無題
「ねーミーナー」
「なにかしらー」
「ひまー」
「あらー、そうー」
間延びした声で話しかけてくるものだから、ミーナの声もつい間延びしてしまう。
執務室に備え付けられたソファにだらしなく寝転がって、柔軟な体でごろごろとしている女の子。
「ねえ、フラウ」
「んー?」
「私、お仕事中なの」
「うん、見れば分かるよ。がんばってー」
机の上にある、片付けるべき書類は山ほどで、その中には彼女がやらかしたことへの報告書も含まれて
いる。もちろんどれもミスなど許されないものばかり。
けれどもエーリカときたらそんなの知らぬ存ぜぬといった顔で、平然と私に話しかけてくるのだ。
ぱたぱたと手を振って、にこにこと微笑んで。たまにこちらにやってきて、暇だよ構ってよ、なんて駄々を
こねる。ウィッチとしてはもうベテランの域に足を突っ込んだ、16歳だとはとても思えない。
「遊んでもらうならトゥルーデにしてちょうだい。ね?」
「いまトゥルーデ私の部屋の掃除してるから手伝わされるもん。やだよー」
仕方なしに、同郷の友人を引き合いに出すも全くもって効果なし。
そもそも『自分の部屋の掃除』を『手伝わされる』というのがおかしいのかもしれないけれど、エーリカ相手
にそんな常識が通用するとはとてもとても思えない。
だから、ねえ、構ってよ。にこにこと、人懐っこい笑顔で見つめてくる。勘弁して頂戴、とミーナは笑って
肩をすくめる。口を尖らせて、えー、なんていって、またソファの上で寝返りを打った。身動きを止めたと
ころを見ると、このまま昼寝と決め込むらしい。まるで子供、まさに子供。見た目も、中身も。どこか心が
洗われて、どうしてか笑みを浮かべてしまうほどに。
(…この子があの『黒い悪魔』だなんて)
誰が信じられるだろう?ミーナは思う。今自分の視界の端で、ぐだぐだと駄々をこねている幼い顔のあの
少女があのゲルトルートと肩を並べるほどの撃墜数を誇るカールスラント空軍、いや世界きってのウィッチ
だなんて。
だってはじめて彼女にあったときは、ミーナとて信じられなかった。思わずゲルトルートに確認をしてしまった
ほどだった。ねえ、この子が?嘘でしょう?けれどゲルトルートは力なく首を振って、彼女らしくも無く少し
笑んで、『ところがそうなんだ』と答えるだけで。
見れば分かる、と告げられて、連れ立って飛んだ空の上で、別の次元を見たことをミーナは良く覚えて
いる。ゲルトルートこそ恐らくは、世界一だと信じてやまなかったミーナだった。それは別に友人として過
大評価したからではなく、むしろ友人だからこそ辛口に評価しても、ゲルトルートの空戦センスは逸脱して
いたからだ。
それだのに、どうだろう。
ゲルトルートと二機編隊を組んだエーリカ・ハルトマンはそのゲルトルートと同等、いや、むしろそれ以上
のセンスを持っていた。…何より驚くべきはその上に更に、風を操る固有魔法をその身に宿していたこと
だ。攻撃にも応用できる固有魔法を持ったウィッチはとても少ない。ミーナのそれはどう考えてもサポート
系統であったし、ゲルトルートの固有魔法は戦闘に直接関わるものではなくて。
この世にもしも、運命をサイコロだとか、くじ引きだとか、もしくは好みだとかで決める存在がいるのだとし
たら──この少女はきっとその存在にひどく愛されて生まれたのだ、と思った。尊敬も羨望でもなく、ただ
抱いた感想は「すごい。」ひとつきり。
(…でも、『黒い悪魔』だなんて)
物思いにふけりながら書類をこなし、区切りがついたところで同僚を見やると彼女はやはり、ソファーの
上で丸くなって穏やかな眠りについていた。…まるでロマーニャのフランチェスカのようだと、思わず笑みを
漏らす。けれど彼女はまだ12歳。こちらはそれより4つも上だ。それなのに。
「風邪引くわよ、フラウ」
立ち上がって、近づいて。彼女に話しかける。フラウ、お嬢さん。戦果などとは関係なしに、その見た目
から名づけられた愛称だ。その響きはどこか、彼女のその金髪の柔らかさと似ている気がする。だから
だろうか、ミーナは彼女をそう呼ぶのが、とてもとても好きだった。
ねえお嬢さん、お嬢さん?呼びかけても一向に目を覚ます気配の無いエーリカに、何度も何度も呼び
かける。どうやらぐっすり眠っているようだ、本当に寝つきの良い子だわ。ミーナは嘆息する。呆れなのか、
感心なのか、自分でもよくわからない。
(ハルトマンのやつ、スボンを脱いでいる途中で眠ることが出来るんだぞ。しかも床で!!
あんなに散らかった部屋の、何がおちているか分からない床で、床で!!
信じられるか!?信じられないよな!?)
