アキストゼネコⅡ
あの大騒動からはや二ヶ月―――
雪女ハッキネンにこってり絞られた義勇独立飛行中隊は持ち前のタフさで日常を謳歌し、一人の脱落者を出すこともなくスオムスの空を守り続けていた。相変わらず気温は低くて寒さは否めないが、雪が消えただけでも僥倖である。
窓から芝がのぞく中庭を眺め、なにげないふうにビューリングが口を開く。
「で、ウルスラ……お前はいつまで私の部屋に居座る気だ?」
開けた窓からタバコの煙を吐き出し、ビューリングは首を捻じ曲げて室内を見やった。
ベッドに寝転がって本を読んでいた少女は顔を向けて瞬きし、言っている意味がわからないと首を傾げる。
「大分寒さも緩んできた。改修した部屋だってある。わざわざタバコくさい部屋で過ごさなくてもいいんじゃないか?」
少ない忍耐力をかき集め、噛んで含めるように並べるビューリング。
ウルスラは自室を爆発で吹き飛ばしてからずっと、ビューリングの部屋に居候している。二人は『純愛』カップルであるというデマにより半ば強制的に相部屋にされ、その誤解を解く努力を放棄した結果がこれだった。
「私と一緒は、嫌?」
質問に質問で返すウルスラ。眼鏡の奥からじっと見つめられ、ビューリングの心臓はらしくなく跳ねた。
ウルスラは答えを待ち黙りこむ。同室になってからしばらくして、ヘビースモーカーは必ず窓を開けるか部屋の外に出てタバコを吸うようになった。タバコを嫌う自分と一緒の部屋ですごすのは息が詰まるのかもしれない。
「あーその、そうじゃないんだが…お前が、だな…望んでここにいると、も…思えんから」
しどろもどろになったビューリングは窓の外に顔を戻す。手に持ったタバコを深く吸って吐いた。
体をこすり付けて裏返るダックスフント。ウルスラは体毛に覆われた柔らかな腹部を撫でてやり、ぽつりと一言。
「考えさせて」
「……わかった」
淡々とした短いやりとりに紛らわせた感情をもてあまし、双方ともに自分だけの世界に舞い戻る。形だけのふりをして、ちらちらと相手の様子を窺いながら。
使い魔は腹を撫でられて御満悦。空気を欠片も読まず、キューンと気の抜ける声を上げた。
ウルスラが詰め所のドアを押し開けると、幾つかあるテーブルにオヘアとエルマ。二人ともウルスラに気づくと顔を上げてにっこり微笑む。
「ハーイ、ウルスラ! 相変わらず小難しい顔をしてるねー。ユーも笑えばきっと可愛いですよー」
「ふふっそうですよね。今のままでも十分可愛いと思いますけど、表情豊かな方が感情が伝わりやすいですし」
語りかけてくる二人の横を無言で通り過ぎ、ウルスラは窓際の席に腰を下ろす。いつものように本は開かず、窓の外に目をやって小さな溜め息をついた。
「どうしましたかウルスラ? いつになくアンニュイですねー」
「あのっ何か悩み事でも? 私たちで相談にのれることなら」
面倒見の良い二人はさっさと席を移動してウルスラの対面に陣取る。
ウルスラは正面に並んで身を乗り出してくる仲間を検分するようにじろじろ。納得のいく説明を聞くまで動くまじという意気込みが見て取れた。
「……ビューリングの部屋を出るべきか、考えてる」
根比べに飽きたのか、内心誰かに相談したかったのか、ウルスラは考えていた事を小さな声で口に出す。
足がかりを得たオヘアとエルマは顔を見合わせ、急にそんな事を言い出した理由を思いつけずに首を傾げた。
「え~とつまり、ウルスラはやっぱり一人部屋の方がいいんですかー?」
先に口火を切って尋ねるオヘア。カウハバ基地は元々そんなに豪華な造りではなく個室もそう広くはない。それに片時も本を手放さないウルスラだから、プライベートな部屋は一人で使う方が性に合うのかもしれない。
オヘアの問いかけに首を横に振り、ウルスラは少し言葉を探すように視線を泳がせた。
「……そうじゃない。だけど、今のままだと迷惑になる」
「ねえウルスラ曹長、迷惑だってビューリング少尉が言ったんですか?」
誰とでも仲良くしたいエルマには理解できないジョンブル魂とやらで、ビューリングは馴れ合いを良しとせず一歩離れた外周のポジションを好む。発端はそこにあるのかと、とても根本的な事をエルマは確認した。
ウルスラはまた首を振り、今度は即座に否定する。
「ビューリングはそんなこと言わない。ただ、これから先どうするのかは聞かれた」
そう言って黙り込んでしまった少女を前に、オヘアとエルマは見開いた目をぱちぱち。中尉がどうぞーいえいえそんな私なんてという無言のやりとりの後、オヘアの押しに負けたエルマが口を開いた。
「えっと、ですね…迷惑云々はちょっと置いておきまして、ウルスラ曹長はどうしたいんですか?」
「どう?」
「つまりウルスラはビューリングと一緒がいいのかどうかってことねー」
スムーズにいかない流れに我慢できず、結局オヘアも口を挟む。後は手に持ったコーラをちびちび含んで気長に答えを待った。
やっと聞かれている事項を理解したのだろうウルスラは、じっと本の表紙を見つめている。
「…………わからない」
長い時間かけて導かれた答え。
自分の心がわからないならどうしたらいいのか、年上二人も腕組みしてう~んと考え込んだ。
本国から手紙が届いているとの知らせを受け、ビューリングは面倒と思いつつも司令部へ。どこの部隊であっても他国からの手紙には検閲がかかる。仕方ないと諦めるより他ないが、内容を逐一読まれるのは正直気分の良いものではなかった。
手近にいた職員に声をかけ、出向いた要件を告げる。待ち時間に差出人について思いをめぐらせるが、こんな自分に手紙をしたためる人物など思いつかない。しばらくして手紙を持ってやってきたのは意外な人物だった。
「ハッキネン少佐…どうしてあなたが?」
カウハバ基地司令が使いっぱしりじみた真似をして。含まれた意図を読み取っても尚、ハッキネンは氷のような無表情を崩さない。
「ブリタニア空軍から私宛の手紙と一緒に送られてきました。失礼ながら私が中を検めさせていただきました」
ハッキネンは手にしたものをビューリングに示す。そうして初めてビューリングは手紙が二通あることに気づいた。
「空軍? もしかして403ですか?」
「その通りです。ブリタニア403飛行隊、あなたの原隊ですね」
嫌そうな顔と声に構わずハッキネンは告げる。すでに中を読んだ彼女は内容を把握しているのだが、詳しいことは何も語らず一通をビューリングに渡した。
「…ここで言えないような内容ですか?」
「いいえ。しかし余計な憶測が先走っても困ります。とある人物が名代として来られるそうですので、詳細はその方にお聞きください」
用は済んだとばかりに踵を返して去っていくハッキネンを見送り、ビューリングは受け取った手紙に視線を落とす。几帳面な宛名文字はどこかで確かに見た憶えがあり、顎をつまんで首を捻りながら裏を返した。
「ウィルマ?」
そこにはファラウェイランドの飛行学校をでたばかりの僚友、ウィルマ・ビショップの名があった。
くわえタバコで小道を急ぐ。司令部の建物で立ち読みするのもどうかと思い、ビューリングは中隊の隊舎へ戻ることにした。
玄関まできたところでふと足を止め、方向を変えて中庭へ進む。あたりに人影が全くないのを確認し、木製のベンチに腰を下ろして封筒を取り出した。
「なんであいつが…」
訝しげに呟き、開いた手紙の字面を目で追う。たった数行のメッセージはすぐに読み終わり、認識力が追いつかなかったビューリングは眉間の真ん中を指でとんとん。そしてタバコをスーハー。さればもう一度と最初に戻り、すぐに最後まで読み終え、とんとんスーハー。
傍から見れば面白い行動を繰り返し、ついには頭を抱えたビューリングが呻き声を上げた。
「会いに行ってやるから飛行場まで迎えにこい~? 一体何の冗談だ……」
しかも指定しているのは明後日、なんとも急すぎる話である。来なかったら殴るとも書かれていた。
よほど無視してやろうかと思ったが、わざわざこんな遠方まで出向いてくる理由が気になる。仕方がないかと手紙をポケットにしまって溜め息をつき、ビューリングは重い腰を上げた。
ビューリングが詰め所のドアを押し開けると、いつもは何かとうるさい室内が妙に静かである。突然の訓練にでも駆り出されたかと思い、ドアをくぐった先でそれが間違いであることに気づいた。
「どうかしたのか? いつもはあれだけ騒々しいくせに」
すたすたと歩を進め、ビューリングは1つのテーブルを囲んでいる三人に声をかける。ウルスラは除外として、キャサリンとエルマが静かだと気味が悪い。
「オー、ビューリング…ミーたちは今、悩める乙女なのねー」
いつになく難しい顔をしたオヘアは肩を竦めてお手上げポーズ。ふるふると頭を振ってせつない声を出す。
ポケットに手を突っ込んだビューリングは片方の眉を上げて呆れ顔。
「乙女という表現には大いに異論があるな。それはそうと悩みとは」
「ビューリングには関係ない」
ずっと本の表紙を凝視していたウルスラが硬い声で遮る。その強すぎる拒否に室内が凍った。
「ちょ、ちょっとウルスラ曹長ったら、なにもそんな言い方しなくても」
こういった緊迫感に弱いエルマは必死に場をとりなそうとして半泣き。どうして突然こんなふうになってしまうのか。
「そうか。首を突っ込んで悪かった」
同じく硬い声で応じ、ビューリングはくるりと踵を返して扉へ向かう。オヘアとエルマは更に状況を悪くすることを恐れ、二人の間でおろおろ。ウルスラは爪が食い込むほどに拳を握り、俯いたまま小さく唇を噛んだ。
「あっビューリング、あんたどこ行ってたのよ。訓練の相手してもらおうと思って探してたのに」
「…トモコ、話がある。ちょっと顔を貸せ」
ぴりぴりした空気を纏ったビューリングは扉で鉢合わせした智子を拉致して引っ張っていく。智子の両脇に引っついていたジュゼッピーナとハルカは、あまりな迫力に気圧されて何も言えずそれを見送った。
「えっ? えっ?」
智子は妙な期待感に胸を高鳴らせ、同じ言葉を繰り返すばかり。固有スキルである流されやすさを発揮し、一度は凍結したエンジンにフルスロットルをかけた。
「なっなんですか、あの銀髪狐! はやく智子中尉をお助けしないとまた有耶無耶のうちにライバルがっ。そんなことっそんなこと許せません…智子中尉をライオンみたくさせていいのは私だけなんですからっ!」
ぎゃーぎゃー騒ぐハルカも一人で突撃するほど命知らずではない。ビューリングが腰に携帯するグルカナイフの切れ味、その腕前は相当のもの。渡り合えるだろう智子が捕らわれた以上どうしようもないのだった。
「ほんとにどうしたんですぅ? 図太くて能天気なみなさんがそんなに困りきった顔をしているなんて」
さらりとひどい事を言い、ジュゼッピーナはおかしな雰囲気になっているあたりに声をかける。
顔を見合わせたオヘアとエルマは同時に背後をちらり。黙り込むウルスラに気を遣いながら、事の経緯をぽつぽつ話していった。
どかんと自室のドアをビューリングは蹴り開ける。ぐいぐいと力任せに引っ張ってきた手を放せば、荷物は足でも縺れさせたのかよろめいてベッドにぽすん。
乱暴な行為に烈火の如く怒るだろうと思われた智子は、グーにした両手を口元に当てて頬を染めている。
「トモコ…いいか?」
「えっ? えっ? いいかだなんてそんなっ?! 強引に連れ込んだくせに」
エンジンが空回りしまくっている智子は頭から湯気を出してショート寸前。桃色回路に直結したコードが暴力的な熱量にさらされて悲鳴を上げる。
「強引だったのは謝る。頭に血が上ってたからな…すまない」
「えっ? えっ? やめてよ、頭を下げるだなんてあんたらしくない」
急に素直に出られて智子は慌てふためく。キュキュキュ~ンという切ない音が胸の奥に木霊した。
「それで明後日なんだが休みをもらえないか? 野暮用があってな、外に出たい」
「へっ? あっああ、なんだそんなことね。ネウロイも来たばかりだし別にいいんじゃない」
ビューリングの珍しい休日申請に正気づき、智子は隊長の顔になって答える。昨日警報が鳴ったばかりなので、おそらく大丈夫なはず。ただ一応、非常事態を想定してインカムは携帯するように念を押した。
「悪いな。そういえばお前さっき何か言ってたが、相手をしろとかどうとか…ここでやるか?」
