Hulluus Ajaksi Te 勝手にリーネイラルート
途切れるならそれでもいい。ブリタニアは平和になったとはいえ、こちらはまだ戦火の中だ。さして重要でもない
私用の手紙などどこでまぎれてしまってもおかしくない。
返事なんて期待しない。ただ、彼女の元に届いたなら私はついているのだと思って手持ち無沙汰を装って
それを送ったのが、最初。
(ああ、また返ってきた)
今朝の朝礼で手渡されて持ったのはそんな味も素っ気もない感想だった。なんだなんだ、と覗き込んでくる
同僚を無言で押し戻して、裏に書かれた差出人の名前を見やる。見慣れた筆跡がそこにあってほっと息を
つくと同時になぜだかとても切ない気持ちになった。
なにをやってるんだろう、私たちは。こうしてやり取りをすることで一体お互いの何が埋まるというのだろう。
まるで祭りの後、落ちた照明のあとでする道化の踊りみたいだ。ひどく滑稽で情けない。
そうだと分かっているのに、どうせ私は返事を返してしまうんだろう。いつだったか彼女が文中で「思ったよりも
字が綺麗ですね」なんて言ったそのままの筆跡で、きっと今日あったどうでもいいことなんて送ったりするんだ。
意味もなく、進歩もなく、もしかしたら惰性のように。
私がブリタニアを発ってから数ヶ月。交わした手紙は数知れず。だって数えてなんかいないから。
彼女の連絡先なんて、もうそらで言えるくらいに書き慣れてしまった。
今日一日の任務を終えて、自分の部屋に戻ってくる。ブリタニアみたいな特別な基地じゃないから、私の
部屋はどっかのついてない同僚と二人部屋だ。
「なー、誰からだよー」
「ニパにはかんけーない」
「いーじゃん、おしえてくれたってさー」
朝からずっとそんなやり取りばかりを繰り返している。もともとよく私に突っかかってくるやつだったけれど、
私に手紙が来た日は毎回毎回そうして一日中私に質問を浴びせてくるのだった。それはもう、うざったい
くらいに。
「…だからさあ、なんでいちいちそんなの聞いてくんだよ。どうでもいいだろ、手紙の相手なんて」
そう、私にとってこれは惰性そのものなのだ。途切れないから、返って来なくても良いのに返って来るから、
仕方なしに返してやる。それだけのもの。
そのはず、だったのに。
「だって気になるじゃん。イッルがそんな楽しみにしてる手紙の相手」
口を尖らせたニパの一言が、私が信じて疑わなかったその認識をがらがらと打ち崩した。
「楽しみになんかしてない」
「してるよ。長い付き合いだろ、わからないわけない」
「…相手なんてどうでもいいやつだし」
「だってイッルにやけてる」
「返って来なくたって別にいいんだ」
「とか言って返事遅いと落ち込んでるくせに」
私がそっぽを向いて、懸命にしかめ面を浮かべてそう言うのに、その同僚は即座にそんな答えを返してくる
のだった。自覚していなかったのに、思い返してみたら頬が緩んでいる自分に気が付いて愕然とする。
ちがうちがう、と慌てて小さく首を振った。これは…そうだ。今日一日の任務を終えて、サウナに入って水浴び
して汗を流して、さあ明日も頑張るぞ、なんて思いながらベッドに寝転がっているからだ、違いない。
「…ブリタニアから帰ってきてからイッル元気ないけど…手紙が来たときだけはやたらと嬉しそうだからな。
気になるのも仕方ないだろ」
心配してるんだぞ、これでも。ニパの言葉に唇をかむ。ああ、やっぱり勘付かれてたのか。
でも、嬉しそう?手紙が来たときだけ?まさか、そんなはず。
「ブリタニアの友達。それだけ」
「うそだ」
「せっかく人が教えてやったのに勝手に断定すんなよ…」
「コレだろ、コレ!」
「…ちげーよ、ばか」
もういい。こいつの言うことなんて聞くもんか。はあ、とひとつため息をついてベッドに潜り込んでニパに背を
向ける。中の便箋を破らないように慎重に封筒の端をちぎっていった。可愛らしいピンク色の便箋。その辺に
転がっている封筒と紙切れで返事を返す私と違って、彼女から来る手紙はいつも色とりどりでバリエーションに
富んでいる。だから毎回毎回何が楽しいんだか、と肩をすくめてしまう。
…確かにそう言う意味では楽しみにしている部分もあるのかもしれない。
手紙の内容なんて分かりきっていた。なんのことはない、お互いの近況だ。今はペリーヌと一緒にガリア
復興に尽力しているのだという彼女は、今日はどこに行ったとか、何をしたとか、そんなことをつづってくる。
二人で一緒に木を植えたとか、その木に花が咲いたとか。だから私も同じように、どうでもいいことを書いて
送る。今日はネウロイを何機落としたとか、自分の同僚の不運ぶりだとかを。
そのやりとりは全く持って無意味なもので、まるで家に帰った子供が親に今日あったことを報告するような、
そんな感覚で。腫れ物に触るかのようにミヤフジと…サーニャのことを避けて、ブリタニアにいた頃のこと
すべてが美しい思い出であるかのような雰囲気もっていて。だから彼女からの手紙を見ていると私はふと、
『あのこと』を忘れてしまいそうになるのだった。悲しい思い出も、苦しい離別も、あの胸をかきむしりたくなる
ような嫉妬の記憶も。
…もちろんそれはきちんと私の頭の中に残っていて、ふと思い出してはまだ、情けなさにふさぎこんでしまう
のだけれど。
今回の手紙も、いつもと変わらないものだった。ガリアのこと、ペリーヌのこと、人づてに聞いた、カールスラントの
ことや北アフリカ戦線のこと…
(あれ?)
それでは、また。そんな言葉で締めくくられたそれに続きがあるのを読んで、私は驚きに飛び起きた。
行かなくちゃ。寝巻き同然のラフな服を脱ぎ捨てて、いつもの軍服の上に上着を羽織る。季節は移ろい、今は
冬だ。
「あ、おい、どこ行くんだよイッル!」
「ごめん、明日休むから適当にごまかしといて!」
力を込めたらくしゃりと音を立てて便箋がつぶれた。構うことなくポケットに突っ込んで、格納庫に向かう。
飛行機なんて使ってる暇はない。
(追伸 今そちらに向かっています。会いたい)
たったその一言だけでこんなに混乱している自分は、やっぱりおかしいのだと思った。
*
…ストライカーを装着して、夜の空に飛び出す。イッル!!後ろから呼ぶ声が聞こえたような気がしたけれども、
私はもう、前しか見ていなかった。
真っ暗な空が眼前に広がっている。ネウロイの巣と、基地の間にもう人家はない。すべて襲われて跡形もなく
なってしまったからだ。だから明かりもない。足元にあるのはひたすらの真っ暗闇。どこまでが空中で、どこまでが
陸なのかさえわからずに。
空を見上げると細い月が昇っていた。頼りなく太陽の光を反射して、ひっそりとそこにある。そのせいだろうか、
今日はいつもよりも月が綺麗に見えた。
(…何やってんだ、私)
そこでようやく、はっとした。一体私はこれからどこに行けばいいんだ?手紙に書かれていた文面は今こちらに
向かっているということだけ。いつ、どこに着くのかなんて書かれていなかった。
ゆっくりとスピードを緩めて、空中で静止する。はあ、と大きな大きなため息をついて片手で額を覆って。そうして
少し笑う。別に嬉しさがこみ上げたわけじゃない。何だか自分が馬鹿らしくなってきてしまったのだ。
(会いたい)
それは彼女と交わした手紙の中で、彼女が初めて言葉にした要求の言葉だった。
「元気ですか」で始まって「それでは」なんて言葉で締めた私の最初の手紙に習うように、彼女もまた「私は
元気です」「それでは、また」と返してきた。その間に挟まる言葉なんてお互いの近況を伝えるものでしかなかった
から、実際のところお互いの報告書やら新聞やらを直接送りつけたほうが手っ取り早かったのではないかと思う
ほど事務的なものでしかなかった、と、少なくとも私は認識していた。そう思い込んでいたほうが気が楽だった
からだ。求めたり求められたり、必要としたり拒まれたり。そういったことにはもうほとほと疲れ果てていた。どんな
に大切にしても伝わらないなら誰かを想わないほうがずっと気が楽だし、想われていると過信しないほうが傷
だって浅くて済む。あの夏の経験は私を小汚い大人にさせた。ニパや隊のみんなは「元気がない」と思い込んで
いたみたいだけど、違うんだ。そう言う風になってしまっただけ。だからもう、戻れない。
あいたい。
そんな生活にようやく慣れてきたところで不意に落とされたその爆弾は、私の頭の中でものの見事に炸裂して、
私を錯乱させることに成功した。滑稽だな、もう何も欲しくないはずだったのに、こんなにも求められることに
執着してる。
(…もどろ。)
かすかな月の光に照らされた夜。あの子と飛んだ、あの懐かしい記憶がよみがえって焼きついて胸が痛くなる。
本当に大切だったんだ。大切に大切にしてたんだ。
気持ち、ってなんで目に見えないんだろう。なんで言葉にしないと意味を持たないんだろう。
私があの子をどうしてあげたかったのか、あの子が私にどうして欲しかったのか。伝え損ねてすれ違っていつか
ずり落ちて、手を伸ばしても届かないところに行っていた。ひきょうものの、うらぎりもの。あの子の望むものを
与えて上げられなかった自分をどう評すればいいのか私にはいまだにわからないけれど、たぶんあの子が
私よりも好きになったあいつがそう言うからには、そう言うことなんだろう。
手紙の相手がどこにいるのか、いつこちらにくるのか──がむしゃらに動いても仕方がない。予測不可能な
事態に陥ったとき、一番大切なのは冷静になることだ。…だからこんなところにいても仕方がない。夜の空は
私の心を蝕んでいくだけで、癒してはくれないから。
よし、と自分で自分を励ますように呟いて身を翻したその瞬間、無意識のうちに耳に取り付けていた通信機から、
けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
(イッル、ネウロイだっ!空にいるんだろ!!)
