第4手 指をからめる
いつ雨が降ってもおかしくない曇り空の下、あたしとバルクホルンは夜間哨戒の任務についていた。
普段はサーニャ一人に任せているところだけれど、あたしたちも夜間戦闘の感覚を忘れてしまわないよう定期的にロッテを組んで出撃させられる。
今夜は空一面に黒い雨雲が垂れ込めていることもあり、空と海の境界線がわからないほど暗かった。
「おい、バルクホルン、異状はないか?」
インカムで相棒に応答を求める。
日中の出撃を主とするあたしたちにとって、いくらか目を慣らした程度では焼け石に水だった。
月明かりがあればまだしも、星の光も見えない曇天ではわだかまる闇がネウロイなのか、ただの影なのか判別するのが難しい。
目で見るだけでなく音などに対しても神経を張りめぐらせておく必要があった。幸いにもあたしは音に関して鋭敏な特性を有している。
「おい堅物! 返事しないと中佐に言いつけるぞ!」
インカム越しに脅しをかけるとようやく覇気のない声が返ってきた。
「あ、ああ、これといった異状はない。そっちはどうだ?」
「異状はないはずだ。なにかあったらすぐに知らせろよ、わかったな、バルクホルン?」
「りょ、了解した……」
カールスラント軍人のものとは思えない、弱々しい声音だった。
暗闇のせいで確認はできないけれど、あたしの右方数十メートルの位置を等速で飛んでいるはずだ。
あいつがいったいどんな顔をしているのか、あたしには手に取るようにわかる。
出撃前、あたしはあいつにこんな話をした。
『そういえばリーネから聞いたんだけど、なんでも最近、夜間哨戒中に変なことが起こるらしいぞ』
『変なこと? それはネウロイに関係あるのか?』
『ネウロイなら倒すだけだろう。そうじゃなくて、白い霧のようなものが見えたり、インカムから女の子がすすり泣くような声が聞こえてくるらしい』
『…………』
『ま、有り体に言えばゴーストみたいなものらしいけど、そんなのうさんくさ……、あれ、バルクホルン?』
『ハ、ハハハハ、りーねハジョウダンガスキダナ、マッタク』
『だよなー。まさかこんな話を本気にして怖がるようなやつはウィッチーズにはいないよなー?』
『ア、アタリマエダ、ハハハハハ……』
そう言って右手と右足を同時にくり出す姿はじつに滑稽だった。
ルッキーニといっしょにペリーヌをからかうのも楽しいけど、一人でからかうならバルクホルンも捨てがたい。
やつはリベリオン人の気質に否定的なところがあるから神経を逆撫でしてやったときの怒りっぷりはペリーヌ以上のものがある。
本人は自覚がないけれど、あれでけっこうコメディアンなどに向いているかもしれない。もちろんやつはツッコまれる側で、あたしがおちょくる役だ。
「バルクホルン、闇が濃くて埒が明かない。互いの距離を縮めて防御性を高める。いいな?」
「ああ、了解だ」
「間違っても左から近づく影を撃つんじゃないぞ」
あたしは体を傾けて右寄りに体重をずらしていった。
明かりがまったくない闇の中を飛ぶのはいささか心許ないものだ。
ネウロイが潜んでいるかもしれない恐怖とはべつに、人は自分の機能が及ばない領域に対して本能的に警戒する傾向があるからだ。
見えない、聞こえない、得体の知れない空間はたとえウィッチであろうと不安に思う気持ちを消し去ることはできない。
右方向に影が見えてきた。
それからすぐに形がくっきりとし、強張った顔つきで飛ぶバルクホルンの姿になった。
「よう、堅物」
「……別に貴様に鉛弾をお見舞いしてやってもよかったんだが」
「おいおい、それはぞっとしないジョークだな。カールスラントのウルトラエースが味方を誤射しました、なんてシャレにならんだろう」
「ふん、ただの冗談だ」
バルクホルンは変わらず強張った顔を前に向けたまま、暗闇を見透かすように鋭い視線であたりを見回した。
冗談を口にしているわりには表情に余裕が見られない。予想以上にいたずらが効き過ぎてしまったらしい。
こういった柔軟性に乏しいところがバルクホルンらしいといえばらしいのかもしれないが。
「あー、もしかしてさ、さっきの話、気にしてたりする?」
「……なんの話だ」
「ほら、ゴーストが出るとかそんな話。ひょっとして怖かったりとかし――――」
「怖くない! ぜんっぜん怖くないぞ! カールスラント軍人たる者、そのような低俗な迷信になぜ怯えなければならない!」
「あー、べつに怖くないならいいけどさ。ただまあ、仮にそういうのが怖くても悪いことじゃないと思うぞ、うん。あたしにだって怖いものくらいあるしな」
あたしの言葉にバルクホルンの垂れ耳がぴくり、と反応したのを見逃さなかった。
顔つきは険しいままでもこちらの言葉の続きを待っているのが気配でわかった。
本当に強情で素直じゃないやつだ。
ある意味、ルッキーニよりも手が掛かるタイプだろう。
「戦闘で死ぬのはもちろん怖いし、ルッキーニや仲間が負傷するのもイヤだな。それに宮藤がつくる扶桑の……、なんていったかな、魚をミソとかいうので煮込んだやつ。
