だけは『少し風邪引いたみたいだから近づかないほうがいい』と頼んで。

きっと寝冷えしたんだ。ご飯を食べて、少し体を動かせばいつもの調子に戻るに違いない──そう思い込
んで大事もとらずに訓練に出掛けようとしたのが、災いしたらしい。

それは、ふっとろうそくの灯火を吹き消すような感覚だった。たった一つ、けれど懸命に、灯していたその
光が消えた瞬間、私の視界は闇に包まれた。それは編隊飛行訓練の真っ最中で、その瞬間体中の力が
抜けて、なすすべもなくがくりとうなだれたのを覚えている。そして上へ上へと私を持ち上げていたものが
なくなって、足からストライカーが抜け落ちていくのを感じたのが、最後。
気がついたら、私は医務室のベッドのようなところに寝かされていた。感じる微かな消毒液の匂いと、ぼん
やりと映る白い天井で、私はそこが空でないことを知った。
霞みがかった意識と景色の向こうで、ミヤフジが懸命に私に手を当てて治癒魔法を使っていて、けれども
しばらくして坂本少佐らしき人に止められていたっけ。

(怪我とは違うんだ、ミヤフジ。お前じゃどうしようもない!)
(けど、エイラさんがっ!)

それが恐らく、つい先ほどの話。時間の感覚もよくわからなくて、それから何分たったのか、何時間たった
のか、もしかしたら何日も経ってしまっていたのか、もう分からない。けれども多分もう坂本少佐はいなくて、
私に付き添っているのは一緒にロッテを組んでいたミヤフジだけのようだった。あの青白い光はもう見え
ないから、言いつけどおり治癒魔法を使うのは止めたのだろう。…ごめんな、ミヤフジ。
不意に頭がずん、と痛んでウウウ、と言葉にならないうめき声を上げる。エイラさんっ!ミヤフジが叫ぶけれど
も何も出来ない。手足はしびれていて何の役にも立たない。顔が熱い。体は寒い。ありとあらゆる部分が
てんでばらばらに不平不満を述べて頭が壊れちゃってるみたいだ。こら、お前ら落ち着けよ。

(大丈夫かな、サーニャ、大丈夫かな)

そんなことばかりを頭の中でずっと、呪文のように唱えていた。他の何かを考えようとしても生まれ出たその
瞬間から掻き消えてしまって、まっさらになった頭にその気持ちだけがぽっかりと取り残されて浮かぶのだった。
今朝、やっぱり寝ぼけて私の部屋にやってきたサーニャ。私のベッドで眠ろうとしたけれど、なんだか風邪
気味だから危ないとすぐに部屋に送り返した。けれどそれを差し引いてもサーニャは私とよく過ごしている
んだ。伝染ってしまったかもしれない。サーニャももしかしたら私と同じように苦しんでいるのかもしれない。

…自分が苦しいことよりも私にはよっぽど、そっちのほうが苦しい。自分の苦しんでる姿なんて鏡を見な
けりゃわからないけど、サーニャの苦しいのはすぐわかる。それを隠そうと懸命でいるのさえ分かってしまう。
だから、嫌だ。
どうかどうか無事でいて。君が苦しむのは見たくないんだ。そんなことばかりを、一心に願って、けれど言葉に
して伝えることが出来ないからもどかしくて。



バタン!
遠くで大きな大きな音がした。「***ちゃん!?」。ミヤフジが誰かの名前を叫ぶ。誰だろう、リーネか
誰かか?朦朧とした頭で、私は思う。…美味い飯でも作ってきてくれたのかな。けど、悪いけど、今は食べ
られそうにないや。でもあとで絶対食ってやるから今は勘弁してくれよ。
けど、何だか違うみたいだった。

