我儘と時間泥棒
明日は、早起きをしよう。
寒空の中空へ飛び立つサーニャにマフラーと手袋を押し付けて「いってらしゃい」と見送って(耳あては任務の
妨げになるだろうから渡さなかった。・・・・つけたらすっごく似合うとは思うけど)、食堂でリーネと宮藤のお手
製であるシチューを平らげて、いつもなら夕食後もタロットや隊の皆とのお喋りに興じているのだけど、今夜
(いや明日の?)私には重大な任務がある。いつも通りツンケンした声音で宮藤をからかっているペリーヌを
更にからかってやれるほど暇じゃないんだ。
他の人よりジャガイモを多めによそったスープ皿を前に機嫌をよくしている人物に声を掛けた。
「大尉」
私から声を掛けられることはあまりないからだろう、わずか目を見開いたバルクホルン大尉は「食事中に声
を掛けるのは関心しないな」と前置いて、それでも機嫌を悪くすることなく応えてくれた。・・・ジャガイモ効果
か、宮藤効果かどっちだろう。
「どうした、エイラ」
「大尉、イマ時計持ってル?」
「あぁ。持ってはいるが何だ?自分のを壊しでもしたのか?」
ややうろんな表情で尋ねてくるのに首を振って応えながら、彼女が差し出した時計と自分のものを見比べる。
大して心配はしていなかったが2つの時計の分針はまったく同じ位置を走っていた。秒針は30°ほど自分の
方が遅いかも?彼女の時計がせっかちなのか私のそれがのろまなのかは分からないが、おそらく彼女の時
間は正しいのだろう。そうじゃなきゃわざわざ訊いたりしないし。生真面目なカールスラント人にさらに輪をかけ
て生真面目な彼女だから、時間を尋ねるのにはもってこいだったのだ。
「ま、これくらいナラ許容範囲カナ。アリガト。もういいヨ」
覗き込むようにしていた視線を時計からバルクホルン大尉へ。そこには私の突飛な行動に納得いく理由を欲し
がっている表情があったけれど、素早くお礼だけを返答に差し出せばそれで曖昧に頷いてくれた。別に大した
ことじゃないんだし、理由を言う必要もないだろう。
なかなかの成果にホッとしたのも束の間。背を向けて足早に食堂から去ろうとする私に大尉らしい忠告が飛ん
できた。
「何を企んでいるのか知らないが、寝坊して訓練に遅刻するなんてことはしてくれるなよ」
「・・・・わ、わかッテルっテ」
ちょっと声が上擦ってしまったかもしれない。なんてこった。もしや彼女も未来予知が使えるっていうのかな、
なんてあるはずもない勘繰りをしてみたりして。
こうして私は無事正確な時間と小言を手に入れた(後者はできれば手に入れたくはなかった)わけだけど、そ
れにしても企みだなんて失礼な。・・・いや、確かに企みには変わりないかな。でも訓練に遅刻なんて、そん
なことにはならないさ。ふふん、バルクホルン大尉の未来予知は大はずれだな。
何せ私は、明日は思いっきり早起きしなきゃならないんだから。
部屋に戻って就寝準備はばっちり。念のために時間を尋ねていたけれど、枕元の目覚まし時計は心配御無
用といった風貌で元気に時間を刻んでいた。優秀な奴だ。仕度は上々。
サーニャが夜間哨戒から帰ってくるのは夜が明けてすぐくらいの時間。ブリタニアの冬は夜明けが遅いから
な、と朝の相棒とにらめっこしながらカチカチとタイマーを合わせておく。大雑把なものだ。これなら別に小言
を貰う必要なんて最初からなかったのかも知れない。
部屋の照明を落としてしまっても今日は月夜だから、冬の澄んだ空気のせいかピタリと閉めても隙間ができ
てしまうカーテンのせいか、真っ暗にはならない。その上この部屋には占いに関する物が多いから、自分で言
うのも何だけどちょっと不気味な雰囲気が出来上がっている。それでも私にとってはこの上なく居心地がいい
