本音と建前・支援
「へんなの、大尉のやつ」
呟いて、エイラはむうと少し口を尖らせた。いつも仏頂面を決め込んでいるところのカールスラントの堅物大尉は
リベリアンのぐにゃぐにゃとしたもう一人の大尉よりもよっぽど扱いが面倒だ、と思う。何を考えているのか分から
ない、それなのにすぐに怒り出す。最近は割と鳴りを潜めているけれど、きっとそれは彼女の幼い頃からの性質
なのに違いない。
(トゥルーデはトゥルーデだからねえ)
足早に去っていく後姿を見やりながら、エイラはエーリカの台詞を思い出していた。エイラよりもよっぽどバルク
ホルンにしかられている、むしろ彼女の仕事はバルクホルンに怒られることなのではないかと思われるエーリカは、
誰の前でもバルクホルンを『トゥルーデ』と呼ぶ。この部隊に配属されたばかりの頃は連呼されても誰だかわからず、
なんど苦笑いのミーナが「バルクホルン大尉のことよ」と注釈をいれるのをみたかエイラはもう思い出せない。傍ら
でうんざりとした顔をしていたバルクホルンはというと、それだのにいつもエーリカに対して訂正を求めなかったの
だった。まるでさも、それが彼女にとって至極当然であるかのような、それで分からないお前たちのほうがおかしい
のだというような、そんな顔をしていた。同じカールスラント出身のミーナは、エイラたちの前ではきちんと『バルク
ホルン大尉』と呼んでいて、それが部隊内での通称であるはずなのに、だ。
(昔からそうなんだよ。トゥルーデは、トゥルーデなんだ)
今よりも少し髪の短かったエーリカが、どれだけ朗らかな顔でそれを語ったか。エイラはなぜか良く覚えていた。
あれは確かエイラがサーニャと一緒にもう何度目か分からない二度寝をしてしまい、うっかり朝礼に遅刻したときの
ことで。事情を知っているミーナが「今度は気をつけてね」と笑って済ませたのにも関わらず直後にバルクホルンに
とっつかまり、やれたるんどるだの、規律がどうだのと言う説教を浴びせられ、やはり今と同じように勝手にどこかに
行かれてしまったのだった。
確かに自分の悪いことはエイラだって自覚していたが、あんなに怒ること無いじゃんか。まだまだ子供であるエイラは
そんな背反した感情を抱いて、一人残されたブリーフィングルームで口を尖らせていた。そんなときにエーリカが
ひょっこりやってきて「いやあご苦労さん」なんて肩を叩きながら言った台詞が、それらであった。それだけを語って
彼女は身を翻して、彼女のいつもの定位置──バルクホルンの半歩後ろ──へと舞い戻ったのだ。
勘の鋭いエイラはそれで、彼女らの関係をなんとなく悟った。いや、本当はもっと前から分かっていたけれど、その
ときになってやっと頭の中で定義づけることにしたのだった。
エーリカはたぶんそんなバルクホルンのことがとても好きで、バルクホルンもバルクホルンでそんなエーリカのこと
を内心とても大切に思っているのだと。
しかしそんな、絶対普遍に思われた二人の関係性が、どこか危うくなっていることもエイラは実は察していた。だって
最近のエーリカと来たらいつ見てもシャーロットと一緒にいるのだ。確かに同い年で、このあいだまで同じ階級で
あった二人はウマが合う部分もあったのかもしれない。けれどそれまでバルクホルンにべったりで、そのほかの
人と親しげに話すといえばミーナぐらいであったエーリカの突然の変貌は、エイラの中でぼんやりと組み上がって
いた人物相関図に多少、いや相当の変化をきたすこととなった。
そして、その変化はいつのまにか、目に見えるところにも表れはじめていた。
無意識に手を伸ばす。すぐ傍らに感じる温もりを抱え込むように。
柔らかくてふわふわとした感触が手のひら一杯に広がって、エイラは満足に顔を綻ばせた。そこで満足しきって
しまうものだから触れられた隣人の目が微妙に見開かれて、その頬が微かに朱に染まっていることにエイラは
欠片も気付かない。今のエイラにはいわゆる『そんな気』というものが小指の先ほども存在しなかったためである。
彼女の頭を羞恥心で一杯にしては体を強張らせる『ソンナ』がその心に巣食っていないとき、エイラは自分の行動
