はじまりのはじまり
静かだわ、と。エルマはぽつりと思った。
スオムスの空は今日も、今にも雪が降りそうなほどに厚い雲が垂れ込んでいる。
もうすぐ4月だというのに、この北欧スオムスにはいまだ春の気配はない。だってこの雪が解けるのは
まだ1ヶ月以上先なのだ。今はまだその時を待つ我慢の季節。眼下に広がる景色は雲を通して淡く届く
陽光に、鈍い光を放っていた。白、白、白。どこまでも続く、白。晴れた日であれば蒼い空と白い雪のコン
トラストがこの上なく美しいが、このような天気だと風の冷たさもあいまってどこか気も滅入って来てしまい
そう。
(いけない、いけない。)
ぱんぱんと頬を手袋の付いた手ではたく。そしてこんなことで気を滅入らせている場合ではない、と
自身を鼓舞して再び、どこまでもどこまでも白が続くばかりの景色に目を凝らして。
川の向こうにある異形の土地はどこまでも遠く、障気に覆われて黒ずんでいる。かつては緑の美しい
森林がそこに広がっていたのだろうけれど、エルマはその景色を知らないのだった。だってエルマが
ストライクウィッチになるずっとずっとまえから、あそこはそんな土地だったのだから。
この国境線の川をまたいでやってきた2月のネウロイの大規模な侵攻の爪あとは雪の下にすっかり
埋められてもう何も見えない。北の大地をすっかり覆う白い雪は不意に訪れたその脅威さえも吹雪の
たった一晩でかき消してしまうのだ。吹雪の後はどこまでも遠く遠く続くような、蒼い蒼い快晴の空。
そんな景色を見ながら空を飛ぶのが、エルマはとてもとても好きだった。残念ながら今日はこんなにも
雪が降りそうな曇天だけれども。
目を細めて地上を見る。かつて何度も繰り返したプロセスどおり、キツネ一匹見逃さないように。ネウロイ
との戦いが本格化してくる前からずっと変わらない、いつものルート。違うことといえば、以前は陸軍の
スキー兵が自分と同じように偵察にやって来ているのを幾度か見かけたものだが、今となってはからっ
きしである、といったところだろうか。なにしろ、ネウロイとまともに戦うことが出来るのはこの世でたった
一握り、このスオムスでも三個中隊分しかいない機械化航空歩兵──ストライクウィッチの少女たちだけ
なのだから。ストライカーに比べてお世辞にも機動力が高いとは言えないスキーや徒歩で偵察を行って
いては、ネウロイの格好の餌食になる。そこでむざむざ貴重なストライクウィッチを余計に出動させる
わけには行かない、というのが軍の意向なのだろう。
しずかなしずかな、空だった。
(まるでこの後嵐が来ます、とでも言いたげなほどだわ)
そうエルマは思う。もちろんそれはたかが"虫の知らせ"のようなものでしかなくて、恐らくはエルマも
切ないくらいに自覚している自身の臆病さからのものだと思われたのだけれども…なんとなく、いても
たってもいられなくなった。管制室からの情報では、今日はネウロイは現れないだろうという予測が
なされていた。あの、志向があるのかさえ分からないネウロイに休息などという概念があるのかはわから
ないが、どうやらネウロイの出現には一定の周期がある、との判断が固まったらしい。
それでもエルマは自分の目で確かめて見なければ気が済まなくて、気が付いたら智子のもとまで行って
偵察に出かける許可を求めていた。それが確か、三時間ほど前の話。
(行かせてやればいいじゃないか。それで気が済むなら)
だから心配しなくていいのよ、と、兼ねてから心配性の自分に呆れて果てている節のある中隊長の言葉
をきいてしゅんとしていたエルマの脇に突然現れて、そう言ってさっさと立ち去っていったビューリングを
思い出し、心の中でありがとうと礼をする。彼女ときたらそうしてよく助け舟を出してくれるのに本人は
毎度その舟を川岸に放置したままふいとどこかへ消えていってしまう。
だからエルマはいつも申し訳なく思うばかりだ。いつかまとめて礼をせねばならないと毎日日記にした
ためているのだけれど、その数はどんどんと増えていくばかり。出来ればおいしい料理でも振舞ってあ
げたいものだけれど、エルマにはビューリングの好みなど分からない。以前薄味でなければなんでも
いいと言っていたが、その『なんでもいい』というのは一番困る返答だ、とエルマはいつも頭を悩ませる
