いまだ咲かずのナルキッソス


獣の唸り声のようなけたたましいサイレンの音が鳴り響くと、決まって体を強張らせてそっと物陰に隠れる
のが常だった。どうか見つかりませんように、見咎められませんように。そんなことを祈りながら廊下の、
厨房の、自室の、待機所の、隅っこでぶるぶると震えていた。まるでおびえた猫のように。

「リネット軍曹、なにをしている!出撃だぞ!!」

いっそ空気になって溶けてしまえたならそれが一番楽なのに。けれどもそんな淡い期待は瞬時に露と
消えてしまう。慌しくなった基地内に、彼女を呼ぶ声が響く。は、はいぃ。震える返答に、自分は役立たず
であるという意を込めるのだけれどウィッチの一人、つまりは戦力としてこの部隊に配属されているところ
の彼女が上官の命令を拒絶することなど出来るはずもなく。
抜けた腰を何とか直して起き上がろうとした、ところで。

「ホラ、いくゾ」

もうすっかり見慣れてしまった水色とその上にある不思議な色をした銀色が、座り込むリネットの目の
前にひょい、とやってきて手を差し出した。妙なくらい自分のそれと比べて広く見えるその手のひらに、
リネットは足を抱えたその姿勢のまま彼女の方を見上げて彼女の名前をつぶやいた。──えいらさん。
この間誕生日を迎えたリネットとその同僚とは実のところ同い年で、15歳である。けれどその彼女は
出撃などもう生活のサイクルの一部であるといった様相で、例えば学校に出かけるのをテストがある
からだとかで渋る友人を引いていくような顔で、リネットを見つめるのだった。バルクホルン大尉にどや
されるの、いやだろ?と、懸案事項などそれ以外にあろうはずもないといった表情。

仕方なしに立ち上がろうとする。リネットの腰が抜けているのに気付いたのだろうか、即座に手首をつか
まれる。ぐいと引き寄せられるけれどちっとも痛くないのは、彼女がそういった力加減を心得ているから
だろうか。この人はいつも、リネットよりずっと線の細い印象をうけるふたつほど年下の少女の世話を
焼いているから。

「今日は戦果上げられるといいナ、リーネ!」

無邪気にその、同僚かつ上官であるところの少女は笑った。この部隊に配属されて2ヶ月足らず。訓練
学校からそのままこちらに配属されたこともあるのだろうが、まだ一つの戦果も上げられていないリネット
を彼女はさも当然に気に掛けてそう言う。

はいそうですね、と頷いてみたかったけれど、そんな余裕などリネットにはなかった。心臓がばくばくと
音を鳴らしている。まだ空に出る前だというのに、体に力が入らない。足がすくんで泣きそうだ。
それだのに目の前で手を引く人はというと、いつもの飄々とした態度そのままのような、強いのか弱い
のか分からない握り方でリネットの手首を握り、けれども足をしっかり地に付けて前へ前へ、皆の待つ
格納庫のほうへとリネットを導いていくのだった。その迷いない足取りは、もしかしたら目を瞑っていても
目的の場所にたどり着けるのではないかというほど。

そこにリネットはいつも、明らかな実戦と才能の差を見せ付けられている気がしてならなくなる。そのくせ
「すごいですね」と褒め称えたなら、「そんなんじゃねーよ」とぶっきらぼうに口を尖らせるのに違いない
のだと思った。共に過ごしてまだ短いけれど、彼女は相当の恥ずかしがりらしいことはすぐにわかった。
微かに唇をかみ締める。それがあちらに嫉妬しているからなのか、情けない自分が憎いだけなのか、
リネットには分からなかった。


ゲルトルートを先頭にして空に飛び上がる。後続にエーリカ、エイラ。そのしんがりにリネットはいる。
いつもの定位置。

「リネット軍曹、遅れているぞ。エンジンの出力を上げろ!」
「は、はいっ!」


通信機から、ゲルトルートの鋭い指摘が耳に届く。普段飛行隊長を務めている美緒が今扶桑に帰国して
いる代わりに現在飛行隊長の任を担っている彼女は普段よりもさらに気を引き締めているのだろう。普段
から『規律』を重んじる傾向は以前と変わらないが、ここ一月は更にその傾向が強くなっている気が
リネットにはしてならない。実のところリネットはゲルトルートのそんな気質をひどく苦手としていたから、
さらに辟易してしまうのだった。

