シカナイカナシイ


ほら、あなたがそうやって変わらずに優しく微笑んで頭を撫でるから、いつだって支えられてばかりでいた
のは私のほうだったことにいまさら気付かされる。

あなたの優しさに甘えてばかりいた自分の愚かしさに心臓のえぐられたような痛みが走ってつい顔をしか
めたら、『あなた』はだいじょうぶ?と私の顔を覗き込んできて、そしてごめんね、なんて申し訳なさそうに呟く
のだった。サーニャの望む私じゃなくてごめん。私じゃなくなってしまってごめん、って。その言葉がまた
切なくて、私はまた声を詰まらせてしまう。
違う、違うの。大丈夫、大丈夫なのよ。
それなのに私は彼女を安心させてあげられるそんな言葉ひとつさえ言えず、首を振って否定の意を返すこと
しかできないのだ。

どうして、なんで私ばかりがこんなに泣けてくるだろう。本当に泣きたいのはあなたのほうに違いないのに、
あなたは変わらず優しいから私はつい涙を流してしまうのだった。あなたの胸にもとから宿る優しさに漬け
込むようにしてしか、自分を表現できない私に絶望する。

切なくて苦しい、申し訳なくてつらい。…この気持ちを一体どんな言葉で表せばいいのだろう。


悲しい、しか、ない。





いつも私の傍らを歩くのが常であるエイラが、不意に前に出たり後ろに下がったりすることがあった。
私はさして意識していなかったから気付かなかったけれど、今になって思い返してみたらそれはいつも階段を
『昇るとき』と『降りるとき』で。そう言えば彼女は私が階段を昇ろうとするとき一段後ろで私の背を見上げて
いたし、私が降りるときはまるでエスコートをするように一段前に出て、私に片手を差し出していたっけ。
シャーロットさんやルッキーニちゃんといった人たちが『まるでお姫様と従者みたいだ』とよく私たちをから
かって、エイラはそのたびに「そんなんじゃねーよ」とぶっきらぼうに口を尖らせていたけれど、それでも
エイラはそれをやめることはなかった。私には理解しようもなかったけれど、エイラにとってその動作は、
単なる気分的なものではなくて大事な大事な意味を持っていたのだろう。

そう、例えば私の身に降りかかる危険から、私を守る、といったこと。

もしかしたらそれは、彼女の頭の中でずっとアラートを鳴らしていたいつ達成されるか分からない虫の知らせ
のようなものだったのかもしれなかった。それとももしかして、彼女の優しさが自然にそんな行動をさせた
だけなのかもしれなくて。
そんな憶測はもうしたって仕方がないし、今となっては確かめる術も無い。
だってそれはもう理由など関係なく、起こってしまったから。不確定の未来から、確定された過去へと移されて
しまったから。

気をつけろよ。
私の半歩後ろに下がったエイラが、耳元で囁いた。起き抜けて寝ぼけたままの私はうん、と生返事でそれに
答える。昨晩は少し蒸したせいだろうか、普段よりもずっと体力を消費した気がしていた。実際私の体は
相当疲れ果てていて、普段から私の体の自由を奪う低血圧さも相まってエイラに寄りかかってやっと立って
いるような、そんな状態だったのだ。いつもとそう変わらないのではないか、と突っ込まれたらそれは否定は
出来なかったけれど、それでも私は信じたかった。このときの私はいつもよりもずっと、調子が悪かったのだと。
だからあんなことになったのだ、って。



部屋まで連れてってやるから、もう寝ろよ。
ミーティングルームにいた私はエイラにそういわれて階段を上がり宿舎のほうへ向かうことにした。もしか
したらエイラが別のところへと私をいざなっていたのなら違ったかもしれないけど、エイラがそんなことをする
とは到底思えない。エイラのすることが私にとって本当に悪かったことは、いまだかつてなかったからだ。

いちだん、にだん、さんだん、よんだん…ゆっくりと階段を昇っていく。足元はおぼつかないけれど下から
エイラが支えてくれているから私はいつも何も考えずに前に進むことができた。エイラがそばにいてくれると
いつも、その部分がほわん、と温かい。だから私は安心しきっていた。だいじょうぶ。ほら、背中が温かい。
笑顔さえこみあげて来そうな夢心地。
けど、後ろにいるエイラは一体どんな顔をしていたのだろう。そんなとき、私は彼女を振り返ることなど
なかったから知らなかった。
でも、今なら分かる。エイラはきっと、私よりもずっと、真剣な表情でそれを見やっていたのだと。それは私が
うっかり足を踏み外して、転げ落ちて怪我などしたりしないように。たとえもしそんなことがあったとしても、
自分が手を差し伸べて、助けてやれるように。

