すべてを捧げて 番外編「想いの発露」
1943年12月31日、夕食が終わり隊員たちの姿もまばらになったキッチンで、忘れ物をしたため戻ってきたリーネは軍服を脱いで作務衣を着た美緒の姿を見つけ近づく。リーネに気がついた美緒はいったん手を止めて、彼女に顔を向けた。
「おお、リーネ。いいところに来てくれた。手伝ってくれないか?」
「は、はい」
リーネはぴょこりと肩をはねあげて、置き忘れていたエプロンを着けると、美緒の横に並んだ。熱心に生地をこねている。
「あの、なにを作っているんですか?」
「ん? 蕎麦だ。……見たことは、ないか」と一人で納得をする美緒。
「えっと……。扶桑の食べ物、ですよね? パスタみたいな」
「パスタか。あれと似ているが少し違う。まあいい。そこにある道具で鰹節を削ってくれるか?」
リーネは鰹節を手にし、美緒が指差した先にある小箱の前に立ち、まばたきを数回。それを見た美緒が彼女の手から鰹節を取り、削り節作成を実演をしてみせる。
「手を切らないようにな」
「はい」
リーネが削り節を作る音と、美緒が蕎麦をこねる音がキッチンに響く。
「ここでの生活には慣れたか?」
突然の問いかけに、リーネは驚きつつもうなづいた。
「はい。まだまだ分からないことだらけですけど、みんないい人たちばかりなので」
しかしながら、その表情からにじみ出ているのは、ごまかしようのない不安で、美緒はかすかに眉尻を下げる。
大丈夫、お前は自分が知っているよりも、遥かに強くて、素晴らしいウィッチだ――
そう言ってしまおうか、あえて甘やかさずもう少しだけリーネを見守るべきか、考えあぐねていたその時、つかつかという音が彼女たちの耳に入る。
「少佐、言ってくれればお手伝いしましたのに」
やって来たペリーヌがすかさず美緒とリーネの間に入り、リーネにはきつい視線を、美緒にはやわらかい視線を寄越した。
「それで……、何を作ってるんですの?」
メガネの下の、透き通ったカナリア色の瞳が不思議そうに美緒とリーネの手元に配られる。
リーネがおずおずとしながらも、説明を始める。扶桑の文化に興味があるのか、ペリーヌはふんふんと真面目に聞き入り、時に質問を返した。
空の上でもこれぐらいは連携が取れればよいのだが、と思いながら美緒はこの何気ないひと時に、一人微笑んだ。
「なぜ毎年毎年ここまで汚してくれるんだ……」
めいっぱい低いトーンでそう言い切って、ゲルトルートは朝、昼、そして晩と、任務の合間合間に手伝っていた片づけを終え、部屋の隅にまとめたゴミ袋を見上げ、部屋の主であるエーリカの背中をねめつける。
エーリカはというと、机の前に座って、目の前に置いた箱に普段の彼女からは想像も出来ないほどの丁寧さで手紙を詰めていた。
「よし、これで今年の分の整理終了っと!」
エーリカは、椅子の上でううんと伸びをし、彼女の背後に立ったゲルトルートを仰いだ。
「お疲れのようだな、ハルトマン中尉」
「まあね。日付順に並べるのって結構骨が折れるんだよね。中身確認しないといけないし」
「そうだな、朝から晩まで手紙を読んでは箱に並べていく……。それは"大変"な作業だな」と、あえて嫌味たらしく言ってみるが、エーリカはびくともせず、体を起こすと箱に敷き詰めた手紙の上を指でなぞりながら、それはそれは満足そうな笑顔を浮かばせる。
ゲルトルートは、エーリカへの説教をすべて大きなため息で流し、つぶやいた。
「その手紙、すべてウルスラからのものか」
「まぁね」
つい、声を弾ませて答えたエーリカは、はっとして振り返ると、ゲルトルートは大げさに顔を背け、ドアへとすたすた歩いていく。
「エーリカ、ゴミ袋はすべて自分で捨てに行けよ」
ゲルトルートがドアノブに手をかけたその時、エーリカが静かに立ち上がった。戦闘時にしか見せないような真剣な顔。
「トゥルーデ。望みを……、捨てちゃダメだよ。私たち二人は、すべてを失ったわけじゃないんだからさ」
ゲルトルートはエーリカに体を向け直すと、エーリカは話を続けた。
「私さ、こう思うことにしたんだ。悩めるうちは、まだ幸せなんだって。だって、その気になればストライカーですっ飛んで会いに行くことだって出来る。トゥルーデだって……、いつあの子が目覚めるか断定できないのが寂しいけど。いつかは、ね」
「そう――だな」
わずかに含みを持たせながらも、ゲルトルートは目の前の同僚の考えにうなづく。
