無題
星が綺麗、と彼女が言うので、そうだな、とポツリと返した。
振り返って君が笑う。なぜだか何もいえなくなる。
期待してもいいんだろうか。私は選ばれたんだろうか。ポケットに入れた懐中時計がかちこちと音を鳴らして
いる。この間うっかり壊してしまった、扶桑にいた頃からの宝物。直せないかとバルクホルンに頼んでみたら
何故だか泣きそうな顔をされたので、その場にいたエイラに見てもらったら困った顔ひとつせずに直してくれた。
その隣ではなぜかひどく誇らしげな顔をしたサーニャが寄り添っていたから、恐らく一分一秒たりとも狂っては
いないその針は確実に、そして正確にその瞬間への時を刻んでいるのだった。
なあ、ミーナ。
少し先を行く、赤い影に語りかけた。司令になってから空を飛ぶことがめっきり減った、と以前呟いていた
彼女は、ひどくのびのびとした顔で夜空を飛び回っている。らん、らん、らん。まるでサーニャのように鼻歌を
歌って、飽くことなく空に夢を描く彼女が、そこにいる。
もういくつねると、おしょうがつ。
おしょうがつには、たこあげて。
こまをまわして、あそびましょう。
いつか彼女に歌って聞かせた、年明けを心待ちにする子供の歌。小児の戯れでしかないそのメロディを、
声楽家を志していた彼女が歌うのはひどく滑稽だ。わざわざ扶桑語で謳ってくれているのは私のためなの
だろうか。微かに狂うイントネーションがいじらしくて、けれどもひどく懐かしい。
「なあに?」
私の言葉に気付いたミーナが、くるりと宙返りをしてふわりと目の前に現れた。まるで妖精だな。そんなことを
言ったら彼女は呆れたように笑うんだろうか。でもほら、綺麗な赤い髪をなびかせて踊るように空を駆ける
様は、本当に美しいと私は思うんだよ。私には不似合いよ、って、君は言うのかもしれないけれど。
どうしたの、美緒?
(公私はちゃんと分けたいのです。)そんなことを言ってこういうような、私的な場でしか口にしてくれない
ファーストネームで呼びかけられて少しどきりとする。彼女がこんな物言いをするということは、彼女にとって
今はオンビジネス、要するに勤務時間ではないということだ。上から下から、内から外から、色んなものに
押されて引かれて潰されそうになっている彼女が、肩の力を抜いてくれているということ。たかが呼び名を
変えたくらいで、と笑う人もいるかもしれないけれど、私にとってそれはどうしても信じたい事実だった。
なあ、期待してもいいんだろうか。私は選ばれたんだろうか。ごくり、とつばを飲み込んで、そして続ける。
「…よかったのか?」
「なにが?」
「──こう言うのは『家族』と迎えたいものじゃないか、ふつう」
サーニャさんにお休みをあげたいの。
そう言って、今日の夜間哨戒を引き受ける旨を聞かされたのは今日の朝一番で。日課である素振りをし
ながらそれを聞いていた私はたぶん、ほとんど無意識でそれに答えたのだった。わかった、なら私も行こう。
…それは本当に自然と口をついて出た言葉だったから、私は自分がどんな発言をしたか、彼女の次の言葉を
以って知ったのだった。
(え、…いいの?)
頭の中ではもうすでに今日の予定が夜間シフトに切り替わっていて。それは私の中で当然のこととなりつつ
あった。だから私はこう答えてしまった。
(なにが?)
口を尖らせる代わりに大きな大きなため息をついたミーナが、その手を伸ばして私の上下させていた竹刀を押し
とどめて。ずいと顔を近づけて、確認するかのようにゆっくりと言った。
(ちゃんと話は聞いてください、坂本少佐。あなたは今晩、私と一緒に、夜間哨戒に出てくれるのですか)
(だから行くっていったじゃないか)
(ほんとうに?)
(ミーナが許してくれるのなら)
(…了解しました)
そんな感じで、ミーナは呆れ半分でいつものように自分本位で物事を決め付け、それを決定事項とした私の
物言いを了承したように思えたから。だから、いざ二人で夜の空に飛び上がった後で不安になった。だって
どこの国でだって、めでたいときは親しい者と過ごしたいものだろう?そう、彼女が普段から『家族』と呼んで
大切に大切にしている、同郷のバルクホルンやハルトマンといった気の置けない仲間たちと。
(えー!今日ミーナいないのー!?)