のだった。何かこの辺りで有名なものを、と思案するもまさか同国の人間でも顔をしかめるような隣国の
ニシンの缶詰だとか、あの不思議な味のする飴だとかを振舞うわけには行くまい。
びゅう、とひときわ強い風が吹いた。魔力で覆われているおかげでそこまで寒さを感じることはないけれど
、やはり強い寒風には体が強張る。…けれどもなんとなく、この震えは寒さのみに起因しているのでは
ないような気がしてならないのだった。時間にして数秒ではあったろうが、物思いにふけってしまった
自分を再び奮い立たせて、胸によぎる不安を打ち消すように白く続くばかりの景色を見やる。川のこちら
側はなだらかな丘が続いていて、その向こうには寒さにも負けず青々と茂る針葉樹林が広がっている。
ふと雲が切れて、押し殺されていた陽光がその小さな小さな切れ間から、エルマの背に降りかかった。
キラキラと雪が光る。青っぽい影を形作り、太陽に向かって目一杯光を反射する──
(…あれ?)
ふと、どきりとしたのは。
自分の進行方向に、雪の返すそれとは明らかに違う輝きを見つけたからだった。不思議な色をした銀色。
雪の鈍い青色とは異なった光。そして、それ以外のものもエルマは見てしまった。ぴしり、と体から音が
したような気がした。もちろんエルマ自身が板になったわけではないからそれは幻覚に過ぎないけれど、
そのくらい、エルマの体はがちりと固まったのだ。
(あれは……ラロスッ!!)
それは見慣れた、黒ずんだ飛行機のような機体だった。すぐに魔道エンジンの出力を上げて、そちらに
近づけば近づくほど状況が見えてくる。先ほど雲の切れ間から覗いた太陽はもうなく、先ほどまでと同じ
ような曇天が空には広がるばかりだったがもうエルマは見間違えるはずがなかった。人が、ネウロイに
襲われている!しかも子供だ!!
いち、に…かぞえるまでもない。淡い黄色味がかった銀色をした少女が、3機のネウロイに追われていた。
幸いにしてまだ攻撃は受けていないようで、器用にスキーを動かして逃げ惑っている。
「…"雪女"、こちら"ひばり"!!緊急事態ですっ!!」
「コールサイン」
ハッキネンの冷静な声が通信機に響く。そのやりとりに、エルマは以前も似たようなやり取りをしたことが
あるのを思い出した。けれどそんなことに構っている場合ではない。自分でも信じられないくらいの大声で、
エルマはマイクに向かって叫んでいた。
「そんな状況じゃありませんっ!人が……子供が、3機のはぐれネウロイに襲われているんですっ!!」
一瞬、あちら側からの言葉がなくなる。その間にも目の前で少女はラロスに襲われ逃げ惑い続けている
のだった。命令を待っている場合ではない。エルマは構わず機関銃を構えた。ラロスも少女も上空に
いるエルマには気付いておらず、丘の上をまるで競争しているかのように滑っている。
(落ち着いて、落ち着くのよエルマ、いつもどおり、訓練どおり、敵を狙って…)
どくどくと、心臓が情けなく音を鳴らす。狙いを定めようとしても手が震えて、上手く定まらない。だって、
だって、自分の狙う先には。
(──ひばり、状況を報告しなさい)
耳に響いた冷静な言葉に、ひとまず息をついて自分の今いる地点を口にした。そして先ほどと同じ、
一般市民がネウロイに襲われている旨を報告する。その間も照準器を見つめ続け、エルマは引き金を
引くタイミングをうかがっていた。照準器に敵が飛び込んでくる。引き金を引こうとする。でも──出来ない。
だって、その先には自分が守らなければいけない対象がいるのだ。機械化航空歩兵であるエルマが
何よりも優先しなければいけない相手。スオムスの国民が。もし間違えて、あの少女に弾を当てて
しまったら?挙句の果てには、そのせいで彼女が命を落としてしまったら?きっともう、自分は立って
いられない。──想像すれば想像するだけ、気持ちは後ろ向きに行ってしまう。あなたには無理よ、
どうせ無理なのよ。心のどこかが諦めたような叫び声を上げる。でも逃げない。逃げちゃいけない。
今にもきびすを返して逃げ出したいほどの衝動に駆られていたけれど、エルマは負けるわけには
行かなかった。
(すぐに増援を向かわせます。──それまで全力で、その少女の保護に努めること。無理な対峙は
控えてください。それが貴官の任務です。分かりましたか?)
