取材後記
サロンから遠く歌声が聴こえる。きっとアンコールに応えたのだろう。
赤城の見送りのあと催された小さなステージ、先ほどと同じく今ミーナの歌うのは、カールスラントの
民謡だと聞く。そういった物事にあまり造詣の無い私にもかの歌はすばらしく、かつ、今宵の彼女の衣
装があまりにも大胆であったので、見惚れていたのだと思う。迂闊だった。
その視線に気づいて振り向いたとき、今まで身を隠していたカーテンの間からひらりと彼女は飛び出し
て、演奏の止んだあとの拍手喝采の中をすり抜け姿をくらました。
私は駆け出していた。その後ろ姿を追って部屋にたどり着くなり、言った。
「どうした?」
物憂げに首を降り、視線をふせるその仕草に、私は言いようのない焦燥を胸の奥に感じる。近づこうと
すれば声を荒げて言うのだった。
「来ないでください!」
「どうして? 私が何をした?」
だがそう言いながらもすでに、悪かったのは自分のせいになるのだろうと、私は諦めはじめていた。彼
女の気まぐれはその国柄とも言うべき情熱に彩られ、ときに見せる理解できないまでの恋への献身ぶり
は、私をひどく疲弊させるものだ。それは彼女が私から、この期に及んで恋を盗む、最上にして唯一の
やり方なのだ。もう何度、くりかえしたか知れないそのやりとり、だが彼女はいつまでたっても飽き足
らない。急に大人しくなる次の台詞が、すべて私の気を惹きたいがためだと、私はよくよく知り抜いて
いる。
「何でもありませんから、早くお戻りになってください。あなたがいらっしゃらなくては、みんな変に思いますわ」
「ペリーヌ、そんなふうでは、一人にできるわけないじゃないか」
そう言う私の声は、苛立っているような、それでいて冷淡な響き方をした。
「よくわかっているだろう。お前がいないところに、どこへだろうと私は…」
「よして!」
彼女はわめいた。小さい体を震わせて、一気に距離をつめた私をこれ以上近づけさせまいとするように
身振りでそのイヤさを強調する。
「そんなことを言うのは、よしてください」
私の伸ばした手を振り切って後ずさりするその体は、窓際にきて行き場を無くした。そこでようやく捕
まえことができるのだ。その腰をそっと抱く、すると頬に、柔らかな彼女の頬が触れた。
「よして…」
「ほらほら」
と言って、私は腕の中の彼女をやさしく揺すりはじめる。
「ここに居たいなら、好きにすればいいんだ。何もかもお前の考えた通りにすればいいんだから」
「だから、わたくしは、あなたと居たくないんですの。はなして、もう、はなしてください…」
「嘘だよ、ペリーヌ、そんなこと、信じられるものか。一体、何が気に喰わないって言うんだ」
「はなして…って、言っていますのに…」
「はなすものか」
腕の中で身じろぎする、その度に舞い上がる髪が私の鼻先をくすぐり、彼女はまさに、今咲き誇る花の
ようだ。その美しい花が、すすり泣き、怒気を含んだ震える声で私を非難するのならば、誰が悪いかは
決まっている。こういうときは、やさしく抱きしめ、謝りながらささやき続けることだ。
「ペリーヌ、私の愛しいペリーヌ、お願いだ、泣かないで…何がお前の気に障ったんだろう…」
「話したくありませんわ」
「話すさ」
私は少しずつ腕に力を入れ、物理的な痛みで彼女の気持ちを落ち着かせようとした。ペリーヌはもがき、
私の腕から逃れると、あえぎながら言った。
「あなたが、中佐を見ていらしたこと、わたくし知っていますのよ。それが…だって、あんなに真剣な目つきを…」
彼女の監視の目がひとときも休まらず私をとらえつづけることを、ひょっとして私は知って、わざとあ
あした振舞を自分にさせているのかもしれない、そう思えるほど、嫉妬に身を焦がす彼女の姿を私はい
とおしく感じていた。彼女のあたたかい涙が、私の頬を濡らしていた。火照った肌の体温も、まだ腕に
残っている。
