Floren,Fluorite
おんなのこが おんなのこを すきになったら。
地獄に落ちるといったのは私の一番の親友で、それを聞いた瞬間、私は私の恋が一生叶わないのだと
いうことに気付かされて、まるで地獄に落とされたような心地になったのだった。それは士官学校の卒業を
控えたある日のことで、これからそれぞれの部隊に配属されて離れ離れになる私たちは、それまでの
執行猶予をそれぞれの形で送っていた。
「どうしたのかな、あのこたち」
それは穏やかな昼下がりの、食堂での出来事が始まりだった。
ちょん、ちょんとつついて話し掛けたら、なあに、と朗らかな問い掛けが帰って来た。それだけで嬉しくて
胸がいっぱいになって、私はにこにことしてしまう。エルマ。彼女が私の名前を呼ぶ。どちらかというと
長身の私よりもずっと背の高い彼女が私を見下ろして体をかがめて、私の口許に耳を寄せる。
「仲良しだな、って思って。あの子たち」
示す視線の向こうには、手をつないで寄り添って、なにやら楽しそうに話している同期のお友達。お互いに
何かをささやきあっては微笑みあって、おでことおでこがくっつきそうなほどにおでこを寄せ合っている。
"あの子たち"が最近仲の良いことは、周りから鈍いとか、どんくさいとか、散々に言われる私でさえも気付
いていた。けれど私よりもずっと勘の良い彼女はとっくのとうに気付いていたのだろう、私がその日ぽつりと
呟いたその言葉を聞いて彼女は「今更気付いたの?」と言わんばかりの顔をして私を見やった。思わず
ごめんなさい、と呟くと彼女は小さく笑って「どうして謝るの」と微笑んでくれた。そしてまるで泣いた子供を
あやしつけるように手を伸ばして私の頭を撫でて、そしてもう一度まっすぐ私を見て、にっこりと笑うのだった。
昔から情けないばかりだった私の傍に、いつだって彼女はいて。賢く、器用で、明るくて、優秀で。そんな
彼女の周りにはいつも人が寄ってきていたけれど彼女は遠くから彼女を見つめる私を見つけるとそれら
すべてを放ってまで私のところに来てくれるのだった。
そしていつものようににこ、と微笑んで、それがさも当然であるかのように傍らに立ってくれた。ひどく奔放
な彼女のその行動に置いてけぼりを食らったその人たちは少しどよめいたけれど、憎めない性格の彼女
のこと、まあ仕方ないよねと呆れたように肩をすくめて散っていくのだった。私はそれをいつも申し訳なく
思っていたけれど、彼女はすぐにそれを察して「私がしたいことをしてるだけよ」と実に朗らかに笑んで
くれた。彼女がそういったのだろうか、それとも私のことなどどうでもよかったのだろうか、人気者の彼女を
独り占めしていることを、誰かに咎められたことは無くて。それだから私は士官学校での長いようで短い
その期間を彼女の明るい、太陽のような優しさに包まれて幸福に過ごすことが出来たのだ。
「だからね、仲良し、って言っても意味が違ってて、友達って言うか、ええと、そのお」
「はいはい、わかってる、わかってる。あなたの言いたいことは分かったから落ち着いて、エルマ」
『部屋に戻ろ?』。私の問い掛けに答える前に、彼女は私にそう促した。なんで?どうして?疑問の言葉を
重ねる私に「いいのいいの」と答えて、ちょっと強引に手を引いて。部屋に着いたら彼女は「痛かった?
ごめんね?」と申し訳なさそうな顔をしていたけれど、それでも私は嬉しくて、そして同時に切なかった。
だって、私は、そんな風に彼女に手を引かれてずっとここでの日々を過ごしてきたのだ。
入学したとき宛がわれた二人部屋。南を向いたつきあたりの、一番日当たりのいいところ。もうすぐお別れ
をすることになるこの部屋の荷物はもうほとんどまとめられている。昨日じゅうに、二人で手分けして片付
けたのだ。新しく配属されることになる基地に大荷物を送り込むわけには行かないから、大方のものは
捨てざるを得なかった。思い切りの悪い私と違って彼女は非常にさっぱりとしていて、すっかり溜まって
しまっていた私のガラクタたちを、即座に終わらせた自分の荷物の整理のあとに手伝ってくれたのだっけ。
(もー、なんでこんなにたくさん石ころがあるわけ?)
