Fill
自分の気持ちの全てが本物だとどれだけの人が言えるだろう
今抱えてるその想いは夢? 現実? それとも……?
『Fill』
―――――――っ! はあっ、はあっ。
深夜の静寂に響く荒い吐息。
跳ね起きたのは一人の少女。長い銀髪と憂いを帯びた翡翠の瞳が特に印象的な、まぎれもない美少女だった。
あるいは少女というカテゴライズも適切でないかもしれない、と思わせる端正な顔立ち。
少女の名はエリザベス・ビューリングといった。
ブリタニア軍所属で今はスオムスに派遣されている、通称“いらん子中隊”のメンバー。
今ではその通称が親しみを込めた愛称に変わったのは、カウハバの誰もが認めるところだ。
けど。
今日も、か……
ビューリングは胸のうちでそう呟くと、そっと周りを見渡した。
視界に映るのはすやすやと眠る中隊の仲間たち。
士官も多いメンバーが揃って一つの部屋で、というのも奇妙な気はするけれど。
とりあえずは他のみんなの眠りを妨げなかったことに彼女は胸をなで下ろした。
窓の外には北欧スオムスのまだ冷たい冬風。
もう一度眠ろうという気にもなれず、ビューリングはベッドから這い出した。
薄いジャケットを羽織り、懐手にラッキーストライクの箱を確かめる。これが無いと落ち着かない。
部屋から出る前にもう一度他の子の様子を見回して、ビューリングはそっと扉を閉めた。
ブリタニアならもう、今時分は春の足音が聞こえているだろうか。
でもそれはスオムスでは春まだ遠い季節だという意味でもある。
宿舎から出たビューリングを凍てつくような空気が包んだ。じっとりとかいた汗が髪の上で結露する。
彼女は“ウィッチ”だ。本来なら魔力でこの寒さも緩衝出来るのだけれど、彼女はそれをしなかった。
薄いジャケット一枚でどうにかなるはずもなく、ビューリングは両手で自分の肩を抱いた。
こんなことで、許されるなんてはずもないけど。
ランウェイの端まで歩いて来て、ビューリングはやっと腰を下ろした。とめどない呟きが風に流れる。
月が綺麗だった。それがたまにちらちらと翳るのもこの季節ならきっと仕方ないのだと思う。
懐からタバコを取り出して吸い込んだけれど、結局落ち着くことはなかった。
気持ちをごまかす様にぐしぐしともみ消す。はき出した煙と一緒にため息がこぼれた。
とんとん。とんとん。
―――――――!
「私が言うのもなんですけど、ちょっと無防備すぎませんか? ビューリングさん」
不意に背中をノックされ、慌てて振り向いたビューリングに聞き馴染んだ声が掛かる。
視線の先に薄い金色の髪と柔らかな表情の美少女。
「……エルマ中尉か」
声の主はエルマだった。
エルマ・レイヴォネン。中隊のスオムス代表。スオムス空軍の落ちこぼれを自認しているが、
それが正しい評価でないことをビューリングは知っている。いや、ビューリングだけではない。
彼女はいくらか臆病なところを除けば、実に優秀なウィッチだった。
「はい。……でも、本当に気づかなかったんですか? さっきからずっと目の前にいたんですけど」
「あ……、ああ。いや、気づかなかった」
ほんと、どうかしてる。
ビューリングはズキズキと痛む頭を押さえて顔を伏せた。
ぐらぐらと揺れる意識の片隅に割り込んだ気配が、つまりエルマのそれがほんのそばまで近づき、
そしてビューリングの細いその身体はふんわりと抱きすくめられた。
背に当たる柔らかな感触。熱。伝わる感覚に思わずビューリングは身を竦める。
その反応がおかしかったのか、エルマはくすくすと声を出していた。
「でもビューリングさんは、どうしてこんなところに?」
「そんな、特に理由はないが……中尉は、どうして」
「私は、ビューリングさんが外に出るのが見えたので」
ちょっと気になって、とエルマは付け加えた。
エルマが声を出す度に、何かを言う度に、もれる吐息がビューリングの首筋を撫でていく。
気づけばエルマの顔はビューリングの肩の所、もうすぐそばに在って。
意識をなんとか逸らそうと、ビューリングは言葉を探した。
「もしかして、起こしてしまったか?」
「いえ、そんなことはありませんけど……」