「……はいっ!」
──でも、やるしかないのだ。
確か今日、第一中隊や自分の隊の他の面々は機体の整備をするのだと言っていた。となれば、すべて
ではないにしても出撃できる機体はぐっと減ることになる。『すぐに』と、ハッキネンは言っていたがその
声は彼女らしくもない、微かな焦りを怯えていた。もちろんそれは長くカワハバ基地に身を置き、彼女の
言葉をよく聞いていたエルマだからこそ分かる機微であったろうけれども。とにかく、増援には期待しない
ほうがいい。だからハッキネンは『撃破』ではなく『保護』と言ったのに違いない。エルマ一人でラロス3機
を撃破することなど無理だと知っていたから。
(…守らなくちゃ。だって私は、ウィッチなんだもの)
そうだ、戦って、勝つことなんて考えなくていい。撃墜スコアを競うために自分はウィッチになったわけ
ではない。とにもかくにも、まずはあの子を助けなければ。そして、安全な場所に。──そのためには。
ぐい、と再びエンジンの出力を上げ、降下してラロスの脇に躍り出る。そして確実に少女に当たらない
方向、つまりラロスたちの横腹から機関銃の引き金を引いた。バババババ、と体全体に響く振動。射撃の
腕があまり良いとは言えない、更には実戦ともなると情けないほどになる自分では、まともに当てること
さえ難しいと、エルマはちゃんと知っていた。だからその攻撃でラロスが一体も落ちなかったのを見ても、
気を取り直して銃を構えなおす。大丈夫、こうなるのは分かっていた。私はネウロイを撃墜するために
放ったのではない。
「そこの子ーーーーっ!!聞こえてますかあーーーーっ!!」
突然の攻撃に、予想通りラロスたちがひるんだ。その隙にエルマは眼下の少女に叫びかける。そこでは
すでに少女が顔を上げてこちらを見ていた。ちらちらとラロスの様子を見やりながら、エルマは更に
告げる。
「森のほうに向かって!!全力で!逃げて!私もすぐに行きますからっ!!!」
「ウ、ウン!!」
頷いた少女が突然目を見開いた。そして見開いて、叫ぶ。
「あ……!!ねーちゃん、右に避けてえーーーっ!!」
続いた言葉にびくりとして、考える間もなく体をそちらにやった途端、そのエルマの体のすぐ左横をラロス
の放った機銃弾が掠めていった。驚いて振り返るとやはり大したダメージは与えていられなかったようで、
ラロスが3機とも体勢を立て直してこちらに照準を当てるかのように機首を向けていた。これでは少女を
逃がしている暇はない。それはおろか、自分も無事でいられるか分からない。…けれど、まだしばらくは
増援の期待も出来ない。
(戦わなくちゃ…ううん、守らなくちゃ。私が、ちゃんと)
手をぎゅう、と握り締める。手袋越しでも、汗がにじんでいるのが分かる。自分はウィッチだ。シールドが
あるから、多少の攻撃を受けても無事でいられる。けれどあの銀髪をした少女は違う。よく見ると微かに
黒い毛が混ざっているように見える少女は単なる一般市民だ。身を守る術など無い。ならば、いまする
べきことはまず一つ。
「スキーを脱ぎ捨ててくださいっ!!今そっちに向かうから、私に捕まってっ!!」
ラロスに向き直って、もう一度。機関銃を撃ち放つ。先ほどに比べたら当てることが出来たようだけれど、
単機での戦闘経験は皆無に等しいエルマにとって一人の空は恐ろしく大きく、敵は多勢の上強大で。
体の震えが止まらない。懸命に押さえつけようとしても、どうにもならない。けれども自分がやらなくては
いけないのだ。いつものように誰かの影に隠れて、おこぼれに預かるように後ろで震えていることなんて