「まーまートゥルーデ、そんなにガミガミ言わなくたって。リーネもあんまり固まらないでさ、楽しんでいこ!」
「何を言っているハルトマン!ここは戦場なんだぞ!何かあったら自分で自分の身くらい守らなければ
 いけないんだ!僚機に頼ってるようではまだまだ…」
「あーはいはい、わかりましたわかりましたーぁ……ブチっとな」
「おい、聞いてるのかハルトマン!って、おい、通信を切るなぁっ!」

そんな、原隊からの友人同士であるというゲルトルートとエーリカの、穏やかではないはずなのにどこか
ほほえましいやり取りが耳に届いて、リネットはとてもとても羨ましい気持ちになる。思うのは飛行学校
時代の友人たち。本来のプロセスどおりそれぞれの部隊の、それぞれの基地に配属された仲間たちの
中からなぜか一人『エリート集団』と名高いこの第501統合戦闘航空団に配属された自分。確かに訓練
学校時代の成績は悪くはなかったけれど、配属された当初も今も何故自分が、という気持ちは拭えない。
だってこの部隊に集うウィッチたちときたら年上のミーナや美緒たちはもちろん同年代のエイラやペリーヌ
はおろか、年下のルッキーニまでもそれぞれの原隊で腕を鳴らし、エースと謳われていた優秀な人材
なのだから。

同じくらいの実力の子達と一緒に、楽しく上達していけたらよかったのに、何で自分だけ。リネットはため息
をつく。目の前に広がるのは別世界過ぎて踏み込めなくて。手を伸ばしたって届かない。もともと人見知り
の強い気があるリネットでは、話しかけることさえ怖くて出来ない。

いつの間にかゲルトルートより先行していたエーリカを、ゲルトルートが追っていく。その様子を手を頭の
後ろに回して眺めていたエイラがくるり、と振り返ってにこ、と笑った。リネットは飛ぶことだけでも一杯一杯
なのに、こうして平然と冗談じみた会話を交し合ったり、朗らかに笑ったりすることの出来る隊の先達たち
が羨ましい。
ふっと、エイラが視界から消えたと思ったらすぐ後ろからぽん、と肩を叩かれた。頑張ろうぜ、後ろよろしくな。
見事な宙返りを決めて戻ってきたエイラがリネットに囁く。ふい、とエイラが視線を前方に向けたので
そちらを見やったら、数百メートル向こうに黒い機影が複数。

「ネウロイに接触!敵五機、戦闘を開始するっ!!」
再び通信機から届く、ゲルトルートの声。幾分か緊張した声で皆が答える。
「「「イエス、マム!!」」」

突っ込んでいくエーリカ機。シュトルムの作り出す風とその摩擦により生まれる火花がキラキラと輝いて
いる。僚機のゲルトルートはその援護をしながらも確実にこちらよりも多勢のネウロイにダメージを与えて
いる。そのゲルトルートを、更にエーリカが援護して…息のあった二人のロッテが、今一機、ネウロイを
撃墜した。
一方そこから少し離れた場所で別のネウロイを相手にしているエイラも負けてはいない。敵の繰り出す
攻撃を軽やかに避け、確実な攻撃を食らわせてまた離れて。時にはカールスラントの二人の援護に回り、
見事なまでにうまく立ち回っている。『戦場すべてが見えているみたいだ』とかつて誰かが評していたのを
リネットは聞いたことがあったが、こうして遠くから一人眺めているリネットよりもずっと、エイラは戦況を
把握しているような気がして確かにならない。

「リーネ、行けるカ?」

耳元から、いつもの抑揚の無いエイラの声。はた、と気が付いて慌ててリネットは自らの得物──ボーイズ
ライフルを構える。狙撃に特化した長距離型の銃器。それを姉に告げたとき、そう言えば姉は『あなたに
ぴったりね』と小さく笑っていた。恐らく自分の臆病さを見透かしていたのだろう──近距離で面と向かい
合って戦うよりもよっぽど、遠くから気を落ち着けて確実に相手を狙える狙撃手のほうが、リネットには
合っていると。


