お隣よろしいですか
それだけで伝わる、なんてちっとも思ってなかったけれど。
それでもどうしようもなく胸を覆うこの想いを、幸福感を、言葉にしたくて仕方がなかったから。けれども、直接的
な言葉になんて出来なかったから。
それだから私はその気持ちを、こんな言葉に乗せることにしたのだった。
それはごくありふれた、なんて事のない一言なのだった。聞くほうにしてみたら多分他人行儀で、だから恐らく
あなたも怪訝そうな顔で振り返ったのだ。
格納庫でしゃがみこむ背中はたぶんストライカーの整備の真っ最中なのだと思った。近づいてみて、それが
彼女のものではないことを知る。黒ずんだ色のストライカー。夜の闇に溶け込むための塗装がなされた、見慣れ
た色。ああ、私のものだ。幸福感で胸がいっぱいになって、どうしようもなくなる。けれどもうまく表情に出来なくて
私は、奇妙に顔をくしゃくしゃにするだけ。でも、ねえ、気付いている?私にこんな表情をさせるのはあなただけ
なんだよ。奇色かもしれないけれど、満面の喜色を浮かべているの。あなたには伝わらないかもしれないけれど。
えいら、と。
目の前の作業に没頭している背中に呼びかける。ひとたび夢中になるとこの人は、なかなかそれを放り投げない
のだということを私はよく知っている。ひょうひょうとしているのに、そのくせ一途で。だからきっと私のことを放り
投げることも出来ないのだろう。ずっとずっと、まるでその為に自分は生まれてきたのだといわんばかりの態度で
接してくれるのだろう。
だってほら、呼びかけたらぴたり、と作業を止めてくれるのだ。その瞬間彼女の中で何かが切り替わり、ふ、と
息をついてオイルで汚れた手袋を取り外す。一拍置いて、その彼女が振り返る前に私は言った。
「 ?」
それはごくありふれた、なんて事のない一言で。
それでも何度も私が繰り返すものだから、彼女はいつものようにふう、と一つ息をついて振り返ったのだ。顔は
少し怪訝そうだけれども、微かに笑んで、確かに柔らかさが溢れていて。それだけで私はまるで洗濯したばかりの、
太陽の香りのするシーツに顔をうずめるような幸福な気持ちになった。くい、くいと指を曲げるのは、こっちに
おいでとの招きなのだろうか。それとも彼女の国の挨拶をしているだけなのだろうか。尋ねて聞いたことなどない
から私は知らない。けれど、結果的に意図するところは同じなのだろうから十分なのかな、とも思ったりする。
そして彼女は言う。
いーよ。
私の言葉に対する返答は、そんなたった一言ですんでしまうのだった。ねえあなたは知っているのかしら。ただ
許可を求めるだけのその問い掛けは、私にとってはとてもとても大切な意味を帯びているのだって。きっと知ら
ないよね。だって語って話したことなんてないのだもの。
「あんまり近づくなよ、オイル付くかんな」
そう言われるけれども私は頓着しない。だってそんなもの洗ってしまえば同じでしょう?「オイルはなかなか落ち
ないんだぞ」とあなたは呆れたように言うけれど、それならいつもよりもっと、もっと、念入りに、一生懸命洗えば
いいだけのこと。それよりももっともっと大切なことがある。それは、あなたが私の欲した『それ』を許してくれたこと。
それだから私は許されたそのことを、遠慮なく実行している。
ふっと笑んで頬を寄せる。甘える猫のようにそうすると、彼女はいつも大きな大きなため息をついて私の名前を
情けなく叫ぶ。さーにゃあ、勘弁してくれよ。けれどもそれ以上咎めることはしない。彼女が熱中屋だと言うことを
知っているのと同じように、私が強情であることを彼女はちゃあんと知っているからだった。まあいいか、とぱたりと
工具箱を閉じたらもう私の勝ち。ほら、と立ち上がって、彼女が私に手を伸ばす。風呂にでも行こうか、それとも
サウナ?