いつもは寡黙を装っているくせに、ミーナの前では、ことエーリカに関しては、非常なくらいに声を荒げる
ゲルトルートは、エーリカの話が正しいなら今頃エーリカの部屋でぷんすかと怒っているのだろう。本当は
必要とされて嬉しいことを、ミーナは良く知っているけれど。昔からのことだが、ゲルトルートは本当に
不器用で素直ではない。だからこそ、器用すぎる上に素直すぎるエーリカとしょっちゅう対立してはどちらか
がミーナのところに駆け込んでくるのだった。…恐らくは今日もその、掃除の件で二人はもめたのだろう。
…そしてお互いに文句を言いながら結局は謝りたくて、けれどどうしたらいいのかわからずにここに駆け
込んでくる二人をミーナは心底愛しいと思うのだった。仲が良いことに越したことは無いけれど、そうして
思い悩んでいる二人の相談に乗ったりするのは存外に楽しいのでつい、フォローする手を緩めてしまう。
だってそうしたらまた、どこかで綻びて自分が必要とされるから。ミーナだってたまにはこっそりわがままを
通したいときがある。
ふう、とため息をついて、クローゼットの中からブランケットを取り出した。
ねえ、お嬢さん?ソファの背からもう一度呼びかける。…反応は、無い。
ねえ、ねえ、フラウ?前面に回りこんで腰をかがめて、更に一度。黒い悪魔と評された小さな小さな女の子
は穏やかに寝息を立てるだけだ。
「…もう」
しかたないわね、と呟いて、ミーナはブランケットを広げる。彼女が体調を崩したら、本人以上に役立たず
になるものがいることなど、ミーナには簡単に想像できた。…もちろん心配するのはそれだけの理由では
ないけれど。
ゆっくりおやすみなさい、おじょうちゃん。
呟いて、ブランケットをかけてやろうとしたその瞬間。
ぐい。
腕がぎゅうとつかまれた。そして手前に引き寄せられる。今まで寝転がっていた人物がひょいと起き上が
って、そしてミーナはその傍らにぼふ、と倒れこむ形になった。
「つかまえたー」
そして間延びした声が、すぐ傍らから。
「ちょっと、冗談は止めなさい、フラウ!」
「ミーナはこれから、私とお昼寝に決まりっ!」
「だから冗談は…っ」
「冗談じゃないでーす」
ねえねえちょっと休もうよ、根詰めたら倒れちゃうよ。頭ごと抱え込むように抱きしめられる。しばらくする
といつの間にやらミーナの頭はエーリカの膝の上にあって、ブランケットはそのミーナの体の上にかけ
られているのだった。
「私は大丈夫よ、まだやらなくちゃいけないことがあるの」
「そんなのトゥルーデがやってくれるって。あれって一応副官なんでしょ?」
「…あなたはいつも、楽観的ねえ、フラウ」
「前向きって言ってちょうだいな」
起き上がろうとしても、強い力で押しとどめられる。温かいからいなくなっちゃやだー、などと理由をいつの
間にかすり替えているけれど、その裏に隠された本心なんて、ミーナはすぐに読み取ることが出来た。
…確かにここ数日、あまり休んでいないい。イレギュラーな出撃に合わせて大量の書類が舞い込んできた。
各国が好き勝手に送りつけてくるものだから、いちいち訳さなければいけないのも面倒だ。
「トゥルーデには怒られ慣れてるから、私が怒られてあげるよ。ね?」
優しい言葉と、温かい温もり。午後の日差しが柔らかく、部屋の中に差し込んでくる。
疲れが体の奥から染み出してきて、ミーナの頭に大挙して来た。多勢のそれに、理性は無勢。成すすべも
無くあっさりと陥落して、とろとろと意識が融けていく。
おやすみ、と。最後に聞いた声は彼女の金髪のように、彼女の愛称のように、ふわふわと柔らかくて。
ミーナはなんとなくもう一度「フラウ、」と呟いた。
*
(フラウ、ねえ…)
自分の膝の上でいとも容易く陥落してしまった上官の、最後の呟きを聞いてエーリカは一人嘆息した。
この上官が、恐ろしく柔らかい声で自分の事をそう呼ぶのをエーリカはよく知っている。どうしてか、彼女は
その愛称をいたく気に入っているらしい。
フラウ。祖国の言葉で、お嬢ちゃん。自分の容姿が幼いがために名づけられたあだ名。
からかわれているようで実はあまり好きじゃなかった、と言ったら、もしかしたらミーナは悲しい顔をする
のかもしれなかった。だからエーリカは今まで一度もそれをミーナに告げたことは無い。
フラウ。ミーナの綺麗な声が、柔らかな発音が、エーリカの耳にもう一度蘇る。なぜだろう、ミーナにそう
呼ばれることは全く嫌ではないのだった。むしろどこか嬉しい自分がいるのに、エーリカはいつも驚く。
今ではもう違和感なしに、そう呼びかけられて振り向ける自分がいる。だってミーナはやさしいからだ。
どこまでも、どこまでも、優しいから。
(ゆっくりおやすみ)
かつて妹のそれをよくやっていたように、髪をかきあげて額を撫でる。相当疲れが溜まっていたのだろう。
ミーナが起きる気配は無い。ねえ、お願いだから無理はしないでね。だってすごく、大切なんだ。
多分いつかどうせ、ゲルトルートが自分をここに探しに来る。これは二人で眠りこけて、どちらに怒れば
いいのかわからない状態にするのも面白いかもしれない。
そうほくそえんで、エーリカはミーナの体にかぶさるように眠りにつくことにした。
了