はあ、と一つため息をつく。照準器を見やって、相手に合わせる。魔力で視力を強化すれば敵がどれほど
離れていようともさしたる問題ではない。風を読んで、敵の動きを読んで──狙うは今エイラと戦闘中の
ネウロイ。彼女が機敏に動き回るおかげで行き場をなくして立ち往生している。あたりさえすれば、この
銃は大きなダメージを与えられる。コアを打ち抜く必要はない。とにかく、当てさえすれば。

(だいじょうぶ、難しくなんかないわ。いつも訓練では出来ているじゃない)

懸命に言い聞かせる。「お前ならきっと大丈夫だ」と、扶桑に出かける前美緒は笑っていた。訓練の出来
具合に関して言えば、問題を指摘されたことはほとんどない。そう、訓練に関して『だけ』を言えば。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。何度も何度も言い聞かせる。照準は定まった。あとは引き金を引きさえすれば
いい。そうすれば当たる。絶対当たる。大丈夫。

「リーネ、あぶないっ!!」
指に力を込めたその瞬間、ひどく焦ったエーリカの声が響いた。直後に別の声が重なる。
「左に避けロ、リーネ。」
エーリカのそれとは打って変わった、いつもどおりの落ち着きある声。そう言えばこの人が声を荒げること
などほとんど無いわ、と心の中で思いながらも、言われたとおりに体をひねる──が、その瞬間こめられ
た指が引き金を引いた。

バンッ!!

訓練で感じなれた振動にのけぞるリネット。その反動でリネットは皮肉にもエイラの指示した方向に体を
ずらすことになり、直後その脇をネウロイの放った光線が掠めた。けれどそんなことに構っている状況で
はない。放ったのは自分だから分かっている。自分が今放った、その方向には──

「エイラさんあぶないっ!!よけてえええええええ!!!」

声の限りに叫ぶ。ふ、と振り向いたエイラが再びにこ、と笑ったのをリネットは見た。そして大丈夫、と
いわんばかりにちょいと体を動かす。するとどうだろう、リネットの放った銃弾も、同時にエイラに向かって
放たれた幾本ものネウロイの攻撃も、紙一重でぴたりとエイラの体をすり抜けていく。まるで弾丸が、
光線が、自らその体を避けていったかのように。

そしてぐるん、とまたひとつ下方宙返りを決めて、ネウロイの腹辺りに位置をつけると、先ほどエーリカ
たちネウロイを撃墜したときに当てたその場所に、正確に機銃を打ちはなった。今相手にしているネウロイ
5機はすべて同型だ。そしてエイラはそこにコアが存在していることを、自らも相手と戦闘を行いながら
しっかりと目に留めていたのだった。

「ラストォ!」

そんな呟きと共に、再び機銃を掃射する音が遠く響いたら、先ほどまで視界を駆け巡っていた黒い機体
たちはすべてきらきらとした破片となって霧散しているのだった。ひゅーぅ、とエーリカが口笛を吹く。さすが
だな、とゲルトルートが呟く声がする。そしてエイラは相も変わらず、一人リネットに向かって笑いかけると
こういった。

「惜しかったナ、次はイケルよ、リーネ」

はあ、はあ、と。肩で息をしながらリネットは再び唇をかみ締める。ずるい。ずるいよ。呟くのは誰に対して
なのか。わけ隔てて才能を与えた神か、それともエイラやペリーヌたちに対してなのか──リネットには
欠片も分からなかった。

「ネウロイの消滅を確認。これより帰還する」


ゲルトルートの言葉にきびすを返してこちらにやってくる三人。エイラは楽しげにリネットのほうに近づいて
きてまた、さあ行くぞ、とリネットに手を伸ばす。
「…大丈夫です。ひとりで、いけます」
手を握り返さないのは悔しいからだと、醜い嫉妬心からなのだと、ふうん、と笑って付いてくるエイラは
気付いてさえいないのだろうと思うと、リネットは悔しいような、申し訳ないような、そんな気持ちでいっぱい
になるのだった。

「…危ないところだったな。エイラでなかったら…」
「わわ、トゥルーデのばか!リーネに聞こえたら大変だろ!」
「そ、そうだな…」

大方エーリカ辺りが電源を切り忘れているのだろう。それとも機械音痴だというバルクホルンが使い勝手
を知らないのだろうか。二人の囁き声が通信機を通してリネットの耳に届く。思わず切ってしまいたくなった
けれど、それはひどく傲慢な行為のことのような気がして出来なかった。

