Солнце после Луна
エイラが好き。
そのたった一言が言えたらどんなに気楽だろうかと思う。
わたしの想いを伝えたら、彼女はなんて言うだろう。
いくら考えても答えなんて出ないってわかっているけど、
それでもつい考えてしまうのだ。
────────
わたしの日課の哨戒飛行が定刻を過ぎる頃、東の空が白み始める。
だれもいない滑走路にゆっくりと着陸すると、遠くから坂本少佐の声が響いてきた。
厨房からはおいしそうな匂いが漂ってきて、もう朝なのだということを教えてくれる。
ストライカーを片付けて寮に戻り、自分の部屋の前を通り過ぎると、
すぐのところにエイラの部屋がある。
いつからだろうか。わたしは寂しくなった時や誰かの温もりが欲しくなった時、
自分の部屋ではなくエイラの部屋に帰ることにしていた。
もちろん最初はどきどきしたけど、ベッドの中にわたしを見つけた彼女は思ったよりも優しくて、
怒るでも呆れるでもなく、ただ「今日だけだかんな」なんて言ったりして、
それからそっと布団を掛けてくれるのだった。
だからきっと、悪いのはわたしなんだろう。
今はただ、この温かさを感じていたい。
最初はそれだけだったのに、最近は少し違う。
もっと甘えたい。
もっとくっついてみたい。
そんなことばかり考えている。
エイラの細くしなやかな身体に思い切り抱き締められたら……などと、
異常としか思えない欲求をさえ抱いている。
そしてその度に、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、
どうしようもない気持ちになるのだ。
これは罰。
優しいエイラに邪な感情を抱いたわたしに、神様が下した天罰。
エイラのことを考えるだけでこんなに苦しいのは、
ほんとうはいけないことをしているから。
それでもエイラのことばかり考えてしまうのは、
きっとわたしが世界でいちばん愚かな人間だからなのだ。
そう思っていた。
────────
それは夏の終わりのある夜だった。
久しぶりの非番が回ってきたわたしは、
しかしすることもないのでエイラの部屋にお邪魔していた。
「フーン、やっぱりな。」
枕元にタロットを広げていたエイラが呟いたので、
ぼーっと寝転んでいたわたしはゆっくりと起き上がる。
「何を占ってるの?」
「あのツンツンメガネと坂本少佐の相性。"世界"の逆位置。こりゃ無理だな。」
「…………。」
そう言ってくすくすと笑いを零すエイラがあんまり可愛いくて、
わたしは思わず心で思ったことをそのまま口走ってしまった。
「わたしは?」
「え?」
「わたしも占って。」
エイラはとてもびっくりした顔をした。
わたしからこんな風にお願いをするのは初めてだったからだろう。
数秒、気まずい空気が流れたあと、エイラは散らばったタロットを手元に集めながら、
短く「いいけど、何を?」とわたしに尋ねた。
「相性」
「……誰との?」
「エイラ」
心の中は緊張と恐怖で壊れてしまいそうなのに、
わたしは自分でも驚く程冷静に、その名前を告げた。
エイラは案の定複雑な表情のまま固まってしまったけど、
わたしが黙って見つめているとやがて観念したようにカードを切り始めた。
「……。」
嫌いになってしまっただろうか。
目の前にいる相手との相性占いをさせるだなんて、
きっとひどいいやがらせにしかならないのに。
ましてやそれが、こんなわたしとだなんて。
それでも優しいエイラは文句のひとつも言わずに、
わたしの前にカードを並べてくれるのだ。
「引いて。」
「うん……。」
抑揚のないエイラの声を聞いた瞬間、カードを引くのが怖くなった。
もし悪い結果が出たら、わたしはもうここにはいられなくなるかもしれない。
エイラとの関係がこれ以上悪くなるのを恐れて、
近づくこともできなくなるかもしれない。
でももし……もしも、いい結果が出てしまったら、
わたしはいったいどんな顔をすればいいんだろうか。
どんな反応をすれば、エイラに変に思われないですむだろうか。
「どれでもいいぞ。」
「うん……。」
しかし引かないわけにはいかない。
意を決して、一番手前の一枚を裏返した。
「……。」
エイラの顔は怖くて見られなかった。
「……"月"の正位置。」
静かな声で、そう告げられる。
「"迷い"、"不安"の象徴だな。」
────────
ああ、やっぱり────
と、わたしは心の中で呟いた。
きっとわたしなんかがエイラと一緒にいても、
エイラを不安にさせるだけなのだ。
「ごめんなさい。」
その言葉が口をついて出た。
「……何が?」
「わたし……その……」
カードを眺めていたエイラの視線がわたしに向けられる。
やめて。見ないで。エイラがだめになっちゃう。
「部屋に、戻るから……ごめんなさい……」
目を合わせないようにしながらベッドから降りる。
いきなり立ち上がったから少しふらふらするけど、構ってはいられない。
「サーニャ?」
エイラがわたしの名前を呼ぶ。早く、早く出なきゃ!
