髪を切る
冬が終わる。遠くの山々の頂はまだうっすらと白い雪に覆われているけど、あれが溶ける頃にはすっかり春になっているだろう。ブリタニアの春は、私の故郷であるスオムスのそれよりも早い。ここ、第501基地も、そろそろ春の訪れが感じられるようになった。
二・三日続いた雨が上がり、久しぶりに太陽が顔を出したそんなある日。私とサーニャは基地の周りを一緒に散歩していた。
初春の太陽は、地上の万物を優しく照らす。背中がぽかぽかと暖かい。昨日までの雨で濡れた芝生は、太陽の光を反射して明るい緑色に輝く。所々に黄色の花が群生している。あれはスイセンの花だ。ブリタニアに春を告げる花。
至る所で生命が芽生えようとしていた。
「もうすぐ春ダナ」
「うん」
「サーニャ、寒くナイカ?」
暖かくなってきたとはいえ、日向と日陰ではそれなりに温度差がある。風邪を引いたら大変だ。
「平気。風、暖かいから」
「そっカ」
ふわりと風が吹く。風に乗って、微かにスイセンの甘い香りがした。
私とサーニャ。隣に並んで、ゆっくりと歩く。この穏やかな時間を噛み締めるように。この景色を、空気を体の隅々まで刻み込むように。
私にとって、サーニャと一緒に居られるという事は、他の何事にも代え難い幸せだ。この幸せがいつまでも続いて欲しい。そして、もしサーニャもそう思ってくれているのなら、とても嬉しい。
「エイラ」
不意にサーニャが私の袖を引っ張った。
「どうシタ?」
あそこ、とサーニャが指差した先を見ると、遠くの物干し場に宮藤とリーネがいた。
おそらく洗濯物を干していたのだろう。ロープに吊された白いシーツが風にぱたぱた揺らめく。ブンブンと大きく手を振る宮藤と、ぺこりと会釈をするリーネ。ここからでは聞こえないけれど、宮藤のヤツ、
「エイラさぁぁん、サーニャちゃぁぁん!」
とか言っているに違いない。私は大きく手を振り返した。
「ホラ、サーニャも振るんだゾ」
私が促すと、サーニャも恥ずかしそうに小さく手を振る。私たちは、顔を見合って笑った。
その時、さあっと一陣の風が私とサーニャの間を吹き抜けた。風はスイセンの花を揺らして、木々の枝をざわめかせ、宮藤たちのシーツを危うく落としかけてから海の方へ吹き抜けていった。私の髪が踊る。もちろんサーニャの髪も。
風に舞うサーニャの銀髪は、太陽の光を透かしてキラキラと輝いていた。それはどこかに消えてしまいそうな儚さを秘めた、美しい光景だった。それはまるで気高く神々しい芸術品──。
私はその様子を、何かに取り付かれたかのようにじっと見入っていた。全てはスローモーション映像のようにゆっくりと、そしてはっきりと瞳に焼き付いた。
髪がふわりと額にかかる。その瞬間、世界が戻って来た。サーニャがぶるぶると頭を左右に振る。
「どうしたンダ、サーニャ?」
私が尋ねると、サーニャはこっちを見ながら応えた。
「前髪が目に……」
「前髪? ああ、確かにちょっと長いナ」
気付かなかったけど、サーニャの前髪は目を半分ほど覆う位の長さになっていた。これではストライカーで飛ぶのにも影響が出るかも知れない。
「今度の休暇、一緒に街まで行って切ってもらうカ?」
でもそれだといつになるか分からないヨナ、などと一人でブツブツ呟いていると、サーニャが私の手を握った。
「エイラ」
「ハ、ハイ?」
心臓の鼓動が少しだけ早くなる。顔に血が登るのが分かった。
「わたし、エイラに切ってもらいたい」
ああサーニャの手、冷たいなア。手が冷たい人は心が暖かいんだヨナ……。
「ってちょっと待ッタ!」
危ない危ない。頭が現実逃避をしていた。私は深呼吸して自分を落ち着かせる。
「私はムリだからナ! 失敗したらどうするんダ?」
「エイラが切ってくれるのなら、どんな髪型でもいいの。……ダメ?」
ちょっと首を傾げながら、上目遣いで頼み込むサーニャ。
ソンナ目見ツメンナー! 断れないジャナイカー!