(突然襲い掛かる不幸を防ぐことは出来ないけど、備えをすることで被害を和らげることは出来るんだ──)

かつて、エイラはそう真剣な顔で語っていたっけ。彼女の大事に大事にしているタロットの、「X」のカードを
見つめながら。エイラは多分その言葉どおり行動していたんだろう。もしかしたらあの時あの瞬間『それ』が
起こりうることを知っていて、避けられない運命だと分かっていて――それでいて尚、その被害が最小限に
なるように、懸命に立ち回っていたのかもしれない。

そう、結果的に『それ』は、起こった。突然襲い掛かった、事故という名の不幸として。
エイラにとって見たらもしかしたら幾分かはマシな方向で、けれども私にとってはひどく悪い結末で。

がくり、と体が支えを失うのを感じた。
次の段へと踏み出そうとした足を踏み外したのだ。そして私はバランスを崩した。眠気と疲れとでぼんやりと
した頭の中で、ああ、これはいけないとまるで遠くから見ているかのように思った記憶がある。だって今私は
枕を抱いていて、受身をとることなんて出来ないのだ。そもそもそれが出来るような精神状態だったら、私は
きっと、そんなミスはしなかったろう。たぶん、きっと、絶対…そうだと、いい。

サーニャっ!
エイラの焦った声が、耳に届いて。けれど私にはどうすることも出来なかった。

踏み外した場所は踊り場の直前、背後に続いているのは十数段もある階段。
ぐらり、と視界が巡って、天井を映して──このまま落ちるのかしら、まあ死ぬことはないだろうと、高を括った
瞬間体がぐいと引き寄せられて、柔らかく包み込まれた。そしてそのままその柔らかい何か越しに階段から
転げ落ちる感覚。ぐるぐると遠心力がかかるけれども何も見えない。そして痛いところはどこもない。
それが手に抱いた枕と、私を包んだその柔らかい何かとがクッションになってくれていたからだと気付いた
のは、ずっと後になってからだった。つまり、そのときは気付かなかった。

数段飛ばして勢いよく転げ落ちたのだろう。最後にどん、と大きな振動が走って、すべてが停止した。
どうした、何があったんだ、大丈夫か。
遠く、遠くでざわざわと、慌しく近づいてくる音がする。
どうしたの?なにがあったの?
聞きたいのは私も同じだった。それさえもうまく判別できないまま、私をぎゅうと強く抱きしめるエイラの腕の
中で、私の意識は霞みがかったように霧散していった。ああ、エイラにだきしめられてる。柔らかい、温かい、
いい香り。

それが悲劇の始まりだなんて、その幕を開いたのが私だなんて、気付かないままに私は眠りにつく。
だってエイラの体はいつもと同じように温かかったんだもの。寄りかかってばかりの私は彼女が私にしてくれた
ことなんて何も省みずに、彼女の腕の中で温かい夢を見ることにしたのだった。






ふわり、と漂う消毒液の香りが鼻について、私はうう、と身じろいだ。目が覚めて見渡すと、すぐに芳佳ちゃん
やリネットさんが駆け寄って私の手をとって言う。

「あ、サーニャちゃん!」
「サーニャちゃん、大丈夫!?」

すぐ隣で別のベッドを囲んでいた隊のほかのみんなも、二人の声でこちらをみた。そしてほ、とした表情を
浮かべた後また困ったように目を落とす。どうしたのだろう?首を傾げても何か言いにくいことでもあるのか、
みんな顔を曇らせたまま。

「目、覚めたのね。…一応聞いてもいいかしら?名前と所属、階級を教えて頂戴」

手に帳簿を持ったミーナ中佐がやってきて、しゃがみこんで私に視線をあわせるとそう尋ねてきた。どうして
ですかとばかりに首をかしげると、少し困ったように淡く微笑んで中佐が重ねる。