「サーニャ!」
「!?」
それなのにエイラは、前に踏み出したわたしの腕を引っ張るのだ。
「どうしたんだよサーニャ。オマエさっきから変だぞ?」
「離して!!」
勝手に大きな声が出てしまう。
それでも前に進もうとすると、エイラはわたしの腕をより一層強く引いた。
「サーニャ、私に何か隠してないか?」
「してない。」
「ウソだ。」
「嘘じゃない。」
「ウソじゃなかったら、何で逃げるんだよ。」
「それは……。」
衝動に急かされて焦れば焦るほど、エイラの手がわたしをぎゅっとする。
その体温がもたらした別の衝動を、ありったけの理性を振り絞って押さえ込む。
「話してくれよ。友達だろ?」
「いや。」
「気になるじゃないか。」
「気にしないで。」
「無理だよ!」
今度はエイラが大声を上げた。
思わず身体がびくっとして、そのままエイラに振り向かされる。
「サーニャが独りで苦しんでるのに気にしないなんて無理だ!
そんなの、心配するに決まってるだろ!?」
「でも、わたし……。」
「サーニャ!!」
────────
掴まれた両肩を引き寄せられて、視界いっぱいにエイラの顔が映った。
触れそうになった唇から漏れる吐息の温かさまでわかる距離。
心臓が爆発しそうになった。
「私じゃダメなのかよ!?」
真剣な瞳が必死で訴えかけてくる。
ああ、なんて綺麗な瞳なんだろう。
わたしの澱んだ緑とは違う、清らかで澄んだ海のような青。
それがあまりにも美しくて────わたしは一瞬、
わたしではなくなってしまった。
「なあ、サーニャ!!」
その深い色に吸い寄せられるように、
わたしはほんの少しだけ、エイラに近付いたのだ。
唇が重なった。
「……!!」
エイラが息を呑む音がして、同時にまぶたがおおきく開かれる。
ふるえる瞳の中の虹彩が生み出すプリズムまでもが見えるようだった。
それはどこまでも純粋で、穢れのない色。
見つめ合ったままぴくりとも動かない時間が、永久に続く気がした。
────────
エイラがわたしを押し返す感触がして、
ようやくハッとした。
わたしは最悪だ。
咄嗟にエイラの身体を両手で突き飛ばした。
「ぅわ!」
短い悲鳴がした。もしかしたら痛かったのかもしれない。
わたしのせいだ。
わたしがエイラの不幸を招いているのだ。
わたしとエイラの相性が悪いから、わたしが近くにいるとエイラはダメになるのだ。
だからエイラはいつもわたしに触ろうともしないし、
他の誰かと遊んでいてもわたしの前では冷めたようにしおらしいのだ。
それなのにわたしは、エイラを穢してしまった。
自分の醜い欲望を抑え切れずに、感情を押し付けてしまった。
「サーニャ、おまえ……」
エイラの声がした。温かくて、優しい声。
全部わたしが汚してしまった。
「────!!」
もはや許しを乞う声も出なかった。当たり前だ。
わたしは決して赦されない罪を犯してしまったのだから。
「おい、待てよ、サーニャ!!」
足が勝手にドアの方に向いた。
わたしは逃げるの?
もう逃げるところなんてどこにもないのに?
「サーニャ!!」
一瞬の迷いが僅かな遅れを生んだ。
後ろから両手で全身をがっしりと固定され、身動きが取れなくなった。
エイラに捕まえられてしまったのだ。
わたしはどうなるのだろうか。
償えない罪を犯したわたしを、エイラはきっと許さないだろう。
このまま殺されてしまうかもしれないという過剰な恐怖と、
エイラになら何をされてもいいという歪んだ欲望が頭の中を支配して、
しかし思考だけは異常に冷静なままぐるぐると空転し続けた。
────────
「ごめんなさい」
長い長い沈黙のあとで、わたしは口を開いた。
「わたし、本当はこんなに悪い子だったの。
エイラがわたしに優しくしてくれていたときも、
心の中ではずっとこういう目で見てたの。
ダメだってわかってるのにやめられないの。
何をしててもエイラのことばっかり考えてて……。
でも、もういいの。もうエイラには近付かないようにするから。」
震える喉を無理矢理押さえ込んで、何とか声を絞り出す。
エイラは何も言わずにただわたしの話を聞いた。
「エイラがわたしのこと邪魔に思ってるのは知ってたの。
いつもわたしのためにいろんなことしてくれて、
エイラが自分のやりたいことをする時間がないことも……。
でもわたしは自分のわがままでそんな関係をずっと続けてきて……。
だから、あんなことを頼んだの。わたしとエイラのことを占って、
もし悪い結果が出たら、もうこんなことを続けるのはやめようって。
エイラにこれ以上迷惑をかける前に、自分の力で何とかできるようになろうって……。
だから……お願い。
今までのこと……全部謝るから。エイラのためなら何でもするから、
ずっと邪魔してたこと、許して────。」
許して、なんて身勝手が通るわけがないけれど、それでもわたしはそう言った。
その方がむしろ、自分の惨めさを実感することができるから。
エイラはわたしを捕まえていた腕を緩めると、わたしの身体を自分の方に向けさせた。
そして今度こそわたしを殺すために、その両手を振り上げる。
ああ、エイラ。大好きなエイラ。どうぞこの醜いわたしを殺してください。
あなたの心が少しでも晴れるなら、
わたしはこの命を喜んで差し出します────
────────
死ぬ瞬間というのは時間がゆっくり流れるように感じると聞いたことがある。
極限の緊張状態に陥った思考が、咄嗟の判断を下すためにそうなるのだという。
エイラはその両手でわたしの頭を身体ごと懐につかみ寄せ、
灼きつくような狂気を帯びた瞳でわたしを睨みつけ、
それから最も比喩的な方法で────わたしを殺したのだった。
「……っ」
それはわたしにとって、一生で最も長い一瞬になった。
唇から流れ込んでくる灼熱の情気がわたしの身体を駆け巡る。
触れ合う肌は焼け焦げ、血液は沸騰し、心臓は狂ったように脈動を繰り返す。
凍てついていた意識が音を立てて砕け散り、皮膚の上でどろりと融けて蒸発した。熱い。
熱い。
あつい!