「エイラッ!!!」

私の意識の遠く、、けれどもたぶんすぐ近くで、恐らく今しがた慌しく医務室に入ってきた人間が私の名前を
呼んだ。医務室中に響き渡るほどのその大声は、鼓膜の直後でくぐもって反響して、不思議な音の響きに
変わっていく。…そんなに叫ぶなよ。ちゃんと聞こえてるって。
ぼんやりと目の前に映るその子に向かって手を伸ばす。ぼたぼだと、熱い何かが頬を濡らした。だってそれ
と来たら熱が出ているせいでいつもよりよっぽど熱くなっている私の頬よりもよっぽど熱いんだ。やけど
しそうなほどなんだ。誰か、なんてもう判別できない。けれどもわかった。わからないはずがない。無意識で
だってぴたりと当てて見せる。

なかないで、さーにゃ。

笑ってそう言ってやりたかったけど、出来なくて。けれども彼女に触れたその瞬間体の奥から不思議な力が
あふれ出てきた。体中が青白い光で包まれていく。目の前さえも眩しくて、眩しくて、もう何も見えない。
…ミヤフジの魔法か?体中の痛みをかき消すように、私の存在さえかき消すように。さあっと体中を流れて
いったその奔流のような力に押し流されるようにして、私は再び意識を失った。





どこだ、ここは。
ハッと気が付くと、先ほどまでぎゅうぎゅうと私を押しつぶしていた天井はもうなくて、空には高い高い、空が
広がっていた。ひゅう、と柔らかな風が吹き抜ける。医務室じゃないことは確かだな、なんて思いながら肩を
すくめた。──不思議なことに、私はひどい風邪を引いてうなされていたはずなのに今はとてもとても体が
軽いのだった。自分の姿を見やると、私の着ているのはいつもの水色の軍服。スオムスの空と、雪の色を
した服。あれ、私、寝巻きを着せられてなかったっけ?

どこまでも果てしなく広がる青い空と、生い茂る緑の木々とそして、足元を彩るたくさんの花。そんな場所に
私はいた。どこなのかは分からない。けれどここは現実の、どこかの花畑なのだった。だって草の匂いも、
風の音も、太陽の暖かさも、全部全部本物だ。夢なんかじゃない。

(…ワープした?まさか、そんな)

空間瞬間移動能力を持ったウィッチが存在したと言う文献は確かにある。…けどそれ自体がまず伝説的な
話だし、出来ても数十メートル程度の小範囲だったはずだった。こんな景色、基地の周りで見たことなんて
ない。そもそも私にそんな力があるはずがない。

これからどうする?とりあえずは基地に帰還しなくちゃいけないだろうれど、ここがどこだか分からないと
身動きのとりようもない。人を探そうにも、やっぱり当てなんてない。…ストライカーを持たない、ただの15の
子供の足だ、機動力なんて高が知れてる。
せっかく風邪が治ったのになあ。軽くなった体をひねるように動かして調子を探ると思うとおりに動いてくれる。
うん、いい。すこぶる良い感じだ。なんだか今ならなんだって出来そうだ。



まあ、人家を探すくらいなら一人でだって日が暮れる前に何とかなるだろう──そう思って一度伸びをした
そのときだった。


「おねえちゃん、だあれ?」


下から聞こえた幼い声に、慌てて私は自分の足元に視線を移した。見ると、そこでは5,6歳歳くらいだろうか─
大きな黒いリボンをした銀色の髪の女の子がにっこり笑んでいて。なんで今まで気が付かなかったんだろう?
そもそも気配なんてあったか?思いながらつい、私も愛想笑いを返す。

「ヤ、ヤア」
「!!おねえちゃん、わんちゃんの尻尾と耳がある!!」
「や、ヤメロ、触るなって!それとこれは狐!犬じゃナイ!!」
「キツネさん?…黒いキツネさん?変なの」

しゃがみこんで視線を合わせると、その子は無邪気に笑んで臆することもなく私に触れてくるのだった。
…あれ?耳と尻尾、出てたのか?彼女に触れられて初めて気が付く。…おかしい。こんなにも気を抜いた
状態で魔力が放出されるはずはないのに、どうして?わからないけれど無意識ででも出ている以上意識して
しまいこむのは難しくて、まあまだ疲れているわけでもないし、とそのままにしておくことにする。
むしろ今の私はとてもとても調子が良いのだ。明日の天気ぐらいまで先読みできそうなくらいに。