「帰ろう、みんなが待ってル」

その通信を聞いているのか聞いてはいなかったのか、エイラがよってきてリネットの頭をかき回し、背中
から手を回して胸をまさぐり始めた。
「ややや、やめてくださいエイラさん!!」
「ほれほれ、元気出せ~!」
まるで昔からの友人のような態度でエイラはいつもこうしてリネットをからかったりおちょくったり励ましたり
するのだった。それはシャーロットのするような慈愛じみたものではなく、かといってルッキーニのように
全くの純粋なものでもなくて。ただ、同年代の友人とはしゃぎたい、それだけの気持ちしか込められていなくて。

基地に帰り着く。お疲れさーん、と手を振る、仲間たちの姿がある。リネットにはまだ、彼女らを仲間と
読んでいいのか分からなかったけれど。──だって、自分がこの部隊にいていいのか、リネットには
まだわからないから。
タダイマ!!そんな風に無邪気に笑んで、出迎える面々の中に自分の大好きな少女がいるのを見つけて。
「サーニャ!起きてたのカ!」
目を輝かせて景色に溶け込んでいくその背中を、リネットはぼんやりと眺めていた。まるで飼い主を見つ
けた子犬のようにはしゃぐその姿に、先ほどのりりしい姿は片鱗もない。
「相変わらずだなあ、エイラは」
ははは、とエーリカが後ろで笑う。ゲルトルートはふん、と鼻を鳴らしただけであったけれど、それでも重ね
て何も言わない辺り、二人に関しては何も言うつもりがないのだろう、とリネットは思う。

エーリカにとっての、バルクホルン。
エイラにとっての、サーニャ。
自分もそんな相手がいたのなら、こんなに切ない気持ちでいることはなかったのだろうか。惨めな気持ち
を抱くことなどなかったのだろうか。たら、れば。そんな空論を内心で積み上げて、少し落ち込む。

「ぼんやりするな、リネット軍曹」

ゲルトルートに促されて慌てて格納庫へと滑り込んだときにはもうあの空色は消えて、天はすっかり
夕焼け色に染まっていた。





「サーニャ、大丈夫かよー」
おぼつかない足取りで歩くサーニャを支えるようにして食堂に入り込む。朝食の開始時間はとっくに過ぎて
いる。エイラとサーニャはいつもこんなぎりぎりの時間に来て、朝食を食いっぱぐれるすんでのところで
ようやく食事にありつくのが常であったから、皆「またか」と肩をすくめるばかりで何も言わなかった。遅れ
てくる理由なんて分かりきっている。どうせ昨日の晩もサーニャがエイラの部屋に潜り込んで眠り、起床
したエイラがサーニャを起こすか起こさないか迷っているうちに時間が過ぎてしまったとかそんな理由
なのだろうから。

席に着くと同時に、「遅いぞ、ユーティライネン少尉」。開口一番ゲルトルートが不機嫌そうにつぶやき、
「そうよ、今度からは気をつけなさいね」とミーナが引き継ぎ、「ねー、私ももうちょっと寝てていいでしょお?」
とエーリカが提案する。
そしてゲルトルートは「そんなわけにいくかっ!」と怒りの矛先をエーリカに向け、ミーナはそれを見やり
ながら穏やかに朝食をとり、「今朝もお楽しみだったのかあ?」「ねー、お楽しみってなーにー!?」と
言ったシャーロットとルッキーニのやりとりに「そんなんじゃねーよ!」とエイラが返す。
そのあと「はしたないですわよ」と更に突っ込みを入れるペリーヌに、「ウルセー」と噛み付いて。それが
いつものパターンで、そして当然のごとくこの日の朝もそのプロセスを飽きもせずに繰り返していたエイラ
ははた、とどこか不思議な物足りなさに気が付いた。まあいいじゃないか、とばかりにわっはっは、と笑う
美緒がいないからだろうか?違う。そして食堂をぐるり、と見渡してようやっとああ、と納得する。

