無題
ねえ、リーネちゃんはエイラさんと仲が良いの?
どこまでも純粋でまっすぐな私の想い人のその突然の発言は、私を恐ろしくうろたえさせた。よく考えたらうろ
たえることでもなかったのに、むしろうろたえるほうが不自然だったのに、私はうろたえざるを得なかった。
えっと、あの、それは。言いよどむ私。どうしたの、具合悪いの?首をかしげて尋ねる芳佳ちゃん。
私はごまかすようにはにかんだ。ちょっとだけ。でも大丈夫だよ。否定したら嘘になるから仕方なしに肯定する。
風邪かなあ、なんて芳佳ちゃんが言うから、たぶん違うよ、とだけ返す。…だって、私の体が気だるいのは、
昨晩もやはり、私はエイラさんとその行為に及んでいたからだもの。
そして何の含みもないと思われたその問いに上手く答えることが出来なかったのもまた、その事が原因として
あった。
「…そこまでじゃないよ。仲良しとか、そう言うんじゃ。」
尋ねられたのは、私の部屋の前でのこと。けれどようやくその答えを導き出したらそこはもう食堂の前だった。
まだ食事の時間には早いから、そこには誰もいない。私たちはこれから朝食の準備をしなければいけないのだ。
問いに答えたきり押し黙ってしまった私を芳佳ちゃんが心配そうに覗き込む。大丈夫?休んでていいよ?そんな
優しい言葉をかけてくれるのは、彼女が何も知らないからだ。どんなことでもまっすぐにぶつかっていく、そんな
芳佳ちゃんの力強さを、素直さを、私はとても、とても、愛しいものだと思う。心強いものだと思う。
(どうしてそんなことを聞くの?)
尋ね返すのは、怖かった。だからできなかった。だって彼女の笑顔ときたら一点の曇りもなく澄んでいて、きっと
言葉を投げたなら彼女の本音そのままの気持ちが返されてくるに違いないと思ったから。それが果たしてどんな
形をしているか、私には見当のつけようもない。
あの夜の営みとも言えない行為以外は、私とエイラさんは特に仲が良い素振りをするわけでもなく、かと言って
必要以上にお互いを避けあうわけでもなく、まるで絵に描いたような『普通の同僚』としてこの基地で共に過ごして
いる。もっとも、エイラさん自体がもともとサーニャちゃんにつきっきりで、そしてかなり不思議な言動の目立つ節
があるから、彼女にとって一体何が普通であるのか、今日は普通でないのかなんて私にも他の隊員にも知り
ようがないのだけれど。
一番最初、弾みのようにそれをした次の日は流石にうろたえもしたけれど、あまりにもエイラさんがけろりとした
顔をしているものだからもう隠すことに慣れてしまった。エイラさんは嘘つきだ。本当は思い悩んでたって、平気で
笑うことの出来る人。苦しさの中から楽しさをひねり出すことの出来る人。
だって、あの人はいつも平気な振りをしているくせに、夜の格納庫で私の姿を認めた瞬間、突然泣きそうな顔に
なる。被っている能面を剥がしたかのような、感情のタガをはずしたかのような、そんな子供のようなすがる目で
私を見やるのだ。
頭の中で何かがガラガラと崩壊していく音がした後はお決まりのコースだ。その腕を引っつかんで、部屋につれ
こんで、押し倒して唇を奪うだけ。それはもう衝動に近くて、半ば本能のようでさえある。私の前では余裕綽々で
笑っている彼女をあんなに打ちのめすのは、世界中でたぶんあの子一人だけだと私は知っている。けれどあの子
はそれに気付かないから、あの人はそれを一人でもてあますしかないのだと。
憧れる理由なんていくらでもあった。そう歳も変わらないはずなのにあの人は私よりもウィッチとして、人として、
ずっとずっと勝っていて。そのくせそれをひけらかすことなくあっけらかんと笑って私にさも当然のことのように手を
伸べてくれた。
けれど欲したその理由はたぶん、それだのにこの人が本当はこんなにも弱いことを知ったから。大好きな子に
そのことひとつ伝えるのにも戸惑って迷って悩んでふさぎこむ。その姿に私は微かな微かな、愛しささえ感じた
のだった。
私がそれ以上何も言えずに淀んでいると、芳佳ちゃんは「そっかー」と一人納得したように呟いて私の手を握って
引く。昨日の晩私があの人にしたのとは全然違う、包み混むような優しい優しい手のひら。触れたそこから勇気が
伝わって、とくとくと力づけてくれるかのような。芳佳ちゃんの手の温もりは、とても不思議な魔力を持っていると
私は思う。彼女のひたむきさを見ていると、何だか私はひどく救われた気持ちになれるのだ。
「いこ?おいしいご飯作らなくちゃ。」
彼女が浮かべるその笑顔に、エイラさんの笑顔を重ねて見る。全然違う、その笑顔。私に安らぎと勇気をくれる
ものと、私の心をかき乱すもの。そう、全然違うもの。
「うん、そうだね、芳佳ちゃん。」
私も微笑んでその手を握り返す。私のそれよりも小さな小さなその手のひら。私はこの子にどんな感情を抱いて
いるんだろう?好きだよ、すごく好きだよ。一緒にいると楽しいの。どきどきするの。もっとずっと、一緒にいたい
と思うの。…ねえ、それなら私はエイラさんを、何だと思って抱かれているんだろう?まるでスイッチが切り替わ
ったように、感情が入れ違う。私は私なのに、私はもう片方の私が分からない。
*
エイラさんとサーニャちゃんが食堂に入ってくるのは、いつも決まって最後のほうだと私たちはよく知っていた。
二人ともどちらかというと小食のほうだから、その頃には私たちも大方の片付けを済ませて一緒にテーブルに
つくのが常で。
ほら、今日もテーブルに4人分の朝食を用意して耳を澄ませばあのとてとてと言う不思議な足音が聞こえてくる。
半分眠って頼りなく歩くサーニャちゃんを支えるようにして、そのすぐ傍らにエイラさんがいる。しょうがないなあ、
と繰り返しているくせに、顔は不思議とにやけているエイラさん。夜のあの悲しそうな顔は私の幻想なのでは
ないかと思えるような、ああもうなんて幸せそうな表情。
昨日の今日でそんな笑顔を浮かべることが出来る彼女を恨めしく思う。だっていつもいつもそんな顔をしていて
くれれば、私だってあなたが欲しいなんて思わないんですよ、たぶん、きっと。責任転嫁だって怒りますか?いっそ
のこと怒ってくれてもいいのに、あなたはそんな狡い私を決して咎めない。
「さーにゃぁ、」
少し目を離すとがくりと崩れて、ぽろりと料理を取りこぼしそうになるサーニャちゃんを見て『いつものように』、
エイラさんが情けない声を上げた。食堂にいる他のみんながくすくすと笑う。けれどエイラさんはサーニャ
ちゃんに一生懸命でそんなことには気付いていない。ああもうしょうがないなあ。ほら、私が食べさせてやるから
口開けろよ、今日だけだかんな、あーん。
「相変わらず仲良しだねえ」