ニパの声が耳元で響く。ああ、いる。いるとも。短く答える私。
(今行くからそこで、落ちないで待ってろよっ!)
いつになく元気な同僚の声に少し笑む。と言うのも、こいつは私がブリタニアに行く直前ストライカーユニットの
壊しすぎやらなんやらで地上勤務に回されていて、ようやく復帰できたのが私が帰ってきた頃だったからだ。
もう腐れてしまっている縁だとは言えニパのことは良く知っている。ニパだって私だって、空を飛ぶことが好き
なんだ。…だから、嬉しいんだろう。
(落ちるわけ無いだろ。私を誰だと思ってんだ)
(言ってくれるねえ)
ネウロイの巣のほうを見やると、小型のネウロイが1,2,…5機。今、ひとりですべて片付けるには多勢が
過ぎるかもしれない。そもそも私は丸腰だ。護身用の拳銃は身につけているけれどそんなもの何の役にも
立たない。ナイフだって持ってはいるけど接近戦は苦手だ。…だって、敵の攻撃の来る方向がわかっても
避ける時間が無けりゃ何の意味も無いから。
脳裏にこちらにまっすぐ伸びてくるいくつもの赤い光線が映る。当たるわけないだろ、ばーか。体を少しずらして
それを次々に避けていく。大きな動きはしない。暴れまわるのにはまだ早い。
「イッル!」
通信機を通したものじゃない、肉声が届いて私は手を伸ばした。扱いなれた機関銃が腕の中に納まっていく
イメージそのままをトレースすると、まさにその通りにそこに相棒が手渡された。サンキュ。癪だけど礼を言って
やる。ストライカーの調子はどうだ?と茶化すことも忘れずに。またエンストなんて起こしても拾ってやんない
からな。
「絶好調に決まってるだろ!…何機だ?」
「5機だな」
「5分で増援が来るってよ。それまで持つか?」
「何言ってんだ。増援が来るまでに全部片付ける!…だろ?」
「当然ッ!」
小型であることが幸いしてか、いくつか弾丸を撃ち込めばコアを探すまでも無く撃ち抜いてネウロイは霧消して
いくのだった。ネウロイの攻撃と、たまにこちらに飛んでくるニパの弾丸をひょいひょいと避けながら私はひとつ
ひとつネウロイを撃墜していく。たまにニパの手をぐいと引いて、無理やりに避けさせることも忘れずに。…こうして
いるとニパが私が戻ってくるまで隊に戻ってこられなかった理由が何だか分かる気がする。私がいればこいつが
下手に撃墜されたり不意のトラブルで命を落とす可能性は確かに減るだろう。一歩先を読んで助けてやることが
出来るから。テクニックはあるのになぜか見えない力で弾丸がそれてしまったり、小さなごみがストライカーに
入り込んだりして、こいつはどこまで言っても本当についてない。
「よ、お疲れさん!」
「遅かったな」
きっかり5分後、増援にやってきた隊の仲間たちを私たちは悠々と出迎えた。
*
「おかえりなさい、エイラさん!」
「…はぁ?!!」
そうして、帰投した基地で待っていた人物を見て私は思わず大声をあげることになった。
「なななななんで、ここにいるんだよお前ッ!!」
「向かってるって手紙に書いたと思いますが…」
「んなこと知ってるっ!私が聞きたいのは…」
ストライカーをはずして駆け寄る。そんな格好じゃ風邪をひく、と私は彼女に自分の上着を押し付けた。記憶より
少し大人びた彼女はただただ何が嬉しいのかニコニコしているばかり。隊のみんなはもう眠いのか、不思議
そうな顔をしながらもあくびをして温かい基地の中に戻っていく。ニパだけが興味津々と言った顔で私のすぐ
後ろでにやけていた。
私が聞きたいのは…なんだ?
よくわからない。疲れのせいだろうか体中の力が抜けていく。
もうだめだ、明日にしよう。部屋に戻って…
崩れ落ちたら、何だか柔らかいものに抱きとめられた。大丈夫ですかっ!とひどく慌てた懐かしい声。
ふむ。…また大きくなったろ、リーネ。
そう思ったのは本人には決して言えない秘密だ。
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なんだろうこの気分。ふわふわとして温かい。ぬくぬくとして心地よい。
とてもいい気分で私は空を飛んでいた。上へ上へと私を押し上げる溢れるほどの揚力で、どこまでもどこまでも
高く私は空を飛びまわっているのだった。仰ぐ空はどこまでも蒼い。見下ろす陸はどこまでも白い。平和で
穏やかな、スオムスの景色。…こんな景色、はじめてみた。当然だ。まだこの国が平和だった頃、私はウィッチで
はなかったんだから。
ウィッチになって見た陸と空には、いつもどこかに瘴気の黒がくすぶっていた。当たり前だった。あの異形の脅威
からこの国を守るために、私はウィッチとしてスオムス空軍に配属されているのだから──
ふん、ふん、と。傍らで誰かが歌を歌っている。誰だろう、太陽の光と、それに反射した雪の白が眩しくて何も見え
ない。けれどもきっと、私の良く知っている人だと思った。
柔らかな空色と、白銀の雪景色の間を山並みがつないでいる。キラキラ光っているのは多分、湖。このスオムスは
雪と空と、森と湖の国なのだ。
きれいだね、と傍らを飛ぶ人が言う。私も微笑んで、頷く。この季節のこの国はとても寒いはずなのに、どうしてか
全然寒くない。むしろ温かくてまるで毛布にくるまれているようで。
「****」
口を開いて、その傍らの誰かの名前を言葉にした。
そしてそこで、夢から覚めた。
*
ふわあ、と大きなあくびをひとつして起き上がった。なんだかひどく幸せな夢を見ていたような気がする。…別に
悪夢にうなされて過ごしていたわけではないけれど、夜になって、いつもうるさい同室のニパも騒ぎ疲れて眠って
──ひとり、ベッドでぼんやりしているとやっぱり余計なことまで考えてしまっていたから。ブリタニアにいた頃が
辛かったなんて言わない。後悔なんてしていない。…それだから、昼間、太陽が出ている間は、私はちゃんと
笑っていることが出来た。もしかしたら違ったかもしれないけれど、少なくとも私の心はどんぞこまで打ちのめ
されはしていなかった。
そういえば、リーネの手紙は手元に届いたその夜に、いつも開いて読んでいた。…きっと、だからだ。暗くて寒くて
長い夜に、私の頭の中でいとも容易く再生される彼女の声はいつだって温かくて、私に対する気遣いにあふれて
いて。
だからきっと嬉しかったんだ。胸を覆う後悔だとか、罪悪感だとかを忘れてしまうことが出来たから。
優しい思い出だけに浸って、温かくなった気持ちのまま眠りに付くことが出来たから。
ふと、ベッドの中に別の温もりがあるのを感じてぎょっとした。ニパのヤツ、またベッド間違えてんのか。空気なんて
読めない同僚を毛布を引っぺがしてたたき起こそうとして──固まる。
…そこにいたのは私よりも明るい色の、短い髪をした同僚ではなく、柔らかな黄土の、長い髪をした別の女の子
だったからだ。けれどもちろん全く知らないわけじゃない。数ヶ月前まで私が派遣されていたブリタニアで、同じ部隊で
戦っていた同い年の子。
(あー…そっか…)
頭に浮かぶのは、今の今まで忘れていた昨日の晩のこと。自分が手紙に書き添えたたった一文のせいで私が
どれだけうろたえたのかも知らずにくーすか眠りについている彼女が恨めしい。矢も盾もたまらず飛び出したのによく
考えたら待ち合わせの期日なんてかかれていなくて、そこをネウロイに襲われて。
自分はなんて馬鹿なことをしてるんだろう。自分で自分が馬鹿らしくなって帰投したその基地で、平然とこいつはあの
頃と同じ笑顔を浮かべていた。疲れの溜まっていた私はそのまま崩れ落ちて──そうだ、ニパのヤツが訳のわからない
気を回して別の部屋に行ってしまったのだ。
(あとは若い者同士、積もる話もあるだろうしな)
なんてニヤニヤと笑いながら。部屋に取り残された私と彼女はどちらともなしに肩をすくめて笑った。
それから、どうしたのか。少しだけ話をした気がする。こっちはとても寒いですね、というからだからそういったろう、と
返したり、あの方はお友達ですか、と尋ねられて悪友だよ、と答えたり。
そのうちに眠くなったから眠った。何で隣にいるのか?…寒かったからだろう、違いない。そう言えば寒いならこっちに
来ればいいのに、なんて会話も交わしたような気がする。体はとにかく休息を欲していたので細かいことを考えている
暇なんて無かったのだ、と言うことにしておこうと思った。
傍らで穏やかに寝息を立てている女の子の髪を、ちょいと掬って撫でてやる。結局聞きたかったこと、まだ聞けてない。
なんで来たんだ?ただの気まぐれ?虫の報せ?それとも何か、大切な用事でもあったのか?
