she said
「ペリーヌさんっ!!」
ばたばたとかけてきたリーネの頬は赤く染まっている。
いや、頬だけではない。顔全体を紅潮させて、髪を揺らして自らに駆け寄るリーネが次に何を言い出すのか、
ペリーヌにはよく分かっていた。
だから、息を切らして肩に手をかけようとしてくる(普段ペリーヌに声をかけるときですらおっかなびっくり
なのに、まったく無防備で無邪気な仕草だった)彼女にそれと気付かれないように、ペリーヌは座っていた椅子
を引いてふたりの間の距離を心持ち広げた。自然と行き場を失ったリーネの両手は、一目で彼女だと分かるスト
ライプソックスの膝にかけられた。
(「お手紙」、ですわね)
そこにつけられるべき固有名詞は敢えて思い浮かべなかった。
「ペリーヌさんっ」
「聞こえてますわ」
やがて顔を上げたリーネは、まっすぐペリーヌを見上げていた。
はじける笑顔。
「芳佳ちゃんから、お手紙!」
*
無論、ペリーヌの分もあった。明らかに書くことがないのだろう、『ペリーヌさん、お元気ですか?わたしは
相変わらず元気です』からはじまるブリタニア語の手紙には芳佳の近況が意外に簡潔な言葉で記してあった。
しばしば「坂本さん」に関する記述が登場した。更にときどき、ガリアのニュースが扶桑に入るときにはそれに
関連した文句もあった。そして開いたあとの一瞥以外はペリーヌの引き出しに仕舞われるままとなった。
この一瞥はいつもリーネの前で行われていた。
今日の手紙が届いたのは、めずらしく夕食のあとの遅い時間帯で、ペリーヌは最近漸く建った掘立て小屋では
ない、復興協力者寮の食堂兼居間で本を取り出し、リーネは自らの部屋に戻ろうとする途中だったらしい。つい
でにポスト、確認してきますね、と最後に残ったペリーヌに声をかけて出て行った。彼女は日に、ペリーヌの知
るだけでも2回はポストを確認する。
そうして、午後いっぱいほぼ休みなしで働いた今日は確認のかいがあったというわけだ。
「開けてみます、わたし」
ペリーヌの傍にいそいそと腰かけ、自らの手紙をしかし丁寧な手付きで開封する。つまりリーネがいつもペ
リーヌの前で読み出すものだから、ペリーヌもなんとなく、そうせずにはいられないのだった。
たぶん、リーネはペリーヌがこう言い出すのを待っているのだろう。
『ねえリーネさん、あなたの手紙を見せて下さいませんこと?わたくしのもお見せしますから』
さすれば彼女は、芳佳がペリーヌに何を書いたかを把握出来る――しかしペリーヌはそうするつもりは
なかった。自分宛の手紙に、リーネが心にかけるべき事項が書かれたことはなかったし、これからもないだろう
から。
小さくため息を吐き、自らも気が進まないながら封筒に手をかける。
と。
はらり。一枚の紙が封筒から零れ落ち、
「あっ」
声を上げたのはペリーヌだった。呟いたのは、リーネだった。
「写真……」
テーブルの上、ふたりの間に落ちたそれには、ふたりぶんの笑顔が映されている。セーラー服を身にまとった
少女たち。同じような笑顔は少しだけぎこちなく、照れくさそうなもの。ひとりは勿論、宮藤芳佳。では、繋が
れた手を、触れあった白い頬を辿った先のもうひとりは?