そう言うと、エルマは腕の拘束を解いてビューリングの横に座りなおした。
薄影の月に照らされるビューリングの横顔は、予想通りと言うべきか、羨ましいくらい綺麗だ。
「でも、ここのところ随分うなされてるみたいで心配だったんです。
何か悩み事でもあるんですか」
「そういう訳じゃないが……、いつから気づいてた?」
そう聞くビューリングの顔は少し蒼ざめて見えた。
嘘をついても仕方ないように思えてエルマはありのままを答える。
「1週間くらい前でしょうか。部屋も黙って出て行かれるので気づかない振りをしてたんですけど」
「そう……か。他のみんなは」
「みんなは気づいてないと思います。自信は、ありませんけど」
エルマの答えを聞きながら、ビューリングは寒そうに首を震わせた。
両手を口許に運び、白い息をつく。たったそれだけの行為が、この少女では妙に艶めかしく思えた。
「……心配をかけてすまなかったな」
「それはいいんです。……ビューリングさん、私じゃ役には立てないかもしれないけど、
もし何か悩んでるんなら、言えることがあるなら、教えてはくれませんか」
「ありがとう中尉。でも、悩みというほどのものじゃないんだ。ただ、ほんの少し、」
そこまで言ってビューリングは黙り込む。
長い髪に隠れてエルマにはビューリングの表情は分からなかったけど、
彼女の言うほんの少しがほんの少しにはとても思えなかった。
その意味を確かめたくて、エルマはビューリングの顔を覗き込む。
表情を、何かを押し殺すようなその表情に、言うまいと思っていた言葉が口をついた。
「……好きだったんですか?」
「違う!」
弾かれたようにビューリングは叫んだ。次の瞬間に取り乱したことに気づいたけど、もう遅かった。
エルマの疑問は確信に変わっていた。それが知りたかった。
そのことが目の前の彼女をどれだけ傷つけていたとしても。二人は揃ってゆっくりと息をついた。
「ごめんなさい。話は、トモコ中尉から聞きました。
私が、ビューリングさんが悩んでそうなことに心当たりはないですか、って聞いたんです。
トモコ中尉は、勝手に喋っちゃっていいかわからないけど、って前置きして
ビューリングさんのオストマルクでの話を教えてくれました。
きっともう自分なりに折り合いはつけてるとは思うけど、って言われましたけど」
「そう、だったらよかったんだけどな」
聞きながら軽く唇をかんだビューリングは、押し出すようにやっと答えた。
一度エルマの方を見やり、また居たたまれないように視線を外す。何回かを数えることはしなかったけど、
それを何度も繰り返したこともおそらく彼女自身は気づいてないだろうとエルマは思う。
その所在無げな仕草に、今度心がぐらつくのはエルマの番だった。
自分はビューリングの心がいつまでも離れられないヒトのことを何も知らない。
知っていたらどうにかなるなんて思えなかった。それでも、知りたいと思うのはおかしいことなのだろうか。
「どんな人、だったんですか」
「……無茶な女だった。自分の技量に絶対の自信を持っていて、一歩も引かないやつだった。
ライバル……みたいなものか。私も腕には自信があったから、それでケンカになるのもしょっちゅうで。
私と違ったのは、彼女は戦闘以外にもウィッチ、いや、軍人としてのあらゆる才に恵まれていたことだ。
士官、指揮官としても彼女の活躍は、将来は約束されているとみんなが思ってた。
その未来を失わせてしまったのは他ならぬ私だが……」
そこまで言うとビューリングは“彼女”の輪郭を思い起こすように目を伏せた。
何も言えず黙り込んでしまったエルマの気配を感じながら、ビューリングは話を続けた。
「彼女は非の打ち所のないウィッチだったが、陸に戻った時の……
プライヴェートの彼女もそうというわけではなかった。彼女は性格も生き方もひどく不器用で、
私のように人付き合いが悪いようなこともないのに、隊に友人らしい友人はいなかった。
私と仲がよかったのは互いに爪弾き者同士だったからというのもあるんだ。
それ以上のなにかは……、なければよかったんだろうな」
ビューリングはエルマの方にちらと顔を向けるとなんとか笑ってみせた。
