続・本音と建前


 とにかく機嫌が悪いようだった。エーリカはぽいと放りなげられてやっとぱちぱちと瞬きをして意識を覚醒させた。
見なれた簡素な景色はどうやらバルクホルンの自室のようで、自分がおとされたのは彼女のベッド。ぼんやりと
しながらもおかしいなと思う。きのうはここにはきていないはずなのに。首をかしげながらきょろきょろとあたりを
うかがってやっと、エーリカはベッドのわきのテーブルについているバルクホルンを見つけたわけだ。が、とうの
彼女はえらく気分をそこねているようすでエーリカに背をむける形でほおづえをつき、足元はといえばとんとんと
せわしく貧乏ゆすりをくりかえしていた。

「……あれ、なんで?」

 確かにきのうは、シャーロットのベッドで眠りにおちたはずだ。先程無理やり起こされたような気のする一瞬だって、
なんとなく彼女の顔を見た覚えがある。トゥルーデなにしてんの。寝起きの舌足らずでたずねても、バルクホルンは
こちらを見ない。
 徐々に状況を把握しはじめて、エーリカの気分は急激に降下していった。そもそも朝からいい気分であることは稀
であるが、それどころでない話である。自分が目を覚ますまえにシャーロットの部屋にいたのを見つけられ、それが
やつは気にくわないのだ。順当すぎる推理はおそらくあたっていて、しかしそれはあまりにも妙な話ではないか。

(なんでおこってるのかわかんない)

 エーリカはベッドに横たわりなおす気にもなれず、ひざをかかえてバルクホルンの背中を眺めた。言いたいことが
あるなら言えばいい。だけれど、バルクホルンがいまきっとなにも言わないであろうことはわかりきっている、伊達に
長いつきあいをしているわけではない。すっかり未来をきめきってしまう自分に、エーリカはすこしだけしらけてしまった。
 機嫌の悪いバルクホルンは苦手だった。正確に言えば、エーリカ自身の意図しない彼女の不機嫌は、エーリカに
とってはできるだけさけたい事柄であった。普段からわざと説教が趣味の大尉殿の機嫌をそこねさせては長たらしい
高説をはいはいとききながして、それこそがエーリカにとっての自然なふたりの間でのコミュニケーションであった。
しかしいまはどうだろう。彼女のこの重苦しい空気は自分が喚起したくてしたものではない。まさに意図しない不機嫌
で、エーリカはこういったときに相手が折れてくれることを待つのはとんだ時間の無駄であるとしっている。

(……めんどくさいな)

 ひざに顔をうずめる。シャーリーはいまなにしてるのかな。ぼんやりと現実逃避をしてみても、ここから逃げだせる
わけではない。そんなことをしてみろ、今度こそこちらがごめんと謝らなくてはならなくなる。きょうばかりは、それは
絶対にいやだった。トゥルーデはずるい、わたしがこんなに気をつかってるのもしらないで、いつもいつもそんなふう
にえらそうにかまえて、わたしがご機嫌とりをしなくちゃいけないんだ。だいすきなはずの彼女の、そうやってこちらを
見ようともしないところが本気で憎らしくてしかたがなかった。

「……トゥルーデ、さっきからこわいよ」

 すねた声をつくってみる。いや実際にいまエーリカはすねているわけだが、だからといって自然に現在の気分が
声にでてしまうようなことはここ数年ありはしなかった。とにかく自分の気持ちをかくすのが得意になった。それは
得意をとおりこして彼女の感情表現の能力に不具合を起こすほどだ。いちいちすねたようすをつたえたいから
すねた声をつくらなくてはならない、予想以上につかれる作業。どれもこれもバルクホルンのせいなのだと、エーリカ
はきめつけていた。

「トゥルーデ」

 ほらね、と思う。きょうも結局こうやってこちらからあゆみよってあげなくてはいけない。なにをおこってるの、ちゃんと
おこられてあげるから言ってよ、つかれちゃうんだよ、機嫌の悪いトゥルーデの相手は。すこしくらいはこちらの機嫌
もそろそろ悪くなっていることが伝わっていればいい。そう思いながらなんども動かない背中になまえを呼びかける。
トゥルーデ、トゥルーデ。プログラムされた作業のような、そんなふうに彼女のなまえを呼ぶのは、本当はいやなのに。
 がたん、と音をたててバルクホルンがたちあがる。あまりに急だったものだからエーリカはびくりと肩をふるえさせた。

「……、あの」

 ひさしぶりに聞いたバルクホルンの声。すこしふるえている。緊張してる、とエーリカは思った。
 
「きのうから、なんか、その……怒ってるじゃないか」
「なに?」
「なにって、だから……」

 しぶしぶといった風情で、やっとのことでバルクホルンがからだのむきをかえてエーリカを見る。こまりきった目元
で唇をへの字にしながら、所在なさげに視線をおよがせている。なさけない顔。

(なんだよ、いつもはあんなにえらそうなくせに)

 そうやってすぐにかわいこぶって。いやちがう、素でやっているから性質が悪いのだ。エーリカは思わず唇をかんだ。
こんなかっこわるいトゥルーデはきらい。わたしがちょっとおこったくらいでそんなふうにあせるなんて、間抜けで間抜け
でしょうがないじゃないか。

「おこってないよ、べつに」
「うそつくな、怒ってるじゃないか。だから、あいつの部屋にいったんじゃないか」
「……」

 思わずかちんときてしまった。結局そちらに話をもっていくわけか。そうやって話をすりかえて、まだエーリカの
きのうの行動の理由には気づけていないくせにバルクホルンは自分がいちばん気にしている事柄へと話題をシフト
させたがっている。ただし本人にはまったくごまかすような気はないのだろう、実際に根からの生真面目人間である
バルクホルンにそんなことができるはずもなく、ただ単に彼女は自分の論理で話を進めているだけなのだ。そして
それが、とてもわがままで自分本位なやり方であると、それに気づけていないだけなのだ。

「……シャーリーはちゃんと手をつないでくれるって言った」
「はあ、なんだよそれ」
「わたしのことかわいいとも言ったよ」
「おい、なんの話だ」
「うるさい」
「な、うるさいだって?」
「だってうるさいじゃないか、トゥルーデには関係ないよ、わたしがどこで寝たって」

 バルクホルンは気づいていないのだ、とエーリカは真剣に腹をたてていた。なにもしないしなにも言わないくせに、
エーリカがどこかにいったら文句をたれる自分がおかしいと、バルクホルンは本気で気づいていないのだ。

「もういいよ、トゥルーデなんてしらない」
「おい、ハルトマン……」

 こんなときまでファミリーネームでよんでくれるわけだ。ベッドからとびおりてバルクホルンのわきをくぐりぬけて、
エーリカは逃げることにした。まったく自分らしくない。動揺も怒りもすっかりと制御不能だ。自身のそれはどれも
これもバルクホルンのせいで胸の奥にねむってしまったはずなのに、結局おなじひとのせいで呼びおこされる。

「おい、……フラウ!」

 唐突に、ドアノブにのばしていた二の腕をつかまれる。そのままひかれて、エーリカはからだを反転させられドア
におしつけられた。ぎくりとしていると目前に必死の形相があらわれ、それがバルクホルンであると認識するのに
数瞬かかる。

「かわいいって、あいつにそう言われてうれしかったのか」
「……だから、トゥルーデには関係ない」
「か、関係ある!」

 あまりの剣幕に、びくりと肩がゆれた。それからぱちぱちと瞬きをする。いまなんて言った、関係あると、そう言った。
それでも、どうしてそんな大事な台詞をどもるのか、しかもすこし声が裏返っていたではないかと、エーリカは意外に
冷静に内心唇をとがらせた。そうしてエーリカがだまっていると、バルクホルンははっとしたように手をはなし、やりにく
そうに視線をそらして口元を手でおおう。

「あの、……だからつまり、あいつにはもう近づくな」
「……、なんで?」
「それは、だから……」

 エーリカは、自分の胸がおどっていることを自覚していた。それをださないように、あくまで不機嫌をよそおって
バルクホルンの顔を見かえす。だけれど、ほほはすこしずつ紅潮している気がした。いやだ、気づかないで、絶対
気づかないで、トゥルーデ。バルクホルンはこどばをさがすのに必死でまったくこちらを見ていないのだからそんな
ことは杞憂以外のなにものでもないのに、エーリカはこころのなかでかくしとおせるようにと一所懸命祈っていた。
 しばらくの沈黙のあと、思いたったようにバルクホルンがエーリカの手をとる。ぎゅっとにぎられて、エーリカの心臓
は急に大きく鳴りだした。どきどきと心地のよい衝撃が胸の真ん中から全身に響き、彼女は思わずこくとつばをのみ、
動きかける想いびとの唇を凝視した。

「わ……」

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「私はおまえの保護者なんだから、あいつは認めない。あいつだけは、だめだ!」
「……それだけ?」
「それだけえ」

 エーリカはごろりとシャーロットのベッドに横たわりながら、今朝のバルクホルンの口調を真似してみせた。ふてく
されきった顔で天井を見あげ、シャーロットはベッドわきの椅子に腰かけながら、そんな彼女を見つめて瞬きをする。

(……うわあ、半端ないな、あいつ)

 まさかそこまで根性がないとは思わなかった。シャーロットは今朝の食堂のようすを思いだす。てっきりふたり
そろってあらわれると思ったのに、まずはつんとした表情のエーリカだけがやってきて、おくれてやっと、やたらと
具合の悪そうなバルクホルンが食堂にはいってきたのだ。どういうことだ、と視線でエーリカにたずねてみても、
シャーロットはすっかりと無視されていた。と思ったら晩になって急に、またきょうもベッドを半分かしてくれとたずねて
きたのだ。

「ねえ、そろそろわたしはないてもいいと思うんだけど、どうだろう」
「……ははは。この胸でよければいつでもおかししますよ」

 ひと言、おまえがすきだからとかおまえは私のだからだとか、せめてそれくらい言ってやればいいのに。シャーロット
はげんなりとしながら、きょうの起きぬけにくらったバルクホルンの殺気を思いだす。あれが保護者のそれだって、
なんという寝言を言ってくれるのか、あの堅物は。

(まあ、そう簡単にいけばハルトマンがこんなに悩む必要もないか)

 シャーロットは椅子の背もたれにほおづえをつきふんと鼻をならす。しかしだ、すっかりとここが避難所として定着
しているではないか。

「ところで、あたしには近づくなって言われてここにくるのはまずいんじゃないの」
「もういいよ、しらない、トゥルーデなんて」
「つかさ、あたしだけはって、あいつんなかであたしはどういう評価なわけ……」

 ころんと、エーリカがからだのむきをかえて不貞寝をする。シャーロットはそれを見とめてふうとため息をついた。
それから椅子をおりて床におかれた工具箱のそばにしゃがみこむ。きょうはそっとしておいてやろう、そういうこと
にして、面倒くさいなぐさめは放棄し、工具の手入れでもすることにした。
 かちゃかちゃというかたい音だけが響いていた。存外に夢中になっていたシャーロットは、ふと気づいて顔をあげて
時計を見て、エーリカがだまってしまってからかなりたっていることに気づく。ベッドのはしに腰かけながら、手にもって
いたレンチを工具箱にしまう。ひょいと首をまわして居候を観察すると、ちいさな背中がかすかに規則正しく上下して
いた。寝たか。当然のなりゆきにふっと思わず笑みがこぼれる。

「ねえ」

 それなのに、しずかだった背中のむこうから唐突に声がしておどろく。寝てなかったのか、と思わずたずねると、
ずっとね、とちいさな声がかえってきた。

「わたしは、トゥルーデに保護者になってなんて言った覚えないんだよ」
「ああ、そうなの?」
「つかさ、ひとのこといつまでこどもあつかいしてるのかな」

 ぽろぽろと、エーリカの口からやるせないとしか言い表せないことばがこぼれる。よもやエーリカの愚痴をきかされる
日がこようとは。シャーロットはある種の感慨深さを覚えつつ、かすかに妙な熱を胸の奥に感じた。エーリカは先程
バルクホルンのことなどもうどうでもいいといった旨の発言をしたはずだ、それでも結局、いままで黙っていたあいだ
ずっと、彼女のことばかりを考えていたのだ。

(ふうん……)

 かわいいものではないか、恋に悩む少女はむしろそうでなくてはならない。にやけ顔をつくろうとした、だけれど
うまくいかなくてこまった。そろそろこれ以上深入りするのは危険かもしれないな。シャーロットは、自分が惚れっぽい
という最強に性質の悪いくせをもっていることを自覚していた。

「でさあ、わたしはもうこどもじゃないとわからせればいいと思うんだけど」
「そりゃ難題だ」
「シャーリーうるさい」

 ぴしゃりと言い放ち、エーリカがばっと身を起こす。会議だ。それからひとりでなにやら息巻いてこぶしをにぎり
はじめた。

「わたしはどうやったらセクシーになれるのだろうか」
「そりゃますます難題だ」

 唐突に、先程までの鬱屈した空気をとりはらい、エーリカはいつものような突飛な発言をする。おいおい、と
シャーロットは思った。もうたちなおったというわけか。そもそもこれこそがエーリカの本来の姿であり、先のなさけない
ようすはただのめずらしい風景に過ぎなかった。それだというのに、その姿を自分のまえからけされてしまったこと
にシャーロットはショックをうけ、そんな自分にさらにショックをうけていた。先程からだまって考えをめぐらせていた
のはどうやら充電期間だったらしい。しまったと思う、それならばほうっておかないでちょっかいをかけて、もっと
エーリカが沈みこむようなことを言っておけばよかった。そこまで思いついて、シャーロットは真剣に驚愕した。洒落
にならない事態になっている。

「先生、どうやったらセクシーになれるんですか」
「……、そりゃあおまえ」

 動揺しては負けだ、シャーロットは自分に言いきかせ、すっと両手をのばしてエーリカにふれる。どの部分にか
といえば、もちろんささやかすぎる胸部にである。

「これで、せくしーは無理だろ……」

 ぽんぽんとなんどもふれて、あまりに平坦なそれを再確認してシャーロットはかすかな落胆を感じつつも、そんな
場合ではないと思いたつ。きのうのきょうだ、昨夜あれだけ気のあるようなことを言っておおいかぶさっていたのだ、
ここまですればいくらエーリカでもここにはもうこようとはすまい。シャーロットはなんとかこれ以上の自身の病気の
進行をくいとめたかった。さて、これでエーリカはシャーロットを敬遠するようになるだろうか。

「いいじゃん、これはこれで需要あるよ、きっと」
「……さいですか」

 まったく気にするようすのないエーリカに、シャーロットはうなだれた。どうやらこの小娘は、彼女が自分をそのように
見るなどと思ってもいないらしい。ある意味で、まったく相手にされていないということだ。ああ、バルクホルンをまえ
にしたときのエーリカはこんな気分なのか、それならば前々からの話はもっと真面目に同情しながらきいてやるべき
だった、と、シャーロットは真剣に後悔する。

「……髪」
「え?」
「髪、のばせば?」

 すっと、後頭部に手をのばして指でとく。さらさらとした、きのうとなんらかわらない手触り。あたし、ハルトマンの髪質
すきだよ、のばしたら、きっときれいだよ。目を見て、意図した低めの声でささやく。なんということか、無意識に本気で
口説きにかかっている自分に衝撃を受けるほかない。

「えー、髪? のばすの?」
「うん」
「めんどくさいな……」
「おいおい、セクシーになりたいんだろ? 似合うよきっと」

 はた、とエーリカはだまりこむ。それから自分のみじかい髪の先をつまんでじっとながめ瞬きをして、やっとふうんと
まんざらでもなさそうなつぶやきをこぼす。そのときほほがかすかに赤らんでいたのは、将来バルクホルンをして
やったときのことを夢想していただけにちがいないのに、シャーロットは自分のことばでうかれていると思いたくて
しかたがない。

「シャーリーが言うなら、のばしてみようかなあ」

 さらには、他意のないあまりに見事な殺し文句をかましてくれる。へらりとした笑顔をたもちながらも、シャーロット
は冷や汗をかく。小悪魔は伊達じゃない、ここまで深く実感することがあるなんてと、彼女は思わずこころのなかで
十字をきった。

(やっかいなやつ)

 エーリカはもうすっかり上機嫌で、それでも結局今夜はシャーロットの部屋にとまるときかなかった。確かに、どうせ
自室はちらかりっぱなしなのだろうしバルクホルンともけんかの最中なのだからしかたないかもしれない、いやしかた
ないのだ。シャーロットは自分に言いきかせる。
 あかりをけしてベッドにはいりしばらくして、彼女は先程は根性なしと評してしまったバルクホルンはひょっとしたら
とてもすごいやつなのではなかろうかと思い至る。だって、こんなかわいらしいのがそばにいて一切手をださないで
いたというのだから。