「えっ? えっ? や、やややヤるって何をかしら私は相撲の相手をしてほしいなんて一言も」
よくわからない受け答えをする智子に溜め息をつき、ビューリングは懐を探りながら部屋の窓に近づく。煙を外に吐き出してから習慣づいてしまったその行為に気づき、抜けるほどの青空を見上げて一人苦笑した。
「へぇ~早くも破局の危機なんですかぁ。あ~でも二ヶ月もっただけですごいかも」
「何を感心してるんですパスタ准尉っ。あなただって二人の仲を応援してたじゃありませんか!」
あっけらかんと述べるロマーニャ娘に憤ったハルカが詰め寄る。お国柄なのかジュゼッピーナは気ままな性質であり、その時々で意見を変えてしまう。対するハルカは意外と温情厚く、自分の利権に関わらない部分では寛大だった。
「そうは言われてもねぇ…自分の心がわからないなら所詮その程度だったってことだし」
「ウルスラ曹長はまだ10歳なんですよ?! あなたみたいなアバズレとは違うんですっ」
「言ったわね、このビン底眼鏡っ! ぶっさいくっ!!」
「きいいぃィーーー言ってはならないことをおおおぉォっ!」
掴みあいの喧嘩を始めた二人を放置し、オヘアとエルマはウルスラの対面に座りなおす。
テーブルの向こうで強く握られる拳に気づき、エルマはちょっとだけ微笑む。ここは自分がしっかりしなければと、お節介にも奮起した。
「確かめてみませんかウルスラ曹長? あなたの心を」
「…確かめる?」
「ええ。今日と明日、そして明後日、それぞれ別の部屋で寝てみましょう」
提案者であるエルマは指を立てて説明する。今日と明日はエルマかキャサリンの部屋ですごし、最後は一人部屋に戻ってみるというもの。その他の面々がハブられているのは、ウルスラの身の危険を勘案した結果であった。
「オー、ナイスアイディーアっ! それなら一目瞭然ねー。ウルスラ、今夜はミーと一緒にオールナイトよー」
オヘアが諸手を上げて賛成する。パーティー好きな彼女は言葉どおり一晩中騒ぎまくるかもしれない。そう一抹の不安を覚えたエルマが釘を刺す。
「夜更かししたらメッですからね、キャサリン少尉。それでは私が明日ということで。それで構いませんかウルスラ曹長?」
反応を窺う二対の視線。提案に反対する理由も浮かばず、顔を上げたウルスラはこくんと頷いた。
「あれから20分…微妙です。微妙すぎます」
ハンカチを握り締めるハルカの口元がわなわな。その圧力に耐え切れなかった生地が断末魔の悲鳴をあげる。
そんな様子を面白そうに見ていたオヘアが、大きな瞳をぱちぱちして問いかけた。
「ホワーィ? 20分がどうして微妙ねー?」
「平均からすると短めですが、智子中尉の体を知りつくした私なら二回は可能です」
「あ~らら二回だけなの?ロマーニャ娘の私だったら軽く三回はいけるけどなぁ」
据わった目で断言するハルカ、無意味な対抗心をだすジュゼッピーナ。二人の間に盛大な火花が散る。
「やめてっやめてくださいぃィーっ皆さんなんという話をされてるんですかあぁー!」
免疫のないエルマは真っ赤になってウルスラの耳を塞ぐ。地獄に落ちますよっ地獄に落ちますよっ地獄に落ちなさいっと、ひたすら呪文の如く唱える。
そんなカオス渦巻く詰め所の扉を開け、ふらふらと誰かが入ってきた。
「智子中尉っ! 大丈夫ですか?! まさか…まさか乱暴されたりなんか」
「トモコ中尉、髪が乱れてますよ。なんだか激しい行為の後みたい…な~んて」
ぽややんとして立つ智子にハルカとジュゼッピーナが駆け寄る。何かあったのは一目瞭然、固唾を呑んで反応を待つ。
「……ふっ…うっふ…っふふ………相撲…」
思い出し笑いが痛々しい。最初の頃はこんなじゃなかったのに。
目を逸らしたり首を傾げる異人たちをよそに、一人しっかと意味を捉えたハルカはライオンの調教を開始した。
空っぽのガソリンタンクを開けて、ビューリングは運んできた燃料を注ぎ込む。スオムスへきてからバイクに乗る回数はぐんと減り、雪深い時期などは完全にお蔵入りとなっていた。正常に動くか些か不安だったので、格納庫で簡易の点検を行っている。
「古い機種だからな…かかってくれよっ」
キック一発、スカッとした空振りの感触。何度か繰り返すが結果は同じ。やはり各部の点検をしなくては駄目かと溜め息をつき、スタンドを立ててバイクを降りた。
「…なにか用か?」
工具箱を開いてかがみ込むビューリングは、誰にともなく問いかける。急かすことなくバイクをいじりながら待っていると、入り口付近の暗がりから軽い足音が近づいてきた。
「どこか行くの?」
「ああ、明後日だがな。久しぶりに動かすからエンジンがかからん」
斜め後ろに止まった気配に、上げた手をひらひら。なんとなく顔を合わせづらくて、二人ともそのままの体勢で会話を続ける。
「新しいの買えばいいのに」
「悪かったな捻くれてて。私は慣れたものがいいんだ」
便利で手間のかからない優等生より、気難しくてメンテナンスをかかせないじゃじゃ馬を。変わり者扱いされる所以である。どれだけ部隊を異動になろうと、この思い入れあるバイクだけはずっと所持し続ていた。
しばし工具を動かす音だけが格納庫に響く。一向に切り出してくる気配がないので、ビューリングは手を止めて肩越しに振り返った。
「それでウルスラ、お前の用件は? バイクメンテを見学しにきたわけじゃないだろ」
ウルスラを見上げると、珍しく言いあぐねるように視線を彷徨わせている。膝をついた姿勢から無理に上体を捻っているので中々に辛い。意地を張らずに向かい合えば良かったと内心後悔するが、今さらそれも格好悪い気がしてじっと我慢した。
「……部屋を出る。そう言いにきた」
「―――っ?! 自分の部屋に戻るのか?」
やっと語られたウルスラの本題にビューリングは驚く。「考えておく」という言葉を聞いてからまだ数時間とたっていない。早すぎる展開に呆気にとられたとして、それを誰が責められようか。
「それは」
「っと、また余計な事だったな…了解した。もう部屋は吹き飛ばすなよ」
何か言いかけたウルスラを、苦笑いしたビューリングが遮る。話はこれで終わりと示すように、体を正面に戻して工具をカチャカチャ。ウルスラは小さく唇を噛んで伸ばしかけた手を下ろし、結局何も言えずに格納庫を後にした。
「元に戻るだけだ…今までがおかしかったんだから」
日が沈んで冷え冷えとした格納庫に呟きが落ちる。言い聞かせるようなその声は空々しく響き、白い息が消えるみたいに大気へ拡散した。
久しぶりのバイクいじりに精を出しすぎてしまい、気がつけば時刻はもう深夜。
「……くいっぱぐれたな」
ビューリングは腹をさする。空腹だと意識すると余計に腹が減るのは何故なのか。これはもう酒でも飲んで寝るしかないなと溜め息をついて部屋に向かう。
こんなに気温が下がるなら部屋に使い魔を置いてくれば良かったと思って額をぴしゃり。出かけた溜め息を押し込めようとタバコに火を点け、くわえたまま廊下を歩く。自室の前で火を消してしまった己に気づき、なんだかなぁと肩を落とした。
「ん? これは……」
ドアを開けたビューリングが見つけた物は、サイドボードにぽつんと置かれた紙袋。ウルスラが忘れていったのかと首を傾げ、袋の口を開けて覗き込む。すると中には具を挟んだパンが2つに缶コーヒー。
「案外義理堅い奴だな、あいつ」
これを作る様子を想像しておかしくなる。おかしくて、おかしくて、自然と顔が綻んだ。きっと小難しい顔をして火薬を調合するみたく具を詰めたに違いない。
開けた窓から星を眺めて煙を吐き出す。
「…今夜は冷えそうだな」
苦みばしった響きは口に含んだブラックのためか、呟いた本人にも定かでなかった。
トントントンと小さなノック音。
几帳面に三回叩く来訪者に、オヘアは抱えたスナック袋を放して立ち上がった。カウチのスプリングがぼよんと唸り、見事に袋の中身をぶちまける。常人ならギャーとなるところだが、陽気なテキサスっ子はその程度のみみっちい事なんて気にしない。
「ウェルカム、ウルスラっ! 枕持参とはユーも手馴れた宿無しねー」
「…………」
リベリアンジョークなのだろうかとウルスラは首を捻る。キャサリンの性格からして貶しているわけではなさそうだが。
「そんなところに立ってないでこっちこっち。ほら、そこに座るねー」
ぱちんとオヘアは大きな胸の前で手を鳴らし、騒々しい足音をたてながらウルスラの手を引いた。そして部屋に一つあるカウチにどっすん。
バリバリッ!
「…キャサリン」
「オー、ソーリィ。スナックの上にビンゴねー」
壊し屋の実力をいかんなく発揮し、当の本人はあっけらかんとカラカラ笑う。ウルスラは破片を払い落とすが、夜着から香ばしいにおいが消えない。
「……くさい」
「そー? ミーはとっても好きよー」
伸びてきた香ばしい腕からウルスラは身をかわす。髪まで香ばしくされてはかなわない。
うっかりしたオヘアの手からコーラ瓶がごろん、バシャ、ドボドボドボ。
「……冷たい」
「オー、ソーリィ! ウルスラ、びしょびしょよー。ミーの服を貸すねー」
「いい。どっちにしろ結果は同じだから」
達観したふうに言い放ち、ウルスラは持ってきた本を開く。読んでも読んでも内容が頭に入らなくて溜め息。変な深夜番組に馬鹿笑いするオヘアを尻目に、立ち上がったウルスラはベッドに向かった。
「ぐっない? 早すぎるねー、夜はこれからなのに」
「夜更かし禁止。エルマ中尉が言ってた」
エルマのメッを口実に用い、ウルスラはサイドボードに本を置いてベッドの壁際に枕をポイッ。ブランケットの隙間から足を入れて、後からくるだろうキャサリンのために端による。するとどうしたことか、突然えも言われぬグチャっとした感触。
「…キャサリン」
「フゥン? どうしたねー…あっそれ昨日食べかけてたパイ、どこにいったかと思ってたのよー!」
背中に張りつくモノの説明をせまられると、オヘアは手を叩いて大喜び。剥がされたそれを一緒に食べないかと問われ、寝る前に食べるのは良くないと極めて冷静に答えるウルスラだった。
「ぐっもーにンっ! みんな良く眠れたねー?」
詰め所へ集っていた仲間たちに元気よく挨拶して空いた椅子にかけるオヘア。鼻歌を歌う彼女とは対照的に、後ろに続くウルスラは完全に閉口している。しかし常から寡黙であるため、それはイコールいつもどおりと受け取られてしまった。
「おはようございます、キャサリン少尉にウルスラ曹長。ハァ~寒い寒い、昨夜から冷えますよね」
温かい紅茶をすすりながらエルマがにっこり。彼女は自ら率先して席を立つと、二人のために新しいカップを用意した。階級は智子と並ぶ中尉なのに、驕ったところが全くないというか軍人っぽさが皆無である。
「もう雪だって溶けたのに堪りませんよね、智子中尉ぃ~」
「堪らないのはこっちだから! 毎度毎度忍び込んできてやりたい放題、世が世ならあんた晒し首よっ!!」
ぺとっと引っつくハルカに青筋たてる智子。ライオンのようだと称された声は現在ひどい嗄れ声になっていた。
「む~ふふ、トモコ中尉は昼夜のギャップがす・て・き♪」
「ひゃあっ?! こっこらどこを触ってるのよ、ジュゼっ…」
ぞくぞくっとするポイントを撫で上げられた智子は声を引っくり返す。赤くなった顔を向けて叱責を加えようとすると、妖しく揺らめく灰色の瞳に捕まって息をのんだ。
「あっまた反応してる! まったくこの悩ましい体はすぐに熱くなるんですからっ!」
「こうしてると温かぁ~い。寒い国では同衾を義務づけるべきですよねぇ」
「ちょっと聞いて…あんっ…確かにスオムスは寒いわ…っん…だけど生活乱れは心の乱れ…ひゃっ」
また心と体が違うことをいっている。精神衛生上良くないので、残りの三人は視界からそれを締め出した。
「確かに外から来た人には厳しいかもしれませんね。でもそんなに人肌って温かいんでしょうか」
スオムス生まれのエルマは寒さに慣れているというか、これが当たり前という感じである。だから別段大騒ぎするほどの話でもないと思うが、良いと聞けば気になるものだ。
「エルマ中尉も興味がでてきたねー。今晩ウルスラと試してみますかー?」
「えっ、あっあの私が言っているのはそういったいかがわしい行為のことではなく」