「気にしなくてもいいわ。ただ、あなたとエイラさん、階段から転げ落ちて──外傷はないけど、頭を打った
かもしれないから」

階段から転げ落ちた――そこでようやっと、話が見えて来た気がした。そうだ、わたしたちは。
けれど考えるよりも前に、ミーナ中佐の目が私を捕らえたから、私はひとまずその質問に答えることにする。
忘れるわけがない。私の名前と階級と、所属は。

「──…サーニャ・V・リトヴャクです。オラーシャ陸軍中尉、現在は第501戦闘統合航空団に所属しています。」
「はい、次。お父さんのご職業は?」
「音楽家。…ピアニストです」
「問題ないわね、良かった…」

目を微かに潤ませた中佐が私の肩に手をポン、と置いて安心したように笑った。そして振り返って上を見上げ
る。良かったな、ミーナ。かかるる声はバルクホルン大尉のものだろう。あとはエイラだな。少佐が視線を
めぐらせた向こうにいた坂本少佐がそれを受けて、もとあった場所に視線を戻す。
…えいら。そうだ、エイラだ。

「…エイラッ!エイラは、エイラは……っ!!!」

いまだ残る体のだるさや眠気なんてもうどうでもよかった。がばりと起き上がって彼女を探す。エイラがいない。
いつも私の隣にいる、いてくれる、優しい優しいエイラがいない。ぽっかりと空いた隣が寒くて、鳥肌が立った。
でも何となく内心感づいてもいた。この悪寒は単なる寒気に起因するものではないと。
エイラはどうなったの?記憶を振り返る、掘り起こす。あの時のわたしは自分でもそうと言い切れるほど
おぼろげな意識をしていたはずなのにどうしてだろう、私は私がそのとき見ていた景色を色鮮やかに思い
起こすことができた。そうだ、私たちは階段を昇っているところで、私が足を踏み外して──そうだ、それを、
エイラが抱きとめてくれたのだった。そしてそのまま。

「エイラッ!!」

驚きに身じろいだみんなの向こう側、隣りのベッドの膨らみに横たわっているその姿を認めて、文字通り
転がり落ちるような勢いで自分の寝ていたベッドから降りて彼女の下へと急いだ。私をかばって緩衝材に
なった、愛しくて大切なたったひとりのひと。

「エイラ、エイラ…っ!!!」

淡く黄味がかった銀色の髪と同じ色をしたまつげが、その向こうにある淡い青い瞳を覆い隠すように伏せ
られている。真正面から彼女を見下ろして、何度も何度も名前をよんだ。エイラ、エイラ、エイラ、エイラ!
信じたかった。そうしたらエイラがパチリと目を開いて、どうして泣いているのと困った顔をして慰めるように
頭を撫でてくれると。そして信じたくなかった。頭をよぎった最悪の展開を、どうしても否定して欲しかった。

「…落ち着くんだ、サーニャ。」

それだのに、頭に乗せられた手は望んでいたそれではなくて、私は身動ぎさえしない彼女を目の前にして、
力なく毛布の上に乗せられた彼女の手を握り締めることしかできなくて。

「…エイラは強く、頭を打っていた。サーニャ、お前を守ったんだ」

わかってる。そんなことわかってるんです、坂本少佐。答える代わりに何度も頷く。握り締めた手の温かさが、
確かに血の通っていることが、私にとって唯一のよすがで。
縋るように振り返って芳佳ちゃんを見たら、首を振ってうつむかれてしまった。私にはどうにもできないの。
ごめんね。そんな気持ちを如実に表したその態度に、自分の浅はかさを思い知る。

優しく頭を撫でる手が、ひとつ、ふたつ、みっつ。ぎゅうと横から抱き締められて、ぽつり、とゆっくり囁かれた。
元気出して、さーにゃん。目の端に映る黒くて長い髪。シャーロットさんとハルトマン中尉がベッド越しに私の
顔を覗き込む。

「今夜はわたくしが哨戒を代わって差し上げますから、サーニャさん、あなたはもうしばらく体をお休めに
 なってはいかがかしら…?」

伺うようにペリーヌさんが言うと、うんうん、と芳佳ちゃんとリネットさんが頷いた。でも、と言いよどむと、「隊長
命令よ。そう言うことにしておいて」と頭の上の手が一つ、肩の上に再び乗せられた。
みんなの優しさが温かい、柔らかい。でも、それなのに私は傲慢で、みんなの温かさにこんなにも包まれて
いるのにたった一つの人の温かさが欲しかった。