「リーネがいないな。どうしたんダ?」

そう、普段だったらそれらのやりとりのの最後に、いつもテーブルの隅っこでにこにことしているリネットに
「よっ」なんて話しかけて、「シャーリーたちひどいよナ」なんて加えていたから、そのために見やった視線
の先に目的の相手がいないことを不思議に思ったのだった。もちろん、リネットがこの部隊に配属されて
からはまだ日が浅いために、一瞬その不自然さを見逃しそうになってしまったのだけれど。

「…リーネさんなら、今日は具合が悪いから部屋で休んでます、って」
ふう、とため息をついてミーナが答えた。その様子を見るに、どうやら単なる体調不良ではないらしい。
もしかして。エーリカとゲルトルートが顔を見合わせ、その後にエイラを見た。ああ、と思い当たるのは
昨日のこと。間違えてエイラに対して銃を放ってしまったときの、あの世界の終わりを目の前にしたよう
な表情。その後の、泣きそうに歪んだ顔。

大丈夫かなあ、リーネ。ポツリとルッキーニが呟く。この小さな子猫がシャーロットの次といっていいくらい
にリネットに懐いていることに、リネットは欠片も気付いていないのだった。もっともそれはその豊満な
バストがルッキーニの恋しがってやまない故郷の母親に似通っているからなのだけれど、それでも
ルッキーニがリネットに懐いている事実は変わらない。
さあ、どうだろうなあ。答えるシャーロットはどこか意味ありげな視線を送りあうカールスラント勢を見や
って何か勘付いたようであった。大丈夫さ、きっとすぐ良くなるよ。ルッキーニがいいこにしてればさ。必要
以上に踏み込むことを好まないリベリオンの中尉は、そうしてルッキーニの気を逸らす。
エイラの傍らのサーニャばかりが何も分からない、といった様子でこくりこくりと舟をこいでいて。ともすれば
皿に顔を突っ込みそうになるサーニャをすんでのところでエイラが取り押さえる。そしてふう、と一つ息を
つくと、空いた皿を取りあげて言った。

「ミーナ中佐、私、リーネに朝ごはん持ってくヨ。いいでしょ?」
サーニャも行く?恐る恐る尋ねると、サーニャがぱちりと目を開けてうん、と頷く。そうかと答えて、「ジャア、
二人で行ってくる」と重ねるエイラ。
ゲルトルートたちから報告がてら事情を聞いていたミーナは一瞬戸惑った。過失とは言え、間違えて味方
を撃ってしまうところだったこと。それは元来からひどく気の弱いところのあるリネットにとってひどいトラウマ
になったのではないだろうか?エイラだったから良かったものの、もしも他の隊員だったらどうなっていた
か──


けれどその考えを打ち消したのは、「いい?」と尋ねてくるエイラがいつもの底知れない、何を考えている
のかよくわからない笑顔を浮かべていたからだった。何か妙案があるのか、それとも何も考えていない
のか。わからないけれどなんとなく何とかなりそうな気がしてきてしまう不思議な笑み。それは彼女が先の
未来を読んで、自分がそれを諾することを知っているからなのかもしれないし、別に理由なんてないの
かもしれなかった。けれども信じたい。託してみたい。そう思える顔を、エイラはしていた。

「…そうね、お願い。頼んでもいいかしら」
「わかっタ!」
ミーナの言葉を聞くやいなや、エイラはサーニャと共に席を立った。


カーテンの締め切られたリネットの部屋は薄暗く、ゆっくりと扉を開くと微かな嗚咽が聞こえてきた。ひっく、
ひっく。部屋にこだまするその音で、エイラは部屋の主がベッドの上で丸くなって泣いているのだということ
を知る。
ここで待っている、と言うサーニャを扉の外に待たせて、一人部屋の中に入り込んだ。特に抜き足差し足を
したわけではないが、部屋の主たるリネットは全く気付かない様子でひたすらに泣くばかり。

目を瞑っても、フラッシュバックするのは昨日のことばかりだった。昨日はエイラだったその姿が、例えば
ミーナに変わったり、美緒になったり…そうして夢の中で、彼女らはネウロイの攻撃と自分の狙撃、どちら
もを受けて撃墜される。お前のせいだぞ、と憎憎しげにこちらを見やりながらまるでぼろきれのように落ち
ていくその姿を、リネットはがたがた震えながら見やることしか出来なくて、そんなリネットを他の隊員が
冷たい目で見ているのだった。なんてやつだ、と吐き捨てて、お前なんて来なければよかったんだ、と
突き飛ばして。
何度何度謝っても、許されないのは知っていて。だからリネットは謝罪の言葉一つ口にすることが出来ず
にその軽蔑に視線に耐え続ける。そんな夢。