肩をくすめて芳佳ちゃんが言う。みんなも同じように口許を緩ませている。なかなかみんなと同じ時間を過ご
せずにいるサーニャちゃんを、それでも気にやむことなくいられるのは、こうしてかいがいしく世話を焼く一人の
人がちゃんといるから。まるで親鳥と雛のような睦まじいやり取りは、お皿の上のものがすっかりなくなってしまう
まで続くのだ。それまでそこは二人の世界。神聖不可侵な、絶対領域となる。どうしてこの人と来たら、恐ろしい
ほどの恥ずかしがり屋さんの癖にどうしてこういったことは臆面も無く出来てしまうのか、私には全く分からない。
そうだね。にこやかな笑顔でそう返すことにももう、慣れてしまった自分がなんだか悲しい。
ちゃんと30回噛めよ、とか、好き嫌いはだめなんだからな、とか。まるで幼い子供を相手にしているかのように
エイラさんはサーニャさんにいつも言う。サーニャさんも黙ってされるがままになっている。もしかしたら寝ぼけて
本当に聞いていないのかもしれないけれど、それは違う、となんとなく私は勘付いていた。サーニャちゃんはきっと
嬉しいのだ。そうやってエイラさんに世話を焼いてもらえることが。エイラさんにべたべたに甘えて、エイラさんに
わがままを言って、エイラさんを独り占めする。年の割には大人びた容貌と言動をしている彼女は時にそうやって
子供っぽいところをさらけ出す。エイラさんだけに、特別に。
一見するとなんの問題もない美しいその光景。ベクトルはきれいに伸びてつながっていて、光あふれて眩しい
くらいで。
けれど私はその陰りを知っていた。知らないはずがない。だってそれを作り出しているのは紛れもない私なのだ。
微笑ましい目の前の様を見やりながら私はいつも後悔するのにどうしてかそれをやめることができない。彼女
との関係をずるずると引きずっている。愚かだと知っていても、抗えないのが本能だ。
そうしてのろのろと食べていくものだから、最終的に食堂に残されるのも結局私たちとその二人で。けれども
二人は全く頓着しないのだった。…もっとも、人が残っているところで食べ終えてしまった場合は周りの視線に
気がついた瞬間にエイラさんが顔を真っ赤にして「ソンナ目でみんな!」と騒ぐのだから、そのほうがどちらに
とっても良いのかもしれないけど。
そしてその頃私と芳佳ちゃんはキッチンに戻っていて、みんなの下げた食器を洗ったりしている。
「ごちそうさま」
「あ、そこおいといてくださいー」
「おー」
そんなやり取りをエイラさんと交わす。美味しかったよ、なんて付け加えて笑うから、「ありがとうございます」
なんて返してみる。お互いに、いつものそれとなんら変わらない声の調子。無意識に手を止めて、私は彼女の
首元に、そこから続く左肩に目をやった。シャツの下に隠れるように、器用につけたキスマーク。私が果てた数
だけ噛み付いた、まだ絶えたことの無い肩の歯型。誰にも言えない明かせない、私たちの関係の証。
「…サーニャちゃんは?」
「眠そうだから置いてキタ。皿置いてくるだけだし。…手伝うカ?」
「大丈夫ですよ」
そっか。ぽつりと返したからきびすを返すのかと思ったのに、どうしてかエイラさんはそうしなかった。何をする
でもなしに私の目の前に立って、たぶんうつむいたままの私の向こうを見ている。
「…あの、リーネ」
「リーネちゃーん!」
何かを言いよどんでいたエイラさんがようやっと口を開いたところで、私を呼びかける声。誰かなんていちいち
確かめる必要さえない。芳佳ちゃんに決まってる。こっちは大体終わったよー、と、私とエイラさんとちょうど
三角形を描くように立って、私の方を見てそう言った。そしてすぐにエイラさんの存在にも気がついて、そちら
にも微笑みかける。
「あ、エイラさん。どうしたの?」
「ん?ああ、私今日午後からだから、手伝おうかと思ってサ」
「そうなんだ、ありがとう!でも大丈夫だよ。ねえリーネちゃん、洗う食器はもうこれだけだよね?」
「う、うん!」
芳佳ちゃんの言葉にはっとして、エイラさんからお皿を受け取る。受け取って、シンクのほうに歩き出したら呼び
止められた。けれどすぐ、芳佳ちゃんの声が重なって。
「あ、リーネ!自分のだし自分でやるヨ!」
「いいよいいよー」
…さっき、エイラさんは一体何を言いかけたのだろう?私の体を心配したのだろうか、それとも何か別に言いたい
ことがあったのだろうか。彼女の気持ちはつかめない。全く以って分からない。…だって、私が『鍵』を手に入れた
のだって全くの偶然で、私自身が何か働きかけをしたからではなかったから。思いながら歩を進める。
「それに、エイラさん──」
芳佳ちゃんの声が続く。どうかしたのかしら、と耳を澄ます。い、と、微かなつぶやきが漏れたのを聞いた。
「肩、怪我してるでしょ?」
かばってるみたいだから。大丈夫?続く言葉につい、足を止めた。気付かれてた。嫌な予感に冷たい汗が体を
流れる。――考えて見ればそうだ。治療のエキスパートである彼女がそれに気付かないわけがなかったのだ。
そして、治癒の固有魔法を持つ彼女が次に使う言葉と言えば。想像して、心臓がどくりと音を鳴らす。
そしてそれは、直後に現実となった。
「治そうか?」
聞いた瞬間、なりふり構わずきびすを返していた。手が握る力をなくして、ガシャン!!何かが床に当たる大きな
音。拍子にぴりり、と足に走る痛み。けれどもそれに構っている余裕なんてない。足早に駆け寄って、こちらを
振り返って目を丸くしている芳佳ちゃんの手を、エイラさんの肩に乗せられていた手を、いささか乱暴に振り払う。
カチリと音はしなかったけれど、多分その瞬間スイッチが切り替わった。
「やめて…っ!!!」
自分で口にした大声に、私は自分で内心驚いた。けれど止まらない。やめて、私の場所を奪わないで、芳佳
ちゃん。それを失ったら私は一体何になれるの?一体何でいられるの?こんな矮小で脆弱で何の役にも立て
なかった私に唯一居場所をくれたもの。傷一つ無いこの人に、傷をつけるというその仕事。あの行為が愛でも
恋でもないなら、それは私の存在意義だった。中身は空虚だっていい。そこに意味が無いとしても、その行為
自体は私の中の空っぽな部分を満たしてくれた。優しい優しいエイラさんは、身に持て余した優しさを、愛の
ようなものとして注ぎ込んでくれたから。
「リーネ、」
やけに冷静な声が響いたと思ったら、エイラさんもまた、目を見開いて私を見ていた。けれど芳佳ちゃんの
それとはまた別の色を持っている。深い深い蒼。淡いのに、吸い込まれてしまいそうな不思議な色。先ほど
までとは違う感情が入り込んできて、もっともっと訳がわからなくなる。
ねえ、どうしてあなたは今、そんなに悲しそうな顔をしているの?
