第44手 いっしょにお風呂
正直言って、彼女のことが苦手だった。
もっとも、わたくしには得意とする人間の方がずっと少ないのだけれど。まあそれは別にどうだっていい。
なぜだかわたくしは、彼女のことが苦手だった。
それがなぜかはよくわからないけれど。
サーニャさんはわたくしに危害を加えないだけマシという、その程度の印象しかない。
ただ無害という、それだけの子。
いるのかいないのかわからない子。
夜の闇にそのまま溶けてしまいそうな、なんだかそういう子。
別に、特に気にかけるなどということはない。馴れ合いたいなんて思っているわけではない。
わたくしにとってなんの関係もない、どうだっていい子。
そのはずなのに、それでも彼女のことが気になった。
気になって、それでやっぱり苦手だった。
わたくしの心を、彼女はなぜだか落ち着かなくさせてしまう。
いつもなにかに怯えでもしているようで、おどおどとして、はっきりせず、
視線をうつむけていることが多くて、見ているとイライラしてしまう。
わたくしにとってサーニャさんはそういう子だった。
たまらず一度、言ってやったことがある。
震えるような声で話しかけてきて、もごもごと口のなかでなにかを言う彼女に向けて、
そんなんじゃなにを言ってるのかわからないわ、と。
彼女はまるで、わたくしにおびえでもしているようだったから。
なにをそんなにびくびくする必要があるの。それじゃあ、こっちがなにか悪いみたいじゃないの。
だからついイラだって、さらにこうも言ってしまった。
あなた、まるで幽霊みたいね、と。
その言葉は自分でもぞっとするような冷たい響きをして、
けれど、もう口に出してしまったあとではどうしようもなかった。
それはけして口にしてはいけない言葉だったのに。
サーニャさんはごめんなさいとだけ力なく言って、顔をうつむけてしまう。
泣き出すんじゃないかと心配になった。
そんなことはなかったけれど、サーニャさんはぎゅっと口元を結んで、それ以上なにも言うことはなかった。
わたくしからもなにも言わなかった。いや、言うことができなかった。
押し潰されてしまいそうな、静かな時間だった。まるで世界から音が消えてしまったようで。
いたたまれない気持ちになって、わたくしは逃げるようにその場を立ち去った。
サーニャさんとはそれきりだった。
ろくに会話もなく、わたくしが皮肉を口にするくらい。彼女からはなにも言い返してはこない。
わたくしは彼女にすっかり嫌われてしまっていた。
まあ、どうだっていいこと。わたくしにとって些末な問題だ。
別にわたくしは彼女に好かれたいとか、そんな気持ちがあるわけでないし。
エイラさんはなぜだか彼女にひどくご執心で、そのことがあったあとに、
わたくしは手痛いいたずらをされることになるのだけれど。
そんな、わたくしにとっては腫れ物のような彼女から話しかけてきたのだから、
いったいどういう風のふきまわしだろうと、わたくしは驚きを隠せなかった。
そこは脱衣場だった。
ぐっしょりと寝汗をかいたため、日課である朝の哨戒任務をそこそこに切り上げ、
わたくしは風呂場へとおもむくことにしたのだ。
するとそこには先客がいた。
サーニャさんだ。他には誰もいなかった。
「……お、おはよう」
とサーニャさんはわたくしに言った。精一杯声を絞り出すといった感じで、どこかぎこちない。
彼女は今、バスタオルを巻いただけの格好をしている。
「あら、おはよう」
一応、挨拶だけ返してわたくしは彼女の前を通りすぎる。
奥の脱衣棚で立ち止まり、服を脱ごうと手をかけた。
彼女はまだなにか言いたげで、でもその場に立ちつくしたままだ。
たしか早朝まで夜間哨戒があったはず。いつもなら部屋で寝ている時間じゃなかったかしら。
なのに、どうしてこんなところに? ちゃんと寝たのだろうか。気になりはしたけれど、訊きはしなかった。
こんなところにいるからには、お風呂に入るのだろう。湯あがりというわけではないようだから。
――まあ、別にいい。
「あの…………」
と、ともすればそのまま耳を通り抜けて聞き逃してしまいそうな、か細い声。
わたくしにだろうか。ここには彼女の他にはわたくししかいないのだから、わたくしになのだろう。
バスタオルだけ巻き終えて、わたくしは声の方に顔を向けた。
「なにか?」