エーリカはゲルトルートの前に進み出ると覗き込むようにして、いつもの無邪気な笑顔を見せ付けると、彼女の体をぐるりと回して、背中を押した。
「じゃ、次の人のところへ行かなきゃ」
「次?」
と、ゲルトルートはドアに手をついて、首を回して背後のエーリカを見やる。
呆れたような、エーリカの表情。
「ミーナだよ。私にばっか世話やいてどうすんのさ」
「あいつは、手伝いなんて……」
「そういうんじゃなくてさー」
ふと、ゲルトルートの脳裏を、赤毛の上官の顔がかすめ、自然と唇が引き締まる。
すべてを失っていない者、すべてを失った者。
悩める者、悩みようのない者。
途端、暴れだすように気持ちが急かされ始めて、大げさにドアを開ける。
「抱え込むばかりじゃなくて、たまには周りも見渡さなきゃ。エースなんだからさー」
エーリカは、まるでゲルトルートの考えを見抜いたかのように、頭の後ろで腕を組んで、いたずらぽく、にっと歯を見せて笑う。
「……誰に言ってる」
ゲルトルートは笑みを見せるつもりなのか、不器用そうに片方の口角を引き上げると、足早に執務室のほうへと向かって歩き始める。エーリカはその音を聞きながら、また席について、手紙の上に指を滑らせた。
「今度は……、トゥルーデの事を書こうかな。相変わらず、空以外では、どこまでも不器用でじれったくてどうしようもなく鈍感なところがあって私がケツを叩いてばかりですって」
時代が時代なので仕方ないといえばそれまでか。
ミーナは今日付けで送りつけられてきた、目の前に積まれた書類の束を見て、細く長い息を吐いた。
デスクワーク自体は苦にはならない。ただ、量が多いと、同じ作業の繰り返しにならざるを得なく、つい余計な事を考えてしまいがちになるのだ。
奪われた祖国、離れ離れになってしまった原隊での部下たち、家族、友人、そして――
断ち切るように、椅子から立ち上がり、ミーナは窓の向こうを眺める。
雲ひとつない夜空に、か細く光る三日月の周りにちりばめられた星たち。
予報によれば、今日は静かな夜になるはずだ。それでも、夜間哨戒を休止することは出来ない。
今日ぐらい休ませられないのか?
少し反抗的に言う、スオムスから来たやんちゃな部下の言葉を思い出し、ミーナは悲哀に微笑を混ぜた表情を浮かべる。
いつからだっただろう。彼女がたった今、夜の空に出ているウィッチに他の隊員たちに向けるものとは異なる気遣いを見せ始めたのは。
そういえば、とミーナは回顧する。
パ・ド・カレーからの撤退を終えたすぐ翌日の、隊の状況も頭の中も何もかもが混乱していたというのに出撃しなければならなかった日に、まったく同じ言葉が自室のドア越しに聞こえてきた事を。
結局、出撃自体はしたが、彼女のその気遣いがあの日あの時の自分を奮い立たせてくれた気がする。
この戦争が始まってから一番長く一緒に居るウィッチ。
国を失い、妹と離れ離れになっても、こちらの言葉は聞き入れず、休む間もなく空に出て、気がつけば彼女は世界で一番の撃墜数を誇っていた。
けれども、その戦績とは裏腹に、彼女の表情は硬化していき、最近ではめったに笑顔を見たことがない。
最後に笑顔を見たのはいつだったかしら――
ドアがノックされる音に、窓に背を向けた。
「どうぞ」
その声を合図に、ドアが開けられ、無表情のゲルトルートが部屋に入り、ドアを閉めた。
ミーナは内心驚きながらも、椅子に座り首をかしげた。
「どうかしたの?」
ゲルトルートは、来室の理由を問われ、わずかにうろたえたような様子を見せながらも、
「……ハルトマンの部屋の片付けも終わったので、何か手伝えることがあればと思ってな」
と、机に積まれた書類へ目を向けた。「上層部の嫌がらせも呆れたものだな……」
「すっかり慣れてしまったわ。けど……、もしよければ手伝っていただけるかしら、バルクホルン大尉?」
ゲルトルートの手伝いもあってか、書類の山はあっという間に片付き、あと数枚となっていた。机をはさんで、ミーナの真向かいで作業をしながら、ゲルトルートはつぶやいた。
「すまない」
突然の謝罪に、ミーナは顔を上げる。ゲルトルートは、書類からそっと目を上げて見つめ返した。
「本来なら、毎日でもこうして手伝ってあげるべきなのだが」
