学園ウィッチーズ 第20話「長い一日の終わりに」
エーリカは壁に寄りかかりながら、食堂の棚の前にしゃがみこんで中を探るウルスラの小さなお尻を眺める。ため息をついて、棚に押し込んだ体を外に出そうとして、ウルスラは、がっつんと頭の後ろをぶつける。
エーリカは慌てて膝をついて、ウルスラの頭をおさえた。
ウルスラは、失態により赤面した頬のあたりにずり落ちたメガネを上げながら、エーリカの手からさりげなく逃れる。
行き場をなくしたエーリカの手が、手持ち無沙汰といわんばかりに、閉まっている棚の戸に押し付けられ、はたから見れば、ウルスラを詰問しているようなそんな姿勢となる。
互い違いだった二人のまばたきが次第に一致し始めて、エーリカは、少しでも、ウルスラの視線を逃すまいとする。しかし、ウルスラは、エーリカの考えを察したのか、無意識なのか、ぺたんとその場に座り込んだ。
「他に、保管されてそうなところは?」
「……うちらって、あまりコーヒー飲まないから、なくなっちゃたのかも」
「カールスラント人が三人もいるのに」
「そういえばそうだね……」
ぶっつりと会話が切れ、エーリカは立ち上がり、ウルスラに背を向けながら、
「コーヒー、ビューリングに?」
「……うん」
いつもは頷くぐらいでしか対応しないウルスラが、割とはっきりとした返事をしたことと、この来訪がビューリングのためということを思い知らされて、エーリカは、誰もいない壁のほうに向かって、めいっぱい驚きの表情を見せた。
ウルスラは、エーリカの背をしばらく見つめた後、同じように背を向けて、別の棚を開き、探って、袋を取り出した。
「あった」
エーリカは、ぐにぐにっと己の両頬をつまむと、いつものように余裕を込めた嫌味のない笑顔に戻して、軽やかに振り返り、ウルスラに背後から近づいた。
「やったじゃん」
「今週中には新しいの買って返すから」と言いながら、エーリカに顔を振り向けた。
いつもの、どんなにかすかな波紋すら許さないような、静かな水面のように張り詰めて、それでいて透き通っているウルスラの表情。
「いいよ、別に」
「だめ」
「いいって」
エーリカは、面倒くささからか、それとも、悲しみからか、つい、眉尻を下げ、言葉を滑り落とした。
「相変わらず、世話焼きだよね」
「そんなこと、ない」
「そうだよ。ねえ、私には、もう世話焼いてくれないの?」
半ば、哀訴に近い、姉の言葉に、ウルスラの中で、ごくわずかに揺れが生じるが、抑える様に、袋を両手で握り締め、ほんの少しだけ、眉間に力を入れた。
「……今は、彼女を見ていたいから」
「そっか……」
まつ毛を伏せ、今までウルスラが見たことがないほど、大人びた表情で答えるエーリカ。
ウルスラは、小さく口を開くが、言葉をのみこんで、か細い声で、「おやすみなさい」とだけ残し、食堂から抜け出していった。
遠くで、玄関が閉じる音を聞き、エーリカは食堂の灯りを消し、自室へ向かい、風呂上りのミーナと遭遇する。
しかしながら、今の自分がどんな表情をしているのか、すっかりわからなくなって、避けるように、うつむいた。
ミーナは、エーリカの異常を察知して、慌てて、肩に手を置いた。
「フラウ」
「ごめん、ミーナ。今日は本当に疲れてるんだ。お説教とかは明日じっくり……」
泣き出さまいとしているのか、潤んだエーリカの瞳は、今にも涙と一緒に流れ落ちてきそうに見えて、ミーナは、素直にエーリカに従い、そっと髪を、頬を撫でて、せめてもの慰めにと、微笑みを返した。
「わかったわ。明日、じっくりね」
エイラは、床に散らばったタロットカードを拾い集めて、整え、先刻までサーニャが座していたベッドの端に手をついた。
指先で、失せかけている温もりを確かめ、ドアのほうへ首を回す。
思い出させたくなかったから、傷つけたくなかったから――だから、ああ言ったのに、至近距離で目の当たりにしたサーニャの反応は最も恐れていたもので。