そんな状態で隊の皆のそろう朝食の席に顔を出せるはずもなく…なかなか来ないリネットを見かねて
部屋まで呼びに来たミーナに体調不良を告げた。本来は心に起因するばかりの、言ってしまえば仮病で
しかないそれを。何も言わず、咎めずにいたミーナは昨日のことをもしかしたら知っていたのかもしれ
なかった。

「オーイ、リーネ」

厨房にいたコックに具合の悪い隊員がいること、何か食べやすいものを持って行きたいとの意を伝えたら、
すぐに手早くサンドウィッチを作ってくれた。それとミルクが乗った皿を手近なテーブルにおいてベッドに
歩み寄ると、リネットに触れて揺り起こす。

「起きろ、朝だぞー」

実家から送られてくるのだという色とりどりの花と、それらから作られたドライフラワーとで埋め尽くされた
部屋は、まさに『女の子の部屋』といった趣を感じさせる。ドライフラワーが作られた経緯が、「もったい
なくて捨てられない」だったこと、そう嘆いていた彼女に「じゃあドライフラワーにすれば?」と何気なしに
言ってみたところ本気にしてしまったことだったのを思い出し、リーネらしいよな、とエイラは肩をすくめた。
ふわり、と優しいいい香りが漂うこの部屋で迎える朝はさぞや爽やかなものだろうに、その空間を作り
出した本人はいま爽やかさなどそっちのけでどんよりとベッドの上でいじけている。

「あのサ、昨日のこと気にしてるかもしれないけど、全然気にしなくていいんだからナ」

仲間に撃たれそうになったのなんて、別に一回や二回じゃないしさ。喉まででかかったそれを、なんとなく
今は飲み込んでおく。『不運にも』どうしてか手を滑らせて味方に弾が流れてしまっていた故郷の同僚を
思い出して、く、と笑いを一つ。思えば自分が戦況を広く見られるようになったのは、あの同僚のおかげ
かもしれない。絶対に感謝などしてやらないけれど。


「何があったって私はぜったいにやられたりしないヨ。ぜったい、大丈夫だから」

起き上がる気配を全く見せないリネットは、それでもエイラの言葉は聞いているらしかった。嗚咽をやめ、
押し黙ったベッドの上の膨らみが見えるように体を斜めにして、エイラはベッドの端に座り込む。

その通り、リネットはエイラの言葉を聞いていた。まるで慈しむかのような、同い年のはずの彼女のその
言葉に胸が軋む。『絶対』をこんなにも軽く口に出来る彼女が羨ましくて憎たらしくて仕方がない。ねえ、
どうしてあなたはそこまで自分を信じられるの。あなたが見ているものが『未来』だなんて、誰が決めた
の。それをどうして信じられるの。
そんな歪んだ気持ちは、思わず口を付いて出てしまった。

「エイラさんには、私の気持ちなんて分かりませんよ。…エイラさんみたいな何でも出来る人に、私の
気持ちなんて分からないんです…っ!!」
「私は別に何でも出来るワケじゃ、」
「出来るでしょう!?あんなにたくさんネウロイを撃墜できて、全然怖がったりしないで、挙句の果てには
 私に優しくなんかして!!私を可哀想に思ってるんでしょう?そうなんでしょう?でもそれって、私を
 格下に見てるからですよね!?私が役立たずだって、落ちこぼれだって、そう思ってるから!!
 違いますか!?」

がばり、と起き上がって、まっすぐエイラを見て。胸の中で淀んでいた思いをぶちまけた途端に後悔した。
ひどく驚いた顔でエイラがこちらを見ている。ぽかん、と口を開けてリネットをしばらく見やって、やがて
困ったように視線を落とした。
腹の底から、居心地の悪さと気持ちの悪さが上ってきた。なによりも、そんなことを口にしてしまった自分に
嫌気が差してリネットは泣きたくなる。…分かっているのに。エイラはちゃんと、まだウィッチとして駆け出し
で、うまくいかないことばかりの自分を心配して何かと世話を焼いてくれているのだと。エイラだけじゃない。
今はいない美緒も、ミーナも、ゲルトルートやシャーロットたちも。…分かっている。分かっているのに、
どうしても卑屈になってしまう自分が、一番憎たらしい。