これからスオムスは寒くなるばかりなのに。春になってからくればいいのに。
(あいたい)
昨日の夜耳元で聞いた、久方ぶりのリーネの声。手紙の最後の一言が、それと同じように耳元に流れてゆく。
くすぐったい感覚。どくどくと胸が高鳴っていく。恥ずかしくなって、彼女が見ているわけでもないのに残った右手で
顔を覆った。
会いたい。もしかしたら本当にそれだけの理由でリーネはこんな北欧くんだりまでやってきたのかもしれなかった。
もしかしたら着の身着のままで、ろくに旅の支度さえせずに。…出会ったばかりのリーネだったら想像でき
なかったろうけど、何せこいつは一度私を襲おうとした人間だ。今ではもう、「こいつならやりかねない」なんて
思えたりする。
…リーネは優しいから、きっと可哀想な私のためならこんなことも簡単に出来てしまうんだ、違いない。
寒いのだろう、うう、と唸って寝ぼけたリーネが体を寄せてきた。…起きてないから恥ずかしくないもん。恥ずか
しくないもん。言い聞かせながら懸命に、今の姿勢を続ける。本当なら恥ずかしくて体を剥がしたくなってしまう
ところだけれど、そんなことをしたらリーネが風邪を引いてしまうかもしれない。…そんなの、可哀想だ。
ごめん、ありがとう。
ぽつりと呟く。どんな理由があるにせよ、ただひとつ真実として述べられるのは『私のため』だと言うことだ。
なんでだろう、それだけはなぜか確実なものとして信じることが出来る。だけど私がかつて別の相手に対して
抱いていたような盲目的な信頼ではなくて…もっと理路整然とした、けれども深い、温かな確信で。
小さく丸くなっているその様は、さながら彼女の使い魔の猫のようだ。思わず顔に笑みを浮かべて見やって
しまう。このまま撫で続けてたら、お腹を出したりするんだろうか。喉の下なでたらごろごろ言うかな。猫を使い
魔とするウィッチたちを見ていてずっと抱いていたその疑問を不意に試してみたくなるけれど、残念なことに
彼女の顔の下半分は毛布の下。
…試してみようか。リーネだったらこれくらいしても怒らないだろ。思いながら撫でていた左手を、彼女のあごに
添えたとき、パッチリとその相手の目が開いた。
「…えいら、さん…?」
「オハヨ」
慌てて手を離して、私は言う。リーネは何も思わなかったようだった。
「あ…そっか、ここ、スオムス…」
「寒いだろ、上着着るか?」
「あ、はい…」
まだ半分寝ぼけているリーネに私の上着を手渡すと起き上がりながらぶるると震えてそれを羽織る。私に
とってはなれた寒さだけれど、ブリタニアから昨日着いたばかりのリーネにはまだまだ辛いだろう。
「…えいらさんの、においがする」
「そりゃ、私のだからな」
「…あったかいです」
「そりゃ、どうも」
そのままふふふ、なんて幸せそうに笑うものだから、なんだか私のほうがずっと恥ずかしくなってきてしまう。
寝ぼけた人間の相手は慣れているはずなのに、やっぱりブランクがあるとだめだなあ。お願いだからそんな
嬉しそうな顔しないでくれよ。期待しちゃうだろう。嬉しくなっちゃうだろう。
「…私も使うんだから、今日だけ、だかんなっ」
「うん」
幼い顔で微笑むリーネ。ぶっきらぼうな物言いなんてものともしないで、素直な感謝の気持ちだけをぶつけてくる。
それだけでひどく救われた気持ちになっている。昨日の夜、ベッドに招き入れたのは『寒いから』なんてというそれ
だけの理由だったはずのになんでだろう、何だかとてもとても幸せな夢を見た気がしたんだ。
起床を知らせるベルと同時にお腹の虫も鳴り響いて、そのときになって私は自分がひどく腹をすかせていることに
気が付いた。恥ずかしさに口を尖らせてそっぽを向くと、くすくすと笑われる。そんなやりとりが、何だかひどく楽しい。
張り詰めていた何かがふっと途切れたような安らぎ。
…ミヤフジはこれで、何も気付かなかったのか。いまさらながら思う。私といつも一緒にいたあの子は無口で、
とてもとても言葉少なかった。テンポの良い会話を得意としていなかったから、私も自然と無口になった。
でもリーネは違う。確かにとてもおとなしいけれどその実とても芯の強いやつだって言うのはもう、隊のみんなの
知るところだった。伝えたいことはちゃんと言葉にするし、行動にだって表す。あんな真夜中にガリアからここまで
アポイントもなしにやってきたことがそれを如実に物語っている。
好きだったって、言っていた。「芳佳ちゃんが好きでした」って、言っていた。好きで、それがちゃんと伝わっている
つもりでいた、と。それで付き合ってると思っていた、と。でも違ってた、って。
そう聞いたときの私は自分のことばかりで一杯一杯で、リーネを慰めてやる余裕なんて無かった。むしろそうした
つらいことを話してまでリーネは私のことを精一杯慰めてくれようとしていた。
なあ、ミヤフジ、聞きたいことがあるんだ。もしも尋ねることが許されるのなら。
お前はリーネの気持ちを裏切らなかったのか?同じ境遇の私に寄り添うことでしかその寂しさを埋められなかった
リーネ。間違いを犯してまで私を好きになろうとして、そうして更に自分を傷つけてた。
怒りに任せて手を上げた。サーニャにも宮藤にもひどいことした。そんな私にそう尋ねる資格は無いのかも
しれない。二人の幸せを祝福してやる権利も無いのかもしれない。
そんなひどい私にこんなにも優しいリーネが、とてもとても悲しい。嬉しいのに悲しい。
ぎゅうと抱きしめて慰めてやりたい。優しい言葉をかけてやりたい。君の言葉一つ一つが嬉しいよって伝えて、
そうして救ってやりたい。
けれど私はそれをしない。また何もしてやらないのかとミヤフジは怒るのかもしれないけど、できるはずが無い。
愛してなんてやれない。私に出来るのはせいぜい、大切にしてやることぐらいだ。だってリーネを幸せにしてやれる
のはミヤフジ、お前だけだったんだから。リーネは錯覚してるだけなんだから。
「メシ、食いにいくか。口に合うかわからないけど」
「はいっ」
自分の考えの情けなさと愚かしさと、リーネへの申し訳なさに目頭が熱くなって。
ごまかそうとわざと出した明るい声は無駄に上ずってしまった。きっとどうせ美味しくも無い、薄いスープとパン
くらいだ。そう言えばリーネの料理を一番最初に食べたときの、みんなの感動っぷりったらなかったな。
寒いですね、なんていって引っ付いてくるリーネ。私は顔をしかめてされるがまま。
まいったな。こんなんじゃきっと味なんて分からない。だって、その顔見てたらなんだってご馳走だろう?