を省みることをしない。省みることをしないから、彼女は自らの本質であるその自由で少しミステリアスな思考その
ままに行動し、結果としていつも傍にいる少女の心を逆に惑わせているのだった。
それはもちろん、今現在がまさその状態であるのだけれど、エイラはそれに気付いていないのだった。
サーニャはちらり、とエイラを見やり、それからまたうつむいて手元の楽譜に目を戻した。頭の上では楽しそうに、
エイラのサーニャのそれに比べると大きい手が動いている。ぽんぽん、と優しく叩いて、ふわふわ、と感触を楽し
んで。予測の付かないその動きにサーニャの心臓がどれだけ高鳴っているか、エイラは全く気が付いていない。
ふわふわ、さらさら。淡くウェーブの掛かった、猫毛のような柔らかい髪。自分の持つそれとは違うサーニャの髪を
撫でるのが、エイラはとても好きだった。だから手を伸ばして、触れて、暇さえあればこうして撫でることはもうすでに
エイラの無意識の行動に組み込まれていて。だからこそサーニャも今、抵抗せずにされるがままになっているのだ。
(それだけでずいぶんと女の子っぽくなるよな)
(かわいい顔立ちしてんのが際立つっていうか)
五線譜の上で無数のおたまじゃくしが踊る。いつもは見ているだけでそのメロディーが自然に頭に流れ込んで、
気が付いたらふん、ふんと鼻で歌ってしまっているのだけれど今のサーニャにはそんな暇など無かった。
先ほど隣人が何気なく口にした、最近のエーリカに対する評価がぐるぐると、頭を回って離れないのだ。『雰囲気が
変わったよな』と呟いた彼女に対して、サーニャが『髪が長くなったと思う』と答えたのが、エイラのその発言の発端
だった。それはエイラが普段サーニャに対してはほとんど口にしない女性らしさについての言及であり、それは隣で
聞いていたサーニャにとって見たら喉から手が出るほど欲してやまないような高評価であった。
エイラの長い、サーニャのそれとは違う輝きを抱いた銀髪が寄り添ったサーニャの首筋に触れて、くすぐったい。
同僚の髪が少し伸びただけで『かわいい』などとのたまうのに、実際のところエイラのそれがの方がよっぽど長い
ことなど本人にとってはどうでもいいらしい。つまりは、エイラは自分が『女の子っぽい』ことだとか、『かわいい』こと
だとかに全く頓着していないのだ。
「エイラは、」
意を決して口を開いたら、「んー?」という間延びした声が返ってきた。ああ、これはもう本格的に『保護者モード』だ。
自分勝手に名づけてエイラに告げたことの無いその名前で、サーニャはエイラの今の状態を判別する。この状態
の時のエイラは、大抵何をしたってけろりとした顔をすることをサーニャは良く知っていた。とにかくサーニャを猫
かわいがりしたいときの状態であるために、自分の羞恥心など蚊帳の外にやっているのだ。
「…どうして髪を伸ばしているの?」
「髪?うーん…」
「かわいいから?」
肯定されたらそれはそれで面白い、などと内心思いながら尋ねたけれど、返ってきたのは予想通りの「まさか」と
いうけろりとしたもの。サーニャはがっかりすると同時に少し、安心する。だってそれを肯定するということは自分を
可愛く見せたいような誰かが、エイラにはいるということだからだ。
「昔は短かったんだけどな。一回伸ばしたら切るな、って猛反対されて、なんとなくそのまま」
邪魔だから切りたいんだけど、それも面倒だよなあ、などとごちる様がなんともエイラらしくてサーニャは少し笑う。
すると、エイラは「笑うなよー」と子供のように口を尖らせるのだった。
猛反対したその相手は恐らく彼女の故郷の友人たちか誰かだろう。おかしなところで律儀である彼女はもしかして、
その友人たちとの約束とも言えないそれを守ってやっているのかもしれなかった。毎朝鏡を見やるとき、エイラは
彼女らのことを想うのだろうか、と考えると少し切ない。だってそれはサーニャの預かり知らないところのエイラだから。
けれどもし今サーニャが短いほうが似合うよ、と口にしたら、エイラはもしかしたらいい機会だとばかりにばっさりと
切ってしまうのかもしれなかった。ふと、そうしてその故郷の友人たちと自分、エイラにとってはどちらが大切である