(これはほら、初めて空を飛んだときの記念で、これはロールバレルが出来るようになったときのでしょ、
それでこれが…)
(そんなこと言ってたらきりが無いでしょ!ほら、これひとつだけにしなさいよ)
(…これ?)
手のひらの中にころりと転がったその小石は、キラキラと翠色に輝いていて。その輝きに、私は今となって
はもう遠い遠い、けれども昨日のことのように思い出せる大切な思い出を起こした。陸上訓練とは名ばかり
の体力づくり、要はランニングの真っ最中。学籍番号が近かった私たちはペアを組んで走っていた。私
よりもずっと足の速いはずの彼女がなぜかあまり良く知るはずの無い、ただ偶然並ばされた順番が隣
同士だっただけの私についていたのは、あまりにも私の走り方が危なっかしかったからだ、というのは
あとで彼女から聞いた話だった。
そう、そして私はあの日も、突然つまづきかけたのだった。(レイヴォネンさん!)そう彼女が叫んで、
腕を引いてくれなかったら、私は道に真正面から倒れ込んでいたのに違いなかった。
(あのときの…)
(エルマが転んだ"かもしれない"石。覚えてる?)
(あ、あのときはほんとうに!石につまづいたの!)
(はいはい、わかってますわかってます。いまは何も無いところで転べるけどね)
怪我をしていたら大変!これは緊急事態よ!そう豪語する彼女に半ば引きずられるように、医務室に
行くと言う名目でランニングをそっちのけたら、次の日二人でその残りを走らされた。その最中で見つけた、
綺麗に綺麗に透き通った翠色の石。いびつな形をしているけれど、まるで原石のように輝いている。何に
もないところで転ぶ人なんてはじめて見た、と大笑いしていた彼女に反抗したくて、私はこの石に転んだ
のだと主張したのだっけ。
すっかり人気の薄くなってしまった部屋の、窓際に一つだけ置いてあるその石は今も陽光に照らされて
緑色にキラキラと輝いているのだった。ふ、と彼女がその石を見やるのを見るといつも胸がどきどきして
しまう。あなたの色ね。だってかつてそう言って朗らかに笑んでくれたのだ、彼女は。そして今も、優しい
優しい瞳でそれを見つめている。何となく気恥ずかしくて彼女の瞳を真っ直ぐに見やることが出来ない私は
、そこに私に対する彼女の視線を見る。どこまでもどこまでも柔らかくて温かい、慈しみに満ちたその瞳。
寒い寒い雪の夜にだって、それは私の心にぬくもりをくれた。
「大方、"デキた"んでしょうよ」
窓際を見やったまま視線だけを遠くにやって彼女はつぶやいた。ものごとの境目にはよくあることよ。
そして心底呆れ果てたような溜め息を一つついて続ける。できた?なにが?その言葉の意図するところが
うまく掴めなかった私は尋ね返した。ひねり込みが?宙返りが?なるほど、確かに一緒に何かを達成した
ならその仲は親密なものになるような気がする。…きがする、けれど。
「…でも、あのふたり、友達っていうよりも…」
「ねえ、エルマは第一中隊所属になるんだっけ?」
こいびと、みたいだよ。
そう続けようとして出来なかったのは、恐らくは意図せず、彼女の問い掛けと私の言葉とが被ってしまった
からだった。私が何かを言いかけていたことに気付いた彼女がこちらを見てふわりと笑って首をかしげる。
どうしたの、エルマ。お先にどうぞ?促すように覗き込まれると私は何も言えなくなる。胸がどきどきして、
顔が熱くなって、涙がこみ上げて来そうになって。ごまかすようにぶんぶんと首を振る。ううん、なんでも
ない、なんでもないの。そして彼女の問いに答えた。
「うん……離れ離れに、なっちゃうね」
「…そうね」
会話が途切れてしまうのは、もう、こうして二人で一緒にいられることが日常ではなくなると、お互いに
分かっているから。士官学校を卒業したら、私は第一中隊、彼女は第三中隊に配属されることが決まって
いるからだ。第一中隊と第三中隊とでは部隊はもちろん、駐屯する基地も違う。私たちは離れ離れに
なってしまうのだ。
ふと、先ほどの食堂での光景が脳裏に蘇る。記憶が正しければあの二人も、別々の部隊に配属される
ことが決まっているはずだった。…そう、あれ?と思ったのは、離れ離れになってしまうのに、どうして
今更?と思ったからなのだった。