のだけれど。サーニャにとっても、そうなのだろうか。彼女はこの部屋が気に入っているから、毎回夜明けにこ
こに迷い込んでしまうのだろうか。女の子っていうのは総じて、占いとか運勢とかいうものが好きなものだしな。
そう簡単に訪れてはくれない眠気を待ち構えながら考えるのは、やっぱりサーニャのことばかり。でもそれを
最早当たり前のこととして受け止めている自分がいる。今日ばかりは仕方のないことだ。
明日の朝は早起きをしよう。明日も彼女はここへ来ようとするだろうか。今彼女は寒い思いをしていないだろ
うか。いくら魔力を発動してたって、いくら防寒してたって、雲の上は罅割れてしまいそうになるくらい寒
いのに。
対して今の私は温まりだした毛布にくるまれて一人ぬくぬくとしている。罪悪感とか、そんなものを感じてしま
うのはお門違いだろうけど、それでも申し訳ない気持になる。こうしていつもより早めに寝ようとできるのは彼
女のおかげで、だから彼女のために「おかえり」って、「お疲れ様」って、言いたいんだ。
それから、それから・・・・・
たまにはホロスコープでも見てみようかなと中途半端に開いてみたカーテンの向こうに星は穏やかに果てしな
く瞬いていたけれど、2つほど星座を探し出したあたりで睡魔につかまってしまった私は、深夜の神話に優し
く飲み込まれていった。
◆ ◆ ◆
気が付けば耳元で何かがやかましく鳴いていて、うっすらと意識が浮上していく。
なんとなくぼーっとする視界を瞬きでやり過ごして、そしてまた何かの音を聴覚が再確認する。
部屋には眠りに付く前とまったく同じような明度が満たされていているので時間なんて過ぎてないんじゃな
いかと一瞬疑ってしまった。けど昨日わざわざ確認した優秀な目覚まし時計が言うのだから間違いない。
どうやら朝のようだ。
っていうか私いつの間に寝てたんだろ。あれはうお座かなー違うかもなーって空を見てたあたりで覚えてい
る限りの記憶が途切れたので、朝っぱらから元気にがなりたてる時計を叩いて黙らせる。あ、ごめん折角起
こしてくれたのに叩いちゃって。うん、おつかれさん。とりあえずさっきは叩いた時計を撫でておいて、未だ明け
切らぬ空に伸びをした。
「うーんっ」
ベッドが窓際に位置するせいで吐き出した息がほの白くて冬だったことを思い出すと同時に肌寒さもひたりと
張り付いてきて思わずくしゃみを1つ。
おっといけない。こうしている間にも空は白みはじめている。
この季節には似合わないスピードでプライベート用のパーカーを素早く着込んで、一晩中冷気に晒された布地
の冷たさにちょっとだけ震えるのを済まして
迫り来る朝日に追われるように部屋を飛び出した。
もちろん皆を起こしちゃ悪いから、控えめな足音で。
扉の先に広がる廊下はひんやりと静かだ。常夜灯が消えているのは夜が明けようとしている証拠。足を速く進
めようとしても心ばかりが逸って起きぬけの身体はなかなか付いてきてはくれない。
やっとあったまってきた身体と共にたどり着いたハンガーは無機質で硬質な寒さをもって私を迎えた。適当な鉄
骨の上に腰掛けると益々身体は冷え込むが、きっと少しだけの辛抱だ。そんなこと未来を見ようとしなくたって
分かる。
だって、ほら
雲の向こう側から朝日を引き連れて帰ってくるあのストライカーユニットの音。
この音だけは聞き間違えっこないって、絶対の自信があるんだ。
駆け寄りたい衝動を、照れくさいから必死に抑えて、抑えて、抑えて、抑えようとしたっていうのにハンガーに
滑り込んできた彼女はすぐに私を見つけてしまって、驚いたように目を瞠るものだから
衝動も羞恥も小心も忘れ去って正直に、真っ直ぐ彼女へ駆けてった。
どうしてなんだろう。見つけてもらっただけで、彼女の瞳に自分が映るのが分かっただけで、こんなにも嬉しく
なるなんて。
「サーニャ!」