エイラが気づいた時には、サーニャは、背を向け、部屋を出ようとしていたところだった。
「サ…」
エイラが口を開きかけたときには、ドアは、とても、穏やかに閉じられた。
だが、その穏やかさがかえってエイラを慄かせたのは言うまでもなく、彼女は、頭に浮かべていた「サーニャを追いかけろ」という行動を実行に移すことも出来ず、今に至っている。
エイラは、ひょいっと身を翻してベッドに仰向けに飛び込むと、広がる不安を吹き飛ばすように目をつぶった。
「明日だ。明日…」
シャーリーは、テラスのベンチにふんぞり返るように腰掛け、雲の隙間から瞬く星を数え、何かに気づいたのか、さらに首を後ろに曲げて、逆さまの視界の中にミーナを収めると、
勢いをつけて体を起こし、足を組んで、隣に掛けようとしているミーナの一挙一動をじっくり眺めた。
ゲルトルートへの想いにひと段落をつけたせいか、昼間に、病院で感じたような居心地の悪さはまったく感じず、ただ、目の前のミーナの横顔を、
いつもの余裕がにじむ表情で見やりながら、そっと、ささやいた。
「浮かない顔だね」
「そう、かしら…」と、ミーナは、慌てて笑顔を繕ってみるが、緩んだ頬はすぐに、沈殿し、表情が保てない。
シャーリーは、少しでも、負担を軽く出来ればと判断し、組んでいた足を解いて、揃えた。
「今日は……、悪かったね。色々と心配かけて。ハルトマンも連れ出して……。本当に、ごめん」
頭を下げるシャーリーの肩に、ミーナが手を置き、
「いいのよ。誘いにのったフラウも同罪なんだから」
シャーリーは顔を上げる。
「それに……、処分は、明日坂本特別教官から言い渡すから」
「坂本……特別教官? 先輩、教官になったんだ…」
「そう。今日付けでね。とは言っても、今までと変わらない気もするけど。厳しさは増すかもしれないわ」とミーナはウィンクをする。
徐々にほぐれてきたと思われるミーナに、シャーリーも、つられて微笑んだ。
「ははは、きついな、そりゃ…」
と、言いながら、シャーリーは、ミーナから顔を背け、くしゃみをする。
「風邪ね」
ミーナは、ポケットに忍ばせたティッシュを取り出し、シャーリーの顔に近づけるが、シャーリーは鼻をつまみながら、身をずらした。
「おっと。うつしちゃ悪いよ。明日も病院だろ」
「大丈夫よ。はい、チーンってして」
ミーナは、シャーリーの鼻を拭おうとするが、シャーリーはさすがに気恥ずかしくなって、彼女の手からティッシュをとると、背を向けて、鼻をかんだ。
その様子を、母親のように見守るミーナは、シャーリーにとっては不意打ちに近い形で口を開いた。
「今日、ルッキーニさんと喧嘩を?」
「……ああ。原因は…」
「ルッキーニさんが整備の邪魔をしてしまったと言っていたわ」
シャーリーは、目を点にし、唇を噛んだ。
あいつにまで、嘘をつかせちまった。
やっぱ、避けては通れない、か――
シャーリーは、覚悟をしたような表情で、ティッシュを握り締めた。
「あの、さ……」
「なあに?」
「それ……、嘘」
「え?」
「喧嘩の原因は、別のこと。図星、つかれちゃったんだ。ルッキーニに」
話が見えていないのか、ミーナは、困った顔で首をかしげる。
シャーリーは、心の中で、ごめんと言って、言葉を接いだ。
「私、バルクホルンが好きだったんだ」
シャーリーの言葉に、ミーナの肩がはっきりとびくついたが、シャーリーが、そっと、手を乗せた。
「けど、もう終わったんだ。あいつには、もう……。あいつの心はとうの昔に決まってるんだ。私が入る余地なんて、ないぐらいに…」
するすると、ミーナの肩からシャーリーの手が離れ、シャーリーはうつむく。
ミーナは、突然のシャーリーの告白にすっかり頭が真っ白になって、どうしていいかわからなくなるが、シャーリーは、ようやくすっきりしたのか、立ち上がり、夜空を見上げ、朗らかな表情をミーナに向け直した。
