二人きりの演奏会
足が地を踏んでいく。右、左、右、左と規則的に、断続的に。
その軽快なリズムは一向に乱れることを覚えそうにない。
今日は、調子がいい。
朝の自主訓練は欠かしたことがないが、今までこれほどに体が軽かったことはない。
普段ならやや息が切れ始めペースもおちてくるころだというのに、今日は小鳥のさえ
ずりにさえ耳を傾ける余裕がある。
ひょっとしてミーナにしてもらったあれが効いているのだろうか。美緒は昨夜のこと
を思い出し少し顔をほころばせる。あのときはミーナにすっかり体をあずけてしまっ
て一人でずいぶんと気分良くなってしまったものだ。途中、みっともない声をあげて
しまってやや恥ずかしかったが、しかしミーナのやつ、油断しているすきにあんなと
ころを触るだなんて、そんな茶目っけがあるとは思っていなかったぞ。
美緒はそんな風にミーナのことを頭に浮かべていると足のはこびがいっそう軽くなっ
ていることにも気付かないで、朝の眩しいほどの日の中を駆けていった。
*
ふと気付くと、見知らぬ景色の中にいた。いや、正確には見知っているのだがそれは
いつものコースを通っていれば見るはずのない景色だった。しまった、あんまりに調
子がいいものだから、普段折り返す場所をすぎて基地の裏側まで来てしまったのだろ
う。走るのをやめ、耳のうしろあたりを指でひと掻きすると美緒はそのまま体を返し、
来た道を戻ろうとした。
しかしその刹那、風にのって聞こえてきた何かに美緒は思わず足を止めた。
歌だった。それもこの声は、
「ミーナ」
その歌声はかすかにきこえる程度だったが美緒にはそれがミーナの歌だとはっきり分
かる。たとえどんな喧騒の中にいたとしても聞き違うことはない。それほどまでにミ
ーナの歌声を何度も聴いたし、また何度も聴くほど美緒は歌うミーナが好きだった。
自分の足音でミーナの声が消えてしまわぬように、そして少しでも長く聴けるように、
ゆっくりとその歌の聞こえてくるほうへと歩みを進めていく。この歌は確か数ヶ月ほど
前に夜のテラスに二人で居たときに歌ってくれた歌だ。どこか切なげなメロディーが夜
の落ち着いた雰囲気にぴったりだと思ったが、なるほど朝聴いてもこれはまた違った良
さがある。
段々と歌声が近くなっていくにつれ美緒は心が高鳴っていくのを感じずにいられない。
いつだってそうだ。ミーナの声はすごく穏やかなのに聴いている自分はどうしてか気持
ちのたかぶりを抑えることができない。
昔、自分は歌が好きなのだと勘違いしてミーナに彼女が歌っていた歌の入っているレコ
ードを貸してもらったことがある。レコードの中のおそらくミーナの二倍以上は歳をと
っているであろう女流歌手は間違いなくミーナと同じ歌を歌っていたが、自分はそれに
対して単なる歌以上の感想を抱くことができなかった。
音楽にまったくと言っていいほど教養のない自分でもなんとなくその女流歌手の歌がう
まいらしいことは分かったが、その歌といったら耳に入っては反対のほうから抜けてい
き、心に何も残していってはくれなかった。なんだこれは。よくよくきけば、ミーナの
ほうがずうっと歌が上手いじゃないか。
聞いているうちに段々とむかっぱらが立ってきて、半分も聞かずにミーナにレコードを
突きかえした。きっとあのときの自分はものすごくいらだった顔をしていたに違いない。
もういいの、と不思議そうにこちらを見るミーナの顔は、今でも覚えている。
*
やがて美緒は、ミーナの姿を視界にとらえた。岬に立つ朝風のドレスをまとう歌姫、
その背後に立ち、少しだって聞き逃してやるものかと耳をすます。ミーナの歌声を今
世界で一番近くで聞いている自分を誰でもいいから自慢してやりたかった。
そうしているうちにミーナは最後の一音を歌にのせおえる。
「あら、聞かれちゃったわね」
余韻に浸っていた美緒に振り向いてミーナは言った。
「すまない、邪魔してしまったか?」
「いいえ、そんなことないわ」
ミーナは耳にかかる髪をさらと撫でる。
「そうか、なら良いんだ。いやなに、走っていたらききなれた声がしてな」
「走っていたら、って……いつもこんなところまで来るの?」