できない。エルマの背に目はないから視界には入っていなかったけれど、体はしっかりと感じていた。守る
べき相手がそこにいる。自分でなければ誰がやる。
機関銃を撃ち放ち続けながら、エルマは急降下して少女のほうへ向かった。そして手を伸ばす。チャンス
は一度きりだ。これを逃したら、再び体勢を持ち直すのには相当の時間が掛かる。けれど少女のほうを
見やっている暇もない。どうか上手くいきますように──
先ほど少女がいた地点辺りに来て、エルマは内心祈りながら空いた左手を動かして少女の姿を探した。
──しかし、手は空を切るのみ。どうして?なんで?私、もしかして場所を間違えた??どうしよう、私の
せいだ。自分の犯した失敗の情けなさに涙がこぼれそうになった、そのときだった。
「泣かないで。ここにいるよ、ちゃんといるから」
背中にふわり、とした重みを感じた。ぎゅ、と首に手を回されて、おんぶをしているかのような様相になる。
耳元で囁かれてようやっとエルマは少女が自分の背にいることを知った。けれどどうしてか少しも重く
ない。むしろ軽くなったようにさえ感じる。…どうして?不思議に思ったけれどもしかし、それを気にして
いる暇を『敵』が与えてくれるはずがない。ぼんやりとしていたエルマに、鋭く少女が叫んだ。
「ねーちゃん、左ッ!」
「ひだり?」
「いいからそっちに避けてっ」
「は、はいっ!!」
疑問に思っている暇はない。だって少女ときたら次々に指示を飛ばしてくるのだ。エルマはただそれに
従って動くだけ。…けれどそのうちに、あることに気が付く。
「次、うえっ!!」
「はい!!」
少女の言うとおりに避けると、どうしてだろう。先ほどと同じように、避ける前にエルマがいた場所を正確に
ラロスの攻撃が過ぎっていく。だから不思議と被弾することがない。
少女はまるで、敵の攻撃を先読みしているかのようにエルマにそれを伝えて来ているのだった。どうして。
小さく呟く。けれど、それに答えている暇も少女には無いようで。ぎゅう、と少女がエルマの肩を手でつかむ
。情けなく震えている、その肩を申し訳なく思う。けれど直後にはっとした。だって、少女の手もまた同じ
ように震えていたから。当たり前だ。一般市民がこんな間近でウィッチの戦いを見ることなんて無い。怖く
ないはず、無いのに。
それでも少女は臆することなく、エルマに指示を飛ばすのだった。
「次来るよ、下ッ!!」
「う、うん!!」
「右斜め上来るよ、撃って!!」
「…はいっ!」
言われたとおりに機銃を構える。震える指。心臓が大きく音を鳴らす。けれどそこに敵の姿はまだない。
「む、むりよ…当たらないわ。だってそこにはなにも…」
「大丈夫、絶対当たる。ちゃんと全部、"視えてる"」
ぎゅう、と後ろから小さな体がエルマを抱きしめる。耳元でもう一度、少女が呟いた。
「大丈夫。絶対大丈夫。怖がらないで。私を信じて」
「でも、」
「ねーちゃんならできる。信じてるから」
「……しんじ、てる…」
信じてる。その言葉にほわんと胸の奥が熱くなったのを感じた。どうしてだろう、『絶対大丈夫』、そんな
感覚が体中に広がっていく。銃を構える。不思議といつもよりずっと安定している。ストライカーの調子も
すこぶるよく、何でも出来そうな心地。こんなに寒い冬の日なのに、どうしてかひどく背中が温かい。
――そう、少女のいるそこから、魔力が直接流れ込んでエルマに力を与えてくれているかのような。
できる。今の私なら。
確信めいた気持ちで、エルマは目を見開いた。構える先は全くの虚空。3機のラロスはどこにいるの
