アキストゼネコ
カツンカツンと、隊舎の廊下に軍靴の音が響く。時刻は日付をまたいだあたり。いつものようにバーで酒をあおったビューリングは、温もった体で冷えた空気の中を突き進む。
特別なつくりがされた建物は凍てつく冷気を大部分シャットアウトしてくれるが、それも万能とはいえない。北欧スオムスの夜は氷点下など当たり前であり、各ウィッチは何らかの防寒対策をたてねばならなかった。
規則的な足音がぴたりと止まる。ポケットに手を突っ込んだビューリングはらしくない驚きの表情で固まり、一瞬のち弾かれるように走り出した。
「おいっ―――どうした、ウルスラっ!」
廊下の角にうずくまっている少女を抱え起こし、ビューリングは耳元で叫ぶ。行き倒れていた少女ウルスラは鼓膜をふるわす大声に顔をしかめ、タバコくさい革ジャケットを引き離そうとして力尽きた。
「…何でもない。ちょっと休んでただけ」
「深夜の廊下でか? それはまた変わったリラックス法だな」
とつとつと話すウルスラの顔色の悪さを見てとり、ビューリングはあまり刺激しないよう軽く頷く。話すかたわら黒いジャケットを脱ぎ、見るからに寒そうな肩に羽織らせた。ウルスラはまた少し顔をしかめるが、寒かったのは確からしくそれをつき返そうとはしない。
「とりあえず部屋に戻らないか? 風邪でも引くとトモコにどやされるぞ」
鬼の部隊長を引き合いに出して説得。風邪を引くなど普段の生活がたるんでいるせいだと、自らの乱れた夜の生活を棚に上げて喚き散らすはず。智子のくどくどしさは並じゃないので、隊員の誰しもが自然と体調管理を心がけるようになっていた。
しかし、ウルスラは無言で首を振る。その頑固な様子から何らかの理由があるのだと察知し、見下ろすビューリングはどうしたものかと溜め息。はぐれものだった彼女はこんな時どうすればいいのかなんて思いつかない。
「…医務室、行こうと思って」
まさか置き去るわけにもいかず困り果てていると、当のウルスラがぽつり。耳が拾った小さな声にはっとし、ビューリングは上体をかがめて顔を近づけた。
「具合、悪いんだな? いつからだ?」
「…夕食後。でも朝からだるい感じはしてた」
「気づいているなら早く言え! 誰も通りかからなかったらどうするつもりだったんだ!」
苛立ちを押さえきれずにビューリングは声を荒げる。こんな吹きさらしの廊下に薄い夜着のまま気を失えば命の保障すらかなわない。
「知識では知ってた。だからその時がきたら医務室へ行けばいい…そう思ってた」
「その時? まるで予言者みたいな言い草だな」
ウルスラが他人事に語るのはいつものことだが、言葉の端々が気にかかったビューリングは眉を上げて茶化した。隠していた持病が悪化したとか、もうすでに手遅れなのではとか、良くない想像ばかり浮かぶ。
「予言じゃない。生物学の本に書いてある。女性は第二次性徴をむかえて思春期になると」
「あーなるほど…全部理解したからちょっと黙ってろ」
やたらと小難しい言い回しに身構えればなんと目出度い話の暴露、ズキズキする額をかかえてビューリングは壁に手をつく。これはきっと呑みすぎたせいではない。厭世的だった自分がよもやこれほど仲間の言動に揺さぶられるとは。
「医務室には行かなくていい。というか、行くな」
「なぜ? 行かないと装備品をもらえない」
その時の対処法として記載してあった事と矛盾する。眼鏡の奥の瞳を瞬き、ウルスラは首を捻った。
「なんで予感してたのに準備してないんだと言いたいが…まあいい。私が持ってるからそれを使え」
ウィッチ隊のメンバーが深夜医務室に駆け込めば基地中大騒ぎになるだろう。その原因もたちどころに噂として流れ、きっと本人以上に隊全体が恥ずかしい思いをするはず。
受け答えに脱力しつつ、なんとかビューリングは会話を繋げる。返事を待たずにうずくまった少女の背と膝に両手をそえ、負担にならないようゆっくりと持ち上げた。ウルスラくらいの体格なら使い魔の力を借りずとも抱いて歩ける。
「…あの装備品、汎用がきくの?」
真面目すぎる問いかけに今度こそ眩暈を感じ、ビューリングは傾いだ体躯のツケを側頭部の強打で支払った。
「どうだ、装着できたか?」
「…たぶん。ごわごわして気持ち悪い」
ここはビューリングの部屋なのだが、部屋の主は扉の外から声をかけるといったおかしな状況になっている。同性でも微妙にデリケートな問題なので直接どうこうできず、ビューリングはウルスラの言葉を信じるよりなかった。
「まあ、じきに慣れるさ…入るぞ」
一応声をかけてから自室の扉を押し開けるビューリング。
部屋の中央付近では、なんだか落ち着かない顔をしたウルスラが立ちつくしていた。その頬は一目でわかるほど蒼ざめている。
「顔色が悪いな。痛むのか?」
「下腹部が、少し」
「吐き気や頭痛は?」
「頭はちょっと痛い、気がする」
書物で得た知識はあれど我が身に降りかかれば平静ではいられないのだろう。問われるまま素直に己の症状を伝えたウルスラは、頼りなさげな表情でぎゅっと拳を握った。戸惑う心理を理解したビューリングは、胸くらいの位置にある頭に手を置き薄い色の髪をかき回す。
「個人差はあるが、それが普通だ。腰を冷やさないようにして休んでいれば問題ない」
「私のベッド、使えない」
「そうか……なら、ここで休め。タバコくさいのは我慢しろ」
顔をしかめられる前に言い放つ。大体の事情を汲み取ったビューリングは部屋に一つあるベッドを指し示した。明日起きたらまず汚れたシーツのクリーニングに向かわねばなるまい。
「一緒に、寝るの?」
「勿論そうだ。おまえは嫌なのか?」
床に寝ろとでも言うのかと後頭部をがりがり。そんな事をすればビューリングこそ医務室送りになるだろう。
鎮座するベッドと腕組みして立つビューリングを交互に見やり、ウルスラは小さな口を開く。
「私、ノーマル…」
またもや襲いきた眩暈に抗いきれず、ビューリングは部屋の壁で盛大に後頭部を打ちつけた。
室内灯を落とした部屋の中。
沈黙が支配してから15分ほどたったところで、ベッドに並んだ片方がもぞりと動く。月明かりに身を起こした影は小さな寝息の源を覗き込み、フッと僅かな笑いをもらした。
手を伸ばして華奢なフレームに指をかけ、そっと抜き取る。手近なサイドボードに無造作かつ静かにおいて身を横たえた。
「うっ…ん」
微かな呻き声。泥のような眠りの中にあっても体が訴える痛みに悩まされているらしい。
泰然として浮世離れしているウルスラが弱っている姿をさらす事は珍しく、ビューリングは不思議な感情に突き動かされて隣との距離をつめた。
「むぅ…」
ヘビースモーカー本人とその寝具に囲まれ、顔をしかめたウルスラが唸る。ビューリングは構わずに背中から抱えるようにし、自由になる手で痛みの発生源をゆっくりと撫でさすった。
腰周りの冷えが解消するにつれ、ブランケットを握り締める両手から段々と力が抜けていく。
穏やかに吸ってはいてを繰り返すさまにホッと一息。ゆるゆるとさする手はそのままに、ビューリングは己の腕にすっぽり抱えた少女へ思いを馳せた。
ウィッチ適正があったがため戦場に送られ、次々戦果をあげる双子の姉に複雑な愛憎と対抗意識を持つカールスラントのいらん子。こんな事すらまだ未経験の、世界が平和だったなら家族に祝われているはずの、そんな幼い子供なのだ彼女は。
憂いのかたまりを口から吐き出すと、巻き起こった風に首をすくめたウルスラがのそのそと温かい懐へ。ビューリングはこの体勢をどうしたものかと思案した。下手に動いてはせっかくの安眠を妨げるし、腰だってまた冷えるかもしれない。
寒い夜は使い魔であるダックスフントを呼び出し抱いて眠る。これはその代わりなのだと思えばいい。やましい事は何もない、だから別段気にする必要などない、そう自分に言い聞かせて目を閉じた。
夜が明けた頃、とある部屋からいつも怒号と乱痴気騒ぎ。それはもうカウハバ基地の毎朝の光景と化している。
しばしの時が過ぎ、廊下をバタバタと移動する複数の足音。そのうちの一つである陽気なステップは、立ち止まったドアに対し軽快なノックを刻む。
「は~いっ、ぐっもーにん! 早朝訓練するから全員早く起きろってトモコが喚いてますねー」
躊躇なくドアを押し開けずかずか歩を進めたオヘアは、こんもりと盛り上がったブランケットをあらよっと剥ぎ取る。バッファローを誘うみたいにひらひら掲げる両手が止まり、おしゃべり好きなテキサスっ子は口をあんぐり。
「ねえキャサリン少尉~…ウルスラ曹長が部屋にいないんですけど」
「ウルスラならここにいるねー」
開いたドアからおどおどした足取りで近づき、エルマ中尉は驚愕の表情で固まった。
冷たい朝の空気にさらされベッドで寄り添う二人が身震い。先に目を開けたビューリングは凝視してくる二組の視線に気づき跳ね起きた。
「なっなんだ、お前ら―――ここで何をしているっ?!」
「何があったのか聞きたいのはこっちよー。オー、どこか怪我してるですか?」
珍しく狼狽したビューリングに対し、常ならぬ観察力でオヘアは白いシーツを指差す。それを辿ったビューリングは頭を抱えた。ウルスラの『たぶん』を信用するんじゃなかったと。
地獄のような静寂を破ったのは眼鏡を探してあちこちを探るウルスラ。
「怪我じゃない。私が女になった印」
「おっおおお女になったですってええぇっ! ウルスラ曹長が私を追い抜かして一足飛びにぃィーーーっ!」
