ハッピー・テイル
同じ部屋、一つのベッド、けれどその、端と端。
伸ばせば届く距離、伸ばさないから届かない隔たり。
背中合わせ、顔腹そむけ、ごめんと言えないもどかしさ。
もういいよ、と、諦めた声が聞こえたから慌てて振り向いたら、エイラは壁側に向かっていて、拒絶の意を呈して
いた。しまった、と思ったけれどもやっぱり自分の非も認められなくて、私も口を尖らせて先ほどまでと同じように
向こう側を向いてしまう。
それなのにやっぱりすぐ耐え切れなくなって、悲しくて足に顔をうずめた。こぼれそうになる涙を必死にこらえる。
ねえ、どうして分かってくれないの。そんな気持ちばかりが先走って、言葉に出る前に見えない吐息になって零れ
落ちてしまうのだ。いつもいつもそうやってタイミングを逸して、結局何ひとつ言い出せないままでいる。
きっかけはすごく、些細なことだった。エイラにとっては普段と何も変わらないことで、たまたまいつもはそこには
いないはずの私がそこにいただけで。
だからきっとエイラはひどくうろたえたろう。気の合う仲間と談笑していたその最中に、その一人が突然怒り出して
席を立ったのだ。ずるがしこいそのひとりはそうしたら優しいエイラが絶対に追いかけてきてくれるだろうことを
知っていた。知っていたから黙っていなくなることにした。かくしてその目論見は成功して、彼女はエイラと二人きり
でゆっくり過ごす時間を手に入れたのだった。
…そこまでは、よかった。いいはずだった。
だっていつものエイラだったらそこで彼女を──私を深く追求することはせず、仕方ないなあと肩をすくめて、
「いつものことだ」と許したろう。眠かったんだろう、とか、夜間哨戒で疲れてたのかな、とか、勝手に決め付けて
自己完結して、そうして私のすべてを許してしまうような人だから。
けれど今日ばかりは、彼女もどこか虫の居所が悪かったらしい。
「どうして勝手に出て行ったんだ」と、彼女は私に納得のいく説明を求めた。入り込んだいつものエイラの部屋で、
ベッドの上で二人座り込んでくつろぎながら、それでもエイラは追及を緩めなかった。私がだんまりを決め込ん
でも、今日ばかりは聞かないぞとバルクホルン大尉のような強情さを持って私に迫ったのだ。
どうして、なんて、そんなのいえるわけが無い。『ペリーヌさんやリネットさんたちとあなたが親しげに話しているの
が嫌だったから、あなたを独り占めしたくて席を立ちました』なんて、口が裂けても私は言えない。そもそもそんな
ことを言ったってエイラは首をかしげるだけかもしれないのだ。「それなら一緒に話せばいいじゃないか」と、兼ねて
から私が部隊の仲間たちとすれ違いの多いことを気にしている節のある彼女なら平然とした顔でそんなことを
のたまうのかもしれなかった。
でもね、違うよ。違うんだよエイラ。
あのときの私は『あなた』と一緒が良かったの。『あなたとわたし』で、二人きりがよかったの。
ねえ、どうして分かってくれないの?それに気付いてくれないの?
エイラはいつも、どこまでも私には優しいくせに、そうして私の本心の奥底はどうしても汲み取ってくれないところ
があった。彼女としては一生懸命引き上げようとしているつもりなのかもしれないけれど、けれどどうしても届いて
いないのだ。
それがもどかしくて苛立たしくて、だから拗ねるようにそっぽを向いて、背を向けて無言を貫いた。私は悪くないわ。
気付いてくれないあなたが悪いの。全部全部、あなたが悪い。
だから早く気付いてよ。私の気持ちを分かってよ。そうしたら全部許してあげるから。
そのぐらいの傲慢な気持ちで私はいたから、エイラの顔がいつもとは違って最初から不機嫌そのものだったと
いうことに全く気付けていなかったのだった。
*
もういいよ。半ば諦めるようにして言い放って背を向けた。するり、とシーツの上を体が滑る音がして、サーニャが
振り返ったのかもしれないと思ったけれど私はあえて振り向かないことにした。
謝るもんか、今日という今日は。あちらから折れるまで耐えてやる。
それなのにやっぱりすぐ悲しくなって、右手で目をこすって頭をかく。何だかすごく悲しくて涙が出そうになった
けれど一生懸命押しとどめて、あちらに勘付かれないようにと唇をかみ締めた。ねえ、君はひどいよ。いつも
ひどいよ。本当はいつだってそう文句の一つも言ってみたいのだけれど、私は臆病だから出来なくていつも口を
つぐむのだ。
彼女が怒り出したきっかけなんて分からなかった。たまたま非番だった同い年の仲間たちとミーティングルーム
でバカ話かなんかをしていて、そして珍しくそこにサーニャもいた。眠そうな顔をしていたから「だいじょうぶ?」と
聞いたけれど平気だと答えたから、遠慮なく気に留めないことにしたのだ。
取り留めない噂話、ツンツンメガネの自慢と、それに対するリーネの天然な癖に的確な突っ込み、ミヤフジの
今週の失敗エトセトラ。女が三人集まると姦しいのだと坂本少佐が前に言っていたけれど、それなら4人、サーニャ
