続・味噌汁


あなたの心をたとえるとしたら、それはたぶん空だった。私はきっと、深く遠く広いその世界を頼りなく飛び回る
小さな小さな鳥でしかなくて。だからこんなにも目の前に広がっているのに、全然あなたは掴み取れないし、
届かないのだろうと思った。

けれどもあなたは私をいだいてくれているから、それでいいのだと思っていた。
それが当然だと、思っていた。


私の隣室の扉が開かれているのを知ったのは、果たしていつのことだったろう。はじめは本当の本当に間違えて、
たまたま起きていたエイラが寝ぼけてふらふらになっている私を抱きとめてベッドに寝かせてくれた。半分夢の
中で、私は自分に語りかけるぶっきらぼうだけど優しい言葉を聞いたのだ。しかたないな、きょうだけだかんな。
最初私はその言葉を真に受けて、ああ、今日だけはいいんだ、とありがたく床を貸してもらうことにした。服脱が
ないと寝苦しいぞ、と文句を言われたので脱ぎ捨てて、軽くなった体をベッドに預けるとすぐに柔らかくて温かい
毛布に包まれた。今日だけは、いいよね。挨拶もない突然の来訪だというのにこんなにもすんなりと迎えてくれる
ことがとてもとても嬉しかったのを覚えている。

そして私は本当に眠りに就く寸前、『またおいで』という言葉を聞いた気がしたのだった。

10日後、その言葉が夢だったのか本当だったのか、わからなかった私はとりあえず、再び隣室のドアノブを
回してみることにした。…まるで故郷にいた頃お父様がしてくれたようなその行為がひどく嬉しかったのだ、私は。
今日も開いていたらいいな。鍵が掛かっていたならそれも仕方ない。そんな心持ちで扉を引いたら、いとも簡単に
扉は開いた。前回言われたことを思い出して、窮屈な上着を脱いでベッドに横になると、眠っていた彼女が飛び
起きた。なんだなんだ、と叫んだあと、この間と同じ呟きが彼女の声そのままで漏れた。

(…きょうだけだかんな)

そしてやっぱり、丁寧に毛布が掛けられて。私はまた温かい眠りに就いたのだった。
目が覚めたらすでに起きていたエイラが「おはよう」といってくれた。脱ぎ散らかしてしまったはずの制服は丁寧に
折りたたまれてベッドの端にエイラのものと一緒に並べられていて。

…それが、どんなにか嬉しかったことだろう。この気持ちをどう表現したらいいのか分からなくて押し黙ったら、
エイラがゆっくり頭を撫でてくれた。まるで私の行動すべてを許すかのように。

それから、7日後、5日後、3日後…私がエイラの部屋に潜り込む感覚はだんだんと狭まっていった。無償と
いってもいいくらいの彼女の優しさが嬉しかった。どんなときでも、この人は私を受け入れてくれるのだと思った。
そうして許してもらえるたびに嬉しくて、それ以上を求めて。
そうしてきっと私はいつの間にかひどく傲慢になっていたのだろう。それが当たり前なのだと盲目的に思い込んで
いた。エイラが私を拒絶するはずがない。エイラは私の何もかもを許してくれる。それが当然だと。