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 バルクホルンにとって、エーリカが半歩うしろにいることは当然のことだった。頼んでもいなければ約束をかわした
わけでもなく、それなのに彼女はいつも自分についてまわり、気づかぬうちにそれがゆるぎないものになっていた
のだとバルクホルンは思っていた。にこにこと腹のうちの読めない笑顔をうかべてのん気な鼻歌を奏で、それは空
のうえで安心して背中をまかせられる堅い信頼とは似ているがまったくちがう感覚であり、じわりと胸の奥底があつく
なるくすぐったい事実だった。いや事実のはずだった。

「あ」

 普段のとおりにエーリカはバルクホルンのそばであくびをしていて、バルクホルンはそれをだらしがないと咎めて
いたところだったが、ふと声をあげて少女はかけだしていってしまった。彼女は確かもう十六になったはずなのに、
さり際にふとこぼれた残り香はむかしから変わらぬ幼い女の子のそれにちがいがなく、ぎくりとしてしまったバルク
ホルンはどこへいくんだと呼びとめることもできずに間抜けな顔で背中を見送った。基地内の廊下のすみで呆然と、
停止していく思考にあせってしまう。

「最近なかがいいのね、あのふたり」

 唐突な背後からの呼びかけに、びくりと肩がゆれてしまった。あせってふりむくと、その大げさとも思えるほどの
動揺にバルクホルン本人よりも現れた人物のほうがぎょっとしていた。

「あ……ごめんなさい、気づいていないなんて思わなくて」
「……ミーナ」

 しまった、という表情をかくす余力さえなかった。すぐそこで瞬きをしているミーナを、驚きで見開かれた両目で
凝視する。ひょっとしたら冷や汗までたれていたかもしれない。死角からとはいえ、いつもならばこれほどそばまで
寄られて気配を悟れぬはずもないのに、恐らくミーナのほうもそれを加味したうえでの行動だったのに。決まりが
悪くて、バルクホルンはごほと咳払いをして視線をはずす。

「……だれのなかがいいって?」
「シャーリーさんとフラウよ」

 ためらいがちな発言の返事とは思えないほどに間をおかずにきっぱりと、ことばをにごす気もなくミーナが告げる。
それからすいと視線を送って、それはエーリカがかけていった方向。バルクホルンはぎくりとして、彼女の示すところ
を見たくないと思った。エーリカが急にそばからきえてしまった、どこにいったのかと思えば、ふと見つけた自分でない
だれかのところへいってしまった。すっきりとのびた廊下のずっとあちらにあるつきあたりで、ミーナが指摘したとおり
のなかのよさそうなふたりがなにかしらことばをかわしている。きこえはしないしききたくもなく、バルクホルンはぎっと
こぶしをにぎった。爪はみじかく切りそろえられているからてのひらにくいこむことはないけれど、いまはいっそ血が
でてしまえばいいと思われる。

(そのうちに、どこかのだれかにとられちゃうかもよ)

 すこしまえになげかけられた、宣戦布告ともとれることばが頭のなかで再生される。くだらない、性根のまがった
リベリアンのただの悪ふざけのはずの近い未来の予想は、徐々に正夢のように真実になりかけていた。バルクホルン
は、エーリカが自分の近づけないところにいくことがあるなんて想像だにしておらず、自分のそばからはなれること
などあるはずがないと高をくくってはばからなかった。その確信の理由は、他言できないほどに反吐がでるような、
自分本位でかっこうのつかないものだ。バルクホルンは、エーリカが自分に好意をよせていることをしっていた。

「ふたりとも、まえから気はあうみたいだったし……いいことじゃないかしら。あの子むかしから、自覚があるかは
わからないけれど意外と線をひいてひととつきあうところがあったから」
「……」

 つまりは、ミーナの見解からいくと、エーリカはそのひいた線より内側にシャーロットを招きいれているということか。
バルクホルンはどくどくと不恰好になりはじめた心臓に顔をしかめた。これ以上余計なことを言われてしまうと身が
もちそうにない。だけれど、ミーナはしっているのかいないのか、だまろうとしない。

「それにしてもいつのまにか、あれほどなかよくなるなんてね。相手がシャーリーさんっていうのは、意外なのか
妥当なのかはわからないけれど」
「意外に決まってる、ただの気まぐれだろう」

 あれほど、というのはどれほどなかがよくなっていると言うのか。バルクホルンはついかっとして荒げた声をあげて
しまった。それからはっとしてみても遅すぎる。反射的に顔をあげれば、ミーナが先程のようにぱちぱちと瞬きをして、
それからすぐに苦笑をこぼした。しかしもうなにも言わないで、彼女は控えめな笑みをうかべたままで視線を滑らせる。
つられて見れば、そこで例のふたりはまだ話していた。

(そんなんじゃ、いつか愛想つかされちゃうと思うな)

 まただ、またシャーロットのふざけた台詞がフラッシュバックする。それというのも、ふたりをながめるミーナの横顔
がまるでおなじことを言っているようだったからだ。ミーナは、相手がわかっているとしっているようなことをわざわざ
指摘するようなことはしない。ただ苦笑して、もうそこには触れようとしない。殊に相手がバルクホルンであればます
ますその性質を色濃くした。それはシャーロットのようにいちいち図星をついて揚げ足をとりひとをいらつかせるよう
なことをこのまないからであり、しかしバルクホルンにしてみればいっそのことあなたはここがだめなのよときっぱり
と言ってくれたほうが苦しくなかった。ミーナの苦笑はまるですべてをわかっているような包容力にあふれていて、
ならばそう言ってくれとわがままなことを考えてしまう。すっきりとしないのだ、同郷のつきあいのながい友人である
彼女は、そうやって計りしれない。

「……ほら、ルッキーニさんがやきもちやいちゃうくらいだもの」

 しばらくだまったあとに、ミーナがつぶやく。バルクホルンはいつのまにかそらしていた顔をなんとかもう一度
エーリカとシャーロットのほうへとうつし、その輪のなかにもうひとりの少女がくわわっていることを認める。ちいさな
エーリカよりももっとちいさなルッキーニが、ほほをふくらませてシャーロットの腕にからまっていた。それからもう
ひとつの腕にはエーリカが密着していて、だいすきなひとをとられそうな少女をからかっているのかにやけ顔で
なにか言っている。間にいる頭のひとつとびでた人物は、突然の争奪戦にきょろきょろと首を動かしていた。

(へらへらした面をしやがって)

 シャーロットをにらみつけ、バルクホルンはつよく唇をかんだ。それは思わず口汚い悪態をこころのなかで
つぶやいてしまうほどにいらだっている証拠であり、しかもそれはとんだ言いがかりだ。実際のシャーロットは、
うんざりとした顔でふたりの少女に反対方向にひっぱられていた。だけれどバルクホルンにとって事実がどうで
あるかはまったくどうでもいいことであった。実に彼女らしくない態度である。自覚のないその異変は、バルクホルン
を徐々に疲弊させていた。トゥルーデ。唐突に、隣人が名を呼ぶ。

「あなたもせめて、やきもちくらいやいてあげたら?」

 ぎょっとした。ミーナはあいかわらずこまった顔で笑っていて、しかし言うことは普段の彼女のものとは思えぬほど
積極的なアドバイスだった。バルクホルンはショックを受ける。それほどまでに、私はどうしようもないような顔をして
いるのだろうか。血の気がひいていく感覚、耳の奥で、さあと音がなっている。

「……そうできたらいいな」

 やっとのことで返答をすれば、驚くほどすなおな声がでてしまった。しかしミーナは当然のことのように受けいれて、
ふとやわらかく笑い一度バルクホルンのかたくにぎられたこぶしにふれてから歩きだす。こつこつと几帳面な足音が、
背後からどんどんと離れていく。

(本当にそれだけの用事だったのか)

 やきもちなんて、とバルクホルンは思う。実際はいやになるほどにやいているのだ。それどころか、そんなかわい
らしいことばで片づけられるほどの感情のゆれではない。ただそれを、エーリカに見せる気にはなれないだけなのだ。
 かのふたりが接近しはじめた時期を、いつのまにかとミーナは言っていたが、実はバルクホルンは正確に把握
していた。あの日だった。エーリカが、シャーロットの部屋へいった日からだ。彼女はあのときとても怒っていて、バルク
ホルンはそれを理解していなかった。それなのにシャーロットこそがまるで訳知り顔でにやけていて、どういうことだと
こちらだって腹立たしかった。本当はちゃんと謝ろうと思っていた。ちゃんと理由をきいてこちらが悪いと自覚してから、
謝ろうと思っていたのだ。

「……、…」

 むこう側では、三人が喧騒をたてている。声は届かずとも、いつのまにか笑いあって、言いあいを楽しんでいるのが
見てとれた。バルクホルンは急激にむなしさを感じていく。あのあと結局余計に怒らせて、それからまだ謝っていない
のだ。それというのも、その日の夜もまたエーリカはシャーロットの部屋に泊まったようで、あれからまたバルクホルン
のまえに現れた彼女はいつもどおりのエーリカだった。もう怒っていないかのようにバルクホルンに近づいてにこにこ
として、それにこころからほっとしたことをよく覚えている。なんてずるい思考なのか、バルクホルンは、謝らずにすんだ
ことに安心していた、エーリカが、また自分のところへきてくれたことに甘えきっていた。いいかハルトマン、怒られる
うちが華なんだ、怒ってももらえなくなるってことは、すっかりあきらめられたということなんだぞ。普段からいくら言い
きかせてもだらしのない素振りをやめようとしないエーリカに、バルクホルンはいちいちそんな説教をたれていたが、
まさかそれが自分にかえってくるなんて思いもしない。

(そんなんじゃ、いつか愛想つかされちゃうと思うな)

 そのいつかは思いのほか早くきた。バルクホルンは、自分がどうしてエーリカのまえではこんなふうに謝れもしないし
甘えた思考回路でもって行動してしまうのかを、最近になってやっと理解することができるようになってきていたのに。
遅すぎる自覚だった、いや本当はわかっていて、ただそれを認めたくなかっただけだ。かわいいとも言ってやれないし
手だってつないでやれない。その原因は、バルクホルンがエーリカのことをあいしているからであった。

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「おい」
「んー、なに」

 一方。エーリカはシャーロットの腕にからみつきながら、ルッキーニの額をひとさし指でおしている。ルッキーニの
ほうも負けじとシャーロットにつかみかかり、エーリカの攻撃を必死になって防ごうとしていた。

「いやね、おたくのろくでなしがしにそうな顔でこっち見てんだけど」
「あ。トゥルーデまだそこにいたの」
「……おーおー。言うじゃないの」

 シャーロットはいい加減はさまれ飽きていたので、両脇から密着しているふたりの頭を同時につかんでぐいと押す。
うにゃ、とルッキーニがかわいらしい悲鳴をあげたので、シャーリーはその子だけをひょいと抱きあげる。

「ほら、もどってあげなよ。そのうちほんとにしぬんじゃないか、あいつ」
「えー、だれがしんじゃうの?」
「おこさまには関係ない話だぞー」

 話についていけないルッキーニがきょとんとした顔で当然の疑問を口にすると、エーリカがけけけと笑ってからかう。
するとせっかくシャーロットに抱えられて機嫌がなおっていたこどもはまたほほをふくらませて、足をばたばたとさせて
暴れだしてしまう。

「だーもう。あんまりルッキーニで遊ぶなよ」
「で、じゃないよ。と、だよ」
「いやルッキーニ半泣きなんだけど……」

 エーリカはそろそろ対策をかえたらしかった。おしてだめならひいてみればいいらしいよ、とまえに耳打ちされた。
その作戦にのっとり、エーリカはいちいちシャーロットの元へとやってきては、バルクホルンに見せつけるように必要
以上になかよくしようとした。

(だしにつかわれてんなあ)

 シャーロットはわかっていながら、それを邪険にあつかうことができなかった。エーリカは稀に、本当にシャーロット
にこころを開いているかのような素振りを見せた。バルクホルンのいないようなところでわざわざ近寄ってきたり、
本気で眠そうに肩によりかかってきたりと、さも計算されつくしたかのようなしくざで彼女のなかにしのびこんでくる
のだ。それなのにおそろしいほどに無邪気しか感じず、シャーロットはそのたびに自分の心臓がしめつけられること
にこまりはてていた。

(……いやいや。そんなことよりもあれだ、そんなにうまくいくのかなってことだ)

 かすかに幸せな懊悩にふけりそうになったのをなんとかとりはらり、ふと顔をあげてみればバルクホルンはもう
いなくなっていた。エーリカも気づいたのか、ルッキーニをからかうのをやめないにしてもすこしだけ表情を暗くする。
ほらね、と思う。あの直情型のバルクホルンにそんなまわりくどい真似が有効にきくものか。ひょっとしたら、あの
わからずやがこのまま身を引いてしまうということもありえなくはないのだ。エーリカは、それをわかっているのだろうか。

「うわあん! シャーリー!」
「こら、他人にたすけを求めるなんて卑怯だぞ」

 シャーロットがゆっくりとした思考にふけっているうちにすっかり遊ばれたおしたルッキーニが、シャーロットの首に
まとわりついて泣き声をあげる。シャーロットはおーよしよしとルッキーニの頭をなでてから、ふと思いたったように
エーリカの髪も乱暴にかきまわす。

「うわ、なにすんの」
「おまえ、まだ髪のばしてんの?」
「え、うん。でもわたし髪のびるの遅いんだよなあ」
「ふうん……。ま、飽きたらあたしが切ったげるよ」
「飽きないからいらないー」

 ぷい、とエーリカは唇をとがらせて顔をそらして、それからぱっとかけだしてしまう。ほら、そんなに急いできえた
背中をおいかけてしまうなら、最初から離れてはいけないんだよ、と、シャーロットは声にしないであわてる後ろ姿に
言いきかせた。こころから心配していた、それなのにそれをことばで伝えないのはすこしずるいと思いながらも、
シャーロットはただ念を送るばかりだった。

(べつに伝わらなくてもいいんだけどね)

 きれいな髪がちゃんとのびるまで、バルクホルンはこの少女を見つづけることができるのだろうか。シャーロットなど
よりもよほど彼女とのつきあいの長いエーリカが、その危険性を考えられないのはふしぎな話だ。いや、つきあいが
長いからこそ、見えなくなるものもあるのかもしれない。シャーロットはすんすんと鼻をならしているルッキーニを抱え
なおし、かけていった少女とおなじようにくるりとからだのむきをかえて歩きだす。

「……まいったもんだよなあ」
「そうだよ、ハルトマン中尉ひどいよ、いじめっこだよ」
「ん…、ああ。うん、それもそうなんだけど」
「え?」
「いや、なんでもないよ。ハルトマンのあれはさ、多分愛情表現なんだよ」
「ええ、どこがあ?」

 ぽんぽんと不満顔のルッキーニの背中をなでて、それで自分の気をおちつかせようと努力した。そろそろシャーロット
は、自分があのふたりにどうなってほしいのかわからなくなってきており、あわよくばなどという卑怯な思考がどこかに
存在することを否定できない領域まで達しはじめていることを自覚しないではいられないのだった。


 ミーティングルームにて、バルクホルンは朝刊をななめ読みしていた。とはいえ時刻はとっくに夕餉もすんだころで、
今朝のうちになんとなく読みはぐれていたものにいまさら目をとおしているにすぎなかった。ひとりでソファに身を沈め、
目前に独特の手ざわりの紙をおおきくひろげていた。ふと、気配がする。ふたりほどの人間がバルクホルンがただ
ひとりしかいなかった部屋にはいってきた。ぱたぱたと気のぬけた足音、エイラとサーニャだ。彼女たちは先客の存在
には早々に気づいていたが、特に気にもせずにバルクホルンとむかいあう形になるところのソファに腰かける。が、
先客は気にした。新聞のわきから見えたふたりのようす、どちらかが手にもっているのは楽譜に思われた。それから
ちらりと黒いグランドピアノをながし見る。

(お邪魔か)

 たまには気のきくバルクホルンは、ばさりと新聞をとじてたちあがることにした。

「シャーリー」

 が、唐突に頭上から響いた声に反射的にソファに腰をおちつけなおす。それからまるでページをめくるつもりだった
ような風情で新聞をひろげなおした。ミーティングルームからのびる立派な階段、そこにつづく上方の通路にもまた、
ふたつの人間の気配があらわれていた。

「あ、シャーリーとハルトマン中尉だ」

 エイラの何気ないひと言に耳をふさぎたくなった。余計なことを言わなくていい。バルクホルンはすわっている位置の
関係で、首を思いきりひねらないと声のしたほうこうを見ることができなかった、しかしそんなことをしなくてもいったい
だれとだれがそこにいるのかなんて簡単に予測がついていたのだ。そう、彼女がエーリカの声をききまちがえること
などありはしないし、言ったこともききのがすことなどないのである。むかしには意識したこともなかったが、自分は
どうやらやつからの情報はとりもらさぬようにと必死なのだ、とバルクホルンはいまになって自覚していた。ところが、
それでも真意を汲みとれないことのほうが多いわけだがその点についてはまったく気づいていない。