も含めて5人もいたらそんなのやかましいのに決まってる。そうしてみんなで少佐のごとくわっはっは、なんて
笑って楽しく過ごしてた、その矢先のことだった。
突然サーニャが立ち上がって、ふらふらとどこかに言ってしまったのだ。もちろん私を含めて、残された4人は
ぽかん、とするだけ。あのツンツンメガネだってばつの悪そうな顔をしてた。
(追いかけて上げなよ、待ってるよ)
みんなのその言葉に押されて、私は一人サーニャを追いかけることにしたのだった。行き先はなんとなく分かって
いた。私の部屋だ。多分そうだ。
その時点でなんだかもう、私はなんとなく苛立っていて。
それは私一人の問題じゃなくて、ミヤフジたちにも関わることだったからだ。私一人が我慢したり振り回されたり
するのは別に構わない。でもあんなに楽しくしゃべってるその最中で、その腰を折るようにいなくなることなんて
無いじゃないか。
自分はサーニャの、色んな意味で保護者であると内心自負してやまない私は、そんな妙な責任感から今日の
ことはちゃんとだめなんだぞと分からせてやらないと、と思ったのだった。
でも、結局それは上手くいかなかった。サーニャと来たら意外と強情で、私が何を聞いても答えようとしなかった
のだ。ハルトマン中尉を前にしたときのバルクホルン大尉を思い出して少し強気に出てみても、ノレンに腕押し、
ヌカに釘。ちなみに坂本少佐談だから意味は分からない。
つまらなかったなら一言言えば上手いこと抜け出す方法だってあったのに、会話に入れなくて寂しかったなら
話を振ってやったのに。サーニャはいつだって何も言わないから分からない。どうしたらいいのかわからない。
それで思い悩んでも、どうせみんなは悪いのは私だって、そう言うんだろう?サーニャちゃんの気持ちも考えて
あげて、なんて私に説教をするんだろう?
そんなのわからないよ。言ってくれなくちゃ気付けない。
はいはい、どうせ私が悪いんだろ、私が謝らなくちゃいけないんだろ?そう考えると悲しくなって、もう謝る気
なんてなくなってしまう。ねえたまには私の気持ちだって分かってよ。分かろうとしてくれよ。
私はいつだってちゃんと、サーニャのことを考えてるんだよ。
*
ぐず、ぐず、と。部屋に微かな嗚咽が響く。私のものではない。…としたら、エイラのものだ。きゅ、と唇をかみ
締めた。もう、本当にどうしようもないひと。拗ねているのは私で、怒っているのはあちらなのに、あなたはそう
してすぐ誰よりも悲しそうな顔をする。顔なんてここからじゃ見えないけれど見なくたって分かる。泣きそうな顔を
してるに決まってるんだから。
ほら、こうやって。
ひとひとり満足に怒れずにえぐえぐと泣くその音を見ていると、いつもよりずっと距離を開けて遠く隔ててるのに、
なぜか背中合わせのくらいに近くにいる気がするから不思議だ。
「…わたしはいつだってちゃんと、さーにゃのことをかんがえてるんだよ」
嗚咽に混じってこぼれ出た、うめきのようなつぶやきを聞いて目を見開く。もう一度、音を立てないように気を
つけて振り向いても、そこにあるのは見慣れない背中だけ。たぶんきっとエイラは言葉にしたつもりがなかった
のだろう。
普段はすらりと伸ばしている背筋が、情けないぐらいにぐんにゃりと曲がっている。きゅ、と小さくなってたぶん
ぽろぽろ涙を流しているのだ。子供みたい、私よりも1年半も年上なのに。
エイラが無意識に口にしたその台詞が、何の含みも無い彼女の本心だということくらい私は痛いくらいに分かって
いた。エイラは不器用なだけで、いつだって私を大切にしてくれている。だから今日だって追いかけてきてくれた。
たぶん今エイラが怒っているのもただ単に私の態度に腹が立ったからだけじゃなくて、多分の心配も含まれて
いるのだろう。部隊で2番目に幼い私を気遣ってか、彼女は私に対してよく保護者風を吹かせて接してくる。
甘やかすだけじゃなくて、だめなことはだめだと言って、正しいことを教えて。
それだのに私はいつもエイラに甘えてばかりだ。それを加えてもやはり私にはめっぽう甘いエイラに漬け込んで、
浸るくらいの優しさに包まれてぬくぬくとしている。だからこうしてたまに厳しくされると、苛立って拗ねてしまう
のだ。それはたぶん、私がまだまだ子供である証拠。
(ごめんなさい)
…今すぐ飛びついてそう伝えたくなったけれど、今日のエイラは本当に不機嫌で、泣きながらもやっぱり怒って
いる感じがして。怖くてついためらってしまう。手を伸ばせば届くのに、伸ばさなければ届かないこの距離がもどか
しい。ごめんなさい。そんな短い一言も口に出来ない私自身が、もっともっともどかしい。
ちょろり、と耳と尻尾を出してみた。もしかしたらこうしたら届くかもしれないと思って、ゆっくりとお尻から伸びた
黒い尻尾を伸ばしていく。
ちょんちょん、と肩を叩く。予想だにしない刺激に驚いたのだろう、エイラがびくっと震えた。
ねえ、まだ怒ってる?