「おねえちゃん、しゃべり方も変なのー」
「う、ひどいナァ。ちょっとは気にしてるんだぞ、ソレ」

うふふふ、とその女の子はそんなちっぽけなことさえも心底おかしいと言わんばかりにおなかを抱えて、
ころころと笑うのだった。白いシャツに、黒くて長いベルト。モノトーンの服が彼女の白い肌に良く映えている。
…私はこの女の子をとてもよく知っている気がした。けれど、誰に似ているのかうまく思い出せない。私は
エイラ・イルマタル・ユーティライネン。スオムス空軍少尉。…うん、間違いない。今の所属は第501統合
戦闘航空団で…と、額に手を当てて考えていたら、頭の上にぱさりと何かが乗せられた。なんだろう、と
思って見やるとその、誰かによく似た女の子が手を伸ばして、シロツメクサで作った王冠を乗せてくれた
ようなのだった。

「おねえちゃんだいじょうぶ?」
女の子が尋ねてくる。
「お顔がこわい。きゅー、ってなってるよ」

…そう指摘されて始めて、私は自分が顔をしかめていることに
気が付いた。ゆっくりと笑んで、アリガトナ。彼女の頭に手を伸ばしながら礼を言う。

「ナア、お前…イヤ、君の、名前は?私の名前はエイラ。エイラ・イルマタル・ユーティライネン。」
「…エイマ…ライネ…長いよう。覚えられないからキツネさんでいい?」
「…名乗った意味ないじゃんかヨー……ま、いっか。」
呆れたように私が言うと、その子はいたずらっぽく笑って「いいの!」なんて言う。そして私が諦めて肩を
すくめたら、とても嬉しそうに飛び上がった。なんかすごく、活発な子だなあ。…まあ、私の知ってるあの子猫
ほどじゃないけどさ。…ええと、だれだっけ。名前がよく思い出せない。…まあ、いっか。
「わあい!あのね、あのね、私はリーリヤ。みんなリーリヤって呼ぶから。だからお姉ちゃんもリーリヤって
 呼んでいいよ!」
「そっか、わかったヨ、リーリヤ」
「うん、キツネさん!」



頭を撫でてやったら、ふふふ、と嬉しそうに笑んだ。本当に良く笑う子だ、と思う。特別なことをしてやったわけ
でもないのに私も何だかすごく嬉しくて、口許が緩んだ。
ねえ、お話ようよ。リーリヤがそう言うから花畑の真ん中に二人並んで座り込んだ。太陽がぽかぽかと
温かくて、風は穏やかでとてもとても心地が良い。見知らぬ土地だというのに何だかとても懐かしいような
気持ちにさえなっている。

「ね、キツネさんは魔女さんなの?」
ふわふわと、私の耳に触れながらリーリヤが尋ねてきた。くすぐったくて、普段ならとても嫌な事なんだ
けれど今は別にいやじゃない。
うん、そうだ。私は答えた。

「私はウィッチだヨ。スオムス空軍に所属してル」
「うぃっち…くうぐん……キツネさんは、戦争するの?」
「アア」

頷くと、リーリヤの顔が明らかに曇った。そして口を尖らせて言ってくる。
「キツネさん、だめよ。戦うのは、だめ。」
「エー、そんなこと言ってもナア…」
「…戦争は嫌い。たくさんの人が傷つくもん。お父様がそう言ってたから、だめ」
「…それは、そうだケド…」

リーリヤの幼い言葉が私の心にグサリと付き刺さる。いつのまにか私の中で当たり前になっていた『戦う』と
いうことの恐ろしさを改めて突きつけられた気がした。そっか、普通の人は、子供は、そんな風に思うんだ。
軍に入ってからはずっと戦うことが当たり前の生活をしてきたから、いつの間にか忘れていた。
…長いこと、ウィッチとしてネウロイと戦ってきた。その中で失った仲間はもちろんゼロなんかじゃない。こんな、
リーリヤみたいな子供にとったらその世界はさながら地獄としか言えないような、そんな場所だ。