なにやら必死に弁解するエルマ。色々と想像をめぐらせてしまったようで、赤くなった頬に手をやっている。
「心配無用よー。ウルスラに全てお任せすればいいねー」
いっぱいいっぱいなエルマに擦り寄り、オヘアは無責任にナイスアイディアを吹き込む。地獄に落ちますっ地獄に落ちますっ地獄に落ちるんですよっと、呪文がもれだした。あれは己への戒めにも使えるらしい。
手馴れ扱いされているウルスラは本に目を落としたままぼんやり。昨日からどうも集中力を欠いている。冷え込みに体調でも崩したかと首を捻り、今夜は何事もなく眠れるよう願った。
「まずいな…これは駄目かもしれん」
らしくない弱気をもらしたビューリングは、組み直した愛車にむかって溜め息。経年と寒さによるダメージがひどすぎる。エンジンはかかるようになったが明らかに作動音がおかしく、これでどこまで行けるのやらわからない。
朝からずっと格納庫に篭ってバイクをいじりまわしているが、日が落ちた今やタイムリミットは刻一刻と迫っていた。
「おーほほほっ、垂れ耳のワンちゃんはこんなところで一人遊びかしら」
たてつけの悪いドアを叩き開けて高笑う騒々しい女性。人をワンちゃん呼ばわりするのは第一中隊のアホネン大尉である。
「……今は忙しい。遊び相手なら他をあたれ」
無駄に存在感を発揮する縦ロールを一瞬だけ振り返り、ビューリングはつれなく答えた。今は本当に忙しいのだが、たとえそうでなくても相手をしてやるつもりはない。関わると碌な事がないと身に沁みてわかっている。
「まあ可愛げのないこと! そんなだから、いもうとに愛想を尽かされるのね」
取り付くシマもない背中を見下ろし、アホネンはわざとらしく両手を広げて嘆く。
聞き捨てならない台詞に、かがみ込むビューリングのこめかみがピクリ。
「いもうとなんて持った憶えはない。何度同じ事を言わせる気だ」
「ふふっ、どうかしら。一度憶えた蜜の味はそう簡単に忘れられなくてよ?」
「…………」
平行線な会話にどっと疲れ、ビューリングは口を噤む。同類扱いされるのは甚だ遺憾だが、迷惑をかえりみず何かと介入してくるアホネンの強引さは折り紙つきである。ここは流してしまう方が得策と思われた。
「ああ、そうそう。忘れるところだったわ―――はいどうぞ」
「…キー? このマークはブラフシューベリアだな」
顔の真横に突き出された鍵を受け取ったビューリングは、それを手のひらにのせて繁々と眺める。刻印からブラフシューベリア製だとわかるが、見るからに真新しい金属の光沢を放っている。
「ご名答。カウハバ基地が所有する最新式よ。あなたの名前で貸し出し申請しておいたわ」
「お節介がすぎるぞ、大尉。私は慣れたものがいい」
たとえ同じブラフシューベリアであったとしても。
意固地に古びたバイクへ向かうビューリングに、いつになく真摯な顔つきのアホネンが語りかける。
「古いものを大切にするのは結構だけど、それにこだわりすぎて新しいものを認めないのは大馬鹿ね」
肩越しに睨みつけられてもアホネンは微動だにしない。その視線はここではないどこか遠くを見ている。
「いつだってね、大切なものは失ってから気づくのよ」
「…それは大尉の経験談か?」
「――――――っ?! 面白い冗談ね。忠告はしたわ。後はあなた次第」
そう締め括ると、アホネンは肩にかかる縦ロールを払う。来たときと同じく騒々しい足音をたてて格納庫を後にした。
「大切なもの、か……」
ビューリングは手のひらのキーを目の前にかざして弄ぶ。そうやってみても答えなど得られるはずもなく、上着の内ポケットにしまって大きく溜め息をついた。
トントントンと小さなノック音。
几帳面に三回叩く来訪者に、そわそわとしていたエルマは飛び上がる。慌てて迎えに出ようとして蹴躓き、こじんまりしたテーブルに体当たりして派手にころんだ。ぶつけた箇所をさすりながらも気丈に立ち上がる。
「おっおまたせしましたウルスラ曹長、どうぞ中へ。寒かったですよね。紅茶でも飲みませんか?」
「…………」
額を赤く腫らしたエルマを無言で見上げ、ウルスラはひょいと室内を覗き込む。紅茶のポットらしき物体がテーブル土俵際でぐらぐらしていた。
「どうしたんですか―――きゃああぁ初めて美味しく淹れれた奇跡のような一品がああぁ?!」
ウルスラの視線を追いかけたエルマは、信じられない光景に息をのんで駆け出す。あれを失えば諸々の努力が全て水の泡。
バッシャーン!
「あっつうううっ?! わっ熱っちゃちゃちゃ」
エルマは引っくり返ったポットの中身を手のひらに受けて大騒ぎ。おまけに振り払った飛沫が体中に飛んでしまい、熱さに床を転げまわる。
「…冷やすからじっとして」
「えっその水差しをどうするつもりですかウルスラ曹長まさかひィああああぁーっ?!」
今度は真逆の冷たさに声を裏返すエルマ。頭から水を被せられてしまった彼女は無残な濡れ鼠となった。
着替えて髪を拭いてからもブルブルしているエルマを見て、ウルスラは少し考える。
「……寒いの?」
「あっ当たり前ですよ。ふぁっ、へぇっくちょんっ」
気の抜けるクシャミが放たれると、ウルスラは椅子から立ち上がってエルマの手を引いた。綺麗に整えられたベッドの前まで歩を進めてピタッと足を止める。
「どうかしま…へぇっくちょっ、したか?」
ブランケットの中へ押し込まれたエルマは目をぱちくり。次いで隣に潜り込んできたウルスラに気づくと、声にならない叫びをあげて硬直した。
「…力を抜いて、エルマ中尉」
「わたっ私まだ心の準備があっ?! うふあっあっそんなところでモゾモゾされたら困りますっ」
非協力的な言動に構わず、ころころと体勢を変えて上になったり下になったり。最適なポジショニングを探すウルスラ、それに翻弄されるエルマ。人間の体は凹凸があるので中々上手くフィットしない。
地獄に落ちそうっ地獄に落ちそうっ地獄に落ちかけてますっと、ひたすら喚く声にウルスラは辟易する。残念ながら耳栓は手元にない。真っ赤な顔をしたエルマが気絶してしまうまで、耳元の騒音に耐え続けた。
翌朝、詰め所のドアを開けて入ってきた二人連れ。
ウルスラはいつもの如く気難しそうな顔をして窓際の席へつく。エルマは紅茶の葉が残り少ないと気づき、継ぎ足そうと屈みこんで物入れを探る。にやりと笑ったジュゼッピーナが足音を忍ばせて近寄り、エルマの首筋を覗き込んだ。
「エルマ中尉ぃ~昨夜はと・て・も、お熱かったようで」
「ふえっ?! どうしてそれを知ってるんです?」
手鏡を渡されたエルマは首元をうつして愕然。白すぎる肌に映える赤い斑点、熱湯が飛んだ部分にそれは鮮やかな色がついている。
会話が聞こえたとたん飛んできたハルカは、尻尾をふりふり興味津々の体で問いかけた。
「エルマ中尉、それでそれで辿り着いた先はやっぱり地獄でしたか?」
「? あっあの一体何の話を―――はっ?! ち、違いますこれはそんないかがわしいものではなくて」
認識のずれに遅まきながら気づき、エルマはこれ以上ないほど赤くなって否定する。しかし今さらそんな事を信じるわけもなく、二人は鼠を見つけた猫のように爛々と瞳を輝かせた。
「またまたぁ~恥ずかしがっちゃって♪」
「良かったんですよね? ねっ?」
「だから何もなかったんです! それに私、途中で気を失ってしまって」
「「 気絶ぅ?! いやーん、それって天国へ直行~~~っ!! 」」
きゃあきゃあ騒ぐ二人、半泣きのエルマ。ズブズブと事態は底なし沼へ。
階級下の者たちに弄ばれるエルマを遠目に眺め、オヘアは隣に座るウルスラに問いかけた。
「で、本当のところはどうねー?」
「……エルマ中尉が一人で騒いでいただけ」
さっくり切り捨てたウルスラは、うっすらと隈の浮いた目で窓の外を眺めている。オヘアは何を見ているのか興味を抱き、腰を浮かせて視線の先を追った。
中隊敷地の入り口付近で何やら話し込む二つの影。大型のバイクに跨った方が片手を上げたのを合図に、重厚なエンジンの咆哮があがる。
「ンーフゥ? あれってビューリングとトモコねー」
「出かけるって言ってた」
「町にですかー?」
「知らない。聞いて…ない」
微妙な間があった。離れていくバイクを見つめるウルスラの目は、どこか沈んでいる。
オヘアは首を傾げてその様子を見やり、一向に躊躇わず口を開いた。
「ビューリングには関係ない、そう言ってしまったから聞けなかったですかー?」
「…………」
意外と心の機微に聡いオヘアが核心をつく。何も言えなくて、ウルスラは小さく唇を噛んだ。
「ミーが思うにあの女は結構タフねー。ユーはもっと我がままになればいいよー」
黙りこむウルスラに手を伸ばし、オヘアは髪をくしゃくしゃ。嫌がって逃げないのは望まれているからだと、そう勝手に解釈して。
ウルスラは纏まらない思考と髪を諦め、もやもやする何かを抱えて溜め息ついた。
「もうっ、あいつったら捻くれてるんだから! 人がわざわざ見送りに出てあげたのにっ」
ぷんすかと怒気を発して入室してきた隊長が空いた椅子にどっかり。こういう時は理不尽な事を言い出す可能性が高いので、誰もあまり干渉したがらない。しかし興味が勝ったハルカが地雷原に突入していく。
「わかってますよ智子中尉ぃ。ライオンには守衛が似合いだな、とか言われたんでしょう? ほんと失礼な輩げふぅっ」
「……あんた後で鉄拳制裁だからね。お前も暇なやつだなって言われたの」
すでに与えた一発は勘定に入っていないらしい。膝をついて屑折れるハルカを放置し、機嫌の悪い智子は頬杖をついて唇を尖らせた。
「い~ただきっ、チュッ! ねえトモコ中尉、ビューリング少尉はどこに行かれたんですかぁ?」
「へ? ああ、そういえば聞くのを忘れ―――にょわああぁっあんた、さりげに何してくれてんのよぉー?!」
「何ってキスですよ、キス。朝のご・あ・い・さ・つ♪」
ごく自然に唇を奪うあたりさすがロマーニャ娘である。むっつりしていた智子は一瞬であわあわと動揺し、膝の上にのってきたジュゼッピーナに思わず腕を回した。
「ナニをしとるか貴様…」
「ひィっ?!」
幽鬼のように背後に立つハルカ、ビクンと振り返って蒼ざめる智子、着衣を脱がし出すジュゼッピーナ。中隊においての日常となった姦し騒ぎがスタートした。
「トモコも行き先知らずですかー。これはもしかして誰かと逢引かねー」
「は? ど、どどどうしてそうなるんですキャサリン少尉。単にバイクに乗って出ていっただけですよ?」
これ幸いと負の連鎖から抜け出してきたエルマは、オヘアの呟きに待ったをかける。逢引とは穏やかじゃない。ウィッチ隊に従事する以上、シールドを張れなくなる年齢まで色恋沙汰はタブーである。隊内でほにゃららするのはぎりぎりセーフ。
「町のパブだったら勤務後でも十分ねー。ビューリングなら門限破りもお手の物よー」
「まっまあ確かに休暇をとってまで朝から出て行くのは珍しくはありますけど。それにしても」
話が飛躍しすぎでしょうと。手をパタパタさせるエルマの正面で、窓の外を眺めていた少女がぼそり。
「ブラフシューベリアの最新式。あれはビューリングのバイクじゃない」
「ホホーゥ、さすがウルスラねー。ミーはどれも同じに見えるよー」
「そうすると基地所有のものですよね。それを借りてまで出かけるということは」
額に汗がたらり、ウルスラを前にしてその先は言えない。エルマはうっかり開きかけたオヘアの口を塞ぎ、曖昧に笑った。
スオムスは大陸中から物資が集まってくるため貨物機の往来は盛んである。職員に尋ねたところブリタニアの飛行船はまだ着いていないという。待ち合いで一人座っていると商人たちの好奇の目が集まり、鬱陶しさを感じたビューリングは屋外へ出た。
「風がなければマシなんだが…」
寒さに首をすくめつつもタバコをぷかぷか。誰に気兼ねする必要のない喫煙は久しぶりだと考えかけて、もう気を遣う相手もいないんだったと苦笑う。
「町に寄ってもこの時間か。性能は認めるが待ち時間がつらいな」
乗ってきたバイクを前に一人ごちる。最新式との太鼓判どおり加速が桁違い、それ故に早く着きすぎてしまった。
足元の吸殻がどんどん増えていく。ウィルマが来るまでタバコがもつだろうかと心配になった時、革ジャンパーの内ポケットから甲高いコール音。瞬時にインカムを取り出して装着する。