かを量ってみたい気持ちがよぎったけれども思いとどまる。こっそりと肩に掛かっている長い髪をひとすくいして、
口付けるように口許にやった。綺麗な綺麗な髪。エイラがサーニャの頭を撫でるのを好むのと同じくらいサーニャ
だってエイラの長い髪をいじるのが好きなことに、エイラは恐らく気付いていない。そしてそのあとで、肩に届くくらい
の自分の髪の毛の先に再び触れる。エイラのそれと比べたらずっと短い、自らのそれ。もしも自分が髪を伸ばし
始めたら、エイラは気付いてくれるだろうか。気付いたら、どんなことを言ってくれるのだろうか。
かわいい、と。
言ってくれるだろうか。
ふっと、サーニャはエーリカが髪を伸ばしている理由に気が付けたような気がした。…ふつう、面倒で切らずにいる
のならエイラのように「邪魔だ」とか「切りたい」とかこぼすのではないだろうか。それこそバルクホルンに「切って!」
と進言するのがサーニャの知っているエーリカであった。
けれどエーリカは、むしろそれを楽しんでいるように見受けられる。あるとき「大分伸びたでしょう?」と得意げに
シャーロットに語るエーリカを見た。サーニャが「髪が少し伸びたかも」と先ほどエイラに告げたのも、その会話を
聞いたからだ。…そう、たぶん、エーリカはそうして髪の毛を伸ばすことで伝えたいことがあるのだ。
そしてきっとそれは、いま、自分の胸に去来している気持ちと、恐らく同じ。
健気な人だ、とサーニャは思う。今までほとんど関わりの無かったエーリカ・ハルトマンと言う少女が何だかとても
身近に思えて、年上だというのに可愛らしく感じて、つい心の中で「がんばれ」とエールを送ってしまう。だって
エーリカが「かわいい」といって欲しい相手は、口を尖らせて「めんどうくさがっているだけだ」などとのたまうのだ。
…それに比べたら、同じ鈍感でだって、恐ろしく優しいエイラのほうが傍にいてずっと苦しくない。…もちろん苦しい
とか、苦しくないとかで、好きな気持ちが変わるわけではないと思うけれど。
一方エイラはといえば、バルクホルンの反応に再び関心を寄せていた。自分たちのしていた会話がどんなもので
あったかを思い起こして、改めて自分ならどうするか、とトレースする。
自分たちがミーティングルームにいたらバルクホルンがいて、そこにエーリカとシャーロットがやってきて…彼女
たちが最近仲のいいことを指摘しつつ、更にはエーリカの雰囲気が変わったことを話題にしたところ、ああなった。
…実際のところは多少のタイムラグがあったから他にも思うことがあったのかもしれないが、仮にあの反応がエイラ
たちの会話に起因するなら、そう言うことになる。
バルクホルンが最近苛立っているのは、エイラにだって分かっていた。理由だって知っていた。バルクホルンに
べったりだったエーリカが、最近シャーロットとばかり一緒にいるからだ。いいのかよ、大尉。エイラは直接的には
言わなかったけれど、そうバルクホルンに告げたかったのだ。とられちゃってもしらないぞ、と、部下としていろいろと
謙虚になりつつさりげなく、ちらつかせたつもりだった。
エーリカのことを話題にしたのも、揺さぶりを掛けたかったからだった。髪が伸びたんじゃないか、と、サーニャが
言わなければエイラ自身が口にするつもりだった。理由なんてともかくとして、似合ってるだから褒めてやれば
いいじゃん、なんて気持ちをこれまた謙虚に謙虚に伝えようと思い、エイラは自分なりに立ち回ってみたのだ。
だってシャーロットとエーリカが一緒にいるときのバルクホルンは非常に不機嫌であるし、シャーロットも最近やたら
と疲れているようだし、エーリカもまた、ふとした瞬間に陰の落ちた表情をすることが増えた。これはこじれたら面倒
だぞ、と、持ち前の勘の鋭さで直感したのだ。
考え事をしながらまた、いつのまにかサーニャの頭に触れて撫でている自分にエイラは気が付いた。この柔らかい
髪をひどく気に入っていることを、そう言えばエイラはサーニャに告げたことが無い。
最初は…そうだ。なぜかとてもサーニャが不機嫌で、ご機嫌をとるように頭を撫でたのだ。それはシャーロットが
ルッキーニに対してよくするように。子ども扱いしすぎたかな、と反省したのは行動を起こしてからであったが、