顔が弛んでしまうのは、ただ目が合ったのが嬉しかっただけじゃない。一晩ぶりに会うサーニャが実体を伴って
目の前に存在するということ、
「・・・エイラ、どうしたの?」
朝焼けの中を飛んだ彼女が光の名残を瞳に残しているのかわずか目を細めて私を見遣って、私の名前を呼ん
で、返事をしてくれること、
「たまたま、早く目が覚めタカラ・・・」
言葉を交し合えること、
「そっか。・・ありがとう」
風に揺れる綿帽子みたいな微笑みをくれること。
その全部が、私を幸せにし、ぽかぽかとあったかくしてくれる。
不思議な魔法。サーニャだけが使える、私にとってはこれ以上ってないほど効果抜群の特別な魔法。
“たまたま”だなんて多少の嘘、君は許してくれるかな。昨日は随分と早寝をしたんだよって言ったら、万が一
を考えてバルクホルン大尉に時間を訊いたら余計な小言まで貰っちゃったよなんて言ったら、君は笑うかな。
小春日和みたいにくすぐったい声を転がしながら笑うのかな。
その笑顔が見たくてもう全部言っちゃおうかなって一瞬だけ思ったけど、やっぱりそれってほら、なんかさ
恥ずかしいじゃないか。
どうにも素直になれない自分に後ろ向きなフォローを入れてどうにか自家発電気味な納得を手に入れようとして
しまうのもまた情けない。やけに耳が熱く感じるから、私の耳は言うまでもなくなんていう言葉が不必要なぐらい
には赤くなっているんだろう。ほのかな朝焼けは、肌の紅を誤魔化してくれるだろうか。真っ赤な夕焼けの下なら
そんな願いも簡単に叶えてくれそうだけど、爽やかすぎる日差しには無理な願いに思えた。
でもそうやって私が自分勝手に自分を装って躍起になったって、夜通し魔力を使い続けていた彼女にはどこ吹く
風。ストライカーとフリーガーハマーっていう重装備をいつの間にか解いていたサーニャは身軽になった身体で私
の目の前に佇みながら、それでも重くって仕方がないのだろう瞼を必死に持ち上げようとしていた。あわわ。こうし
ちゃいられない。何の為に早起きしたんだ。夜間哨戒帰りのサーニャの睡眠時間をいつも以上に削るためじゃな
いはずだ。言いたかった言葉がある。届けたかった言葉がある。
なによりこれは重大な任務の中間地点にしか過ぎないんだから、折角坂本少佐より早く起きたんだから、しっかり
しなくちゃいけない。
そうしてるうちにもサーニャの眠気は質量を増すばかりで、長い睫毛に縁取られた瞳が完璧に姿を消してしまうそ
の動きと一緒に、小さな軽い身体がゆっくりと傾いて
とん、と。
風に翻る羽根みたいに軽く、私の肩口のあたりに可愛らしい頭が不時着した。
「っ・・・!?」
先ほど感じた熱さよりはるかに膨大な熱量が耳に、頬に、目の奥に、首筋に、身体中に溜まっていくのを感じて
のどもとまでようやくたどり着いていた言葉が押し留められる。
軍服越しに触れている肌も寒空に晒されている肌も私にはただ熱いばかりで、そのせいで彼女と同じように足元
がおぼつかなくなりそうだ。それでもサーニャは、私がまさか頼りなくふらついてしまうだなんて思っていないよう
にもたれ掛かってくるから、その小さな掌が控えめに私の裾を握っているのに気付くことができたから、
密やかに深呼吸を一回だけした後に押し留められていた言葉をどうにか紡ぎだすことができた。
「おかえり、サーニャ」
私の肩に顔を埋めたまま暖を取ろうとしている君は、眠気のせいかいつもより甘えた声で小さく呟いた。
「・・・・ただいま」
くぐもった、声で。
私は傲慢なので、その声音がかすかな安堵を湛えていたと錯覚する。
その薄い身体に
その冷たい身体に
腕を回せなかったことだけは、だから許してくれるかな。
あと、
「ここで寝ちゃ駄目ダゾ、サーニャ」
うん、こんなことろで寝ちゃ駄目だ。そうだろ?