「……ごめんなさい、私…」

謝ってももう遅い。分かっているけれど。同い年とは言え、上官にこんな暴言を吐くなんて始末書ものだ。
出来ればこのまま原隊に強制送還してくれないものか、と思う。

「リーネちょっと、そこに直レ。」
しばらくしてぽつり、と呟かれた彼女の言葉に、言われたとおりリネットは姿勢を正した。美緒の言うところ
の『セイザ』とやらをベッドの上でする。ついに怒られるのだ、と予感した。そう言えばエイラが真面目に
怒るところを、リネットはまだ一度も見たことがない。
「目、つむれ。」
これもまた、言われたとおりに。次に来るのは張り手か拳骨か。そう痛みに耐える準備をして。

言いつけどおり目を瞑ったリネットをエイラは満足げに見る。こうなったら奥の手だ、奥の手。思い出す
のは自分がまだスオムスにいた頃のこと。自分の世話をよく焼いてくれた、少し頼りないけれと、すごく
臆病だけれど、とてもとても優しくて、国やそこに住まう人のことを誰よりも大切に思っていた人のこと。
ウィッチとしての能力なんて、エイラにとっては二の次だった。ウィッチとして何よりも大切なものを忘れず
に心に留めている時点で彼女は自分よりもよっぽど立派であると思っていたから。だからエイラは彼女
のことを尊敬していたし、敬愛もしていた。
手を伸ばして、リネットの頬に触れる。そしてそのまま顔を近づけて──

「…へ?」

素っ頓狂な声を上げたリネットを、エイラはいつものいたずらっぽい声音でく、くと笑った。真っ暗で何も
かもが不確かな世界の中に、一つの感覚が生まれたからだ。
その感覚は額にあった。どこかから伸びてきた手がリネットの額の髪をかきあげて、そしてそこになにか
温かいものを触れさせたのだ。すべすべとしたその感覚が、恐らく目の前にいるエイラの額だろうと勘付く
のに裕に十秒は要した。


「な、な、な」
「見えるカ?」
壊れたスピーカーのような声を上げるリネットをよそに、エイラはいつもどおりの声音で静かに告げた。
思わず反射的に答えるリネット。
「…見えません」
「そうか?私には見えるゾ」

「…なにが」
「リーネの未来。一人なんかじゃないヨ、リーネ。お前にもちゃんと、私にとってのサーニャみたいな大事
な人ができるし、いいスナイパーになれル。…ぜったい、大丈夫」
訝しげに尋ねたら、これまたひどく穏やかな答えが返ってきた。絶対大丈夫。優しい囁きが、リネットの
心に溶けていく。

「知ってるだろ、私の能力。私は未来を先読みできるんだ。大丈夫、間違いないヨ」

頬に触れていた手をぽん、と両肩において。軽く叩いてエイラは笑った。リネットが目を開いたのを見やる
と立ち上がって、立ち去りざまにテーブルの上のサンドウィッチを指し示す。ついでにカーテンを開いた
ので、部屋一杯に光が満ち溢れた。

「朝ごはんここに置いとくからナ。ちゃんと食べて、今日はゆっくり休めヨー」

残されたリネットは一人、ぽかん、としていた。そして先ほどまでエイラの額が触れていたそこに手を
やって、はあああ、と大きなため息をつく。変な人だ、本当に。熱を測るわけでもあるまいし、たかが
未来をみるくらいでどうしてこんなことをするんだろう。…誰かにそう愚痴っても、「そりゃエイラだから
だろ」で済まされそうなところが部隊内で「不思議ちゃん」と名高い彼女の不思議ちゃんたるゆえん
なのだろうけれども。