わたしのせいだ。
目覚めたエイラにそういったら、エイラはなんというだろう。「バカだなあ」と笑い飛ばして、「なんてことないよ」
って、慣れた手つきで柔らかく、私の手を撫でてくれるのかしら。想像するだけで恋しくなる。こんなに近くにいる
のに、ひどく遠く感じるエイラ。早く目を覚まして、私に笑いかけて。ごめんなさいと言わせて。

このときの私もまた、それが悲劇のはじまりの、そのまたはじまりにすぎないのだなんて知らなかった。
エイラが目を覚ましたらそれですべてが解決する、なんて悠長に捉えて、ただそのときの悲しみにくれている
ばかりで。

エイラが目を覚ましたのは、その次の日。
私は自分のベッドを抜け出して、祈るように彼女の手を握って眠りについていた。離すまいとぎゅっと握り締めて、
彼女が目を開いたとき一番に気付くことが出来るように。

白亜をしたその部屋の壁は、光をとてもとてもよく反射するのだった。
昇った朝日が窓から部屋に差し込んで、壁に反射して、部屋全体を明るく照らしていく。
その光に揺らされるようにして私はとろとろと目を覚ました。腕が痛い。どうしてだろう、と思って視線をめぐら
せるとそこは見慣れたエイラの部屋でも、私の部屋でもなくて。くゆる消毒液の香りにここが医務室であること
を知る。そして痛む手のその向こうには。

「エイラ…」

私はかけられた毛布から伸びた、真っ白い手の一本を握り締めていた。伝わる温もりにほ、と息を吐く。その
温かさだけが彼女がまだこの世に在るという証で、私にとっては確かなよすがだったから。けれど同時に悲しく
もなる。存在しているだけなんて、なんて虚しいことだろう。彼女の笑顔が恋しかった。ねえエイラ、ほら、
せっかくこうして私から手を握り締めてるんだよ?いつもみたいに真っ赤な顔をして、でも嬉しそうにそっと
握り返してよ。じゃないと、わたし。

(ごめんなさい)

けれども本当に、一番に、欲しいのは彼女の許しの言葉なのだった。私のせいでエイラはこんなことになった。
みんなはそんな私を懸命に慰めてくれたけれど…足りない。満ちるわけがない。ううん、問題はそこじゃなくて
…とにかく私は、エイラに許されたかったのだった。彼女に許してもらわないと、私の罪は消えてなくならないの
だから。もしこのまま目を覚まさなかったなら?そう、思ったら怖くて怖くて仕方がなかった。それなら私も消え
てしまいたい。彼女がいなくなったら生きて行けない、なんてほどのことを考えているわけではなかったけれど、
少なくとも彼女を喪った責任を背負って生きて行けるほど、私は強くなかったのだ。

そんな身勝手なことばかりを考えていたから、実際私はとても、とても嬉しかったのだった。
そう、それは私が呼び掛けたその瞬間にエイラが微かにみじろいだから。うう、とうなって一度目を固くつむって。
だから私はがばりと起き上がってその手を強く強く握り締めた。エイラ、大切なエイラ。理屈なんて後回しで、
どうしようもなく嬉しくて。涙が込み上げた。よかった、よかった。

そして、たぶん。
そんな風に泣く私を見たらエイラは笑って、慣れたいつもの素振りで頭を撫でてくれるのだろうと思っていた。
そう信じて疑う理由なんて、私の中にはなかったのだもの。

ぱちりと目が開かれる。以外に長いまつげが揺れて、あけぼのの空のような瞳が真っ直ぐに私をとらえて。
今は少し薄い色をしている形のいい唇から、私の待ち望んだ音が漏れる――はず、だった。

(さーにゃ)

って、そう。けれども彼女の口から紡がれたのは、それとは全く別の言葉で。

「…おまえ――だれ?」

私はエイラに抱き付く寸前だった。エイラの特徴的な調子の声が私の名を呼んだなら、私はまた、いくらでも
彼女に甘えていいのだと思っていたから。すがりついて頬を寄せて泣きじゃくって、困ったようにおろおろするの
であろう彼女に伝えようと思っていた。ごめんなさい。ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい、って、そう。
けれども予想だにしなかった彼女の言葉に私はひどくうろたえて、二の句を無くしてしまう。怪訝そうな視線が
固く握り締められた手に移ると、どうしたらいいのかわからなくなってぱたりと手を離してしまった。