叱るように言おうと思っていた言葉はのどから放たれた瞬間私の意思をも離れてしまっていたのか、耳に届
いたその声は今にも朝靄に解けてしまいそうな稀薄さ。ちょっと待って今のナシ、と言って慌てて言い直そう
としたのも束の間。私にもたれ掛かったままのサーニャが少しだけ、本当に少しだけ顔を上げて、目線だけ
で私を捉えようとしたので、必然的に上目遣いになってしまうわけで、どうしようもなくこの至近距離のドキド
キは解消されなかったわけで。結局言葉を飲み込んでしまうより他なかった。そのせいかのどがごくりと鳴っ
てしまって、きっと彼女には聞こえているんだろうと思うと恰好悪い自分がいたたまれない。しかも彼女はそ
んな私の動揺を他所に言うのだ。
いつもより油断しきった声で言うのだ。
「ん・・・なんで?」
なんて。ちょっと不満そうに口を尖らせたりしちゃって、狙ってやってるとしたら本当に恐ろしい。だけど本当
に寝ぼけているだけだって知ってるから私には何も言えない。こんなに甘えん坊なサーニャを見ることがで
きるのは私だけだって知ってるから尚更。一層瞼を閉じようとする眠たげな容貌を見て、いっそのことこのま
ま抱きかかえて部屋まで連れてってあげようかって思ってしまったのは内緒だ。さっきから自分に負けてばか
りの私だけど、ここで諦めたら試合しゅうりょ、もとい計画が台無しになってしまう。スオムスのエースとして、
自らに課した任務を遂行しなきゃって思うのは、当然だろう?・・・結局はただの、独り善がりなのかもしれな
くても。
「何もこんな寒いところで寝なくたっていいダロ?ついでだし部屋まで送っていってやるカラ。ナ?」
“ついで”なんていう心にもない言葉で武装することでしか君の手を曳くことができない私はやっぱりどこか
恰好がつかない。“ついで”扱いされた君も心ない言葉に不満を持ったのか、身体を離して「ほら」と差し出し
た私の手に「・・・ん」という一音だけをどうにか吐き出して、しぶしぶと言っていいほどの緩慢さで応えた。
先ほどは転がり込むように駆けてきた廊下を、今度は床を踏みしめるようにゆっくり歩く。歩みまでも緩慢さ
に支配されたサーニャのために。おぼつかない彼女の足取り。交わされない言葉。
重ねられた手はそれでもあたたかい。
今にも眠りに落ちてしまいそうな彼女の体温のせいだろうか。それとも私の心臓を通常よりいくらも早いリズ
ムで打ち鳴らす何かに起因したもののせいだろうか。冬の日でも確かに存在を主張する互いの平熱が混じり
合って触れ合った結果生まれた単純な足し算のせいだろうか。そのあたたかさは彼女の手を曳いていない
手とは比べようもないほどの熱量だった。あぁでもそれって、私が自分勝手にひたすら熱を上げてるだけか
も知れないな。だからといってこのぬくもりを手放すのは忍びなく
それは、
この手を放したらどこででも寝てしまえる彼女が冷え切った廊下で寝てしまうんじゃないかと思ったから
彼女の手は私のかじかんだ手にようやく馴染んだ上等な手袋のようで名残惜しかったから
支えを失った彼女が硬い廊下に体を打ち付けてしまうんじゃないかと危ぶんだから
ただ、彼女のいつもより少し高めの体温を、繋がったこの掌をこの瞬間を
放したくないと思ったから。
離れたくないと、思ったから。
君の迷惑なんて顧みずに、サーニャの部屋がずっとずっと遠くて、いつまで経ってもたどり着かない所にあ
ればいいのにって、小さな手を曳きながら、ほんの一瞬だけ思った。
そんな馬鹿なこと思った罰なのかな。さっきまで、しんと静まり返った廊下はどこまでも続くように見えてい
たのに、いつの間にか見慣れた茶色い扉はすぐそこだ。
こんなに近くだっけと、ハンガーからサーニャの部屋までの距離を記憶と共に掘り返してみても今と過去の
間に隔たりは多く見つけられない。
どうか気付かれませんようにと少しだけ、血管が収縮するくらいのわずかな挙動で握った手に力をこめた。或
いはそれはただ短く震えただけだったのかも知れない。足元から侵食してくる寒さに、心臓の鼓動が響かせ
たように。もしかしたらその両方のせいで。
とうとう目の前に迫ったドアノブに、空いた手で触れる。
そこから伝わる冷たさといったら!
逆側の、彼女と繋がっている手の温度と反比例してどこまでも凍えていたのだった。金属特有の強固な冷感
が容赦なく私の身体を走り去って思わず背筋を伸ばさせた。そしてその温度差は私に隔たりを想起させるに
容易すぎた。ドアノブの冷たさ。君は。サーニャは、私の部屋を訪れるときいつも、こんな痛みに似た拒絶を味
わっていたのだろうか。こんな、罅割れてしまうような鋭さを?君は無機質な熱持たぬ、掌に収まるほどの小さ
なドアノブから身勝手にそれを作り出してしまったことが、あるのだろうか。私自身はいつだって君に拒絶なん
て抱いたことないのに?それどころか。
・・・・それどころか、何だ?
