無題
ああ、ひばりが飛んでいる。
基地の窓からその姿を見とめたミカ・アホネンは、人に見つからないように一人飛行場に出た。空は曇天
だけれども、その一部だけ雲が切れたように淡い青がある。訓練中なのだろうか、ひゅんひゅんとひとり
きりで、それでも悠々と基地の上を飛び回っている。彼女がたどった航跡が、きらきらとした虹色の線を
帯びていた。調子のいいときの彼女が本当に幸せそうに空を飛ぶことを、ミカは良く知っていた。…今は
『義勇独立飛行中隊』に所属している彼女もかつては一応自分の部隊でともに戦っていた『仲間』だ、
知らないはずがない。
「一人とは珍しいな」
背中から声をかけられたが、ミカは振り返らなかった。滑らかなブリタニッシュが耳について、ふん、と鼻を
立てて顔をしかめる。
話しかけてきたその相手はミカの反応などどうでもいい、といった風情で言葉を続ける。
「とりまきの『いもうと』たちはどうした」
いつもの彼女と変わらない、つまらなさそうな口調であるのにその声音に明らかな揶揄の意を聞いてとる。
何かを言い返してやりたい気持ちだったが、初対面のあの反応を思い出すに背後にいるブリタニアの
反抗児は自分の言葉など意に帰すこともなくこちらに冷やかしの言葉を重ねてくるのだろう。
ミカとて、いつも中隊の部下たちとともに行動しているわけではない。もちろん、一人になりたい時だって
ある。何より今日のミカは一応非番の身であり、よって外套にの下に身につけている衣服も普段よりは
ずっとラフなものなのであった。上着のせいでおそらくそれは相手方に見えていないのだろう。もっとも、
見えていたところで気にするような人間にも思えないけれど。
彼女の言葉など気にせず、ミカは目を凝らして空高く舞うその小鳥を見やることにした。鮮やかなロール
バレル、軽やかな上昇。まるで繋がっていた鎖から放たれたように、ひばりはのびのびと空に踊っている。
綺麗な飛行だ、と思う。けれどきっとあのヒバリは、自分がそんな気持ちでよく彼女の飛ぶ空を見つめて
いることなど知らないのだろう。
「逃がした小鳥が惜しくなったか、アホネン大尉?」
「うるさいわよ、ビューリング少尉」
普段はむっつりとしているくせに、どうして今はこんなに饒舌なのだろう。追及の手を緩めず、更に奥まで
伸ばしてくるビューリングにたまりかねて、ミカはようやく言葉を返した。ふ、という微かな笑い声が聞こえて、
つい挑発に乗ってしまった自分を恥じた。思わず握った手に力を込める。
「…別に、惜しくなったわけじゃなくってよ。ただ、元飼い主としては多少心配である、というだけ。」
「あんなにぼろくそに言っておいてか」
「すぐへこむ割には立ち直りも早いのよ。少しぐらいきつめに言わないとのほほんと笑っているだけなんだから」
「なるほど、さすが『いつも』見ているだけのことはある」
掛けられた言葉と煙る煙草の匂いに、顔をしかめてミカは振り返る。まったくもってつまらない、といった
風情の表情で、煙草をふかしている少女─ビューリング─がそこにいた。しかしその目線はミカのほうには
ない。彼女もまた空を見上げて、恐らくはミカと同じもの、つまり今基地の上を飛んでいる青空の切れ端、
ひばりの家名を持ったストライクウィッチの少女を眺めているのであった。
「放り出したのは魔法が効かなかったからか?」
「…だったらどうなの」
「気になっただけさ。」
いけない、完全にあちらのペースだ。悔しさに唇をかむ。あちらはこちらを見てさえいないのに、彼女の言葉
一つ一つにこんなにもうろたえている自分がいるのだ。…どうしてわかるのだろう。今まで誰も気付かな
かったのに、指摘もされなかったのに。
『いもうと』。それは、魔法の言葉だった。
ウィッチとて、魔力を持つだけの少女に過ぎない。そんな少女が武器を持って、ストライカーを履いて、異形
の者たちとの戦いに繰り出すのだ。死ぬ危険性だってある。それは戦いによってのみではなく、例えば
ストライカーの故障だとか、天候の良し悪しででも。『空を飛ぶ』と言うことは、それだけの危険が伴っている