「最近なかいいよな、あのふたり」

 エイラがぼそぼそとサーニャに話しかける。新聞紙のむこうでサーニャは無反応にきこえるけれど、大方こくこくと
頷いているのだろう。なあ、とエイラが機嫌のよさそうな返事をした。でも、あんまりちかづきたくない組み合わせだよな、
どっちもいい性格してるんだもん。エイラはさらにつづけたが、彼女自身もどちらかといえばそのいい性格に分類される
人柄であることに意外と気づいていない。それからもふたりはなにかしら会話をしていたが、バルクホルンはそれどころ
でなく一所懸命頭上の気配をさぐっていた。目のまえのアルファベットの羅列はもはや思考の妨害にしかならなかった、
しかしそれをとりはらえばむこうの二方に顔を見られてしまう。おそらくいま自分は、おそろしく必死な表情をしているのだ。

(だれから見ても、なかがいいのか)

 しかしふとエイラの台詞を思いだして、どきどきとふたりの声を盗みぎこうと試みていたのが急激にむなしくなっていく。
なんとかっこうのつかないくだらないことをしているのか。バルクホルンが自覚すると同時に、エーリカとシャーロットが
さっていく音がした。なかむつまじいエイラとサーニャのそれのように、気のぬけた足音が遠くへいく。ばかだ、私は。
バルクホルンは勝手に結論づけて今度こそたちあがろうとする。だけれどもまたエイラが、余計なことを言ってくれる
のだ。

「なんか、ハルトマン中尉って雰囲気かわったよな」

 ぎくりとするほかない。どうしてまだその名をだす必要があるというのか。またタイミングを逸したバルクホルンは、
おとなしく英文に目をすべらせる。しかしそれは字のとおりにすべらせるだけで、もう内容など頭にははいってこない。

「……髪が、すこしながくなったと思う」
「あ、やっぱ? わたしもちょっと思ってた」

 サーニャがきっぱりと言い、エイラも同意する。そしてバルクホルンはといえば、目を見開いていた。髪、髪だって。

「ずぼらはかわらないのに、それだけでずいぶんと女の子っぽくなるよな。上官のしかも年上にいう台詞じゃないけど、
かわいい顔立ちしてんのが際立つっていうか。なあ大尉」

 かさねてぎくりとしてしまう、しかも今度は動揺で肩がおおきくゆれてしまった。新聞がおおきくてよかった、おそらく
見えていないはずだ、そうでないと非常にはずかしい。

(なぜ私にふるんだ)

 バルクホルンはごほんと咳払いをして精神の乱れをごまかす。が、その拍子に新聞がまぬけにべろりとむこう側に
たおれてしまってあわててたてなおしていては意味がない。決まりが悪く、わざわざもう一度咳払いをしておいた。

「……ハルトマンはハルトマンだろう」
「髪のばしてんのかな」
「ふん、散髪を面倒くさがっているだけだろう、あいつのずぼらは底なしだからな」
「ふうん」

 なんとかそれだけの会話を形にすると、特に興味もなかったらしいエイラは最終的に適当な頷きをこぼしてから
またサーニャにむかいあう。それからまたふたりの会話が軌道にのっていまの話題がすっかりと流れてしまうまで、
バルクホルンは息をひそめていた。

(……全然気づかなかった)

 そして深く追求されなかったことにこころからほっとしつつも、バルクホルンは驚愕していた。確かに最近妙だと思って
いた、それがなにかはわからなかったが、ふたりが見事に答えをくれた。髪がのびて雰囲気がかわった、まったくその
とおりではないか。バルクホルンは近頃の自身の不整脈の原因に思いあたった。となりにたつエーリカをふと見おろした
ときの、いままではさっぱりと見えていた目元が髪にさえぎられてかくれて妙な空気を演出していたことや、突然うしろ
からとびつかれて首筋にからみついた柔らかな髪がいままで以上に心地よかったことや、そして、それから、……。

「……!」
「うわっ」

 ばさっ、とおおきな音をたて新聞をとじ、バルクホルンはあわてて腰をあげてあるきだす。唐突すぎたものだから
エイラもサーニャもぎょっとして、しかしバルクホルンにそんなことに気をまわしていられる余裕などない。危険だ、
危険すぎる。うわ言のようにつぶやいているのをききとめつつも、エイラとサーニャは突然の上官の乱心に驚きを
かくせないままふしぎとおぼつかない足取りの背中を見送る。

「……なんだあれ。へんなの、大尉のやつ」

 エイラは瞬きをしながら思わずつぶやき首をひねる。サーニャはといえば、そんな隣人のようすをちらりと見て自分
よりずいぶんとながい髪を観察して、それから先の彼女の台詞を思いだし自分の毛先を指でつまんでじっと見ていた。
が、とうのエイラはいまだぼけっとバルクホルンのさっていった方向を見ていたので、彼女のその意味深なしぐさにも
意図にも、まったく気づけないでいたのだった。

----------

 エーリカは自室にしゃがみこみ、散らかりきった床をにらみつけていた。最後に片づけをしたのはいつだったか。
思いだそうとしていやな気分になる。最近、バルクホルンはエーリカの部屋のそうじの手伝いをしようとしなかった。

「トゥルーデの役立たず」

 ぶう、とほほをふくらませて本音をつぶやいていると、こんこんと背後のドアにノックの音。ふりかえりもせずにあいて
ますよとだけ言うと、ドアは遠慮もなく勢いをつけてあけはなたれる。それにはさすがにぎょっとして、エーリカは首だけ
をひねって訪問者を見た。

「あいかわらず散らかり放題だな」
「トゥルーデが片づけてくれないから」
「なんでそうなるんだ」

 現れたバルクホルンはふんとえらそうに鼻をならして部屋を見わたす。なにしにきたんだろう。朝に起こしにくる以外
で彼女がエーリカの部屋へとやってくるのは、実はかなり久しいことだった。もしかして、とエーリカは思う。

「トゥルーデ、なにそれ」
「え、あ」

 彼女は、新聞を片手でにぎりつぶしていた。ああしまった、そんな顔をして、バルクホルンはしわになったそれを
のばす。まるで思わずもってきてしまったような風体で、確かこれは先程ミーティングルームで読みふけっていたもの
ではないか。わざとおおきめの声でシャーロットとじゃれて、密かにいっしょにうえのほうからバルクホルンを観察して
いたけれどついぞやつはこちらをふりむくことはなかった。むかつく、と言うとシャーロットにほどほどになと頭をぽんと
なでられ、それはつまりこちらでなかよくしすぎるとバルクホルンが本気で誤解をしてどこかへさっていってしまうぞと
いうことらしかった。言われなくてもエーリカはわかっていた、あれからだ、バルクホルンが部屋の片づけをしてくれなく
なったのは。シャーロットと、なかよしごっこをはじめたころからだった。

(でもほらね、やっとひっかかった)

 エーリカは内心うかれながら、新聞を丁寧にたたんでいるひとを見あげる。すると目があって、バルクホルンは一瞬
だけ眉をひそめて視線をそらす。それからふうと息をはき、腕をくんでその二の腕のうえでおちつきなくとんとんと指を
ならした。そしてしばらくだまってから、やっと重たい口を開く。

「最近、髪がのびたじゃないか」
「……」

 ぎょっとした、思わずたちあがってしまった。最近あまりバルクホルンにかまわなかったのにしびれをきらしてやって
きたと思ったのに、事態はそれ以上の好展開だった。なんてことだろう、この鈍さに定評のあるバルクホルンが、こんなに
早くに気づいてくれるなんて。エーリカは目をぱちぱちとさせて一度だけバルクホルンを見、それからどんな顔をしていい
のかわからなくて視線をふらふら動かしてから結局足元におとすことにおちついた。しまった、思ったよりもはずかしい。
エーリカはいまさら自分がとてもかわいらしい目標をたてていたのだと思い至る。でもそれはバルクホルンも同じだ、
そのはずだ。だって彼女だって、さっきからとても挙動不審じゃないか。
 エーリカははずかしげに唇をとがらせて、バルクホルンのことばをまった。おかしいな、トゥルーデばっかりがわたし
の見ちがえた姿に動揺するはずだったのに、どうしてわたしまでこんなにどきどきしているんだろう。すこしずつ顔が
あつくなっていくことに、エーリカ自身こそが動揺していた。バルクホルンはまだなにも言わない。思わずまちきれなくて、
ちらりと上目遣いで目前のかたくむすばれた唇を見た。が、つぎにそこからとびたしてきたのはあまりにも予想外の
台詞だった。

「こら、なにをもじもじしているんだ、気味が悪いな。そんなことをしても髪を切るのを面倒くさがっているのはごまかせ
ないぞ、まったくおまえはすぐにそうやってなんでもなまけて。いいか、カールスラント軍人たるもの身だしなみにだって
ちゃんと気を」

 つかわないと。バルクホルンはすっかりと説教モードにはいりくどくどとしゃべりたおしていたが、最後のほうは言い
きれなかった。なぜかといえば、エーリカの本気の蹴りが彼女のひだりの脛に直撃したからである。

 声もでないほどの激痛に思わずしゃがみこむ。がつ、と、いま洒落にならない音がたたなかったか。バルクホルンは
唇をぱくぱくと動かして、それからやっと先程とは真逆のたち位置になったエーリカを見あげ、なにをするんだと思いきり
どなりつけようと思った。だけれどそれよりも、あまりにつめたい視線に見おろされていると気づきぎょっとする。

「な」
「ああそうですかわかりました。もういいです、じゃあシャーリーに切ってもらうんで」

 バルクホルンは目を白黒させる。なぜ暴力をふるわれたこちらがにらみつけられているのだ。しかも、でてきたなまえ
のなんと不穏なことか。ふん、と鼻をならしてエーリカはいまだしゃがみこんでうめいている人物のとなりをすりぬけていく。

「おい、ハルトマン」
「つーん」
「つ、つーんって、おい、ちょっとま」

 ばたん。バルクホルンのすがる台詞をさえぎるように、わざとらしいほどにおおきな音をたて自室のドアをしめる。
それから宣言どおりに、エーリカはシャーロットの部屋へとむかった。

(ばかじゃないの)

 そうだ、大ばかにきまっている。だってほら、追いかけてもこないのだ。エーリカは眉をよせて、まぬけな期待をして
いた自分を叱責する。あのバルクホルンからほしいことばがもらえたことなんて、いままでありはしなかったじゃないか。
だからこんなことはなんということのないいつものことなのに、だって、あんなふうにタイミングよく思わせぶりな顔をする
のが悪いのだ。期待は禁物だとなんども言いきかせてきたのに、繰り返しくりかえしおしいところまで舞いあがらせる
から、だからこんなに。
 泣きそうだと思う、だけれど絶対に泣いてなどやらない。エーリカはかたくこころにきめて、だからぐずと鼻がなって
しまったのは、決してだれにもきかれてはいけないものなのだった。


「しゃーあーりー」

 間延びした声。のんきを装った空気で、エーリカはひょっとしたらもうかよいなれていると表現しても差し支えない
一室のドアをノックした。返事はない。いつもどおり。部屋の主はいつも、急にそっとドアをあけ、どうぞ、などと手を
すべらせ気障たらしいしぐさでなかへと招く。その割に、いちいちここにくるなんてほんと暇だね、と嫌味ともとれない
真意の見えぬ複雑なつぶやきをもらすのだ。来てほしくないならそう言えばいい、まあ、言われたとしてもエーリカは
訪問を自粛することはないと見えているが。
 きょうはいつもよりもドアがひらかれるのが遅いな。そう思っていると唐突に、背後からふと影がさす。

「なーあーにー」

 それから間もなく耳元で、エーリカを真似した間延びした返事。その反対の耳のうしろからは手がのびて、先程
ノックした木の扉にとんとつかれた。つまりは、シャーロットがたちすくむエーリカにうしろから、覆いかぶさる形に
なっていた。

「……気配けして近づくなんて趣味悪いよ」
「気づけないおまえも悪い」

 シャーロットは離れもしないでくっくと笑い、すぐそばにあるおもしろくないと語っている表情を楽しげに観察する。
それからおやと、かすかに大げさに瞬きをした。しまった。それに気づいたエーリカはいやな予感を覚えつつも、
どうしようもない。

「泣いた?」
「だれが、わたしが? まさか」

 至近距離から、図星をつかれる。だけれどとぼけるのはお手のものだ。エーリカは純粋に驚いた顔をしてみせて、
それからドアノブに手をのばす。くいとひくと、自然とひじがシャーロットのわき腹にあたり彼女は妙に名残惜しげに
はなれていった。おい、ハルトマン。勝手に入室すると、一歩おくれたところから声がする。先程のバルクホルンの
それとまるで同じの呼びかけに、エーリカはとりつくろうのもわすれて顔をしかめた。シャーロットのいる場所が背後
でよかった。その動揺をさとられぬように黙った結果無視するような形になると、後ろにいる彼女はその場にたち
どまる。

「……。なんかよう?」
「うん」

 もっとほかのことが言いたげな問いかけに、エーリカはちいさく頷いてからいつものとおりにベッドへと直行し
ばたんと柔らかいそれにからだをおとした。シャーロットはそのようすを、しめたドアのそばにたったままでながめて
いた。しばらく室内に沈黙がおちて、するとにわかに、気まずいと思ったのかはしれないがエーリカがみじかくふう
と息をつきそれをくずす。

「シャーリーのベッドはトゥルーデのともわたしのともちがうにおいがするね」
「そりゃあね。つかってる人間がちがうもの」
「うん……」

 シャーロットの眉が、怪訝な気持ちを示すように寄る。いましがた廊下でつい余計な質問をしてしまったときは
ようすの異変を隠そうと必死に見えたのに、急にことばのはしに意味深な弱気を感じるのだ。どうした、シャーロット
は思わずたずねそうになったが、そのまえにベッドのうえの少女はうつぶせていたからだを反転させて、天井に顔
をむけにらむように見つめた。

「わたしは髪がのびたかな」
「……ああ、のびたよ」
「にあってる?」
「もちろん。びっくりするくらい」

 エーリカがぽつぽつと弱音のような質問をくりかえし、シャーロットはそれに答えることに緊張していた。そんな
自分がひどく滑稽だと思うのに、彼女はまちがえないように必死だった。エーリカがもとめている回答をしてやる
のに真剣になっていた。ことばをえらぶ余裕すらなくて、まいったとしか言いようがない。いつからこうなった。
シャーロットはもうすっかりとむかしのことになってしまったこの気持ちの起源を思いだそうとしてやめる。彼女が
こんな姿になるのはかわいそうでしかたがなくて、なのにそれを自分のまえにさらしてくれることがうれしかった
だなんて、浮かれたとんだばかやろうにちがいないのだ。シャーロットはこころのなかで自責し、もっとも大切な
ことを脳内でなんども反芻する。自分が見せられてよろこんでいるこの子がこうやって沈みこむようす。これの
原因は、いつだってたったひとつしかない、と、いうこと。

「でも残念だね、もう飽きちゃった」

 簡単に、事態の全貌は予測できていく。ほらね、とシャーロットはだれにも見つからないように肩をすくめ、やっとの
ことでドアのとなりからはなれてベッドに近づく。それにあわせるようにエーリカが身をおこし、ベッドのうえであぐらを
かいて前髪をつまんでははなすことを繰り返した。この髪のことで、今度はバルクホルンになんて言われた、あの
最低に鈍くてしかたのないやつに、なんて。

「そしたらシャーリーが切ってくれるって言ってたから、そうしてもらおうと思って」
「いやに急だな、飽きないって言ってたじゃないか」
「そのときはそう思ってたけど、こんなのつまんないことだったよ」

 結局意味なかった、トゥルーデはわたしがこんなことしてもまるでどうでもいいみたいだから。エーリカはなんでも
ないことのように言い放ち、そのくせ、自分の台詞に傷ついたかのように前髪にふれる手をとめた。痛々しいとしか
言いようのないそのしぐさを見ていたシャーロットは、でてきたなまえを案の定ととらえる反面で、急速に思考の芯が
熱くなっていっていることを自覚しきれずにいる。

「ふうん。でももったいないと思うけどね。ちょっとはのびたんだ、もうすこしのばせば?」
「いいよ、だってトゥルーデは」

 エーリカは言いかけたが、唐突に細い手首をくっとにぎられ発言をさえぎられる。ぎくりとして伏し目がちだったの
をぱっとあげると、シャーロットがすぐそこにいてぎくりとする。しかもその目は見たこともないほどきつく細められ、
こちらをにらみつけていた。