手を伸ばすと当たり前のように握って引き寄せられて、けれどもすぐに離されてしまう。どうして、なんていう言葉
はたまにしか言わないことにしている。だって同じような状況だったら、私だって同じようにしてしまうかもしれない。
それは彼女の手がオイルくさいからとか、そんな理由とかでは決してなくて、もっと根本的で、けれども深刻なもの
だ。
そして一緒に歩き出す。私のすぐ傍ら、左側に彼女の肩。当然だと言わんばかりに彼女の体がそこにある。
真正面でもなく真後ろでもなく、ぴったりと寄り添ってすぐとなり。そう、となり。
(月が綺麗ですね)
扶桑には、同じ言葉をこう言った人がいるのだという。それは人づてに聞いたものだから、語学の先生であった
のだというその人が、その人にとっては意味の通るはずであったありふれたそのブリタニア語を、いちいちそんな
厄介な方向に訳したのかなどわからない。そう思ったのだからそうしたのだ、と言われたら文句など言えるはず
もない。もちろんつける気など毛頭ないけれど。
ただそれを聞いたとき私がひどく感心したのは、その言葉ではなくて彼のそんな考え方なのだった。それはもち
ろん、その人がただ単にひどいひねくれものだっただけなのかもしれないけれど──ある言葉を、別の言葉に
置き換えて相手に伝える。そんなその人の思考が私にはひどく好ましく思えたのだった。
それだから私はその晩に、一人でそれを考えた。ラジオを聴くこともせず、全くの無音の空の上で、私は一人心を
澄まして考えていた。月が綺麗、なんていったって私の大好きなあの人は「そうだなあ」なんて言って済ませて
しまうのだろう。それより何よりその言葉はきっとそれを考えたその人にとってだけのもので、私にとってはなんの
意味も成さない。だから私は考えた。私にとってだけの、その言葉を。考えて考えて、そしてふっと大好きな大好きな、
彼女の後姿を思い起こしたその瞬間、ふっと答えは生まれたのだ。
それはごくありふれた、なんて事のない一言だった。恐らくはきっと、近しければ近しいほどに言葉に橋なくなるような、
そんな他人行儀な言葉でさえあった。けれどもあえて私は問いたかった。問うて、その答えが欲しかった。それ
だけでこの気持ちが伝わるだなんて、気付いてもらえるだなんて、そんな虫のいいことを考えたわけじゃない。
ただ私はどうしようもなくこの胸を一杯にするこの気持ちを、少しでもあなたに返したかったのだ。直接的な言葉に
したら、普通に喜んでくれるのかもしれなかったけれど、私にはまだ、そんな勇気がなかったから。
だから私はこの気持ちを、こんな言葉に乗せることにした。
「おとなりよろしいですか?」
再び言葉にしたら、それは呟きほどの声量だったはずなのに辺りにほわん、と柔らかく響いた。
湯で満たされた浴槽に、のんびりと使っていた彼女が振り向いて、またちょっと怪訝そうに笑う。肩をすくめて、ほら、
おいでよとまたいつものポーズ。そうしてさも当然のように、私を傍らへと招き入れる。
ねえあなたは知らないでしょう?それがそれだけ嬉しいことか、あなたには多分分からないでしょう?隣にいたいの。
一緒にいて欲しいの。月が綺麗に出ていなくたっていい。あなたが隣にいることを許してくれれば、私はそれだけ
でも心が満たされるから。
ねえ気付いている?それは私にとって、愛の言葉なんです。
ねえ伝わっている?これが私の、何よりもの愛の告白なんです。
願うことならどうかあなたも、同じ気持ちを私に抱いてくれたならいい。
先ほどと同じように体を寄せると、湯あたりしたせいか、それとも別の理由か、彼女の白い肌が真っ赤に染まって
いる。体だってかちこちに固まって、まるで石になってしまったかのよう。
ずっと、ずっと、これからも、ずーっと。
となりにいてもいいですか。となりにいさせてはくれませんか。あなたのとなりは、私のために空いていますか。
加速していく気持ちをごまかすように更に身を寄せたらばしゃりと彼女が立ち上がったので、私も慌ててその後を
追うことにした。
いいでしょう?
だって、最初に「いいよ」って笑ってくれたのは、エイラのほうなんだから。
了