「ビューリングだ」
『あ、あああのエルマですっ。えっと、えっとですね、まままことに申し訳ないのですがああぁ基地に戻っていただけだけ」
「警報か?」
ビューリングは硬い声で短く問う。相手は気弱で動転しやすく、簡潔にいかないと要領を得ない。
『いっいえ違います。ブリタニアからのお客様がこちらに着かれてまして』
「なんだとっ! どういう事だ、エルマ中尉っ!!」
ハウリングを起こすほどの勢いでビューリングは怒鳴りつけた。インカムの向こうでは「ひぃっ?!」と息を呑む声。
『そっそれが軍用機で直接基地に送ってもらったらしく。連絡が遅れたとか不運が重なったみたいで』
「何が不運だ、人災だろっ! 飛行場くんだりまで迎えにきた私は阿呆か?! ピエロかっ?!」
『そっそれは私に言われても』
声を荒げてインカムに吼えまくっても、相手は縮み上がるばかり。
「なら、あいつを…ウィルマを出せ! 今すぐに!!」
『むっ無茶言わないでくださいぃ~今はハッキネン少佐とお話中なんですぅ』
「そんなの知らん! どうにかしろっ!!」
『きゃああ怒らないでくださあぁい……ひっく…ぐすっ…うえ~ん』
とうとうエルマが泣き出す。
響いてくる嗚咽になんともいえない気まずさを感じ、ビューリングは後ろ頭をがりがり。冷静になってみればエルマに何一つ非はない。
「今から基地に戻る…………怒鳴って悪かった」
小さく付け加えてすぐさまインカムをオフにする。慣れない言葉を口にすると調子が狂う。
一つ咳払いを落としてゴーグルを着け、ブラフシューベリアに跨る。勢いよくキックしアクセルターン、来た道の逆走を開始した。
「ものすごい剣幕だったねー。エルマ中尉も災難よー」
「でもでも、あれで正解だったですよ。素晴らしい泣き落としでした」
エルマの左右に陣取るオヘアとハルカが健闘を称える。ビューリングの怒声はインカムをつけてなくとも洩れ聞こえたほど。
ハッキネンからのメッセージを誰が伝えるかで一悶着、その場の多数決によって見事エルマに決定した。誰だって避雷針にはなりたくない。
「ねえエルマ中尉、結局どうなったんですかぁ? 最後が聞こえなかったんですけどぉ……もしも~し?」
「一生分の勇気を使い果たしたんだから無理ないねー」
顔の前で手をひらひらするジュゼッピーナ。それを目にして、まるっきり無反応なエルマを哀れに思ったオヘアが擁護する。
そうこうしているうちに正気づいたのか、エルマは意外にもしゃっきりした声を出した。
「あ、あのすみません……大丈夫、です。今から基地に戻ると…言ってらっしゃいました」
「どうされたんですかエルマ中尉、顔が赤いですけど?」
「ふぇ?! そ、そんなことは…私は生誕から15年、いつだって普段どおりのエルマですよ」
「えーあやし~い。なにか隠してませんかぁ?」
こういった事には嗅覚の鋭いハルカとジュゼッピーナに群がられ格好の餌食。あたふたするエルマを置き去り、オヘアは窓際で本を開くウルスラの隣へ腰を下ろす。
「ウィルマさんって誰かねー、ウルスラ?」
「知らない」
そっけなく答えるウルスラ。その眉間がいつもより狭くなっているのを見て取り、オヘアは手に持ったコーラをごくごく。一気に飲みきってしまうと、プハッと豪快に二酸化炭素をはいた。
「ミーはとても気になるよー。ウルスラ、ユーはどうね?」
「…どうでも」
「ああもうっ一体全体何を話してるのかしら! ハッキネン司令と部屋に篭ったまま出てこないわ、あのブリタニアの子」
微妙な間をおいて発せられたウルスラの言葉が、乱暴にドアを開けて入ってきた人物の大声にかき消される。イライラして歩むその足元で古びた床が悲鳴をあげた。
「あっ、智子中尉お帰りなさい。ビューリング少尉への連絡は滞りなく済ませました」
「トモコ中尉、重要情報ゲットです。あの子、名前はウィルマっていうらしいですよ」
ポイントを稼いでライバルを出し抜こうとするハルカとジュゼッピーナ。横で聞いてただけのくせに、まるで自分の功績かのように報告するあたり似た者同士である。
甲斐甲斐しく引かれた椅子に座り、難しい顔をした智子は顎をつまむ。
「ブリタニアのウィルマね。むうぅ…あのビューリングが迎えにいくほどの気安い仲か」
「あれは絶対昔の女よ。面白くなってきたわっ―――おほっほーほっほほほっ!!」
!!!!!!
突如割り込んできた声に皆びっくり。
真後ろで高笑いを上げられた智子は椅子から転げ落ちる。
「ア、アホネン大尉?! また勝手にうちの隊舎に入ってきて」
「あら遠慮は無用よ、トモコさん。あなたたちみたいなヒヨっ子には手にあまる事態でしょう」
「ぬぁ、ぬあんですってえぇーーっ!!」
「さあさあ会議をはじめるわ。二人の過去に興味あるならこっちへお集まりなさ~い」
瞬間湯沸かし器のごとく怒り狂う智子を完全に無視し、ずかずかと歩を進めたアホネンはテーブルやソファを勝手に動かす。ついで手近にいたハルカとジュゼッピーナを捕まえ、有無を言わさず自分の両隣に座らせた。
「私が想像するに、二人は幼馴染じゃないかしら。離れてみてその存在の大きさに気づく、そして愛を取り戻すために闘いはじめるの」
一見して真面目に語るアホネン。しかし水面下でもぞもぞする左右の手は、抱え込んだお気に入りのスカート内で複雑にうごめいている。
「あんっやめてください大尉…智子中尉の目の前でこんな」
「おねえさまってお呼びなさい、ハルカさん。ふふっ、こっちの新入りの子もなかなかね」
「あっ、ああっ、あ~ん凄おぉい♪ ねえトモコ中尉もはやくきてぇ~ん」
「あんたたち、今は間違いなく勤務時間だからっ! 私たちみんな軍人だからっ! 会議するんでしょ?! ってこら、何おっぱじめてんのよーーーっ!」
真っ赤な顔をした智子が怒声を飛ばしてテーブルをばんばん叩く。
「トモコが言っても説得力がないねー」
「それでいったい何の会議なんでしょうか」
テーブルの向かいに座ったオヘアとエルマは顔を見合わせて溜め息。ぐだぐだになっていく一帯が激しくせつなかった。
騒々しい詰め所を離れ、ウルスラは一人廊下を歩む。いつでも本が読めると聞いてスオムスへやってきたのに現実はそう甘くない。廊下の突き当たりまできて足を止め、行き先を検討する。とはいっても自室か外かしか選択肢がないのだが。
「…今日は風が強い」
ガタガタする嵌め込み窓を見て心を決める。どうせ今日から自室に戻るのだから、その予定が少し早まっただけだ。
分岐を進みかけたウルスラは、近くの階段を上がってくる足音に動きを止めた。
「ウルスラ曹長、トモコ中尉はお手すきでしょうか?」
「アホネン大尉と会議中です」
温度のない声で尋ねてくるハッキネンに、抑揚のない声で答えるウルスラ。そして、その他にもう一人。
アッシュブロンドの長髪をなびかせた少女は、お手本のような敬礼をして名乗りをあげる。
「ファラウェイランド空軍所属、ウィルマ・ビショップ軍曹です!」
「…北欧スオムス義勇独立飛行中隊、ウルスラ・ハルトマン曹長です」
原隊を名乗るべきか一瞬だけ考え、結局ウルスラは今現在の所属部隊を是とした。返礼は勿論カールスラント式である。
「ビショップ軍曹が基地のストライカーを見学したいそうで。トモコ中尉が会議中なら、あなたに案内をお願いします」
「……了解しました」
「頼みましたよ。それでは私はこれで」
基地司令直々にお願いされては仕方ない。読書願望が後回しになることにウルスラは内心溜め息をついた。
来客の相手をていよく押し付けたハッキネンが去ると、後には微妙な沈黙が横たわる。ウルスラは口数の多い方ではない。そしてウィルマはウィルマで、階級上の相手に自分から言葉を発するのは不躾だと指示を待っている。
「…案内します。ついてきてください」
「承知しました曹長殿!」
「普通に話して。敬礼もいらない」
連邦国らしくブリタニア式と似通った敬礼に胸がちくり。ウルスラ自身が認識するまもなく出た言葉は、普段どおりの無愛想なもの。
ウィルマは唐突な申し出にも狼狽せず、いたって柔軟に対応する。おそらくは大分年下だろうウルスラに故郷の妹たちの姿を重ね、温かみのある笑顔を浮かべた。
「わかったわ。案内よろしくね、小っちゃな曹長さん」
「小さいは余計…ウルスラでいい」
「それじゃあ私もウィルマって呼んでね」
ウルスラ相手にそつなく会話するウィルマ。大家族に囲まれて育ち、長女として7人もいる妹の面倒をみてきたのだから道理である。特に反応を返さないウルスラの背中について歩き出し、話し好きな側面をいかんなく発揮しだした。
「へぇ~双子でお姉さんがいるんだ。二人して軍に志願するなんて偉いね」
「偉くない。母が勝手に志願した―――ストライカーはあのあたり」
年上ぶった口調が普通らしい。うんざりとして軋むドアを押し開け、ウルスラは広い格納庫の真ん中付近を指差した。
ウィルマは空を飛ぶウィッチらしく瞳を輝かせて駆けていき、端から順にユニット内のストライカーを眺めていく。
「ねえ、なんだかバラバラじゃない? それに見たことない型ばかり。スオムスはメルス配備かと思ってたけど」
「それぞれ母国からの支給品。試行脚のテストパイロットも兼ねている、そう…ビューリングが、言ってた」
初めて、いま初めて、出てきた名前。
話題にならない方がおかしな、二人の共通の知人の名前。
発したウルスラは木箱に腰掛けて本を開き、聞いたウィルマは最新鋭のストライカーに見入っている。
しばし、無言の時が流れた。
「あいつが、ハリケーンから降りるなんてね」
ぽつりとした呟きの向かう先は真新しいストライカー、機体には蛇の目の国籍マーク。
「…良い機体があれば乗り換えるのは当たり前」
より良く、より速く、より強く。ウィッチ兼研究者のウルスラは言葉の意味を捉えかねる。
「ええ。でも私は最後までビューリングの意思を変えられなかった」
ウィルマは遠い場所を見るように目を細めた。彼女の瞳の奥には一言で言い表せぬ感情が渦巻いている。懺悔するかのような語らいはウィルマ自身に向けてのものだ。
ウルスラはハリケーンにまつわる諸々の事情を知らず、ウィルマやビューリングの心情を把握できない。何と言っていいかわからずにいると、歩み寄ってきたウィルマが木箱の空いた場所へ腰を下ろす。
「あの頃は…色々あってね。感情に翻弄されるまま、あいつにひどいこと言っちゃった」
人に向けた悪い言葉は何らかの形で自分に返ってくる、幼い頃に母から聞いた戒めは本当だったとウィルマは思う。だって今でも、それを浴びせた瞬間の青白い顔と途方もない後悔を鮮明に憶えている。
「謝ろうと訪ねたときはもう最悪」
「…最悪?」
「昇進か転属かの二者択一で、転属にサインしたと聞いて顎が落ちたわ。謝るつもりだったのに逆切れして殴っちゃった」
その時の再現とでもいうようにスナップのきいた右手を一閃、手のひらが大きく風を切る。お嬢様ふうの外見に似合わずウィルマは結構手が早いらしい。軍曹が少尉を張り飛ばすというシュールな光景にウルスラは沈黙する。
「意地張ってるうちにあいつはハリケーン担いでスオムスへ。だからスピットファイアに乗り換えてくれて、生きる気になってくれて、本当に本当に嬉しいの。気を揉んでないで私も早く行動を起こせばよかったのよ…あ~あ、失敗したわ」
失敗したと言いながらも、ウィルマはどこか救われたように微笑む。高窓から空を見上げるのをやめ、茶目っ気たっぷりに片目をつむった。
ころりと豹変した雰囲気はつまり、この話はこれで終わりということ。相変わらず意味がわからなくて、ウルスラは眼鏡を押し上げると小さな溜め息をついた。
なんとなく黙り込んだ二人の耳に、遠くから響いてくる重厚なエンジン音。きょろきょろしたウィルマが立ち上がって滑走路の方へ歩を進める。
「なんの音?」
「ブラフシューベリアのエンジン音。ビューリングが帰ってきた」
そうこう言っているうちに、一台の大型バイクが格納庫正面のアスファルトに飛び出してきた。滑らせた両輪を削りながら猛スピードのコーナリング、そのままの勢いで格納庫に突っ込み派手に車体をまわす。
ギュンギャギャギャーーーっ!