「リーネちゃん?」
重なる芳佳ちゃんの言葉にようやっとはっとする。あれ──…私は、今、何をした?芳佳ちゃんが自分の右手を
抑えていて、エイラさんの手は自分の肩を抑えていた。その真ん中で私は、芳佳ちゃんの手を振り払ったその
ときの格好のままで突っ立っているのだ。
熱くなっていた頭がさあっと冷えて、固まって何も考えられなくなる。
なにか、何か言わなくちゃ。思うのに何も言葉が出てこない。頭の熱さを吸い取って、目尻から何かがこぼれ
出た。
「…やめて、消さないで。消さないで、よしかちゃん」
もう一度、掠れた声で呟く。他には何も言えない。何も考えられないから、本音ばかりがこぼれでるのだ。
それは私にとって意味のあるものなの。消えてしまったら、私はなぜどうしてここにいていいのか分からなくなる。
芳佳ちゃんが好きだよ、今はすごく。だけど愛されていないと苦しいの。だからこの人に愛されたいの。
「リーネ、」
エイラさんがまた、私の名前を呼ぶ。行為の最中は全くと言っていいほど口にされないその響き。…もしかして
私は、誰かの代わりに彼女に抱かれているのかもしれなかった。それでもいい。愛も恋もなくていい。そんな
ものなくたって、私は勝手に見出すことが出来るから。
…けれど。
エイラさんの手が私の頬に伸びて、その涙を拭おうとするその前に私は駆け出した。割れた皿も惚けたままの
芳佳ちゃんも放り投げて、エイラさんの手を振り切って。
ねえそんなに優しくしないでください。こんなに明るい光の下にいると、私の陰りは濃くなってしまいます。暗い
夜はあなたもその下にいるから私は自分の陰を見なくて済むけれど。
*
ぱたり。扉が閉まると、無音の部屋が迎えてくれる。ふらふらと奥まで行って、ベッドに倒れ込んだ。すう、と息を
吸い込んだら微かにエイラさんの残り香を感じた。泣きたくなる。
(なにやってんだろ、わたし)
シーツを握り締める。じんわりと涙が染み込んで行く。手を伸ばしたら微かに湿り気を帯びている部分がある。
ああ、洗濯に出さなくちゃ。でもそうしたらきっとこの香りも消えてしまうんだろう。いつもそうだ。シーツも私も、
あなたの色で染められては、すぐに洗い流されてしまう。エイラさんはすぐ、何も無かったことのように笑うから。
「…リーネちゃん」
どのくらいそうしていただろう。囁やくようなその声で私はようやくうつぶせにしていた顔を天井へとひねった。
すっかり高くなった陽光が遠慮を知らず飛び込んで来るから、眩しくてつい顔をしかめる。そして光の強さの
分だけ、私の下には色濃い影が出来る。子の胸をついて離れない背徳感は多分そのせいだ。明らかな場所
ではすべてがさらけ出されてしまうのだ。
だれ、なんて聞かない。聞くまでもない。
「大丈夫?」
光が遮られて、芳佳ちゃんの顔が覗く。太陽のようにみんなを照らす、明るい眩しい光の塊。果てしない可能性
に満ちた、未来への架け橋。この宮藤芳佳という人にどれだけ坂本少佐が期待をしているか、私はとてもとても
よく知っている。少佐だけじゃない、今となってはもう誰もが彼女の秘めた才能を認め、そのひたむきさを認め、
愛している。そのことを私はとてもとてもよく知っている。だって私もそれに魅せられた人間の一人だもの。
疲れたのだろうか、仰向けになった私の顔の横に、芳佳ちゃんが手を付いた。私が何も答えないから、芳佳ちゃん
も何も言わない。口を真一文字に結んで、どこか真剣な顔でこちらを見ているばかり。彼女の濃い褐色をした
瞳の奥に私が映る。けれどもそれは小さくて表情までは読み取れないのだ。私は今一体どんな顔をしているん
だろう?
(消さないで)
自分で口にした言葉が、まるですぐ傍で他人の言葉として聞いたように頭に響いた。消さないで。無くさないで。
私のつけた、私の存在の証。きっとそれを言葉にしたら彼女は何を言っているんだとばかりに怪訝な顔をするの
かもしれない。でも、ともすれば掻き消えてしまいそうな心許なさなんて芳佳ちゃん、あなたにはきっとわからない
でしょう?自分にしか出来ないことがちゃんとわかってる、そのためにここにいると知っている、そんなあなたには
わからないでしょう?