突如として浮き出たかすかな疑念を振り払うように思い切って冷え冷えとする金属片を握り締める。
温度差が。乾ききった温度差が
握った掌から体温と一緒に表層に張った皮膚と強がりと建前を根こそぎ奪い去っていくようだった。拒絶に張
り付いて縋って無理やりに剥がされてしまって何もかも暴かれていくようだった。
「サーニャ、着いたヨ」
振り返って眠気に目を擦るサーニャに声を掛けた。幼い仕草は意図的でないにせよ庇護欲をかき立てられ、だ
がしかし私の手はそれとは逆に彼女の手から離れた。放した。それはサーニャの細い腰に手を添える為だった。
彼女の部屋に唯一拒絶されない彼女を導くためだった。
そしてドアノブから放した手からべりっと生々しい音が聞こえたのはきっと気のせいだったはず。だってこの手は
傷一つたりともついていないのだから。むしろ彼女にこんな痛みを味わわせずに済んだのだから僥倖と言えよう。
目覚めたばかりの金属の冷たさは彼女には残酷すぎる。
「・・・・なんか、いつもと違う」
部屋を見渡してポツリとこぼれ出た、彼女の言う“いつも”は一体何を指しているのだろうか。こうやって手を曳
いて、まるでお姫様をエスコートする騎士然とした私がいること?そう、“いつも”彼女は夜間哨戒を終えた後
彼女一人だけでハンガーを抜けて廊下をひたひたと歩く。そうして“いつも”私の部屋へやって来ては無防備な
寝顔を晒すのだ。
それでは彼女はこの部屋の様相を見て『いつもと違う』と言うのだろうか。私の部屋ではないから?
そんなはずはない。
なぜなら彼女は明確な意思を持って隣室の、つまり私の部屋に来ているわけではないのだから。寝ぼけて勘
違いしているだけなのだから。ならば不思議そうに“いつもと違う”と呟くのはやはり、こんな早朝に、起きてい
るはずのない私が、彼女の隣にいるという、それに起因することなのだろう。
自問に対する答えを、当然の帰結を導き出しながら言ってやる。
「何にも違わないヨ。ここはサーニャの部屋ダ」
「・・さーにゃの、へや?」
そろそろ眠気が限界値なのかただ告げられた言葉を反復するように自身の名を紡いでしまっているのが何
とも形容しがたく可愛らしかったので思わずその細い腰に添えた手が強張ったが、どうか気付かれませんよ
うにと願う。ほら、今にも閉じてしまいそうな瞳を今この一瞬だけでいいからこの部屋に向けてあげて。サ
ーニャの部屋だろ?自分の部屋だろ?カーテンの隙間から覗く太陽の光を乱反射させるばかでかい水晶
玉もないし、途中で飽きて乱雑に散らかしたタロットカードもないだろう?ここは日差しを遮って余りある分
厚いカーテンも完備されてるし、明るいところじゃ寝付けない人にも安心。
ここが君の部屋なんだよ。疲れた君がきっと一等安らげる格別の場所で、この部屋だっていつも夜間哨戒
帰りの君を待ってたはずなんだよ。抱き心地のいい(ネコなのかペンギンなのか判断に窮するけど)とって
おきのぬいぐるみだって早く抱きしめて欲しそうに今にも腕を伸ばさんとしている。そのことに早く気付いて。
「サーニャはいっつも部屋を間違うからナ。今日は特別に私が、ちゃんとサーニャの部屋まで送り届けてや
ったンダ」
そしてどうか君の悪習(それは私にとっても)が完治しますように。
ねぇだって、部屋を間違えて私の元に君が来てしまうことを、どこかで嬉しいと感じてしまっている私がいるん
だ。邪な気持ちなんて一切抱いていないはずだと自分に言い聞かせてみても、高鳴る胸には何ら効果はなく
て。無防備に眠る君の柔らかそうな頬に手を伸ばしてみたことなんて、一度や二度じゃない。人はそれを“へ
たれ”だなんて言うかも知れないけれど、本当は褒められてしかるべきなのに。だって私は私から君を守って
いるっているっていうのに。
だけどもうそれだって、私の防衛本能だっていつ音をあげたっておかしくはないわけで。そりゃあ折角の睡眠
時間を中途半端に妨げられるのは誰だっていい気分はしないだろうけど、それにしたってその睡眠を破るの
がサーニャだっていうなら不快も不機嫌も途端に消えうせてしまってむしろ、どこかくすぐったいようなむず痒
い気持ちを感じてしまっていたわけで。
このままじゃいけないと考えた挙句自らに課した任務を、只今遂行中なのだ。
防衛ラインは決壊寸前って?