「きゃあああーっ?! あっ、危ないじゃないビューリング! あなた私に恨みでもあるのっ?!」
「無駄足踏ませたくせによく言う…久しぶりだな、ウィルマ」
危うく撥ねられかけて尻餅ついたウィルマの顔は真っ赤。停車させたバイクから降りてゴーグルを外したビューリングは、鼻で笑いつつも片手を差し出す。
「結構よ! 一人で立てるわ」
「それは失礼。ところでお前、こんなところで何やってるんだ?」
「ストライカーの見学! ここまで案内してもらってね」
外から入ってきたビューリングは明暗差に瞬き、示された暗がりを見つめる。するとそこに意外な人物を確認し大股に近づいた。
「ウルスラ、お前が案内役を買ってでたのか? 珍しいこともあるものだな」
「ハッキネン司令に頼まれただけ。本を読みたいからもう戻る」
「ああ、ちょっと待て―――ほら」
木箱から立ち上がったウルスラを押しとどめ、踵を返したビューリングはバイクの後ろに括りつけていた荷物を紐解く。麻で出来た丈夫な袋をあさり、手にした大きな包みをウルスラに差し出した。
「これは?」
「スモークチーズだ。前にエルマ中尉が買ってきたろう? 町に寄ったついでにな」
「…どうして?」
「パンの礼だ。あとこっちは詰め所にでも放り込んでくれ。他の奴らの分だ」
大小の塊を次々と渡されたウルスラは口ごもる。両手が塞がった状態で、ぽんっと頭に手を置かれ髪をくしゃくしゃ。
ビューリングは薄い色の髪をかき回すのをふと止め、屈みこんで正面にある顔をじっと見つめた。露骨に逸らされかけても顎を捕まえて逃がさない。
「顔色悪くないか? ちゃんと眠っているんだろうな?」
「眠ってる。問題ない」
真っ直ぐな視線を振り切り、チーズと本を抱え直したウルスラは足早に進む。部屋に置いていったパンのこと等釈明しておきたい点は多々あったが、結局何も言えず格納庫を後にした。
「やれやれ、また余計なことだな……頼んだぞ」
主人の命に従い、尾を振るダックスフントが駆け出す。
ウルスラを追いかけてどこまでも。読書を邪魔して眠らせるという特殊スキルを持つ使い魔は、数日ぶりの出番に張り切りまくっていた。
後ろから二人のやりとりを見ていたウィルマはわかってしまう。ウィッチの命綱ともいえる使い魔を誰かに使役することの意味を。
傍らには存在を主張する真新しいバイク。偏屈な僚友に訪れた変化を認めて受け入れなければならない。素直になれなかったツケは随分高くついたと、げんこつで軽く自分の頭をコツン。
「あなたがお土産を買ってくるなんて明日は雪かしら」
「もののついでだ。というか、お前に嵌められたせいなんだが」
茶化してくるウィルマに振り返って顔をしかめ、ビューリングは懐からタバコを取り出してくわえた。使い込んだジッポーで火をつけると、申し開きはあるかというふうにジト目で煙をぷかぷか。
「人聞きが悪いわね。文句ならあなたの原隊トップに言いなさいよ」
「やはりあいつの仕業か…まあ散々パイプを駄目にさせたからしょうがないな」
ビューリングは大きく煙を吐き出してしみじみ呟く。403飛行隊でも抗命しまくったので、この程度の嫌がらせはあって然るべきだろう。
そんな様子を覗き込んだウィルマは軽く俯き、ほんの僅かの間だけ口元にほろ苦い笑みを浮かべた。
「本当に変わったわ…今日は驚くことばかり」
「ん? 何か言ったか?」
運転中吸えなかった分まで堪能していたビューリングは眉を上げて首を傾げる。はっとしたウィルマは勝気な顔で鼻を鳴らすと、これ見よがしに肩を竦めた。
「いいえ別に。それより軍部からの手紙だけどハッキネン司令に何か聞いた?」
「いや、お前から直接と言われ―――っ?!」
ドオオォーーーンッ!
答えかけた途中で、たてつけの悪いドアが爆発するように開く。蝶番が外れて鉄製の重いドアが吹っ飛んできた。ビューリングは咄嗟にウィルマを押し倒し、覆い被さった頭上すれすれを通過させて事なきを得る。
「危ないだろう?! 当たってたら死んでたぞ!」
間髪入れず上体を起こして怒鳴りつけ、戸口にぎゅうぎゅう詰めになった集団へ凄む。身の竦むような怒気は雁首を並べる面々の開ききった瞳孔に跳ね返された。
とてつもなく気まずい空気、背筋に走りまくる悪寒にビューリングの頬が引き攣っていく。改めて己の体勢を確認すると、ウィルマの胸に手をかけて深く膝を割っている。これではまるで襲い掛かったみたいではないか。
「ほらみなさいな。久しぶりの逢瀬に愛の業火が燃え盛っているわ」
「あっどうぞどうぞ気にせず先を続けてくださ~い。わくわく、どきどき♪」
「ビュ、ビュビュビューリング……あんたこの神聖な格納庫で何をしようと」
「何って今から一発やるに決まってるじゃありませんか。カマトトぶるのもいい加減にぎゃあああ」
石化の解けた者から順に口を開き、どやどやと倒れこむ二人を囲みだした。失言したハルカは智子の目潰しをくらって床をのた打ち回っている。
これらの発言から現状を悟り、ビューリングの頭が真っ白になった。
「ビューリング少尉、あんまりですっ。 ウルスラ曹長を捨てて昔の女に走るなんて」
「責めたら可哀相よー。ビューリングも人の子だもの、倦怠期に優しくされたらイチコロねー」
ウィルマはそれを聞き、ああやっぱりと納得する。女の勘は伊達じゃない。それはさて置きこの晒し者状態から抜け出したいのだが、圧し掛かっているビューリングは石のように固まったまま。
「頼むウィルマ……助けてくれ」
やっと口を開けば、ほとほと弱りきった情けない声。公でも私でもこんなふうに支援を要請してきたことはない。いつだって自分の力のみを頼りにしていた偏屈なジョンブル、その彼女の最初の頼み事にウィルマは我慢できず噴き出した。
ウルスラは自室のドアをくぐり生活感のない室内を見回す。それもそのはず、ここはもっぱら火薬実験室となっている。吹き飛ぶ前と全く同じ内装なのは基地職員の尽力によるものだ。
「…面倒くさい」
マットレス剥き出しのベッドに抱えていた寝具一式を投げ、メイキングは後回しにして椅子を引く。実験テーブルにある器材を重ねて本を広げるスペースを確保した。ここ二日ばかり同じページからちっとも進まずにいる。
視界の端にはヒョコヒョコと出たり消えたりする黒い鼻先、しぶとくも後ろ足で立ち上がったりジャンプしたり。あのバランスの悪い体躯で机上を窺うのは大変だろうと、ついに根負けしたウルスラは気づかないふりをやめた。
「おいで」
呼ばれたダックスフントは尻尾をパタパタ、運ばれた柔らかい膝の上に落ち着く。しばらくはそこで大人しくしていたが、何か気になるのか髭をピクピクさせて鼻をフンフン。そしてテーブルに置いてある包みを見つめて動かなくなった。
袋の中身はビューリングにもらった大きなスモークチーズ。犬の嗅覚なら勘付いて当たり前であり、これ以上ないくらいの御馳走である。
「おなか空いてるの?」
ウルスラをせつなく見上げる口元から涎がたらたら。
溜め息ついてタオルを手繰り寄せ、ウルスラはそれをダックスフントの首にぐるぐる巻きつける。軍服を汚されてはかなわない。ついで実験器具から鉱物を削るナイフを取りあげ、そのへんにある紙で適当に刃を拭った。
「チーズはカロリーが高い。だから少しだけ」
ウルスラはきらきらした瞳に前置きしてチーズに入刀する。顔くらいのサイズを小さなナイフで切り分けるのに四苦八苦、なんとか4等分にした頃にはすっかり腕が疲れてしまった。塊を一つだけ除けて後は全て袋へ戻す。
「これを、はんぶんこ」
指で大雑把に等分割し、そのうちの一方を自分でぱくん。
もう一方のチーズをのせた手のひらを口元へ持っていくと、小型犬は鼻をピックンピックンさせてせつなすぎる目をする。そしてまた大量の涎をタオルへぼとぼと。
「……オーケー」
食べていいのにと思いつつ、待っているようなのでブリタニア語で言ってみた。辛抱強くステイしていたダックスフントは喜色を浮かべてチーズをがつがつ。手のひらごと食べてしまいそうというか、手が涎でベトベトというか。
首に巻いた白いタオルが誰かを思い出させておかしくなる。おかしくて、おかしくて、自然と顔が綻んだ。こんな想像をしていると知ればきっと、煙をもくもく吐き出して怒り出すに違いない。
顔を上げて壁際のベッドを見やる。
「…少し眠い」
素直な響きは膝上の温もりのせいなのか、呟いた本人にも定かでなかった。
「なぁーんだもう、びっくりした。寿命が縮まったじゃない」
「……それはこっちの台詞だ。一歩間違えれば頭がなくなってたぞ」
ぱたぱたと手を振る智子に、片頬を赤く腫らしたビューリングが抗議する。周りにいるその他の面々は取り繕った愛想笑い。
ウィルマの事情説明によりようやく誤解は晴れ、なし崩しに隊員交流の場へと突入した。常の勝気さを隠して自己紹介するウィルマに「猫被りも大概にしろよ」と言って頬を張られ、ビューリングは踏んだり蹴ったりである。
「ウィルマさん、だったわね。あなた可愛いわ。私の中隊に」
「残念だな大尉。こいつはカウハバ基地に配属されてきたわけじゃない。そうだろウィルマ?」
油断も隙もないアホネンの魔手を断ち切り、ビューリングは肩を竦めて浮かない顔のウィルマを覗き込む。ウィルマはあちこち視線を彷徨わせた末、結局諦めたふうに大きく息を吐いた。
「ええ、違うわ。今日来たのはね―――ビューリング、あなた自身の転属同意を得るため」
思いもかけなかった訪問理由に一同みな唖然とする。寝耳に水だったビューリングもくわえタバコをぽろり。
「…ブリタニアの上層部にしては面白い冗談だな。一応聞いておくが、今度はどこに行けと?」
「ファラウェイランドよ、正確には欧州派遣組。連邦国だから移籍といっても形だけね。私の部隊の隊長にあなたを据えたいみたい」
「隊長だと? 現任者はどうしたんだ?」
「近々あがられるわ…」
その言葉に胸を衝かれ、みな言葉を失う。それはウィッチ隊にいれば何度となく目にしてきた光景だった。
ウィッチには逃れられない宿命がある。こればかりは根性論でどうなるものでもない。稀に20歳をこえても十分な魔力を保持する者もいるが、ネウロイと戦うために必須の強固なシールドを張れないのだ。
「上層部の連中はマゾか? どう考えても私にそれが勤まるわけないだろう」
ビューリングは身も蓋もない事を言ってのけ、明らかな人選ミスと嘲笑う。
「スオムスでの戦果に余程歯軋りしたんでしょうね。他所へやってから活躍するとは何事だって」
「なんだ当てつけか。暇な奴らだ」
「そうでもないわ。優秀なウィッチはどの国でも不足しているもの」
イライラと煙を吐き出すビューリングに、ウィルマは視線を下げて苦笑する。実際空戦技術だけをとってみれば文句つけようのない腕なのだ。強すぎる反骨心さえなければ今頃もっと高い階級に上がっていただろう。
「でもそれだと各国からウィッチを出すっていう大前提が崩れてしまいます」
「そうよねぇ~って遅れてきた私が言っても説得力がないんですけど」
ハルカとジュゼッピーナが珍しく正論を説いた。
義勇独立飛行中隊の成り立ちは各国が協力してネウロイに立ち向かおうというもの。ブリタニアだけ内部事情で一抜けたとあっては足並み乱れて矛先すら定まらない。
「ビューリングが転属命令書にサインした場合、ブリタニア軍部は責任持って補充兵を送る…だそうです」
ウィルマがブリタニアのメッセージを伝えると、場がしんと静まり返った。
このスオムスへ送られてくるのは何かしらの問題ある隊員ばかり。きっとその補充兵とやらも素敵な経歴の持ち主なのだろう。
「承諾するしないは別にして1つだけ。私は今のあなたに隊長が勤まらないとは思わない」
「ウィルマ…」
強い断言にビューリングは戸惑う。いつものように斜に構えて鼻で笑おうとしたが、ひたと見据えてくる瞳の真っ直ぐさに縫い止められた。
「駄目よそんなこと! スオムス義勇独立飛行中隊には『いらん子』なんていないんだからっ!!」
「トモコ…」
割り込んできた大声にビューリングの心が震える。嫌味のない深い瞳で見つめれ、智子は「きゃっ?!」という叫びを上げて固まった。
タタタッと足元に駆けてきた小型犬にビューリングは気づく。使い魔は誇らしげに尻尾をふりふり、褒めてくれと言わんばかり。そして主人の意向を察し実体化を解いた。
「…タイムリミットはいつだ、ウィルマ?」
「今日の夕方よ。あまり休んでもいられなくて」
明朝にはブリタニアに戻り、通常シフトに入るのだという。隊長があがり間近なら強行軍になるのは致し方ない。
「そうか、なら」
そう言って差し出したのは予備のゴーグル。受け取ったウィルマは唐突な行為に目をぱちぱち。