胸に溢れるのはそんな、どろどろとした醜い気持ちばかりだ。憧れと羨望と嫉妬は紙一重なのだと思う。憧れる
けれどねたましくて仕方がない。羨ましいけれど愛しくてやまない。どうしてかひとつに決めてしまえない、私は
とても、弱くて小さい。だって今だって、芳佳ちゃんに何を言えばいいのか分からなくて戸惑って、こうして何も
言えずにいるのだ。
「ねえ、リーネちゃんは、」
私を見下ろす芳佳ちゃんが口を開く。次の言葉を聞く前に視界が突然遮られて、突然の出来事に彼女の表情を
読み取れなくなった。
唇に温かい何かが触れて、直後に強く重ねあわされる。驚いてついほうけたらその隙に生暖かいものが口の
中に入り込んできて暴れまわり始めた。何が何だか分からないうちに舌がつかまって入り込んできたそれと
絡み合っていく。訳がわからなくて視界が白黒して、息苦しくてなんだか気持ちが悪い。慌てて身を乗り出して
きていたそれを、舌から両手を伸ばして押し戻した。
「は、あ、よしか、ちゃ、やめ…!!」
あえぎながら彼女を見る。離れた口と口から唾液の線がのびて、途中でぷつりと途切れた。そうしてようやっと、
口付けられたのだと気付いた。
「…リーネちゃんは、エイラさんと仲が良いよね?」
知っているよ、ぜんぶ。聞こえてるんだよ。そう言って、もう一度芳佳ちゃんが私に迫ってきた。抗う間もなくもう
一度口付けられる。今まで一度もされたことの無い荒々しいキスだ。…いや、むしろキスなんていつも私から迫る
ばかりで、あの人からしてくれたことなんて一度も無かった。なぜならば私がそんな関係を望んだからだ。一方
的に求めて、仕方なしに与えられて、勝手に満たされて。本当はそれを与えてやるのにもっと相応しい子がその
人にはいると知っていたのに、彼女がそれを出来ないことを感じて利用することにした。誰かの代わりでもいい。
愛されている証が欲しかった。存在している意味が欲しかった。こんなちっぽけな私ひとりじゃそれを見出せそう
になかったから。
好き嫌いの感情ではない、恋や愛といった衝動でもない。だいすきです。そんな気持ちを持っていても、もう口に
出来ない。そんなよごれた私とエイラさんの関係を、知っていると芳佳ちゃんは言った。けれどさして驚かなかった
のは、私自身たぶんそれに勘付いていたからだ。だって私と芳佳ちゃんの部屋は隣同士で、隔てているのは
厚いとも思えない一枚の壁だけで。だからこそエイラさんはいつも「声を出すな」と耳打ちして、「ここを噛め」と
肩を差し出すのだから。
私の口を侵しながら、芳佳ちゃんが首元に手を伸ばした。少しまごつきながらもネクタイを引いて取り去って、
シャツのボタンをはずしていく。露になったフロントホックの下着も取り去って露になった胸に手を伸ばす。やめて。
言葉にしようとするけれど、そうして口を開けば開くほどに芳佳ちゃんが深く自分の口を重ね合わせてくるもの
だから抗うことが出来ない。暴れようにも体に力が入らない。
生理的に立ち上がる胸の頂を、こねくり回すように触れていく。なんとも言えない気持ち悪さと心地よさが同時に
襲ってきて頭がぐるぐるとする。やめて、やめてよ芳佳ちゃん。
しばらくしてやっと唇が離されたと思ったら、次は容赦なく胸を口と手とで攻められた。解放された口から、自然と
あえぎ越えが漏れてくる。
「よしかちゃん、あ、ああ、あん、や、やぁ」
やめて、やだよ。そう言いたいのに言葉にならない、言葉に出来ない。ぼろぼろと目じりから涙が流れてきて
シーツを濡らしていく。それだのに、こういった行為に慣れた体はどうしてか素直に反応していくのだ。じわじわと
下半身に集まってくる熱を感じて私は泣きじゃくりたくなった。芳佳ちゃんの手が、急くようにそちらのほうに
伸びてくる。それに気が付いて、私は私に残されたすべての理性と体力を振り絞って、叫んだ。
「やめて、芳佳ちゃんっ!!!」
ズボンにちょうど、触れるところだった芳佳ちゃんの手がぴたりと止まった。私の胸元にうずまっていた顔が、
ゆっくりと上がっていく。先ほどまでと同じように私の顔の横に手をついて、私を見下ろす芳佳ちゃん。
頭がぼんやりとしていて、太陽がまぶしくて、涙で視界がにじんで、よく、表情が見えない。はあ、はあ、と荒く
息をついて私は芳佳ちゃんのいるほうを見返していた。放り投げられたままの快楽で体が疼くのに、吐き気が
しそうなほどの気持ち悪さも付いてまわる。体がこの行為を拒絶している。
「…どうして」
私が呟いたのは、芳佳ちゃんの行為を問うただけではなかった。私は、自分にも尋ねたかったのだ。どうして?
私は芳佳ちゃんが好きなのに。とってもとっても大好きなのに。だからこれは、私が受け入れさえすれば意味の
ある行為になるはずなのに。どうして?なんで?体は正直な反応を返すだけで、言葉では何も示してくれない。
「リーネちゃん、私なら、リーネちゃんのつけた跡、消せるよ」
ふわりと、芳佳ちゃんの体が青く輝いて、その頭に可愛らしいピンと尖った耳が現れた。ここからは見えない
けれど、そのお尻にはきっと尻尾も生えている。私の傍らについた芳佳ちゃんの右手から、ひときわ強い光が
放たれた。そこからほわん、と温かくなっていく。──私もうっかり転んで、小さな傷を作ってしまったときに感じた
ことがある。これは、芳佳ちゃんが治癒魔法を使っているときの感覚だ。間違いない。
体を起こして、立ち上がって。もう一度しゃがみこむ芳佳ちゃん。何をされるのかと怯えていたら、そ、と右足に
手が添えられた。ずきりという痛みが走ったあとに、包み込むようにその痛みが和らいでいく。見るとそこは
靴下が破けて、血がにじんでいるのだった。そうだ、さっきお皿を落としたときに付いた傷だ。最後に優しくその
箇所をひとなでして、彼女の『治療』は終わった。そしてまた先ほどまでと同じように私を覗き込んで、見下ろして
くる。ほらね。ぽつりと呟く声。
「全部消せるよ。跡なんて、残さないよ」
「よしか、ちゃん」
「ねえリーネちゃん、それじゃだめなの?………なにが、だめなの?」
顔に熱い何かがぼたぼたと落ちてくる。そうして私はやっと、彼女が泣いていることを知った。芳佳ちゃん、どう
してあなたが泣くの?泣いているのは私の方なのに、なんで芳佳ちゃんまで泣くの?