だろう?──でも、そんなことは今はいい。大丈夫。信じよう、この子を。信じよう、私を。
「いっけええええーーーー!!!」
少女の叫ぶのと同時に機銃の引き金を引くと、すぐ目の前にラロスが躍り出た。
*
ゆるゆると降下して、ぼふり!柔らかな雪にダイブするようにして着地する。疲れ果ててはいるが、エルマ
も少女も、体には傷一つない。
空からキラキラとした、ネウロイの破片が雪のように降って来た。いつの間にか雲はとぎれて、曇天の
はずだった空から、筋のように太陽の光が差し込んで来ている。まるで昔絵本で見た光景のよう。
天使のはしご。そう、確かその絵本ではこの景色をそんな風に呼んでいたっけ。
「…あの…大丈夫?」
年の頃にして10つくらいだろうか。先ほどまでエルマの背の上で共に飛んでいた少女は今、不時着に
備えるために前から抱き締めた、その格好のままでエルマの胸にしがみついている。スオムスの軍服と
よく似た色をした水色の上着を羽織って、金髪を薄く薄くしたような、銀色の髪をして。そして、髪の一部が
黒く逆立っていて──
そこでようやっと、エルマはあることに気が付いた。いや、むしろ今までどうして気付かなかったのか、
ということにが不安になるくらいに、それは明白だったのだ。
「あなた、ウィッチなの?」
尻の辺りを見やると、犬のそれよりもふさふさとした、先の白い黒いしっぽがある。そして頭にすっくと
立っているのは、やはり犬のそれよりも幾分か長い、黒い二つの獣の耳で。つまりそれは、この少女が
魔女の力を持ったウィッチであることを示していた。
がくん、と少女から力が抜けたのを感じ、エルマは慌ててそれを抱きとめる。同時にしゅるりと頭から耳が
消え、傍らに犬のようでいて犬ではない、黒ずんだ獣が現れた。主人に寄り添う犬のように、獣は少女に
顔をこすり付ける。
「ねえ、どうしてあんなところにいたの?ここは国境近くだから危ないって、お母さんに言われなかった?」
先ほどから自分は質問ばかりだ。それでも少女が何も答えないものだから、エルマは質問に質問を
重ねていくことしか出来ない。困り果てて、ひとまずぎゅう、と少女を抱きしめた。もしかして先ほど敵の
攻撃を先読みしたような発言をしていたのも、もしかして彼女の能力だったのだろうか。
(だとしたら、すごいことだわ)
だって、ウィッチの中でも特殊能力を持つものがそもそも稀なのだ。少なくともエルマはその類のウィッチに
はまだ、一人もあったことが無い。遠く、つらい戦いの続いているカールスラントにはそんな優秀なウィッチ
が数多くいるというが、この北欧の田舎ではウィッチとなるだけの魔力を持つことさえ貴重なのだから。
その特殊能力が、例えば敵の動きを先読みできる類のものなのだとしたら──そうしたら、全然怖くない
わ。確かエルマはかつて、そんなことを思ったことがあった。人一倍臆病な自分でも、そんな能力があれ
ば怖くないのに、と。もちろんそんな力があればそもそも怖がりなどではなかったのかもしれないけれど、
それは大した問題ではない。
この子はきっと将来、このスオムスを背負って立つような、そんなストライクウィッチになる。
そんな確信めいた気持ちが、エルマの胸によぎった。それはただ単に彼女の特殊能力からのみ判断
したのではない。あの背中から感じた、強い強い力。他人にまで影響を及ぼすような強大な魔力の証。
それよりも、なによりも。
手を伸ばして、まっすぐなストレートの長い髪をゆっくりと撫でる。微かにいまだ、震えているその体。