そう訊き返すわたくしの声がつい尖ってしまった。うっかりしていた。
サーニャさんが臆してしまうのが空気の変化で伝わる。
しまったと思った。
でも別にこれは、わたくしが悪いわけではないはず。
「どうかしたの?」
もう一度、今度はなるべくやわらかく訊ねかけた。
「眼鏡……」
眼鏡? 眼鏡がどうしたというのだろう。
服を脱ぐのに今はいったん外しているけれど。
「眼鏡をしたままお風呂に入るんですか?」
「そうだけど? それがなにか?」
あいにく、わたくしは眼鏡なしではほとんどなにも見えない。眠るとき以外は常につけるようにしている。
わたくしは置いていた眼鏡に手を伸ばそうとする。
「転びそうになったって聞いて。湯気で曇ってやっぱり見えないんじゃないかって……」
ああ、あの時のこと――
わたくしはそれを思い出して、それだけでなんだか顔に血がのぼっていく。
あ、いや、今はそのことはどうだっていい。
たしかに困りもすることはあるけど、別にいつものことで慣れている。
わたくしのことを気づかってくれて、それはけして悪い気はしない。
でもそんなこと、わざわざこの子が気にかけることではない。
別に、あなたには関係が――そう言おうとして、でもその言葉は遮られた。
ぎゅうと、サーニャさんがわたくしの手を握ってきたのだ。
そして彼女はこう口にした。
「だから、わたしがいっしょに入る」
なにを言い出すのだろう、この子は?
つまりそれは、彼女がわたくしの目にでもなるということだろうか?
わたくしは思わずその手を振りほどいてしまいそうになって、でもなぜだかそれはできなかった。
わたくしはただ戸惑って、なにもできず、なにも言えなかった。
彼女にはすっかり嫌われたと思っていただけに(どうでもいいことだけれど)、
その申し出の意図がわたくしには汲み取れなかった。
「いきましょう」
とサーニャさんは短く言って、わたくしの手を引いた。
拒否しなかったから了解と受け取られてしまったのだろうか。
不覚にも眼鏡を外したままだ。
そのことも言い出せず、わたくしも彼女につられて歩き出してしまう。拒むこともできたのに。
こんなことを言うような子だったろうか。わたくしはいぶかしげる。
なにかたくらんでいるのかしら?
いくら思案をめぐらせても、一向に答えはでない――もういい。
別にこれっぽっちも気にかけてやる必要はない。ただの徒労だ。
うだうだ考えこむのも面倒くさくなって、もうそこで考えるのはやめにした。
急かす彼女に手を引かれるまま、わたくしたちは風呂場へと歩いていった。
「段差がある。6段」
サーニャさんは短く告げた。その指示は的確だった。
いち、に……と半歩前を行く彼女に手を引かれ、わたくしも降りていく。
素足に石畳のひんやりと固い感触。
「もうすぐシャワー」
サーニャさんがそう言ってしばらくして、立ち止まった。
「着いた」
そう言うものの、ちゃんと着いたのだろうか。わたくしにはぼやけた輪郭しかわからない。
わたくしの手を引っぱり、そうしてなにか固いものに当たった。
「ここ」
と彼女は言った。
手で確かめてみると、どうやらそれは蛇口なようだ。
ひねればお湯が降ってきた。
最初は肌に冷たく感じ、それもすぐに慣れた。かいた汗を持っていってしまう。
サーニャさんはそれを見届けると、隣のシャワーへと移っていった。
「ペリーヌさん、すみません」
と、しばらくしてから彼女がそう言ってきた。それはなんだか弱々しい声で。
シャワーの水音はわたくしの方のものしか聞こえない。
「どうかしたの?」
「シャンプーしてください」
「は?」
「自分で頑張ってみたけど、やっぱりダメで……」
「なにを言っているの?」
訊き返すわたくしは思わず棒読みのような口調になってしまった。
甘えてでもいるつもりなのだろうか。
……わからない。真偽を確かめるすべはない。
そういえばエイラさんがよく彼女の髪を洗ってあげているのを見たことがある。
にわかには信じがたいが、本当なのかもしれない。
わたくしはもう用はすませた。いっそこのまま彼女を放って、わたくしだけあがってしまおうかとも思った。
けれど、目の見えぬわたくしが、ちゃんと脱衣場までたどり着けるだろうか――それはどうにも心もとない。
もし転んでしまおうものなら、頭を石畳に打ってしまうなんてことにもなりかねない。
わたくしは、はあ、と深くため息をついた。