ずっと求めるばかりだったから、私は愛され方なんて分からなくて。だから芳佳ちゃんがそんなことを言う理由も
、涙を流す理由も、分からなくて。けれどそれ以上に自分の気持ちが分からなくて戸惑っていた。
ふと、頭をよぎったのはあの悲しそうな、エイラさんの顔。あんなに悲しい顔をするのに、エイラさんはそう言えば
一度だって私の前では泣いたことが無かった。
何がだめなのか、なんて。私には分からなかったけれど。
ひとつだけ知っていることがある。
それは芳佳ちゃんの魔法じゃ、心の傷は消えないということだ。
砕け散った茶碗やらコップやらを、一つ一つ丁寧に拾い上げていく。一人取り残されたキッチンで、私は何かの
贖罪であるかのように黙ってそれをしていた。はあ、とこぼすのは重たくて大きな息。大きく上がって、下がった
肩にずきりと痛みが走って顔をしかめた。さっき触られたせいだろうか。でも、「痛い」とは口にしなかった。そんな
こと言ってはいけないのだと分かっていたから。
きょうこそは、今日こそは。
彼女に謝ろうと思ったのだ、私は。なにを?どれを?尋ねられたってもう分からない。強いて言うのならぜんぶに
だ。そうすることで彼女と私の関係が清算されるだなんて思わなかったし、弱くて愚かな私は相も変わらずその
安易な道を選んでしまうのだと思ったけれど──私はそうすることで私を納得させたかった。そしてリーネに
伝えたかったんだ。
ごめん、ごめんよリーネ。私は間違いなくサーニャが好きなはずなのに、リーネに逃げてる。そんな私をなんて
ひどい人、ってお前は心のどこかで思っているのかもしれないけれど、私の中にだってリーネに対する情は
ちゃんとあるんだ。それが一体何色をしているのかはわからなかったけど、リーネが勝手に赤い色のペンキを
ぶちまけたから、染められたままに私は享受することにしたんだよ。
リーネが悪いんじゃない。でも、リーネを傷つけたくて、リーネのことを何も考えなくて、私は今を選んだんじゃない。
…それは今となっては言い訳でしかないけれど、そうだって信じたいんだ。信じて欲しいんだ。
それを伝えてたってどうなるわけでもないけれど、私は、そう、納得したかったから。
思い出すのは今朝のこと。ぐるぐると巡る罪悪感や過去の呵責にとらわれて顔を曇らせる私を、私が「もう行く」
と言うまで彼女は抱きしめていてくれるようになった。私が自分から彼女の部屋に赴いて、そうしていつもの
ようになし崩しに彼女を抱いたその日から。それはイコール、サーニャが私を使って行う「それ」が、もう後戻り
など出来ない激しいものになったその次の朝のこと。何が変わったのかなんて分からない。少なくとも私は何
ひとつ変わっちゃいない。変わったとすればそれはリーネのほうで、恐らくリーネは私をひどくひどく情けない
やつだと理解したのだろう。もちろんそれよりも前からそうは思っていたかもしれないけれど、多分あの朝に
彼女の中で私はそんな弱い、庇護しなければいけない存在に変わったのだと思う。
(でも、なんで)
肩の痛みに、先ほどの彼女の叫びを想う。治してあげようか。宮藤は何に起因するかも分からず、ただ純粋な
心配でそんなことを言ったのだ、たぶん。もちろん私は「そんなことしなくていい」と断るつもりでいた。怪我の
理由を説明するのは困難に思われたし、なによりも私は、ここに痛みのあるうちは自分の犯している過ちを
実感しながら生きていける気がしたから。
愛も、恋も、心に焼き付くだけで私に何も残してはくれない。火傷の痛みだけが積もり積もって、ただれて、目も
当てられないほど醜くなっていくんだ。
それなのに、私の情けなさの具象でしかないそれを、リーネにとっては自分と私との背徳的な行為の証でしか
ないそれを、リーネは「消さないで」といったのだ。それはとてもとても、掠れた声だった。
なぜだ?どうしてなの?知りたくてたまらなかったけれど、それを聞く前に彼女は走り去っていってしまった。
その後を追うように、宮藤も。その顔が少し険しいものだったような気がしたのは、たぶん気のせいであろうと
思う。私も追いたかったんだ。追いついて、恐らくは私が原因であって、私がすべて悪いのであろうそれを謝罪
したかった。どこが悪いのかなんて分からないし、考えたって仕方がない。だってどうせぜんぶぜんぶ、悪いの
はこの私なんだから。
けれど、私は立ち尽くした。足が動かなかった。……いいや、『動かなかった』なんていうのは言い訳に過ぎない
な。『動かさなかった』んだ。私は、私自身の気持ちで、それをしないと決めた。
「…えいら?」
だってほら、キッチンに座り込んで食器を一つ一つ拾い上げている私の背中に、まだ半分夢の中にいるかの
ようなまあるい言葉がかかる。かちり。その瞬間、心のどこかのスイッチが切り替わって、私はいつもどおり、
口許をつりあげているのだった。さーにゃ。振り返って、名前をよんでやる。
「あぶないから、こっち来ちゃだめだぞ。怪我したら大変だかんな。」
開いた口から出てくるのはじぶんでもびっくりするくらいの柔らかな声。サーニャのためだけに存在する、優しい
優しい声音。怖がりで臆病な、この世界で一番たいせつなその子のためだけの、特別なおと。サーニャ以外に
対してこんな声出したりはしないし、そもそも出てこない。無意識にだって彼女に対するときは、どうしてかこんな
にも慎重になってしまうんだ。
「よしかちゃんと、リーネさんは…?」
「あー、いま、ちょっと色々とあってさ。しばらく戻って来れないと思う。」
「……エイラは?」
「私は、……ええと、その代わりに食器洗いでもしてやろうと思ってたら、つい落としちゃったんだ。ほら、ガラスと
かあって危ないから、サーニャはこっちに来ないで、座って待っててくれよ」
いいながらまたサーニャに背を向けて残り少ない大きな破片をまた一つ拾い上げる。あとはほうきとちりとりを
持ってきてこのあたりを掃いてやれば、一応危なくはないだろう。……そう、先ほどの出来事なんて何ひとつ
なかったかのように、整然としたキッチンがまた帰ってくる。床を見ると微かな傷がついていて、けれどもそれは
目を凝らさなければ見えないほど本当に微かなものだったからきっと誰も気付かないだろうと思われた。そう
なんだ。多少の傷があろうとも、それをあえて口に出さなければ誰もが気にも留めずに生きてゆける。そのはず。
だからわざわざ消す必要なんてこれっぽっちもないんだ。だって支障なんて何ひとつないんだから。私の肩に
ついた赤い痕だって、私とリーネ以外にとってはそんな取るに足らないもののはずだった。
(…隠せてたはず、だよ、な。かばうなんてそんな真似、するほどのもんじゃないし…)
今更ながら、疑問が頭をもたげる。ミヤフジが気付いたのは、あいつが治療のエキスパートだからに違いないと
私は思った。でも、私だって空戦のエキスパートなんだ。こんな、肩の微々たる痛みなんてなんてことない。
そりゃ確かに私は今まで一度も被弾したことがないけれど、だからってこんな痛みをこらえることが出来ない