「ああ、よかった、」
リーネの声を聞くまでは、単なる好奇心からきた疑問だった。が聞いたあとのペリーヌには危惧となった。
よかった、とリーネが本当に口にしたのかどうかすら分からずに、しかし確かめる勇気も持てず、ペリーヌは
視線を彷徨わせ、しばらくはリーネから必死に意識を逃がし、最後にテーブルに目を落とした。小さな手が、
写真に伸びる。それを大切そうに胸元に抱えて――。
「芳佳ちゃん、相変わらず元気そう」
写真の中の少女たちと同じように、リーネの口許には小さな笑みが浮かんでいる。けれどもそれは、ペリーヌ
が密かに憧れた無邪気な愛らしい、リーネの素直な性格をそのままに表したいつもの笑顔ではなかった。
「ね、ペリーヌさん……」
震える唇が、何よりの証拠だった。
リーネは、弱い。たぶんときには、自分よりはるかに。ペリーヌは久しぶりに、ガリアにふたりで降り立って
からははじめてそのことを思い出した。そうしてリーネの肩に手をかけた。ひとまず写真を取り上げるつもりだった。
これがよくなかった。
「何するんですか、ペリーヌさんっ?!」
「見せていただきたいだけですわ」
「うそ、嘘よ!ペリーヌさんも同じ、この子と同じ、わたしと芳佳ちゃんを、わたしには、芳佳ちゃんしか
いないのに――」
「お黙りなさい!」
惚けたように、それまでは握り締めた拳を膝に押し付け、目をつむってむちゃくちゃに叫んでいたリーネが
ペリーヌを見上げた。
その言葉だけは聞きたくなかったのだ。
だから彼女をぶった。
わたくしは、悪くない。
言い訳を声もなく繰り返しながらペリーヌはそうやって立っていた。てのひらがひりひりとして痛い。リーネ
も痛いのだろうか、ペリーヌの打ったのとは逆側の頬から涙が一滴だけ零れ落ちた様子を、どうしてかどこかで、
美しい、と感じた。
*
午前零時。
ネグリジェに着替えたペリーヌは、自分のベッドに腰かけていた。手元には例の手紙があった。
今頃リーネは眠りに落ちているのだろうか。なんとか暴れる彼女を引きずり普段着を剥し寝間着を着せ(この
ころにはリーネもおとなしくなっていた。流石に風呂の面倒は見なかったが)ベッドに押し込めたのは、いつも
ならばとっくにふたりとも夢を見ている時間だった。そのあとにペリーヌはペリーヌで寝仕度もしなければなら
なかった。幸い、明日は休日で、だから少しくらい夜更かしをしてもいい。
素早く封を切り、封筒の中を探る。すると零れ落ちたのは、案の定リーネを狂乱状態に陥らせたのと同じ写真
だった。
宮藤芳佳の呑気な笑顔がペリーヌを見ている。
ペリーヌは、頭の中だけで彼女を罵った。
鏡台の前で、リーネはそっと頬に手を宛ててみる。腫れたそこは熱を持って、彼女に昨晩の出来事が真に自ら
の身に起こったのだと訴えていた。
(だって、本当のことだ)
リーネはペリーヌが嫌いではなかった。知り合いのまったくいない地では唯一の過去を一時は共有した相手
であるし、気位が高いせいで感情を素直に表に出せない損な性分だとも知ることが出来た――ガリアに来てから。
けれども彼女を好きか、と聞かれれば疑問が残る。つまるところ、501においてのペリーヌの芳佳に対する
態度をリーネはまだ許せていないのだろう。
鏡の中の少女は、寝起きのくせっ毛をそのままに情けなさそうな顔をしていた。深い青色をした瞳、うっすら
と隈が見え隠れする肌。暫く見つめたのち、リーネは鏡台に置かれていたブラシを手に取った。久しぶりに、
丁寧に髪を整えようと思った。
日常的に訓練もあるとは言え、結局はネウロイの来襲によって左右されていたころとは違い、今のリーネには
毎日が息の詰まるものだった。復興への道のりは長く、ときには先が見えないように思えてしまう。だがその度
に、リーネは努めて自らがガリアへ渡ったきっかけを思い出すことにしていた。
芳佳の活躍によりストライクウィッチーズがその役割を果たして解散されたのち、リーネははじめ、家族の待
つ故郷へ帰るつもりだった。しかしひとまず手に入れたロンドン行きの切符を彼女が結局ミーナを通して払い戻
したのは、突然の衝動に起因する。