のだ。
そんな空の上で、一体誰を頼ることが出来るだろう?それはやはり、同じストライカーを身につけた『仲間』
だけでしかない。逆を言えば、仲間を信じられないならそれはストライクウィッチとして致命的な欠陥となる。
だからミカは魔法をかけることにした。「いもうとになりなさい」と囁いて、その体を抱いて。自分こそがあなた
を守る存在であると、そして隊の仲間たちもまた、同じ気持ち、同じ立場であると。
そうしてきっかけを与えれば仲間意識を植え付けるのは容易い。一つの同じ気持ちを抱いた集団は、一人
一人の能力に劣るものがあろうとも一人のエースに勝ることが出来る。
そう、最初は、そんな気持ちからだった。
「ひとりでも足並みがそろわない人間がいれば、そこで隊全体の歩みが止まるわ。
そんな『いらん子』は部隊にいらない。落ちこぼれでしかないの。」
最初で最後に、彼女の頬に触れたそのときの、潤んだ瞳を思い出す。お決まりの言葉を囁いて口付けを
しようとしたら、恐ろしいほどの機敏な動きで避けられてしまった。──それ以来、自分の半径3m以内に
彼女が近づいてきたことはない。
これはいけないと、ミカにも分かっていた。ウィッチとしての能力はメンタルな面が大きく関わる。このままで
は隊の統率に関わるし、なにより、彼女にとってもよくない。
それでも自分の隊に置いておいたのは、そして同じカワハバ基地に配属されるという『スオムス義勇独立
飛行中隊』の中隊長に推したのは。
「…知っていて?私が本気で落とそうとして落ちなかった娘は、世界中でまだ、一人だけなのよ。」
薄幸そうな趣を持って、淡くはにかむその小鳥にまだ未練があるからだ、など、目の前で煙草をふかして
いるビューリングには口が裂けても言えない。言いたくもない。泣きながら空を飛ぶ、小さな小さなあの
ひばり一匹落とせずに、今もひそかに懸想しているなど。
近づいてくることは決してないくせに、今でも彼女はミカをかつての隊長として慕っているように思える。悪く
言えば傷ついた顔をするし、彼女がネウロイを撃墜した報を聞いて「よくやったじゃない」と隊全体に声を
掛けたら本当に嬉しそうな笑顔を浮かべていた。そうして彼女はいまでも優しいから、ミカは微かに期待を
寄せてしまうのだ。
ふと、ビューリングがふかしていた煙草を下ろしたので、どうしたのかと空を見たら彼女が降下を始めた
ところだった。ふい、と何も言わずにきびすを返す灰色の頭に、思わずミカは声をかける。
「どこに行くのよ」
「貴官には関係のないことだ」
どうせ訓練から戻ってきた彼女を迎えにいくのだろうに。最初から答えが与えられるとは思っていなかった
が、こうもはっきりぼかされると腹立たしい。…かと言ってミカが同じことをしたとしたら、あのひばりは文字
通り裸足で逃げ出すであろうことは目に見えていた。近づくことさえ許されないなんて、なんと言う拷問
だろう。それだのにいま、このブリタニアの不良反抗少尉ときたらそれを容易く出来るのだ。それなのに
たぶん、そういったことを気まぐれにしかしてやらないのだろう。たぶん今している、今からするそれだって、
きっと気分的なものでしかない。
「エルマは煙草の煙が嫌いよ」
やっかみ半分に叫んだら、ぴたり、とその歩みが止まった。そして歩きながらふかしたままだった煙草を
ぽい、と地面に捨てて足で握りつぶす。そしてまた遠ざかっていこうとする背中。
「あら、いいの?ヘビースモーカーさん」
重ねて言ってやると、歩きながら振り返ってビューリングが言葉を返してくる。曇天の空から、白い雪が
舞い降りてきた。通りで冷えてきたはずだ。おかげでビューリングの表情が見えない。けれど、微かに
笑っているように思える。
「今はコーヒーが飲みたい気分なんでな」
そのコーヒーを入れてくれるのが誰なのか、そんなのはもう愚問なのだろう。わざわざ尋ねる気にもなれ
なくてミカは基地に入り込んでいく背中を見つめ、はあ、と白いため息をついた。