「き、切りすぎても知らないゾ」
「大丈夫。エイラが切ってくれるんだもん」
結局、折れたのは私だった。
×××
「ヨシ。やるゾ、サーニャ。心の準備はいいカ?」
「うん。わたしの方はいつでも大丈夫」
「で、でもやっぱり初めては緊張するナア」
「頑張って。エイラなら出来るから」
とまあ、聞いただけならナニやら怪しい会話を繰り広げながら、私たちは現在、サーニャの部屋にいる。もちろん、サーニャの髪を切るためだ。
サーニャは小さな丸イスにちょこんと座り、首から下は水色のポンチョを纏っている。大きなてるてる坊主みたいだ。
外は良い天気だけど、さすがに室内はまだ寒い。閉め切った窓ガラスからは、正午を過ぎた柔らかな太陽の光が、ビロードのように差し込む。ストーブに掛けた薬缶からは湯気がもくもくと立ち上り、そして消えていく。
午後二時過ぎ。それは、時計の針が最も遅く進む時間。ここは今、私とサーニャだけの空間だ。
「取りあえず、ちょっとだけ短くする感じでイイカ?」
「うん、お願い」
私はサーニャの背後に立って、ブラシでその銀髪を丁寧に梳く。さすがサーニャの髪だ。滑らかでサラサラで、痛み一つない。時折、例えば髪を一房手にすると、シャンプーのいい香りが広がる。私を幸せにする香りだ。
「エイラ……どうしたの?」
手が止まっていたようだ。サーニャが不思議そうに振り返る。
「イヤ、何でもナイ何でもナイ。だからサーニャ、前を向こうナ」
私は両手でサーニャの頭を前に向かせる。サーニャは大人しくされるがままになった。
「ヨシ、じゃあ切り始めるゾ。目に入ったらいけないから、ちゃんと閉じているんだゾ」
「うん、分かった」
私はハサミを手に持つ。サーニャの碧色の瞳が閉じられたのを確認して、その前髪を切り始めた。
失敗しないように、切り過ぎてしまわないように、私は少しずつ切っていく。ハサミを動かす度に、サーニャの髪がはらりと床に散る。ポンチョから覗く細くて白い首に、私の心臓が高鳴る。
私とサーニャ。向き合って沈黙したまま、時間だけが過ぎる。聞こえるのは髪を切る音と薬缶のお湯が沸騰する音、そして秒針が時を刻む音。だけど、それは決して居心地悪い沈黙ではない。
私の目の前にいるサーニャ。目を閉じて、無防備に、安心仕切ったように、全てを私に委ねている彼女。そこには確かに相互の絆というか、信頼関係がある。
サーニャは私を頼ってくれている。そう思うと、ちょっと嬉しくなった。
「エイラ……?」
その声に、サーニャがうっすらと目を開いて、こちらを見ているのに気付いた。
「コラ、サーニャ。目を瞑ってろって言ったジャナイカー。……まあ、もう切り終わったんだけどナ」
「それなら、言ってくれれば良かったのに」
私はポンチョに付着していた髪の毛を払ってから、それを脱がした。そして、二人で鏡の前に立つ。
「こんな感じでどうダ? 長さはあまり変えていないヨ」
サーニャはしばらく鏡の中の自分を見て、前髪を摘まんだり撫で付けていたけど、やがて私の方を向き、にっこりと笑った。
「うん。ありがとう、エイラ。こんな感じで良いよ」
「そうカ。なら良かっタ」
我ながら、なかなか上手に出来たんじゃないかと思う。少し明るくなった感じ。それにしても、やはりサーニャはスッゴく可愛い。
それから私たちは、床に散らばった髪を掃除した。
×××
いつの間にか時間は経っていたらしい。太陽はすっかり傾き、赤く色付いていた。
私とサーニャは、再び基地の外を散歩した。昼間よりも風が冷たい。私たちはどちらともなく手を繋ぎ、一緒に歩く。
一瞬、風が凪いだ。束の間の静けさ。そしてまた風が吹く。海はオレンジ色にキラキラと輝く。スイセンの花が揺れる。
風に舞い上がった私の髪を見て、サーニャが言った。
「今度はわたしが切ろうか?」
ちょっと想像してみる。サーニャが私の髪を切る場面を。──うん、悪くはない。でも、
「イヤ、今はいいヤ」
それはまたの機会にしよう。
そろそろ暗くなってきた。私とサーニャは、並んで歩き出す。繋いだ手が暖かい。この温もりが私の幸せ。
春はもう、すぐ近くまで来ていた。