「…ケド」
「…?」
「私は戦うヨ、守りたいものがあるカラ。大切な人だっている。戦うのを止めたら、守れナイ。そんなのは
 イヤだし…私にその力があるなら、私は戦ウ。だからウィッチになったんダ」

きっとリーリヤは小さいからまだ私の言葉の意味なんてわからないだろうと思った。それでも良いから、伝え
たかった。
世界中でも、魔法を使える女の子は一握りだ。女の子なら誰でも素質があるとはいえウィッチになれるほど
の魔力を持つものとなるとまたごく限られてしまう。…その中でまた、特殊能力を持つほどの力があるのは
その中からまた、ごくごくわずか。私が今いる部隊みたいにみんながみんな特殊能力を持つような場所に
いると忘れてしまうけれど、私たちは皆世界中からガリア解放のために選ばれたその一握りの中の、その
また一握りなのだ。

多分ここでの戦いが終わっても、私はスオムスに戻って戦い続けるだろうと思う。それこそネウロイがこの
世界にいて、私が魔法を使える限り、ずっと。この体に宿っている、敵の攻撃を先読みする未来予知の力を
使って。この力のおかげで私は何度命を救われたことだろう。この力があったから守れたものがたくさんある。
だから私は、今自分がこうしてウィッチになって軍に在籍していることをなんら後悔していない。むしろ感謝
している。この力があって良かった。おかげで大切なものを守ることが出来るんだから。

「わかんないよ、そんなの」
「わかんなくってもいいヨ。わかんなくたって、良いんダ」

悲しそうな顔をするリーリヤを安心させるように、ニコ、と笑いかけてやる。戦いを憎む気持ちは、ないよりは
あったほうが良い。好き好んで戦いに身を投じるよりは、ずっと良い。
ただ、私たちにだって戦う理由がある。そのことを心のどこかにとどめておいて欲しいな、なんて思ったのだ。



「…この話はもうヤメだ、ヤメ!ナァ、リーリヤには夢とかないのか?好きなこととか、大切なものトカ」

でも、でも。今にも泣きそうな顔をしているリーリヤを見ていることなんて出来なくて、私はわざと声を明るく
して話題を変える。そうしたら途端に顔がぱぁ、っと輝いた。そして何かを言いたげにニコニコ、ソワソワして
こちらをちらちらと見る。私は笑って言う。なんだよ、もったいぶるなよ。聞きたい?ねえ、聞きたい?そう
言いたげなリーリヤの様子を見て、どこかほっとしている自分に気が付く。…うん、この子に悲しい顔なんて
似合わない。笑っていたほうが、ずっと良い。

「あのね、リーリヤはね…おんがく!音楽が好き!」
「…音楽?リーリヤは音楽をするのカ?」
「うん、ピアノを弾くの。将来はお父様みたいなピアニストになって、世界じゅうを回るの。そして、みんなを
 笑顔にしてあげるの!!」
「ピアノかー、すっげー!音楽で、世界中を笑顔にスル…いいナ!そういうの」
「でしょ、でしょう!?」

お父様はすごいのよ。言いながらその、小さな指を動かすリーリヤ。どうやらピアノを弾くジェスチャーらしい。
ふん、ふん、と歌う鼻歌は、彼女の父親が作ったものなのだろうか。…それはどこか聞き覚えのあるメロディで、
けれども、記憶に霞が掛かっているようで、上手く思い出せない。

「…だから、来月からウィーンに行くの。音楽の学校で、ピアノを勉強するの」
「…ウィーン?オストマルクの?」
「うん。お父様やお母様とお別れになるのは寂しいけど、私、頑張るんだ。……ねえ、いつか、キツネさんも
 聴きに来てね。戦争なんて止めて、リーリヤのピアノ、聞いてね」
「……」

…嘘だ。思わずポロリとこぼしそうになって慌てて口を押さえる。だってウィーンは、オストマルクは…もう、
陥落したはず。そこにはもう、リーリヤが行く音楽学校なんてあるはずがない。