「というわけで、あいつを好きになる奴もいるんだから、うかうかしてるとかっさらわれちゃうかもよ」
その言葉が、ミーナの胸に刺さる。シャーリーの言葉に傷ついたわけではなく、その、ごく当たり前の事実に。
「だから、早いうちあの堅物に言わせちゃえよ。それか、あんたが言うか」
それができたら苦労はしない、とミーナは考えるにとどめ、困っているような、照れているような、どちらともとれる表情でシャーリーを見上げた。
ウルスラは、キッチンにて、サーバーにぽたぽたと落ちてはたまるコーヒーの抽出液をじっと見つめる。
風呂上りのパジャマ姿のエルマが、頭を拭きながら、ウルスラに近づいた。
「あ、おかえりなさい」
ウルスラは、エルマに顔だけ向けると、また、サーバーに視線を戻した。
エルマはすっかり慣れたウルスラのそっけなさに傷つくでもなく、彼女同様、サーバーを見つめた。
「もしかして、用事ってコーヒーの事だったんですか? けど、よくお店開いてましたね」
「生徒たちの寮から」
「なるほど、お姉さんからもらったんですね」と、エルマは自分の頭の中に浮かんだ姉妹愛に感動でもしているのか、うんうんとうなづく。ウルスラは、エルマの言葉に、唇を引き締める。
エルマは、ウルスラのそのささやかな変化に気づくはずもなく、コーヒー豆の入った袋に目を向けた。
「けど、これって期限とか大丈夫ですかね」
ウルスラは、袋に鼻を近づけて、すんとひと嗅ぎ。
「変なにおいはしない。それに、私のじゃ……ない」
「え?」
すっかり寝入ってしまったことに気がついて、ビューリングは、自分の体温ですっかり暖かくなったベッドの中でもぞりと寝返りを打ち、空腹を紛らわせる。
反射的にベッドのそばのチェストに手を伸ばすが、昨日まではいつもそこに切らさずに置いていたタバコの箱はなく、舌打ちする。
きいとドアが静かに開いて、身構えるが、香るにおいに、身を起こし、チェストに置いたスタンドのスイッチを入れる。
暖色系の光がウルスラのメガネに反射する。
ビューリングは、彼女が両手で包んだマグカップに、思わず目を輝かせた。
ビューリングとウルスラは、ベッドの真ん中に座り、ウルスラは、小さな背中をビューリングの背中に押し付け、体重をかける。
ビューリングは、マグカップを傾け、一口飲む。
「少し、酸味がききすぎているな」
「棚の奥にあったけど、匂いはひどくないから大丈夫。たぶん」
「他人事だと思って……。それにしても、棚の奥は私もあらかた調べつくしたが、なかったぞ。一体どこに」
「ここじゃなくて、生徒たちの寮からもらってきた」
「なにもこんな時間に」と、ビューリングは、ウルスラが後ろに倒れないように、慎重に、体をひねって顔を向けた。
ウルスラは、ビューリングの背から離れ、彼女の肩に頭を乗せた。
「あなたのため」
肩に押し付けられるウルスラの髪に、ビューリングは恐る恐る指をしずめ、なで、何かを発見したような顔をした。
「たんこぶ、できていないか?」
「……少し、ぶつけただけ」
こぶの大きさを確かめるように触れると、ウルスラは、ビューリングの腕にしがみついた。
ビューリングは、少しずつ、鼓動の間隔が短くなっている自分に気づいて、ウルスラを跳ね除けないよう、慎重に、体を離し、めったに使わない種類の言葉を選び出す。
「コーヒーだが、……感謝する。わざわざ夜に歩かせて悪かった。今日は遅いからもう部屋に戻るといい」
ウルスラは、ビューリングの変化に気づいたのか、それとも、己の気持ちに素直に従ったのか、ビューリングの腕を握る手の指に力を込めた。
「ここで眠る」
「それは…」と、ビューリングは言いかけるが、ウルスラのまっすぐな瞳に、あっさりと、折れる。「わかった…」
シャーリーは、寮の中を歩き回り、ルッキーニの部屋のドアノブに手をかけ、入るぞ、という言葉と同時に開ける。
しかし、彼女の予想通り、そこにルッキーニはいなかった。