*
「…あの、さ」
「う、うううう、ぶじでよがっだあああああ」
「あー、ハイハイ、わかったからもう泣かないでくれよ、エル姉…」
「ネウロイが出たって、ニパとイッルが二人きりでしゅつげきしたって、でも私基地にいなくてっ!」
「うん、知ってる知ってる」
「あんなん私とイッルにかかれば5分もありゃ倒せるってー」
それは朝食を終えて、ミーティングルームでぼんやりとしているところで。ばん、と勢いよく部屋に入ってくるなり
ニパと私に抱きついてきた、私よりも少し背の高い上官を私たちは自然と抱きとめて肩を叩いた。
「だって本軍に呼び出されてたんだろ、しょーがないじゃん」
「でもわたししきかんなのにっ」
「や、勝手に先に飛び出したの私だし…」
「でも、でもっ」
「……収拾付きませんネ。このままにしとこ、イッル」
「…だな」
ネガティブモードに入ったときの我らが指揮官殿は手がつけられない。特に昔から一緒に面倒を見てもらっていた
私とニパに関する心配だとそれはもうどん底まで落ちていく。
が、しかし私がブリタニアに行っている間に成人を迎えたエル姉ことエルマ・レイヴォネン少佐は戦闘にこそ
出ないものの立派な私たちの部隊の指揮官だなの。ミーナ中佐のよく言っていたように部隊を家族にたとえる
としたら…エル姉はそのまま優しくて気弱な長女、といったところだろうか。最も本人にはいろいろと事情がある
のか無いのか、「お姉ちゃん」、とくに「おねえさま」と呼ばれるのをひどく嫌がるけれど。
他のみんなも口々に「おかえりなさい」と苦笑しながら言う。訓練に出かけている奴らもいるから、ミーティング
ルームに人影はまばらだ。
「で、一体何の用事だったんだ?」
「え、あ、ブリタニア空軍の子が一人、スオムスに短期派遣されてくるっていうので迎えにいくって…
…えっと…いわな、かったっけ?」
「……そんなん聞いたか、ニパ」
「エル姉の名誉を取るか、人間としての誇りをとるか、それが問題だな」
「もしかしたら…わすれ、ちゃってた?」
「「…」」
無言で頷くと、ようやく顔を上げたエル姉の目じりに涙が溜まる。「トモコさん、私はやっぱりダメダメ指揮官です、
部下に連絡事項さえ伝え忘れるいらん子なんです」とかぶつぶつしゃべってる。顔を見合わせてため息をつく私と
ニパ。…なんでだろ、こうしてエル姉に抱きしめられるの、久しぶりのような気がする。
「…その子なら、たぶん昨日の夜中ここに来たよ」
ニパが言うと、エル姉はパッと顔を上げて叫んだ。
「ええええ!?そんな連絡全然…」
「連絡し忘れたんだろうな、そいつが」
はあ、とため息をつく。安堵なのか呆れなのか、自分でも良く分からない。つまりこの予測不能の事態はエル姉と
リーネのドジドジにより引き起こされたものだったのだ。…いや、どちらかというとリーネのほうが責任が重いか。
通りで昨日の晩リーネが平然とした顔で基地にやってきて、朝食を終えてすぐに射撃場に向かったはずだ。そして
リーネと来たら、それらを私を含めて誰かに報告するのを、完全に失念していたのだった。
…前々からリーネは誰かに似ていると思っていたけれど…そうだ、気弱なところといい、ドジなところといい、
エル姉に似てるんだ、とようやく納得できた。
「…今たぶん、射撃場にいるよ。一緒にいこ?」
パァン!と軽い音が射撃場に響く。見慣れた狙撃銃──ボーイズを構えたリーネが目を凝らしても見えないほど
(たぶん)遠くにある的めがけて腕を伸ばしていた。ごくり、とつばを飲んで見守る一同の目の前にある通信機が
「ど真ん中に命中です!」との報せを告げる。射撃場はおおおお、とにわかにどよめいた。年少のウィッチが
黄色い歓声を上げる。
「すごいんですよエルマ少佐!あの方10発10中なんです、あんなに的が遠いのに!」
「わあ、すごいですねえ!さすが元501統合戦闘航空団─イッルのお友達だわ!!」
「…エル姉、お友達っていう表現はどうかと…」
はしゃいだ仲間の声、それ以上にはしゃいでるエル姉の言葉、ニパの冷静な突っ込み。それらに肩をすくめながら、
私は耳をひょいとしまったリーネのすぐ近くにしゃがみこんだ。リーネはうつぶせになっている状態だったからだ。
「また、腕あげたか?」
「分かりませんけど…ここに向かっている間練習できなかったので腕慣らしをしたくって…でも良かった。
そこまで勘は鈍ってないようです」
「…もうすっかり一人前のスナイパーだな。間違えて私を打とうとした頃が懐かしいや」
「そ、それはっ…!もうやめてくださいよ、エイラさん」
「なんだよお二人さんっ!!らぶらぶだなっ!!」
そのとき急にニパが私の上にのしかかってきた。ら、らぶらぶとかそんなんじゃ!!目の前のリーネの顔が
ボンッと音を立てそうなくらいに突然真っ赤に染まった。…隊のみんなが意味ありげな目で笑っているところを
見ると、たぶん私も同じような顔をしているんだろう。
「私はこの隊の指揮官のエルマ・レイヴォネンです。射撃の腕がすごいとお聞きしてたんですけどっ、本当に
すごいですねっ!!」
「あ、いや、それほどでもないですっ、わわわたしなんてまだまだで」
「そんなことないですっ!やっぱりイッルの行ったブリタニアの部隊は本当の本当にすごいところだったんですね…!!
自分の部隊からそんなところに派遣される子がいるなんて信じられませんでしたけど…すごいですっ!」
「そうじゃないですっ!わ、わ、私は突然あそこに配属されてっ!」
私と同じようにリーネのすぐ脇にしゃがみこんだエル姉がにこにこぱたぱたと叫ぶ。…これで坂本少佐より
年上って聞いたら、リーネは驚いてしまうんじゃないだろうか。そのくらい、その仕草は本当に少女のようなのだ。
恐ろしく似た性質を持つ二人の譲歩合戦は留まることを知らず、私もニパも、リーネを取り囲んでいたみんなも、
何だかおかしくて笑ってしまう。この部隊一の癒し系、エル姉が二人になったようなものなんだ。その癒され度も
単純計算で2倍。それが射撃場じゅうに、もしかしたら通信機を通して的のほうにも届いている。私も何だか
ひどく心安らいで、嬉しくてクックッと笑い声をもらしてしまった。
「…イッル、やっぱ元気になったな」
「そんなこと、ねーよ」
ニパの言葉につい反してしまうけれど、実際のところそれが間違いないのは私が一番自覚しているのだった。
かつて無いくらい満ち足りた気持ちでいる自分が、自分でも分かるくらいだったから。
けれどその気持ちは、やっぱりついてないカタヤイネンの、時と場合を読もうとしてどう考えても読み間違えた
一言で崩されることになる。
「で、その子がイッルがよく寝言で呼んでる、『サーニャ』なのか?」
和やかだった空気の一部が固まる。私と、リーネと、そしてかすかに、エル姉の周りとで。
あえて思い出さないようにしていた、意識からさえも消していた彼女の名前が頭の奥で何度も何度も反響する。
私は何も言わずに立ち上がって、そして走り出していた。逃げたかった。だれから?すべてから、世界から、
何より、リーネから。
どこまでも、どこまでも、高いところへ。白と蒼だけの世界へ、行きたい。
そう思いながら走っているその最中に、今朝の夢を思い出した。眩しくて見えなかった、傍らで飛んでいた誰か。
私は笑って彼女の名前を呼んだのだ、とてもとても幸福な気持ちで。
忘れようとしたってあの子の存在は、今でも大きく私の心を占めている。
恋とは呼べなかったかもしれない。私にそんな感情はまだよく分からない。
愛と呼ぶには穏やか過ぎたのかもしれない。その気持ちを情熱にするには私は少し臆病すぎた。
でも大切だったんだよ。だから失ったあの時、どくどくと醜い感情ばかりがあふれ出した。奪った相手が憎かった
だって誰かをあんなに大切に思ったことなんて、初めてだったから。
もう冷めたんだって、思ってた。そんなの間違いだ。ただ私が、私に、そう言い聞かせたかっただけだ。
だから、サーニャって、言葉にしたくないのに言ってしまうんだ。
*
気がついたらやっぱり、私の足は基地で一番高い、塔の一番上へと向かっていた。訓練を怠っているわけじゃない
から体力はそれなりにあるけれど、流石に全速力で階段を駆け上がると息も切れる。私がよくここに来ることを
知っている待機組はいつもと違う私の様子に不思議そうな様子をしながらも無言で見送ってくれた。
そう、いつもと同じように。…どうせ聞いても私がはぐらかすだけだと言うことを、多分みんな知っているのだ。
いつだってそう。昔からそう。
私は自分の本心を明らかにするのをとてもとても苦手にしていた。さらけ出してしまったら自分の弱さと向き合わ
なくちゃいけない。それがどうしてもいやで、のらりくらりと避けてきた。へんなやつ。ふしぎなやつ。私が周りにそう
評されてきたのは、ひとえに私がそうして自分の気持ちをひた隠しにしてきたからだ。
本気になったことだってあまり無い。気が付けば大抵のことは上手くこなせたし、いつも一歩引いたところにいたから
うまく立ち回ることも得意だった。冷めている、なんてほどじゃないけれどそうだな、私の心はいつだって36度5分
辺りを恒常に上下していたのだと思う。熱くも無く、冷たくも無く。人肌辺りの生ぬるさを保って。
そんな私の体温が、一度だけひどく高くなったことがあった。ちょっとしたことで心が惑って、ひどく嬉しくなったり、
とても寂しくなったりした。初めて感じるその感情の揺れ動きが何だかとても楽しかった。温かい血が体中を巡って、
世界の色が変わって見えた。幸福とはこういうことをいうのだ。そう思いながらすごしていた、あの頃。
たかだか半年ぐらい前はそれが当たり前だったのに、今となってはもう、それが遠い昔のことのように感じるのが
不思議だ。
「サーニャ」
ゆっくりと、ひとつひとつ。
音を確かめるように口にする。意識して言葉にするのは何だかひどく久しぶりだ。
なぜだろう?いつの間にか私の心の奥底にするりと入り込んでいた子。放っておけない、可哀想。シフトの違いの
せいで部隊にうまくなじめずに一人きりで、瞳を常に曇らせながら戦いに身をやつしていたその子に最初に抱いた
のは確か、そんな感想であったことを覚えている。だから手を伸ばしてみたんだ。こっちへおいでよ、とまるで野良
猫にえさをやるかのように手を差し出したら、彼女は恐る恐る、けれども確実に私に懐いてくれていった。自惚れで
なければ、そうだった。
…世話をしているだけのつもりだったのに、いつのまにか自分が夢中になっていたんだ。
(エイラなんてだいっきらいっ!)