「…見ない顔だな。…新入り?」

かしげた顔は、幾分険しかった。まるで品定めをするかのように上から下まで私を見やる。そして、もう一度
同じ言葉を口にするのだ。おまえ、だれ?
「エイラ…?」
思わず呼びかけた。だって、呼んで欲しかったから。いつもと同じように、私のことを「サーニャ」って、目一杯
の親しみと愛情のこもった、どこか舌足らずなこの声で。じょうだんだよ、ごめんね。そう言って笑っていって
欲しかった。


「隊長から聞かなかったか?…隊長も"エイラ"で紛らわしいから、私のことは"イッル"って呼べって」
「…いっる?」
「私はエイラ・イルマタル・ユーティライネン、だからイッル。隊長はエイラ・ルーッカネンだろ?」
「…隊長は、ミーナ中佐じゃあ…」
「はあ?なに言ってんだおまえ?」

どこかつっけんどんなその物言いに私は覚えがあった。そうだ、それは私が彼女とまだそれほど親しくなくて、
一緒に過ごすこともまだなかった頃の。
ごめんな、と後で何度も何度も謝られたっけ。言い訳なんてしても仕方がないけど、どうしたらいいのかわから
なかった、って。
ぺこぺことしているエイラを傍目で見て、シャーリーさんが笑って言っていたっけ。"スオムス人は人見知りで
有名だからな"と。あたしに謝罪の言葉はないのか、と絡むシャーリーさんに「お前に言う言葉なんてないね」と
朗らかに笑っていたエイラ。最初人見知りな分、親しくなると本当に気の置けない仲になれるのだと、あとで
またシャーリーさんが耳打ちしてくれたっけ。

(つまり、それはさ──)

そこまで言ったところで、「何話してんだ!」とエイラが口を尖らせたのでその話は頓挫してしまったけれど、
けれども彼女が一体何を言いたかったのか、私にはなんとなく、希望のような憶測として分かる気がしていた。
ようするにそれは、エイラが私に対して心を開いてくれたということなのだと。
人見知りをするスオムス人のエイラが、にっこりと笑いかけて話しかけてくれて、部屋に招き入れたり一緒に
紹介に出かけたりしてくれると言うことは、要するにエイラが私を自分の線の内側へと入れてくれたということだ。
長い腕で私を抱いて、その深い懐に抱きしめてくれたということ。

友達ですか、私たちは。
口にしたことはないけれど、彼女なら「当たり前だろ?」とまっすぐ答えてくれるのだろうと思った。
お父様と、お母様と、音楽と。月と、星と、暗闇と。
そればかりだった私の隣に、そうして平然と立ってくれた。

「えい、ら…」
「お、おい!?」
「えいら、えいら、えいら、えいら…」
「な、なんだよ、どうしたんだよ、お前!」

それから私たちはたくさんの時間を一緒に過ごして、笑って、時には泣いて、ちょっぴりけんかもしたりして。
それでもどんなときにも一緒にいて、望めば望むだけ、エイラは傍にいてくれて。いつしかそれは当たり前に
さえなっていて。
それなのに、それなのに。この人は今、それらすべての思い出がなかったかのような顔をしているのだ。
なんで?どうして?

(頭を打ったかもしれないから)

私が目を覚ましたときの、ミーナ中佐の言葉が蘇る。あの時中佐は私の名前と、階級と、所属とを聞いた。それ
は階段から転げ落ちて頭を強く打った私たちに起こりうる、ある事態を想定してのものだと分かっている。
そう、それはつまり。

「──私は、オラーシャ陸軍中尉、アレクサンドラ・ウラジミーロヴナ・リトヴャクです。」
「オラーシャの、中尉…?」
「貴官の名前と階級と──所属を、教えなさい」

ともすれば緩んで、熱いものがこみ上げて来そうになる涙腺を必死で押しとどめた。そして直立の姿勢をとって
彼女を見下ろす。中尉なんて形ばかりの階級だった。仕官訓練を終えたばかりの私はここに来る前までは
彼女と同じ少尉で、ブリタニアのウィッチの中では一番優秀だとかいう理由でこの部隊に送り出されたのだ。
年齢と実力にそぐわないものだとわかっていた。だから今までそれを傘にしたことも盾にしたこともなかった。