ような柔な訓練を受けてきたつもりはない。特にスオムスは厳しい土地だから、撃墜なんてされようものなら
すなわち死に繋がる可能性がとてもとても高かったから。それでも撃墜されまくりのやつがいたけどあいつは
まあ自己治癒能力があったし、何よりついてないくせに悪運だけは妙に強かったからノーカウントだろう。
リーネと、それを追いかけていったミヤフジは今頃どんな話をしてるんだろう。士官教育さえかったるいと投げて
いた私はこういったことを考えるのがとても苦手だ。全く予想できなくて、でも知りたくて仕方がない。リーネは
自分のつけたこの傷を、ミヤフジになんと説明するんだろう。どうして「消さないで」と言ったのか、そんなことも
話したりするんだろうか。話したら、私にもいつか教えてくれるんだろうか。知りたい。自分のことばかり優先して
きたから気付かなかったけれど、あの行為は、もしかしたらリーネにとっても何か意味があることだったのかも
しれなかった。
そんなことを考えながら立ち上がって、手近な紙袋を二枚重ねて割れ物をその中に突っ込む。さて、ほうきと
ちりとりを取りに行くか。ふうと一息ついた後に振り返って、ぎょっとした。
「…さーにゃ?」
だってそこには先ほどと変わらないまま、サーニャが立ち尽くしていたのだ。ぼんやりとした目は幾分見開かれ
ていて、そこから私は彼女が覚醒していることをしる。
「どうしたんだよ、サーニャ。」
口から漏れるのはまた、あのやわらかくてまろやかな声。座ってろ、って言ったじゃないか。危ないぞ。決して
咎めることはなく、けれどたしなめる。だってこの子は何も知らないから、私が全部教えてやらなくちゃいけない
んだ。この世のいいこと、わるいこと。していいこと、だめなこと。そう、あの、自らを慰めるためのあの行為
だって、あれはとても恥ずかしくて淫らなことなんだよって、教えてあげなくちゃいけない。本当は今すぐにでも。
…そう、いつも思ってるのに。どうしても言葉にならなくて私は、いつもいつも貼り付けたような笑顔を浮かべる
だけなんだ。
「……エイラは?」
私の問いに、サーニャは先ほどと同じ言葉を、先ほどよりも幾分かはっきりした口調で重ねてきた。私?だから、
わたしは。
きっと、さっきはよく聞いてなかったんだろうな。そう納得して私も先ほどと同じ言葉を重ねようとする。
「えいらは、どうして、そんなに泣きそうな顔をしているの?」
けれど、続けられたのはそんな言葉で。私は手の中にあった紙袋を取り落としそうになるのを、すんでのところで
こらえるので精一杯だった。泣きそうな顔?私はいま、そんな顔をしているの?そんなはずはない。そんなことはない。
だって、サーニャと一緒にいるときの私は、いつだってちゃんと笑えているはずなんだ。そうしないと、サーニャに
余計な心配をかけてしまうから。そりゃ、たまには余裕をなくしてしまうこともあるけれど、そのときはそのときだ。
でも、泣きそうな顔だなんて、そんなこと。
あるはずがないよ。何言ってるんだよ、サーニャ。そんな風に答えようとして、また無理に口許を吊り上げようと
する。筋肉がひくひくと痙攣して、どうしてかひどくぎこちない。
「…なんでもない。ただ、ちょっと……そうだな、疲れてるだけ。」
「それは、朝が早いから?」
「…え?」
「……ううん、なんでもない」
ぽろりとこぼれたサーニャの指摘に思わず声を上げて、その真意をはかろうとしたのに。それは取り上げる前に
引っ込められてしまった。私がぼんやりしていると、サーニャがくるりと向きを変えてどこかへ立ち去る。なんと
なく追うことが出来ずに固まっていると、サーニャはその手にほうきとちりとりを持って帰ってきた。
「片付けるんでしょう?……手伝うから」
「……ん?ああ、うん…そうだな。ありがとう、サーニャ」
「……うん」
いつもより幾分強引なサーニャに気圧されるようにして、そうして私はすっかりとその疑問を忘れてしまった。
板張りの床に刻まれた微かな傷は、破片を取り除いたらすっかりと目立たないくらいになっていて。取り落とした
食器の分、空きのある食器棚だけが先ほどの一件を表していた。けれどもその食器棚さえしばらく見ているとも
ともとそのままだったようにさえ思われて、サーニャと連れ立って食堂を出る頃にはもしかしたらさっきのこと
なんて全部白昼夢だったのではないかとさえ思い始めていた。貼り付けたような笑顔だって、多分いつもどおり
で。サーニャもいつもどおり微笑んでくれていたから、それでいいのだと思い込むことにした。
──けれど私は、直後に現実に引き戻されることになる。
食事を終えたせいか、自室に戻る道をたどりながらまた目がとろんとして、足元さえおぼつかなくなってきた
サーニャをいつもどおり「しかたないなあ」と支えながら歩いていたその途中に、私は彼女を見つけてしまった
のだ。リーネ。思わず呼びかける。顔を上げたその反応で、いつもとはどこか違う雰囲気をかもし出している
彼女がリネット・ビショップその人であることを確認した。彼女は、白日の廊下だというのに髪を解いて廊下に
座り込んでいた。
「えいら、さん」
近づくと、私の声音よりもずっとずっと高い、彼女の小さな小さなささやき。うずくまるように座っていた彼女の
その姿を見て、私はあんぐりと口をあける。そして叫んでしまう。
「な、なんだよ、その格好!どうしたんだよ!」
だって、リーネは髪を解いていたばかりじゃなくて、先ほどまできっちりと身につけていた上着や、セーターや、
ネクタイは取り去られて真っ白なシャツを羽織っているだけになっていたから。それどころかその下に透けて
見える肌色で下着もはだけていることをしる。まるで誰かに襲われて身ぐるみはがされたその後のような光景に、
ひたすら息を呑むことしか出来ない。
なんで、どうして、こんなことに?訳がわからず混乱する思考。けれども私のお粗末な思考が一番最初にたたき
出したのは、今目の前であられもない状態でいるリーネに対してはひどく冷たいものだった。
「……サーニャを部屋に連れてくから。私の部屋空いてるから、そこ、いってろ」
うん。頷くリーネをよそに、私が考えていたのはサーニャにこんなリーネの姿を見せてはいけない、なんてそんな
ひどいことばかりだった。とにかくサーニャをここからうつさなければ。リーネのことなんて二の次で、私は寝ぼけ
眼で思考など全く働いていないかもしれないサーニャのことばかりを考えていた。
「えいらさん」
背を向けた私に、リーネがまた声を掛ける。弱弱しい声。すがるかのような音。けれど私は振り返らない。
サーニャの背を押して、足早に彼女を部屋へと連れて行く。途中でサーニャが寝ぼけた声で「どうしたの?」と
聞いてきたけれど、私は何も答えなかった。答えても、いつもどおりの口調が出そうになかったから。振り返ろうと
したサーニャの顔を押しとどめる。いつもどおりの表情だって、出来ていないような気がした。
「…サーニャ、哨戒の後で眠いだろ。夕方まで寝てていいから、な?」