彼女が抱いていた、いや、今も抱くその感情が『好き』でなければなんだというのだろう。
そして、自分が今この少女に抱く感情はなんだというのだろう。
見つめる視線の先に長い睫毛がサラサラと揺れていた。
「スオムスに死にに来たって、死ねればいいって、今も思ってますか?」
冬風にちらちらと降り出した雪が混じり吹雪となる。
それに中てられながら、声を絞り出す喉は乾ききっていた。
エルマの直截な問い掛けにビューリングは一度だけうなづいて、それから慌てて首を横に振った。
「今はもう、死ねればいいなんて思ってない。
私にも出来ることがあるなら、誰かの、中隊の皆の役に立てるならそうしたいと思ってる」
言葉を切ってビューリングはほうっと息を吐いた。首筋が知らないうちにじっとりと汗ばむ。
彼女の胸元で組んだ手が、肩が小さく震えているようにエルマには思えた。
「でもどれだけ考えても、考えないようにしても、失ったものは戻らない。
本当ならあの時死ぬのは私だったはずなのにあいつが死ぬ必要なんて全然なかったのに。
空いてしまった隙間が埋められない。どうすれば埋められるのかが分からない。だから……んっ」
押し込んでいた感情を吐き出すビューリングの口唇が塞がれて、言葉がそこで遮られる。
遮ったのは勿論エルマの口唇。ビューリングはエルマがそれを出来る位置にいたことさえ気づかなかった。
重ねられた口唇が、腕を廻された首が熱い。止めさせようともしたけど
混乱しきったビューリングには何故こうなっているのかも、何が起こっているのかさえ分からなくて、
首から背中へとずらす様に位置を変え抱きしめてくるエルマの両腕に、身を委ねることしか出来なかった。
気づいたら身体が動いていた。目は決して見ないように。見てしまったきっとそこで終わりだ。
重なった口唇の熱さに感情の制御盤が音を立ててショートする。
ぎゅっと腕を廻して、ゼロ距離になった身体の熱はもうどっちのものかも区別できない。
でも、それでもまだ足りなくて、熱を求めて身体に無意識のうちに力がこもっていた。
長い銀髪が吹雪にもてあそばれて自分の頬に絡む感触だけがエルマを現実に留めていた。
永遠のような長い時間だった。
ごくゆっくりと口唇を離した二人は一瞬ぼうっと視線を交わし、思い出したように荒く息をついた。
喘ぐような吐息が風に混じって空間に響く。酸素が回らず頭がくらくらした。
先に視線を外したのはエルマの方だった。そのまま顔も背けてぽつりとごめんなさい、とだけつぶやく。
それが言った相手に聞こえていたかどうかは怪しかったけれど。
「……中尉は、こういうことには否定的な立場だと」
胸に手をやって、収まりきらない心臓の鼓動をなだめるようにビューリングはやっとそう言った。
そこには非難めいた色は感じられなかった。拒絶されたって不思議ではないくらいのに。
いっそ拒絶されてしまえば何も思わなくて済むのだろうかという考えがエルマの脳裏によぎった。
「そうですね。私も女の子好きーの変態さんのようです」
エルマはごまかす様に努めて明るく答えた。ぐっと手に力を込めて振り返って、
そしてもうそれ以上明るくごまかすことなんて出来なかった。視線が、重なった。
「……でも、私がこんな風に思うのもこんなことするのも、ビューリングさんにだけですから」
気圧されそうなほど真っ直ぐな瞳がビューリングを見つめる。
「中尉それは」
「エルマ」
「――――?」
「エルマって呼んでくれませんか? 二人きりの時は」
「……エルマ」
「やっぱりあなたは優しい人ですね」
「そんな風に言われたのは初めてだ」
「なら、私にだけ特別なんだと思うことにします」
「エルマ、私は」
「……私はあなたが、あなたのことが好きなんです」
その言葉にビューリングは息をのんだ。
瞳を一瞬閉じて好きと告げたエルマの目がもう一度ビューリングを見つめ、彼女が何かを言おうとする前に
近づいたエルマはビューリングのその身体を抱きしめて耳元でこう言った。
「私じゃ空いてしまった隙間、埋められませんか?」
そのささやきは誰のもの? 言ったあなたは天使なの? 悪魔なの?