「まさか。今朝はやけに調子が良かったんだ。
昨日誰かさんがしてくれたマッサージが効いたのかもしれん」
「あら、それはいいわね。今度私もしてもらおうかしら」
二人は顔を見合わせ、くすくすと微笑いあった。
「ここへはよく来るのか?」
「いいえ、今日はたまたまよ。それで、待っているのもなんだから歌でもって思って、」
「ん、誰か待っていたのか?」
たまたま来たのに待ち人とはどういうことだろうと美緒は不思議に思う。ミーナを見てみ
るとなんだかばつの悪そうな、しまったという風な顔をしていた。
「いいえ、その、待っているっていうのは間違いで、」
傍目にも分かるほど動揺しているミーナを見るのは珍しかったが、それ以上に誤魔化そう
としているのがまる分かりで。美緒は堪えきれずいつものように豪快に笑った。するとミ
ーナは恥ずかしそうに目を伏せ、ため息を一つついた。
「分かったわ、白状します。今日私がここに来たのはね、美緒に会えるような気がした
からよ。それだけ」
少しだけ口調をはやめミーナはさもなんでもないかのようにさらりと言った。思いがけず
自分の名を呼ばれた美緒はきょとんとした顔をミーナを向けてしまったが、すぐにふふと
小さく息を漏らしたあと、また豪快に笑った。
「はっはっは! 私に会いたいのなら、いつもの訓練場所に来ればいいのに、おかしなや
つだな、ミーナは!」
「ああもう、だからあなたに言うのは嫌だったんだわ。そういうことじゃないのよ、もう、
あなたって人は、どうしてそう」
ミーナは呆れた様子で頭を押さえると、むっとした顔で自分に対する文句らしき言葉をほ
とんどひとりごとのように並べていった。美緒はどうしたものかと肩をすくめたが、ミー
ナのその頬が少し赤みがかっていることに気付くとそういえばミーナがこんな表情を見せ
てくれるのは自分と二人きりのときだけだなと急にいとおしい気持ちになる。するとミー
ナが浮かべるふくれっ面も可愛らしいものに思えてきて、美緒は気付かれないようにそっ
と微笑をこぼした。
「でもね」
不意にそれまでとは違った穏やかな声が聞こえて美緒はあらためてミーナに目をやる。
ミーナはさっきの赤みがかった頬のままでいて、こう言った。
「やっぱり間違ってはいなかったでしょう? あなたは、ちゃんとここにきたもの!」
まるで幼い少女のような顔をして、ミーナは続けた。
「私ね、さっき、あなたがこっちに近づいてきているのが分かったのよ。魔法なんて
使ってない、それでも、美緒が私のところに来ているんだって感じたの。だから、
あなたがここにいたことにも驚かなかった。それよりも……きっと嬉しかったのね。
ふふ、こんなこと言うと、またあなたに笑われてしまうかしら」
そう言いながらも、ミーナはとても楽しそうに笑顔を浮かべていた。もしかするとミーナ
は自分がこれから言うことを分かっているんじゃないのかと思いながら美緒は口を開く。
「笑えるはずないさ」
なぜなら、美緒だってミーナに会えて嬉しいに違いなかったから。そうでなければ、一向
におさまりそうにないこの胸の高鳴りはどう説明すればいいのだろう。毎日顔をあわせて
いるはずなのに、こうしていつもと違う場所で偶然に出会うだけでこんなに心躍るのはな
ぜなのだろう。
それに、ここに来たのだってもとを辿ればミーナのことで頭がいっぱいで道なんてほとん
ど見ちゃいなかったからだ。そっちのほうが、よっぽど笑われても仕方のないことのよう
に思えて、美緒は絶対にこのことは秘密のままにしておこうと決めた。それよりも今は誰
の邪魔も入らないこのひと時をもっとあじわいたい。
「なぁミーナ」
そしてそれはきっと、この目の前の歌姫も同じだろうから、きっと自分たちはあとしばら
くはこうして一緒にいる。朝食の時間がせまっているような気がしたが、かまうもんか、
たまには二人して欠席して、あとで一緒にブランチでも食べるのだって悪くないだろう。
「もう一曲だけ聴かせてくれないか」
二人の間をそよ風が吹き抜けると草木が喝采の音を鳴らして、
美緒とミーナの二人きりの演奏会はもう少しだけ続くようだった。