「いまバルクホルンの話はしてない、あたしがのばせばって言ってるんだ。あいつは関係ない」
「……な」

 シャーロットはぎしとベッドに片手と片ひざをついて、エーリカをとらえるように身を寄せる。見ているのはかすかに
おおきく開かれた両眼だった。中心は青くてすきとおって、ずっとむこうまで見えそうなそれは空に似ている。普段
から考えの読みとれないほどに澄んでいて底が見えそうになく、だけれどつきあたりは確実にあって、そこにまるで
当然のような顔をして居座っているのはきっとこの子になにもしてやれないくだらない人間なのだ。

「なんで、シャーリーがおこるの」
「おこる、だれが。おこってなんかいない」
「おこってるよ、だって」

 手首がいたい。エーリカがまるで我慢しきれなくなったというようなようすでシャーロットにつかまれている腕をひく。
はなせと、暗につきはなされて、シャーロットはやっとのことではっとした。

「あ…、わるい、ごめん」

 はじかれるように手をはなし、ついでに寄せていたからだもはなし、その手をそのまま口元にはこんでせめて顔の
下半分だけでも隠そうとする。だけれどそんなことでこの動揺は隠せやしない。エーリカは怪訝な視線をシャーロット
にむけながら、いたいと言った手首をさすっていた。

「意味がわからないんだけど。なに、どうしたの」
「……」

 訝しくてしかたがないと言った調子の質問をなげかけるが、シャーロットはそのあいだもずっと彼女はまるで考え
こむように視線をそらしていた。それから徐々に、表情を苦々しげなものにする。

「……まあ、冷静じゃないのは確かみたいね」

 シャーロットの口からなんとかでたのは、到底エーリカが納得するとは思えない他人事のような自己分析だった。
明らかにようすのおかしい同僚に実はエーリカはかすかにうろたえていたが、そんなことはおくびにもださずにじとり
とした目をつくって事情の説明をもとめる。するとシャーロットはそこで本格的に我にかえったのかぱちぱちと瞬き
をしてから、へらりといつものようなのんきな顔で笑った。それがどこかわざとらしかったのは、おそらくエーリカの
勘違いではない。

「わかんないか、ちょっとくらい勘付いてくれてもいいと思うんだけど」
「はあ?」
「……意外と鈍いなあ、ハルトマンも」

 シャーロットの手が、先程まで自身がなでていたエーリカの前髪にふれる。さらにそれをとおりこした額にも
てのひらをはわせて、そのさわりかたはあまりに柔らかいのに、エーリカはきょとんとするばかりだ。シャーロットは
その反応にむしろほっとしながら、ふと手をはなしてから肩をすくめる。

「やっぱり切りたいかな、髪」
「なんだよ、シャーリーは切ってほしくないわけ」
「だからさっきからそう言ってるじゃないか」
「なんで?」
「髪がながいハルトマンもきっとかわいいからね」
「シャーリーはほんとに口がお上手ね」
「そりゃどうも」
「ほめてないんだけどなー」

 エーリカのつれない台詞にシャーロットがおどけたようすで再度肩をすくめると、エーリカはふうんと唇をとがらせて
からころりとベッドに寝そべった。それを見てふと笑い、だけれどシャーロットは唐突に、くいと親指で出口を示した。

「悪い、用事思いだしちゃった。部屋あけるよ、だから…」
「いってらっしゃい」
「……はいはい、いってきますね」

 でていけ。そう言うまえに部屋の主がいなくても居座るに決まっているだろうと宣言されて、思わずあきれた返事を
してしまった。なのに、ばいばい、と表情に変化をつける気もなく見送られ、シャーロットは思わずほほがゆるみそう
になるのを我慢する。まあいい、せっかくだからもどってきたときにおかえりも言ってもらおうじゃないか。一所懸命
あきれた顔を保ちながら、ドアノブに手をかけた。

「ちらかすなよ」
「はーい」

 のんきな返事を背筋にうけながら、シャーロットはぱたんとドアをしめる。

「……」

 すると、廊下のつめたい空気が、見事にまぬけに浮かれていた思考をひやしていった。たちつくし、先程つい
エーリカをにぎりつぶしそうになったてのひらを見おろす。しかもそれと同じてのひらで髪にふれるなんて。薄暗い
そこでたちつくしたまま、影のおちた自分の手がひどくいらないものに見えた。

「……くだらない罪悪感だなあ」

 シャーロットはそれだけつぶやき、くっと苦そうに顔をしかめてからやっと、決心したように歩きはじめた。

----------

 いるもの、いらないもの、いるもの。バルクホルンは勝手に決めつけて、床にちらばるものを分類した。これは
洗濯物、これはごみ。無心に手を動かし、すこしずつ見える面積をましていく自室でないところの床にかすかな
満足感を得つつ、それなのにいちいち雑念が思考にまぎれこもうとしてくるからやっかいだった。いるもの、いらない
もの。いらないもの。

(いらないもの。だれのことだよ)

 未練がましい。なにをしているんだろう。バルクホルンはなんどもそう思いあたるのに手をとめられなくて、それは
とてもとても苦しい。
 唐突に、背後のドアがひらく。ノックもぬきで、それはつまりこの部屋の主があらわれたのだろうと思うのがふつう
は正しい。だけれどバルクホルンは、そんなことはありえることでないとよくしっていた。

「……ひとの部屋にノックもしないではいるとは、礼儀をしらない」
「ふん、だれかがいるなんて思わなかったんだ。だってここの住人はあたしんとこにいるからね」

 現れた人物の見当をつけてとげのあることばを投げれば、思ったとおりにけんか腰の声と回答が返ってくる。
ゆるりとふりかえると、いつのまにかとじなおした扉によりかかり、シャーロットがえらそうな顔でこちらを見おろして
いる。

「だれかがいるとかいないとか、そういう問題じゃないと思うがね」
「いいじゃないか、ハルトマンはおこらないよ、こんなことしても。ねえ、あんたなにしてんの?」

 こつん、と、シャーロットが足元に転がる空いた酒瓶をけった。バルクホルンは質問には答えずに、かわりにその
行為をとがめるように眉をひそめる。それを受けて、シャーロットはおどけて肩をすくめてから足元でころころとゆれて
いるものをひろいあげた。

「ハルトマンは、最近あんたが部屋を片づけてくれないってぼやいてたはずなんだけど」
「そもそも私がこの部屋を片づけることになっているのがおかしいと思うが」
「じゃあなにやってるわけ、それは」

 もっともな指摘に、バルクホルンの手がとまる。と、すかさずあははと愉快そうな笑い声があがる。

「あんまり散らかってるから見かねちゃった? ……それとも、罪滅ぼしかな」

 低い声が響く。バルクホルンはふりかえらない。かわりに作業を再開させて、するととんとんと足音が背後から
近づき、しゃがみこむバルクホルンのとなりをすりぬけてシャーロットがエーリカのベッドに腰かけた。結果ふたりは
むかいあう形になり、空気がぴんとはりつめる。

「あんたさあ、またハルトマンに余計なこと言ったんだね」
「余計なこと? なんの話をしているのかわからないな」
「おい、いい加減にしろよ」

 ベッドに両手をついてからだをささえるような気のぬけた姿勢で、それでもシャーロットの怒声は芯を持ってバルク
ホルンにたたきつけられた。そこでやっと、一所懸命散らかるそれらの分類をしていた人物が顔をあげる。予想外
の反撃だった。彼女は、意地が悪いにしても温厚なこの女がいまのような荒げた声をあげるところを見たことが
なかった。ぶつかった視線はするどくて、しかしシャーロットはふっと息をついてから、また普段どおりのとぼけた
表情になる。

「……なんか、わざとやってるようにみえるなあ。ハルトマンが髪のばしちゃまずいわけでもあるの?」

 先程ひろいあげていた酒瓶のラベルをながめながら、シャーロットはまるで確信した口調でたずねる。バルクホルン
は動揺した。しかしそれは見せるわけにはいかない。

「ふん、私はただ髪を切るのを面倒くさがるなと言っただけだ」
「あっは。おめでたいね、あんた」
「……なんだと」

 シャーロットのひとを小ばかにした笑い声に、バルクホルンはつい眉をよせて彼女をにらみつける。だけれどシャー
ロットは気にするようすもなくあいかわらずラベルにならんだ文字に視線をすべらせていた。

「だから、あんたは最低におめでたいねって言ってんだよ。めんどくさがるだって? ばかだな、ハルトマンはのばし
たいからのばしてたのさ」
「……」

 なんだと、と、今度は声にならなかった。バルクホルンは呆気にとられたように表情をけし、だけれど瞼だけは
おおきくひらかれている。そのようすを目を細めて観察し、シャーロットはぐっとからだをまえにたおしてベッドのした
であいかわらずしゃがみこんでいるやつに顔をよせた。

「ねえ、どんな余計なこと言ったかわかった?」

 ひざのうえにひじをつき、足のあいだで両手でつかんだ酒瓶をぷらぷらと揺らしながら中身のない笑顔をうかべて
ささやく。しかしバルクホルンは頷かない、いや頷けない。バルクホルンは、わかっていなかった。髪をのばしている
と、それが事実ならどうしてあのときそう言わなかったんだ、説教から逃げる絶好の理由なのに、なぜ、あの子は
ただおこっただけなのだろう。

「……」

 わからない、どうしてだ教えてくれ。たずねればきっと、シャーロットは答えをしっている。ただしすなおに教えて
くれることはないだろうし、バルクホルン自身もすなおにたずねることなどできそうにない。
 すっと、バルクホルンはたちあがる。それから意図せずともするどくなる視線でシャーロットを見おろしてからきびす
をかえす。おい、と背後から呼び声。無視して歩きだしドアノブにふれる、すると顔の横から手がのびてどんと音を
たてて目前の木の扉にたたきつけられた。

「なんで、どこいくの。片づけ、中途半端にしてくわけ?」
「……この部屋の片づけは、おまえがやってやればいいじゃないか」
「おいおい、妙なこと言うな。なんであたしが」

 なんでだって。かっと、バルクホルンのなかで怒りの感情が沸騰しかけ、しかしそれはぐっとこぶしをにぎることで
ごまかす。ただしごまかしきれているかは疑問だった。バルクホルンは、力のこめすぎで肩までふるえていることを
自覚していた。なんでだって、だっておまえは、エーリカと、フラウとあんなに。
 バルクホルンがぐいと右のひじを後ろにまわすと、シャーロットはよけもしないでされるがままおしやられて一歩
ひく。できたすきまを利用してふりかえり、それから必死に冷静な顔をとりつくろった。

「……おまえと話していると気分が悪くなる。それがここをでていく理由だ」
「おや、理不尽なこと言ってくれるね、あんたらしくないじゃない」
「事実をのべているだけだ」

 とん、とシャーロットの手が再度バルクホルンをとおりこし扉にふれる。ふん、そりゃいいや。つぶやき、唐突に顔
が近づいてくる。

「じゃあ、いっぱい話してあげるよ。例えば、なんでハルトマンが髪をのばしてるのかとかね」

 ぎくり、とバルクホルンの肩がゆれ、それから目が見開かれる。そうしているうちに、シャーロットはまだ持っていた
酒瓶の底をぐいとバルクホルンの心臓の位置におしつけた。あんたがあたしと話してて気分悪くなるってんなら、
あたしはあんた見てたら気分が悪くなるよ。悪意を隠そうともしないしぐさにぐいとおされ、バルクホルンはドアに背を
つける。それでもあきたらず、ぐいぐいと酒瓶はバルクホルンにくいこんでいく。

「あたしだったら、泣かせたりしない」
「……なん」

 泣かせたりしないって。だれか泣いたのか、おい、だれだい。そうやってとぼけてしまえればとても楽だった。ただし
もしそんなことができてしまっていたら、きっとバルクホルンは立ち直れないほどにうちのめされていたに違いない。
泣いたのはエーリカだ。自分のしらないところで泣いて、それはおそらくシャーロットのそば。

「ほんとはこれであんたの頭ぶん殴りたいくらいなんだけど、……ね、あたしがハルトマンに髪のばせばって言った
んだ。きっと似合うって。そしたらあんなにすなおにさ。かわいいと思わない?」

 たてつづけに与えられる理解しがたい情報に、バルクホルンは完全にことばを失っていた。ただ呆然と、すぐそば
で憎くて憎くてしかたのないものを見る目で自分をながめている人物を見かえしていた。ふと、シャーロットの気配が
はなれる。それからひょいと手をとられ、そこにいままでおしつけられていたものをおさめられる。

「……これ以上気分悪くさせちゃさすがに申しわけないかな」

 じゃあねおやすみ。シャーロットはたったそれだけを言い残し、手をのばしドアを開放してバルクホルンのわきを
わざとらしく肩をぶつけてからすりぬけていった。ばたん、と背中の至近で扉がとじる。それと同時に、手渡された
ものが彼女の手から滑り落ちた。ごとんと物騒な音をたて、それは床に傷をつける。だけれどバルクホルンは、
ひろいあげることもできないのだ。

(……そうか、あいつに言われたから。それなのに私が余計なことを言って、あんなにおこって、ないて、……)

 なさけなく、背中がドアへとおちていく。それだけじゃ飽きたらない。からだは力を保有できず、ずるずると床へと
へたりこんでいった。


 あんまりとあっさりドアがしめられたものだから、エーリカはしばらくそれをじっと見つめてしまった。

(…ほんとにおいてった)

 用があると、まるでとってつけたようなことばでもってシャーロットはどこかへいってしまった。ころりとからだのむき
をかえ、窓のある壁のほうへと視線をうつす。カーテンのかかったそのむこうには、たぶん星が見える。
 エーリカは、自分が根からの甘えたがりであると理解していた。その相手はいつもバルクホルンだったし、稀に
ミーナに過剰なほどにすりよっていくこともあった。ずっとむかしだって、双子の妹のウルスラがまるで興味のない
ような顔をしながらいつも彼女のそばにいた。エーリカには、まわりの人間に世話をやかせる才能があるのだ。それ
が悪いことであるとは思わない、もしそれが本当にひとに迷惑をかけているならエーリカはいまひとりぼっちになって
いるに決まっていた。みんなきっと、わたしの面倒くさい世話をするのがすきなんだ。ベッドのうえで一所懸命カーテン
に手をのばすけれど届かない。すこし身をおこせばいいだけの話なのに、それすらもだれかにやってほしいくらい
だった。

(……シャーリーのばか)

 トゥルーデもばか。でも本当にばかなのはわたし。
 かちゃと、うしろのほうで音がした。扉のあく音。さっきでていったばかりのシャーロットでないことはわかっている。
首だけをまわして登場した人物を認めると、その子は扉から顔だけをはみださせていた。

「あれ、ハルトマン中尉だ」

 ルッキーニがぱちぱちと瞬きをする。シャーリーはー?それからそんな幼い声をあげ、軽い足どりでベッドの脇まで
やってくる。再度あおむけの体勢にもどってベッドに手をついてのぞきこんでくる視線をうけた。エーリカがシャーロット
となかよしごっこをはじめたばかりのころは思いきりの敵意をむけてきていたくせに、いまじゃもうすっかりとなついて
くる。こどもは適応能力が高い。そのうちでもルッキーニは特にだろうとエーリカは思っていた。

「シャーリーはどっかいっちゃったよ。わたしのことほっといて」
「そうなの? ふうん、つまんないね」
「うん、つまんない」

 ぴょんとベッドにとびのり、ルッキーニがエーリカをじっと見おろす。シャーリーのかわりに相手してほしいってか。
だけどごめんね、そんな気分じゃないの。おいだすまではいかなくても、エーリカはやんわりと拒むように寝返りを
うとうとした、しかし先手を打ったのはルッキーニだった。

「げんきないね」
「……そう?」
「うん」

 あんまり無垢な問いかけだったから、無視する暇もなかった。思わずたずねかえして、またあっさりと頷かれる。
エーリカは、自分をうえから見つめる瞳をながめた。心配しているよ、と全力で語っている視線に、エーリカはひるんで
しまう。それを見かえす気になれず、すこし目線をずらして天井にピントをあわせる。

「ルッキーニは、きょうも元気だねえ」
「あたし? あたしはげんきだよ、そうじゃないとつまんないもん」

 きらきらとした表情でルッキーニが笑い、視界のはしにうつるそれがあまりにまぶしくて、まるで本当の光をさえぎる
ように目を細めた。こんなくさくさした気分のときにそんなものを見せられては、いまにもからだが砂になってくずれて
しまうのではないかと思われた。ルッキーニはこどもで、とてもすなおないい子だ。そして、とエーリカは思う。わたしは
こどもなのに、すなおじゃなくていやな子。
 シャーリーどこいったのかな。いつまでまってたらもどってくるかな。ねえねえ、きょうはここで寝ていいと思う? 
おちつきなく、少女が次々と問いかけをほうりなげてくる。だけれどエーリカはひとつとして答えをかえさずに、そうねえ
とかどうかなあとかと誤魔化しつづけることしかしない。だってどれもこれも、彼女自身がしりたいことなのだ。