かぶさるように、はじめて聞いた彼女の怒鳴り声が蘇ってくる。…あれだけ嫌われたのに、私はなんでまだ執着
してるんだろう。いまだにサーニャが欲しい、ミヤフジが憎い、なんて心のどこかで思っているんだろうか。情けない、
なんて情けないんだ。私にサーニャを幸せにする資格も、権利も、力も無い。相応しいはずが無い。そんなこと
わかってる。私が一番、わかってるのに。
…ミヤフジの隣でだって、サーニャが笑っていてくれるのなら私はそれで満足なのに。
とんとん、と。階段を駆け上ってくる音がかすかにした。誰だろう?思ったけれどもこの状況を、私はよく知っている。
だから未来なんて見なくたって私にはちゃんと、誰が来るのか分かっていた。──もしかしたらそのことを、私は
期待してここに来たのかもしれない。
「やっぱり、ここでしたか」
背中に掛かる、柔らかだけれど悲しげなその声。いつもの通り、私は振り返らない。一番来て欲しかった。でも、
一番来ちゃいけない相手。たぶんさっき、私はこの子を誰よりも、一番傷つけた。
あんなに優しくしてもらっておいて、それに甘えておいて、それはすべて無意味でしたと突きつけたんだ。
──あの子もまた、あの一件でひどく傷ついた一人なのに。
「高いところ、好きなんですね。レイヴォネンさんに聞きました」
「…」
「だから『イッルはここにいると思いますよ』って」
「…」
「優しい方ですね、すごく、すごく」
少し遠いところから、呼びかけられる。私は何も答えられなかった。ただ、こくりとひとつ頷く。
あの心優しい先輩は、きっと瞬時に私とリーネの表情の変化を読んだろう。きょとん、としているニパのフォローと、
いなくなってしまった私への心配でおろおろしたに違いない。…まあ、それで辺りが更に混乱したかもしれない、
と言うのはこの際戸棚にしまっておくことにして。眺める基地がさほど混乱していないところを見ると、今はめそめそ
泣き出したりしたエル姉のフォローにみんなおおわらわになってるんじゃないだろうか。ことを大きくしたくなかった
私にとって見たらその状況はむしろ好都合だ。とてもずるい考えだと、自分でも思うけれど。
「それで、あの」
とてとて、と。気配が頼りなく近づいてくる。数十センチ開けたその向こうから、スオムスの冷たい空気をはさんで
感じるかすかな熱源。私は手すりに突っ伏して顔をうずめて、懸命にリーネのことを見ないようにした。知っている。
私が望んでいようといまいと、リーネはここにやってくる。あの頃はブリタニアで、今はスオムスで。場所は違う
けれども状況は同じ。リーネの可哀想なくらいの優しさも、いっしょ。
「一緒にいてあげてくださいって、頼まれました。…その、本日付で私もしばらくこの部隊にお世話になりますので、
レイヴォネンさん…エルマ少佐の指揮下に入ることになり…つまりは、その、上官命令、だそうです。」
「…了解。」
ようやく返事をする私。エル姉に頼まれたなら仕方ない。…いや、上官命令なんだから絶対だ。と自分の中で
理由をつける。もし本当に私を慰めに来ただけだったら、私は自分への情けなさとリーネへの申し訳なさで再び
逃げ出してしまっていたかもしれない。けれども「上官命令だそうです」。その一言で、この状況は致し方ないのだ
と納得することができた。もしかしてエル姉はそれを見越した上でリーネをここにやったのかもしれない。ドジで
天然で、抜けているくせにあの人は本質的なところでするりと相手の望むことをしてくれたりする。もちろんそれに
気付いていないのが、エル姉のすごいところなのだけれど。
ごくり、とつばを飲むリーネ。ひとつ呼吸を置いたような沈黙の後、口を開く。
「エイラさん、お話があります。…聞いて、くれますか?」
うん、と。小さな声で返事とした。どんな話だろう?気になったけれど、まあ何でも良いだろう、と思う。
これ以上この情けない裏切り者にリーネが心を砕いている可哀想な姿を見るのはかわいそうだ、と思ったから。
いいよ、なんでも聞いてやるよ。それでリーネの気が済むなら、さっきのことも思う存分罵倒してくれて構わない
んだ。顔を上げて、けれどもリーネの顔は見ずに空を見て彼女の言葉を促す。
「…私、わかってました。エイラさんがサーニャちゃんのこと忘れてるはずないって。きっと今でも大切に大切に、
想ってるだろう、って。」
「ならなんで」
「でも、伝えなくちゃいけないと思って、だから私はここまで来ました。──エイラさん、エイラさんはひとつ、大きな
勘違いをしてると思うんです。」
かんちがい?ぽつりと呟く。それは私のこの、サーニャへの気持ちのことだろうか。そうだったらいい。けれども
そうじゃないんだって、ついさっき証明されたばっかりじゃないか。
リーネを見やると、その横顔は言いよどむようにうつむかれていた。赤くなっている鼻の頭と、耳の端。訓練場は
屋外だったから私もリーネも厚着をしていたけれど、流石にあの夏のブリタニアのようには行かない。
もういいよ、中に入ろう?
そう言おうと思って、手を伸ばす。けれど伸ばしきることが出来ない。迷ってしまう。
ついさっき、「話を聞く」といったばかりなのに私は弱かった。このあとリーネの口からどんな言葉が出てくるのか、
想像もしたくなかった。未来を見ても、見えるのは一瞬で、ひとコマで。彼女の考えていることを先読みするのには
全然足りない。
でもきっと、私が未来をはっきり、映像として捉えることが出来たとしても私はそれをしなかったろう。…だってどうせ
口にされるなら先に知ったって仕方が無いじゃないか。しかもそれが自分にとってよいものか悪いものかわからない
なら──いっそのこと知らずに、その未来を閉ざしてしまったほうがずっといい。
私の見ることの未来は未来であって未来じゃない。未来になるかもしれない、ある時空の映像だ。
意を決して話しかけようとした直前、ようやっとリーネの口が開いた。
「エイラさん、私はどうしても…芳佳ちゃんやサーニャちゃんの言うことに、納得がいかないんです」
「…なにいってんだよ、リーネ」
驚きに思わず叫んだ。リーネがミヤフジのことを悪く言うなんて思わなかったからだ。あれだけのことをやらかして、
半ば喧嘩別れも同然に別れた私とは違う。リーネは今も、ミヤフジとは良い友人関係を持っているはずだった。
想いが届かなかったとはいえ二人の友情は本物で、あのあとだって一緒にいるところだってよく見た。そこには
かつてのような甘い雰囲気は無かったけれど──代わりに確かな、温かさがあった。リーネが自分の感情を押し
殺して、想いを飲み込んで得たもの。それはとても痛々しいものでも合ったけれど、破綻するよりはずっとマシ
だったのかもしれなかった。
手紙にはミヤフジたちのことなんてを書かれていなかったけれど、それは私に気を遣ってのことだと思っていた。
怒りに狂った私と違って、ミヤフジとサーニャが付き合い始めたと言う事実をリーネは穏やかに受け止めて想いも
しまいこんで、そして私にだけぽろぽろとこぼした。だってリーネはミヤフジのことが好きだったから。たぶん私と同じ
ように、今もずっと、好きだから。
「訓練中、みなさんがたくさんたくさんエイラさんのことをお話してくれました。…かっこいい、って、憧れだって、
みんな言ってました。”王子様”みたいだって」
「そんなの嘘っぱちだ。知ってるだろ、ホントの私は、ただの卑怯者なんだ」
「…うそっぱちなのはしってます。あなたは王子様なんかじゃない。…でも卑怯者でもないと、思います」
「卑怯者だよ。だってミヤフジがそういったんだ。…サーニャの気持ちを、裏切ったって。」
「それが納得いかないんです。芳佳ちゃんは、間違ってる」
こっちを見てください、エイラさん。言われたから仕方なしにリーネのほうを向く。…また抱きついてくるのかと、
彼女はただ、冷たい空気の向こうでまっすぐ私を見ているだけだった。すう、とひとつ深呼吸をする。
それから先の彼女の言葉の大きさに、私はあっけにとられることになった。
「…本当はエイラさんだって、サーニャちゃんに言ってほしかったんでしょう?!!曖昧な態度じゃなくて、はっきり
示して欲しかったのは、エイラさんだって同じだったんでしょう?!!
私は思うんです。あなたがサーニャちゃんのことを忘れられないのは…その言葉をサーニャちゃんから一言も
聞いてないからだって。…それが苦しくて、悲しくて、だからあなたはまだ、サーニャちゃんにとらわれてる。」
あなたのことが好きです、って。
サーニャちゃんが言ってくれなかったから、その気持ちが本当だったか分からないから、立ち止まってる。
…ばあん、と。
頭の中のどこかが破裂した音を感じた。ミヤフジに「卑怯者の裏切り者」といわれたとき感じた、バットで頭を殴られ
たようなあの衝撃が蘇る。
ぱくぱくと口を開いたり閉じたりするのに導き出す言葉が無い。ずっとずっと、感じていた引っかかりが何であった
か突然思い知らされてうろたえて、泣きそうになって片手で顔を覆う。
ちがう、そんなことない。必死に抵抗しようとしても、本心が悲鳴を上げている。冷たいばかりのはずだった鼻の
頭を、どんどんと熱くしていくんだ。
リーネの口にした言葉は、私にとっての真実としてするりと胸に染み込んできた。そうだよ、と頭のどこかが私に
語りかける。ねえ今まで黙ってたけど、君が傷つくと思って言えなかったけど、本当はそうだったんだ。
知ってる、本当は分かってた。与えたのは、欲しかったからだった。
私の行動を報いてくれるあの子の『言葉』が欲しくて、私はずっとずっと、それ以外の方法も分からずに与えてきた。
大切にしたい、守りたい。それを言葉にする勇気なんて無かったから行動にうつして、あの子が気付けばいいなと
思っていた。
「誰かに言った言葉って、自分にも返って来る言葉だと思います。…それが悪意のこもったものなら、なおさら
それを口にした責任はきちんととらなければいけないと思うんです。
…与えてもらうばかりで、伝わらないことに腹を立てて、言葉にしてくれないことを恨んで、挙句の果てには
拒絶するなんて…!!」
ずるいじゃないですか。エイラさんが、可哀想じゃないですか。
ぽろぽろと、大粒の涙がリーネの頬を伝っていく。流れ出たその瞬間から冷たい風が吹き抜けて、熱いそれは
瞬時に冷たくなってしまうことを私はよく知っていた。…でも拭ってやれなかった。彼女の言葉ひとつひとつに、
呆然としていたからだ。
「…ごめんなさい、エイラさん、エイラさん。…エイラさんがサーニャちゃんのこと、まだ大好きなの知ってるけどっ!