怖かったに違いない。怖くなかったはずが無い。それでも、怯える自分を勇気付けてくれた。「大丈夫」と
囁いて「信じて」と呟いて。そして、「信じてる」といってくれた。『いらん子』などと言われて皆から笑われて
ばかりだった自分を、初対面でこんなにも信頼してくれた。そのことがエルマは嬉しかったのだ。
ぼそぼそと、胸のところで少女が小さく何かを呟いた。じんわりと熱いものがこみ上げるのはきっと、
少女の涙で衣服が濡れているせいだけではない。そのつぶやきは小さな小さなものだったけれど、
しっかりとエルマの耳に、心に、届いていた。
(ありがとう)
もしかしたらウィッチとして初めての、自分に対するまっすぐな感謝の言葉。自分がこの小さな女の子を
救ったという証。この世のどんな勲章よりもずっとずっと意味のある、最高の名誉。
「ありがとう──」
少女が顔を上げて、もう一度感謝の言葉を述べる。何かを言いかけて淀んだのを見て、エルマはにこ、
と笑って恐らく彼女の望んでいる言葉を返した。
「私の名前はエルマ。エルマ・レイヴォネン。スオムス空軍中尉──ストライクウィッチです」
ねえ、いつかもしかして、あなたも私と同じ空を飛んでくれるかしら。そんな未来が、あなたには見えますか?
届くはずは無いけれど、そんな気持ちを込めて語りかける。少女と自分が着ている衣服を見ていると、
まるでスオムスの蒼い空が白い雪の上にちょこんと乗っかったようだ。それはエルマの、とてもとても
大好きな景色で。
「ありがとう、エルマ」
「あの、あなたの名前は──」
「エルマ中尉~~~~!!!」
少女の名前を尋ねようとした瞬間、元気な声が、空から聞こえた。見やるとそこにはぶんぶんと手を
振っているキャサリンを先頭に、なぜか対のメンバーが全員集まっている。キャサリンに続いてウルスラ、
ビューリング。ちなみに智子はというと後ろのほうでハルカとジュゼッピーナに絡まれてじたばたしていた。
「みなさん!!」
嬉しくなって、エルマもキャサリンに負けないくらい大きく手を振った。腕の中の少女も一緒に揺り動か
されて、いつの間にか笑顔を浮かべていた。
「遅れてもうしわけなかったね。準備に手間取ってしまったねー。」
「…残機ゼロ。エルマ中尉3機撃墜」
「Oh!!さすがエルマ中尉ね!!見事全部撃破してしまったのね!」
ウルスラとキャサリンに手を出され、その手をとるエルマ。少女はというといつの間にかビューリングに
抱きかかえられていて、何が気に食わないのかじたばたと暴れている。なんだかおかしくてくすくすと笑う
と、少女は恥ずかしそうに口を尖らせてうつむいた。後ろではビューリングがなぜかひどく楽しそうな顔を
している。
「ありがとうございます、実は魔力使い果たしちゃって、へとへとで…ぇ」
「エルマ!!」
「エルマ中尉!!?」
「オーゥ!たいへーん!!」
お疲れ様。
今日一日は非番だったはずなのに、どこかげっそりした顔でいる智子のもとにたどり着いてそう言われた
ところで、エルマの意識は途切れた。
エルマ!!自分の名前を呼ぶ、自分の助けた、自分を助けてくれた少女の声だけが、エルマの耳の奥の
奥にまで確かに届いた。
*
目を覚ましたらそこは見慣れた、基地の宿舎の天井だった。起きたか。その言葉とくゆるコーヒーの香り
で傍にビューリングがいることを知る。
「あのう、ビューリング少尉、」
「あのキツネ娘はエイラ・イルマタル・ユーティライネンというらしい」
「…はあ」