隊長・ハルカ・准尉だけと安心していたら、隊の侵略は密かに進んでいた。卒倒しそうな勢いでエルマ中尉は金切り声を上げる。
「「 …………………… 」」
「ちょ、ちょっと待て早とちりするな! これは、その…」
抗命罪による冷たい視線には慣れっこだが、淫行罪となるとまた話は別だ。いわれなき無言の非難を向けられ、ビューリングは畜生を見るような仲間たちの目に慄く。まごついているうちに事態は取り返しのつかない深みへと。
「ビューリング少尉がウルスラ曹長を女に……乱れてます、いくら何でも乱れすぎですっ。わああぁぁ~~~~っ!」
「ユーもそっちの人だったねー…まさか10歳の幼女に手を出すとは。あーこらこらエルマ中尉、待つねー」
追いすがる手も空しくエルマとオヘアは部屋を駆け出していく。脱力したビューリングは重力にまかせてベッドに崩れ落ちた。戦死した友人に顔向けできない罪状で銃殺刑になったらを想像すると頭が痛い。両手を忙しく動かしているウルスラを見上げ、恨めしげに言い放った。
「ウルスラ、お前も誤解を解く努力を、だな…」
「眼鏡、ない」
こちらに向けて高く上がった尻が丸見え。眼鏡より下着を替えろと言いたくなったが、年上の忍耐を総動員して我慢する。一つ大きな溜め息をつき、起き上がったビューリングはサイドボードに手を伸ばした。
「ビューリングー、こっちでーす」
恥ずかしげもなく食堂の真ん中で大声を出すオヘア。入り口に突っ立ったビューリングはどのテーブルも満席なのを見て取り、諦めたように肩を落として歩き出した。
「…お前だけか、キャサリン?」
贅沢に占領されたテーブルの空いた席にかけ、ざっと周囲を確認したビューリングが問いかける。
「イエース、みんなグロッキーですねー」
タフなオヘアはあっけらかんとした笑顔。機嫌の悪い智子に早朝訓練でしごかれた隊員たちは食事をとるより休息を選んだらしい。
ビューリングは濃いブラックに口をつけて考える。早朝訓練のせいで釈明する機会を逃したが、同時に噂の拡散をも防げたはず。みんなを集めて真相説明しなくても、口の軽いキャサリンにだけ話せば済むのではないか。
「なあ―――っん?」
口を開きかけて違和感に押し黙る。四方八方から注がれる視線に苛立ち、ビューリングは懐から取り出したタバコに火をつけた。基地隊員全てが利用する食堂なのだが、周りに遠慮なんかせず公害じみた大量の煙を吐き出す。
「なんだっていうんだ一体!」
「愛しのウルスラがいなくて、ユーは苛立ってるねー」
オヘアがへらへらと笑いながら見当違いな事を言う。喧嘩なら買うぞと腰を浮かしかけたビューリングは、二人が座っているテーブルに近づく衛兵の姿をみとめて目を細めた。
「エリザベス・F・ビューリング少尉、司令部より命が下ってます。御同行ください」
今まで何度も経験したやりとり。この雰囲気は即営倉入りだなと、ある意味経験豊富なビューリングは冷静に分析していた。
背後でガチャンと重い錠のかかる音。衛兵は自分達の役目を果たすと、特に何の説明も与えず立ち去った。
ビューリングは狭い室内を見回し、唯一の調度品である硬いベッドに腰を下ろす。営倉入りなど慣れたもので、その事自体は何ら彼女を追い込む要因にあたらない。
「まいったな…タバコを取り上げられるのは拷問だ」
独房の中にぼやきが響く。つい癖で懐を探ってしまっての失望だった。
「今回の罪状は…まあ、あれだろうな」
大きな溜め息。どこからバレたのか知らないがきっとそうなのだろうと、憂鬱にそう思う。
反骨心のある彼女は抗命罪で幾度となく拘留され、その都度下される処分を斜に構えて受けてきた。不服を申し立てて騒ぐのは見苦しいという変なポリシーだってある。だが今回はそれを貫けるだろうか。
「私の運命はあいつ次第、か…」
脳裏にもう一人の当事者を思い浮かべる。どうでもいいの一言で片づけられそうだと一抹の不安がよぎったが、結局のところ加害者として見られている自分に何もできる事はない。
狭い寝台にごろんと身を横たえ、ビューリングは沙汰が下るのを待つ事にした。
「オー、ジーザスっ! ビューリングが兵隊さんに連行ですよー?! 昨夜の淫行がもう司令部にバレてしまったねー!」
そう大声で叫びながら、義勇独立飛行中隊の詰め所に駆け込むオヘア。するとそこにいた中隊メンバー2名は顔を見合わせ、揃って大きな溜め息をついた。隊長である智子が眉をぴくつかせて重い口を開く。
「問題山積ね。こっちはウルスラがアホネンに連れてかれたばかりだってのに…」
「アホネン大尉ってなぜですー? 見初められてしまったですかー?」
「いや、ウルスラはアホネンの守備範囲外よ。聞き取り調査って言ってたけど、まあ軍なのだから尋問ね。ところで淫行って? あの二人、何やらかしたわけ?」
長い黒髪をガシガシとかきあげた智子は事情を知っていそうなオヘアに迫る。壁際まで追い詰めてもオヘアは曖昧な笑顔を浮かべていたが、顔の真横に扶桑刀を突き立てられるとあっさり口を割った。
「今朝ビューリングを起こしに行ったらですねー、ウルスラが一緒に寝てたですよー。諸々の状況とウルスラ本人の言葉から二人は深い関係になった、そういう事でーす」
「…冗談でしょ、キャサリン?」
唖然として智子は聞き返す。隊で一番そういった色事と無縁そうな二人がよりにもよって。
キャサリンはプーと頬を膨らませ、最初からずっと部屋にいたくせに息を潜めて遠巻きにしている人物を指差す。
「疑うなんてトモコひどいでーす。その場にはエルマ中尉もいたねー」
「わっ私に振らないでくださいキャサリン少尉っ―――ひいっ?!」
「エルマ中尉にお聞きします……キャサリンが言った事は本当ですか?」
光速で智子に詰め寄られたエルマはがくがく震えながらなんとか頷いた。片手に持った抜き身の刀の威力は絶大だ。妖しく光るそれを引いて鞘にしまうと、智子は顎に手を当てて考え込む。一般的に12~13歳くらいまでは子供とされるはずだからこれは不味い。
「でも…どうしてこんなに早くばれたのかしら?」
「オー、シット! あれを聞かれたのだわっ。掘った雪穴に向かってエルマ中尉がぶちまけた二人の秘密を!」
「ひいいぃ~~~~?! やっぱり私のせいですかあぁーーーっ」
ミーは見てただけでーすと安全域に逃げるオヘアと、蒼白になった両頬を挟んで震えるエルマ。情けなくて馬鹿らしくて頭痛がして、智子は怒る気さえ失せた。
「ところでトモコ、これからどうしますかー? 今度こそビューリング、銃殺になっちゃうかもしれませんよー」
「ちっ、もう…しょうのない奴ね。つっても助命嘆願にあがるくらいしか…」
心配そうなキャサリンと部屋をうろうろする智子。なんだかんだと言って通称いらん子中隊の結束は固く、仲間の危機にじっとしてはいられないのだ。
「あっ、トモコ中尉っ! ジュゼッピーナ准尉が戻ってきましたよ」
ジュゼッピーナは智子が間者として第一中隊に放ったうちの一人である。勿論アホネンによるウルスラの取り調べを探らせるためだ。
窓から外を見やると、エルマ中尉が言うとおり雪深い小道に人影。スキップしながら帰ってくるという事は何らかの進展があったのだと、智子は今後の対応を考えるのを丸投げした。
時は少しさかのぼり―――
抵抗せず粛々と連行されたウルスラは、第一中隊の隊舎最奥にある煌びやかな隊長室を興味なさげに見回した。手に持っていた本は取り上げられてしまったので特にする事もない。
「昨夜あなたの身に起こった出来事について幾つか質問します。イエスかノーで答えなさい。いいわねっ?」
「…イエス」
居丈高に命令するアホネンに対し、ウルスラは特に何の反応も示さない。この部屋に連れてこられてすぐ座らされた対面式のテーブルで、北欧系特有である色素の薄い金髪を間近にしている。
「あなたは初めてだった?」
「…イエス」
少し首を傾げてウルスラは従順に頷く。記憶する限り、あのような現象は今までなかったはずだ。顔を険しくしたアホネンがズイッと身を乗り出してきたので、同じ分だけウルスラは後ろに下がった。
「ベッドに誘ったのはビューリング少尉?」
「…………」
鼻息の荒いアホネンにウルスラは言葉を失う。確かにベッドを使えと勧めたのはビューリングだが、なんとなくイエスと言ってはいけない気がした。
「どっちなの、はっきりなさいっ!」
「…イエス」
化粧くさいアホネンにギブアップ、それでも表情を変えずにウルスラは真実を答える。
重要な証言を得たアホネンは満足げに頷き、机の上まで乗り出していた体を椅子に落ち着けた。手つかずのままだった紅茶を優雅に一口。
「あなたの意思とは関係なく無理やりだった?」
「…ノー」
また少し考えて、きっぱりとウルスラは告げる。ひどい激痛に襲われ冷たい廊下に座り込んだ自分を、通りすがったビューリングが拾ってくれた。もしそれが嫌だったならそう言うし、逃げられないよう拘束されていたわけでもない。
「合意の上って事で、いいのね?」
「………イエス」
そう答えるまでの表情変化を見て取り、正面から観察するアホネンは心中で微笑む。頬を僅かに赤く染め、落ち着かなげに眼鏡の奥の瞳をきょろきょろ。本ばかり読んでいる頭でっかちで小憎らしい少女とは思えない。
「あなた良く見ると結構可愛いわ。私の第一中隊に入らない?」
「ノー」
アホネンの誘いをコンマ一秒で断り、元通りの無表情に戻ったウルスラはひっそりと溜め息をついた。