わけがわからないという顔をしている周囲の皆を置き去りに、ビューリングはバイクに跨ってエンジンをかける。そして立てた親指で後部座席をクイッ。
「はやく乗れ。お前スオムスは初めてだろう? せっかく来たんだから町くらい見ていけ」
「なっなにを悠長なことを言っているんですかビューリング少尉! のんびり観光案内している暇なんてありませんよ?!」
「私は今日一日オフをもらっている。何の問題もないな」
「問題ありすぎねー。すぐ一人の世界に入るのはユーの悪いクセよー」
「わかっている。夕方までには戻る」
おろおろするエルマと諦め口調のオヘアにあっさり答え、ビューリングはゴーグルをつけて片手を上げた。こうなると譲らない偏屈さを熟知しているウィルマは溜め息つき、バイク後部に跨って黒い革ジャケットに腕を回す。
「スピードは出さないでよ、あなたと心中するなんて真っ平だから約束しああああぁ~~~っ?!」
ものすごい弾丸スタート、魂切る悲鳴が尾を引いて遠ざかっていった。
「トモコ中尉ぃ~いいんですか? 行かせちゃって」
「……は? 誰がイキそうって?」
上の空だった智子は、ジュゼッピーナの問いかけにきょとん。「あらあの二人は?」と今頃になって広い格納庫を見回している。
「あ~あ、やっちゃいましたね。町案内は口実で御休憩かもしれないのに」
「ごっ御休憩?! あっあああんた、適当なこと言うとぶっとばずわよっ」
いかがわしい想像を巡らせてしまった智子は、生意気にも鼻でフッと笑ったハルカの襟をつかみ上げる。そして頭から怒気を噴き出し、どうして誰も身を挺して止めなかったのかと責任転嫁した。
「そうは言っても、オフをどう過ごそうとビューリングの自由ねー」
「ビューリングの休みを許可したのは誰っ?!」
「はあ…それは当然トモコ中尉かと」
いきりたつ智子を呆れた目で見やり、淡々と質問に答えていくオヘアとエルマ。怒りのやり場を失った智子はついにガックリと膝を折った。
「馬鹿っ私の馬鹿っ! なんて早まった真似をぉ…………ぶって。お願い、馬鹿な私をぶって! ぶってよぉあはんっ?!」
格納庫に響く、パシンッという乾いた音。遠慮なく愛のムチをみまった人物は喜悦を浮かべて高笑う。
「ほほほ、いいわいいわっ。私こういうのも大好きよ。ほうら思う存分お鳴きなさいっ!」
「あはっあひん、うあっああん、ひぅっ」
「さすがはエース、素晴らしいわ。これからは扶桑海のぶってぶって御前と名乗りなさい」
立て続けにあがる乾いた音と色っぽい悲鳴。それもそのはず、ぶたれているのは突き出された尻である。
カウハバ基地中隊長によるSMショーに色々悩むのが馬鹿らしくなり、隊員たちはランチをとりに食堂へ向かった。
カウハバ基地から一番近い町の入り口に、エンジンの爆音と甲高い擦過音。
ウィルマは皮のシートから滑り降り、よろよろと舗装路の縁石に座り込む。度重なる恐怖の連続に喉はからから、精も根も尽きるとはこのような状態をさすのだろう。
「…あっ、悪夢だわ……空でストライカーが故障して自由落下するレベル」
「大げさなやつだな、あれくらいで」
憎まれ口を叩く相手に購入した紅茶を手渡し、ビューリング自身は濃いブラックを啜る。缶から立ちのぼる湯気を見て数歩移動し、くわえたタバコに火をつけた。
「…タバコ吸いすぎ。あなた絶対いつか肺を病むわよ」
風下に移ったヘビースモーカーを訝しげに見やり、紅茶をちびちび含みながらウィルマはちくり。うるさがられ嫌な顔をされようと今まで何度も繰り返してきた。お節介だと自分でも思うが、持って生まれた性格は変えられない。
「禁煙なんてすれば間違いなく撃墜されるな。まあ、あがりを迎えたら考えてみよう」
懐かしい忠告に口の端を少しだけ吊り上げ、ビューリングは穏やかに答える。
ウィルマは耳にした言葉に心底驚いた。常に纏っていた厭世観が消え、その瞳は除隊後の未来さえ見据えている。
「…なんだその顔は」
「だって、あなた今まで『お前には関係ない』の一点張りだったじゃない。私、夢でもみているのかしら」
喫煙をたしなめてはそう返され、口喧嘩の末にキレて引っぱたく。それが今までのパターンだった。ウィルマとビューリングの間で呆れたように笑い、最後には止めに入ってくれた彼女はもういない。
「だから大げさだと…まあ単にだな、あの言葉は結構こたえると気づいただけだ」
「ふうぅ~ん、小っちゃな曹長さんに言われて傷ついたんだ」
「ブッ―――! ウィルマ、お前どうしてそれを?!」
コーヒーを噴き出したビューリングに、ウィルマはやれやれと肩をすくめてハンカチを投げつける。少しくらい意地悪してもいいわよねと、珍しく焦った顔を眺めてほくそえんだ。
「さあね。それはそうと、あなた本当に彼女と付き合ってるの?」
「……答えたくない。絶対に笑われる」
ビューリングは煙をもくもくさせてだんまり。なにやら面白そうだとウィルマはわくわく。
「笑うなんて真似しないわよ。たとえあなたが8つも年下の少女に手を出した変態でも」
「お前が私をどんな目で見てるか窺い知れるな…」
猫なで声を出して絡みつくウィルマ、うざったそうに顔をそむけるビューリング。話すまで頑としてここを動かないというウィルマに根負けし、ビューリングは渋々と誤解から始まった一連の騒動について説明しだした。
ぶるっと身震いしたウルスラは手探りで熱源を探す。求めても求めても、得られるのは冷えたマットレスの感触ばかり。
「…寒い」
寝惚け眼を開いてみれば、ここはどこと周囲をきょろきょろ。ついで現在の状況を思い出し、ブランケットの下で小さな溜め息をつく。
身を起こして時計を確認すると、ランチを通り越して午後休憩の時間に達している。空腹を感じないのは眠る前に食べたチーズのせいだろうと、ほどよく消化された腹部をさすって立ち上がった。
「…べとべとする」
手を開いたり閉じりして一言。チーズを直にのせたうえ舐めまわされたのだから、それも当然である。
部屋にあの食いしん坊な使い魔の姿はない。当然のごとく添い寝をしてきて知らぬ間にドロン、主人同様なんとも型破りなことだ。そしてそんな存在にひどく安心し、あげく求めてしまった自分を否応なく意識する。
「心…」
ぼつんと落ちた声。寒々とした寂寥感に押されて転がり出てきたもの、これが答えなのだろうか。
少しすっきりした頭でそう考え、とりあえず手を洗おうと詰め所へ向かう。大扉の前まできたところで、いつも以上に騒がしい室内の様子に足を止めた。ウィルマが中にいるからだろうかと首を捻りドアを開ける機会を逸する。
「ちょっとは落ち着くねー。トモコは隊長なんだから動揺したら駄目よー」
「落ち着いてなんかいられないわ! 私たちの中隊存亡に関わる一大事なのよ!!」
ウルスラは眼鏡の奥の瞳をぱちぱち。自室に篭っているうちに何があったというのか。
「戦闘経験豊富、長機も僚機もこなせる、楽観主義に陥らず一歩引いて周りを見れる…あら? 考えてみるとあの方、本当に指揮官に向いてますわね」
「ブリタニア空軍もよくわかってますよ。突っぱね防止にハニートラップを用意するとか」
「偉ぶったおじさまが来ても門前払い確定ですもんね~。あちらにしても苦肉の策なんでしょうけど」
続けて聞こえてきた声にも事態は一向にわからず、黒々とした不安だけが胸に渦巻く。ブリタニア空軍というキーワードにウィルマの来訪、この二つの重なる先にはただ一人しかいないのだが。
「ミーはウルスラも心配よー。さっき部屋を覗いたらよく眠ってたねー。起きてみればこんなサプライズなんて」
「そう、ですね。もしも、もしもそうなってしまったら、私ならとても悲しいですもの」
飛び出てきた自分の名前にびくり、反射的にドアから後じさった。とても悲しいサプライズ、そんなものはいらない。
「どうしよう、どうしたらいいの……すごくマズイわ。そしてお尻がすごく痛いわ」
「いい音、響かせてましたから。流されやすい智子中尉には良い薬です」
「アホネン大尉も大変満足そうに帰っていかれましたね~♪」
「あの変態の名を口にしないで! ああもうっ私たちがこんなに思い悩んでるのにあいつときたら―――もぉー頭きたっ! ファラウェイランドでもどこでも勝手に行けばっ?!」
ガンッと頭を殴られたような気がして息も忘れる。いまだ固有名詞はでていないが、ファラウェイランドという新たなるヒントがでたらもう確実だろう。『あいつ』とはつまりビューリングのことであり、胸に渦巻いた不安の正体を悟る。
「でも実際ビューリングが抜けたら痛手ねー。今までの戦闘を振り返ってみたら歴然よー」
「ええ、その通りです。ビューリング少尉の冷静な観察眼がなければ私たち何度も全滅していました」
「だけど、どうしようもないじゃない……選ぶのはビューリングなんだから」
話は延々と続いていたが、ウルスラは静かにその場から離れた。今頃になって駄目押しのように連呼される名を背中で聞きながら。
「きゃーはっははは~~ビューリングがじゅっ純愛っ、うひゃひゃ~もう駄目ぇ勘弁してー死ぬぅー」
往来に構わずヒーヒー笑い泣くウィルマ、もう軽く5分はこの状態である。ニコチン切れしたビューリングは空箱をダストボックスに叩き込んでジロリ。
「今すぐその大口を閉じろ。さもないとここに置き去る…脅しじゃないぞ」
「はいはい、了解しました少尉殿」
ものすごくやる気のない敬礼をつけ、ウィルマは目元の涙を拭う。これ以上ビューリングの機嫌を損ねれば、その言葉どおり置き去られてしまうだろうと危惧して。
適当に選んだオープンカフェのテラスに腰掛け、一心地ついたウィルマはムスッとした連れに声をかける。これは駄目だと店員を呼んでオススメは何かと尋ね、サーモンのパイ包みとベリージュースのセットを二つ注文した。
「それはそうと、よかったの? 彼女を部屋から追い出してしまって」
「……追い出してない。だが良いも悪いもないだろ。元々私たちの間には何もないんだから」
その言葉は空々しく響く。
ビューリングはジッポーをかちゃかちゃ、後ろ頭をがりがり。そのへんで買った葉巻を吸い込んだ早々、不味いと言って苛立たしげに揉み消した。
「そうかしら。とてもそうは思えないけど」
「ウィルマ…お前まで妙な邪推をするのか?」
「あなた、変わったわ。関係ないと突っぱねられてへこんだり、心配して使い魔を使役したり、タバコを吸うときに気を遣ったり。どれも今までのあなたとは掛け離れてるじゃない」
的確すぎる指摘にビューリングは返す言葉を失う。
それはウィルマに言われるまでもなく自分でも気づいていたことだ。だけど認めるわけにはいかなかったことだ。
「ねえビューリング…あの人はね、あなたを苦しめるためにあなたを庇ったわけじゃないわ」
ウィルマは今まで意識して避けていた話を持ち出す。これはとても勇気を必要とした。なぜならあの時ブリタニアに帰ってきたビューリングに、誰よりも傷ついていただろう彼女に、ひどい言葉を投げつけてしまったから。
「むしろ今のあなたを見て怒り狂うでしょうね。私のライバルのくせに何を腑抜けているんだって」
ウィルマの姉貴分でありビューリングのライバルだったその人は、瘴気渦巻くオストマルクの空に散った。
ビューリングはテーブル下の拳をギュッと握る。負けん気ばかり強くて撃墜数だけが生きがいの鬱陶しいやつ、それがあの運命の日にライバルへ放った最後の言葉。どうしてこんな自分を庇ったのか、その答えは見つからずもう尋ねることもできない。
「大切なものができたら今度は失わないよう努力すればいい。今のあなたならそれができる。だから―――恐れないで。自分の変化を認めて受け入れて。だってそれこそが生きるってことなんだから」
スピットファイアやブラフシューベリアと同じだと、ウィルマは辛抱強く言葉を重ねる。あの時言ってあげられなかった分まで、そしてひどく傷つけてしまった分まで心を砕く。
「…あいつと同じようなことを言うんだな」
「えっ? 今なんて?」
ぽつりとした呟きを聞き逃したウィルマにビューリングは首を振る。さすがにあのアホネンと一緒にするのはあんまりだ。
「まったく…どっちが年上なんだか」
「ふふっ、だって私は8人姉妹の長女だもの。あなたみたいな捻くれ者だってお手の物よ」
顔を洗って出直してらっしゃいと、ウィルマは胸を張って笑う。面倒見の良さと大人びた言動に惑わされるが、実はビューリングより2つ年下である。
「しゃくだが今回は私の負けだな。行くか」
「はっ? ちょ、ちょっと私まだパイを食べてないんだけど」
「歩きながら食え。もたもたするな」
掴みだした高額紙幣をコップの下に敷くと、とっくに完食したビューリングは慌てる連れに構わず歩きだした。