リーネが「帰ります」、と手紙に記し、投函しようと部屋を飛び出したその日の窓際で、ペリーヌはひとり、
ぼんやりと外を眺めていた。何かを求めているような瞳、見えないものを必死に捉えようとしている瞳で。
いつもの(坂本を見ているとき以外の)彼女が纏う、固有魔法よりもリーネには激しく思える拒絶のオーラは
そこにはなく、だからこそ、声をかけてしまったのだろう。
『あの、ペリーヌさん、』
振り向いたペリーヌはいまだ惚けたままだったが、なんとか返事はもらえた。
『リーネさん』
『えっと、……どうかしましたか?』
『それはこちらの台詞よ。あなたこそ突然、どうしたんですの。わたくしに何か用でも?』
そんなもの、ないに決まっている。自然、リーネは自らの手元に目を落とした。既にいつもの調子を取り戻し
たらしいペリーヌがその視線を追う。ブリタニア語で書かれた宛名の最後は、父の名前。
『ええと、お手紙、なんです』
そこで、しまった、と思った。
息を詰めたリーネは反射的に俯いて、だけれども手紙を今更隠すこともわざとらしく思え、結局そのまま動き
を止めた。ペリーヌの表情は、もう見えなくなった。
『ご家族に?』
それでも耳に入ってきた、尋ねたペリーヌの声の響きを何に例えればよかったのだろう。
リーネは必死に考えた。帰郷すれば、どうせまた仕事を探さなければならなくなるだろう。学校に通い直す
という選択肢もあるが、勉強ならば自分ひとりでも出来る。それに、折角だからガリア語を学んでみるのもいい
かもしれない。何にしろ、ガリアへ渡ることに問題はない。そうして復興のお手伝いを、芳佳ちゃんの口癖みた
いに「わたしに出来ること」をしよう。
つまりリーネはペリーヌを哀れんだのだ。
だからいいえ、と首を横に振り、手紙を手の中で握りつぶしながら部屋に戻り、その手で細かくちぎりくずか
ごへ落とし、新たな文面に書き直し、ミーナに切符を託し、最後にペリーヌに告げたのだ。が、哀れんだことは
口に出来なかった。住み慣れた501の宿舎を離れるまでの短い日々の中でも、軍用の飛行機に乗せてもらい
ドーバーを越えた間も、復興の作業をこなしていく今も言うことが出来ていない。
そして今も、その償いをしている。
*
休日の朝食は、各自で用意することになっている。ひとのためならば兎も角、自分ひとりのことならばリーネ
はいつも手軽な食パンとジャムと牛乳で済ますことにしていた。で、今日も同じメニューを手にして席についた
ところで、食堂のドアについたベルが再び鳴らされた。
「おはようございます、リーネさん」
思わず身を硬くしたリーネの隣り、欠伸などしながらネグリジェ姿のままのペリーヌが平然と通り過ぎていく。
裾から伸びるほっそりとした白い足にどうしてか罪悪感のようなものを抱いて、リーネは「おはようございます
……」と蚊の鳴くような声で答えるに止めた。
――氷の欠片のような一言か、射るような一瞥をもらうつもりでいたのに。
兎にも角にも、リーネがひとりでまごついているうちに、カフェオレボウルを右手に、クロワッサンとバター
の乗った皿を左手に、あろうことかペリーヌは細長いテーブルの、リーネの真ん前の席に腰かけていた。すわ
新手の嫌がらせ(というより報復)か、と思いながら周りを何気なく見回してみるものの、休日にしても流石に
遅い時間帯だったから、助けを求められそうな人物もいない。それ程広い食堂でもないのに、ふたりきりでいる
せいで、やけに静まって、へんに空間が有り余って落ち着かない気がする。
「ところでリーネさん、あなた、その髪型は?」
普通、の口調だった。
「は、はい。あの、今日は折角のお休みだから、気分変えてみようかなって」
それはもう、驚く程に。
ちなみにリーネの髪は、今はガリアに来てから伸びたウェーブがかったそれをそのまま背中に垂らし、片側
だけを編み込みにしている。特に凝ったものでもないが、普段ならば邪魔になる長い髪をきちんとブラッシング
して下ろしているだけでも気分転換には十分だ。
そんなリーネをペリーヌは一瞥して、自らの髪に手を触れつつぽつりと一言、
「そうね、たまにはいいかもしれないわ」