…でも気付いてください、エイラさん。…自分ひとりを、責めないでください」
「リーネ…」
サーニャは悪くない。悪いのは、別の誰か。ミヤフジじゃないとサーニャが言うのなら、多分私。私一人。
そう、ずっとずっと思い込んでいた。サーニャが悪いなんて考えもしなかった。もちろんリーネの言葉を聞いてなお、
サーニャに対する憎しみの気持ちが浮かんでくるわけがないけれど。…だってサーニャが、すごくすごく大切
だから。そのくらいのこと簡単に許せてしまうんだ。いまでも、容易く。
でも、気付かされた。私がサーニャのことを忘れられなかったその理由。情熱なんて冷めてしまったはずなのに、
胸を覆って離れなかった寂しさのわけ。
「エイラさんが女の子で、お姫様で、何が悪いんですか。…なんで、”エイラさんが”言わなくちゃいけなかった
んですか。好きなら、本当に好きなら、自分で伝えればよかったのに。」
欲しかったのは、サーニャの言葉。サーニャの本心ありのままの、要求。
行動なんかで曖昧にするのではない。はっきりとした音として、気持ちとして、私に伝えて欲しかった。
なんで?どうして?心をずっと覆っていた気持ちは、そんな疑念。
…どうして言ってくれなかったの?「好きだよ」って、言葉にしてくれれば私だって気がつけた。もっともっと別の
方法で、君に想いを伝える事だって出来た。言葉にする事だって出来たかもしれない。
私が悪かったなら、どうして一度も言葉にして責めてくれなかったの?いつもどおり私に寄り添っていた君が突然
私を拒絶したのを知ったとき、私が何を思ったか、わかりますか?
思った。確かに、そう思った。でもその気持ちをすべて押し殺して、向きを変えて矛先をミヤフジに向けた。もちろん
無理やり曲げた矛が上手く扱えるはずが無かったから、それはいとも容易く折れてしまった。見当違いに振り回した
から、余計に私まで傷ついた。
どうして私はあの時サーニャにそう言うことが出来なかったろう。与えるばかりで自分が求めようとするのを、
すっかり忘れてしまっていた。…あの子を責めることなんて、私にはできるはずがなかったから。
「…でも、わたしは」
そしてそれは、今も同じだ。リーネの言うことは正論で、多分私にはそうやってサーニャを責める権利があるの
だろう。けどたぶん、私はそれをしない。だってきっとサーニャはもう、彼女なりに幸せなのだ。それをいまさら壊す
なんて私には出来るはずも無い。それなら私一人が我慢したほうがずっとずっとマシだ。それで、いいんだ。
「知ってます。エイラさんは優しいから、サーニャちゃんのこと責めることなんてできないって」
「…優しくなんかないよ。わがままなだけだ」
「ほら、またそうやって素直に喜ばない。…そうやって私はいつも、お礼さえ言わせてもらえなかった」
いつも?…ふと穏やかになったリーネの口調とその言葉に、私は首をかしげた。
「見ているのは、いつもサーニャちゃんのことばかりなのに、気まぐれに私を励ましたりして、それからすぐにまた
ふっといなくなって。半年しか変わらないのにのにあなたはもうこのスオムスのトップエースで、それなのに私は
まともに戦闘さえ出来ないダメダメな子で。
…気付いていましたか?私は最初、あなたのこと、ずるいって思ってたんです。」
突然始まった話は、私とリーネが出会った頃のことらしかった。あれはミヤフジがやってくる何ヶ月前のことだった
か。ブリタニアからの補充兵がやってきたときのことだ。その頼りなさに、そう言えば私も最初は多少やきもきした
ものだっけ。けれども実際、よく覚えていない。私の毎日はサーニャの世話を焼くことでほとんど構成されていた
からだ。そう言えば気まぐれにペリーヌをよくからかっていて、リーネもときどき…主に、その胸辺りのことでよく
いじっていたような気がする。
気弱で、ちょっと叩いたらすぐ凹みそうな気がしたからあえてミスには触れないようにしよう、とか思ってた。まあ
気楽にやろうぜと、言わんばかりに何度か頭をくしゃくしゃと撫でたっけ。
「…でも、あなたはそれを全然鼻にかけないで、何食わぬ顔で笑っていて。…憧れました。こんな落ち着いた人に、
私もなりたいと思った。いつも見上げていたんです、あなたのこと。見つめていたんです、あなたの背中。
…気付いていましたか?」
ふるふると、首を振る。ああやっぱり。そう言うリーネは笑っているのに何だか少し悲しそうだ。申し訳なさに
うつむくと、いいんですよ、と答える声。知ってましたから。呟かれる言葉がまた、悲しい。
実際のところ、他の人間にどう思われているかなんてどうでもよかったんだ。大切なのは、いつだってサーニャ
だけだった。本当に、真剣に、彼女のことばかりを考えていた。
「エイラさんがサーニャちゃんのことが好きなの、私はちゃんと分かってました。そんなの言葉にしなくたって、
あんなに大切にしていればすぐに気付けました。
私もそれが欲しかったけれど、あなたはずっと、ずっと、サーニャちゃんのことを見ていたから。だからそれでいい
と思っていたんです。あなたが幸せに笑うなら、わたしはそれで。…そして芳佳ちゃんがやってきて、私は今度
こそ本当に、自分の気持ちを無かったことにしようと思いました。
…知らなかったでしょう?」
今度はこくり、と首を盾に。そんなこと、気付かなかった。そうだ、リーネはミヤフジが来るよりも前から、同じ隊で
過ごしてきてたんだ。付き合いだけ言うのなら確かに、少しだけ私とリーネのほうが長い。
ミヤフジと出会って、リーネはめきめきと腕を上げていったから。だからリーネとミヤフジのことをいつのまにか
ずっと昔から、配属された最初から、ずっと一緒だったのだと思いこんでいた。…そうだ、じゃあリーネはミヤフジが
来るまで、一体誰を見ていたんだろう。もしかしたらそれは──
「ねえ、エイラさん。言ってもいいですか。今なら、言ってもいいですか。…私──」
「言うな!!」
あ、やばい。
そう思った瞬間叫んでいた。右手を開いて伸ばして、制止の意を示す。またリーネが、例の間違いを犯すと思った
からだ。…そしてその予感は多分、正解だった。
「何度も言ってるだろ。その気持ちは間違いで、勘違いなんだ」
「間違いなんかじゃありませんっ!」
「証明なんて出来ないくせに、早まるなって言ってんだっ!!……なあリーネ、こんなことしてたら、私も、リーネも、
惨めだろ?…リーネは優しいから、寂しいから、私が放っておけないだけなんだよ。な?」
一歩近づいて、リーネの両肩に手をやった。まっすぐこちらを見つめるリーネの深い、青い、瞳がある。…その
まっすぐさに一瞬彼女が本気なのではないかと思いかけて──懸命にその気持ちに歯止めをかけた。ここで私が
流されたら、結局後悔するのはリーネだ。…それこそ、可哀想で仕方がない。…思い込みの気持ちだけでこんな
冬の北欧までやってこれる、リーネはそんな、優しいやつなんだ。現に同じ部隊にいた頃、私がどんなにいたずらを
してもちょっと怒るだけですぐに許してくれた。ごめんな、と謝ったら微笑んでくれた。
一度も言った事無かったけれど、私はその、ちょっと困ったようなはにかみの笑顔が、なんとなく好きだったんだ。
だから多分からかうのを止められなかったのだと思う。
沈黙が流れる。長いこと外にいるせいか、体がドンドンと冷えていく。ぎゅうと抱きしめあえば温かいのかもしれない
けれど、そんなことできるわけが無い。してはいけない、こいつにだけは。
ふっと、リーネがうつむいて表情が読めなくなる。ほ、と安心すると同時に少し残念にも思っている自分が嫌だ。
「…証明できれば、いいんですか」
「なんだよ、いきなり」
「本物だって、証明すれば──私の気持ち、少しは考えてくれますか」
「…また襲われるのはナシだぞ。そんなことしたら即ブリタニアに返すかんな」
「そんなことしません。約束します。」
「…なら、証明してみろよ」
リーネが再び顔を上げた。きっ、と私をにらみつけんばかりに強い瞳で見つめてくる。…キスでも強制送還だぞ。
彼女が口を開く前にそういったら、はい、わかってます。と短い返事が返ってきた。
「100回。」
「ひゃっかい?」
「…100回、いいますから。それまでに私への返事を考えていただけますか。YESなら、同じ言葉を私にください」
「は?何言って」
100回って、一体何を言うんだよ、そもそも。訳もわからず尋ねようとする私をさえぎるように、彼女はとてもとても
大きな爆弾を、私に向かって捨て身で落としてきた。
「エイラさん!…私、エイラさんのことがす、好きですっ!」
……一回目です。
…え、と。あっけに取られている間にリーネは私から逃れて、再び塔の中へと入っていってしまう。ばたばだと階段を
駆け下りる音。私は一人、取り残される。彼女を追いかけようにも体が動かないのだ。振り返ったその格好のまま、
唖然呆然としているだけ。
「…まじかよ、おい…」
乾いた笑いが漏れる。立ち去る直前の彼女の顔が、私の眼に鮮やかに焼きついている。それはもう、未来の光景の
ように。…多分私も、似たような顔をしている。
これがあと、99回だと?…保つのか、アイツ。
明らかに寒さだけではないもので瞬時に顔が赤く染まっていた。目じりには涙が浮かんでいて、その体は小さく
震えていたのだ。…たぶんこれも、寒さだけじゃない。自惚れてもいいのなら、そんなわけが無い。
どうしよう、何だかこっちの顔まで熱い。今は冬なのに、ここはスオムスのはずなのに。
落ち着け、落ち着け私。これは何かの訓練である。…そんなわけ、ないよな。
証明してみろ、なんて馬鹿なこと言うんじゃなかった。だってそんなの、あの顔見たら一目瞭然じゃないか。まるで
一世一代の告白みたいだったじゃないか。とてもじゃないがこれから先、あれが計100回も続くとは思えない。
でも、やるのか?…やるんだろうな、本気なら。
長い戦いになりそうだ、と思う。あの様子じゃ3日は同じことできないぞ、リーネのヤツ。
…そして多分私も、3日はまともに顔を見られそうにない。何か言われる前に逃げそうだ。なんかもういろいろ、
無理だ。
(すきです、か)
よく考えたら、面と向かって誰かに言われたのなんて初めてだった。…サーニャに言われたことなんか確かにない、
自分の想いを伝える言葉。
恥ずかしいのに顔が緩む。どうすればいいんだろう、嬉しくて、嬉しくて、仕方がない。愛されてる、想われてるって
言う、確かな感覚。…言葉って、偉大だ。
100回彼女が言い終わるまで私のほうが保つだろうか。その、色んな意味で。
いつになるのかは分からないけれど、その未来を見られたらいいのに。何だかひどく久しぶりに、そんなことを
思った。
*
時は流れ、1950年夏、扶桑──
「は、離してくださいエイラさんっ」
「…離せっつったって、お前、そのままじゃ歩けないくせに」
「う、うう…せめておんぶとか…」
「却下だ、却下。ああ、ヤマ・カワミ・チコが言ってたのはあれかな?ついたぞー」
ここを歩いている途中でずっこけて、足をくじいたリーネを抱えて歩く。なぜか恥ずかしがっているのは、「おおお姫様
抱っこなんてっ」と、言うことらしい。いまさらこいつは何を言ってんだ?