──それなのに今、私はその立場を利用して彼女に上官として『命令』を下している。私よりも長身で、年上の
この人に。

「…エイラ・イルマタル・ユーティライネンであります。階級は飛行長です」
「ひこうちょう?」
「ええと、通称だと、准尉」
「…少尉じゃ、ないんですか?」

ふるふると首を振る。どうしてだ、と言わんばかりの顔をしている。ううん、きっとエイラの顔に浮かんでいる
のはそれに対する疑問だけじゃないんだろう。もしかしたら目に映るすべてが、聞こえるすべてが、彼女に
とっては摩訶不思議なものなのだ。

「いえ、気にしないで下さい。…所属を」
「スオムス空軍飛行第24戦隊、第三中隊のルーッカネン分遣隊所属です、マム」

彼女の言葉を聞けば聞くほどに、胸の奥でくすぶっていた不安が明るみに出てくるのだった。しかも、それは
彼女もまた同じようで私が質問を重ねるたびに不安げに瞳を揺らしている。
唇をかみ締めた。だめよ、サーニャ。私はこの人よりも上官なんだから。しっかりしないといけないんだから。
准尉だといっていた。つまりそれは、彼女が兼ねてから言われていたとおり腕っこきのエースであることを意味
している。"下士官の総帥"なんてそうそうなれるものではない。実力では確かに彼女のほうがずっと私を
上回っているのだろう。けれどとにもかくにも私はこの人よりも階級が上なのだ。私がちゃんとしていないと、
不安に思うのはこの人なのだ。

「エイラ・イルマタル・ユーティライネン准尉」
「はい」
「……っ」

けど、でも。

「エイラ…っ」

だめだ。
涙がぼたぼた、情けないくらいに溢れて流れて落ちる。エイラがぎょっとした顔をした。焦ったように手を動かす。
ええと、だから、あの、その。人差し指をくっつけて動かして、何かを説明しようとするけれどなんの意味も成さない。
結論なんて一つしかなかった。もう分かりきっていた。

「私のこと、忘れちゃったの…?」

…私は医者じゃない。治療のエキスパートでもない。けれど、こういったことがどういう名前をしているかは
知っている。
この人は私と、私との思い出を失ってしまった。

それは、記憶喪失というのだって。
顔を覆う。しゃがみこむ。もう何も見たくない、聞きたくない、目の当たりにしたくない。だってこれは私のせい
なんだもの。目を覚ましてくれればそれでいい、と思っていた。本当にそれだけでいいと思っていたのに。私は
愚かにも、その事態を全く想定していなかったのだ。

…しばらくして、ふわり。私の頭に何かが触れた。顔を上げると体を起こしたエイラが私の頭をぎこちなく撫でて
いるのだった。もうすっかり手馴れたものではなくて、まるで初めて扱うかのように。
「…ここは、どこなんだ?」
平坦で、けれども穏やかな口調が耳に届く。何かを諦めたようなその口調にまた、何かがこみ上げる。

「ブリタニア…」
「スオムスじゃ、ないんだな」
「…うん」

そっか、と小さく呟かれた。通りで明るいはずだよ、と茶化すように続けるのがあまりにも切ない、悲しい。
気を使われているのがありありと伝わって悲しかった。かなしいしか、なかった。

「お願いがあるんだ、中尉。」
「…なんですか?」
「──私の"今の"隊長を呼んできてもらえないかな。話をしたい」

あやしつけられるように優しく囁かれて、申し訳なさでいっぱいになる。歪んだ顔で彼女を見つめたら「大丈夫」
と言わんばかりにぎこちなく、けれども確かに微笑を与えられて私は無意識に頷いた。
出会ったばかりの頃のことを思い出す。お互い言葉すくなで、私の代わりにストライカーの整備をするエイラの
横で、私はぼんやりとずっと、その横顔を眺めていたのだっけ。あの頃はいつだってビクビクとしていた。いま
ではそれが、当たり前になった。

ねえ、かみさま、かみさま。
これは私への制裁ですか。傲慢になりすぎた私への。…でも、なんでエイラがこんな目にあわなければいけ
ないの?この人は何ひとつ悪くないのに。