(……任務なら仕方ないか…)
朝食の席で彼女はそれを二人に告げたのだろう。少し離れたその場所でそんな声が上がったのを聞いた。
明らかに不満げなハルトマンと、『任務なら』ということで必死に寂しい気持ちを押し隠したように思える
バルクホルン。ごめんね、ごめんなさいね。確かミーナは何度も何度も、そう言って二人に謝っていた。新しい
年を三人一緒に迎えることは、きっととてもとても大切なことだったのだ。たぶん、きっと、絶対。
こうしてもう後戻りできない場所まで来てこんなことを聞くのはずるいのだって、分かっているけれど。
それでもやっぱり不安だから、そして微かに期待もしているから、尋ねずにはいられない。本当はもっと早くに
尋ねたかったけれど、もしも否定的な言葉が返って来たらと思うとなんだか切なくなったので聞けなかった。
だから、なあミーナ、教えてくれないか。
私は君と、こうして一緒に新しい年を迎える資格があるのかい?
本当はバルクホルンやハルトマンと一緒に過ごしたかったんじゃないのかい?
私がいつものように自分勝手なわがままを言ったから、君はそれを受け入れてくれただけではない?
かちこちと、ポケットの中で時を刻む時計。連続して繋がっているはずの時の流れを、小刻みに分けてまとめ
て、そしてもうすぐ大きな区切りが来る。これからあといくつそのくぎりを迎えるのかなんてわからないけれど、
とにもかくにも次の区切りがやってくるのはもう一年も先だ。そのとき私は、同じようにここにいられるかなんて
分からないんだ。
一息に口にした本心を、ぽかん、と口を開けてミーナは聞いていた。月が出ているから多少は明るいけれど、
彼女はその光を背にしているものだから表情がよく見えない。もしかしてやっぱりあきれ果てているんじゃ
ないかとか、そんな不安が心をもたげる。いや、不安になるまでもなくきっとそれは真実なのだろうけど。
「美緒、」
ぽつり、とミーナが私の名前を口にして、突然両手を伸ばしてきた。反射的に私も両手を伸ばしてその手と
手をつないで握る。どうしたんだ、と尋ねる前にミーナが微笑みながらカウントダウンと始めた。ご、よん…
つられて私も重ねて言う。さん、にい、いち。
ぜろ。
呟いた瞬間、たぶん新しい年はあっさりと訪れたのだと思う。片手だけを離して時計を見やったら、本当に
ちょうど秒針が12と書かれた数字のところを過ぎ去り終えたところだった。
「訓練学校時代に、トゥルーデと、他のみんなと、一緒にやったことがあるの」
唐突にミーナが言う。うん、とだけ答えて、続きを促した。
「こうして手をつないで、ジャンプして。年が明けた瞬間、私たちは地球上にいませんでした!…なんて」
ミーナがそう言って、無邪気に笑うから。私も不安なんて忘れてふっと思わず笑んでしまった。今よりもずっと
幼い顔をしたミーナが、バルクホルンが、今では考えられないような子供っぽい顔で、はしゃぎながらそんな
やりとりをしている。そんな平和で、楽しかった頃の記憶。…そのときもちろん私はその場に居合わせな
かったけれど──今のミーナの行動で、私はそんな昔の頃から彼女と親しくしていたようなそんな気持ちに
なれた。明確な言葉ではなかったけれどきっと、それがミーナの私の問いに対する答えなんだと、そう思った。
*
綺麗だなあ。
今度、そう叫んだのは私の方で。そうね、と答えるミーナのほうを見ると、明るい光に目一杯照らされて輝い
ていた。瞳も、顔も、その姿も。
一緒に迎えた新年の、初めて昇るその朝日。眩しくてたまらないけれど、目を逸らすことが出来ない。
握り合った手もどうしてか、離すことが出来ない。年を越したその瞬間からずっとずっと、つながれたままの
その手と手。それだけで伝わる。期待してもいいのだと。何もかもが新しいこの善き日を、共に迎えるために
私は選んでもらえたのだと。
「かえろうか、」
「…そうね」
あれよあれよというまに朝日はすっかりと昇りきって、私とミーナとを明るく照らした。明るく燃える天照に
明らかにされて、いまさらながらなぜかひどく気恥ずかしくなって。苦し紛れに呟いて手を離そうとしたら逆に
ぎゅうと握られた。
頬をかく。太陽はまぶしすぎて、もうまっすぐ見やることなんて出来ない。私の手から繋がっている、赤い赤い
その人のことも。