小さな小屋のような家屋(いや扶桑じゃコレが一般的みたいなんだけど)に立てかけられている看板を見やる。
…扶桑の言葉はヒラガナカタカナだけじゃなくてカンジもあるから面倒なんだよなあ。
そんな私でも最初の二文字だけはすぐに読むことが出来た。忘れるはずが無い、その二文字に顔が曇る。
「…リーネ、ここさ…」
「足治さなくちゃ。入りましょう?」
大丈夫だよ。そういわんばかりにニコ、と笑うリーネ。仕方ない、リーネのためだ。意を決して私はその戸を叩いた。
「ごめんくださーい!」
『宮藤診療所』と言う看板のすぐ脇にある、その引き戸を。
「いらっしゃいませ、どうかしましたか──」
戸が開いた瞬間、相変わらず背の低い栗色の頭が私を見上げた。そして目を丸くする。とりあえず笑顔を浮かべて、
「よ、久しぶり!」なんて言ってみる。
「…リーネちゃん!!……に、エイラ、さん…?」
明らかな温度差を感じるのは仕方がない。だってそれだけのことを私はした。…特に宮藤については、あと一歩
間違えたら殺してしまうほどの衝動を持っていたのだ。…本当なら顔向けできるはずも無いだろう。私が診療所に
入るのをためらったのも、それが理由だから。
「芳佳ちゃん、だあれ?」
続いて奥のほうからまた、一人の女の人が出てきた。扶桑人でないことは明白な、銀色の髪に白い肌。けれど
たぶん身につけた衣服は扶桑製のキモノというやつで、そのミスマッチさが逆にとても似合っている、と思う。
「エイラ…」
ぽつり、と私の名前を呼ぶから、私はただ微笑んで答えた。なんていえば言いのかわからなかったから。
そっか、やっぱり二人は一緒に暮らしてるのか。分かっていたけれども何だか複雑な気持ちが胸を覆っていくのだ。
…なんて言うんだろうな、これは。寂しい、っていうのかな。でも同時に、すこし安心していたりもして。
「…リーネちゃんまで使って何しに来たの?もしかしてまたサーニャちゃんを──」
「ち、ちがうの芳佳ちゃん!!あの、私が転んじゃって、この近くに診療所がありますかって聞いたらここを教えて
もらったから、治してもらおうと思って…」
「…本当に?」
頷くも、ミヤフジの顔はまだ険しいままだった。サーニャを守るように右手を広げている。それにまた少し傷つくと
同時に、ほっとした気持ちにもなった。…よかった、ミヤフジはちゃんとサーニャを大切にしてくれている。それが
嬉しかったのだ。
「それだけだよ。ここに乗せれば良いのか?」
「…そうだけど」
すたすたと中に入っていってリーネを診察台らしきところに乗せてやる。心配そうにこちらを見やっているリーネに
笑みを浮かべて、小さくその頭を撫でて。
「外で待ってる。治療が終わったらすぐに帰るから。…まあ、私だけ先に行ってもいいけどさ。それはリーネに
任せるよ」
「エイラさん…」
「心配すんなよ。私は大丈夫」
もう一度、今度は勢いよくリーネの頭をかき回すと私は診療所を出た。じー、じー、みーん。セミだとかいう虫が
やかましいくらいに鳴いている。…まったく、何でこんなに扶桑の夏はサウナと違って居心地が悪いんだろう。
肌はひりひりするし、じめじめしているし、何よりうるさい。サウナでは静かにしなくちゃいけないんだぞ。…なんて、
セミに行っても仕方が無いけれど。
北欧育ちの私には少し、この暑さは厳しすぎた。近くの木陰に寄りかかって、ぼんやりとリーネが出てくるのを
待つことにする。…すぐ帰るとはいったものの、何しろ親友同士の久しぶりの再会だ。長引くだろうなあ、と一人
予測して勝手に横になることにした。目を閉じて余計な考えを振り払うと、セミの鳴き声もさほど気にならない。
あれから、5年。ストライクウィッチの奮戦により、世界中のネウロイは消滅した。…第二次ネウロイ大戦の終結だ。
数えてみれば結局、私はスオムスで一番ネウロイを撃墜した撃墜王となっていて。今は実家に戻ってのんびりと
暮らしている。…撃墜王と言う肩書きは何かと便利なのか、何かあればすぐに首相に呼び出されてあちらこちらに
飛ばされるのが面倒だけれど、まあこの扶桑行きもその一環だから致し方ない。
リーネが来るまで一眠りしてよう…そうやって、意識を手離しかけたところで額に何か冷たいものが触れてぱちりと
目を開いた。見ると、以前よりも大人びた顔をしたサーニャが私を見下ろしている。なんだ、と起き上がるとグラスを
差し出された。中に氷と、透明な液体。みず、と簡潔にサーニャが答える。
「…扶桑の夏は辛いでしょう?…私も最初は、そうだったから…」
「そっか、ありがとな」
受け取って、ひとあおり。喉を通って胃のほうへ流れていく冷たい液体が心地よい。
風が吹いて、木の葉をざわざわと揺らす。うるさいくらいの沈黙だ。だってセミがみんみんとせわしなく鳴いている
のだ。…私がいて、そのすぐ傍らにサーニャがいる。そんな、昔は当たり前だったことが今ではひどく懐かしくて、
慣れなくて戸惑う。
「サーニャ、」
呼びかけてみた。…一番最初に語りかけるのが私なのも、あの頃と変わらない。彼女はひどく無口で引っ込み
思案な子だったから、私はそんな彼女から話を聞きだすためにいつも、色々と頭をひねっていたのだ。たった
ひとつあの頃と違うのは、かつてはふれあっていた肩と肩とが、今は間隔を開けていることだった。…もしかしたら
暑いからなのかもしれないけれど、たぶんそれだけじゃないって、分かってる。
なあに、と。幾分緊張した言葉が返って来る。こんな明るい太陽の下で、平然と目を覚ましているサーニャを
見るのは何だか不思議な気分だ。たぶんミヤフジと一緒にいるうちに生活のリズムが変わったんだろうな。…私は
サーニャをそのまま甘やかすことしかしなかったけれど、ミヤフジはきっとそうではなかったんだろう。もしも私と
だったら今のサーニャはどうなってたんだろう。…なんて、考えるのも野暮だな。ありえない。
(ひとを好きになるってすてきなことだね)
「…ひとに『好き』って言ってもらうのは、すてきなことだな」
言葉にしたのは、私と彼女が別れる前の、その、最後の言葉とよく似てる。サーニャが私に口にした、最後のサイン。
…それに気付けなかったから、あんなことになったんだろう。いや、もしかしたらそれは単なるきっかけでしかなかっ
たのかもしれないけれど。…でも、私の記憶に色濃く残っている言葉だ。
サーニャが怪訝そうな顔をする。…何を言っているんだという意味なのか、それとも私と同じように自分の発した
その言葉を覚えているからなのかは、分からない。
手を伸ばして、頭に触れる。あれからまた身長も伸びた私と違って、ミヤフジと同じくサーニャもまた小柄なまま
だった。けれど髪が大分伸びて、ふわふわと柔らかな髪の毛が背中まで伸びている。大人になったはずの彼女が、
何だかひどく幼く感じるのはどうしてだろう。ぽん、ぽん、と。柔らかく頭を撫でるように叩く。少しだけ顔をしかめる
サーニャに笑いかけた。
「サーニャには伝わらなかったかもしれないけど──あの頃の私はちゃんと、一生懸命、サーニャのことが好き
だったんだよ。…本当に、好きだったんだ。言葉にしてやれなくて、ごめんな。」
それはあのとき言うことが出来なかった、謝罪の言葉だった。怒りに狂うことしか出来なくて、打ちのめされたあとは
落ち込むばかりで。そうして多分たくさん彼女を傷つけた、私。
ずっとずっと謝らなくちゃと思ってた。けどあんなことになって、スオムス行きも拒否された以上自分から会いに
行くのは恐ろしくて出来なかったのだ。
そして、この言葉も言わなければと思っていた。言ってやりたいと、思っていた。
「ミヤフジと一緒になったんだろう?大分遅くなっちゃったけど、おめでとう、幸せにな。」
サーニャの顔が歪む。エイラ、私。何かを言おうとするサーニャ。けれども次の言葉が出ない。いいよ、無理なんか