「ね。お前だって聴いたはずだよ。歌さ、あれは素晴らしかったろう? 私は歌に聞き惚れていた、みんなそうだったんだから。
なあに、あんなドレスなんて…わかってるはずじゃないか。ああいうのが私の好みだと思うんなら…」
彼女はまたしゃくり上げた。乱れた髪を頬にはりつかせた姿はあまりにも哀れだ。愛情が、たまらなく
やさしい感情がこみあげてくる。可愛いペリーヌ、だがすがりつくようにしていてそのじつ、たった一
つの言葉のうちに私をとらえてはなさない、ペリーヌ。
「まったくどうかしているよ。鏡をよおく、見てみればわかることだ、誰もお前に敵うはずないって」
ばかばかしくて、私は小さな笑いを漏らしながらもう一度手を差し伸ばす。ペリーヌはうなずき、何事
かつぶやきながらそれを取る、私はすかさず口付けしようとした。
「いや、だめ」
と、彼女は逃げるように身をかわした。
「いいえ、違うんですの。だけどやっぱり、もう、戻らなくちゃ…」
「そうしろと言うなら、そうしよう。本当にそうしてほしいと、お前が、言うのなら」
「ええ、そうしてください」
反射的に私はそのうしろに≪後で…≫という約束がされるものと思っていたが、彼女はそこまで言わな
かった。
「後で」
だから私は自分から勝手に約束をとりつけるなり、くるりと背を向けた、彼女がきっと呼び止めるだろ
うことを祈りながら……。
「待って!」
切迫したその声―――ああ、この感動に震える胸のことが、お前にばれないことだけを願う、とても素
晴らしい、お前のわがまま! 私のペリーヌ・クロステルマン!
しかし私は返事もせず背を向けたまま戸口へと歩いた。彼女の細く吐く息が不安に震えるのを聞いてい
た。ドアをしめると施錠した、すべてのものをその外側に締め出すためだった。
「その、ごめんなさい。わたくし…。少佐、怒っていらっしゃるんでしょう?」
怒っている、あるいはそうかもしれない、それが一体どんなものか計り知れない感動が私の心をとらえ
ているのだ。けれども急にしおらしい彼女のその物言いに、私の中でみにくい謀が姿を消す。私は言った。
「いや、」
振り向いて、こわごわと近づいてきたペリーヌを抱き寄せた。彼女は私の頬にさわり、そこにはじめて
自分が先ほど泣いていた事実を発見したようにびっくりした顔をした。
「いいや、ペリーヌ、いつだってお前が可愛くてたまらないよ」
「でも…でも…どうしてそんな顔なさっているの? ねえ、顔をあげてくださいまし」
私は泣いてこそいなかったが、自分の声がどうしようもなく惨めに響くのを聞いていた。さぞ情けない
顔をしていたことだろう。その私を揺すぶって彼女は一変、ひじょうな優しさを見せて私を抱くのだった。
「わたくし、あなたにひどいことを言いましたわ…ごめんなさいね…ごめんなさい…」
「いいんだ、お前はちょっと淋しかっただけなんだから」
「ええ、そうよ、そうだわ…ねえ、美緒、わたくしが望んでいることがおわかりになって?」
彼女はまだ忙しなげに言葉を紡いだが、その声には幸福の色がにじんでいた。彼女の望み、私に望んで
いること? そんなものは何もない。望んでいるものはすべてだからだ。私は言った。
「もちろん」
歌はもう聴こえなかった、ペリーヌが腕の中でようやく安心に微笑むのがわかった、彼女が微笑んだか
ら、その声や吐息までもが音楽のようだった。私のシャツの下に、彼女の手がすべり込んだとき、よう
やくすべてが丸くおさまったのを感じる。そのまま彼女は私の手を握り、ベッドへと誘うのだった。
普段のからいばりも、頑固さも、気取りも、私はすべて受け止めよう。だが代わりに愛を、それらの後
ろにお前が隠した淋しがりの愛情をすべてもらう。
「愛している」
そう言うと、彼女も私に永遠の愛を誓ってくれた。いとしいペリーヌのためなら、私は死んでもかまわない。
――――
編集:MIO CLOSTERMANN