そんな私の言葉に納得したのかしていないのか、サーニャは私のパーカーの裾をわずかに掴んだまま朝露
に湿った自身の衣服を脱ごうとしたのを、片手が塞がったままじゃ無理だと悟ってやけに時間をかけて手を
放した。そうしてそのままの緩慢さで身に纏った暗色色の、だけど彼女が身につけているとどこまでも可憐に
見えるしかつめらしい軍服の合わせ目に手を掛けたものだから、反射的にというより当然のマナーを弁える
つもりで背を向けた。普段一緒にサウナに入ることだって珍しくはないはずなのに今更何を、と自分の中に
わずか残った冷静な部分が意地悪に告げるが、あえてここは万国に通じるであろう言い訳を使わせてもらう。
『それとこれとは別だ』と。すぐ背後には黙々と就寝準備にいそしむサーニャがいる。何度も見たことがあ
る下着姿より衣服を脱ぎ去るその行程の方がより艶かしいと思ってしまう自分は本当にどうかしている。
ここまでくれば後はもう彼女はベッドに倒れこむだけだろうと、奇妙な焦りの中で吐き出した安堵の息を暗
い部屋の中に置き去りにしたまま、また冷え切っているであろうドアノブに手を掛けようとした私の耳に届く、
彼女の声。
「どこ行くの・・・?」
その声音はやけにはっきりとした硬度とは逆に、脆弱な心もとなささえ湛えていた。あと数瞬でノブに届こう
としていた手は動きを止める。
どこへ行くってそんなの、この部屋においては所詮闖入者でしかない私に対しては愚問なんじゃなかろうか。
「どこって自分の部屋に」と投げ返した言葉はだけど「どうして?」という君の言葉に効力を失ってしまう。
背中越しの会話に飽き飽きしてギギギギとまるでオイルを注し忘れた歯車のように軋む音を伴って後ろを振
り向いた私の目に映ったのは下着姿でお気に入りのぬいぐるみを抱きしめようともせずベッドに腰を沈めたま
まこちらを見つめているサーニャの姿で。そのまわりに散らばった衣服を視界に捉えたことで質問の意図を無
理やりに理解した。そっか、出てくなら服を畳んでからにしろってことか。どうやら君はお姫様なんかじゃなくて
それよりももっと高貴な王女様だったらしい。「しょうがないがないな」とその衣服を拾い集める私はさながら
王女に仕える従順な召使いだろうか。
脱ぎ散らかしたばかりの衣服には、いくら冬の空気が足早に熱を奪い去ろうとしていても未だ彼女の体温が
残されていて、触れるのはどこか気恥ずかしい。だけどこの仕事を終えなければどこか息苦しい(普段はそん
なこと思いもしないはずの)彼女の部屋から去るのは困難だった。
普段皆には見せないだらしなさを解放してくれることに頬の筋肉はだらしなさを顕現し始めるが、どうにか表
層に現さないようにと不自然に顔に力を込めながら彼女の衣服をたたんでいく。丁寧に。丁寧に。この仕事を
終えると今度こそ私はこの部屋から出て行かなければならないのだから。
そうして出来上がった几帳面な布の塊をいつものようにベッドの隅に置こうとしてサーニャを見遣れば、はたと
目が合った。何もやましいことをしていたわけじゃないのに心臓が跳ね上がった。どうやら私はずっと彼女に見
られていたらしい。眠たくって仕方がないはずなのに一体どうしたことだろうと首をかしげてみても彼女から与
えられる回答はなく、私は畳んだ衣服をそっとシーツの上に据えた。
「それじゃあ――」
「おやすみ」と、言うつもりでいたのだ。私は。いまだベッドの上で所在無さげに座っているサーニャに任務完
了とばかりに微笑みかけて、言うつもりだったのだ。「ゆっくり休めよ」と、なんなら頭を撫でてやってもよかっ
た。可愛い可愛い君を精一杯可愛がるように、慈愛だけを詰め込んで触れてもよかった。