「……ルッキーニはほんとにシャーリーがだいすきだね」

 今度はエーリカが、ふとした問いかけを口にする。するとルッキーニはまたなにか言いかけていた口をはたりと
とめて、それから件のかがやかしい笑顔を浮かべてエーリカの目を再びくらませる。

「うん、シャーリーだいすき!」

 こくりとおおきく頷いて、心底うれしそうににこにこと歯を見せる。かわいい、とエーリカは思った。しかしそのつぎ
にはふと、急な記憶が呼び覚まされる。

(トゥルーデだいすき)

 思わずかたまってしまった。上方のルッキーニは、だってシャーリーはねえ、とさも母親の自慢をするかのように
たのしげに語りはじめていたが、エーリカはそれをきいている場合ではなかった。ああ、言ったことがあるかもしれ
ない、いやある、絶対にある。とおいきえかけた思い出だった、覚えのある台詞。はるかむかしになにかの拍子に、
ぽんと思わず口からでたことば。あのときのエーリカは正真正銘のこどもだった。ふたつ年上のあのひともあのころ
はまだこどもだったはずで、それなのにとてもとても立派なひとに見えていた。

(……うわあ、はずかしいの、うわ、うわあ…)

 徐々にほほが赤くなっていく感覚にげんなりとしてしまう。こどもというのは無敵だ。ルッキーニ然り、過去の自分
然り。いまのエーリカでは絶対に言えそうにないようなことをこんなに、あんなにさらりと。あのころは言うだけで満足
して、そのときのあのひとの反応なんて気にもしていなかった、なんてもったいないことをしてしまったのだろう。だって、
むかしからずっとかわらない生真面目で口うるさいバルクホルンに、自分だってかわっていないはずのエーリカは、
もうすなおになれそうにない。すきだと言われたときの彼女の反応を、エーリカはもうずっと見れる気がしないのだ。
そのくせ彼女には、いろいろなことを言ってほしいと望むなんてなんていやな子なんだろう。

(だって、そんなの)

 だってしょうがないんだ、と、なんどもこころのなかで弁明する。そう、エーリカは自分が根からの甘えたがりである
と理解していた。こんなふうにしたのは甘えさせっぱなしのバルクホルンが悪いのだと、こちらは半分くらいは本気の
気持ちで考えながら、言いわけだということもわかっていた。だって言ってほしいんです。わたしはあのひとから、
いろんなことばがほしいんです。シャーロットにもしそう言ったら、わがままでおまえらしいよと笑われるだろうか。

「……笑い話なんかじゃないやい」
「え?」

 つい声にだしてつぶやくと、まだうれしそうにシャーロットの魅力について語っていたルッキーニがきょとんと瞬きを
した。それを見あげ、やっと身を起こす。やさしいだの頭をなでてくれるだの力持ちで肩車が高くてだいすきだの
おっぱいがおっきいのも忘れちゃいけないだのと、無邪気な笑顔がならべたてていた素敵な彼女の側面に、エーリカ
はふうんと鼻をならした。

「こっちだって、たまにならやさしいんだぞ。頭はあんまりなでてくれないけど、力は絶対こっちの勝ち。おっぱいだって
色と張りなら負けないね」

 それからこどもと本気で対抗するように、一所懸命ほめことばをならべてみる。ルッキーニは思ったとおりにきょとん
とした表情をくずさない。エーリカが急になにを言いだしたのかと、だれのことを言っているのかと心底ふしぎそうに
首をかしげている。こっちだって首をかしげたい気持ちだ。なんてばかなことを言っているのかしら。

「それに、ああ見えてけっこうすぐにすねるんだよ、あとすぐおどおどするし。正直いらっとするけど、ちょっとかわいい
よね」
「ねえねえ、だれの話してるの?」
「さあね、それはひみつー」

 ぽすんとシーツに背中をおとしなおしてからふふんと笑うと、ぶうとほほをふくらませたルッキーニもそれを真似て
ベッドに寝そべる。うつぶせてほおづえをたててずるいよとやはり見おろされ、エーリカはすこしだけ複雑な気分に
なる。ねえ、さっき、シャーリーのことだいすきって言ったけど。シャーロットの名をだしなおすと、ルッキーニはぴくり
と反応する。いまは尻尾も耳もはえていないのに、それらがそわそわとかわいくゆれているようすが見えるようだった。

「……そういうのね、いまのうちだけにしといたほうがいいよ。へたにひきずったら、つかれるだけだからさ」

 頭のうしろで腕をくんで枕にして、本気のアドバイスをしてあげる。このわたしがこんなに親身になってあげてるん
だから、ちゃんときいときなよ。過去の自分にも言ってやりたいことばをできるだけ丁寧にちいさなルッキーニに
ささげた。だけれど、やはり少女はよくわからないと言いたげな顔でエーリカを見つめている。わかっていたこと
だったが、すこしだけじれったくなってしまった。それでもこれ以上は言ってやる気になれず、はーあ、とあきれた
ため息をついてみせる。

「しっかも、相手があのろくでもないシャーリーじゃねえ」
「ろくでもない? シャーリーってろくでもないの?」
「うん、かなり。ってか意味わかってるかー?」
「わかんない」
「ちぇ。かわいいなこのやろう」

 ちょい、となんとなく鼻をつまんでちょっかいをかけると、ルッキーニはむっとしたように唇をひきしめてぺちとその
手をはらう。あのね、シャーリーにもいっつも鼻つままれるんだ、そんなにたのしいのかな。それからそんなことを
たずねてくるので、エーリカはのろけでもきいている気分になってうんざりとする。

「そりゃあ、ルッキーニがかわいいからじゃない?」
「えー。でもたまに邪魔だよ」
「あはは。それ言ってやりなよ。どんな反応したかあとで教えてね」

 ルッキーニはかわいいからね、とかの女がすこしまえに語っていたのをそのまま教えてあげた。彼女は、そばに
おいておくので精一杯なのだと、まるでそれだけで満足そうだった。ろくでもないなんてうそだよ、とエーリカは思う。
それからふとからだをくるりとまわして、ルッキーニのようにうつぶせ、シーツに顔をうずめた。シャーロットのにおい
が鼻をかすめる。バルクホルンのそれとも、自分のものともちがう。先程、ここに訪れていちばんにベッドに直行した
のはまちがいだったとエーリカは思っていた。彼女のにおいは、ひとに気をぬけさせる効果があった。言い方を
かえれば、まるで安堵感をあたえてくれるような。そのおかげで思わずおさまっていた涙腺がまたゆるみかけ、
ばかのようになさけない問いかけがこぼれてしまった。

(……そうだよ、シャーリーは、なんだかんだでやさしいんだ)

 だから、わたしの絶好の獲物になっちゃうんだよ。いつもいつも自分を甘やかしてくれるひとをさがして、そのひと
に迷惑をかけているとしっていてもやめられない。エーリカは、本当はこころの奥底では、みんなが自分の面倒くさい
世話をするのがすきなのだというわけでなく、ただ単にやさしいひとにばかり近づいていっているだけなのだとしって
いた。バルクホルンだって例外ではない。いつもつれない態度だけれど、先程はたまにはと表現してしまったけれど、
彼女は常にエーリカにやさしかった。ただし彼女のやり方は非常にわかりにくく、つまりは、エーリカから目をはなそう
としないだけなのだ。いつも自分の視界にはいるところにむかしなじみの少女をおきたがっていたし、エーリカだって
うれしかったからそれに反抗なんてしなかった。だから、いつも彼女のあとをついて歩いた。
 エーリカはぎゅっと目をつむる。それを先にやぶったのは自分なのだと、エーリカはかなしい事実を自覚していた。
そうしたら、こんなに簡単にばらばらになった。バルクホルンは、まるでお役御免とばかりにエーリカからはなれて
いってしまうのだ。うぬぼれだったんだなと思う。バルクホルンだけは確実に、自分の世話をきらいじゃないと思って
いると信じこんでいたのに。でも現実は、面倒くさかったエーリカのことはシャーロットにすっかりおしつけてしまい、
それでまったく問題ないのだとバルクホルンは平気な顔をしていた。ばちがあたったのだ。バルクホルンに明確な
やさしさを見せてほしくて、そのためにシャーロットに甘えていた。それはひょっとしなくても、どちらのひとに対しても、
底抜けに失礼な行為だったのだ。

「……」

 ふわり、と、前髪になにかがふれる。はっとしてまぶたをかすかにもちあげれば、ルッキーニの顔がすぐそばに
あってぎくりとした。どうしたの、と、先程といっしょの心配しているようすをかくす気もない瞳がゆれていて、エーリカは、
ルッキーニはシャーロットに似ていると思った。頭をなでてくれるのだと言っていた。シャーロットはきっと、ルッキーニ
を相手にしたときはなんだかんだなんてすっとばして、はなから全身全霊をかけてやさしくしてやるのだ。この子の
さわり方は、そのシャーロットに似ていた。

(ほんとの親子みたい)

 しまったな、不覚にも癒されちゃったじゃないか。エーリカは再度目をつむり、ルッキーニのやさしいふれ方に夢中
になる。こどもは無敵だ。なにをするにもすなおに思ったとおりのことをして、そしてそれは絶対に、悪い風にはころ
がっていかない。むかしは自分も、そんなこどもだったのだろうか。それとも、バルクホルンにこども扱いされている
とおり、いまもまだそんな素敵な存在でいられているのだろうか。

「……ルッキーニ」
「え?」

 急に名を呼べば額にふれていた手がとまる。目をあけてとなりのルッキーニを手招く。すると少女はなんだろうと
いう顔で、ひじをたてて上半身をささえていたのをくずして本格的にエーリカの横に寝そべった。ちいさなベッドに
ちいさな少女がふたりならび、シーツのうえはすっかりと満員になっている。

「シャーリーおそいからさ、さきに寝ちゃおうぜ」
「えー、でもそしたらシャーリーの寝るとこなくなっちゃうよ」
「まあね、だってわたしたちを待たせるのが悪いんだよ。ね、寝る場所とられて往生してるシャーリーって、想像した
だけでおもしろいよ」

 いたずらめいた口調でささやくと、ルッキーニの琴線に見事にふれることができた。ほんとだね、おもしろいね。
わくわくしたようすでルッキーニも声をひそめて、いそいそと本格的に眠る準備をはじめる。エーリカはとなりに
すっかりとおさまった、常からバルクホルンに体温が高いと評されている自分よりももっとあたたかい女の子の
頭をシャーロットの真似をしてなでる。ルッキーニはすこしだけふしぎそうに瞬きをしたけれど、すぐに破顔して
おやすみとつぶやいた。それから二秒後にはかわいらしい寝息がきこえてきて、エーリカはらしからぬやわらかい
笑みをうかべてしまった。だけれどすぐにまた、思考が暗くおちていきそうになってあわてて頭をふる。

(……うん、大丈夫)

 だって、こんなちいさな子とふたりで、こんなにささやかないたずらをするのがたのしいのだ。エーリカは、自分が
まだこどもなんだと思いこむことにする。だから、思うようにやりたいようにやればいい、だってこどもは、思ったとおり
のことをすれば、きっと物事はうまくいってしまうにちがいないのだ。

(大丈夫、だいじょうぶ……)

 呪文のように、なんども自分に言いきかせる。だいじょうぶだよ、なんとかなるよ、だってトゥルーデが、わたしを
こどもみたいに見てるんだ、だからまちがいないんだよ。きゅっと目をとじて、エーリカは一所懸命、すぐに眠りに
おちてしまえるように努力した。


 シャーロットはむくりと起きあがり、気だるげに自分の頭をなでた。時刻を確認しようと視線をめぐらし、すると所定
の場所に置時計がないことに気づく。当然のことだ、ここは自室ではない。ふあ、とあくびをしてからベッドをおり、
カーテンのむこうがやっと白みはじめているのを認めた。
 昨夜、やっと我にかえったのは、エーリカの待つ自分の部屋にもどりベッドのうえの様相を確認したころだった。
こどもがふたりひとの寝床を占領しすやすやと寝息をたてていた。確かあのふたりは四つも年がはなれているはず
だったのに、つまり片方はシャーロットと同い年であるはずだったのに、そろってあんまりかわいらしくて邪魔だと
起こすこともできなかった。

(普段からルッキーニの部屋のそうじしといてよかったなあ)

 シャーロットはいまいる部屋を見わたす。大事な大事な少女にあたえられたはずのここは、彼女にはあまり必要の
ないところらしかった。基地のあちらこちらに専用の住処をつくって毎晩それらを転々としてすごしているのだから、
こんな平凡な一室など確かにルッキーニには不釣合いだ、とシャーロットは思う。それでもまったく手入れをしなけれ
ばほこりがたまって万が一のときに困るかもしれないと、暇を見つけては簡単にきれいにしておいてよかった。まあ、
その万が一はルッキーニにではなくシャーロットにふりかかってしまったわけだが。
 自室にもどると、ベッドのうえは半分が空になっていた。ルッキーニがいない、エーリカだけが身をまるめてよだれ
をたらしている。大方ただのベッドに飽きてふしぎな場所で二度寝でもしているのだろう、と見当をつけながら、シャー
ロットはもうひとりの寝床泥棒を見おろす。眠りにおちている間ばかりはいろいろなことから解放されるのか、とても
健やかな寝顔がそこにあった。

(……まずったよなあ、あれは)

 そうしているうちにきのう、ここに彼女をおきざりにしてから自分のしたことが思い起こされた。バルクホルンのあの
顔。積極的な助言はしない、そのかわり、余計な手出しもしない。そう決めていたはずだったのに、あまりにじれったく
なってしまった。エーリカがあれほど弱るなんて思わなかったし、バルクホルンは想像以上に面倒くさい女だった。
だからって、とシャーロットはため息をつく。認めたくないが冷静さをかいていた、とはいえ、うそまでつくなんて一体
どういうつもりなんだ。

「……いやいや、うそはついてないだろ」

 自分を誤魔化すつもりでひとりごちる。ただ、もっとも大切なところを伏せただけだと、己を説得しにかかる。バルク
ホルンを思い悩ませている少女が髪をのばしているのは、あなたにもうこどもじゃないと認めてほしいからなのだ、
こちらはただその方法を示してあげただけなのだと、その部分をすっかりと覆い隠していただけの話だ。しかしその
結果、やつが盛大な勘違いをしたとしたら、そんなのはうそをついたことと大差ないのではなかろうか。シャーロットは
緩慢な手つきで頭をぼりぼりとかき、エーリカのからだからすっかりとずれてしまっているシーツを彼女にかけなおして
やる。そして昨夜と同じく苦い顔をつくってから、シャーロットはまたエーリカをおいて、自分の部屋をあとにした。

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 ノックをすれば、あいている、と朝から堅苦しい返事がかえってくる。シャーロットはそれにかすかにひるんでいる自分
を内心で?咤して、ドアノブをひねりおした。

「…はよーごさいます」

 実ははじめてたずねるバルクホルンの部屋にしりごみしながら、気の抜けた朝のあいさつをする。するとあちらも、
シャーロットを一瞥したのちさっさと視線をそらしてからおはようときっぱりとした発音で言った。その態度に、先程
かためた決意をさっそくくじかれる。きょうは冷静に、昨晩の話の誤解をとく。そうしたいのは山々なのに、きのうと
大違いの余裕ぶった顔に腹がたった。実はここにくるまえにエーリカの部屋を覗いたときも、おなじ気持ちになって
いた。まえに見たときとは見違えてきれいに整頓されつくされた、整然とした一室に成り果てていたその場所。おまえ
にそんなことをする余裕がどこにあるのだと、胸倉をつかんで問いただしてやりたい衝動にかられた。シャーロット
には、バルクホルンがなにを考えているのかわからない。

「きのうのことあやまりにきた」
「……」

 とげとげしい言い方になっていても悟られぬよう、極力ちいさな声で宣言する。バルクホルンはもうすっかり朝の準備
をおえていたから、ただたちつくすままにそのことばをきいていた。シャーロットはそれを見て、これは言い逃げすること
になりそうだと思う。

「あれは…、こっちが冷静じゃなかった、へんなことも言った。ごめん」
「へんなことなんて言っていないじゃないか」

 それなのに、返事なんてかえってこないと決めつけていたのに、バルクホルンはあっさりと反論をしてみせる。ぎょっと
して伏せていた視線をかすかにあげるが、やはり目はあわなかった。ただ、その横顔が先程までとは打って変わって
あまりに憔悴しきっているように見えて、シャーロットは唐突な嫌な予感に身震いする。

「……へんなことなんて言っていない、おまえは正しい。おまえは私とちがうから、きっとエーリカを泣かせたりしない」

 そしてそんな戯言を言うものだから、予感が的中したと感動する間もなく、シャーロットの神経はざわりと逆立った。
決意など頭のすみに追いやられる、バルクホルンはそんなことはしるよしもなく身勝手に自嘲した笑みをこぼす。
すこし安心した、私は、あいつをどうしてやればいいのかわからないんだ。まるで本音のようにつぶやかれたそれが
完全な決定打となって、シャーロットから我をうばった。昨夜以上に逆上した状態でずかずかと歩みより、それから
そのなさけなくおちた肩につかみかかる。