その背中に思いつくかぎりの悪態をつき、ウィルマは冷めてしまったパイを紙ナプキンで手早く包む。カフェのスタッフに一声かけて、猛然と後を追った。
気がつけば中庭に出ていた。ウルスラは人目につきにくい場所に置かれた木製のベンチに腰を下ろす。
ここはよく利用する場所だった。黙々と本を読むウルスラの隣で、タバコをふかしたビューリングが使い魔を遊ばせる。雪の積もる季節から始まったそれは、木々たちが青々とした葉をつける頃には毎朝の日課となっていた。
二人とも口数の多い方ではない。一言も話さない日だってある。互いの存在を閉め出していたわけではなく、自分の世界に没頭する相手を許していた。
「本、ない…」
ぼうっとしていてふと見下ろせばなんと手ぶら。どうしてだろうと考えて、手がべとべとするから部屋に置いてきたんだったと思い出す。
ウルスラは自分自身に驚く。そんなことすら記憶を辿らないと出てこないほど自分はショックを受けているのだ。彼女が、ビューリングがいなくなるということに。
「いなく、なる…」
それを想像するとひどく苦しい。胸がちくちくして、もやもやして、寒々しい。
変わってしまった自分、変わってしまった世界。ウルスラ・ハルトマンはこんなじゃなかったはずだが、もう自分の元のカタチなど忘れてしまった。
「ウルスラ曹長が本を持っていないとは珍しいですね。明日は雪でしょうか」
「……ハッキネン司令?」
深い思考に沈んでいたウルスラは虚を衝かれる。失礼しますと断りを入れ、カウハバ基地司令は寂れたベンチに並んで腰を下ろした。
「トモコ中尉なら詰め所…」
「いえ、今回はあなたに」
「…これは?」
ウルスラは差し出されたものをすぐ受け取らず、理知的に眼鏡を光らせるハッキネンに確認する。雪女というコールサインどおり一欠けらの感情さえ感じさせない彼女、その意図が全く見えない。
「私に宛てられたブリタニア403飛行隊からの手紙です」
「403…ビューリングの」
「はい。極秘とも書いてないので構わないでしょう」
しれっと言い放ち、ハッキネンは重要だろう手紙を押しつける。ウルスラは困惑を表に出さずにレターを取り出し、文面にさっと目を走らせた。
「昇進辞令、転属命令と―――飛行学校の教官依頼?」
「ビューリング少尉には見せていません。憤慨されるでしょうから」
「そうですね…」
まだ戦えるウィッチに空から降りた後の話を持ってくるなど。しかも教官受託の見返りとして、比較的戦闘の少ないファラウェイランド空軍に隊長の座を用意したとある。気の毒になるほど空気を読めていない、そんな本末転倒な話だった。
「もっとも私にとって争奪相手の自滅は願ったり叶ったりですが」
「争奪…?」
「単なる独り言です。忘れてください」
氷の無表情で強引に話を流し、ハッキネンは基地併設の飛行学校構想を伏せる。ブリタニアと同じ轍を踏むわけにはいかない。
「ウィルマは、これを?」
「ええ、勿論。基地に来られて早々私に語りました。知っていて尚、そうした方がビューリング少尉のためなのではないかと」
「ビューリングの、ため…」
ウルスラは格納庫でのやりとりを思い出す。ウィルマがビューリングの何を危惧していたのかわかる気がした。
「スオムス着任時の彼女なら私も同意したでしょう。ですが彼女は変わった。そして、あなたも」
「…………」
さすが司令、よく見ている。ウルスラは返す言葉を失くして黙り込む。
ハッキネンは手紙を回収して立ち上がると、瘴気のない美しい空を眩しそうに見上げた。
「この空を守れるのは、カウハバ基地が誇る第一中隊と義勇独立飛行中隊だけ。私はそう信じています」
強い自負をにじませて断言すると、ハッキネンはその場から立ち去った。
「うっきゃああぁ~~~っ! あっあああなた、後ろに人を乗せてるのわかってるぅ?!」
「叫ぶなとは言わんが曲がるときに逆側に体重をかけるなよ。すっ転ぶぞ」
ぎゃあぎゃあ悲鳴を上げてしがみつく人物に構わず、先を急ぐビューリングはスロットルを全開にする。町をまわって気づいてみればブリタニアのヘリが発つ時刻がせまっていた。ウィルマは遅刻による厳罰も避けたいが、自分の命だって大事にしたい。
「ひィいいいー! このスピードでこけたら絶対死ぬぅ~こんなことなら町でもっと食べまくっておけばよかったああぁ」
「行きより確実にバイクが重い。お前があちこちで食いまくったせいだな」
「ビューリングっ、あなた自分が太らない体質だからってええぇー! 降りたら引っぱたくから憶えてなさいよーーーっ!!」
食べれば食べた分だけ肉になる、それはウィルマにとって永遠の悩みである。何をどれだけ食べても体型の変わらない相手にそれを指摘されるほど腹の立つことはない。
しまった地雷を踏んだかと悪びれずに考え、ビューリングは無茶な運転を繰り返すことで忘れさせてしまおうと思いつく。結果的にウィルマの悲鳴が途絶えることはなかった。
カウハバ基地の正門前では、智子以下詰め所にいた仲間たちが横一列に並んでいる。夕方には戻ると出て行ったっきりの二人をやきもき心配し、じっとしてはおれぬとブラフシューベリアの帰還を出迎えにきていた。
インカムを持って出ているはずなのに、電源をオフにしているのか何度呼びかけても応答しない。
「帰ってこない? 帰ってこないってどういうことよーっ! 誰か答えてっ?!」
「御宿泊になった…いえ、目潰しはとんでもなく痛いので勘弁していただければと」
血走った瞳でギロリと睨みつけられると、失言しかけたハルカは他の隊員の背に隠れる。
チッと大きく舌打ちした智子は門扉の前をうろうろし、長い黒髪をぐしゃぐしゃとかき上げた。
「だからハッキネン司令に言ったのよ。ストライカー出しましょうって。あの雪女ったらほんと融通が利かないんだから」
「誰と戦うつもりですかの一言で終わりましたもんね~♪」
ジュゼッピーナは睨まれる前に自主的に避難する。そしてまだ発言していない二人を後ろからぐいぐい押し、猛烈に機嫌の悪い智子の前へ。
「ま…まあまあトモコ中尉、ここは一つ穏便に。若い二人には積もる話だって―――――っひい、ごめんなさい!」
拳を固めた智子を見てエルマは泣き出す。気の弱い彼女が気性の荒いケモノに立ち向かうなど土台無理な話である。
よしよしと宥めてやるオヘアは鼓膜へ伝わる振動にきょろきょろ。耳に手を当てて周囲を探り出す。
「ンゥ? ドゥルルルゥ……エンジン音が聞こえまーす。どうやら帰ってきたねー」
「なんですって?! どこっ?! どこなにょわあああーっ!」
ギャギャギャギューン、チュインッ!
「いやああぁだれか助けてええぇー! 殺されるううぅ~~~!!」
門扉の端から滑りこんできたバイクが直角に曲がり、そのまま基地内へ全開で突っ込む。
鉄の塊が通り過ぎていったあとに残されたのは、残像と長く尾を引く叫びだけ。
「とっ、智子中尉ぃ~?! 大丈夫ですか、傷は浅いですよ。しっかりしてください」
「咄嗟にシールド張って緩和しましたね! さすがは私のトモコ中尉!!」
「派手に吹っ飛んでいかれましたけど…ああ、あれですね! 自分から後ろに飛んで衝撃を和らげるという」
「まともに撥ねられてたら命はなかったねー。トモコ、ユーは運が良いよー」
隊員たちは頭から植え込みに突き刺さった智子を囲んで口々にもてはやす。綺麗に刈り込まれた植木がブルブル震えだし、直後爆発したような勢いで緑の葉が舞った。
「なんじゃそらぁっ! おのれビューリング、可愛さあまって憎さ百倍! むわあぁてええぇーーーっ!」
ぶち切れた目をした智子が猛然と走り出す。素晴らしい俊足、まるでケモノのよう。
このままでは刃傷沙汰は確実である。唖然としていた他の隊員たちも慌てて後を追いかけた。
ヘリポートに直接バイクで乗りつけるという暴挙をなした二人連れ。それを視界に入れたハッキネンは微動だにせずヘリ操縦者に合図する。軍用ヘリの大型プロペラが回りだし、周囲一帯に強い風圧をかけていく。
「随分ごゆっくりでしたね」
近づいてきた者たちへの言葉。皮肉なんだろうかと、腰の抜けたウィルマを肩に担きあげたビューリングは頬をぽりぽり。
「…遅刻はしてませんよ」
「当たり前です。その場合は二人揃って営倉入りです」
「あのっ、お待たせして申し訳ありません、ハッキネン司令。この失礼な話し方は生まれつきなのでどうか許してやってください」
「しおらしくしても無駄だろ。それに尻を向けて言っても逆効果だぞ―――っ痛、こら暴れるな」
取り成してあげたのにこの捻くれ者が! そんな感じのことを叫んでバタバタするウィルマ。残念ながらまだ足は立たない。
ハッキネンは内心で溜め息をつき、常と変わらぬ温度のない声で問いかける。
「あなたの選択を聞かせていただけますか?」
「……ウィルマ・ビショップ軍曹をヘリまでお送りします。我が司令官殿」
びしっと見事なブリタニア空軍式敬礼をつけて踵を返す偏屈なジョンブル。『我が司令官殿』、それが彼女の答えなのだと、ハッキネンは珍しく微笑を浮かべた。
「それじゃあ元気でな、ウィルマ」
肩のウィルマをヘリに押し込み、あっさり告げたビューリングは口の端で微笑む。湿っぽい別れは適当でない気がした。自分たちにはこれくらいドライな方が合っている。
「あなたもね。何よ…この大きなものは?」
「土産だ、持って帰れ。お前は家族が多いからな」
「あ、ありがとう……」
意外すぎて目をぱちぱち。どこに隠し持っていたのやら、ずっしりとした巨大な荷物を手渡されたウィルマは戸惑う。バイクが重くなったと言っていたのはこれのせいではないのかと、そう考えたところでハタと思い出した。
「誤魔化されないわよ。ほら大人しく殴られるっ!」
「なんだ、憶えていたか。執念深いやつめ」
あわよくばの考えがばれ、ビューリングは苦笑する。フルパワーのウィルマに殴られればかなり痛いが、足も立たない今なら大したことはない。置き土産に一発もらっておいてもいいかと、腰の後ろで腕を組んで目を閉じる。
「いいぞ、さっさとやれ」
革ジャケットの襟を引っ張られてカウンターの張り手をもらう、そのはずだった。
ビューリングの脳裏に戸惑いが満ちる。おかしい、いつもと勝手が違う。これではまるで…キス、みたいではないか。
無限に思える時間がすぎ、胸をどんと突かれて尻餅をつく。ぽかんとした間の抜けた表情の先で浮かび上がる大型ヘリ。
「きつ~い一発っ! 後は頑張ってねぇ~~~!!」
ドアを閉める寸前にそう言い放ち、ウィルマはビューリングの後ろを指差した。条件反射で従った体はひどく冷たい目の智子に凍りつく。
「…さっさとヤれ、ファイト一発? あんた、私をあれだけ心配させといて何それ」
「おっ、おいトモコ…心配をかけたことは謝るが、言葉を適当に繋げるな」
血走った目に狂気を感じ、ビューリングは低姿勢で智子を宥めようとする。しかしながら、智子の耳はいかなる言葉も受け付けようとしない。
「しかもベロチュー? ベロチューですって…うふっうふふっ―――死んで詫びろおおォっ!」
「うをっ?! お前のその刀なら骨も両断だぞって聞いてないな…くそっ、ウィルマ、憶えていろよっ!」
いわゆる兜割りにされかけたビューリングは必死に転がって身を起こす。腰からグルカナイフを外して次の一撃をしのぎ、付き合ってはいられないと全力疾走した。
「ふふっ、ほんとに頑張りなさいよ。こぉ~んな好い女を振ったんだからね」
眼下にはもう豆粒ほどになった姿、抜き身の軍刀を振るう隊長から逃げ回る大切な人。とうとう想いを伝えることはできなかったけど、この結果をちゃんと認めて受け入れられる。
ふと手に触れたのは、彼女がくれた変化の証し。
「またスモークチーズぅ? 意外性がないし、超ハイカロリーだし」
初めて買ってくれた物におかしくなる。おかしくて、おかしくて、自然と顔が綻んだ。こんな悪態をついていると知ればきっと、いらないなら返せと怒鳴るに違いない。
どうしたことか、目の前がぼやけて困る。
「……本当…高く、ついちゃった…な」
嗚咽まじりの響きは抱きしめた変化の証しのためか、呟いた本人にも定かでなかった。
乳鉢をこすっていたウルスラは、弱々しく鳴ったノック音に首を傾げた。
なぜこんな時に実験をしているのかといえば、火薬のにおいを嗅ぐと落ち着くから。もう夕食の時間だが、扉には『実験中、危険、立ち入り禁止』の札をかけてある。
「……誰?」
誰何しても応答がない。催促もないので空耳かと疑うが、どうにも気になり乳棒を置く。発火しないように材料を離して安全性を確保し、ウルスラは自室のドアに歩み寄って引き開けた。
「痛ぅっ?!」
ゴンという鈍い振動。座ってドアに凭れかかっていた人物が床に後頭部を打ちつけた音。