「あ、ならペリーヌさんも?」
「近頃は忙しさにかまけて、わたくしも身仕度を疎かにしがちだったところですから」
このままではいけませんわ、呟いた声に、いつの間にかリーネは顔を上げていた。空になった自分の皿を横に
除け、少々行儀は悪かったものの、テーブルの上を身を乗り出すようにして、ペリーヌに顔を近付ける。
「なら、わたしにやらせて下さいっ」
「……はい?」
クロワッサンにバターを塗っていた手を止め、ペリーヌが眉根を寄せてリーネを見つめた。その彼女にもう少
し近付こうとリーネはついに肘をテーブルにつき、訳が分かりませんわとか、何を言っているんですのとか言わ
れる前に言葉を続けた。
「ペリーヌさんの髪って綺麗だなって、わたし、羨ましいな、ってずっと思ってたんです。だからいつも、触ら
せてもらえたらなあ、って……あっ」
いくらなんでも近過ぎた。そしていくらなんでも馴々しくし過ぎた。
長くて陽に透ける、ふんわりとした細い髪は、確かにリーネの憧れではあったのだけれど、と、一気に頬が朱
に染まっていくのを感じながら、リーネは椅子に縮こまった。
「ごごご、ごめんなさいっ。あの、いくらなんでも馴々し過ぎましたよね、えっと、ペリーヌさんが嫌なら、
いっそ忘れてもらっても、それにわたしはむしろ、忘れてもらったほうが、」
「……別にリーネさんのためではありませんが、わたくしは構いませんわ。丁度手間が省けますし」
「はぇ?」
思いがけない台詞に、ぴたり、胸の前で意味もなく振られていた手が止まる。リーネが息を詰めてちらちらと
伺う中、視線を逸したペリーヌは、かすかに頬を染めて言い放ったのだった。
「ですから、あなたがそうしたいのなら、させて上げても構わなくってよ」
*
絹糸のような、という表現がそのまま当てはまる髪だった。
(まるで、お日様の光を梳かしてるみたい)
「リーネさん、手が止まってますわよ」
「あ、ごめんなさい」
その後。
ペリーヌが食事を済ませて着替える間、リーネは皿を洗い、ペリーヌの部屋へと向かった。
各部屋にある鏡台は備え付けのもので、だからリーネが今朝方向き合ったそれと全く同じデザインだったが、
ペリーヌ持参のお姫様が使うような天蓋付きのベッドや豪奢な紋様が彫られたクローゼットとは調和していなく
て、それがなんとなくおかしい。
そしてリーネはペリーヌのブラシを借りて、綺麗な髪を切れないように、痛めないようにゆっくりと梳いて
いたのだが。
「ペリーヌさん、シャンプーは、わたしたち同じものを使ってるんですよね?」
「ええ、浴室にある、白いボトルのシリーズでしょう」
「なのに、こんなに違うんだ……」
頬に触れる髪を、そっと頭を振って整える。リーネの髪はといえば、決して扱いにくくはないものの、職業柄
「綺麗な髪」とも無縁だった。ウェーブがかってはいるものの、あまり様になるような形でもないし、色だって
地味なベージュだ。それも、年を重ねるごとにくすんできている。
「ペリーヌさんは、何か特別なお手入れはしてるんですか?」
「特には何も。ああ、ただ、寝る前には必ず、百回はブラッシングをするようにしてますわ」
「ひゃっかい!」
再び止まったリーネの手に、ペリーヌはふん、と鼻を鳴らして、
「ガリア令嬢として、当然の嗜みですわ」
どこか得意げに言った。
「百回……」
「まあ、あなたのやり方自体ははまずくはないでしょう。そうなると、量の問題になりますわ」
明日から、いや今日の夜からだ。ペリーヌの言葉に密かに決意して、リーネはひとり頷いてみた。それから次
にリーネが口を開くまでは沈黙が続いたが、嫌な沈黙ではなかった。きっと、ペリーヌにも嫌ではなかったはず
だ、とリーネは推測した。
やがて。
「あの、ペリーヌさん」
「なんですの?」
「やっぱり、こんなに綺麗な髪を結ってしまうのは勿体ないような気がしてきたんですけど……」
かくん、とペリーヌの首が前に傾ぐ。
「リネット・ビショップ……あなた、だんだんあの豆狸に似てきましたわね」
「そうでしょうか?」
その髪からブラシを外しながら、磨き上げられた鏡に向かって、リーネは曖昧に微笑んでみせた。