「安心しただって? おい、それって、ハルトマンを見捨てるってこと」
「ちがう、私じゃだめなんだ、むかしから、そう」

 あざができるかと思うほどに力をこめられているのに、バルクホルンはその手をはらおうとしない。なんだよそれ、
と、シャーロットの口から震えた声がでる。それでも勝手に疲れきっているやつは、こちらを見ないでうつむくばかり
だった。ざわざわと、みぞおちのあたりが騒がしくなる。

「……そうか、わかった。もういい加減見損なったよ。じゃあもう遠慮なんてしないよ。そうだよね、どう考えたって、
あんたじゃハルトマンに不釣合いだ。あたしはあんたとちがう、ねえ、あたしはあしつのほしがってるやさしいことばを
いっぱいしってるし、あいつの洒落たジョークに気のきいた返事だってできる。だってあたしは、なにもできないあんた
とちがう。あたしのほうが、あんたなんかよりあいつのことがすきだもの」

 もうよせと思考のすみにひっかかっている理性がつぶやくのに、まるでずっと言いたくてしかたがなかったように
ことばはとまらなかった。しかしバルクホルンはなにも言わず耳をかたむけるばかりで、そのうちにエーリカをよろしく
頼むと頭まで下げそうだったから、シャーロットははらうように手を離してきびすをかえした。バルクホルンは面倒くさい
だけじゃない、最低の女だと結論づけて、ぎりと奥歯をならしてしまう。乱暴にドアをあけて、その勢いのままに閉めた。

(……しまった)

 そしてばたんと大きく鳴ったのを背中できいてから、シャーロットはごくりとつばをのんだ。なんてことだ、誤解をとき
にいったはずが、重ねてけんかを売ってしまった。しかも、きのうのものとは比べられないほど真剣にこちらの本音を
ぶつけてしまった。だって、と、シャーロットは自分に言いわけをする。だって、いらいらするのだ。どこまでいっても、
わからず屋の根性なしじゃないか。

(そうだ、あたしは正しいことをした、間違ってるのはあっちに決まってる)

 そう思い至ってしまい、頭をふってふうと息をつく。どうやらいまのこの沸騰しきった脳みそでは、もうなにを考えても
だめらしい。シャーロットは、自分がここまで冷静でいられない人間だったことをしらなかった。とりあえずエーリカを
起こしてくることにして、自室のあるほうへからだをむける。

「なんでシャーリーがトゥルーデの部屋からでてくるんですかー?」

 すると真正面から低い声がしてぎょっとした。反射的に顔をあげると、すぐそばにたっていたのはもちろんエーリカ
だった。どうやらずっとそこにいたようなのに、まったく気づけなかった自分に驚愕する。

「な……」
「朝帰りですか」
「ばっか、なに見当違いなこと言ってんだよ」

 すねた調子で唇をとがらせ、じとりとした目が見あげてくる。それに必死に、そもそもきのうは一度部屋にもどった
だのついでに言うとさっきだってだのと言いわけをならべてしまった。ばかかと思う。エーリカが気にしているのは
シャーロットが昨晩帰ってこなかったことではない、他人が、バルクホルンの部屋からでてきたことだ。

「話があったんだよ、あいつに」
「こんな朝早くにいちばんでしなきゃいけないような大事な話?」

 ふうん、と鼻をならして、エーリカが歩きだす。シャーロットはそれにつき従い、ああそういえばもう食事の時間だと
のんきなことを考える。それから、一歩先にいってしまった背中をじっと見つめ、そうだよ、とことばを投げかけた。
するとつぎには、ん、と、気の抜けたつぶやきとともに少女の顔がふりかえる。

「だから、そうだよって。大事な話だった」

 シャーロットが急に真面目な声をだすものだから、エーリカも瞬きをしてたちどまった。ふしぎそうな顔、なにもしら
ない顔。いましがた、バルクホルンがどんなひどいことを言ったかなんて露ほどもしらない。そっと手をのばして手を
にぎった。実は、シャーロットはここしばらくエーリカにこんなことをしたことがなかった。彼女が気まぐれにすりよって
きたとき以外は、空気を壁にしてふれないようにしていた。だからエーリカはさぞ違和感を覚えただろう。シャーロット
のそんな態度に気づいているかは別にしても、普段とちがうことをされたのだから、密かに警戒心の強い少女はこころ
のどこかで不自然を感じているはずだ。

「言ってきた。あたしも、おまえがすきだって」
「え」
「あたしが、ハルトマンをすきだって言ってきた」

 ききのがしたなんて言わせないように繰り返して、手をとるてのひらに力をこめた。すがるように指をそのやわらかい
皮膚にくいこませ、必死に真剣な表情をつくって見つめる。そうしながらも、なにを言いだしてくれるのかと、シャーロット
は背中にじわりと汗がにじむ感覚に寒気を覚える。あいかわらず思考が煮え立っているのだ。一方エーリカは、しばらく
ぽかんとした顔でその視線を見かえしていたが、おもむろに自分の手をにぎる他人の手に、もう片方のそれを重ねた。

「いやあ、それはまた」

 そしてそんなとぼけた声をあげ、両手でにぎったシャーロットの手をぶんぶんとふった。

「なんか悪いねえ、そこまで気をつかってもらっちゃって」
「は……」
「わざわざ挑発してきてくれたんでしょ、うそまでついて。でもさ、トゥルーデってけっこう打たれ弱いから、そんな過激な
こと言うのって逆効果だと思うんだけど」
「……」

 ねえ?と、かわいらしく小首をかしげ、また敬意を表すようにシェイクハンドをくりかえす。シャーロットは思わず
かたまり、するとその隙をつくようにエーリカはぱっと手をはなして歩きだしてしまう。せっかくやぶった空気の壁に
また立ちはだかれ呆然とし、急に朝の空気が身にしみた。すりぬけて、こちらの隠れた執着など気にもしないで平気
な顔で、彼女は離れていってしまうのだ。そのようすがおどろくほど似合っているものだからよびとめることもできない。
バルクホルンの考えていることなど欠片もわからないはずだったシャーロットは、その瞬間だけはまるでやつになり
かわったかのような気持ちになった。奔放で自由気ままなあの子は、ちょっとまってと声をかけることすらはばかられる
ほどにふわふわとした風のよう。ひとつの場所にとどまるようにとこちらから言いきかせることなど野暮以外のなにもの
でもないのだと、確信のような発想が胸の奥にすとんとおちた。バルクホルンはいままでほうっておいてもすぐそこに
いてくれた風のような少女が急に本領発揮とばかりに流れていくものだから、しりごみしてしまってしかたがないのだ。
ただし、それが先程のやつのひとりよがりな発言が許される口実になるとは思わない。シャーロットは目を細めてから、
彼女にふれた手をぷらぷらとゆらした。

(……まあ、そうくるわな)

 視線をあさっての方向にむけてからぼりぼりと頭をかき、やっとのことでおいかける。いまさらの話だ、はじめのころ
は確かに、冗談の割合が半分以上の調子でそれらしいことをささやいてきた。つまりは、それのつけがしっかりと現在
にまわってきているというわけだ。すこしずつはなれていく背中、まってくれてもいいじゃないか。ぴんとのびた背筋を
ながめて、ああと思った。そういえばきのうはあんなにふさぎこんでいたのに、もう元気だ。

「きのうはよく眠れた? ひとのベッドを占領して」

 おいついたところでたずねると、エーリカはああうんとつぶやき頭のうしろで手を組んだ。

「おかげさまでね。ルッキーニってあったかくて気持ちいいね、抱き枕にほしいなあ」
「却下」
「なんでシャーリーの許可が必要なわけー?」

 あははと愉快そうな声が響いて、それなのにエーリカはふとだまってしまう。シャーロットは瞬きをして訝しみ、
どうした、とでも言いたげにひょいととなりの背の低いひとの顔をのぞきこんだ。すると彼女に一歩ひかれてぎょっと
した。それからやつはめずらしく口ごもり、やりにくそうに唇をとがらせる。なんだよ、と思う。すこしだけ嫌な予感、
きょうはそういうのがさえているようだからこまる。案の定、つぎに彼女が言ったことは、シャーロットを動揺させるのだ。

「あのね、もうね、そういうのいいよ」
「は?」
「トゥルーデのこと。わざわざうそまでついてさ」

 かしこいエーリカちゃんは、悟ったのです。ふざけた口調で言って、そのくせ表情はすこしだけ真面目に見える。

「きのうシャーリーの部屋でいろいろ考えちゃってさ、けっこう迷惑かけてるなあと思ったの。うざったかったでしょ、
ごめんね。でも安心していいよ、もうつきまとわない。わたしのことは、ちゃんとわたしでどうにかすることにしたから」

 エーリカがふいと顔をそらし、それが急にこわくなった。また、彼女はシャーロットのとなりからするりとさってしまおう
とする。迷惑だと、うざったいだと。いつそんなことを言った。なんだよ、ひとの告白流しといて、今度はそばからも
いなくなるってのかよ。シャーロットはまた歩きだそうとしたその肩を、自身も気づかぬうちにつかんでいた。おどろいた
目がふりむく。それにどきんと心臓が鳴って、きっとそのときにはもう我なんてわすれさられていた。

「迷惑なんてかけられた覚えない」
「シャ」

 シャーリー、と、かすかにうろたえたエーリカが彼女の愛称を口にしかけた。だけれどそれはさえぎられる。声の
出口は、シャーロットの唇にそっとふさがれていたのだ。それはたった一瞬のできごとで、エーリカがいったいなにが
起きたのかを理解するまえにそれは離れていく。それからくいと肩をおされ、壁際においつめられる。

「…キスするときは、目をとじるんだよ」

 エーリカの至近距離で、しらないひとのようなシャーロットが瞬きをしている、彼女の熱にうかされた瞳に自分が
うつっている。おどろいた顔をしていて、それはさらにエーリカを混乱させた。ふらふらと手がのびて、ぺちんと
まぬけな音をたてて目のまえのほほにぶつかる。思いきりひっぱたいてやるはずが、全然うまくいかなかった。

「……なに、してんの。なにいってんの」

 どうにかそれだけことばにするけれど、シャーロットは質問に答えるまえにエーリカのほほにふれる。それからまた
顔を近づけて、今度は唇を耳元によせる。

「あたしは、すきって言った」
「だってそれは、うそじゃないか」
「おまえが勝手にそう決めただけだ、あたしはうそだなんて言ってない。すきって言ったよ、ちゃんと」

 まるで真面目にきかなかったそちらが悪いのだとでも言いたげな口調、それのつぎにはまたシャーロットが唇を
とらえようとあごをとる。エーリカは夢中で顔をそらした、そしてそのさきに、見つけてしまった。

「……あ」

 驚愕に瞼が見開かれ、震える。それにつられて、シャーロットもまたその視線をたどると、彼女もまた目を見開いて
しまう。廊下のむこう、すこしはなれたところにいまここには絶対にいてはいけなかったひとが立っていた。バルク
ホルン、と思わずそのひとの名を呼ぶと、つかんでいた肩がびくと震えた。
 しんとした空気のなかに彼女は呆然とふたりをながめ立ちどまっており、だけれど急にふいと顔をそらして歩きだす。
つかつかとエーリカとシャーロットに歩みより、今度はふたりが接近するバルクホルンを呆然とながめていた。もうあと
三歩というところまで彼女が近づいたところで、その右手がぎゅっとにぎられる。あ、なぐられる。シャーロットは冷静に
考え、ふいとエーリカからわずかにからだを離してすぐそこまできているひとのほうにむきなおる。だけれど、事態は
最悪の方向へと流れていってしまうのだ。思わず目をとじた瞬間、つかまれるはずの胸倉はなんの衝撃もうけないで、
かわりに肩のとなりをふっと気配がとおりすぎていく。ぎょっとした。
 
「……っ」

 なにをしているんだ。安心したって、私じゃだめなんだって、あれは全部本気だったっていうのか。反射的にふり
かえり、いましがた横をとおりすぎていった人物の背中を凝視する。おい、バルクホルン。そう呼びかけておいかけ
ようとした、だけれどシャーロットはなにもできないでかたまってしまう。かすかな力が彼女の軍服のそでをつかんで
いたのだ。まるでひきとめるように、ここにいてくれとでも言うように。そんなわけないと思いながら、シャーロットは
もういちどエーリカを見た。表情を隠すように彼女はうつむいており、今度こそ明確にシャーロットをひいた。

「は、ハルトマン」

 おまえまで、なにしてるんだよ。ぎゅっとシャーロットの胸元に額をおしつけ、絶対に離さないように彼女の手首を
つかんでいる。

(……なんだよ、なんだよこれ)

 こんなときでも自分にふれるエーリカのぬくもりに心臓がなってしまうことがとても愚かしいと思う。なにを興奮して
いるんだ、なにをのんきにほほを染めている。こうなったのは、貴様のせいじゃないか。シャーロットはついエーリカ
を抱きしめたいと手をのばすけれど、それは決してできることではなかった。


 表面上はほぼかわりないと言ってもさしつかえない現状に、シャーロットはむしろ困惑していた。彼女がとりかえしの
つかぬ失敗をしてしまった日から時間はそれなりに流れていたが、いったいどの程度の日数がすぎたのかを考える
余裕などなかった。あれから、くずれるべき関係が成立したままでもっともきれてはいけないところがすっかりと切断
されてしまっていた。だかしかし、表面上はほぼかわりがないのだ。外から見たとき、エーリカがバルクホルンのこと
をまったく口にしなくなった現在は、それ以前とくらべてそれほどまでの変貌を遂げてはいないようなのだ。格段に
エーリカといることがふえたような気がするのに、それがまるでいままでどおりのように。自覚のないまま、以前まで
もエーリカとすごしている割合はこれほどまでにおおきかった。シャーロットはその事実に混乱し、息苦しいほどの
圧迫感にいまにも胸がおしつぶされるのではないかと不安で不安でしかたがなかった、だが反面、そうなればきっと
楽だとも考えいたってしまう。

「シャーリー」

 自分のベッドのうえに寝転んだエーリカがひとの名を呼ぶ。ふたりがいる場所はエーリカの自室であり、なにもして
いない彼女のとなりでシャーロットは本来ならば彼女の役割でない作業を強いられていた。ハミングが耳にとどく。
背後でだらしなくからだをのばしている人物が、おそらく故郷のものなのだろう、シャーロットのききなれない歌をふん
ふんと鼻で奏でていた。

「……おなかがすいた」

 その合い間にぽんとことばをまぎれこませ、わがままをなげかけてくる。シャーロットはベッドのとなりの床を一所懸命
片づけていたところであったが、その台詞にすっくとたちあがる。それからふりむき、いちばんに整頓したベッドのうえ
であおむけて天井をぼんやりとながめている少女を見た。

「甘いものが食べたい」
「片づけは?」
「おやつもってきてくれてからでいいよ」
「ちがう、おまえもちゃんとやれって言ってるんだ」

 まるですべてがシャーロットの仕事であるかのような物言いに、形だけの反論をしてみせる。バルクホルンのための
作業は、いまではふしぎなことにシャーロットにおしつけられるものとなっていた。ここにだけは手をだしてはいけない
と常々思っていたところなのに、と彼女は内心で歯ぎしりをする。先程からまるで無理やりにやらされているような言い
様であるが、実のところはシャーロットがほぼ自らそれに手をだしているのだ。あくまでエーリカは部屋がきたないんだ
と愚痴をこぼすだけ、そうすれば口がなんと言いだそうとも、手は勝手に荒れはてた一室をどうにかすべく動きだして
しまう。エーリカが泣いた日に、罪滅ぼしか、と黙々と部屋を片づけるバルクホルンを責めたてたことがそのたび思い
だされる。そんなことをしてもなにもかわらないと伝えたかったはずなのに、いまシャーロットは、自身がまったく同じ
ことをしている。ふん、ふんとまた歌いだしたエーリカを目を細めて見つめ、しかたがないというようすを繕うために
ため息をついた。

「……なんか探してくるよ」

 返事はない。くるりとひるがえって、背に歌声をうけながら出口へとむかう。
 ばかみたいだね、とエーリカは言ったのだ。あのとき、シャーロットの手首をつかみ額を首元におしつけて、こぼれて
きたのはあきらめに似たつぶやきだった。だれが、とはきけるはずもなかった。そして彼女は、シャーロットをしばり
つけた。いくなとひきとめられて、シャーロットがそれをふりきることなどできるはずがない。エーリカがその気ならば、
彼女が飽きてしまうまでそばにいることが義務だと思った。バルクホルンのかわりになれるなどはなから思っていない、
だけれど部屋の片づけくらいならしてやれる、わがままくらいなら満たしてやれる。ひどい逃げ道だと思った。これ以上
自分が動いてこじれてしまうことがあってはつぎこそ立ち直れる気がしないと、そうやって臆病になっているのも事実
だったが、結局シャーロットは、エーリカに甘えられることがかすかにうれしいのだ。