まったく、手のかかる子なんだから。わたくしの目になるんじゃなかったの。
頭のなかで悪態をついた。もちろん口にはしなかったけれど。
壁をつたい、手探りでようやく彼女いるシャワースペースまでたどり着く。
さらに進む――すると、やわらかいなにかに触れた。
きゃっ、とふたり分の声。
わたくしは距離感がつかめず、サーニャさんとぶつかってしまったのだ。
こけそうになるのを踏みとどまると、わたくしの鼻先がサーニャさんのうなじのあたりにひっつく。
なんだかシャボンのいい匂いがする。
一級の陶器のような、白くてきれいな肌。わたくしも思わず息を呑むほど。
そういう趣味なんかじゃないけれど、なんだかドキドキしてくる。
しばらくのあいだ、わたくしはそのままでいた。
「ペリーヌさん?」
そのすっかりその場で固まってしまっていたわたくしは、その言葉で我に帰った。
あー、もう。こんなところをエイラさんに見られでもしたら、あとでどんないたずらをされるか。
彼女の髪を洗ってあげながら、そんなことを思った。
わたくしは手探りでようやく蛇口を探しあてる。
「ほら、いくわよ」
そう言って、蛇口をひねった。
シャワーからお湯が降ってくる。やわらかい雨のようだった。
「ありがとう」
とサーニャさんは言ってくる。
……別にそんなこと言われても、嬉しくなんてない。
わたくしは再びサーニャさんに手を引かれ、歩いた。
ようやく終わりね、やっとゆっくりできるわ。そう思った。
彼女に振り回されて、わたくしはすっかり疲れてしまっていた。
――けれど、わたくしたちの着いた先は、脱衣場でなく、湯船だった。
「どうかしたんですか?」
と湯船に浸かったサーニャさんは訊ねてくる。
わたくしはその場につっ立っていた。
どうもこの子とは意志の疎通がうまくできない。流されてばっかりだ。
「別に……」
そう言ってわたくしもサーニャさんから少し離れて湯船に浸かる。
いつまでもこうしてわけにもいかず、かと言ってひとりで脱衣場まで戻れるはずもない。
まあ、ゆっくりしよう。
そうしてあとはのんびりとした時間だった。
静かだった。息苦しさはなかったけれど、ともに無言だった。
相手がサーニャさんなのだから当然なのかもしれない。
そういえば、なぜか彼女はハルトマン中尉と話があうらしい。
いったいあの人とどんな話をしているのだろう? まったく、よくわからない子だ。
わたくしとておしゃべりというわけではない。なにか話すこともないし。
その時間を終わらせたのは、サーニャさんの方だった。
「ずっと言えなかったけど、ありがとう」
と、気恥ずかしげに彼女は言った。
わたくしはそちらに顔を向けるも、裸眼なため、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。
ありがとう……?
わたくしに言っているのよね?
何に対する感謝かしら?
ずっと言えなかったらしい彼女の言葉に、わたくしは考えあぐねてしまう。
「お誕生日を祝ってくれたから」
しばらくして、サーニャさんはそう付け加えた。
それはつい先日のことだ。
一日遅れではあったけれど、サーニャさんと宮藤さんの誕生日会を開き、みんなで祝ったのだった。
ただわたくしはそれに参加しただけで、なにかされはしても、特になにかをしたということはない。
別にそんなことで、感謝されるいわれはないはずだ。
「とってもうれしかったから……」
けれど、彼女は言葉を続ける。
その時間をいとおしく懐かしむよう、彼女は繰り返す。
「とっても、とっても……」
「そう」
と、つぶやくようにわたくしは言った。
どういたしまして、なんてことは言えるわけがない。
「ペリーヌさんにはずっと嫌われたと思ってたから」
サーニャさんはそう言って、
わたくしはなにも答えなかった。肯定も否定も馬鹿らしい。
すると――彼女はさらに、こう口にした。
「だってわたし、幽霊みたいだから」
その言葉に、息が止まる。ぎゅうと胸を締めつけられた。
忘れていてくれればよかったなんて、そんな考えは都合が良すぎる。
「ペリーヌさんが言った言葉」
彼女はさらに付け加えてくる。
それはわたくしの心臓を素手で握られでもしたかのようにしてしまう。
「覚えてないわ」
と、愛想なく突っ返す。なんとかそれだけ。
なにを言っているのだろう、わたくしは。言うべきことは、こんな言葉なんかじゃないのに。