おおよそ今が朝とは思えない、薄暗い部屋。板で窓が隠されてるとはともかくとして、何でこんな奇妙な模様が
ついた紙で目張りをするだろう。「お札みたい」とかつて宮藤がもらしていたそれを、暗がりで上手く利かない目で
軽くにらむ。
(…おまじないだって言うなら、ちゃんと、サーニャのこと守ってやってくれよ。じゃないと許さないからな。)
自分勝手な願いだとは知りながらそう思わずにはいられない。えいら?簡素なパイプベッドに身を横たえて、
薄く目を開いたサーニャが小さな声で尋ねてくる。
「……ん。ゆっくり休めよ。ゆっくり……」
言いながら、髪を撫でてやる。瞳を数回閉じたり開いたりして、けれども最後にはなぜか淡く笑んで、サーニャは
するりと眠りに落ちていった。
ここにいてね。
微かな、微かな。そんな彼女の呟きを最後に聞いた気がしたけれど、あえて聞こえなかったことにした。
*
「リーネ」
サーニャを寝かしつけてからまっすぐ隣の自室に向かうと、先ほど「私の部屋にいってろ」と示しておいたところ
の彼女はその通り私の部屋に居て、私のベッドの上にぼんやりと座しているのだった。リーネ。一度名前を
呼んでも気付く気配がなかったから、もう一度呟いてみる。するとようやく夢から覚めた、と言ったような顔で、
彼女はゆっくりと振り返った。
「えいら、さん」
「……これ、着てろ」
クローゼットからパーカーを取り出してリーネに投げてやる。上手く加減して目の前に落ちるようにしたのだと
いうのに取り上げる気配さえなかったから仕方なく歩み寄っていって上から無理やりかぶせてやる。中途半端に
脱げたシャツが中でごわごわとしてそうだけれど、そんなことに頓着している場合ではない。
ねえ一体何があったの。お前をそうしたのは一体誰なの。どうしてあんなところに座り込んでいたの。
聞きたいことはたくさんあったけれど、口を開くことは出来ない。一種の厳かな静けささえ宿る朝の部屋で、
私はどうすることも出来ずにただ彼女の隣にいた。
「えいらさん」
もう一度彼女が私の名前を口にしたその、刹那。にゅっとリーネの手が伸びて、私の手を引いて。引き倒す。
未来予知の能力なんてなくても周囲の状況を鑑みれば大抵のことは普段から前もって予想できるはずなのに、
頭の奥がしびれて仕方ないのだ。がちり、と音がしたのは唇と唇が触れ合う余りに歯までぶつけてしまったから
だった。それでも飽きたらないと言う様に深く、深く、重ねられていく口と口。
幼くておとなしそうな顔をしたこいつが、髪を下ろすと意外と大人っぽくて色っぽい顔をしていることを私はよく
知っていた。いつもは私がその髪を束ねている紐を解いてやるものだからそこまで気に留めてはいないのだ
けれど。
そう、だから、たぶん。
この胸が妙に高鳴っているのも、いつもは散々叫んで抗って制する彼女の行動を止めることが出来ないのも、
そのせいなのだと思う。違っていても、そう思うことにする。
引き倒された格好のままからごろりと反転して今度は逆に押し倒された体になって。空色に星のマークのついた、
見慣れたパーカーを身につけたリーネが、今度は私の衣服をはだけさせていく。腰のホルスターを取り去って、
器用に上着のボタンをはずして。けれどその間も唇を重ね合わせるのを休めたりしないのだ。まるでこの口と
口とが離れてしまったらこの行為がすべて霧散してしまうと言わんばかりに、触れ合っていなければ自分の、
もしくは私の、存在を確かめられないというかのように。
シャツのボタンも取り外して下着だけになったら、特に隠すつもりもなくスレンダーな体型をしている私にとって
みたらほとんど脱がされたも同然だ。リーネほど大きくはない胸を支えるための大層な下着なんて私には必要
ないから。
こわごわと震える指が、その申し訳ばかりの下着の下から私の胸のほうに伸びてくる。それでも私は抗おうとは
しなかった。息を呑んで、されるがままになっている。どうしてかひどく恐ろしい気持ちになって体をこわ張らせた
そのとき、冷えたリーネの指先が私の胸の頂に触れた。びくりと震える体とともに小さく喉の奥からうめき声が
もれる。口付けをしていたリーネの唇が私のそこから離れて、首筋を、喉元を、肩を、舌先でなぞりながら降りて
行く。それがちょうど『あの』肩の傷まで届いたそのとき、リーネの動きが止まった。ふにふにと胸の膨らみを
弄んでいた両手の動きさえも止まって、生暖かく肩にあった感覚が離れる。
「……えいらさん」
先ほどからもう、何度目だろう。かすれた彼女の呟きが、くすぐったくて熱い息と一緒に耳にかかる。唾液では
無い、もっとさらりとしていてもっともっと熱いものでむき出しの肩が塗れていくのはどうしてかな。私はそれの
名前がなんであるかよく知っているけれど、どうしても信じがたいんだ。
「……なさい。ごめんなさい、えいらさん」
「…なんで、お前が謝るの」
「ごめんなさい。でも、けさないで。きえないで。じゃないと、わたし」
嗚咽と共に漏れるのは、うめき声のようなリーネの謝罪の言葉ばかり。なんで、どうして、リーネが謝るの。
馬鹿みたいな私の衝動を、慈しみばかりが宿った腕で抱き締めてくれているのはお前の方じゃないか。ねえ
なんで、お前が泣くの。
この傷が消えなかったとして、それでリーネに一体どんな得があるだろう。消えてしまったとしたら、彼女は
一体何を失うというんだろうか。失うも何も、私とお前の間には最初から何もなかったじゃないか。何も形作ら
ないという暗黙の了解の下でずっとずっと、日陰に隠れるようにして守ってきた、背徳的な秘め事だったのに。
「ミヤフジと、なにがあった?」
「……」
すっかりとほつれた疑問の糸を手繰り寄せるようにそう尋ねてみても答えは無い。かと思えば、私の頭の
ちょうど脇辺りに落ち着いていた柔らかな質感の髪を持った彼女の頭がふわりと持ち上がって、答えを紡ぐ
ための唇を私の唇でふさいでしまうのだ。そしていまだ私の胸のところにあったその手が再び下着のしたで
うごめき始める。
「……きもち、いいですか、エイラさん」
「そんなのしらね……あ」
ようやくふざくのをやめた唇がおずおずと、普段の『行為』のときの強引さなど忘れてしまいそうになるほどの
弱々しい声で尋ねてくる。即座に否定して、この行動の無意味さを彼女に教えてやりたかったのに、どうしてか
最後の最後でおかしな声が漏れた。ごくり。リーネが息を飲む小さな小さな音がした直後、先ほど感じたものと
にた奇妙なうずきが襲って来る。
「やめ、やめろリーネ!!うう、うああ」
「……ここがいいの?」
「そうじゃなくて!やめろって、いって、んだ!」
やめません。
そんな、一言だけの答えを放ったままリーネはまた『ソレ』を開始した。立派とはとても言えない胸の膨らみ、
その頂、耳たぶ、首筋、鎖骨、肩。手と唇とがそういったところをばらばらに、けれども的確に、うごめいていく。
ぞわぞわと背中を這うようなむず痒さの後にそいつはやってくる。頭の奥が痺れて行く感覚。もともとそこにいた