「その分、空で働いてもらっているわ。だから、気にしなくていいのよ」ミーナは、めいっぱいの笑顔を返す。相手もそうしてくれることを望んだが、ほんの少しだけ表情が弛緩するに留まっている。
「ミーナに、そう思ってもらえるのなら何よりだ……」
ゲルトルートは再び書類に視線を落とす。
ああ。だめだ。
ミーナは、目の前の少女の不器用さがうつったのかと自分自身に苛立ち始める。
伝えたいのに、伝えきれない。
伝えたいことは本当に単純なのに。
ただ、ありがとうと言えれば。
けれども、"何か"がそれを許してくれない。
「ミーナ?」
気がつけば、ゲルトルートが身を乗り出していた。「その書類で、最後だ」
ミーナは動揺のせいか、うっかり指先を紙で切る。激痛とはいかないまでも鋭い痛みに表情が歪み、すぐに目の前のゲルトルートが手を取り、空いた手で軍服に忍ばせた携帯用の救急キットを机の上に広げる。
「沁みるかもしれないが」と、消毒液を垂らしたガーゼが患部に押し当てられる。
「そこまでしなくても大丈夫よ」
あまりにも生真面目な治療に、ミーナはつい頬をほころばせる。
ゲルトルートは、かすかに照れたような表情を見せた。
「……性分なんだ」
「それがあなたのいいところだと思うわ」
「ほ、褒めても何もでないぞ」
「はいはい」
ミーナの細い指に包帯が巻かれ、治療が終わる。ゲルトルートが手を離しかけたその時、ミーナが彼女の服の袖をつまむ。
ゲルトルートは戸惑うが、彼女以上に戸惑っているのはミーナ自身だった。
しばしの間、二人の視線が交わる。
ミーナは密やかに、つばを飲み込んだ。
「トゥルーデ」
「ああ」
「今までありがとう」ゲルトルートは、その言葉に眉をひそめるが、ミーナはひと呼吸置いてつぶやいた。「これからも……一緒に……がんばりましょう」
ゲルトルートは、ほっとしたと同時に、気をつけて見なければわからないほどの微笑を見せた。
「もちろんだ」
ミーナは懐かしさすら覚えるその表情に胸を弾ませている自分に気づく。
パ・ド・カレーが燃え落ちた日、もう決して人には向けまいと誓った感情――
わずかに顔を伏せるミーナにゲルトルートは不思議そうな顔を向けるが、何か声をかけようとする前に、廊下からルッキーニの声が響いてきた。
「みんな~食堂に集合~」
食堂に隊員たちがそろうと、カウンターの向こうの美緒が両手を腰に当てて、人数を確認する。
「む。エイラはどうした。眠っているのか?」
シャーリーとルッキーニが顔を見合わせ、シャーリーが頬をかく。
「えとー……、あいつならたぶん……空」
「困った奴だな」
そう言いながら、美緒は豪快に笑うも、愉快そうではないことは誰が見ても明白であった。すかさずミーナが隣に立ってなだめ、目の前の蕎麦を眺める。
「これは扶桑の?」
「ああ、扶桑では年越しに蕎麦を食べる。皆に振舞おうと思ってな」
席に着いた隊員たちの前に、どんぶりに入った蕎麦と箸が並べられるが、蕎麦を食べたことも、箸を使ったこともない隊員たちは一斉に美緒を見る。
美緒は手馴れた様子で箸を持ち、蕎麦を一口すすり上げる。
隊員たちは、顔を見合わせ、見よう見まねで箸を持ち、蕎麦をぼそぼそと口に含んだ。
「やはり、こちらの食文化では"すする"のは難しいか」と、苦笑いする美緒。
「そんなことないよ~」
すかさずエーリカがしっかりとした手つきで箸を持ち、豪快に音を立てて、すすり上げた。
「おお、うまいな、ハルトマン」
へへへ、と笑うエーリカを見、ルッキーニやシャーリーも負けじとすする。
ミーナやリーネは、その性格もあってか、控えめに口に運んで小さくすする。
ペリーヌはというと、箸の持ち方で苦戦し、目の前のどんぶりからただよう湯気に眼鏡を曇らせる。見かねた美緒がペリーヌの手を取って、密着訓練をするものだから、今度は体からあふれる熱で眼鏡を曇らせた。
その様子を見て取って、すかさずルッキーニたちが冷やかす。
ミーナは、ふと隣のゲルトルートが難しい顔をしていることに気づいた。
「どうしたの、トゥルーデ。苦手な味だった?」
「いや、そうではないんだが……」
ゲルトルートは歯切れ悪く返し、箸で蕎麦を掬い取ろうとするが、取りこぼす。どうやら、ペリーヌ同様箸をうまく扱えないらしい。ミーナも決して達者とは言いがたいが、美緒が行うように、ゲルトルートに箸の持ち方を教示する。
エーリカがその様子を見て、にやつくものだから、ゲルトルートはつい威圧するような視線を送る。