(なにもない)

 食堂にたどりつき、冷蔵庫のなかをのぞきこむ。しかしこまったことに、甘いものを所望しているおじょうさんが満足
するようなものはなんど見てもひとつとしてない。どうしようかと途方に暮れる。こんなときバルクホルンならどうする
んだろう、そもそも、片づけの途中におやつの時間などもうけないのだろうか。シャーロットは、自分がかなり弱って
いることを自覚していた。やつがエーリカを満足させられるはずがないときめつけていたくせに、そのバルクホルンの
思考回路を真似てみようと試みるなど、筋がとおっていないにもほどがあるのだ。ばたんと冷蔵庫をしめて、そのかたい
扉に背をあずけた。

(どうしてあのときつかみかかってくれなかったんだ)

 エーリカにひきとめられながら見た、気にもとめないような背中。うつむいていたエーリカだって、それをたった一瞬
でも見ていたにちがいない。おい、あんたの大事な子がほかのやつに手をだされてんだぞ、どうして、そんな平気な
態度でいられるんだよ。かすかにわきあがる憤怒がおそろしく醜いものに思われる。シャーロットは、あれはしかた
なかったのだと、ひそかに納得しかけていた。そう、自分はエーリカに近づきすぎた、限度があるとわかっていて、
盲目になっているあわれな少女を咎めてあげなかった。とっくのむかしにシャーロットは、ほぼ完璧にバルクホルン
の居場所をうばいさっていたのだ。その証拠に、エーリカがバルクホルンからすっかりとはなれてしまおうと決めた
現在も、一所懸命いちいちやつのようすを気にしていた過去も、外から見れば、すなわち、バルクホルンにしてみれ
ば、どちらもなんらかわりない、シャーロットとエーリカがずっといっしょにいるという紛れもない真実にすぎないのだ。

「……そうか、悪いのは最初から、あたしだったのか」

 だれもいないのをいいことに、震えた声でつぶやいた。それなのに、バルクホルンにもエーリカにも、こちらがじれ
ったいほどに責められやしない。それが余計につらくて、どうしたらいいのかわからなくなるのだ。
 部屋にもどってみれば、鼻歌はぴたりとやんでいた。あるのはかすかな寝息だけ。シャーロットは唯一見つけた朝食
ののこりのパンを手のなかで遊ばせながら、ゆっくりとベッドに近づく。からだはあおむけたまま、それでも顔はこちら
から背けるようにして、エーリカは浅い眠りについていた。目をとじた横顔を見おろす。結局あれからのばしっぱなし
の髪がシーツのうえにひろがっていて、いつ見てもきれいだと思う。だけれどもうそんなことは冗談でだって言えなく
なった。エーリカは以前にまして甘えるようにすりよってくるようになったのに、無理やりにつくっていた空気の壁など
とはくらべられないほどの強固な壁が目に見えるようなのだ。だから、ほほにかかった髪をすくってといてやることも
きっともうできない。

(ハルトマン)

 しんとした無表情の寝顔に、シャーロットはかなしくなる。どうしてそんな顔をしているんだ、夢のなかでくらい、かわ
いい顔でしあわせそうに笑ってほしい。

(ごめんね)

 くるりとからだの向きをかえ、すとんと床にすわりこみベッドにもたれかかる。きっとこれではよろこばせることは
できなかったであろうパンをかじり、まだ片づけきれない散らかる部屋を見まわす。最後にバルクホルンがきれいに
してくれてから、エーリカはそれをすこしでも保っていたくなかったのか、わざとかと思われるほどにすぐさま部屋の
なかをひっくりかえしていた。彼女にとってうれしくてしかたのないはずのバルクホルン仕様の自室は、シャーロット
のせいで見ているだけでも非常につらいものになってしまった。

「ごめん、ごめんね……」

 どうしたらいいのかわからないのだ、だから、あやまることすら正しいのか判断できない。シャーロットは眠っている
エーリカに、絶対にきこえない謝罪をゆっくりなんども繰り返すしかできなかった。

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 ひらかれたハンガーから空に描かれたふたつの白い軌道をながめ、シャーロットはストライカーのとなりで手に
もったレンチを無意識にきつくにぎりしめていた。美しく狂いのない、まるでお手本のような飛び方。エースがふたり
そろっての訓練ほど目の保養になるものはない。ただしそれは、平生のことならばの話だ。もどかしくてしかたがない、
とシャーロットは思っていた。どうしてそつもなく以前のようにぴったりと息をあわせてしまうのか、どんどんとずれが
おおきくなっているはずのエーリカとバルクホルンのこころの距離は、信じられないほどに彼女たちの仕事に影響を
およぼさなかった。おそらくそれはプライドだった、エースとしてのそれと、そしてお互いに対しての。こじれてしまった
仲など自分にとってはたいしたことでないのだと、そういうふうに相手に見せつけないときっと気がたもてないのだ。
だから事務的な会話はいままでどおりにかわしているし、お互いに不自然にさけるようなこともない。シャーロットは、
見ていて気味が悪くてしかたがなかった。どうしてふたりして取り繕うのがそれほどに上手なんだ、どうして、器用で
ある必要のあるところはおどろくほどにうまくできないくせに、そうやって誤解をさらに深めるようなことばかりが得意
なのだろう。
 だから、彼女たちがおかしなことになっていると気づいている人間はかなりしぼられる。ふたりにとってはほかの
ひとたちになにかしら勘づかれることもきらっているのだろう、それでも気づくものは気づいているように思われた。
だけれど、やるべきことに支障をきたしていないエースのふたりに物申せるものなどなかなかおらず、ふたりの佐官
も、彼女らが軍人としての勤めをないがしろにしないかぎりプライベートな部分に足をふみいれることはしない姿勢の
ようだった。

「おつかれ」

 ふと、背後から声がする。あいかわらず空を見あげていたシャーロットは緩慢な動きでふりかえり、そこにたつ人物
を認めた。エイラが右手を腰にあてて、ぼんやりとした表情で数メートルはなれたところにたっている。

「おー。おつかれ」

 レンチをにぎる手をひょいとあげて、シャーロットはのんきな声をだす。ついにきたか、と思う。かのふたりをつつく
ことができないなら、それならばもうひとりの当事者であるらしい自分に白羽の矢がたてられるのは当然のことだ。
愛想がよくほがらかで温厚なシャーロットは、そういったときに敷居がひくく、きっかけにつかわれることがすくなくない。
彼女はそれをとくに気にしたことはなかったが、今回ばかりはすこしうんざりとしてしまった。
 エイラは無表情なシャーロットが用件の内容に気づいたことを悟ったのか、なにがあったのかはしらないけどさ、と
単刀直入に前置きする。

「……つらそうじゃないか、最近」
「そうかい?」
「そうさ」

 くいとストライカーにむきなおりしゃがみこむと、とんとんと気配が近づいてくる。シャーロットはふりむかず、ストライ
カーに手をかけた。そのようすをながめながら、エイラはふうんと鼻をならす。

「あんまり、お節介は性にあわないんだ」
「はは、そうかな。おまえの得意分野だと思うけど」

 話をつづけるまえにシャーロットにそうきりかえされ、エイラはえ、と声をあげてひるんだ。彼女がバルクホルンを
ひそかに気にかけているのは、シャーロットのしるところであった。そして自分にも、エーリカにもだ。これよりまえの、
もっとも明確だったお節介は、ミーティングルームで新聞を読んでいたバルクホルンをエーリカとシャーロットがからか
おうとひとつ企んでいたときだ。偶然いあわせていたふうなエイラとサーニャ。ふたりともなんとなくこちらを気にして
いるようだったが、とくにエイラが明らかだった。そのうえ新聞紙にさえぎられているのをいいことに、サーニャと
ぼそぼそと話しながらも露骨にじろじろとバルクホルンのようすをうかがっているように見えた。

 それはおそらく、無意識なやさしさがにじみでているのだ。だが、エイラ自身がそれをひとに言われず自覚すること
はいままでなかったのだろう。だからお節介は性にあわないなどと、はたからみれば滑稽な台詞がでてしまうのだ。
そのくせ実際にいまのこのときだって、まずはじめにしびれをきらして、話をきこうとお節介しようとやってきたのは
彼女にちがいない。ちらりと横目でうしろを流し見れば、エイラが瞬きをしながら唇をとがらせ、よくわからない表情で
混乱しているようだった。シャーロットは思わずくっと笑い、つい饒舌になるのをとめられそうにない。エイラの訪問に
いい顔をしないような素振りを見せながら、どこかでだれかにきいてほしかったらしい自分がひどくまぬけだと思う。

「そうね、つまりは、自分のしらない自分ってのは、だれにだってあるってこと」
「……、なに?」

 唐突な指摘からまだたちなおれずにいる背後の人物に、これまた唐突な現状の説明をしてやった。

「そういうことさ、あたしにだって、自分のしらないところがあった」
「もっと簡単に言うと?」
「あたしは、自制がきくほうだと思ってた、だけどそんなことはなかったし、たいてい冷静でいられるってのもかんちがいだったみたい」

 しゃべりすぎか、とシャーロットが自覚したころ、エイラは混乱からたちなおり、おぼろげながら全体の筋を把握し
かけていた。つまりは、と、エイラが両手のひとさし指をたてそれらをかよわせたり遠ざけたりしといったふしぎな動き
をする。

「冷静じゃなくなったシャーリーが、なにかしちゃって、ふたりの仲がこじれた、と」

 明解すぎる物言いに、シャーロットはストライカーをにらみつけたままの顔をゆがめる。もうすこし歯に衣というもの
をきせてはいかがか。寸分の狂いもない名解答にぐうの音もでない。そうしてシャーロットがだまっていると、エイラは
またふうんと鼻をならす。

「だからか。だから、悪いと思って、最近あんなに一所懸命ハルトマン中尉のご機嫌とってるわけね」

 そしてつぎにつぶやかれたことばは、またしてもひどく的を射ていた。しかも、シャーロットにとってもっとも痛いところ
にはなたれた矢はつきささる。ぞくりと背筋がふるえて、思わず手にもっていたレンチをとりこぼし、かしゃんとかたい
音がひびく。よく似た感覚を最近味わってばかりだ、バルクホルンをまえにしたとき、そしてエーリカをまえにしたときも。

「……おいエイラ、そもそも、あたしのところにくるのは間違ってんじゃないか。おまえが気にしてるのは根性なしの
バルクホルンだ、だっておまえもあいつといっしょで根性なしだもの、さぞ他人事じゃなかったろう、だったらな、苦言
ならあいつにしてやったらどうだよ」

 震える声が大声にならなかったことだけがすくいだ。シャーロットは言いきる瞬間にはっとして、あわてて口元を手で
おおった。ごくりとつばをのむ音が、ひどくおおきくひびいた気がする。ふりかえることもできずに、シャーロットはごめん
とつぶやく。

「いまのは完全に失言だ、とりけすよ。ごめん」

 なにをわざわざ冷静でいられないまぬけさを実演してみせているんだ。シャーロットはなさけなくなり唇をかむ。やっと
のことでおそるおそる首をまわし、そこにたっているエイラを見やる。すると彼女は予想外のシャーロットの悪意に驚愕
するように目を見開いていたが、すぐに具合が悪そうに眉をよせて視線をそらした。

「……や、こっちもわざといやな言い方した。ごめん」

 だってへんじゃないか、とエイラは言うのだ。シャーロットはたちあがり、なんとか真っ直ぐに彼女のほうへとからだ
をむける。するとあちらも、再度視線で目前の人物をとらえる。その瞳の光があまりにつよくこちらにとんでくるもの
だから、シャーロットはぎくりとし、瞬きをした。

「らしくないじゃないか、いらいらしてなにもしないなんて。……シャーリーは、そんなふうにこわがって行動できない
ようなやつじゃないだろ、成せば成るっておおきくかまえて、いまのままじゃだめだってわかってるときにだまってたり
しないよ」

 それも、シャーリーのしらないシャーリーなのか? ぽんとなげられた疑問、それはシャーロットの思考を真っ白に
した。思いもよらぬ指摘はその目をひらかせ、呆然とした表情をつくらせる。しばらく返事もできずに、それどころか
微動だにできず、シャーロットは力のぬけた顔で呆然とエイラを見かえしていた。

「……いや」

 無意識のうちに、声がでる。それからやっと我にかえり、ふいと顔をそらしてシャーロットはまたもとのようにストライ
カーのそばにしゃがみこむ。

「あたしは、能天気な楽天家だ、エイラの言うとおりさ。なやんでるのなんて、それこそ性にあったりしないようなね」

 バルクホルンとエーリカには近づきがたいから自分のところへきたなどと、大層に失礼なことを考えていたものだ。
エイラはもとから、シャーロットを心配してやってきたにちがいない。かのふたりばかりがおかしなことをしていると思い
こんでいた、だけれどそれはまったくちがう。おかしくなっていたのは、シャーロット自身もそのとおりなのだ。はあ、と、
思わずなさけなく息をついてしまう。

「エイラ、おまえいいやつだね」
「……そんなんじゃねーよ。それに、機嫌の悪いシャーリーには二度と近づかないって教訓ができたからおあいこだ」
「だからごめんってば。おねがいだから見捨てないでおくれ」
「ちぇ、しらじらしいの」

 背中で話すと、すねた声がとんできた。思わずくっくと笑いがもれる。シャーロットは気をとりなおすようにおとした
レンチをひろいあげ、やっとストライカーの整備へととりかかる。すると気配がはなれていく音がした。あらわれたとき
と同じようにかすかな気配が、シャーロットから遠ざかっていく。

「おい」

 ふと、呼びとめてしまう。それにエイラも立ちどまる。シャーロットは手元をかちゃかちゃと言わせながら、すっと息
をすった。

「今度デートしよう、お詫びとお礼に、なんかおごるよ」
「……サーニャにもおごるってんなら、つきあってもいい」
「はは、じゃああたしはルッキーニでもつれてくかな」

 ふん、と、エイラは鼻をならし、そのままかけだしていってしまった。背をむけているシャーロットはそのときの表情は
確認できなかったが、おそらくそれはひどく安堵した、満足したそれにちがいないと思われる。お節介やきのエイラは、
すっかりとお節介をやいてきっとうれしそうなのだ。

(そうだよ、失敗をこわがるなんて、そんなのはあたしじゃない。あとのことなんてあとから考えればいい、まずは行動
しなくちゃいけないんだ、……)

 いまだ彼女たちの飛行訓練はつづいている。シャーロットは空を見あげずになにかを決意したかのように唇をひき
しめ、ゆっくりと丁寧に、自分のストライカーの整備をつづけていた。


 エーリカは飛行訓練をおえ汗を流し、他人に片づけてもらった部屋のベッドのうえでぼんやりとしていた。頭はかわか
さないままからだをなげだし、きょういちにちのことを、むしろここしばらくのことを思いかえす。彼女にとってつかれる
ことばかりだった、バルクホルンはやはり自分のことなどどうでもいいかのごとく、こんなにもいっしょにいることがなく
なってしまったのに普段どおりの顔色をしているのだ。かの扶桑の新人がはいってきたばかりのころはひどく機嫌が
悪く動揺だってしてたはずのバルクホルンは、エーリカのことについてはうろたえもしていなかった。

(……むかつく)

 必死に、こころのなかで悪態をつく。それはまるでかっこうのつかない強がりだから、エーリカはもう二度と彼女の
ことを口にすることができないのではないかと思っていた。それでよかった、このまま、この気持ちがきえてしまえば
いい。ふとした眠気を感じながら、エーリカはそっと目をとじた。が、その瞬間に、ばたん、とおおきな音をたてて自室
の扉があけはなたれるのだ。ぎょっとしてからだを起こせば、そこにいたのは険しい顔をしたシャーロットだった。異様
な気配に面食らう。

「え、なに」
「……」

 無言のまま、シャーロットがずんずんと入室してくる。エーリカは不審に思いながら、唐突な嫌な予感に目を見開く。
シャーロットは問答無用に、目を白黒とさせている少女の腕をつかんだ。いろいろ考えたんだ、いまはベストじゃない
んだ、いまのままじゃ、だめだろ。それからそうやって、半ばさけぶような調子で言うものだから、エーリカは肩をこわ
ばらせる。急激な変貌だった。エーリカは事態の展開についていけずに、呆然と、きつく自分の二の腕をつかむ力に
顔をしかめた。

「なに、なんだよ、痛いよ」

 でるのは動揺をかくせぬ声ばかりだ。シャーロットはあれから、エーリカにまるで腫れ物にでもふれるかのように
接してきた。余計なことはしないようにとおとなしく、彼女のわがままに従っていた。そんなことはしなくてもいいと
思っていた、だけれどそう言うこともできなかった。だからずっとシャーロットは、こんなふうにエーリカの予測しない
ような行動をとろうとするようすなどまったく見せなかった。