けれどそんなこと言うことなんて出来やしないと思った。絶対だよ。そう言って指を差し出してくるリーリヤの
笑顔を曇らせたくなんかなかったんだ。
うん、約束する。聴きに行くよ、絶対。笑顔を浮かべて差し出された小指に私のソレを絡める。小さな小さな
指だ。この指は、一体どんな音楽を紡ぐんだろう。…聴いてみたい。世界の至るところで、思う存分弾かせて
あげたい。彼女が安心して回れるような、そんな世界を作りたい。心の中でそっと誓う。
ああ、ほら。戦う理由がまた一つ増えた。やっぱり私は戦うのを止めるわけにはいかない。ゴメンなリーリヤ、
やっぱり私にはこのやり方しかないからさ。

ぽろん、ぽろん。
遠くから、誰かがピアノを奏でる音がした。その音を聞くや否やリーリヤが飛び上がる。
「お父様が呼んでる。帰らなくちゃ」
話しながら摘んでいた花を抱えなおしながらリーリヤは言った。きっともともと、これが目的だったのだろう。
音楽家のお父さんに花を摘んでやる娘。…うん、良い子だ。優しい子だ。

ぽろん、ぽろん。
じゃあね、またね、キツネのお姉ちゃん。盛んに手を振って、遠ざかっていく背中に手を振りながらあれ、
と思う。…このメロディを、私は良く知っている。

(お父様が私に作ってくれた曲なの)

嬉しそうに、けれども少し寂しそうに、私の大切な、大切なあの子がそう言って奏でてくれたあの曲だ。聞き
違えるはずがない。
それをきっかけにするように、今までなぜか思い出せなかった色々なことが突然頭に流れ込んでくる。
隊のこと、仲間のみんな、今日あったこと。全部、全部。最後に頭に浮かんだのは、リーリヤととてもよく似た
顔立ちをした、女の子の泣き顔だった。
…まさか、彼女は、リーリヤは。



「まって、リーリヤ!!」
ねえ、リーリヤって、君の本当の名前じゃないだろう?『みんながそう呼ぶから』って、そう言っていた。じゃあ
君の本当の名前は──

力いっぱい叫んで、彼女を追いかける。ふっと立ち止まった彼女の手をぎゅっと掴んだ瞬間、頭の中を何かが
よぎった。目の前の子が少し大人びたような女の子が、どこか広い場所でピアノを弾いている。…ああ、
この場所は、私が今から帰ろうと思っている場所だ。よく知っている、あの場所だ。…私はその傍らにいて、
彼女の奏でる曲の譜めくりをしているのだった。ふと、彼女が顔を上げる。そして淡く笑いかけてくれる。

「どうしたの、キツネさん?」

その瞬間、涙がぽろぽろとこぼれてきた。私が"視た"その景色と、今目の前にいるリーリヤの顔が被った
からだ。満面の笑みを浮かべて、リーリヤが私を見上げている。
だめだ、だめだよリーリヤ。ウィーンなんか行っちゃだめだ。行ったら君は、とてもとても悲しい思いをする
ことになる。
どうにかしてそう伝えたくて、けれどもどんなに声を上げようとしてもなぜかもうそこから音が出てこないの
だった。景色がぼんやりと霞んでいく。霧に包まれたようになって、私以外がなくなっていく。リーリヤが
驚いた顔をして何かを叫んでいた。…ああ、違う。消えているのは私の方なんだ。

最後までぼんやりと残っていたリーリヤの姿が掻き消えた瞬間、ぷつりと意識がなくなった。





「リーリヤッ!!!」
叫んでガバッと起き上がる。翻してしまった毛布の感覚にあれ、と思って見渡すと、そこは見慣れた…訳でも
ない、けれどもよく知っている、基地の医務室だった。
ズキリと頭が痛んで、抑えようと右手を上げようとして、けれども出来なかった。

「エイラ…?」

その右手をぎゅっと握ったまま、驚いたように私を見ている人がいたからだ。もともと機微の少ないその顔
は、今はそれでも明白に分かるくらいに悲しげにゆがめられている。
(ああ、ここに、いた)
リーリヤ。かすれた声で呟いたら、彼女は目を見開いた。どうしてその名前を、とでも言いたげな顔で私を
見ている。…私はとても、とても、悲しい気持ちになってしまった。悲しくて悲しくて、思わずその手を引いて
その子を抱きしめる。目から涙がとめどなく溢れて止まらない。エイラ、どうしたの、エイラ。何度も何度も
尋ねてくるけれど、上手く答えることが出来ないような気がして何も言えなかった。