けれど今朝、いつもどおり握って回したドアノブは微動だにせず。
触れなれたもののはずなのにどうしてかひどくひどく、冷たくて。

ああ、そう言えば今日、エイラは。
それに気付いた瞬間私の中で常識となっていたものが、ガラガラと崩れていく音がした。



仕方なしに入った自室は真っ暗闇。制服を脱ぐことも忘れて私はベッドに倒れこむ。手持ち無沙汰だったから
手を伸ばして、お気に入りのぬいぐるみを手に取った。…そう言えば、このぬいぐるみを私に買ってくれたのも
エイラだ。休日に、二人で出かけたロンドンの街の、こじんまりとした商店の片隅に転がっていたこの子に、私は
一瞬で眼を奪われた。あまりものの、はぐれもの。あらゆる人に忘れられて置き捨てられていたその少し不恰好な
ぬいぐるみに、私は一種のシンパシーのようなものを感じたのだった。けれど気がついたときにはすでにお店は
通り過ぎてしまっていて、そんな些細な用事のためにエイラの手を煩わせるわけにはいかないとだんまりを決め
込むことにした。
それなのに、基地に帰り着いて私がいざ部屋に戻るとそのぬいぐるみは平然と、何もない私の部屋の殺風景な
私のベッドの上にちょこんと乗っかっていて。なんで、どうして、と目を丸くしていたらエイラが笑って後ろから私の
頭を撫でてくれたのだっけ。エイラは何も口にしなかったけれど、彼女が私のためにそれをこっそり購入しておいて
くれたことは明白だった。

いつだってそうだった。私が何も言わなくたってエイラは常に私の気持ちを先読みして、私にいいように立ち回って
くれていたのだった。そしてそれに対する見返りを求めなかった。それでも私は彼女の優しさに感謝したけれど、
それも最初だけだった。いつのまにかエイラが私に尽くしてくれることは、私の「当たり前」になっていた。
それなのに私はそのことに全然気が付けていなかったのだ。

一人きりの部屋はひどくがらんどうで、小さな物音さえも私の心臓をびくつかせる。
そんなときには歌でも歌えば?
以前、エイラがそう言って調子はずれの鼻歌を歌ったことがあった。メロディも拍子もめちゃくちゃなそれが
なんだか私にとってはひどく新鮮で、つい顔が緩んでしまったのを良く覚えている。
けれど、今はそんな気分にはなれなかった。気分が乗らなければメロディなんて浮かんでこない。悲しさや
苦しさに胸が詰まったとき、私はいつもいつも黙りこくってそれをやり過ごすのが常だった。そもそも楽しくなる
ために何かをする、というのは私の概念にないものなのだ。それはもともとエイラの持つ精神で、私はいつも
彼女のそんな前向きさに知らず知らずのうちに救われていた。


(あした、リーネと出かけてくるから)


夜間哨戒に出掛ける直前、私を見送りながらエイラはそう言った。リネットさんと?どうして?疑問が募ったけれど
そう問い返す時間はなくて。「いってらっしゃい」と肩を押されるがままに私は夜の空へと飛び出していった。
そして帰って来る頃にはそのことなんてすっかり忘れて、彼女の部屋のドアを開こうとしたのだ。

ミヤフジと仲良くな、と。最後に付け足していたような気がする。…あの人はもしかして、私が宮藤さんに憧れて
いることに気がついたのだろうか。扶桑からこの部隊に配属されたばかりだというのに今はもうすっかりこの場所に
なじんでしまっている彼女に。『戦争は嫌だ』という固い信念を持ちながら、『守りたい』と強い瞳で語りストライカー
を駆る彼女を、つい目で追ってしまっていることを。
おんなじ誕生日、おんなじ考え方、似たような背丈。…共通点がたくさんあるのに全然違う、まっすぐでひたむきな
彼女にどこか惹かれていることに。私もあんなふうになれたらよかったと、強く強く思っていることに。
以前宮藤さんとエイラと3人で夜間哨戒を担当したとき、エイラはすごく楽しそうだった。笑ったり、文句を言ったり、
からかったり。私と一緒にいるときのエイラとは違う、歳相応にはしゃぐ、子供のようなエイラがいた。いつだって
落ち着いていて、常に私の顔色を見て伺っているエイラじゃなかった。そして思ったのだ。ああ、きっとこれが
エイラの本質なんだ、って。

この人は私といて本当に楽しいのかな、義務感で一緒にいてくれるだけじゃないのかな。
考えれば考えるほどに分からなくなった。見上げればすぐ近くにあるのに深くて、遠くて、つかめなくて。それは
さながら彼女の好む、青い蒼い空のようで。
それでもエイラは私を受け入れてくれていたから、それで言いのだと思っていた。それだけでいいやと思っていた。
…そして心のどこかで、それは当然なのだとも思っていた。彼女の本望であるにしろ単なる義務であるにしろ、
彼女は私と一緒にいてくれるのだろう、と。