「みなさ~ん、大ニュースですよーっ! なんとあの二人は相思相愛だったのですっ!」
バーンと開いたドアから飛び込んできたジュゼッピーナは、陽気なロマーニャ娘らしく「わ~おっ!」と叫んで部屋中を踊り狂う。当然ながら誰一人そのノリについていけず顎を落とした。最も早く復活した智子がジュゼッピーナを捕まえて問いただす。
「ちょっとジュゼッピーナ、それじゃわからないわ。きちんと報告して。あと、一緒に行かせたハルカはどうしたの?」
「あ~あの子だったら第一中隊のみなさんに我が身を差し出しましたー、マンマミーア!」
なんてこったと嘆きながらもジュゼッピーナの唇の端がにやり。それを見て取った智子が溜め息をつき、痛むこめかみに手をそえる。
「ま、まあ、今はハルカの事はどうでもいいわ。それよりウルスラの聴取について仕入れた情報をお願い」
待ってましたと灰色の瞳に興奮をともし、ジュゼッピーナは先ほど耳にした会話について身振り手振りを交えて語り出した。
「…あのビューリングがベッドに誘って、あのウルスラが行為を承諾―――冗談でしょ?」
「ふふ~ん、そう思いますよねぇ。だ・け・ど、しかと私はこの両耳で盗み聞いたのですー♪」
「聞いたかね、エルマ中尉っ! やっぱり二人は運命の赤い糸だったのよーっ!」
「まあ素敵っ!変な目で見てしまった事を謝らなくっちゃ。だって二人は愛し合ってるんですもの」
疑わしげにジュゼッピーナを睨みつける智子、離れた場所ではオヘアとエルマが純愛の成就を我が事のように喜んでいる。当事者の与り知らぬところで事態が進展していく、これはその最たる例だった。
「ビューリングとウルスラが赤い糸であっはんうっふん…りょ、両想いってなんだっけ? いやだわ私なんだか頭がぐるぐる、そうだっこんな時はっ!―――おいっちに、おいっちに、煩悩滅殺、見敵必殺っ」
すらりと抜いた扶桑刀を素振りしはじめた智子を、隊員たちは生暖かい目で見やる。こんなふうになってしまったら、しばらくは戻ってこない。
今の自分達にできるのは妄想力を鍛える事だけ、そう結論づけて残された乙女たちは純愛論に花を咲かせた。
司令部の建物を出たところで早速、ビューリングは返却されたタバコをプカプカ。
「入れと言ったり、出ろと言ったり、まったく付き合っておれん…」
めでたく釈放されたが納得はしていない。結局なに一つ詳しい経緯説明もされず、もやもやとした腹立たしさだけが残った。こんな時はニコチンで気を紛らわすに限る。
「おーほっほっ! 待っていたわ。待ちかねていたわよ、ビューリング少尉っ!」
十字路を曲がった直後に高笑いの洗礼を受け、ビューリングは危うく足を滑らせかけた。どうにか体勢を整えると、ふんぞりかえって立つ人物を剣呑な瞳で見やる。
「…アホネン大尉、なんの真似だ?」
「ふ~ん、どれどれ―――顔は申し分ないし、案外いけるかもしれないわね」
「……スオムス人は他人を不躾に観察するんだな」
呆気に取られた後、ビューリングは周囲をぐるぐる回る不審者に皮肉を言う。しかし考え事に没頭するアホネンには通じない。
うんうん頷くアホネンは足を止め、心底迷惑そうなビューリングに人差し指を突きつけた。
「あなた、私とツインスタンダートになりなさい」
「お断りだ」
にべもない答え。
ひゅるるる~と北欧の冷たい風が駆け抜けた。
「―――ふっ、まあいいわ。いもうとを大切にすることねっおーほっほっ!」
甲高く高笑うと、アホネンは十字路を第一中隊の方向へ。去って行くその背を無言で見送り、ビューリングはすっかり短くなったタバコを捨て新しいのに火をつけた。
「…気でも触れたか」
やれやれと肩を竦め、ビューリングも自分の隊舎へ足を向ける。
こんな事でスオムスの空は大丈夫かと考えかけて額をぴしゃり。不真面目の代表格だった自分がこの基地の未来を憂う、そのおかしさに唇の端を持ち上げた。
「智子中尉ぃ~、パスタ准尉ったらほんとひどいんですよ~! 帰ったらちゃんと叱ってくださいね」
「あーもうわかったから! つか、あんたは今の今まで何してたのよ?」
雪深い小道を進む二人連れ。べったりと身を寄せてくるハルカに動きを制限され、智子は刺々しい態度で怒鳴り散らす。
ビューリングが釈放されたとの報告を得て出迎えに赴いた智子は、隊舎玄関前にてハルカと遭遇。ハルカはジュゼッピーナの裏切りにより第一中隊の手に落ちたらしく、その悪逆非道な振る舞いを声高に喚きたてた。
「何ってそんな、決まってるじゃないですかもうっ。ナニですよ、ナ・ニ」
「こっこらやめなさいっ!」
服の隙間から手を差し入れてくるハルカに肘鉄を食らわせ、智子は鳥肌に似た感触を脳内から追い出す。
「…ん? あれって……ちょっとハルカ、こっち来て」
向かう先にぽつんと一人佇む影を発見し、智子は腕にしなだれかかるハルカごと木立へと分け入っていく。一体何を勘違いしたのやら、ポッと赤く頬を染めたハルカは智子の腕に『の』の字。
「智子中尉ったら 私のテクに火がついちゃったんですね」
「馬鹿言ってないで早くっ! ほら見つかっちゃうでしょ」
いやんいやんと身を捩るハルカを引き摺り、智子は高く積まれた雪の影に身を隠した。
粉雪舞う空の下で本を立ち読みするウルスラ、燻らせたタバコを足元に落として大股に歩を進めるビューリング。
「こんな所で何をしている? まさか私を心配して…なわけないな」
自己完結してそう言い放つと、ビューリングは肩を竦めた。ウルスラの頭や肩にのった雪を払ってやり、話しやすいよう一歩下がる。二人の身長差は17cmもあるのであまり近すぎると目線が合わない。
少しだけ間をおき、ウルスラはその小さな口を開いた。
「…私が心配なのは今夜の寝床」
「おいおい、シーツなら替えがあるだろう?」
ウルスラが語った心配事にビューリングは唖然。確かに二枚纏めてクリーニングに出したが、予備のシーツくらい誰でも部屋に用意してある。
「一人は寒い。あなたと一緒なら寒くない。それだけ」
とつとつと言葉を繋げ、ウルスラは眼前の長身を見上げた。じっと見つめてくる視線に困惑し、ビューリングはウルスラの真意を探ろうと眼鏡の奥を覗き込む。
空気の密度が増したような、サウナで息苦しいような、そんな不思議な居心地の悪さを感じて二人は立ち尽くす。近くから注がれる二対の熱視線にも気づかずに。
「わかる、わかりますともっ。愛する人と夜を共にする素晴らしさ!」
「あ、あのウルスラが…あ、あああ、あんな事をっ」
ぐっと拳を握り締めて共感するハルカと、赤くなったり蒼くなったりしている智子。二人して積雪の影にへばりつき、出るに出られない出歯亀状態となっている。
「…まあ、仕方ないか。お前に人肌の心地よさを教えたのは私だしな」
ビューリングは観念したかのように息を吐き、ウルスラの頭にポンッと手を置く。そしてクシャクシャと薄い色の髪をかき回した。ウルスラはいつもの無表情だが特に嫌がっているふうはない。
「きゃ~~殺し文句ですよ、殺し文句ぅ!」
「あ、あいつったら……結構やるわね」
小声で騒ぐハルカの横で、智子は茹だった頭部から湯気を出す。智子の呟きによくない兆候を察知し、ハルカはきゃあきゃあ言うのを止めて振り返った。状況に流されやすいと評判の中隊長は撃墜寸前の腰砕け。
「ごらあぁへっぽこ陸式ぃー、なにを単なる流れ弾に当たっとるかああぁー!」
ハルカは隠れているのも忘れて一喝。智子はその大声にビクンとなり、おろおろと視線を彷徨わせた。その後どうにも自己処理できなくなったらしく、目の前にそびえる積雪に人差し指をプスプス。
「そ、そんなんじゃないもんっ。な、なんで私がビューリングなんかに」
「『もん』じゃないでしょ、『もん』じゃっ! 智子中尉の言葉は信用できませんから直接体に教え込みます!!」
「きゃあああぁ~~っ?! やめてハルカ、こんなところでええぇーーーっ!」
雪の絨毯へ押し倒した智子のスカートに手を突っ込むハルカ。くんずほぐれつする二人は寒さなどなんのその、パウダースノウを舞い上げながら背徳的な行為に突入した。
「あいつら…あんな所で恥ずかしげもなく何やってるんだ?」
「どうでもいい」
無関心に言い放ったウルスラはさくさくとした雪を踏んで歩き出す。それもそうかとビューリングは見るに耐えない痴態を繰り広げる一角から視線を外し、大股に歩いて小さな背中と距離をつめた。
足早に歩むウルスラの頬は紙のように白い。その様子を盗み見たビューリングは心中で盛大な溜め息。
「…冷やすなと言っておいたはずだがな」
斜め上から降ってきた言葉を、痛みに気を取られたウルスラは聞き逃がす。左右交互に出す足がもつれ、宙に浮いた体は平衡感覚を失い、反射的に目を閉じると鼻先に強いタバコの臭い。
「少し揺れるぞ。我慢しろ」
そう言い放って先を急ぐビューリングを真下から見上げ、ウルスラは眼鏡ごしに瞳を瞬く。そして、思い出したかのように顔をしかめた。
「オオーゥ、見たかね見たかねっ今の二人を!」
「見ましたとも、しかとこの両目で! 初々しくってこっちが恥ずかしくなっちゃう~♪」
「あの二人があんなに互いを想いあって…ぐすん。愛は、愛はこんなにも人を変えるんですねっ」
詰め所の窓に群がった乙女達は双眼鏡を手に口々。ちなみに、警邏兵に引っ立てられる隊長たちには目もくれない。