確証なんてない。どうして私がそれを見たのかも、それを自らで知覚することが出来たのかもわからない。
でももっともっと深い、本能的な何かで私はこのことを理解していた。
──あれは、この子の、過去なんだって。
だから悲しくて、悔しかった。けれども、彼女を励ます言葉なんて何も見つからなかったから口をつぐんだ
のだ。

…だって、あの子はあんなにも無邪気に笑ってたのに。自分のピアノで世界中を笑顔にするんだって、強い
瞳で夢を語っていたのに。
戦争は嫌いだって、誰かが傷つくのを見るのはイヤだって、あんなに悲しそうな顔で言ってたのに。
夢と希望に満ち溢れて向かったウィーンで、この子はどんな地獄を見ただろう。入りたくない軍に入って、
握りたくない武器をその手に抱いて──それもこれもこの子に、戦う力があったから。戦いを嫌うこの子を
戦わせるのために、目には見えない、どこかの誰かが勝手にこの子に力を授けてしまったから。



笑ってくれよ、お願いだよ。きっとそう懇願したって、この子はもう曖昧にしか笑えない。あの頃浮かべていた
ような無邪気な笑顔を浮かべることなんて出来やしないんだ。戦争は嫌だなんて、わがままを言うことだって
出来ない。音楽で世界を笑顔にするなんて、夢を語ることも出来ない。私はそれを聴いてみたいのに、思う
存分弾かせてあげたいのに、世界はそれとは違った意味で、彼女を必要としている。

「泣かないで、エイラ」

何かの感情を必死に押し殺したような、穏やかな口調で彼女が言う。ふるふると私は首を振る。そんなの
無理だ。だってこんなに悲しいんだ。だけどなんていえばいいのか分からない。慰めてやりたいのは私の
方なのに、何で私のほうが慰められてるんだろう。ダメだ、ダメダメだ、私。

「わかってるよ、ちゃんと、わかってるから」

何が分かってるのか、聞いている私には分からない。もしかしたらその言葉に意味なんてなくてただ、私を
慰めるためだけのものだったのかもしれない。
いつかこの子の夢が叶う日が来るといい。そして、この子が昔と同じようなあの、朗らかな笑顔を浮かべる
ことが出来る日が来たなら。…そのときその傍らに、私がいれたなら、いい。

「…目を覚ましてくれてよかった。もう起きないかと思ったの」

すごく苦しそうで、それなのに魔法を使うときみたいに体が光っていたの。呼んでも起きてくれなくなったの。
ずっと、ずっと、起きてくれなかったの。どうしたら良いのか分からなくて怖かったの。
私の腕の中でサーニャが言う。うん、ごめん、ごめん。うわ言のように呟いて、私はその小さな体をもっと
もっと強く、抱きしめた。
だいじょうぶ、って、言ってやりたかったのだ。君の夢は叶うよ。世界中を音楽で笑顔にする君の姿がちゃんと
見えるよ、サーニャ。…もしもさっきリーリヤの未来を私が見たように、今のサーニャの未来も見ることが
出来たなら。でも、普段の私にはそんな遠くの未来を見ることなんて出来やしなかった。



「…魔力の暴走、か…」
つい先ほどまでてんやわんやだった医務室に再び二人残されて、私はぼんやりと呟く。
意識が途切れたあのときに私の体を包んだあの光は、ミヤフジのものではなかったらしい。私が、無意識で
魔力を放出していたのだ。けれど魔力を使っていることをあらわす使い魔の耳や尻尾は出さずにいたから、
無理やり閉じた蛇口を引っこ抜いて水を出すような状態だったのではないかと、私が意識を取り戻した報せを
聞きつけたミーナ中佐は私に簡単に説明してくれ。驚いたことに、私は三日間もそんな状態で眠り続けて
いたらしい。