意外にもサーニャの機嫌がそれでとても良くなったのでエイラは味をしめたのだった。以来、ことあるごとにそうして
サーニャの頭を撫でていたら、いつの間にか癖になってしまっていた。
サーニャは楽譜を膝の上において、今は自分の髪の毛先を眺めてなにやら考え事をしているようであった。枝毛
でも探しているのだろう、とエイラは自分の中で勝手に審議して可決する。
…例えば、エーリカと同じようにサーニャが髪を伸ばし始めたらどうなるのだろう、とエイラは考えてみた。その
ふわふわの髪の毛が、例えば自分と同じ背中辺りまで伸びた様を。たぶんエーリカよりもずっと、女性らしく見える
のだろうと思う。こんな風に手を伸ばさなくたって、こうして傍によるだけでその柔らかい髪の感触がすぐ傍にあって、
そして長い髪が視界をさえぎればそれをかきあげて──
(うわ、やば…)
突然、エイラはバルクホルンのあの衝動的な行動の意味を理解した気がした。「危険だ」とぶつぶつと呟いていた
その理由も、間違いなく。
…だって、こうして想像するだけでも胸が高鳴ってどうにかなってしまいそうなのに今のバルクホルンはその相手が
別の相手と親しげにしているのだ。たとえば自分に置き換えてみるなら、宮藤辺りと。間違いない。それは危険だ。
あいつは確かサウナでもサーニャをそんな目で見ていた。これは危険だ。危険すぎる。
けれど、一番危険なのが誰か、痛いほどに知っているのだった。
想像だけでこれだけうろたえている、自分だ。
そしてそれはたぶん、バルクホルンも同じなのだろうというのは明白で。
その瞬間、恐ろしいほどにサーニャと密着していた自分に気が付いてエイラは思わず飛びのいた。少し寂しそうな
目でサーニャがこちらをみやるけれど、どうしようもない。
あいしているから出来ないこともあると、どうしてか理解してくれない人種がいる。そう言うのは好きだからこそ出来る
んじゃないの、と、「すきだ」とか「かわいいね」だとかいうことばをどうしても言ってやれない自分をルッキーニや
シャーロットは心底不思議である、といった風情で首をかしげるのだ。そして多分、サーニャやエーリカもまた、
『そちら側』の人間なのであろう、とエイラは推測するのだった。
がんばってくれ、おねがいだからさ。
サーニャに見つめられて小さくなりながら、唇をかみ締めてエイラは思う。『こちら側』の人間はあまりにも無勢で、
いつだって立場が無くて、責められるばかりで困っている。が、やろうと思えばたぶん、出来ないことは無い、はず、
なのだ。それはエイラにとって未経験の領域であるがために、推測の域を出ないわけだけれど。
間違ってもさっき自分たちに告げたようなことを本人を目の前にして言うなよ、と願う。…でもどうせ言ってしまう
のだろうな、と半分思いながら。あちらは自分持つような意気地なしに加えて、大変な意地っ張りなのだ。
むす、と唇を尖らせたサーニャが立ち上がって、ふい、とエイラの傍から離れていってしまう。「さーにゃぁ、」と情け
ない声を上げたエイラがその後を追いかけると、サーニャは黙ってピアノの前に座って楽譜を広げ始めるのだった。
そして始まる、繊細なメロディ。ミーナに貰ったものなのだろうか、カールスラント語で書かれたその題名を、エイラは
読むことができない。もちろん楽譜だって読めない。エイラにとってそれは、あまりにも意味不明な言語だ。…だから、
それを読み取って『音』という言の葉に乗せることが出来るサーニャがひどく眩しく思える。
ごめんね。
かわいいね。
だいすきだよ。
伝える代わりに手を伸ばして、恐る恐るその、ふわふわな頭に触れてみる。サーニャの体がぴくりと動いて、その
指の動きが目に見えて変わった。柔らかくなったそれを見て、もしかして許してくれたのかもしれない、などと都合の
良いことを思って。
なあバルクホルン大尉、こんな方法もあると思うんだけど、どうだろう。
これなら本音も建前もいらないよ。裏をよむ必要も、表に返す必要も無い。
自分に輪を掛けて不器用で、意地っ張りな上官にそう進言したかったけれど、とてもとても気恥ずかしいので
止めることにした。ただ、バルクホルンが自分で気が付くのを、願うことにした。