純愛を温かく見守るべく発足した応援団は、ふってわいた餌に飛びついてハッスルハッスル。二人が隊舎に大分近くなると見つからないよう頭を引っ込めた。
帰ってきたらどんな感じで迎えるかと相談して決まったのは、あまり詳しく根掘り葉掘り聞かないこと。そしてなるたけ二人の時間を邪魔しないこと。これが考えた末の純愛協定。
さっき決めた約束を確認し、三人は満面の笑顔でドアの前に並ぶ。しかし待てども待てども足音は聞こえてこない。
「まだでしょうか。まさかあのままお部屋に…な、何を想像しているのかしら私ったら。真っ昼間からそんな」
「恋は盲目、思春期にはよくあることねー。ミーたちは寂しいけど我慢よー」
「となると今頃あの二人って…ム・フ・フ。あ~ん、気になるぅ。覗いてこようかなぁ」
真っ赤になってクネクネするエルマ、その肩を知ったかぶって叩くオヘア、さっそく協定違反しようとするジュゼッピーナ。三者三様の反応をみせ、新しく投下された燃料に大騒ぎした。
「シーツなら替えてある。今日一日そこで大人しく寝とけ」
腕の荷物をベッドに下ろして有無を言わさずブランケットを被せる。部屋の主であるビューリングはぐるりを見回したが、腰を下ろせる家具は何一つない。己の無頓着さに呆れ、仕方なくベッドの端に腰を落ち着けた。
「眠く、ない」
もぞもぞと体勢を変えつつ訴えると、ウルスラは壁際を向いた体で手にした本を開く。相変わらずの顔色の悪さを見て取ったビューリングは、押さえた溜め息と同時に己の使い魔を呼び出した。
「…ダックスフント?」
突如目の前に現れた胴の長い小型犬。姉と同じ使い魔に興味を引かれたウルスラは上体を起こす。しかし主を模倣したかのような使い魔は愛想を振りまくこともなくブランケットへ潜り込む。
「抱いてみろ。結構温かいぞ」
そうは言われても中々手が出ずにいると、要領を得た使い魔が動き出した。移動する膨らみはウルスラの腕をかいくぐり、腹の辺りに背中を押し付けて丸くなる。
ビューリングの言葉どおり、体毛に覆われた体から心地よい温もり。ウルスラの使い魔であるアナグマは寒い土地に呼び出すには向かない。このような形で具現化した使い魔の恩恵を受けるなど考えてもみなかった。
それからしばらく、特に会話もなしに時間がすぎていく。
「…貸すだけだからな。後でちゃんと返せよ」
ビューリングは腕組みして一人ごちた。後ろを振り返ってみれば二組の寝息の合奏。
フッと笑いかけた口元を引き締め、開いた本とずれた眼鏡を抜き取りサイドボードへ。懐を探ってふと思いなおし、溜め息をついて立ち上がったビューリングは静かに部屋の外へ出た。
寒い時期のスオムスは氷点下の日が続く。だから起き上がる努力が人肌の温もりに溶けてしまうのは仕方ないのだと、ビューリングは誰にともなく言い訳する。ちらりとまた壁掛け時計を確認し、そろそろ限界かと未練を振り切った。
「…今日はまた、一段と冷えるな」
「うぅ…ん……スー、スー」
ブランケット内の温もりが逃げていく。代わりに忍び込んできた冷気に身震いし、まだ夢の中にいるウルスラは暖を求めてもぞもぞと移動した。上体を起こすビューリングの腰に腕を巻きつけて熱源を確保する。
「お前がそうすると動けないんだが…朝だぞ、起きろウルスラ」
ひっつき虫になっている少女を揺すれば、それを嫌がってブランケットの奥へ潜っていく。こんなに寝起きの悪い奴だったかと首を捻り、まあ今は本調子じゃないからと流した。とりあえず離れてくれたので、その隙にビューリングはベッドを抜け出す。
「うぅん…う~…」
唸り声をあげるブランケット。どうやって引っ張り出そうかと顎を撫で、はたと我に返った。何故自分がそこまで気にかけてやらねばならないのか。
理不尽さからちょっとした悪戯心が湧き、手近にあった紙とペンを取ってさらさらと走り書く。
『お前の眼鏡は預かった。返してほしければ食堂まで来い』
紙をサイドボードに置くのと引き換えに華奢なフレームを掴む。壊さないようにそっと内ポケットにしまうと、ビューリングはブランケットの固まりを部屋に置き去った。
食堂の入り口横に仁王立ちしている黒髪美人、りんと背を伸ばして腕組みするのは扶桑海の巴御前こと穴吹智子である。宙を睨みつける精悍な顔はネウロイを相手にする歴戦ウィッチそのもの。
「いい、智子? もう一度繰り返すわよ。あいつがやってきたら昨日の勝手行動を隊長らしく叱るの。
だってあいつったら淫行するし、即効ばれて営倉入りになるし、そのくせ飄々と出てくるしっ。色恋なんて興味なさげにスカしてたくせに突然純愛だとか、もうもう信じられない!
だから私はビシッとこう言うわ。義勇独立飛行中隊の隊員として恥ずかしい行動は慎みなさいって。あいつはきっと迷惑そうな顔をして返事もしないだろうけどここできちんと言い聞かせておかないと」
「……お前、さっきから一人で何をぶつぶつ言ってるんだ?」
「――――――っ?!」
突然かけられた声に1mほど垂直ジャンプ。ギギギッと軋んだ音をたてて智子は顔を向ける。
「ビュ、ビュビュビュっ」
「ビュッフェだろ? 早く入らんと残り物になるぞ」
あわあわする肩を叩き、ビューリングは悠々と食堂の中へ。その背を見送った智子は、頭から音をたてて湯気を噴き出した。雲を踏むような足取りで後に続こうとした体が、後ろから伸びてきた4本の腕に絡め取られる。
「きゃあっ! な、なによハルカ、ジュゼッピーナ? あんっ」
両耳にねっとりとした感触。思わず高い嬌声を上げてしまった智子の顔に朱がのぼる。
「智子中尉は言いましたよねぇ。私はノーマルよって」
「英雄色を好むってことで私は気にしませんけどぉ~♪」
耳の産毛を代わる代わる刺激され、妖しい戦慄にぷるぷる震える小動物のような人。色っぽく悶えながら廊下をずるずる引き摺られていくその姿に、扶桑のエースの面影はなかった。
うようよいる基地隊員の間をすり抜け、持ったプレートに熱々の料理を盛っていく。
「ぐっもーにん、ビューリング! オーゥ、食欲旺盛ねー」
「…お前に言われるとは心外だ」
早速うるさいのに見つかったと、ビューリングは肩をすくめてやれやれ。キャサリンは豪快に笑うと、おかわりを求めて人だかりに突進していった。
空いたスペースに陣取ってブラックを味わっていると、ビューリングの顔色を窺うようにしてエルマが隣にプレートを置く。咎められたわけでもないのに常にびくびく、それは彼女生来の気質なので仕方ない。
「あっあのビューリング少尉、ウルスラ曹長は一緒じゃなかったんですか?」
朝の挨拶もすっ飛ばして尋ねるエルマ。臆病なのは人一倍、そして仲間想いなのも人一倍である。
ビューリングは不覚にも口の端を持ち上げてしまい、咄嗟にくわえたタバコでそれを隠す。
「ああ、あいつなら」
「ビューリングっ!」
突然の大声に食堂が静まり返った。すわ何事かと全員が入り口を見やると、カールスラントの軍服を纏った少女。
この基地にその軍服を纏う人物は一人しかいない。だけども、皆は間違い探しするような不思議な感覚に陥る。
「こっちだ、ウルスラ」
微妙すぎる空気の中、ビューリングは軽く手を上げて居場所を示した。それに気づいたウルスラは、食堂中の注目を浴びながら居並ぶ人々の隙間をぬって進む。
「やっと目が覚めたのか?」
「眼鏡、返して」
ビューリングの揶揄を無視し、ウルスラはそう言って手の平を突き出した。
その言葉を洩れ聞いた衆人が「それだっ!」っと一斉に手を叩く。もやもやとした疑問が解けると、一瞬で元の騒がしい朝食の場へ戻っていった。
「ちょっと待ってろ…ほら」
ウルスラは手渡されたフレームを開いてすぐに装着する。そうして人心地つくと、ほんの僅かに唇を尖らせた。
「どうして、こんな事を?」
「お前がいつまでも起きないからだ」
さも当然とビューリングは悪びれずに告げる。しかし、これまでウルスラは寝起きの悪さを指摘された事などない。
「嘘。大人げない」
「言ってろ」
「あ、あの…喧嘩するほど仲が良いと昔から言いますが、私としては普通に仲睦まじくしていただけた方が」
淡々と言い合う近くで無関係なエルマがおろおろ。泣き出しそうな中尉に気をそがれ、二人同時に口を噤む。
「「 ……………… 」」
しばし無言で見つめ合ったのちプイッと顔を背け、ウルスラはビューリングの前にあるプレートを強奪する。
まだ手をつけていないそれを横取りされ、運んできた当人はタバコをふかして苦笑い。カップに残ったブラックを飲み干すと、テーブルに山と積んであるパンを二つ手に取り食堂を後にした。
「ぐっもーにん、ウルスラ! オーゥ、ユーも食欲旺盛ねー」
ビューリングがいた場所に立つキャサリンをちらりと見上げ、ウルスラは特に何も返さず黙々と食べ物を咀嚼する。陽気なキャサリンは反応がなくてもめげたりせず、なんだか困り顔のエルマを不思議そうに見やった。
「エルマ中尉どうしましたかー? お腹減ってないならそのプディング、ミーが美味しくいただきねー」
「はあどうぞ…え、えっとそのウルスラ曹長、ビューリング少尉を追わなくていいんで―――っひい、ごめんなさい!」
眼鏡が光った気がして思わず謝るエルマ。当のウルスラは押し黙ったまま山盛りのプレートを着々と攻略する。普段はあまり量を食べない彼女にしては珍しい。
その食べっぷりを見て自分も負けじともりもり食べ、お腹一杯になったキャサリンはふと疑問を口にした。
「そういえばビューリングはどこ行ったですかー? おかわりの列にはいなかったですよー」