でも今なら、私は彼女たちの気持ちがなんとなく分かる気がした。二段になったベッドの、下の段に私たちは
並んで座っている。偶然を装ってちょ、っと手を伸ばしたらいとも容易く手が触れた。びくりと震えたのは
私の方。でも、もしかしたらあちらもそうなのかもしれなかった。ちらりと見やると彼女はびっくりした顔で
私を見ていて、けれどもすぐに顔を曇らせてしまうのだった。
「アホネン…いもうと部隊……」
そして突然うつむいて口許に手を当てて、そんなことをぶつぶつと呟きはじめる。アホネン。その名前は
私も聞いたことがあった。と、言うよりも私がこれから配属されることになる部隊の隊長さんなのだ。知ら
ないはずがない。そう言えば配属される部隊を聞いたとき妙にこの人は唖然とした顔をしていて、どうして
か皆に励まされていたっけ。第三中隊といえばスオムスのウィッチのエース部隊だからかもしれない
けれど、彼女の実力を誰よりも知っている私はその様をひどく不思議に見ていたっけ。
きけんだわ。物語の最後にエンドマークをつけるように、彼女の思案はその一言で終わった。けれど
依然としてその顔は今にも吹雪が来そうなほどに曇っていて私は悲しくなる。何とか元気付けたくて、
それだけの気持ちで触れ合っているだけだった彼女の手をぎゅうと握り締めた。
ねえ、ねえ、エイラちゃん。
声には出さずに、傍らの彼女に呼びかける。こんな可愛らしい名前柄に合わないわ、といって自らを
『エイッカ』と呼ぶように皆に触れ回っている彼女だけれども、私にだけはファーストネームで呼びかけて
いいと言ってくれた。以来、彼女のその発言が覆されたことはないから私はずっと彼女のことをそう呼んで
いる。
…それは、彼女にとって私が『とくべつ』なのだと認識してもいいということだろうか。そうであったらいい
のにな、と願う。あの食堂でのあの二人のように、私ももっともっとこの人に近づきたいのだ。離れ離れに
なって、そのままなんて、いやだ。ううん、離れ離れになるからこそちゃんと気持ちを伝えておきたい。
そして出来るなら、同じものを返して欲しい。
その気持ちは多分恋だった。それくらい好きだった。代々ウィッチの家に生まれて、その能力の発現と
共に当然のようにスオムス空軍の士官学校へ送り出された私にとってそれは縁遠いものだと思っていた
けれど──気がついたら、落ちるように好きになっていた。ときめき、どきどき。触れて欲しい、触れてみたい。
笑いかけて欲しい、笑いかけてあげたい。できることなら、同じ気持ちをあなたに抱いていてほしい。
ねえエイラちゃん、私は、あなたのことが。
「…エルマ」
喉まででかかった告白の言葉は、またしても彼女の言葉で頓挫してしまった。私は答える。なあに、エイラ
ちゃん。内心では暴れている心臓が、触れ合った手ににじんでいる汗が、気付かれてなければいい、
ううん、気付いて欲しい。そんなことを思いながら。
私の左手にあった彼女の手の温もりがふっとなくなった。驚いている間にガッと肩をつかまれて二重に
びくりとする。じい、と真剣な瞳が私を捉えて私は泣きたい気持ちになった。けれども決して嫌なのでは
なくて、むしろ逆で、そう、どきどきしすぎて、死んでしまいそうで。
「…アホネンになに言われても染められちゃ駄目よ。あなたは絶対にノーマルでいてね。」
「…へ?ノーマル、って」
「女の子が女の子を好きになるなんて異常なんだから。そんなの間違ってるの。いい?何があっても
流されちゃ駄目なんだからね。」
がつん、と。勢いよく拳骨を食らったような気分だった。いつものようにおどおどと彼女を見返しても、
彼女は笑ってくれない。真剣な瞳の中に私が小さく映っていて、それだけでまた、ばくばくと心臓が音を
鳴らす。
こんなにもどきどきしてる。彼女のことが大好きで大好きでたまらない。でも、この気持ちは異常なんだ
ってその大好きな大好きな彼女が言うのだ。そして私の気持ちを、口にする前から切り捨てる。
「すきになったら、どうなるの?」
問い掛けは、少し震えていた。
「おんなのこが、おんなのこを、すきになったら──どうなるの?」
私の真剣な問い掛けに、彼女の瞳が揺れる。けれどもやがて、意を決したように答えた。