「10歳の誕生日を祝うために、家族で祖母のところに帰省していたんだと。どうも村のまじない師だとか。
…まあ、先月の侵攻で帰るに帰れなくなって仕方なくまだここにいるのだとか言っていたが」
エルマの反応などお構いなく、どうやら送り届けるついでに尋ねておいてくれたらしいメモを読み上げて
いる。ああまたお礼を言わないといけないことが増えた。話を聞きながら、心のどこかでエルマは思う。
「『ありがとう』と伝えておいてくれと言われた。命の恩人だと。──良かったな」
「…はい」
がたり、とビューリングが席を立った。どうしたのだろう、と見上げると「ウルスラが外で人払いをしている
んだ」と肩をすくめる。寝込んでいる病人がいるにもかかわらず世話を焼きたい騒ぎたい連中が多くて
困る、と。眠っている自分の口に切ったりんごを突っ込まれたり、添い寝と言わんばかりにベッドに
潜り込まれていろいろされることを想像して、エルマの口から乾いた笑いが漏れた。常識で言えば絶対に
やらないであろうことだが、そんなものがこの部隊にないことは当初から周知の事実なのだ。
「おい、中尉が目を覚ましたぞ……と、わ、わ、うわあああ!!」
ビューリングが扉を開いた瞬間、まさに『堰を切った』ように何人もの人間が部屋に雪崩れ込んできた。
キャサリンやウルスラをはじめとした部隊の面々はもちろん、どうしてかアホネンやハッキネンまでいる
ことにエルマは目をぱちくりさせる。駆け寄ってきた彼女らに押しつぶされてビューリングが床で伸びて
いるのが人と人との間から見えて、不憫に思うと同時につい噴出してしまった。そういえばビューリングの
あんなにも慌てた声ははじめて聞いた気がする。みんなはそんなことはどうでもよいようで、一体エルマ
の見舞いに来たのかただそれに乗じて騒ぎたいのか分からないくらいにはしゃいでいた。智子やアホネン
やハッキネンに、りんごやらベリーやらをひっきりなしに差し出される。冷たいタオルと熱いタオルを順繰り
に頭に乗せられてどちらがいいのかウルスラとハルカがどうしてかにらみ合いをしている。キャサリンが
放った空砲がまた、宿舎の壁に穴を開けた。ジュゼッピーナはというと「パスタ作ってきーましたー」と果物
でいっぱいになった口の中にフォークを差し出そうとしてビューリングに後ろから止められていた。もう
何が何だかわからない。先ほどまでの静けさが嘘のようだ。──そう、静かな後には必ず、何か一波乱が
起こる気がするのはこんな光景を毎日目にしているからかもしれない。
どこかもう慣れてしまったその喧騒を穏やかに見やりながら、エルマはあの少女に思いを馳せていた。
いつか一緒に空を飛べるだろうか。一緒にスオムスを守ってはくれないだろうか。そんな淡い希望を、窓の
外の景色に乗せる。外は猛吹雪で、これではネウロイも襲ってはこれないだろう。皆がここに終結して
いるのも恐らくはそれが理由なのではないかと思う。それでも心配してくれていたことが、エルマはこの
上なく嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、顔が綻ぶ。
「ありがとうございます。」
口にするのは、ありとあらゆる人への感謝。それはまだ欠片でしかないから、もっともっと形にして、伝えて
いかなければいけないけれど、とりあえず今は、これだけでも。
今も同じ空の下にいるあのダイヤの原石にも、届けばいいと願いながら。
その少女がその後ストライクウィッチとして志願し、スオムス随一のエースとなって世界をまたにかけ
活躍するのはまた、別の話である。