「そ、それがですね、コーヒーを飲んでパンだけ持って出て行かれまして…」
今はあまり触れないでと目配せを送るエルマ、ぱちぱちした大きな目を示された方向へ向けるキャサリン。ウルスラは山盛りだったプレートを全て完食し、カップポタージュに口をつけている。
「オー、イエス! そのプレートはウルスラのために取ってたのだわねー。ポテトばっかりだからおかしいと思ったのよー」
「えっえええええーっ、そうだったんですかああぁ?! あっでも言われてみればあの人、ポタージュとか口にされませんものね」
謎は全て解けたとハイタッチをかわし、乙女たちはきゃあきゃあ大騒ぎ。二人は騒々しくする一方で黙り込む少女をそぉっと観察した。
眼鏡がポタージュの湯気で白く曇り一時的な目隠しになっている。しかしほんのりと色づいていく頬はどうしようもなく、顔を見合わせた二人は声をたてないようにこっそり微笑んだ。
ベンチに積もる雪を無造作に手で払い、ビューリングは腰を下ろして白い息を吐く。建物が冷たい風を遮ってくれるので幾分体感温度はましである。足元から太い木の枝をニュッと差し出され、視線をやれば千切れんばかりに尻尾を振る小型犬。
「餌やりの後は遊べ、か。使い魔らしくない奴だなお前」
使い魔がしっかりとくわえた獲物を取り上げ、特に予備動作もなく広い中庭の奥へ放り投げる。さすがウィッチというべきか、常人の全力投擲より遥かに遠くまで枝は飛んでいった。
「行け!」
矢が放たれたように一直線に駆けていく黒い影。短い手足ながらも意外に走るのが速く全体的に筋肉質、ダックスフントは元々猟犬であったので獲物を拾って主人に届けるのが大好きだったりする。
雪を蹴立てて走るさまを遠目に眺めて小さく笑う。懐から取り出したタバコに火をつけて一服。
なんとはなしに隊舎を見上げると、ガラス窓が朝日を反射して非常に眩しい。まるであいつのレンズみたいだと目を細めてふと、先ほど感じた違和感の正体は何だったかと顎をつまむ。
「……早すぎるぞ。ゆっくり考える暇もない」
溜め息をついて思考を中断、ハッハと息をする己の使い魔から枝を受け取る。じっと見つめてくる瞳に苦笑し、小さな頭に手を伸ばして労をねぎらった。
「ほら行ってこいっ!」
振りかぶって投げると、今度はもっと大きな弧をえがいて消えていく。元気いっぱいに駆けていく小さな影を見送り、ビューリングはタバコを燻らせて考え事に没頭した。
「ウルスラ、ユーの初めてはやっぱり痛かったですかー?」
食後のまったりした時間に、とんでもない爆弾が投げ込まれる。投げたキャサリンはなんでもないふうを装い、テーブルにあったコーラに栓抜きを当ててシュポンッ。
「ちょ、ちょっとキャサリン少尉、そういった生々しいインタビューはっ」
顔を上げたウルスラが口を開くより先に、顔を真っ赤にしたエルマが割ってはいった。窘められたキャサリンはコーラを全て飲み干し、肩をくいっと上げて屈託なく笑う。
「オー、ソーリィ。でもエルマ中尉だって興味津々ねー」
「そ、それはまあその。まだ、は私達だけになってしまいましたし」
キャサリンの切り返しにうろたえ、エルマはあたふたと無意味に食器を重ねたり戻したり。年上二人の会話を聞き、ウルスラは不思議そうに首を傾げた。
「二人とも、まだ?」
簡潔すぎる言葉に二人は顔を見合わせ、情けなそうに肩を落とす。こういった経験の有無を年下の少女に聞かれるとせつない。
そんな様子をどう受け取ったのか、ウルスラは無表情に何度か瞬いた。
「遅い人もいると教本に書いてた。心配ない」
「ウルスラは勉強家ねー。そんな本まで読んだのですかー?」
大きな目をさらに見開き、オヘアはずいっと身を乗り出す。カールスラント軍人のモットーは『全てを教科書から学ぶ』らしいから、そっち系の教書もあるのかもしれない。
問いかけに軽く頷いて肯定を示し、ウルスラはさらりと言い放つ。
「手技の参考になる。あとは改良を重ねて」
「しゅ、手技? 改良って?! そんなに急いで大人の階段を上らなくてもいいじゃありませんかああぁ!」
最近のウルスラのモットーは『知識より実践』、それを知っているエルマは自らの許容を超えた事実に泣き叫ぶ。
融通の利かないところがあるウルスラは、こうと決めたら絶対ほかの意見に耳を貸さない。上官であるエルマに泣かれようと勿論それは同じであった。
「段々慣れるとビューリングも言った。これからずっと付き合っていくんだからって」
一応の補足として言い募るウルスラ。しかし輝かしい人類の英知は常に戦って勝ち取る事で得られてきたのだ。研究者の端くれを気取るならば、ここでただ流れに身を任せるなど愚の骨頂である。
「オー、ノーゥ、ミーは今とても恥ずかしいよー! ビューリングったらアウトローの皮を被ったナイトウィッチだったのねっ」
「あ、あの寡黙なビューリング少尉がそう言ったんですかぁ?! あらどうしたのかしら、私が言われたわけじゃないのに動悸が」
オヘアとエルマは真っ赤な顔を覆ってくねくね。
身悶える仲間に不審を感じながらも、ウルスラは特にそれ以上深入りしない。己の発言こそが大いなる誤解の種だと露にも思わず、視界の端に入ったウイスキーの小瓶をじぃっと眺めていた。
「ねえ智子中尉ぃ~、もう素直に認めたらどうですかぁ? 自分はレズの色狂いなんだってぇ」
「だっ、だぁれがそんな事…っあん、やっやめてハルカ、そんなとこ摘んだりしちゃいやぁ」
「むふふ~健気に耐えるトモコ中尉も素敵ぃ♪ そうするとここをこうして、こんなのはどうですかぁ~?」
「ふあああぁっ! 駄目よジュゼッピーナ。私、私おかしくなっちゃうっ」
智子の自室にむんむん漂う甘い芳香、へびのように相互に絡み合う3人は恍惚の表情。密室に消えた彼女たちは朝食もとらずに快楽の虜となっている。
窓の外に見えた人影に新しいプレイを思いつき、ジュゼッピーナは寝台に伏せて喘ぐ人物を引き起こした。素っ裸の智子を後ろから支え、片手でついっと中庭を指差す。
「…あそこ、わかりますか? ほら、あのベンチですよ」
「えっ、あそこ・・・? あれって―――ビューリングっ?! きゃっ!」
朦朧とする意識のさなか、旧知の仲間の姿をみとめて智子は小さく叫んだ。窓から離れようとした体は責められ続けて足腰が立たず、ぐらついた肢体を反対側にいたハルカがすかさず支える。
「丁度良かったですねぇ。これではっきりしますよ。智子中尉の本当の姿が」
「ち、違うもん。私はノーマルだもん。だって私は扶桑海の巴御前で」
「ならこんな事あるわけないですよね~。同性に見られて興奮する、な・ん・て」
「あ、当たり前…そんな事、誰が―――あふんっ!」
ふと顔を上げたビューリングに反応し、智子は高い声を上げる。あの位置から見えるのかは実際わからないが、痴態をさらして喘ぐ己を意識するともうどうにもならない。
「まあ憎らしい。灰色銀髪の偏屈島国女にこんなにも御執心だなんてっ」
「いい加減認めてしまいましょうよ。そうすれば夢の国にいけるんですからぁ~」
左右から挟みこみ完全に身動きを封じる。嫉妬にかられるハルカと快楽主義のジュゼッピーナは責めの手を緩めない。
「そ、そんなわけない…あんっ…私、レズじゃない…っん…私…は……んてなんとも思って、ない」
悶え狂いながら智子は否定を口にする。うわ言のように唱えられる言葉と裏腹に、その体は今までの被撃墜記録を大幅に塗り替えた。
玄関ポーチから外へ出ると、ウルスラは眼鏡を正しい位置まで押し上げてぐるりを見回す。先に立ち寄った部屋から見えたとおり、探し人は木製のベンチでタバコを燻らせている。長い指に挟んだタバコの灰が落ちそうだった。
ぼんやりとしている横顔に足が止まり、その場からじっと様子を観察する。すると勢いよく走りこんだダックスフントが真っ直ぐ主人に飛びついた。小型犬をいなす仕草にどこか既視感を感じていると、気配に気がついたのかバツの悪そうな顔が振りむく。
「何か言え。気づかないだろ」
「それは、あなたも同じ」
ベンチ脇まで歩み寄ったウルスラの第一声に、座ったままのビューリングは訝しんで眉を寄せた。
「起床の事か? ちゃんと声はかけだぞ」
「…ポテト」
それを聞いてやっと、ビューリングはウルスラの言葉の意味を理解する。素直とは縁遠い彼女はわざとらしく両肩を上げ、指に挟んだタバコを深く吸い込んだ。良いごまかしが思い浮かばないなら、すっとぼけてしまえと。
「さあて何の事だか」
「捻くれてる」
8歳も年下の少女にびしっと指摘され、ビューリングはらしくなくポーカーフェイスを崩す。むっとした表情でくわえたタバコを噛み、膝の上に乗せた足に肘を立てる。
「お前ほどじゃないだろ」
「論点ずらし」
「ずらしてない。あと、一言で返すのはやめろ!」
相手は10歳の子供だという認識がポーンと飛んでいき、ビューリングは膝を叩いて声を荒げた。
ウルスラの抑揚ないとつとつとした話し方は誤解を招きやすい。そして一言返しは時によってかなり人を苛つかせる。
「図星だから、怒ってる」
「~~~~~~~~~っ! 怒ってない! これが普通だっ!!」
吸ってはいて、吸ってはいて。ビューリングはもくもくと煙をふかせて怒鳴る。使い魔は主人の剣幕に尻尾を垂れておろおろ、心配げに二人の間を行ったりきたり。
足元をちょろちょろする小型犬を目で追いかけ、ウルスラは更に言葉を募った。