しなくていいよ。それを伝えるようにまた、頭を撫でてやる。あの頃の感覚が蘇ってくる。愛しい、可愛いと思う気持ち。
…でもあの頃と違うのは、自分のものではないとはっきり言うことが出来るところ。相手の幸せを、自分のいない
未来を、簡単に思い描くことが出来るところ。
「…エイラは、どうしてリネットさんと一緒に来たの?…仲良く、なったの?」
「んー?…まあ、色々と」
言葉を濁す、私。…別に言いにくいことがあったわけじゃない。ただ、そこに至った経緯を話すのが面倒で、恥ず
かしかったからだ。あれはひどいもんだった。今思い出しても背筋が寒くなる。
「あなたの報せ、私は何も聞いてない。」
「…名前を聞きたくも無いだろうと思って、黙ってもらってたんだ」
「…そんなこと…」
頭を撫でていた私の手の、手首辺りをサーニャが握った。そのまま両手で包み込んで、ぎゅ、と握り締めてくる。
「そんなことない。心配してた」
「…ごめん」
なんでだろう、昔の私だったらこんなことされたら恥ずかしさに真っ赤になってしまっていただろう。でも今は、
心臓が高鳴ったりさえしない。とく、とく、と穏やかに血を送り込んでいくばかりだ。この上なく穏やかな気持ちで、
私はサーニャを見つめているのだった。
「だってサーニャ、私のこと嫌いだろ?」
「嫌いになんかなってない。…エイラは友達。…大切な、友達。」
「…そっか。ありがとう」
何だかすごく嬉しくなる。拒否されているとばかり思い込んでいたから、緊張の糸がぷつりと切れたような気分
だった。…恋じゃないし、愛でもないけど…ああ、この人は私のこと、友達だと思ってくれたのか、と。彼女の一番に
なれなかったくらいであんなにも取り乱した自分が、いまさらながら恨めしくなる。こんな選択肢もちゃんとあった
のに、私はどうしてもサーニャの一番でありたかったのだ。…だって、あの頃の私にとってサーニャは一番だったから。
でもいいんだ。まっすぐにこちらを見ているサーニャの顔を、今の私ならまっすぐに見返すことが出来る。それが
何よりもの証拠だ。…一番じゃ、無くたっていい。そしてサーニャもまた、もう私の一番ではない。
エイラさん!どこですかー。サーニャちゃーん、どこー?
サーニャと私を呼ぶ声がする。私は自然にサーニャの手を振り解いて答えた。ここにいるよ、サーニャも一緒だ。
ぱあ、と顔の輝いたリーネがこっちにやってくる。立ち上がって待ち構えていると、ああ、やっぱり。私のところに
たどり着く直前でお約束のようにずっこけて…今度こそ怪我したりしないように、手を出して抱きとめた。
「ほんっとうに、ドジだなあ、リーネは」
「エイラさんが支えてくれれば何も問題ないよ」
「さっきは失敗したけどな」
「そういうこともありますよ。落ち込んでるんですか?」
「…多少。」
もう治ったよ、大丈夫。そう笑ってリーネが抱きついてくる。おいやめろ、と訴えてもやめない。…そんなことすると
当たるんだよ、柔らかいのがっ!確かに昔は大きいほうが好きだったけれど、それとこれとは話が別だ。からかう
ために揉むのはともかく、ぐいと押し付けられたらたまったもんじゃない。
「エイラさん可愛い。そういうところもす──」
「あーーーー!!ばか、言うんじゃないっ!」
「好き」
耳をくすぐるその二文字。…初めてそれを言われた日から何度繰り返されたかわからないその言葉に、相変わらず
反応してしまうのはどうしてだろう。言ったほうも言ったほうで、自分から口にしたくせにやっぱり顔を赤くしてるんだ。
そんな顔するくらいなら言うんじゃねーよ。
いや、これは、その。
目を逸らすように視線をめぐらすと、口をあんぐりあけてこちらを見ているミヤフジと、目を丸くしているサーニャが
いた。やっぱり無理やり口をふさいどけばよかったといまさら後悔する。けれどリーネが言葉を発した事実は
変わらない。
が、リーネはそんなこと関係ないとばかりに更に言葉を重ねてくる。
「ねえ、10回目ですよ、エイラさん」
「…今ここでそれを言うか、お前は」
「いいますよ、だってすぐエイラさん逃げようとするんだもん」
「あとでにしよう、ツケとけ。」
「今すぐ、即日払いでお願いします」
はあ、と大きなため息をひとつ。…こういいだしたリーネが頑固なことは、もうすっかり思い知らされた。…だって
実際のところ、彼女のこのいつもは秘めている強引さに救われて、今私はここにいるのだ。認めなくちゃ、受け入れ
なくちゃ、今の私はない。
何を言っているんだろう、これから何があるんだろう。そういわんばかりにこちらを見ているミヤフジとサーニャを
視界に入れないように、まっすぐリーネだけを見る。…誰も見てない、聞いてない。大丈夫、だいじょうぶだぞ私。
「…好きだよ、リーネ」
それが魔法の言葉だって、私はよく知っていた。伝わっているかもしれない気持ちでもあえて言葉にすることの
大切さを、私はもう、決して忘れたりしないだろう。
あれから、の話なんてする必要あるのだろうか。今、この状況を見れば一目瞭然のような気がする。けれども
やっぱり口にしないわけにはいかないようだった。『どういうことなの』という二組の視線がぐさぐさと突き刺さるからだ。
ああ、だから人前では言いたくなかったのに。
「ガリアを解放して、私がスオムスに戻ったあと…リーネもスオムスに来て」
「あんまり落ち込んでるから行ってきなさいってペリーヌさんに怒られちゃいました」
「……そしたらこいつが何回もいろいろ、言ってきて」
「適当に言わないでください。『100回好きって言ったら考える』っていう提案に了解したのはエイラさんです」
「リーネのヤツ本当に100回いいやがって…周りの奴らも勝手にはしゃぎまわって」
「ニパさんとエルマさんが一番乗り気でしたね」
「…いつのまにやら、周りは勝手に婚約者だとか決め付けるし、親にも知れ渡っていつ紹介してくれるんだとか
どやされるし…」
「何だかいつのまにか外堀が埋まっていました。」
「…スオムスでその言葉をわざわざ口にするのはプロポーズと同義なんだよっ」
暑いからと戻った宮藤診療所でされたにぐったりしながら答えると、横からリーネが更にげんなりするフォローを
入れてくる。ああ、これだから昔の仲間には会いたくなかったんだ、と頭を抱える私。恥ずかしくて死にそうだ。
最初100回だったそれはなんだかんだで短くなり、なぜか今となっては「10回言ったら1回言ってくださいね」なんて
言うわけの分からない約束となっている。そのうちもっと減るんじゃないかと思う。…リーネは一度こうと決めたら
絶対に曲げないし、本当にして欲しいことはちゃんと口にする。そう言うやつなのだ。
「そうなんだ…よかったね、リーネちゃん」
ミヤフジが意味深に微笑んで、リーネに語りかける。ぽ、と顔を赤らめるのはどうしてなんだ?…でもなぜか隣の
私の手をぎゅ、と握って「うん」なんて答えるから、まあいいやと思う。リーネが笑ってるなら、それが一番だ。今の
私の、幸せだ。そう思ってしまうのはなんていうか、惚れた弱みってやつなんだろうか。いや、惚れさせられた
弱みってやつか?
…あんなに頑なだった、サーニャのことを忘れられるわけがないと思っていた、私の心をぐいと引き寄せて自分に
向けて、そして今はもう、自分しか見られないようにした。恐ろしいよな、愛しいけれど。
まあいつまでたってもさん付けだったり、敬語交じりだったりするのはこれからの改善課題ということで。
「おめでとう。芳佳ちゃん、サーニャちゃん」
私の今一番大切な人が、そう言ってかつて一番大切だった人と、その人が一番大好きな人に言う。多分そんな
彼女の隣にいる私は、彼女にとって一番大好きな人なんだろう。…あれだけ言葉にされたら認めないわけには
いかない。いや、そうだと確信したいんだ。ほかでもない、私自身の希望で。
ありがとう。
答える二人の顔は晴れやかで、私はようやく、胸のつかえがとれた気がした。