行き場を失った力は暴走して、普段とは真逆に、しかも強烈に、働いたのでは──と私の話を聞いた中佐は
言っていた。つまり自分でなく他人の、遠い過去へと干渉するほどの。

(憶測でしかないけれど…文字通り魔法、と言うしかないわね。)
幼いサーニャに会って、話をして、触れるなんて事普通できるはずがない。でも、『魔法』なんだから、何が
起きても仕方がない。そう納得するしかない。中佐はそう曖昧に笑っていた。
まあ、そこまで説明したところで噂を聞きつけた他のみんなまで半分野次馬感覚で医務室に詰め掛けてきた
もんだから結局うやむやになってしまったんだけれど。
ちなみになんだかいつもよりもずっと凄みのあるサーニャの「静かにしてください」の一言で、みんなしぶしぶ
解散した。そんなわけで今はとてもとても平和だ。

「エイラ、」

ぼつりとサーニャが言った。床についている私の手を、先ほどからぎゅっと握って離してくれない。魔力と
一緒に悪いものまで放出したようで、私の体はずいぶんと快復したのにサーニャと来たら「寝なきゃだめ」の
一点張りで私を起き上がらせてもくれないのだった。三日も寝てたならもう十分だろうと思うのに。



どうした、サーニャ?私は答える。繋がった手が何だか熱い。…こうしていると、さっきサーニャに抱きついて
泣いてしまったことを思い出して何だかすごく情けない気持ちになるんだけどなあ。…もちろんミヤフジと
ミーナ中佐がやってきた瞬間パッと離れたけれど、サーニャは手だけはみんながいる最中も離してくれ
なかった。

「…いつか、戦いが終わったら…私のピアノを聴きにきてくれる?」

唐突に尋ねられたその言葉は、リーリヤの言ったそれとよく似てる。懇願する代わりにサーニャはその手に
力を込めたのがわかった。
…私の目頭がまた、熱くなる。けれどこらえる。でも今度は悲しいんじゃない。嬉しかったんだ。…だって今、
こうしてサーニャは夢を捨てて、ウィッチとして戦ってる。すべては世界を守るために。けど、あの頃のサーニャ
の夢は、リーリヤの夢は。

「世界中を笑顔にしたいの、私のピアノで。…一番に、エイラに聞いて欲しいの」

ちゃんとほら、今もサーニャの中で息づいてる。それが嬉しい。すごく、嬉しい。

「言われなくたって付いてくヨ。当たり前ダロ」

答えたら、サーニャがひどく驚いた顔をして私を見やっていた。なんだ?変なこといったか?だって世界中を
回らなくちゃいけないんだぞ、大変じゃないか。そう思って首をかしげると、サーニャは小さくふふふ、と笑う。
あの頃のような朗らかなものじゃないけれど、笑ってくれる。なんだかそれだけでまあいいか、と思える辺り
私は相当この子に弱いよなあ、と思ったりもする。

エイラ。もう一度名前を呼びかけられて、なんだろうと思ったらサーニャが顔を近づけてきた。額が合わさる
ほど近くに顔があって、私の心臓がばくばくと音を鳴らす体は大分楽になったとはいえまだ本調子じゃない。
少し気だるいところもある。私は慌てて引き離そうとしたけれど、両手はいつの間にやらサーニャによって
拘束されているのだった。

「サーニャ、風邪、うつる。離れロ」
「やだ」
「ヤダ、って…」
「リーリヤって呼んで」
「な、なんでダヨ」
「呼んで欲しいの。」

サーニャが体を少し引いて、私の頭のすぐ脇の枕にボフ、とうつぶせに頭を落ち着かせる。私の口のすぐ
近くに、サーニャの耳が銀色の髪に隠れて見える。
観念した私は、その耳に向かってゆっくりとその、彼女の愛称を呟いた。リーリヤ、百合の花。…うん、なんて
サーニャにぴったりの愛称だろう。

「…リーリヤ。」
「ありがとう、キツネさん」

あのときのウィッチさんはエイラだったのね。キツネのお姉ちゃん。
今度驚きに目を見開いたのは、私のほうだった。


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