「大人気ないし、意地も悪い」
「今さらだろ! っていうかお前なにを」
「でも、とても優しい」
いきりたって立ち上がったところにカウンターをくらい、ビューリングはポカンとして口を開けた。十分に短くなったタバコが白い雪面へ落っこちる。
ウルスラは俯いたまま顔を上げない。ビューリングは眼鏡の下の頬が薄く染まっていくのをただ呆然と見やり、足元からのキューンという鳴き声に我に返った。
「ようするに、お前はそれを言いにきたのか?」
「…………」
沈黙イコール肯定。口をへの字にして不器用に沈黙するウルスラに、ビューリングは腹を立てた自分自身がおかしくなる。それは心の琴線に触れ、生まれた衝動は次第に体中に広がっていった。
「回りくどいだろ。わざわざ喧嘩までふっかけて」
「早とちりしたのはそっち」
「そっちって、おま…もう、だめだ―――っぷは」
珍しく、本当に久方ぶりに、ビューリングは声を上げて笑う。顔の下半分を片手で覆い、目尻に涙まで浮かべて。
一方そんなふうに笑われてしまったウルスラは当然面白くなく、こちらも珍しく拗ねたような顔をして両手をギュッと握り締めた。いつまでも笑いやまないのを見て取ると、しゃがみこんで足元の雪を拾い固め投げつける。
「わっこら何を…っぷ、くくく……やめろって、おい」
「~~~~~~!」
射撃能力の低いウルスラの雪球は笑いながらあっさりよけられる。素直に当たらない的にカチンときたのだろう、雨あられと投げられる玉からビューリングは回避運動を駆使して逃げ惑った。
「ふぅ~やれやれ。お前のおかげで体は温まったが、こんな寒い日は酒でも煽りたいな」
二人並んでベンチに腰掛けて休憩。健康的な疲労感に身を委ね、内側から火照る熱を北欧の大気にさらす。ウィッチは自前の魔力がカバーしてくれるので、過酷な環境下においてもある程度までなら適応できる。
「…お酒なら、ここにある」
「ウイスキーなんてどうしたんだ? お前の年なら渡してもらえないだろう?」
ウルスラが差し出す小瓶を受け取り、ビューリングは不思議そうに首を捻った。各国により飲酒の規定は様々でウィッチの規則は緩い方であるが、さすがに10歳の飲酒はどこの部隊も認めていない。
「キャサリンとエルマ中尉が交渉した。アホネン大尉も」
「なんなんだその面子は」
「知らない。どうでもいい」
「それもそうだな。ありがたくもらっておこう」
影で発足した応援団に強力な援軍が加わったとは露知らず、二人は特に深く追求することもなく話題を流す。この中庭でのやりとり一切合財をとっくり見られ、くねくね悶えられていると知ったならば対応も変わってくるのだろうが。
封を切って一気に瓶を煽ったビューリングに小さな手が伸びる。それに気づいた彼女は咄嗟に瓶を遠ざけ、残った片手でウルスラの肩を押さえた。
「おっと…待て待て、子供にはまだ早い」
「もう子供じゃ、ない」
「強情っぱりも程々にな。ほら行くぞ」
「…………」
沈黙を無視してさっさと瓶の封をし、ビューリングは腰を上げる。玄関に向かって数歩歩いたところで後ろを振り返った。
「なんだ来ないのか。ホットミルクにウイスキーを数滴垂らすと美味いんだがな」
「……?」
「まあそれくらいなら許されるだろうさ。体も温まるしな」
そう言って口の端を上げるビューリングの足元に、小さな使い魔が駆けていく。尻尾を千切れんばかりに振り、信頼と親愛を表して。
立ち上がって歩を進めたウルスラの頭にポンと手が置かれる。そして無造作に髪をくしゃくしゃ。
とても温かく感じる手のひら。あの既視感はこれだったのかと、ウルスラは制御を失っていく鼓動を放置して他人事のように分析していた。
「ぶるぶるっ、今日は寒いですねー。フゥン? ミルクの良い香りがしまーす」
「あら私もそれにしようかしら。キャサリン少尉も同じでいいですよね」
静かな空間が一瞬にして破られる。冷たくなった手を擦り合わせながら入ってきた二人は、窓際に向かい合って座るウルスラとビューリングに気さくな笑みを向けた。
もっともウルスラは開いていた本から顔も上げず、ビューリングも粉雪降る窓の外を眺めたままなのだが。しかしそんな不愛想には慣れたもの、ホットミルクを入れたカップを手にオヘアとエルマは隣のテーブルに腰を下ろす。
「ビューリングはお酒ですかー? 食べずに飲んだら体に悪いってダディが言ってたねー」
「そんなにヤワじゃない。水みたいなもんだ」
目を丸くするオヘアにビューリングは酒の強さを誇示する。対面にいるウルスラは山盛りだった氷がすっかり溶けたグラスにぼそり。
「見栄っ張り」
「……何か言ったか?」
「別に」
ウルスラは聞きとがめる声を受け流してページを捲る。片手でカップを取り上げ、ウイスキーを垂らした温かいホットミルクを一口。
「これ町で買ったスモークチーズなんです。美味しいって評判なんですよ。食べてみてください、ビューリング少尉」
「ん? ああ―――これは確かに美味いな、エルマ中尉。酒のツマミに丁度いい」
「そうですか、口に合って良かった。みんなの分もたくさん買ってあるから、どんどん食べちゃってください」
エルマ中尉は意外と猛獣使いの才能があるらしい。栄養価の高い食品の配給にさりげなく成功した手腕を評価し、「エルマ中尉は本当にいい人ねー」とのたまうオヘアや本に目を落とすウルスラも御相伴にあずかった。
「ビューリングっ、ちょっといいかしら!」
バーンと開いた詰め所の扉を部屋にいる全員が注視し、駆け込んできた隊長の顔を緊張の面持ちで見つめる。ネウロイ来襲の警報は鳴っていないが、何か問題でも発生したのだろうか。
「どうしたトモコ?」
窓際のテーブルについてウイスキーを傾けていたビューリングは、気負った様子もなく席を立つ。ギクシャクと歩いてくる智子を不審そうに見やり、自分自身もポケットに手を突っ込んで歩み寄った。
「これっ、読んで!」
「……なんだこれは」
顔の前に突き出された手。危うく殴られそうになったそれを顎を引いて避け、ビューリングは渡された封書をひらひら。
「最近のあんたの行動は隊長として目に余るの。そこには義勇独立飛行中隊の隊員としての心得を事細かに記してあるわ。しっかりと熟読して普段の自分を見つめ直してちょうだい。いいわね、これは命令よっ!」
「はあ? そんなことか。驚かすな…ラブレターかと思うだろ」
皮肉と揶揄を込めたビューリングの言葉。しかしそう思うのも無理からぬ話で、白い洋風封筒のシールが何故か赤いハートマークだったりする。
「~~~~~っ?! な、なん、ななななんで」
「読めばいいのか? それじゃ」
「ま、待って! こんなところで開けないでぇ~っ!」
さくさく封を切ろうとするビューリングに真っ赤な顔をしてすがりつく智子。そんなやりとりを生暖かく見守るオヘアとエルマは、窓際で本を広げるウルスラに聞こえないよう顔を寄せてこそこそと話す。
「切れ者のビューリングも当事者になると鈍るものねー」
「ですよね。あれだけ露骨に態度に出されても気づかないなんて」
肩をすくめるビューリングは鬼気迫る表情の智子に大仰な溜め息。わけがわからないながらも掴まれた服を取り返し、それでも一応手紙は内ポケットにしまいこんだ。
「熟読しろと言ったのはお前だろう? 変な奴め」
「なっ…も、もう許せない! あんたが出した報告書は全部没よっ。書き直して明日までに提出なさい、しないと酷いんだからねえぇっ!」
持ち前の理不尽さを発揮して一方的に告げる智子。言うだけ言って相手の顔をちらちら、間が持たなくなったのか開いたドアから走り出ていった。
「オー、ノーゥ、ミーは今とても恥ずかしいよー…トモコは一体幾つなんですかー」
「スクールの時を思い出します…あの年頃は素直になれないものですよね」
別種の恥ずかしさに身悶えする約2名、とんだとばっちりである。
首を傾げて戻ってきたビューリングが元の席にかけ、テーブルに伏せっているオヘアに声をかけた。
「キャサリン、あいつどうしたんだ? いつにも増しておかしいぞ」
「心と体が違う事をいう、思春期にはよくあることねー。いつもの発作だから放っておけばいいねー」
ひらひらと手を振るテキサスっ子に「そうか」とあっさり相槌を打ち、ビューリングはウイスキーのグラスを持ち上げる。もう底たまりしか残っていないのを見て取ると、窓辺に置いてあった氷と瓶を引き寄せた。
「そっそんな事よりビューリング少尉、早くレポートの書き直しをしないとっ。トモコ中尉に口実を与えてしまいますよ!」
がばっと上体を起こしたエルマは身の危険を訴えるが、ふんと鼻を鳴らしたビューリングはどこ吹く風。上官命令に従わなかったこと数知れず、今まで3回銃殺刑をくらっている彼女には何の脅しにもならない。
「誰が書き直しなどするか、面倒くさい…処罰でも何でも好きにすればいい」
「駄目ねーっ!!」「駄目ですよーっ!!」
途端、声を揃えて乙女たちは奮起する。
応援団として今の言葉は聞き逃せない。好きにすればいいなんて言おうものなら、トモコという名のケモノが目覚めてしまう。
「……何なんだ一体」
詰め寄られてぎゃいぎゃい喚かれ、頭を抱えるビューリング。二人いっぺんに話すものだから何を言っているのか聞き取れない。厄日が続くなと諦めの溜め息をつき、殉教者の悟りで騒動の終結を待つことにした。
「うるさい」