「ちょっと怒んないでよ。せっかく懐かしいなあってほのぼのしてたのに~」
エーリカの言う懐古先がわからず、ゲルトルートが眉根を寄せるものだから、エーリカは肘をついて、わずかに視線を上げた。
「まだ私が入りたての頃を思い出したの。二人して、難しい顔して作戦地図とにらめっこしてたなあ、って」
そういえばそんなことも――と言いたげに、ミーナとゲルトルートは顔を見合わせ、互いに同じ空軍の別々の隊を任され、その小さい肩に大きな大きな責任を背負わされていた頃を思い出す。
今も、多少は立場が異なるものの、大いなる責任を伴っていることには変わりはないが。
けれども、それ以外で変わったことはたくさんあって――
「麺、のびちゃうよ」
冷やかし交じりのエーリカの一言に、ミーナとゲルトルートは向け合っていた顔を正面に戻した。
23時55分、蕎麦を食べ終え、交代で入浴した面々はソファに体を預け、柱時計を見つめる。
ミーナがカップから口を離し、隊員たちの顔をぐるりと見回した。
「みんな、今年もよく頑張ってくれたわ。来年もこのペースを保っていきましょう」
隊員たちはミーナにつられた様に穏やかな表情を見せるが、「うむ。来年は今年以上に厳しくいくからそのつもりでな」という美緒のつけ加えに口角を引きつらせた。
シャーリーの膝でうとうとしていたルッキーニが起き上がり、カウントダウンを始める。
「さん、にー、いち」
時鐘が談話室に響く。
一同は思い思いの言葉をかけあって、新年の挨拶を終えると、一人、また一人と自室へと帰っていき、1つのソファにかけていたミーナ、エーリカ、ゲルトルートが残った。
ミーナの膝に頭を、足をゲルトルートの膝に預けたエーリカはすっかり寝入ってしまっている。
「起きろ、ハルトマン。エーリカ……、フラウ……」
と、ゲルトルートが、肩を揺らすが、エーリカは起きる気配すら見せない。やれやれと肩を落とすゲルトルートとは裏腹に、ミーナは、柔らかなエーリカの金髪を撫でる。
ゲルトルートはミーナを眺め、エーリカの膝小僧に視線を落とした。
「……初めて会ったときは幼児同然だったのにな」
「あら、そんな言い方したらフラウが拗ねるわよ」
「率直な感想なのだから仕方がない」
ゲルトルートは、ミーナの視線に気がついて、まばたきをひとつ。
「なにか顔についてるか?」
「いいえ。初めて会った頃はあなたのほうが背が高かったなって」
「そういえば、そうだな。気がつけばミーナに抜かされてた」と、ゲルトルートは自分の頭に手を置いた。
「もうそんなに時間がたったのね」
「ああ」
「色々、あったわね」
年明けに言う言葉ではないわね。
つらい過去があるのは、私だけじゃないのに。
ミーナはつい発した失言にわずかに顎を引き、ゲルトルートを見れなくなる。
不意に、ソファに置いた手の甲に、指先が触れた。
視線を移すとゲルトルートがじっとミーナを見据えている。
「さっき言い損ねたが、私もミーナに感謝をしている。何度感謝しても足りないぐらいに。だからこそ、今年は……今年ももっと力になりたい。だから、遠慮せずに頼ってくれれば――嬉しい」
最後の言葉を言い終わる頃には、ゲルトルートは頬を染め始めて、顔を背ける。
ミーナは、しばらくの間、目を見張っていたものゲルトルートらしいその物言いに、手をひっくり返して、ゲルトルートの指先を握り締めた。
「私も同じよ。困ったことがあれば、頼って」
ミーナの親指がゲルトルートの指先をなぞる。ゲルトルートは笑顔とまではいかないまでも口元を緩めて、"無"ではない表情をにじませた。
エーリカが寝返りを打ち、他の二人にばれぬよう、ひっそりと口元を緩ませる。
手をつないだまま、ゲルトルートはエーリカを背負い上げ、立ち上がり、三人は廊下を歩き始めた。
ゲルトルートは、廊下の窓から夜空を見上げた。
「そういえば……、エイラのやつ、きちんと叱らねばな」
「そうねえ、ひとまず自室禁固ね」
「それだとサーニャはとばっちりか」
「え?」
「最近サーニャはエイラの部屋に入り浸っているみたいだからな。まあ、鍵を閉める前に部屋を調べれば済むことだが」
「けど、サーニャさんも止めずに一緒に飛んでいるのだから連帯責任よ」
「厳しいな」
「あら、今ごろ気がついたの」
ミーナのたおやかな笑い声が廊下に短く響く。そして彼女たちにとっての1944年が静かに動き始めていた。
終