わたしのすべてはその禍々しいまでの温度に一瞬で焼き尽くされ、
後に残ったのは鼻をつく甘い香りだけだった。
融けてなくなってしまったはずの自分の体がまだ存在していることを意識して、
何も苦痛を感じていないことを不思議に思った後で、
わたしはようやく、わたしを焦がす炎の正体に気が付いた。
わたしの唇に重ねられた柔らかなそれは、
今なお熱い唾液を流し込んで赤い幻視を見せ続けている。
エイラはわたしにキスをすることで、わたしのすべてを完璧に奪い尽くしたのだ。
とても短いキスだった。時間的にすればきっと5秒にも満たなかっただろう。
そのたった5秒が、わたしのすべてを変えた。
「愛してるんだ。」
わたしの頭を抱えたまま、エイラが言った。
「愛してるんだよ、サーニャ」
その言葉はあまりに幻覚的で、そのまま信用するには少し時間がかかった。
まさか、そんなはずはない。
エイラが?こんなわたしを?
「ずっと好きだったんだ。」
いっそ嘘だと思いたかった。
こんな姿を見せた後でそんな風に言うなんて、神様はなんて残酷なことをするんだろう。
もしもわたしが消えてなくなってしまえば、これほど恥ずかしい思いはしなくて済んだのに。
「サーニャ」
愛しいひとがわたしの名前を呼んでいる。回された腕の体温を少しだけ感じて、
わたしはやっと、さっきまでのエイラがわたしを捕まえていたのではなく、
ただ抱き締めていたのだということに気が付いた。
「エイ……、ラ」
喉から出た声はかすれていた。もしかしたらわたしは泣いていたのかもしれない。
「エイラ」
もう一度、今度はしっかりと届くようにその名前を呼ぶ。
「サーニャ」
「エイラ」
「サーニャ」
「エイラ」
見つめ合ったまま何度も、お互いの名前を呼び合った。
その存在が本当だと確かめたくて、ただひたすらに繰り返した。
いくら呼んでも足りなくて、もっと確かなものが欲しくて、どちらからともなく近づいてもう一度唇を重ねた。
触れ合ったところはただ扇情的な熱だけを帯びていて、
そしてわたしは、今度はゆっくりと、エイラの熱に融かされていった。
────────
瞼の向こうに光を感じて目を開けると、流れるような美しい銀髪が
カーテン越しの朝日を反射してきらきらしているのが目に入った。
わたしとエイラは、お互いの腕の中で眠っていたのだ。
「ん……」
エイラはわたしが目を醒ましたことに気が付いたのか、少しだけ身じろぎすると、
わたしをぐいと抱き締め直して再び深い眠りに落ちていった。
あんなにも恐ろしく感じたこの人の感触が、今はとても愛おしく感じる。
エイラはわたしに言ってくれた。「愛してる」って。
わたしが求めてやまなかったその一言を、エイラは望み通りに言ってくれたのだ。
こんな奇跡なんて、他にはない。
「エイラ」
昨晩はいやというほど呼んだその名前を、わたしはもう一度だけ口にした。
「わたしは、あなたが好き。」
ずっと言いたかった言葉。
答えを聞きたかった言葉。
眠ったあなたの返事はないけれど、
わたしはもう求めるあまり自分を見失ったりはしないよ。
だって答えはもういつでも聞けるのだから。
空にはもう月は見えない。わたしの恐れた迷いはとうに過ぎ去ったのだ。
あなたが目を醒ましたら、一番に聞きたいな。
ねえエイラ、わたしのこと、好き?
endif;