私が哨戒に出掛けてすぐに基地を発ったのかな。それとも帰って来る前に発ったのかな。
後者なら、私が帰って来るまで待ってくれれば良かったのに。一緒にはいられなくても、ただ一言「おかえり」と
いってくれれば私はこんなに寂しい気持ちになることなんてなかった。恨めしいくらいに簡単に、私の心はそう
思えてしまう。だって隣の部屋のエイラの存在は、私にとってそれくらい当然だったから。

今頃どの辺りにいるだろう。二人はどんな話をするんだろうか。私以外の人と二人きりの時のエイラを、私は
知らない。だって私がいたらエイラは当然のように私に付きっ切りになるから。私を放ってなどおかないから。
リネットさんはおとなしい人だけれど、エイラはどんな話をするんだろう。私にするのと同じように頭を撫でたり
するのかな。柔らかく微笑んで、転んだ彼女を助け起こしたりするんだろうか。…ううん、転ぶ前に支えたり
するのかもしれない。エイラはそんなことをいとも簡単に出来てしまう人だ。

心の奥がズキリと痛む。なんで?どうして?…わからない。
エイラの幸せを願うなら、私はエイラを手離さなければいけない。あの人は心根がとても真面目だから、私を
放っておくことが出来ないのだ。でも私の存在はたぶん、自由で奔放なエイラの良さを押して殺してしまうから。
だから宮藤さんのようになりたいと思った。彼女と同じものを見たなら彼女に近づけるかもしれない。そう思って
エイラに頼んで、率先して彼女に関わらせてもらうことにした。エイラは喜んでくれたのだ。よかったな、私も
うれしいよ。変わろうとしている私を、淡い笑顔で応援してくれた。

切ない気持ちばかりが募って腕の中のぬいぐるみを抱きしめる。私がこっそりこのぬいぐるみに『エイラ』と名前を
つけていることを、エイラはきっと知らない。誰にも言ったことがないから、誰が知っているはずもない。エイラが
くれたぬいぐるみ。他に何もないこの部屋の、たったひとつの私の私物。ぎゅう、と腕に力を込めた。ねえ、私も
いつかこうして本当にあなたを抱きしめてみたいよ。与えてもらうばかりじゃなくて、言葉で、行動で、あなたに
感謝を伝えたいの。そうしたら『当然』だなんて驕らないから。そうしたらつかめない、深い遠いばかりのあなたの
心の切れ端に触れることが出来るかもしれないから。

私は本当にだめな子だと、ほとほと思って困り果てる。隣の部屋の鍵が閉まっていて、受け入れてくれるはずの
人がそこにいない。なぜだかよくわからないけれど、それだけでこんなにも打ちのめされている。
本当は分かってる。あなたの優しさは『当然』なんかじゃない。ちゃんと求めないと、返さないと、いつか無くなって
しまう儚いもの。


(早く帰ってきて)


腕の中の『エイラ』に顔をうずめると、弾力性のある綿に跳ね返された。わがままなんていわないから。いい子に
するから。…なんだかずれているような気がするけれど、この胸の痛みがどんな意味を持っているのかわから
ないからそう誓うことしか出来ない。

窓のあるべき場所を見やる。暗幕で閉め切って、目張りまでされたそこから空を見ることは出来ない。あの人の
ような空色は、ここからじゃ見られないものなのだ。すぐ隣のあの部屋なら、薄手のカーテンからでも空を見る
ことが出来るのに。

今、エイラはリネットさんと休暇を楽しんでいるかもしれないのに簡単にそう思ってしまうわがままな私が嫌で嫌で
仕方がない。
でも、そうして幸せそうにしているエイラの姿を想像したらどうしてか、もっともっと胸が痛んで止まらないのだった。


前話:0421
続続編:1188

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