「急に、なんだよ」
「一所懸命、考えた。だけど、これっくらいしか思いつかなかったんだ」

 それなのにいまときたら、質問にも答えない。あいかわらず眉をよせて唇をひきしめ、こわい顔をしたシャーロット
がいた。エーリカは混乱したまま、彼女の急激な変貌の起因に思いあたれない。だけれど、ひょっとしてと思う。わたし
があんまりこきつかうから、今度はシャーリーにもほとほと呆れられちゃったのかな。瞬時にそうにちがいないという
結論がでる。そしてその当然の成り行きに顔をしかめていると、唐突にからだが浮いた。

「な」

 状況を理解したころには、早足で歩くシャーロットに廊下までつれだされている。エーリカの細いからだはシャーロット
のからだとは前後反対にわきに抱えられ、手足が宙をかいていた。

「は? しゃ、シャーリー」
「……」

 無言の圧力が、後頭部のもっとうしろからとんでくる。腰を抱えこまれたエーリカは一所懸命ふりかえりシャーロット
の背中をこぶしでたたく。が、シャーロットはまったくひるまない。だまったままで足をとめずに、ひたすらに廊下を
歩いていた。そこでエーリカは、彼女の目的地に気づいてしまう。さっと、血の気がひいた。

「……ちょ、ちょっとまってよ」
「またない」
「なんだよ、どうしちゃったんだよ。おかしいよこんなの、はなして、はなしてよ、はなせっ!」
「うるさい!」

 シャーロットが声を荒げたところで、彼女の足も同時にとまる。ある一室のまえ、つまりバルクホルンの部屋のまえ
だった。いやだ、いやだ、やめてよ、なにするんだよ。エーリカがそうやって逃げきるまえに、シャーロットはそのドア
をあけてしまった。彼女からはなかのようすはまったく見えない、けれど、部屋の主が息をのんだのはわかった。と
思っているうちに、またからだが浮く、というよりもほうりなげられる。

「なっ」

 エーリカのものではないおどろいた声。それが耳にとどいた瞬間に、からだがどこかぶつかり衝撃をうける。だけれど
ひとつも痛みはなくて、あるのは柔らかさとぬくもりだけ。反転した視界に、シャーロットがいた。冷静になれない頭で
なんとかまわりを観察する。なげつけられたエーリカは、バルクホルンに見事にキャッチされ、それでも彼女があと
ずさってすわりこんでしまったベッドのうえで抱きとめられていた。

「……じ、じれったいんだよ、おまえら」

 震える声がひびく。うえとしたが反対のエーリカの視界の真ん中で、シャーロットが怒っているのか泣いているのか
唇のはしをひきつらせながら、エーリカをなげつけた体勢のままでかすかに息を荒げている。それからゆっくりとうつ
むき、だらりと両手をさげてたちつくした。お互いにかっこつけて、誤解ばっかりして、ちゃんと、本音ぶつけあえよ、
なんで、なんでそんな。入り口のそばで、彼女は声を徐々にちいさくする。怒鳴られているふたりは呆然と、そのようす
を眺めていた。

「おまえらばかだ、ばかばっかりだ、でも、いちばんばかなのはあたしだった、ごめんふたりとも、ごめんなさい」

 それが最後のひと言で、シャーロットはうつむいたまま、逃げるようにあけはなたれたままの扉をくぐりぬけていって
しまう。ばたんととざされた出口、そのむこうでばたばたと足音がとおざかっていく。とりのこされたひとびとはあいかわ
らず呆然とし、かたまったままにその扉をながめていたが、唐突に、そのうちのひとりが我にかえる。

「……あの、はなしてよ」

 ちいさなつぶやき、それをはなったエーリカを抱えこんでいたバルクホルンはやっとはっとして、自分の胸のなかに
拘束されもぞもぞともがいている少女をあわてて解放した。するとその子はさっさと彼女の腕からぬけだし、バルク
ホルンに背をむけるようにベッドのうえにすわりこむ。これはいったい、どういうことなんだろう。エーリカは奇妙に
冷静な頭でぼんやりと考える。この状況をつくりだしたシャーロットは、無責任にもとびだしていってしまった。わから
ない、わからないけれど、ここにいるのはいやだと思った。ごめんね、シャーリーが勝手にへんなことをしただけ
なんだよ。背後のひとにそう言って、さっさと逃げだそうと思った。それなのに口がまわらなくて、自分が緊張している
んだと悟る。ならばせめて、にげるだけでも。そう思ってベッドのうえからとびだそうとした。それなのにできない。
だって、バルクホルンがいってしまおうとしたエーリカの手首をつかんだのだ。

「あ」

 ぎょっとしたエーリカがふりむききるまえに、バルクホルンは思わずといった風な声をあげてその手をはなしてしまう。
だけれどすっかりとタイミングを逃してしまったせいで、エーリカは結局彼女とむかいあうはめにあい、反射的に顔を
ふせた。それはむこうもおなじで、ふたりそろってベッドのうえで沈黙する。ああ、そういえばこのひとのベッドのうえ
なんて久しぶりだ。そんなことを考えていても、シーツの感触をたしかめる余裕もない。エーリカはやはり緊張しながら、
この事態を打破する方法を必死にさがした。

「……あ、あの」

 しかし唐突に、ぼそりとしたつぶやきが耳にとどくや否や、がばりと顔をあげてしまう。まさかむこうからこの沈黙を
どうにかしてくれるとは思いもしない。だけれど目があうことはなく、バルクホルンはうつむいたまま。しかもつぎに
ことばがつづかない。エーリカは徐々に高まる気まずさにやはり逃げだしたくなって、しかしそれは先程すでに失敗に
おわっているのだ。

(さっきのって、ひきとめられたのかな)

 顔をふせているバルクホルンの、たれる前髪をぼんやりとながめる。どうして彼女がそんなことをしたのかわから
なくて、エーリカは理由がしりたいと思った。途端、意を決したようすのバルクホルンが顔をあげ、緊張した面持ちで
口をひらく。

「ちゃんと、部屋のそうじは……」

 そして言いかけ、しかしすぐに口ごもる。ちがう、私が言いたいのはそういうことじゃなくて。ぶつぶつとつぶやき
もたもたとやりにくそうに手をもんで、彼女はまたうつむいてしまうのだ。一方エーリカは、途中でとまってしまったとは
いえ久々のバルクホルンからの小言がひどくうれしい自分に驚いていた。ばかだと思う。そんなうるさいだけのもの
に、なにをどきどきしているんだろう。

「ミーナが、言ったんだ」

 うんざりしていると、また唐突な発言。なんだろうと思っているうちに、ぎくりとした。だって急に、手がにぎられた。
シーツのうえにおかれていた両手が、目のまえのひとの手につつまれている。

「おまえが、あいつとなかよくなるのはいいことだって、言ったんだ」

 エーリカは、冷静になれない思考で一所懸命バルクホルンの発言の意図を読もうとした、それでもバルクホルンの
手がまるで必死に、すがるように力をこめるたびに無駄におわる。あいつ、本音をぶつけろって、言った。今度は
そんなことを言って、ぽんぽんと話がとぶものだから余計に混乱する。もともと説教以外の話をするのが不得意な
バルクホルンなのだから、この異様な状況で簡潔にまとめられた話をすることなど不可能と言って過言ではないに
しても、エーリカだってそれはおなじで、普段の聡明な理解力などいまはないに等しかった。わかったのは、あいつと
いうのがシャーロットのことであることくらい。

「そうだなって思った、思おうとしたんだ。けど、だめだ。私は、おまえが私じゃないやつといっしょにいるのは、いやだ」

 だから、そうやってつづけられたことばの意味なんて、全然わからなかった。ぱちぱちと瞬いて、なにも言えないで間
のぬけた顔でゆれている前髪をまたながめた。するとバルクホルンがゆっくりと顔をあげて、いまにも泣きだしそうに
ふるえる目尻でエーリカの視線をうけとめようとした。だけれどすぐに我慢できないようすでうつむいてしまう。でも
おまえは、そういうの、いやだろう? そして勝手に結論づけてつぶやいて、それは急に、呆然としていたエーリカの
逆鱗にふれてしまう。ばっとにぎられた手をふりきって、そのままの勢いでなんどもバルクホルンのてのこうをたたいた。
べちべちと音がして、こどもの戯れみたいなやり方になってしまうのがくやしい。

「い、痛い」
「いたいもんか、こんなの」
「痛い、いたいよ」
「うるさい、なんだよ、わたしがいやだって言ったことなんてないじゃないか、勝手にきめつけるなよ」
「だ、だって、おまえはそういうやつだ」

 まるでエーリカのすべてをわかっているかのような物言いに、ふと、エーリカはたたきつけていた手をとめてバルク
ホルンを見た。ばかだと思った、なにもわかっていないくせになにをおおきな口をきいているんだ。どんどんと、原因
のわからない怒りが腹の奥からわいてきて、それなのに手は、先程まで攻撃の対象になっていたものをにぎって
いた。するとバルクホルンはぎょっとしたように手をひきかけたけれど、力をこめられて観念したのか絡んでくる指を
にぎりかえした。

「…それに、私なんかといっしょにいても楽しくないだろうし、私じゃ不釣合いだってあいつに言われもした」
「それで、真に受けちゃったの」
「ちがう、むかしから思ってたんだ。私は、おまえのこと、どうすればいいのかわからない」
「なにそれ、そんなのいらない。トゥルーデがしたいようにすればいいじゃないか」
「でも」
「なんだよ、シャーリーの言うことはきくのに、わたしの言うことはきけないわけ」
「ち、ちがう、ちがうよ……」

 あんまりぼそぼそとしゃべるものだから、余計に腹がたってくる。それなのに思いきりどなりつけられないのはどう
してなんだろう、すこしずつほほが赤くなって、視界がぼやけてくるのはどうしてなんだろう。エーリカは気づかれたく
なくて、バルクホルンがこっちを向けないように一所懸命こわい声をつくった。

「わたしがシャーリーといっしょにいておもしろくなかったんなら、言えばいいじゃないか、なんだよ、いっつもすました
顔しちゃって、ばかじゃないの」
「だって、おまえはあいつといっしょにいたら楽しそうで、それで、あいつといっしょにいたいんなら、しょうがないじゃ
ないか」
「しょうがなくないよ、シャーリーといっしょにいたら楽しいよ、でも、それだけでいっしょにいたいなんて思わないよ」
「う、うそつくな」
「うそなんてつくもんか、ばか、トゥルーデのばか」

 あ、だめだ。思った瞬間には、涙がほほをつたっていた。だけれど、必死なバルクホルンはそれにも気づけないで
だってと言う。

「き、キスだってしてた」
「あんなの、シャーリーが冗談でしただけじゃないか、急だったからよけられなかっただけで。ちゃんと見てたわけ、
目、節穴なんじゃないの」
「それに、あれからだってずっといっしょにいる」
「そんなの、いやがらせにきまってるよ。わたしは、だれかに迷惑かけないといきてけないんだよ、なんだよ、トゥル
ーデだってしってるくせに。せっかくいままではトゥルーデですんでたのに、どうでもいい顔してどっかいっちゃうのが
悪いんだ」
「どうでもいいなんて、私がおまえになにもしなくなっても平気な顔をしてたのはそっちじゃないか」
「わたしはいいんだよ、わたしはいいけど、トゥルーデはだめなの」
「な、なんだよそれ、おかしいよ、そんなのおかしいよ」
「おかしいもんか、もうやだ、トゥルーデなんてきらい、きらいだ、だいっきらい……」

 最後のほうはのどからもれる嗚咽にかきけされていってしまう。ぼたぼたと涙も本格的にこぼれはじめて、バルク
ホルンはそこでやっとエーリカの有様に気づくのだ。

「ふ、フラウ」
「うるさい、見るなよ」

 こぼれてくるものをてのこうでなんどもぬぐうけれど、一向におさまってくれる気配はない。ばかみたいだ、こんな
かっこうわるい姿を見られるなんて。はずかしくてうつむいた、すると急に、ぬくもりがからだをつつむのだ。

「なくな、なくなよ、おまえがないたら、私は、どうしたらいいか……」

 エーリカは、バルクホルンの腕のなかでなさけない声をきく。まるでそちらこそが泣きだしそうで、背中にまわって
いるてのひらだって震えていた。やっぱりばかだ、ふたりそろって、こんなにかっこうわるい。

「いやだ、はなしてよ、わたしはもう、トゥルーデなんてきらいなんだ」
「き、きらいなんて言うな、そんなのこまる、こまるよ」

 エーリカがもぞもぞともがくと、バルクホルンは余計に力をこめて拘束する。さっきははなせと言えばあんなにあっさり
と解放したくせに。涙はまだとまっていなくて、バルクホルンの軍服をぬらしていく。それがなんとなく申しわけなくて、
今度こそ本気でにげだそうと胸をおしかえすところだった、それなのに急に、バルクホルンが耳元に唇をよせて緊張
した震えた息をはいてつぶやいてしまう。だってすきなんだ。

「……」

 一瞬、いや数瞬意味の理解ができなくて、エーリカはかたまる。それからバルクホルンの顔を見たいと思ってつぎ
こそちゃんと胸をおしかえそうと試みるが、バルクホルンははなしてくれない。絶対はなさないようにと逃がさないよう
にと、ちいさなエーリカをかかえこんでしまっていた。

「……な、なんだよそれ、すきならすきでそれでいいじゃないか、なのにいちいち建前ばっかり用意して、それで、その
せいで、こんなに……」

 こみあげてくる感情をごまかそうと一所懸命悪態をつこうとした。でもそんなことは、なにもかきけしてはくれない。
うわあんと、エーリカは今度こそ大声をあげて泣いた。涙がこぼれるのも声がかれるのも気にしないで、わんわんと
泣いた。そのたびバルクホルンがあわてた声で泣くな泣くな泣かないでくれと言うけれど、それがあんまりうれしい
エーリカは、そんなことで泣きやめるはずがないのだった。

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(やっぱりキスも冗談だと思われてたか)

 シャーロットはバルクホルンの部屋の扉によしかかり、そのからだにルッキーニをもたれさせてその耳をふさいで
いた。むこう側からはしあわせそうな泣き声と本気であせった声がひびいていて、シャーロットはふうと息をつく。それ
からルッキーニの耳をおさえつけていた両手をはなして、そのままちいさな手をとって歩きだす。気になってしかたが
ないのに、ひとりで盗み聞きをする勇気もないなんてまぬけにもほどがある。こんなにおさないルッキーニをひきつれ
て、自分はいったいなにをしているのか。

「あれ、シャーリー?」

 急にひっぱってこられたと思ったら耳をふさがれていたルッキーニは、新手の遊びでもはじまるのかとシャーロット
にされるがままわくわくしていたが、結局なにもないままもといたほうへとつれていかれそうになってふしぎそうな声
をあげる。シャーリー、ともういちど声をかけるが、いまの彼女に返事をする元気などない。

(憎まれ役ってか、損な役)

 ルッキーニの手をきゅっとにぎった。はじめてエーリカが部屋にとまりにきたつぎの朝、役得だなどとにやけていた
自分を殴りたおしたい。にやけていたかったなら、それ以上接近してはいけなかった。

「ルッキーニ、きょうはいっしょにねようか」
「へ、なんで?」
「んー、なんでかなあ」

 ことばをにごすと、ルッキーニがつないだ手にすこしだけ力をこめる。ああ、ルッキーニは聡い子だ、本当に。さみしい
からだよと言えもしないのに、なんとなくそういうことがわかるらしかった。いいよー、と、まるでシャーロットをかわいがる
ようにつぶやいてからにこにこと笑う。

(ああ、癒されるなあ)

 ふたりとも、おめでとう。末永くおしあわせに。もしよかったら、これからもともだちでいてくださいね。シャーロットは
とおざかる扉のなかへと語りかけ、そこでやっと、満足したようにふふと笑った。

「あ、そうだ」

 そのとき、ぽんと思いだしたようにルッキーニがつぶやいた。そしてつぎにつづくのは、あまりに予想外のことば。

「ねえねえ、シャーリーってろくでもないの?」
「は、はあ?」
「なんかねえ、ハルトマン中尉が言ってた」
「へ…、あ、そう、そうなの」

 はは、とかわいた笑いをうかべるが、ルッキーニはさらにつづける。

「あとね、シャーリーってたまにちょっと邪魔だよ」
「……。な、なに?」
「これもハルトマン中尉が言ってやれって言ってた」
「……」

 もうかわいた笑いも、ああそう、なんて気のぬけた返事もできなかった。

(そうなの、あたしって、ハルトマンのなかではそういう感じに位置づけられてるわけね)

 なんだかちょっぴり、泣けてきた。シャーロットはルッキーニの手をなんとかひきながら、やっぱりもうともだちも無理
かもしれない、と、うなだれたのだった。


おわり



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