「地獄に落ちるわ。幸せになんかなれないんだから」
きっぱりと彼女が言い切った瞬間、私の恋は終わった。ぼろぼろと涙がこぼれてくる。彼女が慌てた声を
上げる。どうしたの、どうしたの。私はまたぶんぶんと首を振った。なんでもない、なんでもないよ。そう
いいたいのに出来ない。悲しくて仕方がない。
「私はね、ちゃんと、エルマに幸せになって欲しいの。だから」
ぎゅうと抱きしめられる。私が泣くと、彼女はいつもそうして私を抱きしめて背中をさすってくれた。ちっぽけ
なことでもすぐに落ち込んでしまう私はもしかして、彼女のそんな優しさに甘えたくて泣き虫を卒業できな
かったのかもしれない。
(幸せになれないなんて嘘だわ)
泣きながら思う。だって私はこんなにも今幸せなのに。この人が大好きで、大好きで、抱きしめられて、
心地よいのに。
地獄に落ちたっていいと思った。私は、彼女と一緒ならどこででも幸せでいられるだろうと。
けれどもその踏ん切りがつかなかったのは、私が幸せでも彼女が幸せになれるわけが無いと思ったから
だ。それは間違いだとはっきりと言い放った彼女が、こんな私の気持ちを受け入れてくれるはずが無いと
思った。ううん、もしかしたら彼女は私のためなら受け入れてくれるのかもしれなかったけれど──それは
きっと、彼女にとっての『不幸せ』に違いないと思ったのだ。幸せになって欲しい。そう彼女は私に言った。
私だってそうだ。大好きな大好きなエイラちゃん。私は、彼女に誰よりも幸せになって欲しかったのだ。
かくして、私の初めての、一生の恋はあっけなく散ったのだった。
*
「忘れ物はない?気をつけていくのよ?知らない人についていったら駄目なんだからね!」
真新しい水色の制服に身を包んだ彼女が、心配そうに繰り返す。大丈夫だよお、と答えても、彼女は
不安の色を隠せないといった表情でいるのだった。挙句の果てには、私やっぱり第一中隊に転属しよう
かな、なんて無茶なことを言い始める。けれど、彼女ならそれもやりかねないような気がした。そんなこと
をしたらモチロン厳罰ものだろうけれど、とにかくこの人は優しい人なのだ。
「…幸せでいてね」
ふっ、と。彼女の表情が真剣なものになる。そしてその口からこぼれるのは私の幸せを願う言葉。…それ
は表面だけをとってみたらとても美しい、優しい言葉のように思えて──私は、再度不幸せの何たるかを
再確認させられたような気がして切なかった。ねえ知らないの?私はあなたといられた間が、一番幸せ
だったんだよ。そう伝えたい衝動を押さえ込む言葉だった。
「エイラちゃん、あの、これ──受け取ってくれる?」
彼女の言葉に返事をする代わりに、私はポケットから一つのペンダントを取り出した。そして彼女に差し出す。
門出を祝うような快晴の空から眩しいくらいの太陽の光が降り注いできて、そのペンダントの中心にある
翠色の宝石をキラリと煌びやかに輝かせた。あの後すぐ街に行って綺麗に磨いてもらった、美しいグリーン
蛍光のフローライト。私と彼女との思い出の石。
「これ──あの、石?」
「うん。持っていて欲しいの」
「でも、記念なんじゃ、」
「…いいの!」
出発を促す声がする。もうすぐ列車が出てしまう。私と彼女が向かうのは全くの逆方向だ。
私は振り返らずにそちらに向かう。今彼女の顔を見たら、泣いてしまうかもしれなかった。
だいすきだった。つたえたかった。出来ることなら、あの食堂で仲睦まじくしていた二人のようになりた
かった。…でもそれを異常というのなら、それが不幸せだというのなら、きっとそれが正しいのだ。だって
彼女が私に間違いを言った事なんて、一度だってなかった。もしかして私が気付かなかっただけかも
しれなかったけれど、それでも私にとってはいつだって正しかったから。
ミナ・ラスカタン・シヌア。
ペンダントの後ろにこっそりと彫ってもらったその言葉。愛しています、あなたのこと。
気付いてくれればいい、けれど気付かないでいて欲しい。
シートに座り込むと、視界が即座に滲んでいく。涙をどんなに流してももう、慰めてくれる彼女は傍にいない。
心も、体も、もう離れ離れ。
ああ、やっぱり最後にエイラちゃんの顔を見ておけばよかったと、今更ながらに後悔した。