もう許してくれない?
首筋に触れて、背中をなぞって。吐息になってこぼれるばかりで、言葉にならない思いを必死に伝える。ねえ
振り向いて。構って欲しいの。わがままなんてもう言わないから。
ふ、っと、尻尾に触れる感触が無くなった。どうしたことかしら、とうろたえると、上手く尻尾を避けるようにして
横からギュ、と腕が伸びてきて、そして耳元で聞こえる、優しい声。
「…サーニャ、くすぐったいよ」
さっきまで背中合わせだったのに、今はすぐそばにエイラの顔がある。エイラの体がある。嬉しさに、つい尻尾が
踊りだす。自由自在に動かすことが出来るのに、感情が高まると好き勝手に動くのもこの尻尾のおかしなところだ。
「…怒ってるんじゃ」
「もういいや、そんなこと」
そうやってすぐ、私を甘やかす言葉をくれる。ごめんね、を私が言う前に、エイラがすべてを許してくれてしまう。
そんなことをなんの含みもなしに自然に出来てしまうエイラの精神が愛しいけれども恨めしい。
うん、でも、やっぱり大好き。
「ねえエイラ、耳と尻尾、出して」
「え?…うん、いいけど。」
まるで娘を抱き上げる父親のように私を膝の上に乗せて、エイラは笑って私を見上げた。怒ってる?怒って
ないよ。そんな掛け合いを先ほどから何度も何度も繰り返している。
私に言われるがままに魔力を解放して、耳と尻尾を出したエイラが自分のふさふさの尻尾をつまみあげながら
呟いた。猫の尻尾って、器用だよなあ。私は振るくらいしか出来ないや。そう言いながらふさふさと振ってみせる
様がなんとも言えず愛らしいなんて、本人には決して言えないけれど。
ねえエイラ、こういう使い方もあるのよ。
くるり、と尻尾をくゆらせて、彼女のその尻尾に自分の尻尾を絡めた。きゅ、と強く結ぶとその感覚がエイラにも
伝わるようで、なぜか顔を赤らめる。手をつないでいるような、ぎゅっと抱きしめあってるかのような、けれど
それらのどれとも違う、不思議な感覚が体の中を走っていく。
えへへ、と子供みたいに笑いかけると、エイラの顔がぼっと真っ赤に染まっていた。
「は、お、はなせ、おろそ、離そう、おろはなすぞサーニャ!」
なんだかよくわからない混乱した言葉でそんなことを口走って私を膝から下ろして、そうしてまたそっぽを向いて
しまうエイラ。何か気に障ったろうか。ベッドの上にちょこんと乗せなおされた私はおろおろと彼女を見やって…
そして、まだ私の尻尾と繋がれたままの、エイラの尻尾を見た。ぱたぱたと忙しなく揺れている。…キツネは
確か、イヌ科の動物で、犬は確か嬉しいと尻尾を振るはずで──
ねえ、もしかして照れているの?本当は嬉しいけれど、恥ずかしがっているだけなの?
たぶん真実だろうと思ったから、あえてそれは言葉にしない。代わりに尻尾と尻尾をつなぐ力をきゅ、と強くして、
離さないよ、との意を伝える。
「…さっきはごめんなさい、エイラ」
混乱に乗じて思い切って口にしてみたけれど、やっぱりエイラは聞く余裕が無いみたいだった。
けれどでも、まあいいわ、となんだかすがすがしい気持ちで。私はまだぱたぱたと触れているエイラの尻尾を
見やることが出来た。