彼女の"視た"と言う未来は、果たして実現するのだろうか。…実現してもらわなければ困る。だって
あんなに自信たっぷりに言われてしまったら信じざるを得ない。
両手を広げて目の前に持ってくる。祖国ブリタニアを守るためにここにいる自分。それだのにまだ一つ
の役にも立っていない自分。ぎゅ、と握り締める。…落ち込んでいる場合ではない。私に出来ることを、
一つずつ叶えていきたいから。今は難しいかもしれないけれど、確実に一歩ずつ、涙を拭いて。

窓からこぼれてくる光を見やって、遠い遠い空の下にいる、『大事な人』のことを思う。もしかしたらもう
出会っているのかもしれない。臆病さで覆い隠して、気付けていないだけで。

『どうして怒ってるんダヨ、さーにゃぁ~』

廊下から聞こえてくる情けない声。どうやら廊下にサーニャを待たせたままでいたらしい。
先ほどまでえらそうなことばかりを口にしていた彼女との落差がおかしくて、ぷ、とつい噴出して立ち上が
ろうとした瞬間──足の痺れに、ベッドの上に倒れこんだ。





「なー、どうして怒ってるんダヨー」

朝食前のおぼつかない足取りはどこへやら。ひどく機敏な動きですたすたと前を行くサーニャを、エイラは
必死で追っていた。
ちょうどリネットを励まし終えたところで、ドアの外から「遅い」といわんばかりにこちらを見ているサーニャ
の視線に気が付いたので、早々に話を切り上げ彼女の元に向かうことにしたのだというのに…先ほど
からそのサーニャはひどい不機嫌ぶりだ。


待たせた廊下が寒かったのだろうか?それとも朝食が足りなかったのだろうか。もっと眠っていたかった
のだろうか。サーニャの不機嫌の原因が分からず尋ねるも、サーニャはその一つにも答えてくれない。
そう言えば昨日の出撃から帰ってきたときもこんな調子だったな、一緒にいたらいつのまにか直っていた
けれど。そんなことをぼんやりと思い出して。

「もしかして、さっきのリーネの部屋でのコト?」

ふと思い至って言ったら、ぴたりとサーニャが足を止めた。どうやら正解だったらしい、とエイラは内心
大喜びする。女の子の思考というのは複雑怪奇すぎて全く分からない、と自らの性別を棚に上げて思って
いるエイラとしては、サーニャの気持ちを読めたことがひどく嬉しくてならなかったのだ。

「だからー、嘘をついたのは悪いと思ってるヨ。でもあれは仕方ないダロー?」
「…エイラ」
「ナニ?」
「…嘘って?」
「友達が出来るとか、いい狙撃手になれるとか、嘘っぱちの未来をリーネに言ったコト。私がそんな先の
 未来見られないこと、サーニャは知ってるダロ?」
「…知ってる、けど」

「…リーネみたいにすぐ怯える先輩がいてさ、前、よく同じようにして励ましてあげてたんダヨ。
 まあ、あの人は知っててわざとだまされた振りしてくれれたんだと思うケド」

目を細めて、少し笑んで。そんなことを言うものだからサーニャの不機嫌が更に加速しているのに、エイラ
は全く気が付いていない。自分にもしたことがないことを、目の前で別の同僚にするばかりか『前もよく
やってあげていた』などと楽しそうにのたまうのだ。どんかん、と小さく呟いたらエイラが首を傾げたけれど
、答えてなどやらない。
代わりにようやっと追いついたエイラを見上げて、手を伸ばしてその両頬へとやって。
背伸びをして顔を近づける。こつん、と額と額とが当たる感覚。目を瞑る。温かい。

「…見える?」
「ナニが?」
「私の未来」
「だから見えないってバ」
「私は見えるよ」

エイラと一緒にいるよ、笑っているよ。付け加えるのはやめにして、頭の中で思い描いた未来にサーニャ
は一人ほくそえむ。

「だから他の人にはもう、しないで」

そう言って額を離すと、目の前の想い人は顔を真っ赤にしてこちらを見やっていた。大方、自分の言った
言葉など欠片も理解していないだろうな、とがっかりするサーニャ。優しくされて、嬉しくて、返そうとして、
気付いてもらえなくて。その度にがっかりするのに、それでも離れなれないのはただひたすら好きだから
だと、この人は夢にも思わないのだ。

もういくね。口にしてきびすを返して歩き出したら、数秒遅れでようやっと思考を再開したらしいエイラが
また、情けない声を上げてサーニャを追ってきた。





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