しかし結局はそのどれもを行動に移すことはなかった。
移せなかった。
サーニャの服をシーツに下ろすためにわずか身をかがめていた私の手はまるで待ち構えていたかのよう
な彼女の手に引き寄せられ
「お、おぉぉ?っおいサーニャ!?」
どさり
「おやすみ」を言うために形作られていた唇は間抜けな声を飛び出させ、
気付いたときには私の身体はやわらかい何かによって受け止められていた。いや何かなんて言うまでもない。
まだ温められていないひんやりとした触感。
サーニャのベッド。
引き倒された身体。腕に絡みつく心地いい体温。
視界に映るのは、サーニャ、だけ。
近っ
「さ、サーニャ!?何やってんダヨ!?」
「・・・おやすみ」
「“おやすみ”じゃなくテ!」
あまりの至近距離にうろたえて仰け反りそうになりながらも搾り出した声は上擦って震えていた。互いの視
界に互いしか映り得ない距離で向かい合っているなんて、うろたえないわけがあるか。思わず起き上がろう
としてもサーニャが私の腕を掴んでいるせいでそれは叶わず、それどころか彼女は私の慌てようなど軽やか
に聞き流してまるで逃がさないとでも言うようにこの腕を抱き寄せるのだった。
何かと、勘違いをしているのだろうか。お気に入りの枕とか、ほら例えばベッドの隅で淋しげに倒れているあの
ネコペンギンだとか。或いは寒さのために身近な熱源を求めたのだろうか。確かに私の今の体温は平常より遥
かに高いような気がするけどそれにしたって。そもそも先日彼女が夜間哨戒帰りに誤って私の部屋で眠ってし
まったときだってサーニャはこんなことしなかったはずで。
あれやこれやと理由を考えてみるけれどとりあえずは私にとって心臓に悪いこの状況から脱出して君にとって
常日頃の相棒であるネコペンギンを私の代わりに(いやもともと私の方がぬいぐるみの代わりだったのだけど)
抱きしめてもらうことにしよう。
任務中に予期せぬことが起こるなんて当たり前のことだ。大事なのは不測の事態をどれだけスマートに解決
するか。
冷静とは言い難い思考で戦況を確認していた私に
「・・・だめ?」
不測の事態、再び。
その声は確かに呟くようなものだったというのに吐息の色さえ感じ取れるほどの明確さを持って私の意識をい
とも簡単に吹き飛ばしてしまった。だって今にもシーツの皺に潜って溶けてしまいそうな声だったのだもの。だっ
て
繊細に震えるまぶたからじっとこちらを見つめる翡翠色がはっきりと覗いていたのだもの。
そんな声で、瞳で、追い詰められた私に答えられるわけがないじゃないか
「だ、だめじゃ・・ナイ」
そう言ってしまうより他にないじゃないか。
それまでは不安そうに眉を下げていたサーニャが私のおぼつかない許容を聞き入れた途端安心したように少
しだけ微笑んだ。もうそれだけで自分の口にした言葉が間違いなんかじゃなく君の求めるものだったんだって
私の頬も意思とは無関係に緩んで、どうしようもなく緩んでしまって、君に求められるのならばたとえ枕と間違え
られようと手っ取り早い熱源としてだろうと何だって構いやしないって思えた。あぁだけど先程ほんのちょっとの
我儘を言った君の瞳には疑いようもなく私だけしか映ってなかったなとどうにか視線をサーニャから逸らしなが
ら(だってこんな至近距離でいつまでも見つめていたら心臓が悲鳴をあげてしまう!)思考を彷徨わせていたが
「え・・・?」
ふと腕に軽やかな重みが乗せられたことに気付く。
改めて見遣るまでもないほどの距離で、サーニャが
ついさっきまで抱えていただけの私の腕をあろうことか自身の頭の下に敷いてしまっていた。所謂、これは
・・・腕枕?