あれは嫌いというより恐ろしさを感じる。あの系統の味だけは受け付けない。ほかにも怖いものなんて腐るほどあるぞ」
「……そういうものか」
「ああ、そういうものだろうさ。怖いものがない人間のほうがどうかしてる。あんたにだって怖いものの一つや二つ、当然あるんだろう?」
あたしの誘導によってバルクホルンの表情がわずかに和らいだ。
軍人としてのプライドの高さを切り崩すにはこちらから譲歩しなければいけない。
それがこいつとの付き合い方なのだとあたしは気付きはじめた。
わがままで自由奔放なルッキーニにはルッキーニなりの、バルクホルンにはバルクホルンなりの自分を形成する基盤がある。
それをむやみに傷付けるのではなく、“自由”がお国柄であるあたしのほうがデコボコに合わせて変形してやれば衝突することなく、すべて丸く収まる。
それがリベリオン出身のあたし流の処世術なのだ。
バルクホルンにはまた消極的で軟弱だと怒鳴られそうではあるけれど、あたしはそれでいいのではないかな、と思った。
当の本人はあたしの言葉にすこしだけ心を許したのか、もごもごと口元を動かしてぼそぼそと本音を漏らしはじめた。
ほれ、見たことか。あたしの処世術の大勝利だ。
「まあ、私とて怖いものがない……、と言い切るのは難しいかもしれんな。妹のクリスのこともあるが、ミーナや隊のみんなのことも……」
「それだけか?」
「あとは、そうだな……、幽霊などというものの存在を恐れているわけではない。だが、まあ……、得体の知れないものは、あまり好みではないかもしれないな。別に苦手というわけではないが、あくまで倒し方が定かでないというのが、やや不安……かもしれない」
やっぱり怖いんじゃないか!と声を大にしてからかってやりたかったけど我慢した。
むしろあたしは小さな子どもが罪を告白して反省できた褒美に頭を撫でてあげたいような、そんな心地を味わっていた。
あの堅物が自分の怖いものを素直に白状できたのだ。
任務が終わったら宮藤を叩き起こし、扶桑式のお祝いをしてやるのもおもしろい。
たしか赤いライスを炊くのだとか聞いた覚えがあった。
それはそれでこいつは顔を真っ赤にして怒るのだろう。想像しただけで笑いがこみ上げてくる。
けれどあたしは少しだけ大人になって、頑固な相棒にささやかなご褒美を与えるのだった。
「そうか、それなら手でも繋ぐか? そうすればすこしは怖くなくなるだろう」
「な、だから私はそんなもの怖くないと言っているだろう! あまり好きではないというだけで、けっして――――」
「はーいはーいはーい、じゃあ周りが真っ暗ではぐれたら元も子もないから手を繋ごう。それならいいだろう?」
あたしのほうから右手を差し出して言い逃れできないように牽制する。
こういうのは言った者勝ちだ。ルッキーニがそれを体現している。
「なんでこの私がリベリアンなんかと仲良しごっこしなければならない。何度も言うが、私は怖くもなんとも――――」
「だー、わかったよ、小指の一本でいいから。ほら、これくらいなら“あたしのお願い”を聞いてくれるだろう? たのむよ、バルクホルン大尉」
しぶとく虚勢を張りつづける堅物に最後の妥協、小指の先をすこし絡めるだけ。
繋がっているとは名ばかりの接触だけど、それは確かな繋がりになる。
バルクホルンに向けて突き出した右手、その親指から薬指を折り曲げ、小指をぴんと立たせてやつに捧げた。
この期に及んでまだごにょごにょと文句を言おうとしていたものの、さすがに譲歩に譲歩を重ねたあたしの戦法にやつの良心がうずいたらしい。
しぶい顔はそのまま、仕方ないとでも言いたげにため息をつきながら左手を差し出してきた。
そして小指をかるく曲げ、あたしの小指に引っ掛けた。
バルクホルンの指は思っていたより冷えていた。
気温が低いのが原因だろうけど、もしかしたらあたしの話したホラ話を真に受けて血の流れが悪くなっているのかもしれない。
あたしはぎゅっと指に力を込め、やつの小指をあたためる攻撃に出た。
やつの耳が瞬時に赤くなったのは言うまでもない。
それから暗い夜空の下をいっしょに飛びまわり、ネウロイと出くわすこともなく、あたしたちは無事に基地へと帰還することができた。
バルクホルンはあからさまに不機嫌そうな態度で、しかし赤らんだ顔を隠すようにそそくさとハンガーを後にした。
置き去りにされたあたしはその後ろ姿にくすりと笑い、さきほどまで繋がっていた小指を暗い夜空にかざした。
頑固で不器用なやつだけど、意外にかわいらしいところもある。
これからもっとあたしの懐の広さなりを教えてやらないといけない。
水と油のようなあたしたちだからこそ認め合えるものがきっとある。それを見つけていきたい。
それに、今夜のことで一つだけはっきりとわかったはずだ。
少なくともバルクホルンはあたしについて一つ知ったことになる。今日はそれだけで充分かもしれない。
なあバルクホルン、あたしの指は存外、悪くなかっただろう?
おしまい