ビューリングは瞬きも出来ずに硬直したままエルマの言葉を聞いていた。
言われた言葉が信じられず、確かめるように心の中で何度もリピートする。
本気とは思えなかった。でも、本気じゃないとも思えなかった。
だから、あんなことを言ってしまったのだ。後悔なんて、どんな時も先にすることなんて出来ない。
「……エルマ。私は、誰かに誰かを埋め合わせてほしいなんて思ってはいないんだ。
そのつもりで言ったなら、」
「そんなつもりはありません。でも、ただ好きなだけの私をあなたは見てなんてくれないでしょう?」
「その好き、はエルマの優しさがそう思わせてるだけのことだ。
それ以外に私を……なんて理由がないだろう」
それを聞いたエルマの瞳が驚いたように見開かれた。
肩で息を一つしてエルマはビューリングから身体を離した。その身体が、瞳が、震えていた。
「私……ビューリングさんにそんな風に、思われてたんですね。
ただの同情で好きって言ったり、ビューリングさんの心の傷に割り込もうとしたり、」
「そんな、つもりは」
「きっと断られるだろうなって思ってました。あなたの心の隙間を埋めることも、そんな簡単じゃないって。
でも、これじゃあんまりです。私はただの同情でこんなこと出来たりしません。
さっきの告白だって、なけなしの勇気を精一杯振り絞ったんです」
「エルマ……」
「あなたが好きです。
そのことに理由がいるなら、あなたの隣りにいる時の嬉しいようなくすぐったいような感じとか、
話してる時のドキドキして止まらない心臓の音とか、もっと誰よりも近くにいたい気持ちとか。
それだけで私には十分です」
ビューリングは何も言えなかった。エルマへのちゃんとした答えだとか、謝罪だとか。
言わなければいけないことはいくつもあったはずだけど、それはもう言えなかった。
それを為すべき場所はすでに閉じられていたからだ。エルマの唇によって。
「今夜だけあなたを私に下さい、それ以上は望まないから……」
エルマはビューリングが重ねられた口唇に気づいたのを確かめてからそう言った。
そして、彼女がYesともNoとも言えないうちにもう一度口付ける。今度は、深く、深く。
ビューリングはもう抵抗もしなかった。出来なかったのかもしれないし、出来てもしないのかもしれない。
凍えるような世界の中なのに、身体は灼けるように熱かった。もう、止まらなかった。
私の心がふと戻るのはいつもあの時のことだ。
彼女は私の手がその身体に触れるたびに、普段の彼女からはとても想像さえ出来ないような声を上げた。
その声は溶けるほど高くて、甘くて、切なくて。私はその声がもっと聞きたくてしかたなくて
彼女の身体に何度も手を這わせ、いくつもの痕を付けた。私の身体にぎゅっと腕を廻して耐える
彼女の表情を見てからは、もう私は彼女を壊してしまいたい気持ちを抑えられなくなっていた。
何度も上がる悲鳴のような抗議を私は無視し続けた。
廻されていた腕から力が抜け落ちて、彼女がくったりとその意識を失ってしまうまで。
私はもう分かっていた。自分のしたことの全てが欠片も意味なんて持たないこと。
意識をなくした彼女を抱いて、暖房のある部屋まで運んでいる途中にふと顔を覗き込んで気づいた。
自分の腕の中で眠る彼女の顔がひどく幼く見えることに。
本当はこんなことしたいはずじゃなかった。でも、もう取り返しなんてつかない。
それから、彼女とその時のことについて触れることはついになかった。
彼女はそれまでと変わらず優しかったけれど、普通の友達のように、
あるいは中隊の同僚として振舞えたことさえ奇跡のようなものだった。
それでも、忘れることなんて出来ないから。
部隊が解散して帰る彼女を見送ったこの港で、今日も私はあの夜の出来事を思い返すのだ。 fin.