ぼそりと発した呟きは、あまりの騒々しさに掻き消される。上着のポケットから小さなコルクを取り出して耳に装着。一人静寂を取り戻したウルスラはまた一口ミルクを含み、読んでいた文章の続きへ戻っていった。
ぱたんと部屋の扉を閉める。やっと開放されたビューリングは上着も脱がずにベッドにごろん。
「押し負けするとは…屈辱だ」
レポートを書くと約束するまで離さないとしがみつかれ、金魚のフンを2つくっつけて歩くのに音を上げた己を嫌悪する。スオムスにくるまで鼻摘まみ者だった自分をどうしてそこまで構うのか不思議だが、約束した以上はそれを果たさねばならなかった。
溜め息をついて渋々起き上がり、デスクにかけて紙とペンを手に取る。書くとは言ったが、真面目にやるとは言ってない。適当にさらさらと枚数を増やし、一番最後に所属部隊と署名を施してレポートは完成した。
「ふむ上出来だな―――っん?」
一服しようと懐を探り、その手に触れるものに思い出す。内ポケットからそれを取り出してデスクに置くと、まずタバコに火をつけて深く煙を吸い込んだ。手近な灰皿を引き寄せてタバコを置くと、封を破って中身を広げる。
「おいおい…なんだこれは」
数枚にわたる手紙を流し見て溜め息をつき、再び内ポケットに戻すと重い腰を上げた。どうせトモコにレポートを提出しなければならないのだから、彼女に直接問いただせばよかろうと考えて。
コンコンッと智子の部屋のドアが鳴る。
そわそわと落ち着かなげに歩き回っていた智子はビクッと身を竦ませ、なぜか隠れる場所を探してクローゼットを開けたり閉めたりした。そうこうしているうちに業を煮やした来客が勝手にドアを押し開ける。
「なんだ、いるじゃないか」
「まっまだ開けていいとは言ってないわよっ!」
どぎまぎしている己を隠そうと喧嘩口調。返事もしなかったくせに智子は早速ビューリングに噛みつく。
ビューリングはドアノブを握ったまま肩をすくめ、特に悪びれた様子もなく鼻で笑う。
「それは失礼。私の部屋のドアを切り捨てた奴の言葉とは思えんな」
「ぬあっ?! あれはあんたが訓練サボるからっ」
昔の無茶を掘り返されて智子は赤面する。色々と反撃を考えているその眼前に、紙の束が突き出された。
「御所望のレポートだ。それでいいんだろ?」
「え? ええ……本当に書いたの、あんた」
「なにか知らんが周りが書け書けとうるさくて。お前も隊長としてそこそこ敬われてるじゃないか」
「もっもういやだそんなやめてよっ私が部下想いの素晴らしい隊長とか」
ビューリングは嫌々ながら書いたんだと強調したつもりだが、智子の都合のいい耳にはそう聞こえなかったらしい。受け取ったレポートをくしゃくしゃにする智子を呆れて見やり、タバコをくわえたビューリングは後ろ頭をかいた。
「…ああ、それはそうと。さっきの手紙の件だがな」
「ひゃっ?! ま、待ってまだ心の準備が」
「私に扶桑語は読めんぞ。従って熟読もできない。以上だ」
「―――っへ?」
間抜けな表情で智子は固まる。停止した思考のなか必死に記憶を手繰ると、ついつい熱が入って墨で書いたとっておきの手紙は確かに縦書きだった。信じられない失態をおかした己を許せず、智子はがっくりと膝をつく。
「読めないなら直接聞けばいいと思って持ってきたんだが」
「きっ聞くってそんな、だって言えないから手紙にしたわけでっ」
構わず続けるビューリングに、跳ね上がった心臓を抱えた智子は後じさった。遅れてギュギュギューンっと血が上ってくる。
「途中でハルカに会ったから見せてみた」
「…………はい?」
今度はササアァーっと血の気が引いていく。今聞いた事実を受け入れられず、智子は耳に手を当ててワンモアを要求する。
長話が面倒になったビューリングは話を先に進めた。
「あれは扶桑の軍規なんだろ? ここはスオムスだからまるで意味がないな。それじゃあ私はこれで」
軽く手を上げてそう言い捨て、ビューリングは無情にも部屋を後にした。
はっとした智子は廊下に飛び出し、曲がり角に消える背中を見つけ、待ったをかけようとしてその場に硬直する。
「白やぎさんからお手紙着いた~♪」
「黒やぎさんたら読まずに食べた…」
背中側からいっそ無邪気に聞こえる歌声。感じる妖気にカクカクと膝が笑いだす。
軋んだ音をたてて智子が振り返った先に、満面の笑顔を浮かべるジュゼッピーナとハルカ。
「仕方がないのでお手紙書いた ~♪」
「さっきの手紙のご用事なあに …」
「うっひいいいぃィーーーっ?!」
ジュゼッピーナはまだいいとして、ハルカの目が非常にやばい。総毛立った智子は一目散に逃げようとするが、足をもつれさせてすってんころりん。あっさりと両脇を拘束され、無限に流れ続ける歌にのせて自室へ引き摺られていった。
ゴリゴリ、ゴリゴリ―――
幾つかの乳鉢に分けた材料が磨り潰されていく。
ここはウルスラの自室。他の隊員の部屋と少し離れた場所に設けられているのは、彼女のライフワークである火薬研究に起因する。調合の失敗で部屋を吹き飛ばすたび隣室も巻き添えになるので、これはその予防線としての措置だった。
「おかしい。あの時は上手くいったのに…」
空対空ロケットを完成させた折はこの世の全てを手に入れた気さえしたのに、ほんの少しの所作で変わってしまう結果に四苦八苦している。乳鉢を摩る手を休め、ウルスラは先ほど届けられた手紙を見やった。
「少尉、か」
比類なきウィッチの才を持つ双子の姉。最初の出撃こそ散々だったと聞いているが、めきめき実力を発揮した今では『黒い悪魔』という称号すら与えられたという。もっとも姉は手紙に戦闘の事などちっとも書いてこないのだけど。
埃っぽさが気になり眼鏡を外して机に置く。そして備え付けの鏡に映る自分をじっと見つめた。
双子だから似ていて当たり前、カールスラント軍人だから服だって同じ。こうして黙って立っていれば親だって区別がつかない。物心つかない小さな頃はそれも嬉しかったものだけど。
ゴリゴリ、ゴリゴリ―――
止まっていた作業を再開する。
追憶が僅かなミスを生む。チカッとした光にすぐさま床へ伏せたウルスラの頭上を、轟音立てた爆風が駆け抜けていった。
大きく伸びをする背中に嫌な戦慄、ビューリングは戦場で培った勘に従いその場から飛びずさる。爆音とともに弾けたドアが鼻先を通過し、向かいの部屋へと突っ込んでいった。命拾いしたと喜ぶ暇もなく立ち上がり、もうもうと煙る室内へと特攻する。
「おいっウルスラ! 大丈夫か、どこにいる?」
口元を覆って火薬のにおいがたちこめる室内を見回す。廃墟と化した部屋にまさかを想像してゾッとなり、ビューリングは何度もウルスラの名を呼んだ。すると積み重なった瓦礫が微かに揺れる。
「―――――っ! ここだな、ちょっと待ってろ。すぐにどけてやる」
使い魔の力を借りて重たい瓦礫をかきわけると、下から煤で顔を真っ黒にしたウルスラが出てきた。悪運が強いのか偶然瓦礫の隙間に嵌ったようで、その体には怪我らしい怪我はない。
「ごほっ…けほっ…失敗した」
「見ればわかる。これで何度目だ、まったく」
ビューリングは安堵の吐息をつき、咽て咳き込む背中を叩く。粉塵はおさまりそうになかったので、ウルスラを抱え上げて部屋の外へ退避した。
「オー、やっぱり今の爆発はウルスラでしたかー。今回はまた一段とグレイトねー!」
「褒めてどうするんですキャサリン少尉… あのそれより大丈夫でしたかウルスラ曹長?」
爆音にかけつけてきたオヘアとエルマ。その後ろでは手馴れた感のある基地防災担当がわらわらと室内に突っ込んでいく。
地に足をつけたウルスラは背筋をしゃんと伸ばし、いつもの平坦な口調で返した。
「問題ない。想定の範囲内」
「そんな煤けた顔で言っても説得力がないわけだが」
頭の上から聞こえた突っ込みに唇を噛み、ウルスラは服の袖で顔をごしごし。そうしてからやっと、そこにあるべきものがないという事実に気づいた。
「眼鏡、ない」
「お前の眼鏡なら瓦礫に潰されているのを見たぞ」
顔をぺたぺた触って何度も確かめる仕草を怪訝に見下ろし、ビューリングはありのままを告げる。それを聞いたウルスラはピタッと動きを止めて蒼ざめた。そして急に落ち着きをなくしソワソワキョロキョロ。
「どうしたねー、ウルスラ? どこか具合でも悪くなったですかー?」
「顔が真っ青ですよ。ああいえ、煤と混じって灰色という珍しい顔色に」
「なんでもない。なんでもないから、放っておいて」
覗き込んでくる仲間から必死に顔を背けるウルスラを観察し、ビューリングはベンチで考えていた違和感の正体に思い当たった。
「ウルスラの具合なら私が部屋で確かめる。二人は後処理を頼む」
悪いと思いつつ宣言すれば、何故だかキラキラした瞳で迎えられる。居心地の悪さを感じたビューリングは俯く少女の腕を掴み、その場からそそくさ姿を消した。
自室にウルスラを引っ張り込み背中でドアを閉める。ドアに寄りかかったまま腕を組んだビューリングは、突然の変調をきたしたウルスラを見やった。
突き刺さる視線を感じているだろうに顔を上げない。明らかに他人の『目』を気にしている。常に泰然としているあのウルスラが。
「ウルスラ、お前…視力は悪くないだろう?」
食堂での動き、さっきの行動、そこから導かれた結論。ビューリングの指摘に少女の肩がビクッと跳ねる。
やはりそうかと一人頷き、ならば何故いつも眼鏡をかけているのかを考える。はっきりとした確証はなかったが、ビューリングはおそらくと思われる推測を口にした。