寮の中のルッキーニの隠れ家はすべて網羅しているはずなのに。
シャーリーは、物寂しそうな顔で、めったに主が使うことのないルッキーニの部屋を眺めると、静かにドアを閉めて、自室へと戻った。 真っ先に調べたが、ルッキーニの姿は見当たらずじまいだった。
シャーリーは勢いよく、ベッドに座ってぼーっとし、何かに気づいたのか、床に頬をくっつけて、ベッドの下を覗き込む。
すーすーという心地よさげな寝息。
はだけた上着から覗く、水色のボーダーのズボンに包まれたお尻。
シャーリーは、ひとまず安心をして、口元を緩ませ、ルッキーニのお尻をつっつく。
「おい、ルッキーニ、起きろ」
まったく起きないルッキーニにシャーリーは手を緩めず、さらにしつこく攻めた。
「もー、くすぐったぁい。なにさ…」
ようやく、起きたルッキーニが、すわった目でにらみ返すが、相手がシャーリーと分かった途端、驚いて、身を起こし、ベッドに頭をぶつける。
悶えるルッキーニに、思わず笑い出しそうになりながら、シャーリーは手を伸ばした。
「とりあえず、出てきてくれよ。な?」
ルッキーニは、躊躇したが、見つめた先のシャーリーの表情は、曇りひとつないさっぱりしたもので、気がつけば、考えるよりも先に、彼女の手を握っていた。
シャーリーは、ルッキーニを引っ張り出すと、自分はベッドに座り、目の前に立った彼女の服についた埃を払い、見上げた。片方の手は握り合ったままだ。
「まだ痛むか?」
「なにが?」
「ここ」と、シャーリーはルッキーニのお尻をぺんと叩く。
「……ちょっとだけ」
「そっか。じゃあ、立ったままほうがいいな」
シャーリーは、ルッキーニを抱き寄せ、彼女の未発達の胸に顔を押し付ける。
「嘘ついたり、怒鳴ったり、突き飛ばしたり……、ひどいことばかりして、悪かった。ごめん。申し訳ない。許して欲しい」
シャーリーは、胸から顔を離し、ルッキーニの表情を確かめる。
ルッキーニは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「子供扱いしたことも謝って」
「いや、そこは…」
「子供じゃないもん。色んなこと知ってるもん」
と、ルッキーニは、シャーリーの耳元で何かをささやく。シャーリーは、頬を徐々に染めて、ルッキーニの両腕を掴んで、驚愕の表情を向けた。
「お前、ど、どこでそんないやらっしい事を……」
「教えてあげない」
「……まあ、だいたい察しはつくけどな」と、シャーリーはため息をつきながら、チュインニの顔を思い浮かべた。「とにかく、知識がどうとかそういう問題じゃないんだよ」
「だって」
急に、真面目な表情になるルッキーニに、シャーリーはつい見とれて、息を呑む。
「子供のままなら、シャーリーは……相手してくれないじゃん」
「いや、してるだろ。そりゃ、整備中のときはそっちに没頭することもあるけど」
ルッキー二の手刀がシャーリーのオレンジ色の髪の上にとんと落ちる。
「そーじゃないの、そっちじゃなくて…」
どっちだよ、とシャーリーは言い出したいのを抑え、しばし、うつむき、考え、ひとまずの答えを導き出し、顎に手を置いたまま、ルッキーニを仰いで、ぐいっと彼女を引っ張ると、ベッドに倒した。
シャーリーの指がルッキーの前髪、耳、頬と伝っていく。
ルッキーニは体を震わせて、目をつぶった。
しかし、彼女が頭の中で想像していた事柄は起きず、ルッキーニは静かに目を開ける。
部屋の明かりを背にしたシャーリーの、ゆったりとした目つきと微笑み。
「子供とか、そういうの関係ないよ。私が好きと思ったら好き。そんだけさ」
ルッキーニは、その言葉に、何かしらの悔しさを感じたのか、ぎっと歯を食いしばって、がむしゃらにシャーリーにしがみついた。
「……絶対、絶対、好きにさせるもん」
「のぞむところさ」
シャーリーは、ルッキーニを抱きとめ、口の端でふっと笑った。
学園ウィッチーズシリーズ 第20話 終