私が蹴り倒されてどんどんと新しい私が生まれて行く。思考なんて何度も何度も塗り替えられているものだから
もう何がなんだか私でも分からないんだ。
「リー…ネッ!!やめろ、やめ…う、う、ああ」
そう言えば大分前に、彼女に「こんなことされお前は気持ちがいいのか」なんてことを聞いたことがあったけれど
、それは単なる好奇心から来る疑問というやつで、別に自分で体感して見たいなんて考えて口にしたのでは
なかった。だって私は実際のところ、そうしてよがって、乱れる彼女たちをどこか覚めた目で見ていたんだから。
私の世界のすべては理性に則った予定調和で構成されていて、目の前に表れる結果の前には必ず過程があ
って、原因もあって。だからうろたえることなんて知らなかった。表面上はそんな感情が表れていたとしても、
頭の片隅にいる冷静な私が「そんなの当たり前だろ」と呟いていたんだ。
リーネの手が私のお腹あたりを撫でて、もっと下の方へと伸びてゆく。やめろ、やめてよ。そう言いたいのに
言葉が出ない。そればかりか、それから先の展開を心のどこかで期待している自分にさえ気付いて愕然と
するのだ。
筋のようになったそこを、ズボンの布地の上からゆっくりと撫でられた。エイラさん、エイラさん。うわ言のように
私の名前を呟くリーネの声に、別の感覚がフラッシュバックして重なる。銀色の髪。エメラルドの瞳、白い肌、
華奢でスレンダーな体つき。何ひとつ、目の前の人とは似ても似つかない、その子がどうしてか、目の前に
表れて私の頭の中を一杯にしていくんだ。甘い痺れにぐちゃぐちゃになっている思考で懸命に、彼女の名前を
探してゆく。私の一番大切な、守らなくちゃいけない子の名前。
「…さー…にゃ」
真っ白なようで真っ暗な、思考の中にまっすぐ光が差す。サーニャ。その名前を口にした瞬間、夢から覚めた
ようにハッとした。突然口にされた自分以外の名前に驚いたのだろう、動きを止めて私を見返してきたリーネの
体の自由を奪うようにそのままぎゅうと抱きしめた。むき出しのままの胸の辺りが、彼女の髪の毛に触れて少し
くすぐったい。
あんなこと、されて。気持ちヨカッタかときかれたら。
気持ちよかったさ、そりゃ。私には未体験だったそれはまたくすぐったさの残る淡い疼きだったけれど、それでも
あんなにぞくぞくとした。それなら、すっかり溺れてしまっているはずのリーネにとってみたらその感覚はきっと
ふとした瞬間に欲してやまないような、そんなものであるのに違いない。
ぎゅうと抱きしめて、優しく背中をさすってやる。もぞもそと動いて、私の胸の辺りの位置から私を上目遣いで
見てくるその顔を見てふっと笑って、髪をかきあげて額に口付けてやった。それはその顔を見た瞬間妙な愛お
しさがこみ上げて、その気持ちのままに行動したからなのだけれどどうしてかそれだけでリーネの顔がぼん、
と耳まで真っ赤に染まる。そんな反応さえも妙に可愛らしくて仕方なく感じる。どうしてだろう、今までそんなこと
考えても見なかったのに。
「……えいらさん、わたし」
「ん?」
「わたし、えいらさんのこと、すきです」
「しってるよ。わたしだって、リーネのことすきだ」
「……そう言う意味じゃないんです。そういう、いみじゃ」
仕方がない人ですね。ふふ、と、おおよそこの状況には不似合いの穏やかな笑い声を立てて彼女は肩を震わ
せた。不似合いといったら私の行動だって恐らくは全然この場に合っていなかったのだろうけど、この際自分の
ことは棚に上げてしまおう。それくらい、私はリーネがいつもどおりの彼女に戻ってくれたことが嬉しかったのだ。
「……私、芳佳ちゃんのこと、好きなんです」
「知ってるよ。それもちゃんと。」
「……好きなんです。大好きな、はずなんです。よしかちゃんのこと、ほんとに」
それなのに、わたし。よしかちゃんじゃだめなんです。
けれどもそんな、のどかな時間もつかの間。
つい先ほどまで小さく笑っていたはずのリーネの顔がまた、曇って。そして私と視線がぶつかったその瞬間、
じわじわとその瞳に雫が溢れてきた。慌てて少し緩めていた腕に力を込めて抱きしめてやると、ぼたぼたと肌に
落ちてゆく熱い雫。先ほど肩に降り注いだそれよりもよっぽどそれは熱いから、ともすれば火傷してしまいそう
だ。別に私はリーネに惚れてるわけでもないのに火傷するなんて、冗談にもならない。
「えいらさん、私のこと、抱いてください」
「いやだ」
「きょうだけ「今日だけじゃなくたって、リーネが泣いてたら、私はいつでも助けてやるから」
だから、そんな言葉で逃げるのはもう止めないか、おたがい。
リーネが『あの言葉』を口にして。今ここで私が精一杯に差し出してやっている優しささえも否定しようとしたから、
私は唇ではなくて言葉でそれを制した。私に抱かれて、私の体を傷つけて、そうしてリーネも自分の中の何かを
保とうとしているのかもしれない。けど、そんなことしたって虚しくなるだけなんだ。だってそうして体ばかりを手に
入れたって、心はどうやってもつかみ取れないんだから。
それなら、いつでも。求めるなら、いくらでも。私の中にはまだ、なけなしだけれどもちゃんと優しさが残っている
から、リーネに分けてあげるよ。辛くて苦しくて泣きたいときには、ぎゅうと抱きしめて慰めてやる。体の疼きを
満たすのではなくて、心の渇きを潤すために。
ああ、出来ることなら数年前のあの日にも、私は同じことをあの人に言って欲しかった。
ううん、言ってくれてたんだ、あの人は。待ってるよ。ずっとここで待ってるよ。そう言ってくれた。その言葉だけで、
本当は充分だったんだ。あの頃は私も、きっと彼女も、まだまだ子供で。だからこそ私は何も分からずにそんな
愚かな行為に手を染めたんだろう。そしてそのまま、こんなところまで来てしまった。
リーネを抱きしめたそのまま少し体を起こすと、ニーソックスに包まれた足が伸びている。その一部が破けて、
素肌があらわになっているところを見つけた。きっと食器を取り落としたときは辺で傷ついたのだろう。──でも、
その場所には傷跡も、血の後も、なくて。微かに感じる魔力の残り香に、ミヤフジが治療を施してやったのだろう
と見て取る。一体あの後二人に何があったのだろう。私には皆目見当もつかない。疲れ果てた思考が、休息を
欲しているからだ。
(サーニャにも、教えてやらなくちゃ)
彼女の行動の意味。それが世間一般的にどういう評価を下されているものであるか。
それを押さえつけることが出来ないと、駄目なんだよって。
だって体が満たされたとしたって、心が乾いてちゃ苦しいんだから。
ともかくそういったことも、今日、目が覚めてから。とりあえず今は休みたい。そうしてしまわないと今も体の
どこかに残っている疼きに私まで負けてしまいそうだ。
幸か不幸か、先ほどの行為のおかげでお互い火照った体は目を閉じるだけで思考を心地よい眠りへと誘って
くれる。
部屋の扉が開いて、私の名前を呼ぶ微かなつぶやき声にも気付かずに、私はそうして意識を手離すことにした。
fin.