かなり痛かったのか、もろにぶつけたそこを抱えて呻いている。油断していたというより、くたびれきった風体だった。
「ビューリング、その辺りにさっき木炭落とした」
「…どおりで。かぐわしいと思った」
わかりづらい黒い服をあちこち叩いて炭を落とす。そんな様子を見下ろし、ウルスラは彼女の来室理由を思い浮かべる。その答えを聞くのが怖かった。
「何しに、来たの?」
「夕食をだな、持ってきた」
互いの妙な緊張が伝わってぎくしゃく。ウルスラは押しつけられた紙袋を覗き込み、ビューリングの部屋に置いていったようなセットを見つける。パンの具にポテトが挟んであり、ココアの缶が入っているのが相違点か。
「私もまだなんだ。一緒にいいか?」
「……うん」
どこか空々しくやりとりし、二人はベッドに並んで腰掛ける。
ビューリングは剥き出しのマットレスと丸まったブランケットに目を留めたが、ウルスラに対して特に何も言わなかった。黙々と咀嚼するのはとても気まずい。すると気を利かせたのか、垂れ耳の使い魔が具現化する。
「なんだ食い気か。物欲しげに見てもやらんぞ」
「…大人げない。パンくらい分けてあげればいいのに」
「私はそこまで狭量じゃないっ! エサをやりすぎて太ったらこいつのためにならんだろ」
食い意地が張っているわけではないと、ビューリングは声を荒げて言い募った。こういうところが大人げないと評されているのだが、悲しいかな当人はそれに気づいていない。ウルスラはせつなく見つめてくる瞳に負けて自分のパンを小さくちぎる。
「おいで」
尻尾を千切れんばかりに振って、ウルスラの膝に前足をかけるダックスフント。
そのプライドのなさに主人が顎を落とす。使い魔のくせに餌付け懐柔されたのかと。
「えらく懐いたものだな。私以外の手からは絶対物を食べなかったのに」
「あのチーズ、ちょっとあげたから?」
「そんな物まで…ブクブクになっても知らんからな」
ビューリングは頭を抱えて匙を投げる。実際問題として使い魔が太るのかはわからないのだが。
二人に一匹をまじえて少し和らいだ食後の空気の中、先に切り出したのはウルスラだった。
「ファラウェイランドに、行くの?」
「いや、行かない――――ん? そういえばまだ中隊の奴らに言ってないな」
そうあっさりと返され、ウルスラの時が止まる。まあ明日でいいかとの呟きに、珍しく沸々と感情がわいた。胸がちくちくしたり、もやもやしたり、寒々しかったり、そんな自分が馬鹿みたいではないか。
「ビューリングは、時々すごく、無神経」
ゴンゴンゴンと言葉をぶつけられ、ビューリングは目を白黒。
驚きが通り過ぎると反発心がむくむく、言い返そうとして正面を向いたままの少女に眉をひそめた。両頬が僅かに膨らみ、なんだか怒っているように見える。
「転属にサインすると思ったのか?」
反応なし。いや、頬の膨らみが少し増した。
「私がいなくなると嫌か?」
またも反応なし。いや、それに加えて少し唇が尖った。
「それともやはり…お前にとって私は、関係ないか?」
「――――?!」
今度は大きな反応。ビクンと肩が揺れた直後、伸びてきた小さな手にジャケットを握られる。
「悪かった、そんな顔をするな。嫌味で言ったわけじゃなく」
反応に安堵した自分を嫌悪し、泣き出しそうな表情に心底弱りはてた。どうにも罪悪感が募り、手を伸ばして色の薄い髪をくしゃくしゃ。
偏屈に生きてきた代償に失ったものをかき集める。羞恥に悶死するかもしれないと思いながら腹をくくった。
「私はここでこうしてお前と…ウルスラと一緒にいたい。そう、言いたかった」
ぽかんとして真っ直ぐ向けられる瞳に、ここで逸らせば負けと見つめ返す。ネウロイと戦う以上の緊張感が存在するとは不思議なもので、丸腰の頼りなさに逃げ出したくなる。胸の内を明かした今、後は流れに任せるしかなかった。
「だから、だな…お前さえよければ、私の部屋に戻らないか?」
ウルスラはその言葉に耳を疑う。
さっきからおかしな台詞ばかり聞こえる気がするのは聴覚異常か、さもなくば睡眠時間が足りていないのか。黒い革ジャケットを掴む感覚は確かに現実で、目の前の彼女が幻覚であろうはずもない。
「私がいると、自由にタバコ吸えない」
困惑する思考を放置して勝手に口が開く。
あの部屋を出た理由、それは部屋の主に迷惑だと思われたくなかったから。ヘビースモーカーにとって辛いだろう制限を指摘すると、当人は唇の端を持ち上げて後ろ頭をがりがり。
「お前もうちの使い魔に読書を邪魔されるな。タバコはまあ…吸いすぎを予防してもらっていると思えばいい」
「それって変。一人でいる方がずっと楽なのに」
何故わざわざ不自由な生活を望むのか。いつまで居座る気かと問うたのは、楽になりたかったからではないのか。
「私もそう思ってたんだが慣れは恐ろしい。眠るとき無意識にこう…抱えるものを探してしまう」
体の前に腕を重ねて作られた輪。ドキンとして心臓が脈打ち出す。
「一度憶えた蜜の味か。中々に厄介なものだな、これは」
たった二晩与えられなかったもの、それを見ているだけで動悸がして胸が苦しい。これが『せつない』という感覚なのだろうかと、頭の片隅でこの異変に当てはめる表現を考えていた。
「戻っても、いいの?」
「さっきからそう頼んでいる。で、どうなんだ?」
再度の確認に焦れてズイッと顔を近づけ、ビューリングは結論を迫る。足元では辛抱強くステイして心配そうにしているダックスフント。
「…私もビューリングと一緒にいたい。これからもずっと」
吐息を感じるほどの距離で伝えると、ウルスラは小さな花が綻ぶみたいに微笑んだ。
ビューリングはといえば魂が抜けたふうに呆然としている。眼鏡の奥から怪訝そうに見つめられ、使い魔に鼻先を擦りつけられてやっと正気づいた。
「驚いた…お前が笑ったの、初めてじゃないか」
「…笑わないほうがいい?」
「どうしてそうなるっ?! 大いに結構、遠慮なくやれ。だがあまり頻繁だと心臓がもたないから程々にひとつ頼む」
一体どうしろというのか。ウルスラは矛盾する言い分に呆れるが、なんだか上機嫌なビューリングを見てどうでもよくなった。部屋が元通りになるのなら、エルマやキャサリンに話しておこうと腰を上げる。
「どこへ行く?」
「詰め所。部屋のこと伝えてくる」
「あいつらなら出払ってるぞ。ああ、そういえば―――――エルマ中尉、聞こえるか? ビューリングだ」
取り出したインカムを装着しての呼びかけ。そんなビューリングの正面に立ち、ウルスラは屈み込んで頬を寄せていく。どうやら音声を拾おうとしているらしい。意図を察したビューリングは耳の位置を合わせるのに協力してやった。
『はっ…はいっ? ビューリング少尉ですか? あっあの、もうちょっと隠れておられた方が…トモコ中尉がまだひゃあああーっ!』
ひそひそ声で応答したエルマが魂切る悲鳴をあげる。どたんばたん、インカムの向こうから騒々しい物音。
『オー、ノー! エルマ中尉がケモノの餌食にーっ』
『ああっ羨ましいです! 智子中尉に圧し掛かられて頬をすりすりなんて』
『通話したいならインカム奪っちゃえば簡単なのにねぇ~』
合間に他の隊員たちの声がちらほら。智子は強引にエルマのインカムを共用するつもりのようだ。
『ビューリングぅ、逃げるとは卑怯よっ!愛人との熱いベロチューを冥土の土産に大人しく一刀両断されなさい!! さあ、どこ、どこにいるの?!』
キーンというハウリングをおこしながらの怒号。
ビューリングは顔をしかめて小さく舌打ち。あれはウィルマの悪ふざけだと訴えても無駄だろう。
「トモコ、私は今――――アホネンの部屋にいる」
『オーケー! 首を洗って待ってなさああぁ~いっ!!』
『ですから智子中尉ーっ! 抜刀は不味いですってええぇー!!』
『猪突猛進なんだからぁ~。でもそんなところも、す・て・き♪』
雄叫びと地響きが遠ざかっていく。第一中隊が阿鼻叫喚の地獄絵図になるか、はたまた寝技師アホネンに篭絡されるか、どちらにしろハッキネンに絞られるのは確実だ。
「よし。面倒なやつが片付いた」
「…嘘は良くない」
「嘘も方便、そう言ってたのはトモコだぞ」
少なくとも先にそれを行った人物に非難される謂われはない。近距離からの正論をしれっと流し、ビューリングは唇の端を持ち上げる。
『ビューリング、あのクレイジーなトモコの相手をするのは大変よー』
「キャサリンか…まあ散々心配をかけたみたいだから仕方ない。転属命令は蹴ったし適当に相手してやるさ」
『本当ですかビューリング少尉?! ウルスラ曹長に早く伝えないとっ!』
「もう知ってる、エルマ中尉。それと、ビューリングの部屋に戻ることになった」
インカムのあちらとこちらで耳をくっつけ合っての会話。くすぐったさを誰もが感じつつも、それは決して不快なものではない。きゃいきゃい大騒ぎするエルマとオヘアに呆れながらも、ビューリングとウルスラは普段どおり淡々と応対していく。
『ところでビューリング、トモコが言ってたベロチューは本当ですかー?』
「―――っ! あっあれはだな、ウィルマのやつが悪ノリしてやっただけで深い意味など」
『キスしたうえに舌まで絡ませたなんて…ビューリング少尉、経緯はどうあれそれは浮気じゃ』
「以上、 通信を終わるっ!」
雲行きの怪しさを感じたビューリングは一方的に宣言してインカムの電源をオフにする。そうっと少女の気配を窺うと、なにやら考えこんでいるらしく微動だにしない。この体勢では逃げ出すこともかなわず、じっとして反応がくるのを待つばかり。
「…ビューリング、ベロチューは誰とでもできるの?」
「?! そっそれはだな、本来は好き合っている者同士がするもので」
こないでくれと願う質問がきてしまうのは何故なのか。
だらだらと背中に汗をつたわせて、ビューリングはたどたどしく答える。近すぎる顔とこの体勢に危険な何かを感じとり、暴れ出した心臓を必死に宥めて自分に言い聞かせた。何を不埒なことを考えている、ウルスラはまだ10歳なんだぞど。
「…わかった」
「わあああぁーっ待て待て、大人の場合だっ大人の」
ウルスラが顔を寄せたぶんだけビューリングが仰け反る。反らせすぎて姿勢を維持できず、二人もろともにマットレスへ沈んだ。
結果的にウルスラがビューリングを押し倒したような格好となってしまう。
「私、もう大人」
不服そうに唇を尖らせてウルスラは訴える。ウィルマと自分はどう違うのかと。
「い、いや、事を急いてはいけない。もう少し時間を置いて、それでも気持ちが変わらなかったらにするべきだ」
ウィルマに聞かれたら爆笑されそうな青臭い台詞をはき、ビューリングは下敷きになった状態から腕を回してウルスラの動きを制限する。自由にさせておくと突然予想外の行動に出るあたり油断ならない。
しなやかな拘束を受けたウルスラは、心地良い温もりから伝わってきた心音に耳を澄ます。
「…もう少しってどれくらい?」
「うっ…どれくらいって……そうだな、ウルスラ・ハルトマンがエースになったくらいか」
咄嗟の逃げ口上として、それはとても良い案に思えた。あと何年と具体的に期限を切るより猶予があると、ビューリングは一人うんうん頷く。エースになれずにあがりを迎えてしまったら永遠にお預けなのだが、現時点ではそこまで考えがまわらない。
「了解……がん…ば、る」
急速に意識を溶かされてウルスラはまどろみ始める。この睡魔の誘惑に耐えられるはずもないし、そうしようとも思わなかった。
「まいったな…及び腰なのは私のほうか」
胸の上で完全に眠ってしまった少女に溜め息。とりあえずタバコでも一服と思ったがこの体勢ではそれもままならず、ビューリングは早速の喫煙妨害に噴き出しかけた。ずれてしまっている眼鏡をそっと抜き取り、ベッドの空いた場所に向かって投げる。
丸まったブランケットを掴んでウルスラごしに引っ被れば、仲間外れにしないでと潜り込んでくるダックスフント。片腕を広げてスペースを作ってやると、図々しくも主人の腕を枕にして丸くなる。
「おいおい、身動きがとれないんだが」
ビューリングは懐かしい窮屈さに苦笑し、健やかな寝息に誘われてうつらうつら。この二日間というものまるで寝つけず、強い酒をあおってはどうにか紛らわせていた。
「頑張る、か……私も努力しなければな」
これからもずっと、二人が共に在るために。
呼べば応える、手を伸ばせば届く、笑えば笑い返す――――そんなささやかな積み重ねを大切にして。
重なりあう運命線の先に得たもの。
ここで出会えた仲間と飛ぶ青い空、変化する世界と大きく変わった自分自身。
本国が厄介払いした『いらん子』は、この北欧の地に自らの居場所と大切なものを見出した。