「名前は」
「エイラ・イルマタル・ユーティライネン」

「階級は」
「准尉」

「所属は」
「スオムス空軍飛行第24戦隊、ルーッカネン分遣隊」

「…今は何年?」
「1942年」

「…年齢は?」
「じゅうさん」

質問を重ねていくほどに、ミーナ中佐の顔が沈んでいく。助けを求めるように坂本少佐を見やるけれども、
その坂本少佐も表情を曇らせているばかり。
医務室の外はてんやわんやだ。「キオクソーシツってほんと!?」とか「あかちゃんになっちゃったんだって?」
とか、事実と虚実が入り混じった噂はすぐに基地中を駆け巡ったらしい。そんな扉の外を見てエイラがちょいと
顔をしかめる。「なんなんだよ、もー」。呟くのは本音なのか冗談なのか。いつもならなんとなく分かるはず
なのに、今はもう分からない。

「申し遅れてしまったけど…私はカールスラント空軍のミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ。階級は中佐よ。今は
 この、連合軍第501統合戦闘航空団の隊長の任についているの。」
「だい、ごーまるいち…あの、ブリタニアに新設されたっていう?」
「そう。通称ストライクウィッチーズ、よ。今は1944年。エイラさん、あなたはここに配属されてからの記憶を
 失っているのよ」
「…ははは、まじかよ…なんで…」
「階段から転げ落ちたのよ。きっと頭を強く打ったんだわ」
「そうじゃなくて!!」

突然声を荒げたエイラにびくりとする。私がそうして見やっていることに気付くと、慌てて首を振って笑顔を
作ってくれた。けれどもそれも、一瞬だけ。

「…その話、私は蹴ったんだ。スオムスに残るからイヤだっていったんだ。…だって、私はスオムスを守りた
 かったから」
「エイラさん…」
「今日も、隊長とそのことでケンカして…いや、私が一人で駄々こねてただけだけど、それで、ニパになんか
 言われて、不貞寝して…」

それで、なんで。
手を握り締めて、開いて。そうしてはあ、とエイラはため息をつく。彼女の手はこの2年で大きくなったのだろうか。
自分の手なのに見慣れない。そう思っていたりするのだろうか。
握り締めたい、と思った。私は彼女のほっそりとして、長い指が大好きだったから。握ったらエイラはいつも顔を
真っ赤にしていたけれど、それでもそれを許してくれたから。

「…とりあえず、あなたの原隊と連絡を取ります。それまでしばらくは、絶対安静にしましょう」
「…はい」

ミーナ中佐とエイラのそんなやり取りをぼんやりと見つめる。緊張しているのだろうか、少し固まった表情が
とてもとても切ない。だってエイラはどんなときだって、自由自在に笑みを浮かべることが出来る人なのに。
そうして私にいつも元気と勇気をくれる人なのに。

「出ようか」
「お願いします」
「…まあ、あまり気にするな。ゆっくりするといいさ、たまには休むのも必要だからな、はっはっは!」
「はい…」

少佐のいつもの豪快な笑い声も、上手く病室には響かなかった。固い笑顔を浮かべ続けるエイラを心配そうに、
坂本少佐が切なげに見つめる。黙ってミーナ中佐がそのすそを引くと、はっとしたようにきびすを返した。
サーニャ、いくぞ。そして私に呼びかける。

「私は──」

答える前に、もう一度エイラを見やった。金色のような、銀色のような、不思議な色をしたその髪。さらさらと
背中の後ろに伸びている。白い肌も、曙の空のような瞳も、長いまつげも、全部、全部、私の知っているエイラ
そのままなのに。

「ここに残っては駄目ですか」
「…そっとしておくのが一番よ。今はいろいろと混乱しているでしょうし」
「でも」
「サーニャ、心配するのは分かるが──」

私を知っているエイラは、中身だけごっそりと消えてなくなってしまっているのだった。無邪気だったり、恥ずかし
そうだったり、嬉しそうだったり、幸せそうだったり。そんないろいろな顔で私の名前を呼ぶエイラは、今は私の
名前さえ分からない。
…けど、でも、それでも。

「エイラ…准尉。駄目ですか?」
「わ、私は…べつに…」

理由なんて分からない。単なる罪滅ぼしなのか、それともわがままなだけか。
とにかく私は今、目の前で不安に瞳を揺らすこの人を、一人にしておきたくないと思ったのだ。


幕間:0916

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