「っ!?」
今度こそ、呼吸が停止した。
いやもしかしたら心臓だって一瞬止まってしまっていたのかもしれない。
サーニャのやわらかい髪の毛の先端が首筋に届いてくすぐったい。そう、その感触でようやく心臓は鼓動を取り
戻し、倍速なんていう速さじゃ物足りないくらいの速度で走り出した。
指先の毛細血管まで沸騰しているような感覚。震えている錯覚。
「さ、・・」
“サーニャ”とその名を呼ぼうとして、その身体からあらゆる緊張が解けて弛緩しきったのを感じて慌てて音
を嚥下した。一度開いた私の唇はただ空気を取り入れるために幾度か開閉を繰り返すだけ。無理やりな腕枕
といった状態でできた常以上の身長差のせいで私からは彼女の顔は見えない。
眠って、しまったのだろうか。こんな状態で?これ以上ってないほどに密着した状況で?諦念と羞恥とこそば
ゆい気持ちを全部混ぜ合わせてため息を一つ。この熱い息を一度吐くだけで体内の熱さが軽減されたならど
れほど楽になっただろう。結局はまるでおさまる様子を見せなかった熱を抱えながら、私はもう為す術もなく
いつものように白旗を上げることにする。
「今日だけ――」
「やだ・・・」
君の髪から香るどこか甘い香りを吸い込んで喉を振るわせた私の囁きを遮ったのは、ともすれば聞き逃して
しまいそうな声量。だけどそれは間違いなく大好きな君の硝子のような声で。
確かにこの鼓膜はその声に震わされたはずなのに思わず耳を疑った。
“今なんて”と聞き返そうとした私より早く、次いで放たれた君の声は先程の2文字よりなお一層小さかった。
それでも全神経を耳に注ぎこんでいた私に
届いた、その言葉は
「・・“今日だけだから”は、いや・・・・」
声が、質量を伴って私の胸を打ち付けたのだろう。鼓動が身体中に響いた。
君が部屋に来る度いいわけみたいに投げつけていた言葉。つい今しがたも使おうとした常套句。それが君
の甘い拒絶によって封じられてしまった。
でも“今日だけ”が嫌だなんて、それはどういう意味で言ったの?
もはや癖みたいに毎回毎回私の部屋を訪れる君をその場限りのいいわけでその日限りの寝床にするのを
許していること?それとも今日みたくまっさらな早朝に君を迎えに行ってあまつさえこうして枕の代わりにされ
ること?今日だけじゃイヤなのは、ねぇどっち?
そう尋ねようとしても傍らの君は規則正しい寝息を取り戻してしまっていてそれきり言葉を発することはなかった。
時折むにゃむにゃと音を紡ぐ以外は。
「寝言カヨ・・・」
ため息と一緒に戸惑いが溶けていく。
なんだか今日のサーニャはやけに甘えん坊だ。よほど疲れていたのだろうか。感情のままに、それは我儘と
紙一重な程。
普段ルッキーニがシャーリーに好き放題我儘を言ってのけているのを見ているとシャーリーも大変だなとかな
んでいちいち聞いてやれるんだとか、無理難題押し付けられてんのになんでだらしなく笑ってんだよとか思って
いたのだけど
確かにこれは、悪い気分じゃない。
むしろ背筋がくすぐったくなるような。
サーニャの我儘ならなんだって叶えてあげたくなってしまう。
きっと今私はあのときのシャーリーとおんなじ顔してるんだって、鏡を見なくてもわかった。
あの、困ったようなだけど嬉しそうな顔。
うん。本当に困ったな。どうやらこれは、離れられそうにない。
今更、離れていくつもりもなかったけれど。
それに、どうやらサーニャも放してくれそうにない。
昨晩から練っていた任務はどうやら失敗したらしいと判断を下すと、2人ぶんの体温で温められた毛布の心地よ
さをようやく知る。同時に、たっぷり睡眠をとったはずの私にも睡魔が忍び寄ってきた。
もうこのまま、眠ってしまおうか。
君の珍しい我儘を、叶えるために。眠ってしまおうか。
くぁ、と欠伸を一つすれば目の前がおぼろに溶ける。
真っ暗なはずの部屋なのに、サーニャの髪だけはなんだか艶やかに光ってるみたいだ。月の光をたっぷり浴び
て、生まれたての朝日を引き連れて。
ほら、鼻を寄せればかすかにお日様の匂いがする。
気持ちよくて、幸せで
私の意識が溶けてくのにも時間はかからなかった。
眠りに落ちていく前に、これだけは呟けておけたらな、と思う。
「おやすみ、サーニャ」
優雅に二度寝した私がバルクホルン大尉に「だから昨日言っただろうが」と説教されたのは、その日の午後の話。
Fin.