わたくしは目を細め、彼女をうかがった。でも、やはり見えない。
「よかった」
なにがよいと言うのか、サーニャさんはつぶやくように言った。
泣きそうだったくせに、とわたくしは思う。こっちは気が気じゃなかったのに。
じゃあなんで、そんなこと言ってくるの。どうしてよかったなんて言えるの。
「ペリーヌさんが気にしてたらって……」
心のうちを見透かしでもしてくるように、サーニャさんは言ってくる。
わたくしはたまらず、彼女から顔をそむけてしまう。
「本当に気にしてないから」
サーニャさんは自分に言い聞かせでもするよう、言った。
「だって本当のことだから」
その声はやはりどこか悲しげで、気にしてないなんてそんなふうに、聞こえはしない。
「わたし、ほんとはもっと、みんなと仲良くなりたい……そう思ってるのに、うまくできなくて……」
声を振り絞るよう、サーニャさんは言った。
彼女はこんなにおしゃべりだったかしら。なにかたがが外れてしまったのかもしれない。
「ペリーヌさんとも、そう」
彼女はわたくしに視線を向けてくる。
「別にわたくしは、馴れ合いたいとかそんなこと――」
「そんなことない」
つい口から出たわたくしの言葉を、やすやすと彼女は遮ってしまう。
なぜ否定するの。どうして断言できるの。
サーニャさんは口は止まらない。
「だって、ひとりは寂しい」
その言葉が、わたくしの胸にズシンと響いてきた。
ヒトリハサビシイ。
その言葉がぐるぐるわたくしの胸のなかをうずまいて、ちっとも落ち着かない。
強引に抑えつけようとしても、それはのたうち、暴れまわる。
「それは、あなたはそうでしょうけど――」
それを振りはらい殺すよう、わたくしは声を出す。
「ううん、違う」
けれど、彼女は耳を貸さない。ふるふると首を横に振る。
そしてとうとう、それをわたくしに向けて言ってしまう。
「ペリーヌさんだって、きっとわたしと変わらない」
もうそこで、なにも言うことはできなくなった。
どうしてこんな子に、そんなこと言われなきゃならないの――
情けなさと、それとはまた別の気持ちが胸のなかから涌き出てきて、わたくしを落ち着かなくさせる。
けれど、それはけしてイヤなものではなかった。
なんだか全部わかってしまった。
なぜ彼女が苦手なのか――
それは、この子が自分のことが嫌いな子だから。
なぜ彼女が気になるのか――
それは、ひとりぼっちの寂しさを、この子だって知っているから。
そのことに気づくとなんだか急に目頭が熱くなってきて、それをぬぐい去るように、
わたくしは手のひらで湯をすくって、ばしゃ、と顔にかけた。
「いきますわよ」
そう言ってわたくしは彼女の前に手のひらを差し出す。
すっかり長湯になってしまった。これ以上口論を続けていたら、のぼせてしまう。
なにを言ったって、今の彼女は聞きはしないのだから。
「帰りもつないでくれるんでしょ?」
その問いかけにサーニャさんは弾んだ声でうんとうなずいて、
わたくしの差し出した手をそっと握ってくる。
そうしてふたり湯船からあがり、わたくしと手をつないで、半歩前をサーニャさんは歩く。
わたくしは考えていた。
ごめんなさいが素直に言えなくて、でも言ってあげなくちゃいけない。
なにか別の言葉でいい。わたくしが言わなければいけない。
思いあがりではない。これはわたくしにしか言えないことだ。
「さっきのこと――」
いざ口に出すと、それは尖った声になってしまった。
「バカね。幽霊なはずないでしょう」
言ってあげなきゃわからないのかしら。
「だって――」
だってもし幽霊なら、触れたりしない。こうしてわたくしの手を引いてくれることはない。
サーニャさんが幽霊なはずがない。
つないでくれた手の感触が、そのぬくもりが、そのことをちゃんとわたくしに教えてくれる。
ちゃんと彼女は生きている。
今こうやって、彼女はわたくしとたしかにつながっている。
「だって――?」
なかなか切り出せず、言いよどんでいたわたくしに、サーニャさんは振り返って訊ねかけてくる。
驚いているような、そんな表情をしている気がする。
それでさっきまで思ってたことは、どこか遠くに飛んでいった。
だから、別の言葉になってしまった。
だって――とわたくしはそう言ってやった。
「だって、そもそも幽霊なんているわけないんだから」