「双子の姉がいると言っていたな。あの眼鏡はそれに関係する事か?」
「…………双子だから……私たちは本当にそっくり」
沈黙の後、力ない声が洩れる。ウルスラが話しやすいよう視線を外し、ビューリングは耳から入ってくる情報に集中した。
「あれがないと……私と姉さんの区別がつかない。みんな…困る。だから」
そう言ってウルスラは沈黙する。あの眼鏡は二人を見分けるためのアイテムであり、あれがないと周りが困るのだと。
ビューリングはその説明に引っかかりを覚えて首を捻り、しばし自分の中で言葉を整理して口に出した。
「区別したかったのは…みんなではなく、お前自身じゃないのか?」
「違うっ! だって小さな頃から私たちはずっと一緒で、楽しくて。どっちがどっちでも構わなかった」
意外なほどの強い否定、それはつまり痛いところを突かれた裏返し。
ようやく顔を上げたウルスラの目を真っ直ぐ見つめ、ビューリングは穏やかに先を続ける。
「だろうな。元々1つの存在が2つに分かれて生まれてきたのだから。だが頭の良いお前は冷たい現実に気づく。机上の計算のように全てを等分できるわけないと」
叶うならなら同じでいたかった。だけど同じでないのなら、区別しなければ。
呆然とする少女に優しい気持ちが芽吹き、ビューリングは目尻を下げて微笑む。
「なんとなくそう思った。だってな、スオムスではそうする意味がないだろ」
「どうし、て…?」
「ここにいるのはウルスラ・ハルトマンだけだ。区別する必要などない。まあ、してほしかったら幾らでも思いつくが――――例えばいつでも本を持ち歩いてたり、
体中火薬くさかったり、まめに届く姉からの手紙を心待ちにしてたり、タバコのにおいを嗅ぐと顔をしかめたり、人の体で暖をとっておきながら寝坊したり、
ポテト料理が好物なくせにわざと取らなかったり、一言返しで苛々させ」
「もういい、黙ってっ!」
パシッと両手で口を塞がれ、ビューリングは無理やりに黙らせられる。あれこれ自分の他覚情報を並べられたウルスラの顔は真っ赤。
そんな顔すら新しい情報に加えたビューリングは、もごもご続きを語ろうとして諦め、全力で押しつけられる口封じを指で突いた。
「…もう言わない?」
こくんと頷き返すと、やっとの事で手が外れる。ビューリングは赤くなった口元を撫でて大きく息をついた。
「痛いじゃないか。力加減くらいしろ」
「ビューリングが悪い。恥ずかしいこと言うから」
「恥ずかしいとは何だ。お前自身の事だろウルスラ」
「嘘を混ぜてる。私はそんなんじゃない」
ああ言えばこう、こう言えばああ。二人はムキになって自らの主張を譲らない。
やがて飛び交うネタも尽きた。言い合いに疲れた二人は肩で息をし、立ち話もなんだと並んでベッドに腰掛ける。
「話を戻すが…スオムスで眼鏡はいらないだろ?」
「駄目。外からきた人が間違う…ルーデル大尉みたいに」
ウルスラの言葉に記憶を探り、ああそんな事もあったなとビューリングは懐かしむ。あの時は確か、眼鏡をかけていても間違われたのだ。各方面のメディアがこぞって取り上げるから、カールスラント空軍の最前線で活躍するウィッチは有名である。
「そうか。なら、眼鏡を買うまでこれを付けてろ」
ビューリングは己の白いスカーフを解き、ウルスラの首元へ巻きつけた。たっぷりとした生地は余りすぎて首全体を覆いつくす。
立ち上がったウルスラは鏡の前まで移動して沈黙。軍服の上からぐるぐる巻かれたスカーフにより所属国家の見当すらつかない。大雑把すぎる、わかりやすすぎる、そんな代用品をギュッと両手で握り締めて一言。
「……タバコくさい」
「私のだから当然だ。嫌なら返せ」
取り返そうと伸びた手からウルスラは逃げる。たっぷりとしたスカーフに口元を埋め、くぐもった声で告げた。
「これがいい。ありがとう」
とても素直で真っ直ぐな言葉。
またもやカウンターをくらい、ビューリングは腰砕ける。宙に浮く手のやり場に困った末、結局クシャクシャと薄い色の髪をかき回した。
ざわざわとした憩いのランチタイム。食堂中の視線は今、とある二人の人物に向けられていた。間違い探しの箇所は明らかなのだが、何故それがそこにあるのかという新たな疑問は解決できそうもない。
そんな衆人環視の状況を歯牙にもかけず、昼食プレートを持った大小の二人連れは空いた席につく。
「…不躾な奴らだ」
「どうでもいい」
常のマイペースを保つ強者たち。注目を浴びる理由はわかっているが、わざわざ説明してやる義理はない。堂々としていればそのうち飽きるだろうと放置し、彼女たちは各々のプレートに手をつけた。
「おい、それは前掛けじゃないぞ。ソースが飛んでる」
「パスタはそういうもの。仕方ない」
今日のランチはロマーニャの伝統料理。ソースを変えるだけで色々な味が楽しめるという大所帯では便利な代物。そして今日はよりによってトマトソースだった。
「人のだと思って…あんまり汚すなよ」
大事な本は除けておきながらしれっと言われ、ビューリングは苦笑。返却される頃にはきっと、シルクのスカーフは無残な姿になっているだろう。
ジュゼッピーナとハルカにべったり挟まれた智子が入り口から入ってきた。智子はゲッソリとやつれた風体、対する後の二人はお肌つやつやである。
「運動したらお腹空いちゃった♪ それにしてもどうしたんですトモコ中尉ぃ~、ハイネックに着替えるなんて?」
「どうしたもこうしたも、あんたたちが跡をつけまくるからでしょおがあぁっ?! うぁしまったっ…」
「ふふふ、語るに落ちましたね智子中尉。愛する人の肌に愛の証を刻む、これに勝る喜びなん――――へぶううっ」
智子渾身のアッパーをくらって吹っ飛んでいくハルカ。要領の良いジュゼッピーナは近くにいる人々に避難を勧告する。備前長船に手をかけた智子が仁王立ち、最後通牒を突きつけた。
「それ以上一言でも言ってみなさい。刀の錆だからねっ、切り捨て御免だからねっ!」
「きゃあ~サムライの殺陣を生で見られるなんてジュゼッピーナ感激ぃ~♪ 遠慮なくやっちゃってください」
「へっへっへ…随分威勢がいいんですねぇ。さっきは私の腕の中であんなに弱々しく震えていたくせに」
懲りずにジゴロじみた感想が述べられると、もう何度目になるかわからない無礼打ちショーが開始された。
「「「 …………………… 」」」
「なにか、勘違い、してない…か?」
食後の一服をくわえてぐるりを見回すビューリングの額に冷や汗。戻ってきた視線がおかしな具合になっている。あなたたち朝からお盛んねぇといったふうに。
そういえばと、ビューリングは思い出す。昨日から中隊仲間のみならず基地隊員全ての挙動が怪しかった。営倉から釈放されたことで誤解は晴れたと、そう勝手に思い込んでいた自分を殴り飛ばしてやりたくなる。
「ち、違うっ――――これはっ…だな」
思わずガタンと立ち上がったビューリングは、対面に座るウルスラを視野に入れて言葉に窮す。
誤解の真相、スカーフの理由。全てを話してしまうのは簡単だったが、こんな場でウルスラ個人の秘め事を公にするほどビューリングは鬼畜ではない。
「お~ほほほほ、照れなくてもいいんですのよ。あなた達の純愛はしかとこの私が証明してさしあげますからっ」
突如甲高い高笑いが巻き起こった。取り巻きたちが押しのけた人垣の隙間から進み出てきたのは、言わずとしれた第一中隊のアホネン大尉。
また面倒な奴が現れたとビューリングは頭を抱える。
「余計なお世話だ、引っ込んで……ん? おい大尉、純愛ってどう」
「オー、何の騒ぎですこれはー? サプライズパーティならミーに余興をお任せねー!!」
問い詰めようとする声が更なる大声にかきけされた。
腰からリボルバーを抜くオヘアを見て咄嗟に全員床へ伏せる。食堂の壁に次々開いていく大穴、やはり今回も実弾を装填しているらしい。
「大人しくそこへなおれえぇーーーっ、こぉのちびっ子変態海軍がああぁーーー」
「トモコ中尉素敵ぃ~、頑張ってぇ。これで中尉の二番機の座は私のもの。きゃはっ♪」
「させるもんですか、パスタ准尉! 智子中尉の二番機は未来永劫この私ですっ」
団子になって移動してきた三人は、群集に構わずすったもんだの痴話喧嘩。
完全に頭に血が上った智子は抜き身の軍刀を振り回してハルカを追い掛け回す。無邪気なふうを装い黒い願望を口に出すジュゼッピーナ。ハルカもジュゼッピーナを盾にするという高等技を駆使し、ライバルを屠ろうとやっきである。
「きゃああぁ皆さん、何をっ何をしているんですかー! また冷酷非道なハッキネン少佐に叱られちゃいますよ。何故かおもに私があぁっ!」
ひいいぃィーと顔に縦線を入れてエルマは泣き出す。いつの間にか腕組みして真後ろに立っている雪女にも気づかずに。
「もう知らん…どうにでもなれ」
やさぐれてタバコを噛み、ビューリングは火を点けた。こんな面子に囲まれて正常でいる方が難しい。
「お前はやっぱり『どうでもいい』のか?」
ビューリングは周囲のやりとりに全く無頓着な少女に問いかけた。あらぬ噂がまことしやかに一人歩き、それでもいいのかと。
開いた本から一瞬だけ視線をやり、ウルスラはまた読書を再開する。そして、ぼそりと簡潔に呟いた。
「人の噂は75日」
「なんだそれは?」
「扶桑の諺」
ウルスラらしい返答。本から顔を上げもしない。
意味がわからんと溜め息をつき、脱力するビューリングは天を仰いだ。